妹と弟とシグ・ザウエルP226
 

 1

 カーテンを開ける。
 さし込む朝日に目の前が真っ白になった。今日もいい天気だ。
 先程干し終えた洗濯物のことを思いながら俺は頬を緩めた。
「優奈、優希、朝だぞ」
 傍らの二段ベッドに向かって呼びかける。
 上と下、ほとんど同時に布団の下の小さなふくらみが、もそもそと動き出した。
 ベランダからはスズメの合唱、リビングからは女性アナウンサーの声がする。
 桜の名所をリポートしているようだ。そろそろ春本番ってところか。
「おはよ、お兄ちゃん」
「はい、おはよう」
 先に布団の下から顔を出したのは上に寝ていた妹の優奈だった。
 目をこすった優奈は少しわざとらしく大きな伸びをする。
 最近テレビのコマーシャルを見てこの仕草を覚えたらしいのだが、優奈は拳をまっすぐ突き上げてしまうため、実はあまり様になってなかったりする。
 それでも気分はテレビの中の金髪美人女優。だから、
「お手をどうぞ。お嬢様」
 そう言ってベッドから降ろしてやると優奈の機嫌はすこぶる良くなる。
 で、朝の支度も実にてきぱきとしてくれるのだ。
 笑顔で抱きついてきた優奈を上のベッドから降ろした俺は、弟の優希が寝ている下のベッドを覗き込んだ。
 こちらは朝がめっぽう弱い。もう、もぞもぞとすら動いてもいなかった。
 すでに洗面所に行ってしまった優奈とは大違いだ。
 双子だからって似るわけでもないんだなぁと、毎朝のように思ってしまう。
 まぁ二卵性だし当然と言えば当然か。
「優希、起きないと遅れるぞ」
 布団を引き剥がすとその下から胎児のように体を丸めた優希が出てくる。
「おーい、朝だぞぉ」
 柔らかいほっぺたを二回引っ張ると、優希がうっすらと目を開けた。
 そのままのそっと上半身を起こすと無言でベッドから降り、部屋の入り口までよてよてと歩いていく。
 そして、ごすっと入り口脇の壁に頭をぶつけて慌てて辺りを見回すのだ。
 まぁこれもいつものことだった。
「あ。おはよ、お兄ちゃん」
「はい、おはよ。ほら、はみがきはみがき」
 いたの? という顔で俺を見上げる優希の背中を押して洗面所に向かわせる。
 これで一安心、というわけでもない。
 歯ブラシくわえたまま寝てることがあるからな、優希は。
 さてさて。
 俺は台所に戻って朝食の準備を再開する。メニューはさっき射撃場から家に続く階段を上がりながら考えた。
 御飯に味噌汁、卵焼きと昨日の残りの肉じゃがとそんなところだ。ウチは基本的に朝は和食である。
 朝からパンみたいなスカスカしたものじゃ力が出ないだろう、という偏見と、白米食え白米を、日本人だろ? というちょっとしたナショナリズムの成せるわざだ。
 朝食の準備ができるころ、身支度を終えた優奈が台所にやってくる。
 最近の幼稚園の制服は実に凝っていて、そこらの私立高校なんて目じゃないくらい可愛い。
 胸元の大きな赤いリボンが目を惹くこの制服はどこぞの有名デザイナーの作だ。
 上下紺一色だった俺の制服なんて見せたら優奈は凄い顔するだろうな。優希はぽーっとしたまま普通に着ちゃいそうだけど。
 テレビに目をやると外務省の役人がたくさんのマイクを突きつけられていた。
 難しい言葉をこねくり回してはいるが、結局のところ「私は悪くない」の一言で済みそうな受け答えだ。
 その役人の前を鞄を手にした優希が横切る。
 男の子の制服にはリボンの代わりにネクタイがついているのだが、優希の場合これがまっすぐついていた例がない。
 普通のネクタイと違って既にしばってあるものを襟にくっつけるだけ。
 それでも優希のネクタイは毎朝ねじれていた。
 優希のネクタイを直したところで三人揃って頂きます、である。
 だがあまり悠長に食事を楽しんでいる暇はない。朝というのは世界中何処へ行っても忙しいのだ。
 とにかく喉に詰まらせない程度に急いで朝食を終え、すぐさま後片付けにかかる。
 その間優奈と優希は朝の子供向け番組を実に嬉しそうに見るのだ。
 今日は余裕ができたので、片付けの後にお茶を一杯飲みながら五分だけその子供向け番組を見ることができた。愛嬌はあるが何類に分類すればいいのかわからない緑色の生き物が女の子と野道を歩いていた。
 時計を見ればきっかり八時十五分。
 手元のリモコンでテレビを消した俺はスーツの袖に手を通して号令をかける。
「整列!」
 空飛ぶ円盤型の帽子をかぶり、鞄を肩からかけた優奈と優希が俺の前に並んだ。
「ハンカチ、ちり紙、お弁当。忘れ物は?」
「ありませーん」
 二人揃って手を挙げる。ただし優奈は右手、優希は左手だ。
「それじゃ、お父さんとお母さんに挨拶」
「いってきまーす」
 小さな棚の上、写真の中では一組の夫婦が微笑んでいる。彼らは優奈と優希の両親であり、また俺の両親でもあった。
 ……当たり前か。優奈と優希は血の繋がった実の妹と弟なんだから。
 俺は心中で「行ってくるわ」と挨拶し、戸締りと火の元をチェックする。
 片手に鞄、片手に黒のゴミ袋を持って玄関へ。優奈と優希に続いて家を出る。
 両手のふさがった俺の代わりに優希が鍵をかけてくれた。ドアノブを引いてそれを確かめるのは優奈の役目だ。
 優希がポケットに鍵を返してくれたところで幼稚園に向かって歩き出す。
 まだ少しばかり肌寒かったが空気は清々しく、楽しくなるような陽気だった。
 俺たちが住んでいるのは郊外の住宅地。その中心にある幼稚園までは歩いて十分ほどだ。
 俺が優奈と優希を幼稚園へ送るようになって一年と少し。
 今では道中で出会うお母さん方とも自然に挨拶を交わせる。
 その知らせは本当に突然だった。
 今でもはっきりと思い出せる。
 その日、その時俺は西日の差すリビングで優奈と優希とぬいぐるみに囲まれていた。
 電話が鳴る。
 手にした受話器から聞こえてきたのは、両親が出張先で行方不明になったことを告げる社長さんの声だった。
 ちょっとしたトラブルだろ。いつものことさ。そんな風に思っていた。
 だが一ヶ月たっても二ヶ月たっても二人は帰ってこなかった。
 そのころ優奈と優希は一歳になったばかり。当然のことながら俺に子育ての経験なんてない。
 この歳の子供に何を食べさせたらいいのかすら分からなかった。
 でも、俺が途方に暮れていたところで両親が帰ってくるわけでもないし、優奈と優希が成長するわけでもない。
 いま二人には頼れる人間は俺しかいない。両親が帰るまで兄としてできる限りの事はしよう、と思った。
 優奈と優希が生れたのは俺が二十歳の時だ。
 母親の高齢出産(しかも双子)に不安はあったが、それ以上に妹と弟ができることが嬉しくて仕方がなかった。
 両親に向かって「節操ないなぁ」と言いつつ、顔はいつもにやけていた。
 そして無事出産。新生児室の前、ガラス越しに小さな二人を見ていたら泣きそうになった。
 守ってやらなきゃ。両親を差し置いてそんな使命感を燃やした。
 だから両親が行方不明になった時もすぐに、俺が優奈と優希を育てるんだ、と決断できた。
 それと同時に俺は両親を探すため、それまで勤めていた保険会社を辞めて両親と同じ業界に身を投じた。
 同じ業界なら情報も集まりやすいんじゃないかと思ったのが一つと、保険会社とは比べ物にならいほど報酬が良かったのが一つ。
 こんな状況だ。お金は無いよりは有った方がいい。
「そんな非合法な仕事、嫌だからな」と俺を同じ業界に誘う親父に向かって声を荒上げたのが懐かしい。
 もっとも、親父は「非合法なのではない。超法規的なのだ」って言ってたけど。
 やがて時は流れて近くの幼稚園に入園した優奈と優希は四歳になり、さらに一年後、この春からは年中組になった。
 幼稚園まで来るとちょうど通園ラッシュだった。
 お母さんに手を引かれたり、自転車の後ろに乗せられた子供たちが続々と集まってくる。
 入り口で元気よく先生にあいさつして中に入っていく子もいれば、お母さんにしがみついて泣きベソをかいている子もいた。
 子供を送り届けたお母さんたちが三人、四人と集まってお喋りに興じる姿も見られる。
 辺りは活気に溢れていた。魚市場とだっていい勝負しそうだ。
 そんな中にあって俺はとにかく目立っていた。
 スーツにネクタイの男なんて俺しかいない。面白いくらいに仲間外れなのだ。
 最初のうちはこちらに向けられる好奇の目に肩身の狭い思いをしたものだが、もういい加減俺も周りも慣れてしまって、今ではどうということもない。
 ごく稀に俺の両親が行方不明であることを知った人に憐れみじみた目を向けられることがあるが、これも慣れてしまった。というか一々気にしてたらきりがない。
 最近では「大変ねぇ、まだ若いのに」と言われたら「そーなんすよ。まだ若いのに」と笑顔で返せるようになった。
 まぁ、このご時世俺より若いお父さんお母さんなんて別に珍しくもないんだけど。
 それに俺なんかに比べたら優奈と優希の方がよっぽど大変だ。一番親が恋しい時期だろうに。
 普段口に出すことはないが、寂しい思いをしているに違いない。
 それを思えば俺の苦労なんて問題にすらならなかった。
「おはようございます」
 担任の先生と目が合った俺は頭を下げ、二人の背中を押す。
「先生おはよ」
「おはよー」
「はい。優奈ちゃん、優希くん、おはようございます」
 ちょうど今時分の日差しに似た優しい笑みを浮べて先生は丁寧に頭を下げた。
 それから俺のほうに向き直り、そのままの笑顔で「おはようございます」と挨拶する。
 俺も反射的に顔を緩めてしまった。本当に清々しい。挨拶の教科書に載せたいくらいだ。
 優奈と優希の先生はまだキャリア一年の新米先生だった。
 去年優奈と優希がいた年少組が短大を出て初めて受け持ったクラスで、今年は年少組から年中組にそのまま繰り上がったというわけ。
 まだ少し危なっかしいけど一生懸命やっている、という事で母親たちからの評判は決して悪くない。
 と同時に父親たちからの評判も悪くなかった。
 日本人女性らしい長く艶やかな黒髪。まだあどけなさが残るものの優しい顔立ち。そして素敵な笑顔。
 まっ、なんちゅーか、非常にかわいいんだわ、これが。加えて彼女の「保母さん」(俺は「保育士」という名称は嫌いだ。人間味がしないから)という属性とエプロンが男の奥底に眠る幼児性を刺激するのだ。
 分かりやすく言えば「甘えてみたくなる」ってところか。
 ちなみに俺は甘えてみたいなんて考えた事は……ちょっとだけある。
 わははは。
 んな事はともかく。
「今日は迎えを託児所の方に頼んでありますから」
「お仕事、ですか?」
「ええ」
 優奈と優希を見ながら首筋を掻く。
 俺は一つ息を吐いて膝を折った。
「二人とも先生の言う事を聞いて、いい子にしてろよ」
 そう言って優奈の右手と優希の左手を握る。寂しそうな二人の顔を見ていると胸が痛んだ。
「お兄ちゃん」
「あしたは」
 同じような心配顔で優希と優奈に言われた俺は笑顔で肯いた。
「忘れやしないさ。二人の誕生日だ」
 俺の台詞に優奈と優希が顔を見合わせて笑う。そんな二人の頭をぽんっと叩いて俺は立ち上がった。
「それじゃ先生、よろしくお願いします」
「お兄さん」 
 頭を下げて立ち去ろうとした俺を先生が呼び止める。
 先生は一瞬迷うようにうつむき、視線を泳がせて、なぜかうわずった声で言った。
「その、何かあったらいつでも言って下さい。私でよければお手伝いしますから。色々大変でしょうけど、あの、頑張って、下さい」
 再びうつむいてしまう先生。優奈と優希も不思議そうな顔で先生を見上げている。
 何をそんなに焦っているのかイマイチ分からないが、申し出自体はありがたいものだった。
「ええ。困った時は頼らせてもらいます」
 そう言って俺は校門に背を向けた。
 いってらっしゃい、という優奈と優希の声に一度振り向いて手を振る。
 先生は手を前で重ねて微笑んでいて、やっぱりそれはとてもいいものだった。
 さっ、お仕事お仕事。今日も一日頑張りますか。
 と、鞄の取っ手を握る手に力を込めた俺の背中をクラクションの音が二度叩く。
 聞きなれた電気ラッパの音に振り向くと、そこには案の定赤のRX-7(FD3S)がいた。
 フロントガラス越しに手を振る女性、シャロンに軽く手を挙げて助手席側に回りこむ。
 しかしこんな所でクラクション鳴らすなよ。思いっきり注目されてるじゃないか。
 九センチの車高とギリギリで保安基準適合なマフラーが奏でる排気音で十分目立ってるってのに。
 俺は母親や園児たちの視線から逃げるように車に乗り込んだ。無言で相棒を睨んでみるも完全に無視。
 シャロンは何事も無かったかのようにギアを一速に入れるとクラッチを繋ぐ。
 結構なGと共に景色が後方に流れだした。
 排気音が高まり、電気モーターにも似たロータリー特有のエンジン音が車内に響く。
 ギアは二度のオーバーレブ警告ブザーを経て四速に入った。
 一度落ち着いてしまえばロータリーエンジンは静かなものだ。マフラーのせいで排気音はデカイけど。
「相変わらず優しいお兄ちゃんしてるじゃない」
「目に入れても痛くない、ってやつだよ。かわいくて仕方がない」
 窓の外から運転席のシャロンに視線を移す。
 住宅街を抜け、車通りの多い国道に入った。次第に建物の背が高くなっていく。
 シャロンは艶っぽい唇を緩めると、細く白い指でステアリングを撫でた。
 元々引き締まっている体が上下黒のスーツのせいで余計に細く見える。
 タイトな7のコックピットに収まるその姿は非常にサマになっていた。
 絵に描いたような大人の女性であるシャロンの横にいると、自分がとてつもないクソガキに思えてくる。
 一応同い年なんだけどな、これでも。
 シャロン・オブライエン。名前から分かる通り彼女は日本人ではない。
 日本語をほぼ完璧に使いこなし、祖父から貰ったアコーディオンとなぜか日本のスポーツカーをこよなく愛するアイルランド人だ。
「で、今回の仕事内容は?」
「やけにやる気ね。何かいいことでもあったの?」
 黄金色の前髪に触れながらシャロンが言う。
「やる気というか、今回は時間に限りがあるんでね。何が何でも明日の午後四時には幼稚園に行かなきゃならない。ケーキも作らなきゃいけないし。ウチのチビ二人、明日が誕生日なんだ」
「そう。それはおめでとう。でも帰ってからケーキ焼いたんじゃ間に合わないんじゃないかしら」
「大丈夫。スポンジは焼いてある」
「それは手際のいいことで」
 呆れ声が返ってきた。
「とりあえずの資料はグローブボックスにあるから」
 言われた通り正面のグローブボックスから二枚の書類を取り出す。業務内容、の欄に俺は片眉を上げた。
 シャロンは黙ってステアリングを握っている。
 乾いた唇を舐め、書類を一枚めくる。その瞬間、俺は添付されていた写真に瞬きできなくなった。
「冗談だろ」
 人さし指でこめかみを押さえ、わざとらしく首を振る。
 だが書類は間違いなく正式のものだ。
 普通の人には写真付きの履歴書にしか見えないが、俺やシャロンのような人間にとっては何をどうすればいいのかが一目でわかる書類。
 俺は書類の文面を脳内で変換しながら再び目で追う。
 業務内容、ターゲットの抹殺。手段は問わず。ただし事故を装うこと。
 ターゲットの情報。姓名、皆川はるか。性別、女。年齢、二十一。現在、私立青葉幼稚園に教諭として勤務。
 そこまで読んで視線を写真に移す。
 印象に残る長い黒髪。写真の中の彼女は笑ってこそいなかったが、間違いなく今会ったばかりの先生だ。
 優奈と優希に向けられた笑顔を思い出しながら、俺は書類をグローブボックスに戻した。
「どういう事だよ」
「そんなに怖い声出さないで。私にだって分からないんだから」
「なぜ彼女を殺らなきゃならない」
「だから分からないって言ってるじゃない。私だってあの先生がターゲットだって知った時には驚いたもの。でも」
 シャロンはそこで言葉を切ると俺を見やった。
「会社が依頼を受けたってことは、彼女に殺される理由があるってことよね」
 そうだ。それが信じられない。彼女が誰かに殺したいほど憎まれているとはどうしても考えられなかった。
 俺にとって先生は妹と弟の担任でしかないし、先生にとって俺は園児の保護者でしかない。
 関係は非常に薄かった。毎朝五分ほど顔を会わせているだけだ。
 が、その人がどういうタイプの人間かは感じる事ができる。
 完全に善人だとは言い切れないが、誰かに命を狙われるほど悪人ではないと思う。
 それともそれはただの錯覚で、あの笑顔の裏にドス黒いものが淀んでいるというんだろうか。
 優奈と優希のなつきようからして、芯から悪人だとはどうしても考えられなかった。
 優希なんて先生と結婚したいとすら言ってるのに。
 だが一方で会社が依頼を受けたという厳然たる事実が
「考えたってダメよ。社長に訊くのが一番早いと思うけど」
 シャロンの声が俺の思考をあっさり切り捨てる。
 確かに考えて分かるような問題じゃないし、それが一番合理的だ。
 俺は頭を掻いて再び街の景色に目をやる。
 オフィス街に入り銀行や出版社の高層ビルが視界を横切り始めた。
 増えた車線に見合った台数の車がひしめき、信号にあわせて前から順番に消えていくブレーキランプはユーモラスだ。その反面ちょっとした順番の狂いにイラついてしまう。
 会社まではあと十五分くらいだろう。俺は小さく息を吐いた。
 で、要するに会社が依頼を受けたってことはだな……思考再開。
 どうやら俺は合理的にはできてないらしい。

       ホームへ   前ページへ   小説の目次へ   次ページへ