君と俺と世界の繋がり
その5
クリスマスパーティーの買い物はつつがなく……少なくとも表面上はつつがなく進行していった。フィオに笑顔を一つ向けられるたびに俺の血圧は目測で十くらいは上がったことだろう。特にケーキ屋の前で見せた彼女の笑顔が頭に染み込んで離れない。フィオのいる世界では砂糖が同じ重さの宝石よりも貴重らしく「甘いもの」は極限られた一部の人間の口にしか入らないらしい。子供の頃に一枚だけクッキーを食べたことがあって、その味が今でも忘れられないとフィオは言っていた。子供のようにケーキの箱を大事に抱えて隣を歩くフィオの姿を見ているだけでつい笑みがこぼれてしまう。
彼女があと一週間でいなくなってしまうことについてはできるだけ考えないようにした。どうあがいたって俺とフィオの別れは不可避だ。俺の我侭でフィオを引き止めることはできない。フィオにだって向こうの世界に親がいて兄弟がいて友達がいて、彼女のことを思い心配している人がいるはずだ。それに、恋人も。
「恋人同士で歩いてる人多いですね」
不意に声をかけられ肩が震える。まさか心の中を見透かされたわけではないだろう。
「家族や恋人とお祝いする人が多いから」
そっか、とフィオが呟くように言う。俺は乾いた唇をわずかに濡らしてから口を開いた。
「フィオは向こうの世界に付き合ってる人いるんでしょ」
できるだけ何気なく。世間話をするように。
「まさか。いませんよ。その、いいなぁ、って思う人はいますけど」
「そっか」
と今度は俺が呟くように言う。
「上手くいくといいね」
余裕を見せたかっただけのなかもしれない。思ってもいないことが口からこぼれだす。もしくは二十二にもなってまともに恋もしたことがない男だと思われるのが恥ずかしかったのか。
「でも、きっとわたしはだめです」
「どうして」
「大学通ってるし、そういうの変だから」
フィオが寂しげに目を伏せる。
「進学するとき周りに散々言われました。女が大学なんて行ってどうするんだ、って」
そういう価値観の世界なんだ。
「でもわたしお料理好きだし、食べることについてもっともっと勉強したかったから」
静かに、でも確実にフィオの声に熱がこもる。穏やかとばかりと思っていた彼女の中に一本の芯を見たような気がした。折れず、曲がらない精神の支柱。周囲との軋轢もかなりのものがあっただろうし、今でもあるのだろう。
「この世界……じゃなかった。このクニではどうなんですか?」
フィオが俺の顔を見上げる。長い銀髪が冷たい風に揺れた。
「学びたいことがあれば女の子も進学するよ。もっとも、二、三十年前くらいまではフィオの世界と同じような価値観もあったけどね」
言葉を切った俺は指で鼻の先を撫で、
「でもさ、自分のやりたい事があって、それに向かって真っ直ぐ歩くのっていいと思うよ。俺たちの国の価値観も変わったんだし、フィオの世界もきっと変わるよ。もしかしたらその変化はフィオから起こるのかもしれないし」
照れ笑いした。
フィオは少し驚いたように目を大きくし口を開きかけて、でも結局何も言わず胸に抱えたクリスマスケーキの箱に視線を落として一つうなずいた。その横顔に込められた感情までは分からない。
「タカヒロさんにはやりたいことって、ありますか?」
いきなりの問いについ固まってしまう。あるかないかで言えばある。が、それは誰にも語ったことがない夢だった。まぁでもこの際だ。言ってしまおう。フィオなら笑わずに聞いてくれそうな気がする。
なんてことを前から歩いてくる人を二人避ける間に考え、俺は口を開いた。
「弁護士になりたい。それで、あまりお金がない人のために仕事がしたい。俺自身貧乏だった……ていうか現在進行形なんだけど。でさ、悪いことしてる金持ちからはふんだくるの。そういう弁護士になりたい」
覚悟を決めて言ったとはいえやはり顔が熱くなった。子供か、俺は。
「タカヒロさんならきっとなれます。タカヒロさん、優しいから」
でも、そう言われた瞬間顔の熱が収まった。でも決して冷めたわけじゃない。顔の熱がそのまま胸の奥に下りてきたような温もりを感じる。過度の緊張がほどけ、心地よい鼓動の高鳴りだけが残っていた。
何だこれ。足元がふわふわする。
俺は隣にフィオの気配を感じながら、うつむき、アスファルトを見つめながら街を歩き続けた。雑踏が薄い紙一枚隔てて聞こえてくるような感じがする。
結局それから俺とフィオは家に帰るまでほとんど言葉を交わさなかった。でも不思議と沈黙は怖くなった。それがなぜなのかは分からなかったが。
結論から言うと俺とフィオ、二人だけのクリスマスパーティーは最高に楽しかった。いや、正確に言うとホムとミューもいたんだけど。
「料理にお砂糖使うの初めてです」
と言いながらフィオが作った料理は美味しくて、ときどき不思議な味がした。フィオは特に醤油とみりんに興味を持ったらしく、度々指につけて舐めては何かをメモ帳に書き記していた。
六畳一間の真ん中に小さなこたつを置いてその上に料理とケーキとお酒を並べる。食べて、飲んで、喋って、笑って、たったそれだけのこと。でも素直に嬉しかった。
フィオの世界では酒がこちらの世界で言うところの違法ドラッグの扱いを受けているらしく、酒を飲むのも初めてだと彼女は言った。最初は恐る恐るだったフィオも徐々に杯を重ね、気が付けば彼女の前には350mlのカクテルパートナーの空き缶が五本転がっていた。
薄い焼酎のウーロン茶割をちびちびとやる俺の対面で首まで赤く染め、饒舌になったフィオは自分の考えていることをたくさん話してくれた。女の子が自己主張することさえ歓迎されないような世界に対して怒り、素直に声を大きくする。その度に少し気おされた俺は、そうだね、と頷く。
最終的にフィオはどんっ、と拳をこたつの上に叩きつけて、そのまま後ろに倒れこんでしまった。無言になる俺。ホムとミューがこたつの上から心配そうにフィオを見下ろす。三秒くらいたって「くー」という寝息が聞こえてきた。苦笑した俺はこたつから抜け出して押入れから毛布を引っ張り出す。それをフィオの肩にかけてこたつに戻るとホムとミューと目が合った。ふるふると揺れる炎と水の玉に向かって口元を緩める。
「かわいいよな、お前たちのご主人さま」
ホムとミューは同時に俺の顔を見上げ、それから互いに顔を見合わせた。
「あ、本人には言わないでくれよ」
ただでさえ薄いウーロン茶割にさらにウーロン茶を注ぎ足す。グラスを傾けて俺はフィオの寝顔を見つめた。
一日、終わっちゃったな。
寒風にがたがたと鳴るぼろい窓枠の音を聞きながら俺は再びウーロン茶割で唇を濡らした。