血と香水のインク

ライン

 俺は人を殺して生きている。
 
 背後で巨大な爆発音が響いた。飛び散った家屋の破片が足元に転がる。炎が闇に沈んでいた俺の影を庭に映し出し、辺りに煙の匂いが広がった。
 そして錆びた鉄に似た匂い。
 返り血に濡れた忍装束と忍刀。それが全てだった。闇夜に赤く切り取られた庭を走り抜け、身長の倍はある屋敷の壁を乗り越える。
 耳元で風が唸った。
 石畳の通りに降り立った俺を、ゴミをあさっていた野良犬が見つめた。
 俺は狭い路地へと己の身を滑り込ませた。背後の大通りに野次馬が集まり始めた気配がする。
 強く石畳を蹴り、高く跳躍した俺に応えるかのように、再び響いた爆発音が夜気を揺らした。


 目を覚ますと時計の針は昼の十二時を周っていた。堅いスプリングが軋むベッドの上で寝返りを打ち、起き上がった俺は窓に歩み寄る。薄汚れたカーテンの隙間から外を覗く俺の目に、黒煙を吐き出す工場の煙突が映る。黄土色の運河沿い、工場区に立てられたアパートメントの四階からは街の姿を一望できた。
 ガラス窓に薄く映る、髪も瞳も服も黒づくめの自分の姿。
 煙草を吸う人間の部屋がヤニで黄色く染まるように、この街はススで黒ずんでいた。見た目がロクでもない街は大抵住んでいる人間もロクでもない。ドラッグ、人身売買、窃盗、密輸、非合法賭博、そして……殺し。この街に存在する多くの裏組織は常に一触即発の状態にあり、血を見ることなど別段珍しくも無かった。いつもどこかで誰かが死んでいる。そういう街だ。
 だから俺のような人間が生きていける。
 窓を離れ、扉下の隙間に差し込まれていた新聞を拾い上げた俺はベッドに腰をおろし、一面の記事に目をやった。
 インクの匂いが鼻を撫でる。
 見出しには「新型蒸気機関」の文字が太く印刷されており、記者は人類の叡智とたゆまぬ努力の結果得られた進歩を賛美していた。何でも仕事効率は従来の二倍だそうだ。これでこの街も従来の二倍汚くなる。
 俺はベッドに広げた新聞をめくっていった。特に興味を引く記事は無かった。強いて言うならば、ある小説家が自殺したことくらいか。
 俺は彼の作風が好きだった。
 読み終えた新聞を折りたたみ、床に投げた俺は再びベッドに横になる。腹は減らない。仕事があった翌日はいつもそうだ。下の部屋から何かを叩き壊す音が聞こえ、続けて叫び声があがった。それはしばらく続き、何かを思い出したように止んだ。そしてまた唐突に始まった。下の部屋にはドラッグに永遠の愛を誓った奴が住んでいる。
 俺は目を閉じ、下階から漏れてくる騒音を頭から締め出した。
 ふと部屋に響いたノックの音に俺は目を開く。少しまどろんだらしい。時計の長針が一時間の四分の一ほど進んでいた。
 仕事を終えた後はいつもそうだが、体が熱い。自分で自分の手首をつかむと普段より早く大きな脈と上がった体温が手に伝わってきた。たぎっている訳ではない。火は蝋燭一本分にも満たない小さなもの。わずかな風が少しでも吹けばそれで消えてしまう。しかし風などどこからも吹いてきはしない。無風だ。そんなとき俺は女を抱くことにしている。そうすれば蝋燭が早く燃え尽きることを経験から知っていた。
 仕事終わりに娼館に寄り、昼過ぎに来るように告げていたことを思い出す。
 ベッドから降りた俺は扉に向かい、わずかに開いた。隙間から濃い香水の匂いが室内に入り込む。
「おはよ。目は覚めた?」
 俺は無言でエレナを招き入れた。
 エレナとは知らない仲ではない。もう何度も交わった。もちろんその後に代価を支払わねばならない関係だが。俺は彼女のことを気に入っていた。エレナはこんな時間にでも嫌な顔をせず仕事をしてくれる。それが理由だ。
「今回は誰を殺し……んっ」
 扉にエレナの体を押し付け、唇を塞ぐ。俺は波がかった金色の髪をかき乱すように彼女の頭を押さえた。
 いきなりで少し驚いたのかエレナの舌が逃げようとする。その舌を追いかけ、さらに自らの舌を伸ばす。戸惑っていたエレナの舌が今何をするべきか気付いたようだ。すぐに俺の舌を押し返し、ぬるぬるとした唾液と共に俺の口内に侵入を試みる。と同時に抱きしめたエレナ体が震え出した。頬は上気し、澄んだブルーの瞳が潤み始める。
 敏感な心と体。これも俺がエレナを気に入っている理由の一つだった。
 口内の熱く柔らかい舌を押し返し、俺はエレナの唇を解放した。
 唾液が細い橋となり、両者の唇の間に一瞬だけかかる。エレナの口から熱い吐息が漏れた。
「はやく……しよ」
 桃色の唇をわずかに開いてささやくエレナ。彼女の濡れた瞳は俺の背後にあるベッドを見ていた。だが残念ながら期待には応えられない。俺はエレナの上衣、格子型の紐に手をかけ引き抜いた。ベストをはだけさせ、ブラウスのボタンを一つずつはずしていく。そのままの白い首筋に唇をはわせ、あらわになった豊かな双丘に下着の上から指を食い込ませる。
「んあ……だめ、ベッドで……」
「ここでいい」
 短く言い放ち、俺はエレナの下着を引きちぎるように剥ぎ取った。
 あとはただ貪るのみだ。荒い呼吸と嬌声と体液。カーテンの隙間から漏れる微かな日の光。薄暗い室内で全てが混ざり合い、淀み、まとわり付く。弓のようにしなるエレナの肢体に指を、舌を這わせ、俺は彼女を征服していった。曲線をなぞるように汗が流れ、床に小さな染みを作る。溶け出した蝋が流れるように、一滴、一滴と。安アパートメントの壁は薄い。筒抜けだろうが俺は気にしなかった。かといって見せ付けてやろうという気もない。そういう場所だ。ここに住んでいる奴等は自分にしか興味がない。
 足元で床がきしむ。肉体をぶつけ、互いの体を互いの体液で汚すという行為。俺には食事や睡眠と同じ程度の意味しかない。子孫を残すためでもなければ、ましてや愛情の確認でもなかった。
 食事を摂る。体が求めるからだ。眠る。体が求めるからだ。女を抱く。体が求めるからだ。それ以上でも以下でもない。
 その身を縮め、燃え尽きようとする心奥の蝋燭が最後の輝きを要求する。ふと、匂いに色があれば、と思った。この部屋に充満しているものの色は? 分からない。ただ、一つ確かなことがある。桃色などという健全な艶色では決してない。もっと暗く淀んだ色だ。
 耳元で発せられるエレナの震える声を聞きながら、そんな事を考えた。背中に爪を立てられている。気にはなったが、やめさせる気もなかった。
 やがてエレナは俺の腕の中で二度、大きく体を震わせた。同時にその身に灯した火を一瞬だけ燃え上がらせ、目に見えない蝋燭が燃え尽きる。
 荒い、エレナの呼吸音だけが室内に残された。高まった彼女の鼓動が肌を通して伝わってくる。俺は一つ息を吐き、エレナの肩を押した。それに逆らうように俺の背中を抱くエレナの手に力がこもる。
「もう少しだけ。立っていられないの」
 俺の胸に顔を預け、深呼吸を繰り返すエレナ。細く白い肩が大きく上下している。併せて揺れる波がかった金髪を見ながら、しばらく俺は立ち尽くしていた。エレナの言う通りベッドでした方がよかったのかもしれない。今さらのように思う。
 暇つぶしに時計の秒針を眺めていると、三周半したところでエレナが俺の胸から顔を上げた。彼女は少しはにかんだような笑顔で肯くと、手早く衣服を身に着けた。それから最後に香水を一振りする。
 俺はズボンのポケットから取り出した二枚の金貨をエレナに手渡した。が、エレナの表情は沈んでいた。手の中の金貨を見つめ、うつむいている。
「足りないか?」
「そうじゃないの。そんなんじゃなくて」
 尋ねる俺にエレナは何かに耐えるような表情で首を横に振った。
「わたしね、これ以上あなたからお金を貰いたくないの」
 エレナの台詞は俺にとって全く理解できないものだった。
「働いた分だけの報酬を手にする。労働者にとって最も大切な権利を放棄するつもりか?」
「権利とかそんなことよりも悲しくなる、から」
 エレナが金貨の乗った手を差し出してくる。
「だから返すね、これ」
「俺が人を殺して稼いだ金だからか?」
「違うの。どんなお金かなんて関係ない。あなたから貰いたくないの!」
 突然破裂するように大きくなったエレナの声に俺は目を細くした。涙に濡れたブルーの瞳をただ直視する。
「ごめんなさい。でも、わたしは」
 さらに押し出される金貨の乗ったエレナの手。俺はそれを無言で押し返し、再び首を横に振った。
「どうしても駄目なの? 答えが欲しいわけじゃない。ただお金を受け取ってくれればそれでいい」
 涙声で訴えるエレナに、俺は何も言わなかった。無言のまま彼女を見つめ続ける。それでもエレナは引き下がらなかった。
「だったら」
 エレナが下唇を噛み、金貨が乗っているのとは逆の手を胸の前で握り締める。
「今使う。持って帰りたくないからこの場で使う」
 エレナは完全に泣いていた。
「この金貨二枚でわたしにキスをして。ぎゅ、って抱きしめて」
 涙目のエレナを見ながら小さく息を吐く。彼女の金の使い道に俺がどうこう言う権利もない。
「分かった」
 俺はエレナから金貨を受け取り、ズボンのポケットに落とした。エレナの細い肩に手をかけ、唇で唇に触れる。一度顔を離した俺は注文通りエレナをきつく抱きしめた。ブルーの瞳から大粒の涙が零れ落ち、俺の服を濡らしていく。
「わたしが娼婦だから?」
「違う。俺なんて人殺しだ」
「じゃあ、単純にわたしのこと嫌いなの?」
「それも違う。俺が今まで出会った人間の中じゃ悪くない部類に属してる」
「初めてしたときに処女じゃなかったから?」
「関係ない」
「ねぇ、どうして」
 逡巡の後、答える。
「人との距離を詰めるのは苦手だ」
「そんなのわかんないよ」
 何も言わず、俺はエレナの額に唇で触れた。
 腕をほどいてエレナを解放する。エレナはしばらく俺の顔を見上げていたが、やがて人差し指で涙を掬い取り、微笑んだ。
「もう少しだけいていい?」
「眠らなくていいのか?」
 俺の所に来ていなければ今はエレナにとって寝ているはずの時間帯だ。
「いいの。あなたの顔見てる」
 子供のような笑顔で言ってエレナがベッドに腰掛ける。
「好きにするさ。俺は寝るぞ」
 エレナに告げ、返事も待たずに俺はベッドに横になった。心地よい疲労感が全身を包み込む。体が沈み込むような感覚。どうやら先ほどよりは深い眠りに入れそうだ。
 と、目を閉じ意識を落とそうとした時だった。
 聞いたことのない足音に俺は全神経を聴覚に集中させた。人間の顔が一人ずつ違うように、足音もそれぞれ違う。間違いなくここに住んでいる人間のものではない。
 足音は俺の部屋の前を通り過ぎ、ゆっくりと戻ってきて止まった。愛用の忍刀を手にベッドから降りた俺は音を立てず扉の脇に張り付く。
 どうやらお客さんのようだ。
 戸惑うエレナに向かって口の前で人差し指を立て、息を殺す。
 乾いたノックの音が三度室内に響いた。
 珍しいこともある。ノックなどという高尚な礼儀をわきまえた人間が一日に二人も俺の部屋を訪れるとは。普段はいきなり押し入るか、悪ければ銃弾が飛んでくる。
 先ほどよりも少し強めのノック。やはり三度だった。
「あの、すみません」
 まだ若い女の声だった。同業者特有の、隠しても隠し切れない張り詰めた感じはない。どうやら襲撃者とは違うようだ。ならば放っておくに限る。そのうち帰るだろう。
 俺は再びベッドに戻ると目を閉じた。が、同時に嫌な予感を感じてもいた。
「すみません。いませんか?」
 さらに強く扉が叩かれる。
「ねぇ、いるんでしょ?」
 既にノックではない。間違いなく扉を殴っている。片目を開いた俺は何となくエレナを見やった。彼女は苦笑するのみだ。
「開けなさいよ! この社会生活不適合者!」
 やはり悪い予感というのはよく当たる。襲撃者の方がマシだったかもしれない。この女は何の権利があって人を罵倒し、他人の睡眠時間を削り、扉がしなるほどのノックを続けているのだろうか。
 いい加減鬱陶しくなった俺は扉に歩み寄り、指二本分だけ開いた。
「あら、やっぱりいるんじゃない」
 扉の向こうにいたのはやはり若い女だった。二十歳を越えた辺りだろう。肩まで伸ばされた栗色の髪と同色の、罪悪感の欠片もない瞳をこちらに向けて立っている。
「何の用だ」
 俺にしてみれば珍しいことだった。厄介ごとに言葉をもって対応している。エレナが来る前ならば確実に忍刀を抜いていただろう。
 だが当然のようにそんな幸運に気付くこともなく、女は軽い調子で口を開いた。
「そんなに恐い顔しないで。わたしはサラ・バークレイ。アウルポスト新聞社の記者よ。あなたに取材を申し込みたいの」
 俺は部屋にねじ込まれていた女の爪先を蹴り出し、扉を閉めた。
「待って! あなたの名前は伏せるし、住所だって絶対に明かさない! 約束する」
「関係ない。帰れ」
 扉越し、叫ぶ女に向かって返す。取材だと? 笑えない冗談だ。
「もちろん謝礼だってさせてもらうわ。その、十分とは言えないかもしれないけど」
「金なら腐るほどある。帰れ」
「あなたにとっても顔を売るいいチャンスだと思うの」
 俺は勢いよく扉を開け放った。女……サラを部屋に引きずり込み、閉じた扉に押し付ける。俺ははっきりとイラついていた。
「顔を知られた暗殺者に仕事ができると思っているのか」
 サラの首をつかみ、締め上げる。死体の処理が面倒なので死なない程度に力を弱めてはいるが、サラの喉からは押しつぶされた呼吸音が漏れ、目じりにはうっすらと涙が浮かんでいた。
「誰から俺の事を聞いてきたのかは知らない。死にたくなければ二度と俺の前に現れるな」
 吐き捨てるように言い、サラの首から手を離す。膝から崩れ落ちる新聞記者を見下ろし、俺は短くため息をついた。エレナはベッドに腰かけ、黙って女を見つめている。ただ口元が緩んでいる所を見ると全く興味がないわけではないようだ。野次馬気分といったところだろう。
「いきなり首絞めるなんて、ほんとにこれで機嫌がいいのかしら」
 咳き込みながらもサラが立ち上がる。
「何をわけの分からないことを言っている。帰れ」
 言い放ち、俺はベッドに戻るべくサラに背を向けた。だが気配は扉の方ではなく、ゆっくりとこちらに向かって来る。どうやらこの女は今まで俺の部屋を訪れた人間の中で一番ロクでもないようだ。
 背後で床がきしむ。
 俺は振り向き様に忍刀を抜き去り、サラの手に握られていたナイフを跳ね上げた。甲高い金属音。銀光をひき、弾かれたナイフが天井に突き刺さる。
「さすがね。やっぱり本物だわ、うん」
 その声は驚きを含みつつも確実に高揚していた。その、好奇心に満ち溢れた栗色の瞳が苛立ちを募らせる。子供が珍しい虫でも見るような目と同じだ。
「死にたくなければ二度と俺の前に現れるなと言ったはずだ」
 俺は手にしている忍刀の切っ先をサラの喉許に突きつけた。女の顎が僅かに上がり、さすがに瞳から浮かれた雰囲気が消え去る。だが完全に怯えているわけではない。逆に挑戦するような表情でこちらを見つめている。
 何を根拠にこの女はこんな顔をするのだろうか。俺が忍刀を横に滑らせさえすれば全てが終わるというのに。
「仕事のためだったら命の百や二百、幾らでもくれてやる」
 うわずってはいたが、意思の込められた声だった。
 俺は無言のまま、表情を変える事もせず忍刀を横に滑らせらた。僅かの間を置いて血が滲み出し、女の白い首筋を流れ落ちていく。サラは動かなかった。短く悲鳴を上げることも、目を閉じることもしない。それどころか変わらぬ目つきで俺を睨んでいた。
「珍しいな。死ぬのが恐くないのか」
「バカ言わないで。恐いに決まってるじゃない。でもね、それでもやらなきゃいけない事だってあるのよ」
 純粋に興味が沸いた。
「言ってみろ」
 問う。
「やらなければならない事とやらを言ってみろ」
 サラは答えない。唇を引き結び、相変わらずの表情で俺を睨んでいる。
「どうした。言えないのか」
 促す俺にサラの喉が大きく鳴った。震える喉の動きが刀身を通して手に伝わる。
「みんなに私を認めさせることよ」
「そのために俺を利用するのか。たいした野心家だな」
 気が付けば俺は口元を緩めていた。
「そうよ。私のためにあなたを利用するの」
 単純に面白い女だと思った。何かと命を天秤にかけ何かの方が重いと言った人間など、少なくとも俺が殺した中にはいない。皆、俺を前にして命だけはとむせび泣いた。
 俺は突きつけていた忍刀をひき、鞘に収めた。
「いいじゃない。受けてあげれば? 取材」
 それまで黙っていたエレナが不意にそんな事を言う。
「俺にとって何の得もない」
「あら、面白そうじゃない」
 このサラという新聞記者が面白そうな性格をしていることは認めるが、俺自身取材を受けること自体については興味の欠片もなかった。面倒なだけだ。
「あなた、命よりも大切なものがあるって言ったわよね」
 俺に向けていた微笑をどこから薄ら寒いものに変え、エレナがサラに視線を向けた。俺のことはお構いなしらしい。無視して寝ようかとも思ったが、
「だったら証明して見せてよ」
 というエレナの一言に少しだけ付き合ってみることにした。今日、俺がこれから見る予定になっていた夢よりも愉快な展開になってくれればいいのだが。睡眠時間を削るんだ。そうでなければ割に合わない。
「証明って言ったって」
 戸惑うサラにエレナはどこからともなく小瓶を取り出した。中には白い、小さな粒がいくつか入っている。
「これね、宣伝だって言って薬屋さんにもらったんだけど」
 エレナの言う薬屋とはもちろんまともな薬屋ではない。俺が仕事で使うような薬や使うと楽しくなるような薬を扱っている奴らのことだ。彼等は宣伝と称して新製品を置いていくことがある。要するに試しに使ってみて感想を聞かせてくれということだ。
「寄生虫の卵で人間の体に入ると数日で孵化するんだって。その後は内臓を食い荒らしながら脳に達して宿主を殺すそうよ。孵化してから宿主を殺すまでだいたい一週間。今のところ効く薬もないんだって」
 その様を想像し、俺は苦笑した。そんな死に方は御免こうむりたい。
「一週間あれば記事くらい書けるでしょ」
 エレナの声は刺々しい。
「飲んで」
「そんな。大体、何であなたにそんな事言われなきゃなんないのよ。私は彼に取材を申し込みに来たのよ。あなたには関係ないじゃない」
 まぁ、確かにそれはそうなんだが。
 俺はエレナが手にしている小瓶を見やり、顎に手をやった。寄生虫の卵か。眉唾ものだが試してみる価値はありそうだ。使えるものであれば俺の仕事も多少は楽になるだろう。
「いいだろう。そいつを飲め。それで取材を受けてやる」
 エレナが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、サラが喉の奥で小さくうめく。
「どうぞ。味の方は保障できないけど」
 差し出された小瓶をサラが受け取る。サラは小瓶を握り締めたままエレナの顔を見つめ続けた。その表情からは明らかな敵意が見て取れる。一方のエレナは実に楽しそうだ。それにしても……、
「お前にこういう趣味があったとはな」
 エレナは被虐によって快感を覚えるタイプだと思っていたのだが。
「ほんとはね、虐められる方が好き。ただ……命より大事なものがあるなんて言う人間は大嫌いなの」
 エレナがサラに向かって見せた笑みは実に挑戦的だった。
「私はただ生きるために生きてきた。体まで売ってね。だから分かるの。体も張ったことがない人間に命なんて張れるわけないじゃない。命を賭ける? 言うだけなら誰にだってできるものね」
 奇麗事をねじ伏せたいわけか。自分の人生を肯定するために。と、エレナを睨みながらサラが笑みを浮かべる。こちらもこちらで敵意に満ちていた。
「あなたが今までに出会ってきた人間が腰抜けだっただけでしょ。知ってる? 類は友を呼ぶって言葉」
 言い返そうとしたエレナを制すようにサラは手にした小瓶を前に突き出した。
「私はやる。腰抜けじゃ、ない」
 コルク栓を抜き、サラが口の上で小瓶を逆さまにした。白い粒が眉間に皺を寄せたサラの口内に落ちていく。全てを飲み込み、胃に落とした女は狂気すら感じさせる笑みをエレナに向けた。
「まだ何か言いたい事はある? 娼婦さん」
 エレナは何も答えない。ただ、その拳はきつく握り締められ震えていた。怒りと悔しさ。それらを内包したような瞳でサラを下から睨み上げ、下唇を噛んでいる。
「帰るわね。また来る」
 爆発しそうになる感情をかろうじて抑えたような声でそれだけ言い残し、エレナは部屋から出て行ってしまった。この勝負サラの勝ちか。
「しかし本当に飲むとはな」
 言って薄く笑う。
「驚いた? でもね、今回ばかりはちょっと本気なの」
 射抜くような眼差しで俺を見つめるサラ。
「どんな理由があるのか俺には関係ないし興味もないが約束は守ってやる」
「当然よ。偉そうに言わないで」
 腰に手を当て、新聞記者が俺を見上げる。
「それで、早速始めたいんだけど」
 言いながらベッドに腰かけると、女は俺の返事も待たずに懐からメモ帳とペンを取り出した。女の手がメモ帳のあるページで止まる。質問でも並べてあるのだろう。とりあえず俺も愛用のボロ椅子に腰を下ろす。座るたびにきしむ、そんなやつだ。
「それじゃあまずあなたの名前を教えてくれる? あ、名前載せてもいいよね。命懸けるんだし」
「捨てた」
 俺は即答した。
「真面目に答えて」
 不満げな表情がこちらに向けられる。
「真面目だ。殺しをやるのに名前は必要ない」
「じゃあみんなあなたのことを何て呼ぶの?」
 サラはペンの尻をこめかみに当て、困ったような顔をした。
「呼ばない。どうしても呼ぶ必要があれば代名詞を使えばいい」
「ふむ」
 女のペンがメモ帳の上を走る。
「私はあなたの事を何て呼べばいい?」
「好きにしろ」
 女は少しばかり考えるような素振りを見せた後で、口を開いた。
「じゃあ、クロちゃんはどうして暗殺者になったの?」
 眉根を寄せ、女の顔を見つめる。
「何よ、その人様をバカにしきったような目は」
「ような、じゃない。してる」
「うあ、ムカツク。髪の毛も黒、瞳の色も黒、おまけに着てるものも黒なんだからクロちゃんでいいじゃない。何が気にいらないの?」
「分からないのか?」
「さっぱり」
 わざとか、それとも本気か。言い切るサラに反論する気も失せた俺は手を振って取材の続きを促した。まぁいい。どうせ二、三日の付き合いだ。
「じゃあ続けるわね。さっきも聞いたけど、あなたが暗殺者になった理由を教えて。そう……外国人であるあなたがなぜこの国で暗殺者になったのか、そこのところを詳しく聞きたいの。その髪と瞳の色、それに顔立ち。あなた、この国の人間じゃないんでしょ?」
 女がペンを構え、身を乗り出してくる。
「髪と瞳か。お前こそこの国の人間じゃないだろ。移民か?」
 この国のにおいて生まれた人間は普通エレナのように金色の髪と青い瞳を有している。
「そうね。ま、私のことはいいじゃない。それで?」
 俺は自分がこの国に来た時のことを思い出しながら口を開いた。
「両親に連れられてこの国に来たのは六歳の時だ。技術者だった父親はこの国に工業技術を学びに来たらしい。俺の国は工業的に随分と遅れていたからな。その頃の俺は何も考えていないただのガキだった」
 言葉を切り、一度大きく息をする。ここまでが序章だ。
「この国に来てから十年は何もなかった。相変わらず俺はただのガキだ。だが、ある日を境に少しだけ物事を考えるようになった」
「ある日?」
「両親が殺された日だ」
 僅かに身じろぎしたサラを前に、俺は声に感情を込めることもなく淡々と続けた。
「別に政治的な意図があったわけでも宗教上の理由があったわけでも、思想の違いでもない。奴らは食パンを一斤買うだけの金が欲しかった。結果、俺の両親は殺された」
 室内に沈黙が落ちる。
「それで、あなたはどうしたの?」
「言っただろ。少しだけ物事を考えるようになった」
 唇の端を少しだけ上げ、サラを見やる。
「殺したよ。三人もいやがった」
 言葉という名の反応はなかった。ただ、興味と関心に満ち溢れた瞳がこちらに向けられている。
「考えて殺したからな。未だに三人の死体は見つかっていない」
「それから?」
 サラの声は震えもかすれもしていない。色気はないが人ごみでもよく通りそうな声。
「親のいない外国人にまともな仕事なんてあるわけがない。気がつけばマフィアの構成員だ。そこでも考え、何人も殺した。考え、殺されないようにもなった。おかげで今では気楽なフリーの暗殺者だ」
 言い終え、俺は口を閉じた。サラはメモをとることもせず、じっと俺の顔を見つめている。何を考えているのかは知らないが、他人の顔を見ながら思考に沈むのは遠慮してもらいたい。
「どうした。質問には答えたはずだが?」
 視線が鬱陶しくなった俺はそう言ってサラの意識を彼女の中から引きずり出した。
 思い出したように目の焦点を俺に合わせ、サラが慌ててメモをめくる。
「ごめんなさい。じゃあ次の質問。あなたの、その小さな剣について聞きたいんだけど……」
 結局、取材は夕方まで続き、気がつけば窓から赤い日が差し込むような時刻になっていた。


「とりあえず今日はこんな所ね。ありがと、いい記事が書けそうよ」
 女はそう言うと笑いながらペンとメモ帳を懐にしまった。そしてベッドから立ち上がり、大きく伸びをする。床に映った影が細く、長く伸びた。
「今度の取材日なんだけどいつにする? 都合のいい日を選んでくれればこっちが合わせるけど」
 サラに俺を恐れるような様子は全くない。それは仲のいい友人と旅行の計画でも立てているような口調だった。この女は警戒心を母親の胎内に忘れてきたらしい。それとも人生の途中で落としでもしたのだろうか。
 記者魂というよりは単に女の中で重要な線が一本切れているだけのような気がしてならなかった。俺は不意にこの女が現場でどんな顔をするのか見たくなった。
「今夜はどうだ」
 提案する。仕事の難度もターゲットもこの女を連れて行くには最適の依頼があった。
「あら、お誘い? 私は安くないわよ」
 下らない冗談に付き合う気はない。大してありもしない胸の下で腕を組み、挑発的な目でこちらを見つめる女を無視して俺は口を開いた。
「命を懸けるんだ。その代償として仕事を見せてやる」
「仕事って」
 そこで女の声が途切れる。しばしの沈黙の後、自分が何を見せられるのか気付いたようだ。
「バカなこと言わないで。これでも私は市民なのよ。殺人が起こると分かっていて見逃せる訳ないでしょ。通報するわ」
 まくし立てるように言われ、睨まれた。対して俺は微笑する。悪くない答えだ。それでこそ連れて行く意味がある。この女が持っている常識と正義感という名の糸の限界を俺は知りたい。ターゲットを前にして切れるのか、切れないのか。
 女は無言でこちらに背を向けると扉に向かって大股で歩いて行った。
「仕事を見たいのなら明日の午前二時、中央の公園に来い」
 女の足がその場で止まる。
「間違えるなよ。明後日ではなく明日だ」
 女はこちらを振り向きもせずに扉を開き、出て行った。

ホームへ   小説の目次へ   次ページへ