妹と弟とシグ・ザウエルP226 2nd
─拳をどうぞ、お嬢さま─その6
各スーパーを巡って買い込んだ食材が入ったマイ買い物袋と鞄を手にぶら下げて夕暮れの街を歩く。買い物袋からネギが半分顔を出しているのは愛嬌ではない。絶対定理だ。
とりあえずハンバーグはハンバーグとして、付け合わせとスープだよなぁ。デミグラスソースで洋風に、付け合わせのほうれん草と人参はバターソテーにでもしようかと思って材料を買ったのだが、大根おろしとポン酢で和風にハンバーグを頂くのもいいかもしれない。気温も上がってきたし。となるとその場合ほうれん草はゴマ和えか? スープは必然的に味噌汁になり、人参は具にでもするか。
などと今晩のメニューのことを考えながら歩を進めていると公園の入口に差し掛かった。
そういやここから近いんだよな、はるか先生の幼稚園。
長く艶やかな黒髪と優しい顔立ちと穏やかな声と春風のような香りとその存在は示しつつも決して過度な自己主張はしない胸と何かこう指でなぞりたくなるような腰のラインと手でつかみたくなるような足首と昨晩の出来事を思い出し、俺は肺の奥から全ての空気を吐き出すような溜息をついた。
もっとも、溜息の理由はそれだけではなかったのだが。
右手首の腕時計に視線をやれば五時四十分。まぁ、何とか七時までには帰れるだろ。それからご飯の支度して七時半には夕食だな。
と、これからの予定を立てて俺は公園の中へと足を向けた。二本の車止め鉄柱の間を抜けて公園の奥へと進む。時間のせいか夕日に照らされた滑り台や鉄棒で遊ぶような年代の子供たちはいなかった。今頃風呂にでも入っているか台所に立つ母親の姿を後ろから眺めているのだろう。早く優菜と優希にもそういう生活を送らせてやりたいのだが。
唇を引き結んで奥歯を噛み締める。
並んでブランコに座り、笑顔を交わし合う制服姿のカップルの脇を通り抜け、俺はさらに公園の奥を目指した。一度立ち止まり「気配」がちゃんと付いて来ていることを確認してから再び歩き出す。遊歩道から足を逸らして林の中へ。濃くなった緑の匂いを鼻に通しながら足を進めること約十秒。落ちていた小枝を踏み折って立ち止まった俺はゆっくりと振り返った。
「気配」通りそこには二人の少年がいた。緑色のブレザーに灰色のズボン。そして敵意と焦りの込められた眼差し。間違いなく俺が今日の昼間没収した菓子袋の持ち主達である。
「返せよ、紙袋」
昼間俺にナイフを突き付けた方の少年が口を開く。
「あぁ、ごめん。忘れてた」
俺の無責任な物言いに二人の表情が歪んだ。まぁまぁ、と片手を挙げて二人を押し留めるようなジェスチャーをしてから俺は地面に置いた鞄からあの菓子袋を取り出す。
「でもただの駄菓子に随分執着するんだな」
菓子袋を持ち上げて微笑する俺に返ってきたのは「関係ねぇだろ!」という怒声だった。
うーん、大分焦ってるな。俺の推測もあながち間違いでもないらしい。
「早くしろよ」
冷めたような声にぱちぱちと何かが爆ぜるような音が重なる。視線を移せばもう一人の男子生徒の手にはスタンガンが握られていた。電極の先端から散る青白い火花を見ながら俺は口元を歪める。
まったく最近の若い者は。
なんておっさん全開なセリフを心中で漏らし、ついでに小さくため息を漏らす。だいだいそんな怖い顔と道具で脅すなんて「この駄菓子袋は普通じゃありません」って言ってるようなもんじゃないか。俺だったら思いきり反省したふりして波風立てずに菓子袋返してもらうけどな。何なら教師と一緒に夕日に向かってダッシュしてもいい。
その程度のことで隠せるなら、な。
「なぁ、これLSDだろ」
俺の台詞に男子生徒たちの表情が面白いくらい変化する。
「は? 昼間調べただろうが」
往生際の悪い。ていうか少し声震えてるぞ。
「うん、確かに中身はただのラムネだ。それは間違いない」
言いながら手にした紙袋に視線をやる。
LSDとはリゼルギン酸ジエチルアミドの略称であり、要するに幻覚剤だ。当然日本では麻薬に指定されている。流通形態は様々で錠剤、カプセル、ゼラチン状の物が出回っているが日本においては「ペーパーアシッド」と呼ばれる、吸い取り紙にLSDの水溶液を染み込ませた状態で多く流通している。
そう、紙に染み込ませた状態で。
俺は一度紙袋に視線を移し、それから二人の男子生徒に目を向けた。
「適当なこと言ってんじゃねーよ……」
ナイフを手にした生徒が言うが、その声にこれまでのような勢いはない。
「俺が君から逃げる時この紙袋を口にくわえたの覚えてるか?」
男子生徒が喉の奥で小さく呻く。
「大変だったんだぜ、あの後」
微笑する俺に二人の生徒たちは焦った顔を見合わせた。俺があの紙袋を口にくわえたのはもちろんわざとだ。その時から大方の予想は付いていた。そして案の定サイケデリックな幻覚に襲われた。薬物に対する耐性はある程度ある(と言っても幼少のころから少しずつ麻薬に体を慣らされたとかそういうことではなく、何というか、薬の効果に対抗しようとする気構えとか意志とかそういう意味で)が、結局三時間ほど保健室のベッドの上で過ごすことになってしまった。
まぁ、このペーパー自体が結構な粗悪品だったことも短い時間で幻覚症状から回復できた理由に挙げられるのだが。
ちなみに保険医の先生は俺の一つ年上。かなりセクシーなお姉さまだった。あの学校の理事長は世の中というものがよく分かっているらしい。いいことだ。
「これだけの量なら末端価格で約五十万。小遣い稼ぎにしちゃちょっと多くないか」
そこで言葉を切ってネギが顔を出している買い物袋を一瞥する。
「ま、安売りのスーパー巡ってる俺とは金銭感覚が違うんだろうけどな」
沙耶の話では紙袋が丸ごと売買されているようだったし、恐らくこれが売れてしまうのだろう。そのまま。もちろん全ての生徒がそれだけの金を親から渡されているわけではないだろうが上客は確実に存在するということだ。
「で、どうする?」
わずかに低く抑えた俺の声に男子生徒たちが身構える。だがそれは攻撃ではく防御の意味で、であるが。どうやら心理的に風上に立つことはできたようだ。しかし俺はさらに二人の心を押す。
「その物騒な道具で口封じ?」
煽るように言ってみたが生徒たちは動かない。
「それともパパに泣きつくか?」
さすがにこれには頭にきたのか二人が前に踏み出そうとする。が、俺の足が前に出るほうがわずかに早かった。再び動けなくなってしまう二人の男子生徒。吹き抜けた風が頭上で葉を揺らした。
この辺りが潮時だろう。
「今なら俺が秘密裏に処理してやってもいい。お前たちが二度とこんな物に関わらないと約束するならな」
俺は言葉を切って二人の眼を順に見つめた。
分かっている。本来ならば全てを公にしたうえでこの二人にしかるべき処罰が下るよう処理しなければならないのは分かっている。だが俺にそれはできなかった。この二人から未来や可能性を奪いたくなかったのだ……などという殊勝な事を言うつもりはない。
残念ながら俺は善良な一般市民ではない。自分自身が法の外にいる身だ。そんな俺に正義を振りかざす権利はなかった。
……というのはちょっと言い訳じみてるだろうか。まぁ、色んな感情が混ぜこぜになってると思ってもらえればいい。人間とは矛盾を抱えた生き物なのだ、うん。
「ただの教育実習生に何ができんだよ」
「ま、誠心誠意頭を下げて話し合うくらいはな」
「そんな事であいつらが許すわけないだろ」
あいつらとは彼らにLSDを卸した問屋のことだろう。どう考えても年末なんかに「今年もお世話になりました」とか言ってタオルを持ってくるような方々ではない。
「ま、何とかなるさ。殺されはしないだろ」
「信用できないな」
スタンガンを手にした生徒がつぶやくように言う。
「そんな事してあんたに何の得があるんだよ」
得、ときましたか。まぁ理由はあるんだけどそれを正直に言うわけにはいかない。沙耶に関して聞きたい事がある、なんて言ったって意味が分からないだろうし。
「そこはほら、一応教師志望だから」
言って笑う俺。が、二人の男子生徒は笑うどころかむしろ俺を嫌悪するような表情を浮かべて見せた。
「点数稼ぎかよ」
そこまでひねた見方しなくても、とは思ったが今はそれで構わないのであえて否定しなかった。
「どっちにしろ君らが損するわけじゃない。成功すれば儲けもの。失敗すれば馬鹿な熱血教師もどきが酷い目に合うだけ。悪い話じゃないと思うけどな」
三十秒ほど沈黙があったと思う。やがてナイフを手にした男子生徒がぽつりとある住所をつぶやいた。繁華街のほぼど真ん中。そこがたまり場ってわけだ。
「ありがと。じゃ、ちょっくら平和的解決を試みてくるから君らはもう帰りな」
言いながら手にしていた紙袋を鞄に戻す。小さく息を吐いた俺は鞄とネギが顔を出した買い物袋を左右の手にぶら下げて二人の脇をすり抜けた。
背中に視線を感じる。だが声はかからない。
もっとも声をかけなくて正解だった。その時の俺は懐に吊ったP226の重みを感じながら笑みを浮かべていたのだから。
赤く染まった空を見上げて目を細める。
悪党と悪党の潰し合い。
結局のところそれでしかない。