妹と弟とシグ・ザウエルP226 2nd
─拳をどうぞ、お嬢さま─

ライン

その3

 翌朝。ゾンビだってもう少しハツラツとした顔をしてるんじゃないかという表情で(顔を洗うときに洗面台で確認した)俺は沙耶が通う高校への道を歩いていた。隣には制服姿の沙耶がいる。深緑色のブレザーに胸元の赤いリボンがよく映えていた。赤チェックのスカートが春風に揺れる。
 沙耶は俺の顔を見上げ、情けないといわんばかりのため息をついた。
「まったく朝から鬱陶しい。あなたがきちんと説明すれば済むことじゃないですか。だいたい」
 言葉を切った沙耶の目つきがきつくなる。
「あなたとあのような関係であると誤解を受けたままの私の不名誉はどうなるんです」
「甘んじて受けてくれ」
 通学鞄の角で腰を殴られた。
「だっ、だってそういうの言い訳っぽくて何かカッコ悪いし」
「悪いし、じゃありません! 何なんですかあの態度は。情け無いにも程があります!」
 今から二十分ほど前、俺は優菜と優希を送るべく幼稚園を訪れていた。当たり前のようにそこにははるか先生がいて、実を言うと俺は目を合わせることもできなかった。
 いや、だって先生も目合わせてくれなかったし。そんなわけで俺、先生共にどこか互い違いな場所を見ながら「おはようございます」の挨拶を交わしたのだった。
「それに、お母さんたちがわらわら集まってる幼稚園の前で『昨夜のあれは誤解なんです』なんて言ってみろ、明日には俺が君と先生を孕ませたことになってる」
 噂とはそういうものだ。尾ひれなんて簡単に付く。気が付けば足はキャタピラ右手はドリルだし。
 頭の中で妙な噂ロボを想像しつつ俺は小さく息を吐いた。結局沙耶の周辺で起きている『妙なこと』の話も聞けなかったし、要するに物事は何一つ進展していないわけだ。というか激しく後退しているような気さえする。
 ひょっとして俺はダメ社員というやつなのだろうか。そのうち社長に肩叩かれたたりして、定年まで会社資料の整理とかやらされるに違いない。当然給料は激下がり。優奈と優希に「どうしてこのお味噌汁具がないの?」とか言われたり。
 いかん。いかんぞ。断じてそれはいかん。せめて食費くらい稼がないで何が保護者だ。
「というわけで妹と弟と俺のささやかな幸せのために少しだけ素直になってみないか?」
「本気で意味が分からないのですが」
 半眼で俺を見上げる沙耶。
 うーん、やっぱりダメか。
 心中でため息をついていると沙耶と同じ制服を着た学生たちの姿がちらほら目に入り始めた。俺は歩く速度を落とし、沙耶と距離をとる。肩越しに振り向いた沙耶に向かって俺は笑って見せた。
「良家のお嬢様が男と一緒に登校するのはさすがにまずかろ?」
 沙耶は一瞬面食らったように目を大きくしたがすぐにあのツンとした表情を取り戻し、
「そうですね。碌でもない誤解はもう十分ですから」
 長い髪を揺らしながら歩いていってしまった。やれやれ、と青空を見上げて苦笑する。視界を横切って飛ぶ二羽の小鳥に向かって心中で「おはよう」を言い、俺は再び歩き出した。
 正門の前まで来ると、そこは意外と普通の雰囲気だった。生徒たちは友人を見つけるとそれぞれに「おはよー」とか「ういす」とか言いながら正門をくぐり抜けていく。俺たちの出社風景と大差ない。良家の子息令嬢が通う私立高校。もっとこう「ごきげんよう」的世界が広がっているのかと思っていたが、そうでもないらしい。もっとも、その子息令嬢を預かる校舎だけは十分に「ごきげんよう」なのだが。
 私立清進高等学校。
 正門の支柱に貼り付けられた青銅板には仰々しくそう彫られていた。正門から続く石畳は良く整備された前庭を真っ直ぐに伸び、その終点に多分英国のパブリックスクールをモデルにしたであろう校舎が建っている。赤レンガの壁に灰色の屋根。直線を多用した建築様式は俺がイングランドにいた十代の頃によく目にしたルネッサンス様式とかいうやつだろう。いわゆる英国貴族のお屋敷がよくこんな形をしている。
 まぁ、一言で言うならば「金かかってそう」に集約されるわけではあるが。すごいんだろうな、寄付金とか。あの窓枠一つでラーメンが何杯食べられるんだろう。
 だいたい、日本の上流階級の子息令嬢が集う学び舎なんだから寺子屋でも模せばいいのに。日本の新しい時代を切り開いた幕末維新の志士たちだって、元はといえば松下村塾という小さな私塾から巣立ち……なんて歴史ロマン夢街道を歩いている場合ではなかった。仕事だ、仕事。
 もっとも、このパートはあんまり気乗りしないんだけど。
 俺はスーツの胸ポケットから一枚のカードを取り出し、ため息をついた。何のことは身ない。この学校に入るための通行証である。そこに書いてある自分の身分を確認し、俺は改めて大きなため息をついた。
 護衛対象者に付きっ切りなのがボディガードの仕事とはいえこれはなぁ。そもそもこれはシャロンがやるはずだったパートだし。ったく、何がストライキだ。ドーバーを泳ぎ、ユーラシア大陸を自転車で走破し、残りは走って鉄人的にでも帰って来いってんだ。飛行機なんぞ根性で凌駕しやがれ。
 ……と、まぁ、この場にいない人間の文句を言っても仕方がない。一秒でも早くシャロンが帰ってくること願うのみだ。それまでやれるだけのことはやるとしますか。


「と、いうわけで短い間ですが今日から皆さんと一緒に学ぶことになる宮下明人です。よろしくお願いします」
 教壇の上、自己紹介しながら黒板に書いた名前(偽名だ、当然)に「みやしたあきと」と白チョークで振り仮名を振る俺。後ろの方の席でなにやら、がたんっ、という派手な音がしたが今は気にしないことにしよう。
 そう、俺の通行証に書かれている身分とは『教育実習生』なのである。本来ならシャロンが臨時の英語教師として赴任するはずだったのだが仕方がない。突然の状況変更だが、そこは社長──朝倉醍醐のラインでねじ込んだのだろう。
 俺が受け持つクラスは2−C組。ざっと視線を飛ばしてみたが特に問題が……というか仕事の障害になるような生徒はいなさそうだった。みんな行儀よく席に着いてこちらを見つめている。
 というか俺が一番落ち着きがなかったかもしれない。十八歳まで海外にいた俺は日本の高校には通えなかったわけで、色々と興味深かったのだ。そんなわけで「これが日本的青春発露の場か」とあちこち観察していると「宮下先生……」と担当教員の少し困ったような声が聞こえた。
 頭に白いものが混じり始めた男性教員は見るからに穏やかで、いい人そうだった。眼鏡の奥の細い目には若輩者を見守る暖かさがある。担当教科は国語。もの凄くそれっぽい。
「えー、宮下先生は親御さんの仕事の都合で十八歳まで海外で育ったそうです。興味がある人はその辺のことも先生と話をしてみるといいと思います」
 そこで先生は言葉を切ると、ふと思いついたような顔をした。
「せっかくですから何か一つ話でも。海外生活での経験とか」
 そう言って先生は微笑むが俺は「え……」と声を漏らしたまま固まってしまった。海外生活での経験。恐らく先生にしてみれば俺の「無難な」話の後質問タイムに流れ込んだりして、先生彼女はいるんですかー? とかいうぬるい質問に、いやぁ、ノーコメントでとかこれまた翌朝洗濯に使おうと取っておいた風呂のお湯くらいぬるい答えを返したりするという展開を期待しているのだろうが、大勢の前で話をするという緊張のせいか残念ながらその「無難な」話が沸いて出てこないのだ。
 何だ。何を話せばいい。何かそれなりに面白くて高校生に話しても大丈夫で硝煙の匂いとか弾丸とかライフルとか手榴弾とか対戦車ミサイルとか出てこない話はないのか。
「宮下先生?」
 先生の呼びかけに応えて小さく喉を鳴らす。一度大きく息を吸い込んだ俺は間をたっぷりとってから声を発した。
「チベットという国に鳥葬という風習がありまして……」
 ──十分後。
 どん引きした生徒の前で先生に肩を叩かれる俺。先生は俺の顔を見ながら小さく二度うなずくと「海外ではこのような個性を大切にするということなのだね」とフォローになってるのかなってないのかさっぱり分からない一言で俺の話を締めた。
「では宮下先生、うちのクラス委員を紹介しておきます。朝倉沙耶君」
「はい」
 聞きなれた声で返事をして先ほどの騒音の主が立ち上がる。沙耶の席は一番後ろの一番端だった。初対面を装って愛想笑いなどしてみたが当然のように無視される。加えて俺を見る沙耶の目。今までの行いのせいか今のトークのせいかとてつもなく冷たい。なぜか道の真ん中に片っぽだけ落ちている軍手に人々が向ける視線の方がよほど暖かいだろう。
「何かクラス内の事で分からない事があれば彼女に聞いて下さい。彼女は優秀な委員長です」
 先生からの信頼は絶大ってわけか。もっとも、先生の台詞に応えるように数名の生徒の表情が揺らいだのが少々気になるが……ま、おいおいな。
「よろしく。朝倉さん」
「こちらこそ」
 ぶっきらぼうに言って沙耶はさっさと席に着いてしまう。俺と目を合わせるのも嫌なのか彼女は睨むような視線を窓の外に向け、唇を引き結んだ。分かっていたこととはいえ、やっぱりここでも苦労しそうだ。
 苦笑いしつつ人差し指で頬を掻き、俺は教卓の上に出席簿を広げた。
「じゃ、出席取りますね」
 教育実習生活一日目、はてさてどうなることやら。

ホームへ   前ページへ   小説の目次へ   次ページへ