猫と魔術

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 愛用の大きな黒鞄を右手に持ち、同じく黒い子猫を左肩に乗せた俺は街の大通りを最初の目的地に向って歩いていた。大通りと言ったって大きな街の路地くらいしかないのだが。それでも左右に立ち並んだ商店から響いてくる店主の威勢のいい掛け声は、出張で行ったことがある大都市のそれと全く変わらない。その掛け声に引き寄せられたのか、どの店の前にも家庭の台所を預かる女性たちの姿があった。
 少しでも多く売ろうとする店主と少しでも安く買おうとする奥様方の戦いはいつどこでだって熱いのである。
 俺はさりげなく肉と野菜の値段を見ながら通りを行く。朝起きた時から夜は野菜炒めを作ると決めていたのだ。予想通り今日は肉と野菜が安い。自慢じゃないが俺の頭の中には特売日の情報がちゃんと入っている。長い自炊生活のなせる技だ。
 そりゃ俺だって仕事から帰ったら鞄受け取ってくれて「お疲れさま。ごはんできてるよ」なんて言ってくれる存在がほしいさ。でも役所ってのはどうも出会いに乏しくて。もうしばらく寂しい一人暮らしが続きそうな予感だ。
 そんなことを考えながら歩いていると背後から蹄が石畳を叩く音が近づいて来た。一定のリズムで俺に追いついたその音が少しだけ遅くなる。
 濃紺の制服に軽装の鎧。腰には一振りの剣。馬に乗っていたのはこの街の警備兵だった。警備兵が馬の上から俺を、というか肩に乗っている子猫をじっと見下ろす。
 一瞬バレたのかと思って背中に嫌な汗をかいたが、やがて警備兵は一礼して俺を追い抜いていった。どうやら肩に子猫を乗せた男が珍しかっただけみたいだ。まったくまぎらわしい。
「そういえば名前教えてなかったよな」
 警備兵のまっすぐ伸びた背中と蹄の音とそれに合わせて揺れる馬の尻尾が大分小さくなってから、一応辺りを見回して俺は子猫に小声で話しかけた。
「セイル・ウィンフィールド。セイルでいい。あだ名はないから」
「うん。よろしく、セイル。それで僕は」
 耳元で囁いていた子猫の声がそこで、はた、と止まる。
 そっか。自分の名前も覚えてないんだっけ。ということは何か付けてやらないといけないってことだよな。名無しじゃ不便だし。
「どうしよう」
 言いつつ俺は左肩の子猫を見やった。
「黒いからクロ、じゃぁ余りにも安直だしな」
「だね」
 ふむ、体は黒。あとは赤い首輪に青い瞳か。クロアカアオ、アカクロアオ、アカアオクロ、カとオはいらんな、何となく。それでアアクロ。アを一つ削って、こんなところかな。
「アクロってのはどう?」
「うん。いいね」
 子猫が嬉しげに言う。しかし相変わらず耳に毛が触れてくすぐったい。なにはともあれ本人? の了解も得られたところで子猫はめでたくアクロになったわけだ。
「それでセイル、どこに向ってるの」
「ん、公園」
 答えながら角を左に曲がり、路地に入る。周りに溢れていた喧騒が遠くなり、路地を進むにつれて吹き抜ける風の音や屋根で鳴く鳥の声が大きくなった。
 風に背を押されながらしばらく進むと、やがて左手の景色がぱっと開ける。
 第一市民公園。
 ただそのあまり色気のない正式名称でここを呼ぶ人は少ない。この街には公園は一つしかないため、市民だの第一だの付けなくても公園といえばここのことなのである。
 入り口に立てられた二本の杭の間を抜け、公園の真ん中を突っ切るように俺は進んでいった。 
 隅に植えられた大樹に茂る葉が互いの体をこすり合わせ、さらりとした音を立てている。樹の下に置かれたベンチでは三人の女性が口に手を当てたり振ったり時には他の人を叩いたりしながらおしゃべりしていた。周りで遊ぶ子供たちよりも元気そうで生命力に溢れているような感じがするのは気のせいだろうか。まぁ、確実に子供より声は大きいが。
「何か思い出したか」
 公園を歩きながらアクロに訊いてみる。射抜くような瞳で辺りを見回していたアクロだったが、やがて首を振ってうつむいてしまった。
「まっ、最初からうまくはいかないさ」
 笑いながら小さな体を叩いて励ましてやる。
「焦ったところでしょうがないしな」
「うん。そうだね。ありがと」
 と、律儀にアクロが礼を言ったところで俺は本当の目的地に辿り着いた。
 壊れたブランコ。人が乗るべきところがまっぷたつに割れ、二本の太縄にぶらさがっている。本来同じリズムで揺れるべき二本の太縄が風に吹かれてちぐはぐに揺れる様は見ていて物悲しかった。
 その物悲しさを取り除くのが俺の仕事というわけだ。
 鞄を地面に下ろすと俺は中から指三本分くらいの厚さがある、両端に穴の開いた木の板と二本の太縄を取り出した。
「いやに大きいと思ったら、そんなものが入ってたんだね」
 猫らしく軽いステップで地面に降り立ったアクロが鞄を見ながら言う。
「今日は少し特別だけど、普段からあれこれ持っててほうが便利だからな。大きいとたくさん入るし」
 さらに鞄から小さなナイフを取り出し、だいぶくたびれた太縄をブランコから切り離す。古びた縄に生えていたコケが手を汚した。微かに青臭くなった手を払い、新しい縄を取り付けにかかる。
「ねぇねぇセイル。こういうのって大工さんか何かの仕事じゃないの?」
「普通はな。でも委託すればそれだけお金がかかるだろ。節約ってやつだよ。役所も色々苦しくてな」
 答えながらわざとらしく苦笑いしてみせる。
 ここルーヴェリアという街は農業と織物によって成り立っているのだが、長雨のせいで去年の秋の収穫が思ったより悪かった上に織物の方も売上が落ちていて、正直ため息をつきたくなるような懐具合だ。
 織物職人たちは「こんな年もあるさ」と楽天的だが、こちらとしてはやはり気になる。一時的なものであってくれればいいんだが。
 街の財政を心配しながら、取り付けた新しい縄の強度を確かめる。引っ張るたび腕にしかっりとした手ごたえが伝わってきた。これなら大丈夫だ。
 陽気のせいか額ににじんでいた汗を拭い、木板の穴に縄を通す。
 ああ、そういえば訊きたい事があったんだ。
「なぁ、なんで一番初めに俺に話し掛けたんだ」
 木板が抜けないようにしっかりとした結び目を作り、やはりこれも強度を確かめる。
「もし俺が悪人だったら盗賊に売られてたかもしれないんだぞ」
「それはないよ。君の顔を見れば分かるさ」
「悪人には見えなかったってことか」
「うーん。というよりそんな大それた事ができるような人に見えなかったんだ。小市民的というか可もなく不可もなくというか毒にも薬にもならないっていうかノーリスク・ノーリターンっていうか」
「ああ、そう」
 ちょっとヘコんだ俺は短く答えて残った穴に縄を通し始めた。
 というかそこまで並べ立てられるとさすがに俺でも傷つくぞ。そりゃ確かに普通だとか平凡だとか特徴がないとか人として無色透明無味無臭とか心無い言葉を(主にティアさんに)投げ付けられたりするが、俺だって一応人として生きてるんだ。そんな、いてもいなくても同じ、みたいな言い方をされると悲しくなってしまう。
 てな俺の心中を気にする素振りもなく、アクロの話は続く。
「本当はあの、黒髪の女の人にしようかなって思ったんだ。彼女が魔法使いだってことはすぐに分かったから。でもやっぱり怖くてさ」
 その一言に俺はヘコんでいたことも忘れて吹き出してしまった。
「怖い? やっぱり猫でもティアさんはとっつきにくいのか」
「違うよ、恐れ多かったんだ。近くにいて気付かない?」
 笑う俺をいさめるように、アクロが抑えた声で言う。
「確かに魔法の風で粉挽き小屋の風車三台を回したときには驚いたけど」
 確かあれは一ヶ月くらい前のこと。あらためて「魔法は凄い」と思ったことを覚えている。
「ううん。そんなものじゃない。とにかくその、ティアを怒らせるようなことは絶対にしない方がいいよ。絶対にね」
 そこまで念を押されると少し気になる。
「そんなに凄いのか」
「うん。世界を滅ぼすのに七日ってところだね」
 一瞬の沈黙。
 結局俺は笑ってしまった。真剣な声で何言ってるんだかまったくこいつは。
「んな、おとぎ話に出てくる魔王じゃあるまいし」
「ほんとだって。嘘じゃないって」
 なぜか必死になってティアさんの凄さを訴えるアクロの声を適当に聞き流し、もう片方の縄にも結び目を作る。それから最後に地面と板が平行であることを確かめた。
 これで一応修理自体は完了だが、最後にしておかなければならないことがある。
 俺は修理したばかりのブランコに乗り、ゆっくりと揺らし始めた。そう、試乗だ。俺がこの高さから落ちたところでどうってことはないが、小さな子供ならどうなるか分からない。
 壊れるなら、この場で壊れてくれた方がよかった。
 膝に力を入れ次第にブランコを大きく振る。
「大体さ、世界をっ、七日で滅ぼす、ような人がっ、何でこんな田舎街で、役所勤めっ、してるんだよ?」
「それは僕にも分からないけど」
 揺れるブランコに合わせて頭を巡らせながらアクロが答える。
「まぁ心配すんなって、ティアさん怒らせたりはっ、しないから普通に怖いし」
 耳元で風が唸り、視界がめまぐるしく変化する。地面が見えたかと思うと、次の瞬間目の前は青い空だった。そしたまた地面。
 俺の体はもうほとんど地面と平行になりつつあった。別にここまでやらんでも、と頭の片隅では思っているのだが、次の瞬間もっと高くもっと高くと呪文のように繰り返している自分に気付く。つい限界を見たくなってしまうのだ。
 久しぶりに乗ったブランコにはそんな魅力があった。
 しかしいつまでも浸っているわけにもいかない。今日の仕事はこれだけではないのだ。
 俺は多少揺れが収まったところで手を離し、大きく前に飛び出した。心地よい浮遊感の後で、きつめの衝撃が足に伝わる。
「お見事。猫になれるかもよ」
「役所をクビになったら考えるさ」
 笑って答える。が足に残る鈍痛のせいで微妙な笑顔になってしまった。
 やっぱりあの高さからはちょっと無茶だったか。
 俺はよろめきながら鞄に歩み寄って、中から羽ペンと携帯用のインク瓶と陳情書を取り出した。
「こうえんのブランコお、なおしてください」
 つたない字の横に「完了」と書いてマルで囲む。
 これで一つ街の厄介事が片付いた。
「よーし、次行くぞ、次」
 一人で揺れるブランコに満足感を覚えつつ、俺はアクロに向って呼びかけた。

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 昼でも薄暗い路地裏。濁った水溜りを避けて石畳の上に鞄を降ろすと、俺は柄が二つに分かれた携帯用のシャベルを取り出した。
 しかし最近雨降ってないのにいつできたんだ? この水溜り。
 柄をつなげながら思う。
 でもこれじゃあ仕方ないのかもな。
 シャベルを杖のように突き、俺は空を見上げた。狭い路地から見えた空はやはり狭かった。この辺りは割と背の高い建物が密集してるため、路地の日当たりはかなり悪い。その上水捌けもあまりよくないので、こうして水溜りが残ってしまうのだ。
 土地のない大都市ならともかく、何でこのド田舎でこんなに建物を密集させたのか理解に苦しむ。だが建っているものは仕方がない。残った水溜りはシャベルですくって溝に流すしかない。
「離れてろよ。汚れるから」
 肩のアクロを少し離れたところに降ろしてやり、俺は水溜りを側溝に流し始めた。湿った匂いが鼻をつき、顔をしかめる。だが俺は水溜りを処理するために来たわけではない。これはついでだ。
 本題は側溝の方である。
 陳情書によれば最近水が流れにくくなっている。何とかして欲しい。とのことだが、原因は溝を見ればすぐに分かった。
 汚いのだ。とにかく。
 ヘドロやゴミで詰まり、溝は「そりゃ水なんて流れんだろ」という状態だ。
 俺は小さく息を吐いてから、手にしたシャベルで溝のヘドロやゴミをかき出し始めた。先程とは比べ物にならない悪臭が辺りに漂い、反射的に胃から朝飯が込み上がりそうになる。それを何とか押し戻し、溝のわきにヘドロの山を作っていく。
 シャベルを差し込むたびに濁った水が波打ち、時に跳ね、靴とズボンの裾を汚した。
「セイル、これも君の仕事なの?」
 鼻で息をしてないと分かる少し間抜けな声でアクロが言う。
「一度清掃課に回したんだけどな、返ってきちゃってさ。こっちは人手が足りないからそっちでやれって。もう一度返してやってもよかったんだけど、そんなのたらい回しの典型だしな。どこかで止めないと溝は汚いままだろ?」
 ヘドロを積み重ねながら答える。
 それからしばらく路地裏にはシャベルが溝をなぞる音だけが響いた。
 何らかの返答があると思っていた俺は、口を開かないアクロに拍子抜けしつつも作業を続ける。一度肩越しにその小さな姿を見やるとアクロは何事か考えるように少しうつむき、じっと黒ずんだ石畳を見つめていた。
 もしかしたら何か思い出したのかもしれない。声をかけたりして気を散らさない方がいいだろう。
 その後、俺は二三度腰を捻ったりしたが基本的には黙って溝掃除を続けた。
 作業も終盤に差し掛かり、いいかげん鼻もバカになってきた頃、それまで黙っていたアクロが唐突に口を開いた。
「君は、どうしてこの仕事を選んだの?」
 いきなりの質問に、鞄から取り出した布袋にヘドロを詰めていた俺は手を止めてしまった。
 まさかそんなこと訊かれるとは思ってなかったし。
 俺の戸惑いが伝わったのか、一つ呼吸をする程の間を置いてアクロが続ける。
「その、ブランコ直したり溝の掃除したり、けっして楽しそうな仕事じゃないし、どうしてそんなにまじめにやれるのかなって」
 そう言った後で、アクロは申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめん。君の仕事をばかにしてるわけじゃないんだ」
「いや、確かに人が進んでやりたがるような仕事じゃないよな」
 答えながらヘドロの入った布袋の口を縛る。
「でもさ」
 その時、俺の声を掻き消すように昼時を告げる鐘の音が高く響いた。お世辞にも美しい音だとは言えないが、働く者にとって昼の休憩を意味するこの鐘の音は、遥か北、聖地にある大聖堂の鐘の音より心地よく耳を打つ。
 もちろん俺だって例外ではない。
「話の続きは昼飯でも食べながらにするか」
 大きく伸びをしながら見上げた狭い空には、手でつかめそうなくらいふんわりとした雲が流れていた。

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 街の中央広場。といっても猫の額ほどの広さしかないが。俺はベンチに腰を下ろし、手にした紙袋から今日の昼飯を取り出した。程よく甘く、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 ただのクリームパン。だがこれが驚くほど旨かった。
 焼いているのは職人気質の髭オヤジだが、それとは対照的にパンは深窓の令嬢のごとく繊細だ。口に入れた瞬間柔らかい生地が舌を撫で、これ以上甘くても甘くなくてもいけないという絶妙なクリームがそこに混ざる。
 今なら殴られても笑顔で許してあげられそうだった。
 ちなみにこの店のジャムパンと揚げパンも絶品である。
 もちろん買った。そしてもちろん食べる。
 食べすぎと言うことなかれ。幸せは多い方がいいに決まっている。
 ふと気が付けば、そんな風に幸せに浸る俺をアクロが見上げていた。相変わらず顔は困ってないが、多分困っているのだろう。
 風が、アクロの前に置かれた器のミルクを微かに波立たせた。
「……悪い。話があるんだったな」
 緩んだ頬を引き締め、一つ息を吐く。
「あぁ、うん。それでさっきも訊いたけど、どうしてセイルはこの仕事を選んだの?」
 アクロの問いに俺はパンを齧り、口を動かしながら石畳を見つめた。
 市民生活保護課を選んだ理由。何から話せばいいのだろうか。
 しばらくパンを噛みながら考える。やがて口が空になったところで俺は顔を上げた。
「この国に身分制度があることは覚えてるか」
「うん。確か上から王族、司祭、貴族、騎士、平民、そして……賤民」
 アクロの答えにうなずき、俺はまっすぐに前を見つめる。
「俺はその中で平民になるわけだ。でもな、買ったんだ。身分を」
「え?」
 アクロが短く声をあげた。
「正確に言うと、買って貰った、になるかな」
 いつの間にか乾いていた唇を舐め、続ける。
「俺は賤民だった親父の一人息子としてこの街で生まれた。母親のことは分からない。気が付けば親父と俺だけだったし、親父も母親の事話したがらなかったしな。親父はいつも言ってた。賤民だからって卑屈になるなって。身分なんてただの偶然だ。俺たちが人として劣っているわけじゃない。男なら胸を張れってさ」
 そう言って、いつも親父は俺の左肩を叩いてくれた。
 思い出の中の親父の手は俺が幾つになっても大きかった。自分の手を左肩に置いてみても、あの包み込むような感触は微塵もなく、ただ小さく頼り気もない。親父の手が大きかったのは、親父が持っていた心とか誇りとか、そういったもののせいだと思う。
 親父と俺とでは人としての大きさが根本で違うのかもしれない。
「それで、俺が十八の時に親父は死んだんだけど、死ぬ前に親父が言ったんだ。今日からお前は平民だって」
「じゃあお父さんが」
「ああ、俺のために平民の身分を」
 そのときのことは今でもはっきと覚えている。狭く汚い共同住宅の一室。俺はベッドの前にひざまずき、横たわる親父を見つめていた。でも涙のせいでほとんど親父の顔は見えてなかった。
(俺はお前に誇りを持てと、賤民だからと卑屈になるなと言ってきた。でもな、この先お前には俺と同じ苦しみを味わって欲しくないんだ。賤民というだけで蔑まれ、みくびられる。いいや、お前だけじゃない。どこかで止めないとお前の子供も、その子供も同じになってしまう。こんなことは俺の代で終わりにしてしまおう。俺には賤民という身分を無くせる程の力は無い。だからせめて自分の家族くらいは守ってやりたい)
「身分を買うなんてまともなやり方じゃできない。職を選ぶ自由の無い中で莫大な金を稼ぐためにどれだけ体を酷使したのか。親父の体はもう、ぼろぼろだったよ」
(後悔? 後悔なんてしてないさ。俺のために泣くバカ息子が一人いる。それで十分だ)
 それを最後に親父は静かに逝った。本当に、静かに。
「こんなこと考えてるの俺だけかもしれないけど、男として生まれたからには父親を越えなきゃいけないと思う。でも、例え百匹の竜を倒したって、例え世界中の宝を手に入れたって俺は親父を越えられない。親父が生まれ育ったこの国で、街で生きて初めて近づけて、もしかしたら越えられるんじゃないかって思ってる。市民生活保護課を選んだのは、自分のためじゃなくて誰かのためにって感じられる仕事がしたかったから。もしかしたらそれはただの自己満足かもしれない。だけど、親父はそんな風に生きた人だった」
 それから、しばらく俺もアクロも喋らなかった。俺は親父のことを色々思い返していたし、アクロも何か思うところがあったのだろう。
 目の前の通りをロバが荷馬車を引いて通り過ぎる。積まれた干草が足跡でも付けるように点々と落ちていた。
 俺は思い出に区切りをつけてうなずき、手にしていたパンを口に押し込んだ。驚いたように俺を見上げたアクロに向って、口を動かしながら笑ってみせる。
「……んっ。昼休みは無限じゃないからな。お前も早く飲んでしまえよ」
 言って紙袋から手探りで次のパンを取り出す。ジャムパンだった。
 アクロも睨み合いでもするようにミルクに顔を近づけて、舌を動かし始める。
 と、ミルクを飲む音が止まった。
「セイル」
「んあ?」
「ありがと」
 再びミルクを飲む音が聞こえ始め、反対に俺の口は止まってしまった。だがすぐに動き出す。正直、何が「ありがと」なのかよく分からなかったが、訊き返すのも野暮なような気がして結局俺は何も言わなかった。
 さて、昼休みは後どれだけ残っている? 揚げパンは食べられるのだろうか。

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