妹と弟とシグ・ザウエルP226 2nd
─拳をどうぞ、お嬢さま─

ライン

その2

 夕刻。
 朝倉邸から俺の家に帰るまでの車中、沙耶は結局一度も口をきいてくれなかった。「皆様、右手にご覧になれますのが、生命線、頭脳線、運命線でございます」というバスガイドさんに一子相伝で継承されている伝説のネタもやってみたがあっさり無視されてしまった。俺が目にすることができたのは沙耶の横顔だけだ。ルームミラー越しに目を合わせるのも嫌なのか、彼女はずっと窓の外を睨んでいた。俺たちが通った後には点々と鳥が落ちてるんじゃなかろうかと思ってしまうほどのきつい目付きで。
 まぁ、とにかく、気の抜けたボディガードと日本一のお嬢様はめでたく「俺んち」の前に立ったわけだ。
「じゃ、どうぞ」
 ドアを引き、沙耶を我が家に招待する。沙耶はしばらく無言の抗議でもするように唇を引き結んで立っていたが、やがて観念したのか一歩玄関から中に足を踏み入れた。その瞬間、リビングへと続く扉が結構な勢いで開き、二つの小さな足音が廊下を駆けてくる。荷物を降ろして膝を折った俺は口元を緩めてその小さな足音の主、優菜と優希を抱きしめた。
「おかえり、お兄ちゃん」
「おかえりー」
「はい、ただいま」
 幸せという言葉の意味をしみじみと考えながら二人の頭を撫でてやる。今目を閉じればこの姿勢のまま眠れる自信が俺にはある。つまりは、それだけ安らいでいると、そういうことだ。俺の頭に電極でも刺してα波を計測してみるといい。測定器がえらいことになるから。
 そんなわけで日なたに置いたチョコレートみたいな顔で優奈と優希の頭を撫で回していると、頭上から小さな咳払いが聞こえた。あぁ、と思い出して立ち上がる。そういえば今日はお客さんがいるんだった。
「聞いて驚け。今日は日本一のお嬢様をお連れした」
「おおー」
 見事にハモる優奈と優希の声。期待に満ちた四つの瞳に見上げられた沙耶は少々戸惑い気味ではあるが。
「彼女のお父さんが一言言うだけで日本が動くんだからな。すごいだろ」
「すごーい」
 と素直な感想を漏らしたのは優奈。が、優希はちょっと違った。沙耶の顔をまじまじと見つめ、大真面目な顔で言う。
「お姉ちゃん、ぼくハワイの近くがいい」
「優希、日本が動くってのはそういう意味じゃなくてだな」
 人差し指で頬を掻きつつ言う俺の視界の端で沙耶が微笑する。が、こちらの視線に気付くとすぐさまその顔は元の仏頂面に戻ってしまった。どうにも沙耶は優秀な建築家らしい。俺との間に建てられたこの鉄筋入りの心の壁を崩すのにはどうしたらいいのだろうか。
 思うに、バンカーバスター(地下シェルターを破壊するための地中貫通誘導弾)的な何かでもあればいいのだろうが、そんなものそうそう都合よくあるわけもなく、ていうか、そんなもん壁貫通した後に爆発するんだからこの例えで言えば沙耶の心を完膚なきまでに破壊してしまうわけで、それじゃ意味ない上にどっかの安全保障理事会から非難決議とか出されそうだし、要するに俺はどうすればいいわけだ?
 なんて事を考えながら眉間に皺を寄せていたら本日二度目の沙耶の咳払いが聞こえた。慌てて意識を現実に引き戻す。
「まー、その、今更のようだけど弟の優希と妹の優菜」
 それからチビ二人に視線を移し、
「朝倉沙耶さん。今日からしばらくウチに泊るから仲良くな」
「はーい」
 とこれまた見事に声をハモらせて手をあげる二人。うんうん、素直に育ってくれて兄は実に嬉しいぞ。
 と、保護者の喜びに浸っていた俺はふと気がついた。人間が一人足りない。アイルランド生まれのトリガーハッピーパラダイス、お得な年間パスもございます、ことシャロン・オブライエンはどこへ行った。
 彼女は俺の仕事上のパートナーで、昼間朝倉醍醐に説明した女性スタッフとはシャロンの事を指す。この時間にウチで落ち合う手はずになっているのだが近所のコンビニにでも行ってるのだろうか。最近やたらコーラ飲みながら酢こんぶ食べるのにはまってるみたいだし。まぁ、ほっときゃそのうち現れるだろう。
「あ、そうだ」
 不意に優菜が何かを思い出したように言う。
「シャロンお姉ちゃんから電話あったよ」
「どうした、とうとう酢こんぶの神様に会えたのか?」
「うんん、ストライプなんだって」
 首を横に振ってこちらを見上げる優菜のセリフに俺は頭上に巨大な疑問符を浮かべてしまった。考えられる可能性としては酢こんぶの神様にどうしても会いたかったシャロンが白い粉的な何かに頼った挙句、テレビの放送が終わったときに出る縞模様みたいなやつを見てしまった、くらいなのだが。
「違うよ優菜。シャロンお姉ちゃんはストライクだって言ってたよ」
 今度は優希がそんなことを言う。考えられる可能性としては酢こんぶの神様にどうしても会いたかったシャロンが酢こんぶの神様の手下その1に野球で勝負を挑み、見事三振に切って取った、くらいなのだが。何か意味もなく魔球とか投げそうだし、あいつ。
 まぁ、結局のところ何が何だか分からないわけだけど。
 俺はこちらを見上げる優菜と優希の顔を見ながら小さく息を吐いた。そのうち二人に正しい電話番の作法を教えることにしよう。
 と、扉の影から一人の女性が現れる。彼女はエプロンで手を拭きながら廊下を歩いてくると俺に向かって優しく微笑んだ。
「お帰りなさい、お兄さん」
 あぁ、生きてるって素晴らしいなこんちくしょう。
 彼女の名は皆川はるか。優希と優菜が通う幼稚園の先生である。長い黒髪と優しい顔立ちが印象的な素敵な女性だ。文学的に表現するなら「桜と春風の香りがする女性」 俺のハートに忠実に表現するなら「膝枕して欲しい女性」「頭をなでなでして欲しい女性」「その胸に顔をうずめて泥のように眠ってみたい女性」ということになる。
「シャロンさん、空港がストに入ったせいで今日は戻ってこれないそうです」
 そういやあいつ、イギリスの本社に顔出してるんだっけ。しかしそういうことか。やっとストライプとストライクの意味が分かった。
「で、あの、先生はなぜここに」
「晩ご飯作りすぎちゃったからおすそ分けを、と思って。そしたら偶然お兄さんの会社の人と優希くんと優菜ちゃんが」
 で、我が社の優秀なる託児所のスタッフは一般人の先生に二人を任せて帰ってしまったというわけか。いや、ウチは対戦車ロケット撃ち込まれても何とかなるようにはできてるけどそれにしたってなぁ。俺の宝物に傷でも付いたらどうしてくれるのだ、ったく。
「ご迷惑でした?」
 眉間に皺を刻んでいると不安そうな先生の声がした。いやいやいやいやいやいやいやいやと頭を振って笑顔を先生に向ける。迷惑なんてとんでもない。俺の両親が行方不明であることを知っている先生は何かとウチを気に掛けてくれていて、こんな風に世話を焼いてくれていた。
 まぁ、ある事件を通して俺の仕事を見せてしまったせいでもあるんだろうけど。両親はいない。たった一人の兄の時間は不規則。先生なりに優菜と優希を不憫に思っているようだった。
「助かります」
「よかった」
 先生が胸に手を置いて嬉しそうに微笑む。その笑顔はたまらなく穏やかで可愛かった。スーツの下で汗をかき、なぜか咳払いしてしまう。先生は俺からそのままの笑顔を沙耶に移し「こんばんは」と頭を下げた。
 沙耶も戸惑いながら先生に会釈を返す。それから沙耶は俺の腕を肘でつついた。
「この人がもう一人の女性スタッフなのですか?」
 囁くように言う沙耶に俺も小声で返す。
「まさか。見ての通り普通の人さ」
 ふうん、と何やら意味ありげな表情で沙耶が俺を見つめる。
「それが食事を作りに来てくれるわけですか」
「何が言いたいんだよ」
「別に」
 沙耶はいつものツンとした顔で言うと靴を脱いだ。
「ではしばらくの間お世話になりますね」
 そう言って俺以外の三人に笑顔を向ける沙耶の姿からは確かに余裕と気品を感じる。お嬢様願望のある優菜なんてちょっと尊敬の眼差しだし。俺だってなかなかあんな目で見られたことないぞ。
 まぁ、もっとも、
「荷物を置きたいのですが。部屋はどこです」
 振り向いた沙耶がこちらに向けた声と表情は召使いどころか、奴隷その1に対するものだったわけだが。
 やれやれ。ほんとに手強いわ、こりゃ。


 夕食後、優菜と優希の相手を先生に任せた俺は客間の前にいた。まぁ、沙耶をここに置いているのも仕事なわけで、事情聴取くらいはせねばなるまい。ただ夕食の間も俺だけに一切笑顔を見せなかった沙耶の様子を思い返すに、そう簡単には話してもらえないだろうけど。優菜の質問には嬉しそうに答えてたんだけどなぁ。
 うーん。
 ふと思いつく。
 俺は一度大きく深呼吸してから客間のドアを叩いた。
「わたし優菜。お姉ちゃんお話しましょ」
 沈黙。
「バカは嫌いです」
 ……ひでぇ。
 ドアの向こうから返ってきた声にちょっと本気でへこむ俺。しかしこのまま自室に戻ってポエムを書いてから手首を切るわけにもいかない。一応給料もらってるし。社会人は辛いのである。
 気を取り直すべく一つ咳払いした俺は「入るぞ」と前置きしてからドアノブをひねった。
「何の用です」
 ベッドに腰掛けている沙耶が手にした文庫本から顔も上げずに言う。その声は相変わらず刺々しい。会話のきっかけでもつかもうと本のタイトルを盗み見してみたがカフカの『変身』ではどうにもならない。「青虫食ったことある?」と聞いてみたところで文庫本が飛んでくるだけだろう。
「だから何の用なのですか!」
 そんなわけで腕組みしつつ考えていると沙耶の声が大きくなった。
「用が無きゃ来ちゃいけないのか?」
「当たり前です!」
「じゃあ……君に会いたかった」
 眉を吊り上げた沙耶を見つめながら言う。
「君の声が聞きたかった」
 俺は微笑し、沙耶の口がわずかに開く。沙耶は俺から視線を外すと頬を紅潮させ……るわけもなく結果としてやっぱり文庫本は飛んできた。強烈な縦回転を伴って。
 それを白刃取りの要領ではっしと受け止める。あぶねーな、おい。
「本は大事に扱えってお婆ちゃんに言われなかったか?」
「不審人物には容赦するなとも言われましたので」
「……それはまた武闘派なお婆さまで」
 本を机の上に置き、椅子に腰掛ける。苛立ちを含んだ沙耶の視線を受け流しつつ俺は頬杖をついた。
「で、実際のところどうなんだ」
「ですから、私には護衛など必要ないと言ったはずです」
「でも君の父親はそうは思ってない」
「過保護なだけです」
 過保護、ねぇ。心中で漏らした俺は沙耶に向かって口元を軽く持ち上げて見せた。
「じゃあ何でそんな物肌身離さず持ってるんだ?」
 沙耶の表情が固まる。が、それも一瞬のことすぐに彼女は元の顔を取り戻した……つもりだろうがこちとら一応プロである。確信に至るには十分な一瞬だ。
「何のことです」
 平静を装う沙耶の顔を見ながら立ち上がる。身を護るように自分の体を抱く沙耶。どう見ても女子高生を襲おうとしてるど変態が一匹の図だが仕方がない。これも仕事だ。
 ……仕事だってば。
 俺は一歩踏み出すと沙耶が放った平手打ちをひょいとかいくぐった。そのまま彼女の背後に回りこみ、懐に手を入れる。どう見ても後ろから女子高生の胸を揉んでるクサレが一匹の図だが仕方がない。これも仕事だ。
 ……ほんとに仕事だってば。
 歯軋り、と同時に打ち出された沙耶の裏拳を身を逸らしてかわし、俺は元の位置に戻った。俺の手の中には何の変哲もない小さな果物ナイフが一振り。
 屋敷で初めて会ったときから沙耶が懐に刃物を忍ばせていることは分かっていた。しかし出てきてもナイフか古風に短刀かだと思っていたのだがどうにも違ったらしい。なぜ果物ナイフなのだろうか。
 鞘、というほど大したものでもない、ケースからナイフを抜いて眺めてみる。どう見てもただの果物ナイフだ。おびただしい量の生き血を吸うが如くリンゴの果汁を啜ってきた業物、とでも形容すれば少しくらいそれっぽく思え……ないな、やっぱり。
 まぁしかしこれで沙耶に証拠を突きつけることができたわけだ。
「で、何で? っと、家庭科の授業で使ったとか刃物を集めるのが趣味とか実はもう三人殺ってきたとか、そういう言い訳はなしだからな」
「返しなさい!」
 俺の小ボケにツッコミもせず(なんて冷たいんだ)沙耶が掴みかかってくる。
「だから訳を教えてくれたら返すって」
 伸びてくる沙耶の手を避けながら言う。が、どうにも沙耶は聞く耳をもってくれない。歯軋りが聞こえてきそうなほどの表情で俺に突っかかってくる。もっとも、俺にしてもこの無益なダンスを長く続ける気はなかった。そんなわけでタイミングを計って沙耶の肩を軽く押す。合気、というほどのものではないが、力の流れを変えられた沙耶は背中からベッドに倒れこんだ。
 が、予想外だったことが一つある。それは沙耶に少しばかりの根性が残っていたこと。結果、ネクタイをつかまれた俺は沙耶に覆いかぶさるようにしてベッドに飛び込んでしまった。
 そして、もう一つ予想外だったことがある。
「お兄さん、私、そろそろ帰ります……ね……」
 神様は俺のことが大嫌いだということだ。
 仲良くベッドに倒れこんだ俺と沙耶の姿を見つつ、ドアを開けたままの姿勢で固まる先生。背中を伝う嫌な汗、一筋。
「いや、あの、違っ」
「ごめんなさいっ!」
 叩きつけるような勢いでドアを閉じ、先生が廊下を駆けていく。その足音を聞きながら俺はなぜ春の空はどこまでも青く、そして少しだけ寂しいのかを考えることにした。
 もっとも、
「いつまで乗っているつもりですか!」
 そんな俺の哲学的思索も沙耶の放ったボディブローによって二秒で中断させられたわけだが。
 俺は無言でベッドを降り、三歩歩いた。そして部屋の隅でわき腹を押さえてうずくまる。
 地味に痛てぇ……。
「天罰です」
「どう考えたって人災だろ」
 なぜか得意げに言う沙耶に向かってうめく。
 絶対誤解されたよな。しかもあんた仕事と言いつつ女を連れ込みそれに手を出すという最悪の状況。恐らく先生の中で俺の株は大暴落したことだろう。
 明日どんな顔して会えばいいのだ。頼む、誰か教えてくれ! 一万五千円くらいまでの壷なら頑張って買うから! 印鑑なら五……三千円まで出す!
 なんて事を考えつつかりかりと床を引っかいていたら頭上から大きなため息が聞こえた。
「あなた、本当に優秀なボディガードなのですか?」
「すまん。今はちょっと自信、ない」
 その後、部屋に訪れた沈黙はそれはそれは長かったという。

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