武器屋リードの営業日誌 番外編 その4
武器屋リードの休業日
─シュークリームにまつわるあれこれ その2─

ライン

その2

 で、時と場所は現在風の丘亭に戻りこの状況である。家を出てから風の丘亭に至るまでの詳しい経緯は省いてもいいだろう。シュークリームを肩に乗せて街を歩いていたら女の子達がわらわらと寄って来て、みんなで風の丘亭で飲もうということになり、リード君うはうはのうっしゃうっしゃでシュークリームがシュークリーム様に格上げ「見てごらん世界はこんなに美しい」というタイトルのポエムを心の奥で紡ぎ終えた頃にはカウンター席で妖艶な美女に口説かれていた、とこういうわけだ。
「近くの宿に部屋をとってあるの」
 女性の手が俺の太股を撫でる。俺的緊急事態になぜかカウンターを挟んで立っているマスターに視線を飛ばしてしまった。マスターは相変わらず「我関せず」の体でグラスを磨き続けている。が、そのグラスがさっきから変わっていないところを見るに元騎士団長であってもこの空気には耐えられないものがあるらしい。
 よく見れば、戦鎚で殴っても傷一つ付かなそうなマスターの額には大粒の汗が滲んでいた。
「お互い大人なんだもの。後腐れなく、ね」
 乾いた音がして、マスターが手にしているグラスにひびが入った。同時に背後に陣取る女の子たちの発する空気が嫉妬から殺気へと変化する。ハエくらいなら余裕で落としそうなほどの刺々しい空気を背中に感じつつ、俺は喉を大きく鳴らして唾を飲み込んだ。
 鈍感なのか、それとも余裕なのか、女性はその他大勢の女の子達を気にする素振りも見せない。それどころか俺の太股に置いた手を上へと這わせていく。
 いやあのおねーさんそれ以上は……ああん。
 となりそうなところで脳味噌がかろうじて理性を発揮し、俺は自らの手を女性の手に重ねて押し止めた。いくら女性に関しては砂漠の砂より乾いた生活を送っているとはいえ、こんなところで開戦に踏み切ってしまうほど我が国の将軍は血に飢えてはいない。むしろ「戦争のやり方を忘れたであります」とそろそろ本気で言われるんじゃないかと、そっちの方が心配だったりもする。
 女性はカウンターの下で重なった手に視線を落とし、それからこちらを見て微笑した。
「嬉しい」
 どうやら俺はオーケーのサインを出してしまったようである。女性は小さな衣擦れの音をさせて、すっ、と立ち上がると数枚のコインをカウンターに転がした。それだけで溜息をつきたくなるような香りがする。
「いい女ってのは匂いから違うんだよ。養うべきはまず目より鼻だ」
 自称この町の夜の帝王である友人がグラスを傾けながら言っていた台詞を思い出す。なお、そいつはその台詞を言った五分後に「そろそろ帰らないとカミさんに怒られるから」と飲み代を俺に押し付けて帰っていった。
 立ち上がり、俺も懐から財布を出そうとした。この女性に口説かれる前は背後にいる女の子達と飲んでいたわけで、その分は払わねばならない。が、女性は俺の胸に手を当てて制すともう一枚コインをカウンターに転がした。
「これ、あの子たちの」
 女性がマスターに向かって言う。マスターはカウンター上のコインをちらりと見やり、小さく肯いただけでひびの入ったグラス磨きに戻ってしまった。
「いや、あの」
 自分で払うと言うべきか礼を言うべきか迷った挙句、とりあえず声だけは出す。そんな俺の唇に人差し指をあて、
「あなたにはこれからいっぱいお仕事してもらうから、その分。ね」
 女性は慣れた手つきで(おかしな話だがそう思えた)俺の腕をとった。
 いっぱいお仕事。いっぱい。そして二の腕にあたる似たような響きの柔らかいやつ。
 間違いない。このままだと俺は今夜一晩この女性と同じベッドの上で過ごすことになる。だがよく考えろリード・アークライト。お前には家で帰りを待つ幼い従妹がいるはずだ……なんてことはこの際脇に置いておく。家にはレイもいることだし、寂しくはないだろう。
 問題は、上手くいきすぎているという点だ。俺は自分の左肩に乗っているシュークリーム様を一度見やり、そこにいることを確認した。
 シュークリーム様には女性の心を惹き付ける不思議な力があるという。確かに町を歩けば女の子達が寄ってきたし、今こうして美女に腕を組まれてもいる。だがどうしても腑に落ちないのだ。
 俺が女性にモテているという事実が。
 ……うるさい黙れこんちくしょう。
 普段残り物しかやってない犬に気まぐれで高級な肉をやったらびっくりして吐いてしまった、みたいとでも言えばいいのだろうか。
 実はこの町で古くから行われていた謎の儀式において生け贄にされる俺に最後の思い出を作ってやろうと、町のみんなが総出で騙してるんじゃないかという気さえする。で俺の死後「でも……あの時のあいつ、笑ってた。きっと幸せだったんだと思う」とか墓の前で言われて勝手にいい話にされるに違いない。
 絶対そうだ。俺の友達はそういうことをする。
「幾らで雇われたこの上の下菓子の精霊っ!」
「相変わらず己の妄想を疑わんな、貴様は」
 呆れ声のシュークリーム様。クリームを入れるための切れ目が一度開き、閉じる。溜息でもついたのだろう。甘いクリームの匂いは相変わらずだった。
「どうしたの?」
 隣にいる女性が不思議そうな顔を俺に向ける。シュークリームの精霊と喋ってましたと言うわけにもいかず曖昧な返事を返す俺に、女性は「緊張してる?」とからかうような笑みを浮かべた。
「緊張というか、疑念が。……世界に対する」
 そもそもなぜ俺はシュークリームの精霊などという突拍子もないものを受け入れたりしたんだろうか。我ながら心のスペースに余裕とりすぎじゃありませんか? 明日目が覚めて隣に人語を操るイカが寝ていても普通に「コーヒー飲む?」とか訊いてしまいそうな自分が怖かった。
「哲学者なのね。私に答えを与えてあげることはできないけど……疑念を忘れさせてあげることはできそう」
 そう言って笑った女性は実に楽しそうだった。本来なら俺も微笑でも浮かべつつ「お手柔らかに」とか返すべきなのだろうが、そんな余裕はなかった。
 女性が俺の腕を引いて歩き出す。もう考えるのはやめよう。良識ある人々は俺のことを刹那主義者、快楽主義者、堕落主義者と罵るだろう。しかしいいのだ、それで。時に立ち止まり、空を見上げる瞬間というものが人には必要なのではあるまいか。
 特に俺には。
 要するに俺の脳内で今この瞬間「揉」が「疑」を崖から蹴り落とした。
 人間とは悲しい。生きることが即ち罪であるとはこういうことなのですね、神様。
 と、友人の修道女に聞かれたら礼拝堂で半日説教されそうなことを考えつつ、俺は女性と一緒に歩き出す。この時、既に俺の頭の中はいっぱいによく似た響きの柔らかいやつのことで八割が埋まっていた。歩くたびに脳味噌はプリンのごとく揺れていることだろう。
「待ちなさいよ」
 そんな俺のプリン脳に、不意に一かけらの氷が落とされた。席を立った女の子が一人、店を出ようとした俺と女性の前に立ち塞がったのだ。その表情はかなり険しい。もっとも、険しいのはその女の子だけではなく、その辺りに座っている女の子達全てが同じ表情をしているわけだが。
「悪いけど返してくれる? 私たちのだから、それ」
 腰に手を当てて俺の隣にいる女性を睨む女の子の目はかなり挑戦的だった。が、女性はそんな女の子の怒気を受け流すように微笑し、俺の肩に頭を預ける。揺れる髪が何よりも雄弁に余裕を語っていた。
 女の子の口元が歪んだ。奥歯を噛み締めたのだろう。俺が人様の美醜について……女性にモテるためにシュークリーム様なるクリームの代わりに緑色の脳味噌が詰まってそうな新種のなまものまで頼りにした俺が言うのも何であるが、原石の時点で二人に差はなかったように思える。問題はその後だ。
 要するに、カットと研磨において俺の隣にいる女性の圧勝だった。それがより田舎の町娘然とした女の子を苛立たせているのだろう。
 しかしよく考えてみたらこれはかの有名な「あぁっ、私のために争わないで」シチュエーションではなかろうか。まさか自分にこの台詞を言える瞬間が訪れようとは。やはりシュークリーム様は偉大だ。
「クリームの代わりに以下略とか思ってすまん」
「中途半端に素直なのは一番タチが悪いぞ、武器屋」
 そんなシュークリーム様のありがたいお告げを右から左に聞き流し、俺は女性と女の子の顔を交互に見つめた。伝説のシチュエーションはさておき、物理的な争いになる前に止めなければならないのは確かだ。
 それで、あー、その、と声を出そうとした時だった。
「どうしてあなたのなの?」
 女性が発した穏やかな声に空気が硬質化する。
 いや、あの、と口を開きかけた俺は、
「どうして? 年をとると状況の把握もできなくなるのかしら、オバ様」
 女の子のそんな台詞にばっさりと斬り捨てられた。
 空気にひびが入るぴしぴしという音を心の耳で聞きながら女性の顔を盗み見る。微笑こそ消えていなかったが、僅かに持ち上がった眉が怒りのレベルを明白に指し示していた。
 空気が硬い、重い、痛い。
 もう「私のために争わないで」というより「口から泥水飲んで鼻から飲料水出すくらいの芸は見せますからどうか争わないで下さい」という状況のような気がする。
 と、不意に女性が組んでいた腕をほどき、俺から離れた。見れば持ち上がっていた眉も元の位置に収まっている。
「そうね、私の方が大人なんだから少しは我慢しないとね」
 どうやら最後の一線で退いてくれたらしい。張り詰めていた空気の糸が緩み、俺は胸中で安堵の溜息をついた。女性は俺に「ちょっと待ってて」と言い残し、カウンターの方へ歩いていく。何やらマスターと二、三言葉をかわして女性は戻ってきた。
 その手に握られていたのは一本の包丁だった。女性の表情に変化はない。ただ握られた包丁がランプの赤い灯を鈍く照り返す。
 まぁ何てよく切れそうな包丁なのかしら。さすがだね、研いだ俺……って自分の仕事を自画自賛してる場合じゃない。
「何考えてるんだ! 大体何でマスターも包丁なんて渡」
 俺の台詞を遮って銀光が閃いた。
 女性が振り抜いた包丁が俺の肩口を服ごと切り裂き、止まる。痛みに目をやればぱっくりと裂けた袖の中に赤い線の刻まれた自分の腕を見ることができた。とっさに避けなければ骨まで達する傷になっていたかもしれない。
「あら。避けたらダメじゃない」
 口を半開きにした俺に向かって、女性は、いけない子ね、とでも言いたげな笑みを浮かべてみせた。どちらかと言うと女性の方が、頭のいけない子、のような気がするのだが。というか、俺はなぜ切りつけられたのだろうか。理由が全く分からない。愛情表現にしても少しばかり過激な気がする。
 まさか伝説のシチュエーションその2「あなたを殺して私も死ぬっ!」に突入したんじゃあるまいな。にしては彼女に別れ話を切り出した覚えもないのだが。それとも何ですか。ちょっとモテたらお前は即死ね、とかそういうことですか神様。
「今度はじっとしててね。腕の一本でも分けてあげれば彼女たちも満足するだろうし。それから二人でゆっくり楽しみましょ」
 肩を押さえる俺に女性が言う。語尾にハートマークでもついてそうな声色だが、俺にしてみれば禍々しく脈打つ悪魔の心臓にしか思えなかった。
「何言ってるの?」
 腕を組んだ女の子が女性に向かって呆れ声で言う。
 うん、そうだ。一体何を言っているんだ、君は。
「最低でも腕二本は置いていってもらうわ」
 えぇい、こっちもかよ。
 そもそも、分けてあげれば、ってどういうことだ。俺の腕なんか貰ったところで何の意味がある。部屋に飾るにしては少しばかり悪趣味じゃないか?
 というかどう考えても状況が異常だ。何より異常なのはマスターが女性に包丁を渡したこと。刃物、というものについては誰よりも体で知っているだろうに。
 俺の視線を受けたマスターは一瞬手を止め、それでも止めただけでまたひびの入ったグラスを磨き始めた。
 やはりおかしい。どう考えてもおかしい。そしてふと思う。
 よく考えたら左肩に喋るシュークリーム乗せてる俺が一番おかしいのではなかろうか。
 シュークリーム様を見つめ、問う。
「お前のせいか」
「さもありなん」
 その声は自信と達成感に溢れていた。だからたとえ俺が「食べ物は粗末に扱ってはダメよ」という母親の教えを破ってシュークリーム様を放り投げ、見事なボレーキックで店の端まで蹴り飛ばしたとして、それが一体何の罪になると言うのか。
「何をするか人間!」
「うるせぇっ! この中間管理職菓子!」
 店の端から当たり前のように叫ぶシュークリーム様に向かって怒鳴り返す。
 ここにきて、俺はようやく状況を理解した。
「確かに俺はシュークリームのように女性にモテたいとは思った。だが誰が俺自身をシュークリームにしろと言った!」
 つまりは、そういうことだ。子供の頃のことを思い出す。よく母親に言われたものだ。
 一つしかないものはみんなで分け合って食べなさい、と。
 相変わらずの微笑を浮かべたまま、包丁を手に女性がにじり寄ってくる。それは俺とシュークリームを半分こする母親の表情と同じなのだが、同じなのだが……。
 生唾を飲み下し、一歩あとずさる。
 不意に誰かがつぶやいた。
「わたし、耳がいいな」
 かたん、と椅子が鳴る。立ち上がった女の子の手には食事用のナイフが握られていた。
「眼球、おいしそう」
 また一つ、かたん、と椅子が鳴った。女の子の手にはフォークがあった。
「血を飲みたいな」
「唇はわたしのよ」
「心臓、どんな味がするのかな」
 堰を切ったように、かたん、かたん、かたん、と椅子が鳴る。
 俺はさらにあとずさり、助けを求めてマスターに視線を飛ばした。が、マスターはやはり俺を一瞥しただけでグラス磨きに戻ってしまう。
 背中を冷たい汗が伝った。こちらに向けられているのは間違いなく好意の眼差しである。俺は得物を手に笑顔で向かってくる女の子達にゆっくりと首を横に振って見せた。それでも女の子達は止まってくれない。
「ま、昔からエロいものを前にした男と甘いものを前にした女を止めるのは不可能、と言うからな」
 いつの間にやら左肩に戻ってきたシュークリーム様が達観した口調で言う。とりあえず俺はその中堅菓子の精霊に渾身のデコピンを叩き込み、夜の町に跳び出した。

 

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