血と香水のインク

ライン

 油と煤の匂いが混ざった生暖かい夜風がまとわり付く。水の枯れた噴水の前に立ち、俺は月を見上げていた。自然を愛でるような趣味はない。だが月だけは好きだった。青く冷たい光を見ていると不思議と退屈せずにいられた。
 待ち合わせに指定した中央の公園。再び吹き抜けた風が周囲の木々を揺らす。
 来るか、来ないか。……いや、余計な考え事だった。
 現れた気配と足音に視線を落とす。
「お待たせ」
 サラはこちらに向かって軽く手を挙げて見せた。さすがに夕方までのような浮かれた調子ではない。月明かりの下でも緊張感が見て取れるほどに表情が強張っている。一応人並みの神経を持ち合わせている部分もあるらしい。
「一人か?」
 俺はわざとらしく辺りを見回し、顔の下半分を隠している覆面の下で笑った。サラは俺から視線を外して言う。その口元は苦々しいと言わんばかりに歪んでいた。
「信じてもらえなかった」
 案の定か。
「奴等は死体が出ない限り動きはしない」
 奴等とは言うまでもなく警察を指す。奴等の防犯意識とやらは極めて希薄だ。事件が起こりそう、と、事件が起こった、の間には底知れぬほど深く、暗い溝が横たわっている。
「行くぞ。時間は無限にあるわけじゃない」
「あ、ちょっと待って」
 一歩踏み出そうとした俺を呼びとめ、サラが懐からメモ帳とペンを取り出す。それから俺の姿を観察でもするように上から下まで視線でなぞった。
「どうした」
「面白い格好ね。剣は背中に背負うんだ」
 ペンの蓋を抜き、何やらスケッチを始めるサラ。俺の姿を写しているらしい。
 忍装束。見慣れない者にとっては確かに面白い格好だろう。
「ん、完成」
 満足げに肯き、サラがメモ帳とペンを懐にしまう。
「あとは、と」
「まだ何かあるのか」
「これは私事」
 苛つく俺の声を気にする様子もなく白い錠剤を取り出し、サラは口に放り込んだ。
「寄生虫に効く薬はないそうだが」
「そこまで往生際悪くないわ。ただの栄養剤よ。夜更かしはお肌の大敵なんだから」
 僅かな間を置き、自国語で呟く。
「焼け石に水だな」
 え? と聞き返すサラを無視して俺は歩き出した。


 細い路地の影に隠れ、今から自分が侵入する巨大な屋敷を見上げる。周囲を高い塀に囲まれた屋敷の外観に俺はつい皮肉げな笑みをこぼしてしまった。成金趣味ではないが、決して質実剛健でもない。周囲の目を気にして豪華な装飾を避けてはいるが隠し切れない自己顕示欲が滲み出たような、一言で言えば往生際の悪い建物だった。家主の性格がよく現れている。
「さすがですな、こう、さりげない所に手が掛かっていて、いや、なんとも」
 などと自分より下だと思っている連中に言われるのが嬉しくて仕方がないのだろう。
「ここって……」
 隣にいるサラが屋敷を見上げ、口を半開きにする。
「極右政党アーディスカの党首、ベイルートの屋敷だ。知っていると思うが」
 俺の台詞にサラはわざとらしく肩をすくめ、ため息をついた。
「移民排斥運動の急先鋒……私たちの天敵ね」
 アーディスカは先日の定例議会において「他国人の移動、就労等に関する法律」とやらを提出している。名称こそ真っ当だが中身を見れば移民排斥法以外の何物でもない。まぁ、俺には関係のない話だが。
「で、どうするの?」
 サラの視線は屋敷の門、その前に立つ二人の警備員に向けられていた。警備員が持つカンテラの光が風に吹かれて時折揺れる。屋敷を囲む塀の形はほぼ正方形。警備員が見回りを行う時間も下調べしてある。俺は懐中時計を取り出し、時間を確認した。サラがいるせいで多少予定から遅れているが問題ない。予想の範囲内だ。
 俺は路地から抜け出し、門があるのとは違う辺の壁に歩み寄った。後からサラが足音も消さずに付いて来る。
 俺は無言のまま正面の壁を見上げた。高さは四メートルと少し。これで侵入者を防げると思っているのなら死んだ方がいい。まぁ、実際死ぬんだが。
 俺は短く息を吐いて背中の忍刀を塀に立てかける。刀の鍔に足をかけ、跳躍。伸ばした手は楽に塀の高さを越えた。塀の頂上をつかみ、腕の力で身体を引き上る。見張りからは死角になって俺の姿は見えないはずだ。鞘についている帯紐を手繰り寄せ、忍刀を回収する。
 四メートル下にいるサラが辺りを見回した後でこちらを見上げた。
「ちょっと、私はどうすればいいのよ。そんな特殊技能は身につけてないんだけど」
 俺は無言で腰の帯をほどくとサラの目の前に垂らしてやった。サラも無言で帯を両手に巻きつける。塀の上でバランスを取りながら女を引き上げてやった。重くはないが決して軽くもない。
「っと」
「落ちるなら内側にしろ。苦労して引き上げたんだ」
 塀の上でバランスをとるサラに向かって、腰に帯を巻き直しながら言う。
「苦労ってなによ、苦労って。これでも体型には気を使って……きゃっ!」
 俺はサラを抱え上げると塀から飛び降りた。お喋りに付き合っている暇はない。さっさと潜入するに限る。音もなく地面に降り立った俺は芝生が敷き詰められた庭を女を抱えたまま走り抜けた。


 やや広めの廊下。左手には月光の差し込む窓、右手には重厚な木の扉が並んでいる。敷かれた赤い絨毯が月明かりに照らされて薄い紫色をしていた。天井にはそれほど大きくはないものの、値の張りそうなシャンデリアが一定間隔で並んでいる。いかにも愛国者らしい、この国の歴史と伝統に忠実な内装だ。お飾りで極右政党の頂点に立っているわけではないらしい。
「っとに、どうして偉い人のお屋敷ってこうも無駄に広いのかしら。元を正せば私たちの税金よ、税金」
 俺の後ろを歩きながらサラがぼやく。庶民感覚の権化のような発言だった。
「関係ないな。俺は税金など払っていない」
「私は払ってるの!」
 サラの声は大きい。それでも警備員が飛んで来るようなことはなかった。俺なら多少値は張るがもう少しまともなボディーガードを紹介してやれる。今さら言っても仕方ないのだが。
「気に入らなければ払わなければいい。市民登録の抹消を仕事にしている者を何人か知っているが紹介してやろうか」
「結構よ。税金納めなきゃ国がやってることに文句つけられないじゃない」
「好きに文句を言えばいい。誰も止めたりはしない」
「主義の問題」
「理解しかねる」
 背後にわざとらしいため息を残し、サラが俺の前に回りこんでくる。彼女は左手を腰に手を当てると残った右手の人差し指を俺の鼻先に突き出した。その姿はできの悪い生徒を前にした教師と大差ない。
「そもそも権利ってのは義務と表裏一体であって……んぐっ」
 俺は講釈を垂れる女の口を手で押さえ、神経を聴覚に集中させた。どこからか声が聞こえたような気がしたのだ。気のせいか? いや、確かに聞こえる。女、と言うにはまだ幼い。喉の奥から無理矢理押し出されるようなかすれた声。
 俺は息を吐いてゆっくりと歩を進めた。後からサラの気配がついて来る。
 廊下を進むにつれて声は大きくなっていく。どうやら誰かがお楽しみ中らしい。その誰かがベイルートならば願ってもないことだ。性交中の人間ほど殺しやすいものはない。女を貪ることにのみ集中し、全ての急所をさらけ出すのだから。
 俺は口元を歪め、あたりをつけたドアの前で立ち止まった。静かにドアノブをひねり、扉をわずかに開く。きつい香の匂いに混じって卑猥な匂いがした。匂いに手触りがあるとするならば、確実にぬめっている。拷問でも受けているかのような呻き声が大きくなり、耳朶を打った。
 室内に視線を走らせた俺の口元は自分でも気付かぬうちに緩んでいた。予想通りだ。これでこそこの女を連れてきた意味がある。
 俺は一度自分の脇の下辺りにいるサラを見下ろしてから、再び室内を覗き込んだ。
 シャンデリアに火が灯され、室内は明るい。おかげで俺達はそこで行われている事の全てを見る事ができた。床には真紅の絨毯。正面奥には暖炉、その上の壁には城を描いた絵がかけられている。
 そして天蓋付きの豪奢なベッドの上で移民の少女が一人、俺のターゲットによって犯されていた。たるみきったターゲット……ベイルートの腹が波打つ度に声にならない声が少女の小さな口から漏れる。完全に子供というわけではないが、かといって大人でもなかった。少なくとも俺なら抱こうなどとは欠片も思わない年端もいかぬ少女。そんな少女を手錠で後ろ手に拘束し、腰を振るベイルートの姿は滑稽以外の何物でもなかった。
 どうだ、あの嬉しそうな顔は。脂ぎった中年の顔は征服し、蹂躙する喜びに満ち溢れていた。剥き出された黄色い歯にぎらつく眼球。議会で熱弁をふるっているであろう口からは時折、ふひっ、ふひっ、と笑いとも呼吸ともつかない音が漏れている。ここまで欲望をさらけ出した人間の姿などそうそう見られるものじゃない。
 少女の、サラと同じ色の瞳からは涙がこぼれ続けていた。頬は赤く腫れ、所々に痣ができてる。ベイルートに殴られでもしたのだろう。
 ベイルートが移民の女、特に少女を犯すことに目がないという事実は裏の世界ではよく知られていた。移民社会には彼とつながっている人身売買業者が何人もいる。ある時ベイルートは付き合いのあるマフィアの幹部に言ったそうだ。
「奴等はこの国に居ついとる寄生虫に過ぎん。その事実を身体に刻み込んでやっとるのだよ」と。
 何のことはない。単に圧倒的な立場から相手を見下ろし、絶望を与えることに性的興奮を覚えているだけのことだ。
「ふざけるな……」
 サラが呟く。表情は見えないが細い肩は震え、声は押しつぶされでもしたようにかすれていた。背中から立ち上る怒気が目に見えるようだ。移民としての怒りか女としての怒りかサラ・バークレイ個人としての怒りか。
 顔を上げたサラの肩が一度大きく揺れる。と同時に俺はサラの襟をつかみ、後ろに引きずり倒した。
 怒るのは勝手だが叫ぶのは遠慮してもらいたい。
 廊下の壁に背中からぶつかり、サラが短く呻き声をあげる。唇を引き結び、睨むように俺を見上げるサラの目は涙でにじんでいた。
「許されない」
 サラの、握り締められた拳が震える。俺はサラを見下ろし口を開いた。
「なぜ許されない。あの娘にしてもさらわれて来たわけじゃない。自らの意思と判断で身を売った。その結果があれだ」
 背後、扉の隙間に一瞬だけ視線をやる。もはや少女の搾り出すような声も途切れ途切れになっていた。
「だからって、こんなこと」
「道徳的に許されないか?」
 サラは俺を見つめたまま何も答えない。ただ、涙が一粒彼女の頬を伝って落ちた。
「俺は今からあの男を殺す。道徳的どころか法的にさえ許されない。十秒だけ待ってやる。止めたければ、止めろ」
 サラの口がわずかに開き、栗色の瞳が不意に焦点を失う。どこか呆けたような表情でこちらを見つめるサラを、俺は黙って見下ろし続けた。
 サラの瞳には明らかな混乱があった。葛藤ではない。混乱だ。今日、俺の部屋でこの女は言った。市民として殺人を見過ごせるわけがない、と。だがサラは動かない。気付いたのだろう。自分がベイルートに対して殺意を抱いているという事実に。少なくとも自分が殺人を見過ごせない人間であると信じていたはずだ。しかし、今は動けない。自分達を排斥しようとしている人間が、自分達と同じ民族である少女を犯している。その事実がサラの土台にひびを入れた。
「時間だ」
 胸中で十秒を数え終えた俺は踵を返した。と、背後で気配が動く。数秒を置いて後ろから袖をつかまれた。
 土台にひびこそ入ったが崩れはしなかった、ということか。
「法で奴を裁く事はできない。それでも止めるのか」
 答えはない。ただ、さらにきつく袖をつかまれた。
 三つ呼吸をするだけの沈黙。
 背後でサラが声を搾る。
「あんな男死ねばいい。でも、私の武器はペンだから」
 背中に何かが触れた。額を預けられたらしい。
「それを譲ってしまったら、私が終わる」
 喉を無理矢理押し広げるような声だった。手の震えが袖を通してこちらまで伝わってくる。
 最後の一線で踏みとどまったか。
 エゴを剥き出しにし、俺がベイルートを暗殺する様を嬉々として見物するサラの姿が見られると思ったのだが。期待外れではあったがその精神の強さに感心しないでもない。
 だが、それだけだ。
 俺は袖からサラの手を振り払い、振り向き様に彼女のみぞおちに拳を叩き込んだ。濁った声を口から押し出し、サラがその場に膝をつく。当然のことだがサラに止められたところで暗殺をやめるつもりは全くなかった。ただの戯れにすぎない。
 と、サラがゆっくり顔を上げた。みぞおちを押さえ、苦しげに喘いではいるが瞳の光は失われていない。下唇を噛み、涙に濡れた瞳で俺を見上げている。
 俺はサラに背を向け、ドアノブに手をかけた。
「それが精神の限界だ」
 言い残し、部屋に入る。後ろ手に扉を閉じる寸前、
「分かってるわよ。だからあなたを取材してる」
 サラの呟くような声が聞こえた。何も答えず、無言のまま扉の鍵を掛ける。意味はよく分からない。だがサラが俺の部屋に来た時、自分を認めさせるために俺を利用すると言っていた事を思い出した。
 目を閉じ、頭の中から余計なものを追い出す。
 今考えても仕方がない。思考を切り替えろ。仕事だ。
 背中の忍刀を抜き去り、ベッドに歩み寄る。シャンデリアの光を吸い込み、刃が鈍く、橙色に染まっていた。
 少女を攻め立てることに夢中でベイルートは俺に気が付かない。俺は軽くため息をついて歩を進めた。足音は消していない。それでも気付かれないのだから問題はなかった。ベイルートはたるんだ腹を揺らし、無心に腰を振っている。少女は焦点の失われた瞳で宙を見上げ、時折身体を震わせていた。これでは人形と大差ない。少女の視界に俺の姿が入ったところで気付きはしないだろう。
 よく聞けば少女の口からは言葉が漏れていた。ごめんなさい、ごめんなさい、とうわ言のように繰り返している。顔だけではない。痣は体中に広がり、両手の爪は全て剥がされていた。細い指が血に汚れている。
 なるほど、いい趣味だ。
 口元を皮肉げに歪め、俺はベッドの脇に立った。
「なん」
 俺の姿に気付き、目を見開いたベイルートの口から漏れたのはそれだけだった。
 ぱく、という喉の裂ける音が聞こえたような気がした。
 沈黙。
 ベイルートの身体がゆっくりと後ろに倒れる。瞬間、真紅の間欠泉が天井近くまで吹き上がった。錆に似た臭いが一気に広がり、降り注ぐ血の雨が純白のシーツをどす黒く染めていく。
 ごぼごぼと口からも血を吐き、痙攣するベイルート……だったものを見下ろし、俺は静かに息を吐いた。懐紙を取り出し、血に汚れた刃を拭う。投げ捨てられた懐紙がベッドの上で血を吸い、白から赤へとその身の色を変える。忍刀を鞘に収めた俺は少女に視線を向けた。少女はその場から動こうともせず、少しだけ首を傾けて俺を見上げている。目の前で起こっていることが理解できないのだろう。もっとも、それは人が死んだからではなく少女の精神状態によるものだ。今の状態では目の前で猫が鳴いても理解できないだろう。
 焦点の合わぬ瞳で俺を見つめたまま、ふと少女が口を開いた。
「カミ……サマ?」
 面白い冗談だ。
「俺の国には死を司る神がいるが、この国の神は人を殺さないことになっている」
 まぁ、言ったところで耳に入りはしないだろうが。案の定少女は俺の台詞に反応することもなく、ただ首をかしげている。
「ここで起こったことは忘れろ。全てな」
 それだけ言い残し、俺は部屋を後にした。扉を閉じる寸前、ありがとう、の一言が聞こえたが気のせいに違いない。もしくは面白くもない冗談だ。
 廊下に戻ると疲れたような顔で壁に背を預け、突っ立っているサラと目が合った。
「血の匂いがする」
「当たり前だ」
 それだけ言って俺は廊下を歩き出した。後ろをついてくる足音はわずかに重い。
 気の抜けた見張りどもがベイルートの殺害に気付くのは夜が空けてからだろう。今回はお荷物がいたが、それでも楽な仕事だった。
 肩越しに振り返り、背後のサラを見やる。うつむき、肩を落としてふらふらと歩くサラに俺は立ち止まった。体に変調をきたしている事は明らかだ。先ほどの一発が意外と響いたのだろうか。手加減したつもりなのだが。
 どうした、と問おうとした時だ。突然前のめりにサラが倒れた。
「おい」
 呼びかけるも返事はない。ただ指先がわずかに動いている。仕方なく歩み寄ろうとすると、床に肘をついたサラがゆっくりと上半身を起こした。額に大粒の汗が滲み、かなり辛そうだが、
「ごめんなさい。立ちくらみがしただけだから」
 そう言って力なく笑う。笑いながら口許に手を当てた。
 激しい咳。
 細い指の間から濃い色をした液体が零れ落ちる。自分の手のひらを呆然と眺めるサラ。俺はサラの元に歩み寄り、膝を折った。先程嫌というほど嗅いだ血の匂いが再び鼻腔を抜ける。
「血って初めて吐いたけど、結構きっついのね」
 そう言うサラの瞳はどこか虚ろだ。
 俺は一つ大きく舌打ちして女を抱きかかえた。このタイミングで血を吐くなど、狙って嫌がらせをしているとしか思えない。腹の中で寄生虫が暴れるにはまだ時間があるはずだ。となるとこの女、先程公園で薬を飲んでいたが病気持ちなのだろうか?
「とりあえずここからは連れ出してやる。あとは適当な病院で捨てるぞ」
「優しいんだ、暗殺者のくせに」
 サラの声はか細い。
「お前にこんな所にいられたら俺が迷惑する」
 もう一度大きく舌打ちして、俺は廊下を駆け出した。

 

ライン

 

 あの夜から五日。その日俺がベッドで寝ているとアウルポスト社の新聞と共に一通の手紙が届いた。差出人はあの女だ。手紙には丁寧な字で『記事が新聞に載りました。病気のせいで一度しか取材できなかったけど、いい記事が書けたと思います。よかったら読んでみてください』と書いてあり、最後にとある場所の住所が記されていた。
 とある場所……頭の中に地図を描く。病院だ。
 ただ、あの夜俺が女を担ぎこんだ病院とは違うようだが。やはりサラは持病を抱えていたようだ。サラが寄生虫の卵ををあおった理由が何となく分かったような気がした。
 俺は手紙をテーブルの上に置き、新聞を広げた。目当ての記事を探し、目を通す。記事は社会欄に割と大きなスペースを取って掲載されていた。記事を読み終えた俺は新聞から視線を上げ、短く息を吐いた。特に何か感想があるわけではない。だが少なくとも腹が立つような文章ではなかった。現在の俺よりも過去の俺、両親を殺された俺に重きを置き、この『不幸な少年』を救えなかった社会に対して問題を提起する。よそ者を排除する傾向の強いこの国の社会性に対する反抗か。まぁ、移民であるあの女が書きそうといえば書きそうな記事だ。
「不幸な少年か」
 一人呟き、微かに口許を緩める。
 俺は自分のことを不幸だと思ったことはない。だが他人から見れば不幸な状況にある、ということは理解していた。事実『そいつらが正しいと思っている道』に俺を引き戻そうと、何人もの善人が俺の前に現れては去っていった。だから女の書いた記事にも腹が立たなかった。あの当時、俺が不幸な少年だと思われていたのは事実だからだ。
 まぁそんなことはどうでもいい。俺にはあの女に訊いておかなければならない事がある。
 俺は新聞をベッドに放り投げ、上着に手を伸ばした。


 俺が病室に姿を見せた時、サラは驚きながら少しだけ笑った。薄緑色の病室着に身を包みベッドの上で上半身を起こしている。病室の窓、吹く風に揺れるレースのカーテンを視界の端に捕らえつつ、俺はベッドに歩み寄った。
 見舞いの花も持たずやって来た黒衣の男、つまりは俺に同室の入院患者達の視線が集まる。死の匂いを感じでもしたのだろうか。だが、注目されるは嫌いだった。
 俺は一度病室内を見回した。それだけで集まっていた視線が霧散する。
「記事、読んでくれた?」
 無言で肯く。
「感想聞かせてよ」
「腹は立たなかった」
「なによ、それ」
 サラは不満げだ。眉間に皺を寄せ、口を尖らせている。黙っていてもその表情は変わりそうにない。仕方なく俺は頭の中で言葉をまとめた。
「書いてあるのは俺のことだ。自分が一番よく知っている。記事を読んだところで未知との遭遇があるわけでもなければ知的好奇心が満たされるわけでもない」
 息を継ぐ。サラの表情が陰った。
「だが、俺以外の人間が読めば面白いだろうな。こんなネタ、そうはないだろう」
 言って俺は微笑した。
「なんだ、普通に笑えるんじゃない」
 呆れたような声でそんな事を言われる。意味が分からない、という顔をしているとサラが首を横に振った。
「何でもない。物珍しかっただけ。でも、あなたに笑ってもらえて少しだけ安心した」
 組んだ自分の指を見つめ、サラが嬉しそうに笑う。
「そんなに悪い記事じゃなかったってことかな」
 同意を求めるような口調。俺は小さく息を吐き、
「そうだな」
 と短く答えた。
「やった」
 サラが両方の拳を握り締める。喜びを噛み締めているといった表現がぴったりだった。
「走り回りたい気分」
「好きにしろ。天気も悪くない」
 ベッドの上で軽く腕を振るサラからレースのカーテンが揺れる窓に目をやる。空は呆れるほどに青かった。苦手な景色だ。落ち着かない。俺は視線をサラに戻し、口を開いた。
「元々長くなかったのか?」
 サラの顔から笑みが消える。手元の一点を見つめ、彼女は固まってしまった。かと言ってこちらか言葉を継ぐつもりもない。どうあがいたところで時間は余っていた。サラが口を開くまでの、暇つぶしを探すべく病室を見回したがあいにく興味を引くようなものは何もなかった。仕方なく栗色のサラの頭を見ながら、何も考えず、ただ待つことにする。
「もって、あと一ヶ月だって言われてた。今はお腹の虫さん次第だけど」
 こちらを見ることもせず、サラが言う。その声は意外と落ち着いていた。俺にしても別に驚かなかった。まだ予想の範囲内だ。
「お前がたかだか数十行の文章に命を掛けられたのも、どうせ散るならば、という思いがあったからだろう」
 サラはしばらく間を置き、そうね、と一言だけ答えた。
「静かに死を迎えようとは思わなかったのか?」
「ぜんぜん。趣味じゃないもの、そんなの」
 こちらに顔を向け、サラが笑う。
「それに、このまま死んだんじゃ悔しいしね。どうしても一矢報いたかったの」
「誰に」
 俺の問いにサラが小さく吹き出す。自分の笑い話に自分で笑ってしまう奴がまれにいるが、今のサラがまさにそんな状態だった。
「かっこつけて言わせてもらえるなら正義に、かな」
 そう言ってサラはまた少しだけ笑う。それから表情をあらためたサラにこんな事を訊かれた。
「正義って誰が決めてるんだと思う?」
「さぁな。そもそも俺はこの世に正義が存在するとは思ってない」
 ただ欲望があるだけだ。
 俺の答えにサラが微笑む。
「あなたらしい。でもね、大部分の人たちにとっては違う。それぞれの心の中に自分の信じる正義があるの。そしてそれぞれの正義がある同じ方向を向いて、一つになったとき社会的な正義が生まれる」
 言葉を切ったサラは小さく喉を鳴らし、言い切った。
「その正義を決めているのが情報よ」
「お前の言う社会的な正義とはつまり世論のことか?」
 サラが、ん、と一つ肯く。
「私ね、新聞社に勤めるようになって色んなことを知った。政治家からお金を貰って対立陣営をこき下ろすのなんて当たり前、自社のカラーに合う情報ならウラもとらずに載せてしまう。例えそれが誤報であってもほんとに小さい訂正記事を載せてそれでおしまい。ときには記事の捏造さえしてしまう」
 サラの口調が次第に熱を帯びてきた。
「特に移民関係の記事は酷くて、犯罪者の統計なんて一桁くらい違ったりするの」
「結果、移民の排斥がこの国にとっての正義になってしまったと」
「確かに私たちはよそ者よ。でも、情報を操作されて排斥されなければならないほど罪深くもないと思う。まじめに働いてきちんと税金を納めている人が大部分なんだから」
 なるほど。過去、安価な労働力としてこの国が移民を求めたのは事実だ。まぁ、景気が悪くなれば今のように邪魔者として扱われるわけだが。
「で、それが俺の所に来たのとどう関係する」
「カラタ賞って知ってる?」
 俺は二秒ほどかけ、その単語の意味を頭から引っ張り出した。
「その年一番の記事に送られる賞だ。ここ二、三年審査員はそろって無能だがな」
「それがね、あと一週間で発表されるの。私のは締め切りぎりぎり」
 狙うつもりか。
 驚き、わずかに目を大きくした俺を意思のこめられた瞳で見つめるサラ。
「もし、私が賞を取れたら新聞業界での移民の地位も少しは上がるかなって。そうすれば移民を不当に貶めた記事が掲載され続けてるこの状況も少しは変わるかもしれないし」
 俺はサラと初めて出会った時の事を思い出していた。私をみんなに認めさせる。そのためにあなたを利用する。あながち誇張された台詞でもなかったようだ。この女は本気で俺を踏み台にするつもりだったらしい。
「あの夜、私に言ったこと覚えてる?」
 俺に分かったのは「あの夜」がベイルートを暗殺した夜だということだけだ。どんな会話を交わしたかなどいちいち覚えていられない。仕事を行ううえでの情報でもないものを。
 俺は首を横に振った。
「それが精神の限界だ、って言っでしょ」
 サラから言われても思い出さなかった。ただ、俺の中にある哲学の一つであることは間違いない。
「力なき信念に意味などない」
「うん、だから私には力が必要なの。カラタ賞、っていう分かりやすい力が」
 野心家、か。
 目を閉じ、俺はサラには分からないほど微かに口元を緩めた。計画性の欠片もない生き方だ。近所の山を適当に登り、振り下ろしたつるはしが即金鉱にぶち当たれば苦労しない。もっとも、俺も人のことを言えた義理ではないが。
「審査員は全員お前の、移民の敵なんだろ。とれるのか?」
 閉じていた目を開き、問う。確か審査員は全員この国生まれの人間だったはずだ。
「それは神のみぞ知るってところね。でも私は信じてる。だって今年一年ロクな記事がなかったもの」
 サラが吹き出す。その笑顔は明るかった。まぁ、確かに俺が読んでいる大手二社の新聞には今年一年、というかここ二三年ロクな記事がなかった。あとは個人の思惑と時流がどの方向を向くか、だろう。
 俺は踵を返し、女に背を向けた。
「もう会うこともないだろうな」
「あ、つれないなぁ。お見舞いには来てくれないの?」
 肩越しに振り返る。サラは小首をかしげて微笑んでいた。近所に住んでいる野良猫がよくこんな表情をする。それは餌を求める仕草だ。俺は気が向いたときにしか餌はやらない。
「最後に訊いておきたい事がある」
 サラの肩が微かに震え、身構えたのが分かった。
「お前は、新聞というメディアをどうするつもりだ」
「信じるに足るものへ」
 即答だった。唇を引き結ぶサラを見つめ、俺は皮肉げに笑った。
「ふざけた話だ」
「そんな、私は真剣に」
 言葉を継ごうとしたサラを視線で制し、正面に向き直る。
「これから死ぬ人間が未来を語るなんてな」
 それだけ言い残し、俺は病室を後にした。

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