(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部
その4
「ふつー」
「んだよ、その反応は」
「だって、ねぇ」
イナが俺の住むアパートを見上げてため息をつく。二階建てのごく一般的な物件。
「物凄くキレイだとか物凄くボロだとかいうんならまだしも、これじゃリアクションにも困るってものよ」
「るさい。勝手に困れ」
一言残して俺は自分の部屋のドアへと歩き出した。大体なんでリアクションに困らねばならんのだ。芸人か、君は。
ちなみに俺の部屋は一階の一番端だ。階段からは一番遠い側だし、上の住人も生きてるのか死んでるのか分からないほど静かなので環境は悪くない。
「さてと」
俺はドアの前で立ち止まり、振り向いた。後ろからついて来たイナ、鈴音と向き合う。それぞれの顔に浮かぶ二つの疑問符。
「五分くれ」
「イヤ」
即答だった。
「一体何の権利があってそんなに偉そうなんだ?」
「あら、私は一応あなたの上司よ」
食材の詰まったビニール袋を後ろ手に、イナがふふんと胸を張る。
「忘れたてよ。こんないいかげんな上司初めてだし」
「失礼ね。これでも新人の教育には定評があるんだから」
「調教の間違いだろ」
「してあげよっか?」
小声で言ったのに見るものを幸せにしない笑顔で詰め寄られてしまった。
「いや、できれば次の機会にでも」
目をそらしてしまう根性無しの俺。
「……ったく、どうせ部屋が汚いとかその程度のことでしょ」
「方向性としては間違ってない」
「いいわよ、それくらい。気にしにないから」
「俺が気にするんだ」
「なんで?」
「いいからとにかく少しだけ待っててくれ」
言いながら鍵を開けた俺は扉を開き、部屋に滑り込んだ。
使い慣れた自分の部屋。
今日一日がとんでもなかったこともあり、妙に落ち着く。鼻腔に抜ける嗅ぎ慣れた匂いはどんなお香よりも心を静めてくれる。最高のアロマテラピーだ。
やれやれ。今日も一日頑張った……と、まったりしてる場合じゃない。
俺は床に散らばった私物を手当たり次第押入れに投げ込んでいった。正直、少々散らかっているくらいなら俺も気にしない。
問題は、その私物の中に女子供の見てはならんものが含まれていることだ。
あぁ、俺は堕落してしまった。
実家にいる頃はブツの隠し場所にあれほど神経を使ったというのに。
今では机の上に、床の上に何の偽装もなく放り投げられている。
昔の俺は野獣の目と牙を持っていた。母親との心理戦。リスクの分散は常に怠らなかった。なのに……。
今の俺は抜け殻だ。
「老いたな」
「ねぇねぇ、なんでこのお姉ちゃん裸なの?」
「だあぁっ!」
いきなりの鈴音の声に驚きつつも、その小さな手から雑誌をもぎ取る。
「ふっ、風呂!」
「え」
「今からお風呂入るの!」
「へぇー」
勘弁してくれ、そんな純粋な眼差しは。お兄ちゃんには眩しすぎるよ。
ヨゴレになってしまった自分を嘆きつつ俺は押入れに雑誌を放り込んだ。
「あは、カッコ悪ぅ」
「だから五分でいいから待っててくれって言ったのに」
押入れの戸をきっちりと閉めて、肩を落とす。イナの言う通りさすがに少しばかりカッコ悪かった。
「今度からは気を抜かないことね。備えあれば憂い無し、よ」
どこか勝ち誇ったような表情で言ってイナが台所に向かう。手痛い教訓、高い授業料だった。しかし雑草とは踏まれて強くなるもの。更なる成長を遠く、宇宙の果てで輝く俺の星に誓い青年は深く頷くのだった。
「ねぇ、お塩はどこ?」
台所からひょいと身体を覗かせたイナはいつの間にかエプロンを着けていた。
「あ、その、上の右端の開きの中。調味料は全部そこだから」
「ん、了解」
「あのさ、あれ。包丁、気を付けてな、指。あんまり切れないから」
「うん、気をつけるね」
我ながら無茶苦茶な日本語だが、イナには俺の言いたい事が分かったらしい。
一つ微笑んで彼女は台所に戻り、料理を再開する。
俺は台所の方を見ながら、気が付けば手に汗をかいていた。
身体が温かい。
イナのエプロン姿。素直に「いいなぁ」と思った。無理してるわけでもなく、変にこなれてるわけでもない。実に自然な感じがした。
もっとも、俺の勝手な主観だけど。
「お兄ちゃん」
くいくいと袖を引っ張られる感覚。
「どうしたの?」
「あぁ、いや、ちょっとぼーっとしちゃっただけ」
少し慌てながら上着を脱ぎ、ネクタイをはずす。さすがに「イナのエプロン姿にグッときてた」とは言えない。
上着とネクタイをクローゼットのハンガーにかけ、俺はベッドに腰を下ろした。
大きく、長く息を吐き出す。
俺のこれまでの人生の中で、今日が間違いなく最もとんでもない一日だった。
でも、ふと思う。
結構冷静だよな、俺。
今、この部屋には三人いる。が、実際に「人」なのは俺だけで、残りの二人はなんという単位で数えたらいいのかすら分からない存在だ。それでも俺は落ち着いていた。むしろ賑やかになって嬉しい、くらいに思っている。相手に敵意がないんだから、こっちも気を張る必要がないってだけなんだろうけど。
「おとなり、座っていい?」
「もちろん」
こちらを見上げる鈴音に向かって少し大仰に手を広げて自分の隣を指し示す。
はにかんだ鈴音が俺の隣にちょこんと腰掛けた。
まっ、こんな子を恐がる方がどうかしてるよな。
「わたしね、ベッドに上がるの初めてなの」
言いながらベッドに転がる鈴音。
「おふとんもいいけどベッドもいいね」
「布団で寝たりすること、あるの?」
訊きながら俺も鈴音の隣に転がった。
「たまーに」
「たまーに、か」
台所からは包丁がまな板を叩く軽妙な音が聞こえてくる。
待てよ……。
「ご飯は普通に食べるんだ」
「へ?」
「ええと、食べ物から栄養を取って身体を維持する……ちょっと難しいな」
もう少し分かりやすい言い回しはないものか。
「ご飯を食べると元気になる、とか」
「うーん」
「分かんないか」
「うん……ごめんね」
「いいよ。変なこと訊いてごめんな」
謝りながら小さなおかっぱ頭を撫でる。
まっ、あとでイナに訊けばいいか。神様の食生活ってのにも興味あるしな。
──神様。
正確に言えばイナは神様じゃなくて神様の使い、なんだよな。それはさておき、鈴音は何になるんだろうか。座敷童は俺たち人間から見れば一応「妖怪」ってことになってるけど。
妖怪。妖怪、ねぇ。
隣で寝ている鈴音を見る
そのはにかんだような笑顔は相変わらずむにむにしていた。ついほっぺをつまんで引っ張りたくなってしまう。
「……なんでもいいか、うん」
勝手に納得して小汚い天井を見上げる。脇の辺りにもそもそとした感触。
ほんと、妙に懐かれちまったな。
心中で苦笑しつつ少し身体を起こして鈴音の頬に手のひらで触れる。不思議な感触だ。何物にも喩えられない。柔らかく温かい。
「ん……うん」
鈴音の目が閉じかける。
「眠い?」
「ちょっとだけ」
「頑張ってたもんな。いいよ、眠って」
と、ほとんど落ちそうになっていた鈴音の瞼がわずかに持ち上がる。
「だめ、なの」
その声は寝言と言っても差し支えなかった。
「どうして?」
「お兄ちゃん、と……おはなし、でき……ない、から」
鈴音の台詞につい口元を緩めてしまう。でも、とてもじゃないが鈴音は「おはなし」できる状態じゃなかった。
「ほら、無理しなくていいから」
それでも鈴音はふるふると頭を振って、無理やり目を開けようとする。
やれやれ。まいったな。
「じゃあ、一緒に寝るってのはどう?」
陥落寸前の寝ぼけ眼が俺を見つめる。
「俺も寝るからさ」
「……うん」
肯きついでに俺の胸に頭を預ける鈴音。そのまま「くー」と眠ってしまった。
俺もまた微笑んで目を閉じる。
目を閉じると自然にあくびが出た。肉体的にはさておき、精神的に疲れていることは確かだ。
やば。本気で眠い。
慌てて目を開けようとするが、身体が言うことをきかない。というか俺自体が本気で目を開けようと思っていなかった。
台所から聞こえてくる単調な「とんとんとん」という音が、さらなる眠りの世界に俺を誘う。
いいや。ちょっとだけ、ちょっとだけ。
再び、あくび。
五分。五分だけだから。
誰に向かって言ってるんだろうか。
分からない。
むしろ誰でもいい。
眠い。ていうかもう寝る。
胸元からは規則正しい寝息がかすかに聞こえてくる。
気が付けば──。
──気が付けば、夢を見ていた。
暗闇の中、俺は一人で泣いている。何が悲しいのかは分からない。でも、涙が止まらなかった。
鼻の奥がつんと痛む。何なんだろうか、これは。悲しいわけじゃないのに。ただとめどなく涙が溢れてくる。
「あ……」
覚醒。
小汚い天井。それをバックにイナの顔がぼんやりと見えた。慌てて顔に手をやり、目をこする。
やはり現実でも泣いていた。
見られた、か。
急に恥かしくなり顔を逸らす。男は泣き顔をそうおいそれと見せるもんじゃない。
今さら隠しても遅いんだけど。
にしても、さっきから顔の前でうろうろしてる緑色の物体は何なんだ。目をこすり、焦点をだいぶ近くに合わせてみる。相変わらず鼻の奥は痛いままだった。
『生 ねりワサビ』
確認できた文字を胸中でつぶやき、目を閉じる。
「おはよ。目は覚めたかなー?」
鼓膜を打つあくまで能天気な声。かみ締めた奥歯が口の中で鳴る。
「あれあれ、元気ないぞー」
ゆっくりと再びまぶたを持ち上げる。
「うーん。ちょっと目が恐いかなー?」
怖いだろうね、そこのお馬鹿さん。
「じゃあ、ごあいさつしてみようか。せーの」
「逝け」
「あうぅ」
寝起きの俺は少しばかり機嫌が悪い。ねりワサビのチューブを手にしたイナを半眼で睨みつつ、体を起こす。
どうりで鼻が痛くて涙が出るわけだ。別に自分でも気付いていない心の傷が、とかそういうのではなかったらしい。がっかりだ。
「なぁ、もう少しマシな起こし方はなかったのか?」
頭をがしがしと掻く。
「えっと、からしの方がよかった?」
「とりあえず薬味から離れようか」
「鼻の穴にじょうごを突っ込んで水を」
「ヨゴレの芸人か、俺は」
「だって、それ以外に方法なんてないし」
……この女。
「声かければいいんじゃねーかな。普通に」
「あっ、そうか」
実にわざとらしくイナが手を打つ。
「ごめんね、気付かなくて」
「嘘だ。絶対嘘だ」
「ふん、だ。ひとがご飯作ってあげてるのに熟睡しちゃうあなたがいけないんでしょ」
「それはだな、その、鈴音を寝かしつけるために仕方なく」
むくれるイナに対して視線をあさっての方向に地球脱出速度で飛ばす俺。
「狸寝入り」
「できませんでした」
「っとに。正座して待ってるくらいの甲斐性はあってもいいと思うんだけどな」
「ごめん」
ここは素直に謝っておく。
「ほんとに反省してる?」
「してるさ」
「じゃ、誠意見せてよ」
「僕の熟れたボディでよければいくらでも」
はたかれた。
「気色の悪いことを言わないっ!」
「失礼な。これでも学生時代は魅惑のボディで何人も虜にしたんだぞ。……宴会芸で」
「あなたの灰色の学生時代なんてどうでもいいのよ。私が言ってるのは食事を作った人に対する誠意、即ち」
イナが人差し指をぴんと立てる。
「残さず食べること」
何だ、そういうことか。
「楽勝」
イナに向かってピースサインを突き出す。
「ほんとに?」
「あぁ、足のあるものは椅子とテーブルでも食べる子だったから」
「空を飛ぶものは飛行機でも?」
「おぅ。よく捕まえて食べてたよ」
「ん、よし。じゃ、約束ね」
「と、その前に」
俺は隣で眠っている鈴音を抱き上げた。練乳にも似た柔らかく甘い匂いが微かにする。
しかし、びっくりするくらい軽いな。
「布団、はぐって」
「あ、うん」
鈴音を起こさないようにそっとベッドに横たえる。
「苦しくないかな、帯」
「だいじょうぶよ。着てる物も含めてこの子なんだから」
「そか」
言いながら俺は鈴音に布団をかけてやった。穏やかな寝顔だ。見ているだけで頬が緩みそうになる。しばらくこうして眺めていたいくらいだった。もし鈴音が自分の娘だったら、なんて思ってみる。
財布の中に娘の写真を入れて持ち歩いている世のお父さんたちの気持ちが少しだけ分かったような気がした。
「よっしゃ」
頬を両手で叩いて気合を入れた俺は、ベッド脇のテーブルの前に腰を下ろした。
テーブルの上に並べられた料理の上には、何のつもりか白い布がかけられていた。ちなみにこんな布ウチにはなかったはずだが、そんなことをいちいち気にしていたらキリがない。イナがどこからともなく取り出したんだろう。
「気合十分ね」
俺の向いに正座したイナが笑う。
「あぁ……足、痛くないか?」
「だいじょうぶ。慣れてるから」
座布団、なんてものが一人暮らしの男の部屋にあるわけがないため、愛用の大きなクッションを渡そうとしたが断られてしまった。
「そか」
何となく、イナを見つめてしまう。
正座をし、すっと背筋を伸ばしたイナの姿に俺は凛とした心地よさを感じていた。正直、ちょっと感動していたりさえもする。
着物、似合うだろうな。
そんな思考が頭をかすめる。
「どうしたの?」
「あぁ。いや、どうもしない」
「ヘンなの。食べよ」
料理の上にかかっていた布をイナが翻す。布の下から現れたのはそりゃあもう見事な和食の数々だった。お吸い物に焼き魚、煮物に和え物、そして……大量のいなり寿司。
「あ、あのさ」
大皿にこんもりと積み重ねられたいなり寿司に声もかすれてしまう。
俺は己に問うた。
イナとの約束なんだっけ?
「あの」
「ん?」
「前言てっか……」
「残さず食べてね」
イナは笑顔だ。有無を言わせぬほどに。
静かに手を合わせる。やるしか、ない。
「いただきます」
「はい。どうぞ」
あくまで笑顔を絶やさないイナを前にお吸い物の椀を手に取る。椀の底に沈んでいるハマグリとにらめっこをしてから口へ。
その瞬間、豊かな出汁の風味が口いっぱいに広がり、鼻に抜けた。深みがあるが決してくどくないそのお吸い物を、あぁ、日本人でよかった、と胸の奥でつぶやきながら食道に通す。一度目を閉じた俺はゆっくりと息を吐き、言った。
「旨い」
それは、俺の舌が発した嘘偽りのない一言だった。
「ほんとに?」
テーブルに手をついたイナが詰め寄ってくる。
「ほんとに」
神妙かつ不安げな顔をしているイナに、俺は一つ肯いて見せた。
「はぁー、よかった」
胸に手を当てたイナが大きく息を吐く。
「お料理するの久しぶりだったからちょっと不安だったの」
「へー」
と言いながら俺の箸はすでにいなり寿司をつまんでいた。
「こんなもの喰えるかー、ってテーブルひっくり返されたらどうしよ、なんて」
「ふーん」
返事をしながら煮物を口に放り込む。
「でも嬉しい。おいしいって言ってもらえて」
「ほー」
焼き魚の身をほぐすのに夢中な俺。
「頑張って作ったかいがあったかな」
「ふえっ、ぐし」
くしゃみ出た。
「……聞いてる? 人の話」
「いや、食べる方が忙しくて」
和え物が入った小鉢を手にイナの顔を見る。食欲にフルブーストがかかった状態の俺にまともな会話などできるわけがない。今はもう亡くなってしまったお婆ちゃんに「ゆうちゃんは一生懸命食べるねぇ」と何回言われたことか。
と、イナが小さくふき出した。
「ほら、ついてる」
「え?」
一瞬固まった俺に向かってイナが手を伸ばす。俺の頬についていたご飯つぶを細い指でひょいと取ると、イナはそれを口に運んだ。
「あ、ありがとう」
頬が熱くなる。
子供っぽいところを見られた。確かに恥かしい。でもそんなこと以上に俺はイナを、その、ちょっと、いいなぁ、と思っている。
間違いない。さっき腕が伸びてきたときにしたイイ香りが鼻の奥に残っている。忘れようとしても忘れられなかった。
微かに高鳴る鼓動。滲む汗。一度そんな風に意識し出すともうダメだ。
栗色の髪の毛、艶やかな紅い唇、白いうなじ、エプロンを持ち上げる胸のふくらみ、その全てを見てはならないもののように感じてしまう。そのくせ頭の中では一糸まとわぬイナの姿を思い浮かべていた。
中学生かよ、俺は。
頭を振って雑念を追い払う。
「とりあえず食おう。今は喰おう。まず食おう」
「どうしたの?」
「あー、ほら、体育会系だから、俺。声出していかないと」
「それ、笑うとこ?」
そんなツッコミをいれながら微笑むイナの顔を、やっぱりまともに見れなかった俺は、少し視線をずらしていなり寿司に齧りついた。