君と俺と世界の繋がり

ライン

その7

 翌日、俺はフィオから預かったブレスレットを手に一人杉の木の根元に座り込んでいた。あの後結局俺も眠り込んでしまい目が覚めると完全に日は落ちていて、結果としてフィオは大風邪をひいてしまったわけだ。
 朝起きて、熱っぽいフィオの顔と見事なまでの鼻声を見聞きした瞬間「代わりに行くよ」という言葉は口から出ていた。実を言うと俺も少しばかり熱っぽいのだが、こっそり計ってみたら三十七度くらいだったし大丈夫だろう。風邪薬も飲んできたし。
 ちなみにフィオには薬を飲ませていない。異世界の住人であるフィオに対して食べ物はさておき、この世界の薬がどんな作用を及ぼすのか分からなかったからだ。俺たちにとっては薬でもフィオにとっては猛毒になる可能性がないとは言えない。
 だからとりあえず暖かくして寝ることとまめな水分補給を言いか聞かせた。そして食べられるようならきちんと食べること。というようなことを寝ているフィオに向かって言うと彼女は微笑んで「お母さんみたいですね」と漏らした。
 何と返したらいいのか分からなかった俺は「とにかく安静に」とだけ言い残して文庫本片手にアパートを出てきた。
 冬の冷気の中、白く曇った溜息をついて俺は手元の文庫本に視線を落とした。目は文章を追うが頭の中では全く別の言葉が紡ぎ出されていく。
 フィオと別れなければならない。フィオと別れたくない。
 本を閉じ、枯葉の上に投げるように置いた俺はコートの袖をつかんだ。
 高校を卒業するとき、少しだけこんな気持ちになったことがある。仲のよかった友人たちとの別れ。ただあの時は同じくらいの希望もあった。それぞれが新しい道に向かって歩き出すんだという希望が。
 だが今回は違う。長い人生の中でほんの一瞬交わった線がまた離れていくだけのこと。何事もなければただの日常の一ページで終わるはずだった。なのに。
 唇を噛み、抱え込んだ膝に額をつける。分かっている。絶対に引き止めちゃいけない。フィオにはフィオの生きる世界がある。俺がフィオと一緒に過ごしたい日常はフィオにとっての非日常だ。
 でも、それでも……、
「兄ちゃん」
 不意に頭上から呼びかけられ思考が中断する。頭を上げれば数人の作業服を着た男たちが俺を見下ろしていた。
「あ……」
 絡まれたのかと思って一瞬身構えた俺に向かってまとめ役っぽい中年男性がいやいやと手を振る。
「悪いけど仕事するから少しどいてくれるか」
 見れば確かに仕事師たちのようで、それぞれがボードやメジャーを手にしている。カーキ色の作業服の胸には青い糸で「畑野林業」と刺繍がしてあった。
 俺は文庫本を拾い上げ、手を払って杉の木から離れた。
「悪ぃな。十五分くらいで終わるから」
 詫びる中年男性に向かって会釈した俺は適当な木に背を預け、その作業をただ見ていた。胸の奥にまさかという不安を抱えながら。
 十五分後、時間通りに仕事を終えた仕事師たちが引き上げていく。最後に「邪魔したな」とこちらに一声かけて帰ろうとした中年男性を俺は反射的に引き止めていた。
「あの……」
「ん?」
「この木、切るんですか」
 喉が乾燥して上手く声が出ない。
「あぁ、明日の午前中には切って運び出す」
「そんな。だって」
 と言いかけた俺の顔を見ながら中年男性が不思議そうな顔をする。慌てて口をつぐむ俺。中年男性は首をひねり、小さく息を吐いて俺から離れていった。
 林の中に静けさが戻ってくる。俺は杉の木の前に立ち、ポケットからブレスレットを取り出した。多少輝きを取り戻したとはいえ赤い石の輝きはまだ鈍い。もし今木が切られてしまったらフィオは……。
 帰れなくなるじゃないか。
 その声は心の奥底からした。
 これは不可抗力だ。どうしようもない。木を切ることが彼らの仕事でそれを止めていい権利なんて俺にはない。ちょっとばかり運がなかっただけ。またこの木みたいなポイントを探して通えばいい。フィオには残念そうな顔をして、ごめん、食い下がったんだけど、って適当に言い訳すればいい。優しい彼女は絶対に俺を責めたりはしないだろう。
 そう、俺のせいじゃないんだ。俺のせいでフィオが帰れなくなるわけじゃない。これは仕方のないことなんだ。
 喉の奥から呻き声が漏れた。
 額を杉の木に押し当てて歯を食いしばる。一瞬でもラッキーだと思ってしまった自分に対して湧き上がるとてつもない嫌悪感。同時にこの状況に対して何もできない自分がいる。
 フィオと別れたくない。でも、彼女を悲しませたくない。
「どうすりゃいいんだよ」
 その問いに答えてくれる人は当然のようにいなかった。ただ杉の硬い表皮が額を押し返すだけだ。
 その日の夜、笑顔と暖かい夕食で迎えてくれたフィオに俺は何一つ言うことができなかった。


 早朝、昨日と同じように杉の木へと続く石段を登る。布団の中から申し訳なさそうに、うっすらと目を開けて俺を見送ったフィオの姿がずっと頭の中でちらついている。結局フィオには何も言えないままアパートを出てきてしまった。
 踏みしめる石段がひどく柔らかいもののように感じられる。多分熱のせいだろう。朝測ったら三十八度まで上がっていた。顔が熱い。視界がぼやける。汗は掻くのに寒気がして仕方がなかった。
 石段を登りきって長く息を吐く。祠を左手に見つつ、いつものように林の中へと足を進める。落ち葉の上を歩いていると足が地面に沈み込むような感じさえした。
 林の中、いつもの場所に杉の木はまだ立っていた。もたれるように木に手を付いて咳き込む。冷たい外気を吸い込むと喉がひゅーひゅーと鳴った。
 体を反転させ、背中を杉の木に預ける。俺はそのままずるずると座り込んでしまった。ぼんやりとした頭の中でこれからのことを考える。
 あと数時間、それとも数分だろうか、とにかくわずかな時間で仕事師たちがやって来てこの木を切り倒してしまう。俺はその時どうしたらいいんだろうか。いや、方法なんてない。そんな状況でやるかやらないか、声を発するか発しないかでしかない。
 うつむいて目を閉じるととてつもない眠気が襲ってくる。それとも意識が飛ぼうとしてるんだろうか。コートのポケットにねじ込んだ手が震えだす。
 なにが、どう──、
「またか、兄ちゃん」
 呼びかけられ、はっと顔を上げる。そこには昨日と同じあの中年男性がいた。まったく気配を感じることができなかった。腕時計に目をやると三十分ほど針が進んでいる。
「大丈夫か? 顔色酷いぞ」
 俺は短く声を漏らして立ち上がった。体がとてつもなく重い。すみません、と声を出すのがやっとだった。足を引きずるようにして歩き、近くの木にもたれかかる。中年男性はしばらくこちらの様子を伺うように俺の方を見ていたが、やがて従業員に指示を飛ばし出した。
「兄ちゃん、危ないから林から出てってくれや」
 中年男性が俺に睨むような視線を飛ばす。一瞬その場に留まりかけた足も何か別の力に引き付けられでもするように林の外に向かって進み出す。もう、どうしようもない。何も考えられない。
 寒い辛い苦しいだるい痛い怖い。ただ家に戻ってフィオの顔が見たい。
 フィオ、ごめん。と、心の奥で漏らした時だった。チェーンソーのエンジン音が林の中に響き渡り、吹きぬけた寒風に林全体がざわめく。
 ほんの少しだけ意識が覚醒した。
 フィオの顔が見たい。でも、それは泣き顔じゃない。がっかりし顔でも残念そうな顔でも困ったような顔でもない。笑顔だ。俺はフィオの笑顔が見たいんだ。彼女が俺に微笑みかけてくれたとき、どんなに嬉しかったか思い出せ。生まれて初めて心に抱いたあの感情を思い出せ。
「あの……」
 口から出た声は自分でも驚くほどか細かった。チェーンソーのエンジン音が更に大きくうねる。
「あの!」
「なんだ、兄ちゃんまだいたのか」
 鬱陶しそうな表情で俺を見やる中年男性。俺は一度奥歯を食いしばり、深く頭を下げた。
「お願いします。この木を切らないでください」
「はぁ?」
 いらつきを含んだ疑問符が後頭部に降り注ぐ。
「この木を切られると困る人がいるんです。お願いします!」
 出しうる声を振り絞る。それでもチェーンソーのエンジン音にかき消されてしまいそうな声だった。
「あのなぁ、こっちは仕事請けてやってんだ。切られると困る? 切らなきゃこっちが困るんだよ!」
 怒鳴り声に肩が震えた。筋が通ってないことなんて百も承知だ。でも、
「お願いします! 年内だけでいいんです! 木を切らないでください!」
 不意に響き渡っていたチェーンソーのエンジン音が消えた。顔を上げた俺を従業員たちが取り囲む。
「訳のわかんねーこと言ってんじゃねーぞ、兄ちゃん」
 反射的に一歩後ずさってしまう。
「優しく言ってるうちに帰れや」
 俺は無言のまま首を横に振った。
「このっ……」
 中年男性が大きく息を吸い込む。俺は地面に膝をついた。続けて額を落ち葉の上に乗せる。
「お願いします!」
「土下座なんかすんな! ダメなもんはダメだ!」
「分かってます! 自分の言ってることがめちゃくちゃだってことは分かってます! でも……今木を切られたら」
 言葉が続かない。ただフィオの姿が、声が、香りが、柔らかさが脳裏をよぎっては消えていく。
「俺に出来ることだったら何でもしますから……お願いします!」
 言った瞬間視線が九十度回転した。襟首をつかまれて投げられたのだと分かったのは杉の木にしこたま背中を打ちつけた後だった。
「だから俺たちは仕事で来てるんだよ! どうせ学生かなんかだろうが! バカなことやってるんじゃねぇっ!」
 中年男性の怒声が頭に響く。頭痛が酷い。視界もはっきりしていなかった。俺は一度目をきつく閉じ、再び地面に膝を付いた。そのまま深く頭を下げる。
「お願い……します」
 一瞬の沈黙。
「おい、お前らこの兄ちゃんをここから連れ出せ!」
 落ち葉を踏みしめて近づいてくる複数の足音。俺の肩をつかむべく伸ばされた腕の気配が耳の真横を通り過ぎる。噛み締めた唇は酷く乾いていた。
 と、唐突に冷く小さな何かが俺の手の甲を叩いた。ぱた、ぱた、ぱた、とリズムを刻むよう音が地面からしだす。ゆっくりと顔を上げた俺の目に映ったのは木々の間から見える灰色の厚い雲と、そこから降り注ぐ大粒の雨だった。俺を連れ出そうとしていた若い従業員たちも空を見上げている。
 雨足はあっという間に強くなり、気が付けば土砂降りだった。林が雨の匂いで満たされていく。
 中年男性の大きな舌打ちが聞こえた。それから俺の顔を見下ろして大きな溜息をつく。
「これじゃ危なくて作業ができねぇ。中止だ、今日は」
 幅広の背中がこちらに向けられた。
「空の神さんも若い方がいいらしい。粘り勝ちだな、兄ちゃんの。帰るぞ」
 その背中に若い従業員たちが付いて行く。土砂降りの雨の中一人林に残された俺はしばらくの間呆然としていた。地面に膝を付いたまま鉛色の空を見上げる。雨粒がいくつもいくつも顔の上を流れ落ちていった。
 助かった……のか?
 胸中で呟きながら体を後ろに倒す。もう膝をついていることさえ辛かった。意識が混濁していく。今まで味わったことがないような寒気と眠気が全身を支配していた。視界が黒く染まる。
 もう耐えられない。
 頭の中ではこのまま眠ってしまえば危ないことは分かっていた。でも体が言うことをきかない。瞼が自然に落ち、意識までが落ちていく。
「……さん」
 闇の中から声がした。幻聴だろうか。それでも俺が一番聞きたかったその声に頬が微かに緩んだ。
「タカヒロさん!」
 声が実態となって鼓膜を震わせる。何か暖かくて柔らかいものが冷え切った俺の手を包んだ。
 幻聴じゃない。
 鉄のように重たい瞼を持ち上げるとそこには赤い屋根ができていた。それが傘だと分かるまでに五秒はかかった。そして、その傘の前にフィオがいた。
「どうして」
 俺も口を開いたはずだが自分の声は聞こえず、耳に届いたのはフィオの涙声だった。フィオの手が俺の頬に触れる。
「わたしなんかのために」
 雨粒とは違う熱い水滴が顔に落ちてきた。
「分からない。でも、なんか、頑張れた」
 目を真っ赤に腫らしたフィオの顔を見上げながら苦笑いする。ほんとは分からないなんて嘘だ。でも、言えなかった。言えたのは木が切られそうになったことと今日の作業が雨で中止になったこと、そして「風邪は?」の一言だけ。
 俺の話を聞いたフィオは「それでタカヒロさん昨日から様子が変だったんですね」と漏らした。隠せていたと思っていたのは俺だけだったようだ。フィオもそれが気になって来てくれたらしい。
 多少意識が戻ってきたところで上半身を起こす。頭痛と全身のだるさに抗って目を開けていることくらいはできるようになった。肩をフィオが支えてくれる。
「今日は、もう」
 搾り出すような声で言ったフィオに向かって首を横に振る。
「一日でも早く帰らないと。きっと色んな人が心配してる」
「だったらわたしが残りますから、タカヒロさんは家に」
「いや、いるよ。ここまできたらもう少しくらい悪くなっても関係ないし」
 言って笑う。顔が痺れているせいでちゃんと笑えたかどうか自信はなかったけど。正直体調は最悪だった。でも今は一秒でも長くフィオと一緒にいたい。
 フィオはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて無言のまま濡れた地面に腰を下ろした。ぴったりと寄り添い、二人の上に傘を掲げる。
 俺は息を長く吐き出して目を閉じた。なぜだろう。フィオが隣にいるだけなのに包まれているような感じがする。落ち行く意識の中、
「この世界で出会えた人がタカヒロさんで本当に嬉しかった」
 潤んだ声が聞こえたが俺の願望が生み出した幻聴だろう、きっと。

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