君と俺と世界の繋がり

ライン

その3

「そういえばまだ……はふはふ……自己紹介してなかったですよね」
 炬燵を挟んで向かい側、生まれて初めて見たという箸を器用に使いながらどん兵衛(きつね)をすする耳の長いエルフの女の子。シュールと言えばシュールだが、その幸せそうな姿はいつまでも見ていられそうな気がした。
 俺は俺でカップヌードル(カレー)をすすりながら「そうだね」と返す。
「わたし、フィオっていいます」
 女の子──フィオさんの自己紹介に俺は一瞬ためらい、それでも勢いであの台詞を言ってしまった。
「いい、名前だね」
 言った後で頬が熱くなる。ベタ。あまりにもベタ。フィオさんが箸を止め、俺の顔を見つめる。カレースープと共に生唾を飲み下す俺。
「うれしい。そんなこと言われたの初めてです」
 フィオさんの笑顔を見た瞬間背中の全面に汗がにじんだ。嘲笑でもされてみろ、きっと俺は来年のお盆明けまで立ち直れなかったことだろう。ほどけた緊張感が温もりとなって全身に広がっていく。
「俺は宮那孝弘……ミヤナ・タカヒロ、ね」
 分かりにくいかな、と思って名前と名字で区切って言い直す。と、いきなりフィオさんが吹き出した。それから慌てたように表情を改め──結局肩を震わせて笑い出す。
「変かな?」
 人差し指で頬をかきかき言う俺に、フィオさんは笑いすぎで涙がにじんだ瞳をこちらに向けた。
「ごめんなさい。ミヤナタカヒロってわたしたちの世界の言葉で『世界最強のうさぎさん』って意味だったから」
 そりゃまた大層な称号を頂いたもんだ。両親に感謝せねば。
「でも俺の頭の中の世界じゃ俺はいつだって世界最強だよ」
「えー、暗いですよそれ」
 言ってフィオさんはまた鈴のような声で笑った。正直、物凄く嬉しかった。こんなかわいい子が俺の言葉で笑ってくれてる。それだけのことでちょっと泣きそうになった。我ながら情けないとも思うが仕方がない。そういう人生を送ってきたんだから。
「でもさ、そういや何で俺たち普通に話せてるんだろ」
 ふと疑問に思う。言葉が通じるわけないのに。
「これのおかげですよ」
 答えてフィオさんが自分の額を指差した。そこにあるのは複雑な文様が掘り込まれたあのヘッドバンド。
「説明すると長くなるから……言葉の精霊が頑張ってくれてる、とだけ」
 きっとその方がいい。フィオさんの世界の理を説明されたって俺には百分の一も理解できないだろう。
「感謝だけしとくよ、精霊さん」
「はい」
 精霊の代わりに返事をしてフィオさんが微笑む。なんか、それだけで鼻が反応してしまう。匂い立つような、とはこういうのを言うのだろう。
「でさ、フィオさんは何で……ってそうか、この世界に来たのはトラブルだったか。どこか行こうとしてたの?」
 麺のなくなったカップに箸を立て、炬燵の上で腕を組む。どん兵衛のあげを幸せそうに唇ではんでいたフィオさん。こちらの視線に気付くと恥ずかしそうにどんぶりを卓に戻す。
 まぁ、恥ずかしがらなくても日本人なら誰でもやるけどね。
「あ、えと、フィオでいいですよ。ごはんもごちそうになったし。はい」
 普通そういう基準で呼び方って決めないと思うんだが。それに女の子を呼び捨てにするなんて、その度に声が上ずりそうで怖い。そんなわけで「でも……」と躊躇っているとフィオさんに言われた。
「わたしもその方が緊張しないで済むし」
 最後に、ね、とダメを押され、俺は呼び捨てを承諾した。嬉しいか嬉しくないかで問われれば確実に嬉しいんだけど。
「じゃあさ、俺も孝弘でいいよ」
「それはダメです」
「なんでさ」
「ごはんをごちそうになったからです」
 あくまでその基準か。やけにこだわるな。
「だからタカヒロさんはわたしをフィオ。わたしはタカヒロさんをタカヒロさん」
「何か昔の日本の夫婦みたいだ」
 というセリフはさすがに言えなかった。変に意識してると思われそうで恐かったし。
「フィールドワークに行く予定だったんです。もっと近くの異世界に」
 近くの異世界という単語に引っかかり、眉間に皺を寄せてしまう。
「何か書くものないですか?」
 あー、はいはい、と炬燵を抜け出てメモ帳とボールペンを手に戻ってくる。それを手渡してフィオの手元を覗き込む。実際は手元よりも胸元が気になって仕方がなかったのだが。その、けっこうあるみたいだし、服の生地が薄いせいか形が割とはっきりと。うん。
「あの、インク壷は」
 フィオの声に慌てて頭と意識を引き起こす。
「いや、そのっ、こ、これはそのまま書けるから。中に黒い棒が入ってるだろ。それがインク」
「へー」
 しどろもどろになる俺をよそに感心したように漏らし、フィオがボールペンをまじまじと見つめる。どうやら技術レベルはこっちの方が遥かに進んでるらしい。インク壷という単語から推測されるにまだフィオたちの世界では羽ペンを使っているのだろう。ということは、うーん、こっちの世界で言うなら産業革命はまだ起こってないっぽいなぁ。まぁ、あれだけ便利な精霊の力が普通に行使できるんだ。技術はそれほど必要なかったのだろう。マッチも水道もいらないし。
 と、炬燵の上で仲良く転がっているホムとミューの姿を見ながら思う。
「ほんとだ。書けます」
 メモ用紙の上に丸を描き、フィオが大発見をした子供のように破顔する。偉いぞボールペンを発明した人。
「えっと、ですね」
 フィオの説明が始まった。
「まずこれがわたしのいた世界」
 と先ほど描いた円をペン先で指す。それからその周りにいくつか円を描く。
「これらがわたしたちの言う異世界です。これらの世界とは交流がありますし、行き来ができます」
 言葉を切ったフィオがその複数の円を大きな円で囲んだ。
「でも、どうやら世界はここにもあったようですね」
 大きな円の外にぽつんと小さな円が描かれた。その円をボールペンで何度もなぞり、フィオがため息をつく。
「要するに遭難したってこと?」
「そうなんです」
 数秒の沈黙。
「いやっ、違っ」
「気にしなくていいから。人生にはそういう瞬間が何度かあるし」
 わとわたと手を振るフィオに向かって言う。異世界って言ってもそういうところは変わらないんだなぁと妙な親近感を覚えてしまった。
「でさ、さっきフィールドワークとか言ってたけど」
「学生なんです。ゼミのレポートをまとめるために異世界の食文化を調べてたんですが……」
 言葉を切ったフィオが再び息を吐く。
「ほんとに、どうしたら」
 組んだ手の上に額を乗せてうつむくフィオ。その頭の上に乗る重い不安の塊が目に見えるようだった。今や日は完全に落ち、窓から見える曇のかかった夜空がより一層気分を重くする。
 時間は待ってくれない。携帯電話を開いてみれば六時半。そろそろ現実的なことを考えねばならない時刻だった。
「お金持ってる?」
 顔を上げ、唇を真一文字に引き結んだフィオが首を横に振る。
「お金自体は持ってますけどこの世界じゃ使えないと思います」
「だよなぁ」
 当たり前と言えば当たり前の結論に我ながら苦笑する。かと言って今の俺に人に貸せる金などない。だいたい元の世界に返る術がないフィオに今日一万円貸したところでどうにもならないだろう。百万円単位で貸せるのなら話は別だが。
 ならばもう。
 俺は大きく深呼吸して気持ちを落ち着けた。できるだけ顔に何の感情も表れないよう心の準備をする。熱のこもった頬が赤くなってはしないかと心配だった。さらりと言ってしまえばいいだけなのに鼓動は高鳴り口の中が急速に乾いていく。
「あっ、あのさ、帰る方法が見つかるまでウチでよければ泊めるけど」
 目を大きくしたフィオが俺の顔をまじまじと見つめる。あ、いや、とその視線から逃げつつ俺はなぜか言い訳を考えていた。そりゃ俺だって男だ。こんなかわいい子と一つ屋根の下。あわよくばという思いが全くないかと問われればうんとは言わない。しかしそいつを素直に最前線に送れるほど戦慣れもしてなかった。
 で、結局、
「紹介できる女友達がいればいいんだけど、俺、そっちはいなくて。でも、その、あんまり大勢の人にフィオのこと話して広まってもまずいと思うし、だから、あの、変な意味じゃなくてウチが一番安全かなと思っただけでやましいこととか別にいや何言ってるんだ俺」
 自分でも笑えるくらいしろどもどろになってしまった。フィオは驚いたような表情で俺を見続けている。彼女は口をわずかに開き、俺は息を止める。
 拒否の言葉を覚悟した瞬間、フィオの唇が紡いだのは「いいんですか?」という一言だった。素直な驚きと喜びがフィオの顔にはある。多分俺も同じような顔をしていたと思う。
「よかったぁ。これで追い出されたら本当に路頭に迷うところでした」
 胸元に手を置いたフィオが表情を緩める。
「でも、いいの? 自分から提案しといて変な質問だけど、その、同じ部屋だし」
「それは、はい」
 質問の意味が分かったのか頬を少しだけ染めてフィオがこくりと頷く。
「タカヒロさん真面目そうだし、何よりホムとミューが守ってくれますから」
 そっか、とつぶやいて軽く笑う。「わたし……タカヒロさんにだったらいいですよ」なんて答えが返ってくるとはちょっとだけしか期待していなかったが見事に撃沈。ただ、それでも俺は安堵していた。
 多分ホムとミューがいる限りフィオには手出しできない。だから安堵した。言い訳ができたのだ。手を出す勇気を振り絞らなくていいという言い訳が。
 こんなだから彼女どころか女友達もできないんだろうな。
 思いながらもう一度、今度は自嘲気味に笑う。
「じゃあ、これからお世話になりますね」
 こたつの上に並んだホムとミュー。その上からフィオが手を差し出す。こたつ布団で慌てて手を拭き、握り返したフィオの白い指は鳥肌が立つくらい温かかった。

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