×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


妹と弟とシグ・ザウエルP226
 

 9

 隠れていた満月が雲から顔を出し、辺りに冷ややかな光を投げかける。
 雑草を揺らし埃の匂いを運んで吹く風はわずかに冷たかった。
 右腕を持ち上げ時計に目をやる。指定された時間まであと五分。
 時計から目を離した俺は目の前に立つ二棟の廃工場に視線を移した。
 砕けた窓ガラス。灰色の壁はくすみ、流れた雨の痕が上から下に帯を引いている。
 スプレー缶で書かれたであろう落書きにはセンスの欠片もなかった。
 放送禁止用語をデカデカと書き殴って何が楽しいんだろうか。理解に苦しむ。
 この工場が何を作りいつ倒産したのか俺は知らない。少なくとも俺がこの街に来た時からここは廃工場だった。
 コンクリートの地面を突き破って生える雑草の方が俺よりもこの工場について多くを知っているのだろう。
 しかし敵も中々粋な場所を指定してきた。
 地面に転がる『安全第一』の全の字を見ながらそんな事を思う。
 ここは住宅地から離れているため銃を撃ってもすぐに通報されるということはない。
 少なくともこの近辺では一番邪魔が入らない場所と言えるだろう。
 今のところ気になる事はない。幸いひびで済んだ肋骨と隣にいるシャロンを除いては。
「戦争にでも行くつもりか?」
 呆れ声でからかう。
 会社から支給された黒の戦闘服に六つの手榴弾を付け、腰のベルトには多数の予備マガジン。
 愛用の二丁のグロックに肩から提げたサブマシンガン。手にはアサルトライフルまで抱えている。
 ちなみに俺はシャロンとお揃いの戦闘服、得物はP226だけだ。
 もちろん予備のマガジンはいくつか持ってきたが。
 シャロンは俺の顔を見ると、やれやれといった風に首を振った。
「知らないの? あなたの国の言葉でしょ。備えあれば、う」
 そこでふとシャロンの声が切れる。
「う?」
「……ウクレレ」
「もう諦めろ、な?」
 俺はぽふぽふとシャロンの肩を叩いた。
「うぅ。なんか物凄くバカにされた気分」
 悔しがるシャロンはとりあえず放っておいて、もう一度時計に目をやる。
 もし俺たちをここに呼び出した奴が時報を聞いて時計を合わせる几帳面な人間なら、約束の時間まであと三十秒ということになる。
 俺は視線でシャロンに緊張を促した。応えてシャロンがアサルトライフルを抱え直す。
 あと二十秒。
 その時、突然の金属音によって夜気が叩き割られた。甲高い音。だが軽くない。
 鉄柱を鉄パイプで殴ればこんな音がするだろう。
 反射的に地面を蹴り、工場の壁に背を預ける。銃を抜いた俺は素早く辺りを見回した。
 幸い今日は月が出ている。これなら目も十分使えるだろう。夜目も利く方だ。
 暗視ゴーグルを持ってこようかとも思ったが、視界が狭くなるのが嫌なので使わないことにした。
 今のところ前方に気配はない。と再び同じ音が背を預けている壁を通して聞こえてきた。
 中か。
 隣にいるシャロンを横目で見やり、背後を彼女に任せて移動する。
 ブーツと雑草のこすれる音がはっきりと聞こえる。肌で風の匂いと色を感じた。ただの錯覚だろう。
 だが感覚は一歩進むたびに鋭くなっていく。高鳴る鼓動。体温が上昇する。この緊張感は悪くない。
 古ぼけた木製の扉まで辿り着いた俺は一拍置いてゆっくりとノブをひねった。ほんの僅かドアを引く。
 鍵はかかっていないようだ。トラップの類も無い。再びシャロンを確認。静かにドアを開いて中に入る。
 どうやらここは事務所だったらしい。なぜか一つだけ残された事務机と壁際のロッカーがそれを教えてくれる。
 窓から差し込む月明かりを頼りに目を凝らせば床にうっすらと残った足跡。数は一つ。
 足跡は部屋の中を迷うように行ったり来たりしてから、また別の扉に向かっていた。
 その扉の上にも小さな『安全第一』のプレートが張ってある。恐らく扉の向こうは作業場だろう。
 埃っぽい空気を浅く吸い込み、扉脇の壁に張り付く。一度目を閉じ、ノブを握る。
 金属の冷たさが皮のグローブを通して伝わってきた。あれから音はしていない。
 自分の鼓動どころか血液が流れる音さえ聞こえそうなほど辺りは静かだ。
 壁に預けた背が汗をかき、湿っていく。
 間違いなかった。扉の向こうに誰かがいる。
 しかも相手はまるで気配を隠そうとしない。扉を通して相手の息遣いさえ感じられるような気がした。
 罠か。それとも余裕か。
 シャロンも気配に気付いている。手にした得物も態勢も完全に「撃てる」状態だった。
 シャロンに目配せし、大きく息を吸い込む。
 それを短く吐き出し、俺は扉を開け放った。
 可能な限り姿勢を低くして中に飛び込む。発砲音。そして人のシルエット。
 俺はそれがどんなものであるか脳が認識するより早く地面を蹴っていた。
 シルエットにタックルをかまし、地面に押し倒す。シルエットが発した短い呻き声は男のものだった。
 男の手から投げだされた銃が地面を滑る。目で追うような事はしない。それは隙だ。
 男の体をうつ伏せにひっくり返し、すぐさま関節を極める。
 背中を膝で抑えつけた俺は男の後頭部に銃を突きつけた。
 辺りに男があげるにしては情無い悲鳴が響き渡る。
 しかし、やけにあっさりと組み伏せることができた。これではまるっきり素人だ。
 俺は膝の下にいる男を「初めて」確認するように見つめた。
 襟からネクタイがはみ出している。その瞬間、俺の脳裏に疑問符が浮かんだ。
 どう考えても武装した相手を迎えるような装備ではない。
 その他、整髪料によって光る髪、ブルーのワイシャツに灰色のスラックス。銀縁めがね、よく磨かれた靴とどう見ても一般家庭のお父さんだ。
 この時間ならば廃工場ではなく、居酒屋にでもいるべきなのだが。
 しかし、この人が俺に向かってトリガーを引いたのもまた事実だった。
「どういう事?」
 辺りを警戒しているシャロンがこちらに視線を向けずに訊いてくる。
 訊かれても困る。知りたいのは俺の方だ。
「仕方なかった、仕方なかったんだ」
「何が仕方なかったんだ?」
 突きつけた銃をそのままに、膝の下で震える男に向かって問う。
「ひいぃっ。頼む、撃つな。撃たないで……下さい」
「質問に答えるんだ。そうすれば危害は加えない」
 男の頭に押し付けていた銃を僅かに引く。銃口は頭から離れた。
 まぁ、いつでも撃ち殺せる状態にあることに違いはないが。
「なぜ、俺たちを狙った」
「たっ、たの……いや、命令、命令されたんだ」
「誰に」
 男は答えない。俺は銃口を再び男の頭に突きつけた。男の体がびくりと一度大きく震える。
 だが答えは返ってこなかった。もちろん男が死を望んでいないことは分かる。
 それでもなお答えないという事は……
「命令した者の名を明かせば殺される、か。そうだろ」
「は、はい」
 男の声はかすれていた。
「だが名を明かさなければ俺に殺される」
 男は何も言わない。荒い呼吸音と共に背中を激しく上下させている。俺はしばし考えた後、口を開いた。
「情報を提供してくれれば命の保証はする。もちろん俺はあなたを殺さないし、奴らかあなたを守る」
 また社長に迷惑かけるなぁ、と心中で思いつつ条件を提示する。
「本当か」
「本当だ」
 俺はすぐさま言い切った。恐らく今男の頭の中では無数の思考が飛び回っていることだろう。
 言うべきか言わざるべきか。無数の思考の末にはじき出されるイエス オア ノー。二つに一つ、だ。
 ただ男がノーを選んだ場合、俺は非常に困ることになる。
 殺すぞ、とは言ってみたものの実際にその気はまったく無いからだ。
 どうしようか。男がノーを選んだら「今なら洗剤つけるけど?」とでも言ってみるか。
「わっ、分かった。言う。言うっ!」
 長い黙考の後で男が選んだのは幸いにもイエスだった。
 俺は小さく息を吐き、信用の証として極めていた関節を解くと男を解放した。
 男はのろのろと立ち上がり、やや怯えた視線を俺、というか俺が手にしている銃に向ける。
 さすがに銃を収めることはできなかった。
 俺にしてもまだ目の前の男が完全に安全だと判断した訳ではない。
 袖に隠したデリンジャーを俺に向けないとも限らないのだ。
 男は唾でも飲み込んだのか一度喉を鳴らすとゆっくりと話し出した。
 いや、違う。話し出そうとして話せなかった。
 弾丸が肉に食い込む嫌な音。
 目の前で男の体が斜めに傾く。
 その瞬間、シャロンが肩で弾き飛ばした男の体を受け止めるように、俺は後ろに跳んでいた。
 背中から地面に落ち、息が詰まる。だがそんなことを気にしている暇は無かった。
 辺りに漂うに血の臭いに大きく舌打ちする。
 打ち捨てられた工作機械の陰に身を隠した俺はすぐさま男の状態を確認した。
 即死はしない。だが放っておけば確実に死ぬ。脇腹のそんな位置から血が流れ出している。
 薄い月明かりのせいで震える男の唇が紺色にすら見えた。
 細くかすれた呻き声をもらす男を気にしながら、工作機械から僅かに顔をのぞかせる。
 気が付けば心拍数が跳ね上がっていた。だが対照的に敵が動く様子は全くない。
 男を撃った一発をだけで完全に沈黙している。
「死にたくない……死にたく、ない」
 小さな声がいやにはっきりと聞こえる。それだけ辺りが静かだということか。
 間違いない。敵は俺たちではなく、はっきりとこの男を狙って撃った。理由は? 問うまでもない。
 俺たちの状況を不利にするためだ。おそらく彼もそのためだけに利用されたのだろう。
 俺はシャロンに視線を送った。
「私達が生き延びることを考えるならこの人にとどめを刺すのがベスト」
 そう言ってシャロンが微笑む。俺はオーバーに肩をすくめ、改めて男の容態を見た。
 もって三十分といったところか。
 敵も馬鹿じゃない。俺たちがこの男を見捨てられない事を知っている。
 さて、どうしたものか。などと悠長に考えている暇はなかった。こんな状況だ。一秒だって惜しい。
 俺はアサルトライフルと三つの手榴弾をシャロンから奪い取った。
「援護する。その人を連れて車まで走れ」
 有無を言わせぬ強い口調……のつもりだった。
「嫌よ。あなたが車まで走りなさい」
 こうなってしまってはシャロンは絶対に譲らない。一度引かないと決めたら絶対に引かないのだ。
 だからこういう時は先に行動するしかない。
 俺は手榴弾のピンを抜き、放り投げた。
 続けてもう一つ。からん、という乾いた音。続けて起こった爆発に全てが震え、衝撃が押し寄せる。
「行けっ!」
 立ち上る煙の中、俺はシャロンに向かって叫んだ。
 シャロンは何か言いたげに一瞬顔をゆがめたが、すぐさま男に肩を貸して動き出す。
 工場内を乱れ飛ぶ銃声。弾丸が鉄骨を、工作機械をかすめ、火花が散った。
 シャロンと男を背にしてアサルトライフルのトリガーを引き絞る。
 暗闇と爆発の際の煙によって視界は無いに等しい。まともな射撃などできなかった。牽制程度だ。
 弾丸が肩をかすめ、熱痛が走る。
 敵にも俺たちの姿は見えていないはずだ。だがこちらよりも量がはるかに多い。
 下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、というところか。
 次々と上がる火花から敵の位置を予測し、撃ち返す。だが手ごたえはない。
 焦るな。とにかく死なない事を考えろ。
 自分に言い聞かせ、トリガーを引き続ける。
 破裂音の洪水を抜け、何とか工場を脱出した瞬間銃口が全ての弾を吐き出し終えた。
 P226に持ち替えながら背後の二人を確認する。大丈夫、怪我も増えていなければ死んでもいない。
 しかしこれで視界が開けた。敵は「狙って」撃ってくる。確かな事は分からないがかなりの人数がいる。
 狙いを定められたらそこで終わりだ。
 集中しろ。殺気を感じ取れ。撃たれる前に撃て。
 親父に銃の訓練を受けていた時の事をふと思い出す。どうしてこんな時に。いや、こんな時だからこそか。
 急所を外す余裕なんてない。最小の弾丸で確実に戦闘不能に追い込む。
 頭の中を風が吹いたような気がした。
 その瞬間俺は三人を殺し、続けて二人殺した。一人は屋根から転げ落ち、地面でバウンドする。
 放った手榴弾がさらに二人を吹き飛ばした。
 トリガーの重さが命の重さだとするならば、随分と軽いものだと思う。
 反面、その軽さが自分の命の重さであることを忘れてはならない。
 トリガーを引く度に俺の命は加速度的に軽くなっていく。
 そんな事を考えながらまた一人殺した。
 敵は誰もがあの時と同じ黒の戦闘服に身を包んでいる。
 車まであと何メートルだ。
 もう視界の端には乗ってきた白のセダンが映っているというのに、近づいている気がしない。
 それでも一歩ずつ進むしかなかった。
 背後で窓ガラスが砕け落ちる。ほんの一瞬、気を逸らしてしまった。
 短い呻き声と共にシャロンの体が僅かに沈む。
 舌を打ったときにはもう遅い。シャロンの太腿から流れる血が地面に赤黒い点を打っていた。
 歯を食いしばりトリガーを引く、引く、引く。
 しかし何人いやがるんだ。全く減った気がしない。
 一人倒せば二人、二人倒せば三人がこちらに銃口を向けてくる。どうあってもここで俺たちを殺す気らしい。
 息があがる。激しく動いた訳でもないのに。
 車まであと三歩、二歩。
 そこまで来た瞬間、俺は腕を伸ばしてリアドアを開け放ち、その陰にシャロンと男を引きずり込んだ。
 弾丸がガラスに傷を付け、ドアに跳ね返される。さすが社長の車。見事な防弾仕様だ。
 わずかに銃撃が弱まる。その隙にシャロンを後部座席から運転席に回りこませ、男を座席に横たえた。
 男の額には脂汗が滲んでいる。もう少しだけ頑張ってくれ。
「早く乗って!」
 キーをひねりながらシャロンが叫んだ。敵が距離を詰めてくる。
「バカ野郎! あんな奴ら連れて街に出るつもりかっ!」
「じゃあどうするのよ!」
「俺が残る。残って何とかする!」
 シャロンの顔が固まった。鳩が豆鉄砲をくらったような、という形容はこういう時にこそ使うのだろう。
「何とかって……無理に決まってるじゃないっ!」
「無理でも何とかするっ!」
 叫んでドアを閉めた俺は車を乗り越え、逆側に着地した。
 そこから向かって来る二人を倒し、車体を二度ノックする。行け、の合図だ。
 シャロンは一度俺の顔を見やると、前を向いて唇を噛んだ。
 激しいスキール音。と同時に俺は地面を蹴って工場の裏手に転がり込む。
 上手く逃げろよ。
 遠ざかる車に向かって発砲する敵二人の額を撃ち抜き、空になった弾倉を捨て去る。
 新しい弾倉をグリップの底から押し込んだ俺は唇を一つ舐めて再び動き出した。
 守るものは自分だけ。何て気が楽なんだ。改めて思う。背後には誰もいない。
 翼でも手に入れたような気分だ。まぁ、実際はそれほど余裕でもないんだけど。
 さて、どこまでやれるか。これでも子供の頃から親父にしごかれてきたんだ。そう簡単に死にはしない。
 再び工場内に入った俺は薬莢を撒き散らしながら梯子まで一気に走った。背後で三人倒れる音がする。
 確認している暇などなかったし必要もない。殺さずにすむのなら殺さないのが我が社の流儀だ。
 だが裏を返せば、殺さなければならないのなら確実に殺すということだ。
 そして、俺たちはその為のスキルを身につけている。
 工場内を駆け抜けたそのままの勢いで鉄製の梯子を駆け上り、キャットウォークへ。
 走る俺を追いかけ、手すりに当たった弾丸が火花を散らす。まだいやがったか。
 体をひねって見れば、下の窓からライフルの銃身だけが覗いている。腕を下げ、発砲。銃身は窓から姿消す。
 鼻がバカになったのか硝煙の臭いを感じなくなっていた。鼻から一度大きく息を吸って走り出す。
 キャットウォークの端まで来たところで俺は左手の窓ガラスを開け放った。夜風が顔を打つ。
 鼻の汗が一気に引いたような気がした。
 短く息を吐き雨どいをつかんで体を宙に躍らせる。そのまま体を振って屋根へ。乗った瞬間、跳ぶ。
 体を横に倒しながらの射撃。銃弾が頬をかする。その代償として喉を打ち抜かれた敵は屋根から転げ落ちた。
 斜めの屋根の上で何とか姿勢を立て直し、頬を拳で拭う。嗅ぎ慣れた血の匂いがした。
 眼下から聞こえるざわめき声。さすがにここまでてこずるとは思っていなかったのだろう。
 俺だって伊達に裏社会ナンバー1……の警備会社の日本支社の裏方をやっているわけではない。
 うーん、何か虎の威を借る狐みたいだな。
 そんなことを考えながら呼吸を整える。予備の弾倉はあと幾つだ? ベストを手で撫でて数を確認する。
 四つ。敵の数は? 皆目見当もつかない。次から次に湧いてくる。
 正直、俺は一人でこいつら全員の相手ができるとは思っていない。
 ただシャロンが誰かを連れて戻ってくるまでは持たせるつもりだ。
 と、待てよ。今日はどのマネージャーも別々の仕事で出払ってるんじゃなかったっけ。
 頼もしい仲間達の顔を思い浮かべながら、あいつはあの仕事、あの人ははあの仕事、と指折り数えてみる。
 うん、誰もいないや。
 わはははは。
 笑い事ではない。自分で笑っておいてなんだが。
 まぁ、ウチには「マネージャー」意外にも頼もしい人材はいるし、そちらに期待しよう。
 それにここがいくら街から離れてるとはいえ、手榴弾を三つも使ったんだ。そろそろ警察が乗り込んでくるだろう。さすがに奴らも警察まで敵に回すつもりはないと思いたい。
 しかし間が空きすぎてないか。そろそろ次のアクションがあってもいいんだが。
 もちろん敵の気配がなくなったわけではない。だが屋根に上がってくる気配もなかった。
 いや、ある。一つだけ。
 その瞬間、深黒の影が宙を舞い、重い着地音とともに屋根に降り立った。反射的に間合いを取り銃を構える。
 だがトリガーは引けなかった。
 気圧された。それが理由だ。
 生唾を飲み込み、目の前に現れた男を凝視する。黒のブーツに黒いズボン。そして黒のボディアーマー。
 ここまでは俺と同じだ。だがその上に羽織った黒のロングコート、これが違う。
 俺ならこんな場所にそんなものを着てきたりはしない。理由は只一つ。動きにくいからだ。
 しかしそんな理由で「素人」の烙印を押せないほど男がまとった空気は張り詰めていた。
 逆に先程まで撃ち合っていた奴らがとんでもない素人にさえ思えてくる。
 一つにまとめられた男の長い髪が夜風に揺れた。黒髪黒眼。アジア系らしいが国までは分からない。
 身長は俺よりやや高いほど、体はかなり鍛え上げられているらしく体重は俺プラス十キロといったところか。
 銃を構えたまま、落としていた腰をゆっくりと上げる。
 しかしこれだけ不利な状況下にあって眉一つ動かさないとは、よほどの大物かただのバカなのか。
 そもそもなぜこの男は銃も構えずに俺の前に現れたのだろうか。
 分からない。分からないが、その意味不明さが俺にトリガーを引かせない。
「お前がボスなのか?」
 男は答えなかった。答えたくないのか、それとも日本語が分からないのか。
 額の汗が頬に流れる。嫌な沈黙だった。
「言っておく。たとえ丸腰でも敵ならば俺は撃つ」
 やはり男は何も言わない。しかし我ながら矛盾したセリフだ。丸腰でも撃つ。撃てていないじゃないか。
 男がふと笑みをこぼす。張られた緊張の糸に現れた一瞬の谷。
 男が視界から消えた。全身が冷や汗で濡れる。
 反応できない。ひどくのろい、と感じられる動作でトリガーを引く。
 同時にとてつもない衝撃がみぞおちから全身に走った。単純に息が出来ない。体が傾き、視界が黒く染まる。
 その衝撃が銃器によるものではなく、たった一つの拳によって生み出されたのだと知覚できたのは屋根から転げ落ち、硬い地面に叩き付けられた後だった。
 胃の中身が逆流する。体に痛みはない。だが全く動かなかった。
 意識が薄れる。ダメだ。ここで気を失ったら死ぬ。失神したら死

       ホームへ   前ページへ   小説の目次へ   次ページへ