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武器屋リードの営業日誌

第二話 短剣と待ち人

ライン

  11

 フィーナは幽霊だ。
 だが彼女の胸に短剣を突き立てた瞬間、俺の手には確かな肉の感触が伝わってきた。
 フィーナの、あるはずのない鼓動に呼応するように手にした短剣が脈打つ。
 その感触を歯を食いしばって受け止め、俺は刃をさらに深く押し進めた。
「こふっ」
 くぐもった咳音。フィーナが口から吐いた血はやはり透けていた。
 だが確かな存在感をもって俺の服に散る。
「リードさん」
「大丈夫」
 背後で泣きそうな声を出すサラさんに向かって言い、俺は短剣をフィーナの胸から引き抜いた。
 剣先から滴り落ちた血が地面に吸い込まれるように消えていく。
 あの鉄くさい匂いはしていない。が、鼻ではなく心が血の匂いを感じ取っていた。
 濃く、粘っている。
「違う」
 自分の胸を押さえ、赤く染まった手をフィーナは呆然と見つめている。
 いや、見えているんだろうか。明らかに目の焦点は定まっていなかった。
「違う」
 もう一度同じ声で呟き、フィーナが顔を上げる。
 彼女は微かに笑っていた。
「違わない」
 俺はフィーナの顔を正面から見据え、言い切る。逃避の証しである笑みを掻き消すように。
 顔を歪めたフィーナが首を横に振る。
「違う……違うっ!」
「違わないっ!」
 俺は腹の底から声を張り上げた。逃げるな。そんな思いを込めて。
 数羽の鳥が木々から飛び立ち、葉を揺らす。
「自分の姿を見てみろ!」
 手を広げ、己の姿を見たフィーナは目を見開いて後ずさった。
 彼女が着ていた古めかしい若草色のドレスは、いつの間にか普通の村娘が着る質素な衣装へと変わっている。
「目を覚ませ。ごまかすな。君はニースリールの姫じゃないっ!」
「違うっ!」
 頭を抱えるようにしてかきむしり、フィーナは地面にうずくまった。
 ただひたすら違う、違う、と何かを呪うような声で言いながら。
 俺は膝を折り、目の高さをフィーナと一緒にした。
 できればここまで追い詰めたくはなかった。
 だがこうでもしなければフィーナは本当に八百年、いやそれ以上に長い年月をさ迷い続けることになる。
「フィーナ」
 一度唇を噛み、俺は呼びかけた。
 赤黒い血で金髪を汚したフィーナの姿に、正直逃げ出したくなる。
 手で顔に触れたときに付いたのだろう。
 こちらに向けられた彼女の顔には幾筋もの血の線が、まるで傷跡の様に引かれていた。
「君はウチにある武器を好きだと言ったよな」
 口を半開きにしたままフィーナが肯く。肉食獣に怯える小動物のような瞳が見ていて辛かった。
「もし君が本当にニースリールの姫なら、それはあり得ないんだ」
 フィーナの表情がわずかに変化する。分からない。そんな色が瞳に差した。
「ニースリールがなぜ滅んだか分かるかい?」
「隣国であるルーヴェリアに、攻め込まれて」
 血に汚れた唇を動かし、喘ぐようにフィーナが答える。
 震えるフィーナの声を受け止めて肯き、俺は続けた。
「じゃあもう一つ。なぜニースリールはルーヴェリアに勝てなかったのか」
 フィーナは答えない。いや、答えられないと言った方が正しいだろう。
 視線をさ迷わせ必死に考えているのだろうが、考えて分かる事ではない。
 それでも彼女は必死に考えている。
 答えなければフィーナ・ハイクラインである自分が否定されてしまう事だけは分かっているのだろう。
 一秒毎にフィーナの焦りが深くなっていくのが手にとるように分かる。
 地面についた彼女の手は小刻みに震えていた。
 これ以上は俺の方が耐えられそうにない。答えられないと分かっていてする質問、即ち回答者を追い詰めるための質問というのはしていて気持ちのいいもではなかった。
 時間切れだ。
 頬を人差し指で掻き、俺は口を開いた。
「今から約八百年前、ある『革命』が起こった」
 冷たい風が辺りの木々を静かに揺らす。
「といっても民衆が蜂起したとかそういう事じゃなくて、比喩表現としての、だけど」
 肩越しに背後を振り返る。サラさんは黙ってそこに立っていた。
 戸惑いつつも状況を見極めようとしているようだ。
 一度目を閉じ、フィーナの方に向き直る。
「武器というものに対する革命……鉄器の登場だ」
 これが答えだった。
 だがフィーナからの反応は無い。変わらず泣きそうな顔で俺を見つめている。
 説明がいるか。
「武器の歴史ってのは材質の歴史でもある。木や石に始り、銅、銅と他の物質の合金である青銅、鉄、そして鉄と他の物質の合金である鋼。素材が武器の良し悪しを決めると言っても過言じゃない。今だとフェンタイト鋼やガルバール鋼が有名だ」
 ちなみにどちらとも製法は門外不出である。
 当たり前だ。長い年月と血の滲むような研究を重ねてやっとできあがった最高の素材なのだから。
 この二つの鋼を使って作られた武器はかなりの値で取引されている。
 もちろん値段に見合うだけの性能も備えてはいるが。
「話を八百年前に戻そう。なぜニースリールはルーヴェリアに勝てなかったのか」
 単純な話だ。
「ニースリールでは銅は採れても鉄はほとんど採れなかった。そのうえ精製技術の面でもルーヴェリアに大きく遅れていた」
「あ……」
 フィーナが短く、小さく声を出す。
 彼女にも分かったようだ。
「同じ実力の剣士がいたとして、一方は鉄の剣の鉄の鎧。一方は青銅の剣に青銅の鎧。どちらが有利かは言わなくても分かると思う。当時、鉄とは即ち力だったんだ」
 地面に置かれたフィーナの指がいびつに曲がる。彼女が幽霊でなければ土がえぐれていたことだろう。
「ニースリールの姫にとって鉄や鋼の白刃は自分の国を滅ぼした憎むべき存在だ。でも、君はそれを好きだと言った」
 呻き声とも嗚咽ともつかない音をあげ、フィーナは崩れ落ちた。土下座でもするように額を地面につけ、体を震わせる。
「ニースリールの姫なら白刃を見ながらあんなに幸せそうな顔はしない。でも、君が武器を好きなことまでは否定しない」
 乾いた喉に唾を流し込み、俺は低く強い声を出した。
「顔を上げるんだ、フィーナ・ルシェール」
 それが彼女の本当の名だ。
 フィーナ・ハイクラインではないし、ましてやニースリール最後の姫でもない。
 フィーナ・ルシェール。
 町娘だ。恋人に殺されてしまった。
 顔を上げたフィーナが唇を噛み、俺を睨み付ける。心の傷に触れた俺への明らかな憎しみがそこにはあった。
 どす黒い視線はそのままにフィーナがゆっくりと立ち上がる。
 俺も彼女の目を見つめたまま折っていた膝を伸ばした。瞬きさえできない。そんな短い時間でもフィーナを視界から消してしまえば、彼女を傷つけただけで全てが終ってしまうような気がしていた。
 自分のしている事に完全な自信なんて無い。でも少しでも自信があるのなら逃げては駄目だ。
 立ち上がってもなお睨み合いは続く。
 拳を握り締め、俺は一歩踏み出した。フィーナの顔が目前に迫る。
「そうよ」
 涙声だった。
「私はお姫様なんかじゃない」
 おかしいでしょ、笑いなさいよ。そう言わんばかりの笑みをフィーナは浮べる。
「恋人に裏切られて、殺されたただのバカ女よ!」
 大きく腕を振り、叫ぶフィーナ。上気した頬の上を涙が一筋流れる。
 俺は奥歯を噛み締め、彼女を見つめ続けた。
「恋人ですらなかった。当たり前よね、彼は老舗の武器屋の息子で、私は寒村から売られてきた貧しい田舎者。それなのに勘違いして。結婚しよう、なんて本気で言ってもらえるわけないのに」
 ううん、と何かを振り払うようにフィーナが頭を振る。
「私だって彼と結婚できるなんて思ってなかった。だからおなかに彼の子供がいるって分かった時、一人で育てよう、って」
 言葉に詰まったフィーナがしゃくりあげる。細い肩が大きく震え、同時に背後で、ざっ、という地面をこする音がした。
 サラさんが一歩下がったのだ。盗み見たその顔が月明かりのせいか異様に白く見える。
「迷惑をかけるつもりなんてなかった。ただ子供の存在を知ってもらいたかった。それだけなのに」
 とうとうフィーナは言葉も継げないほどに泣き出した。心に淀む黒いものを押し流すように涙を流し、胸に溜まったモヤを吹き晴らすように声をあげる。
 唇を噛み、握っていた拳を開いた俺はフィーナの頭と背に手を回した。
 もちろん触れることはできない。
 それでも思いは伝わったのかフィーナは俺の胸に顔をうずめて泣き続けた。
 こんなときまで意気地なしでいなくたっていい。
 彼女の涙が俺の服に染み込むことはない。もう消えているとはいえ、血は服に散ったのに。
 思いの強さの差だろうか。それが悲しい。
 フィーナがおなかに子供がいることを男に告げた日の夜、泉のほとりに呼び出された彼女は胸を短剣で突かれて殺された。
 もちろんそんなこと組合報には出ていない。だが同じ業界で起こった事件、どうしても情報は回ってくる。
 フィーナを殺した男には縁談が持ち上がっていた。相手は名のある工房の一人娘。
 邪魔。
 たったそれだけの理由でフィーナは殺された。
 結局男は捕らえられ、今ごろは監獄の冷たい床の上で眠りについているのだろう。
 だからといってフィーナが浮かばれるわけじゃない。
 現にフィーナはここにいて、泣いている。
「思い上がるな。お前とは、体、だけの関係だって」
 途切れ途切れに言われたその台詞に、俺は喉の奥からかすれた呻き声を漏らした。
 なぜそんな事を言えるんだろうか。
 その言葉がどれだけ人を傷つけるか分からないほど馬鹿だったとしか言い様がない。
 しかもそれを女性と別れるときの決め台詞にしていたという話さえ聞いている。
 老舗の武器屋の一人息子。持っているのは金だけだと、専らの噂だった。
 でも、それでもなおフィーナは……。
「忘れられない、か」
 俺の胸に額を押し当てたまま、フィーナが肯く。
 彼女が俺の前に姿を現したのも今になって思えば「女性に縁がなさそうだから」なんてわけの分からない理由のせいじゃなくて、俺が武器屋だったからだ。
 自分が好きな男と同じ匂いを俺から、そして店から感じたんだろう。
 その匂いに惹かれて彼女は出てきた。フィーナ・ハイクラインだと自分を偽って。
 ただ、俺はフィーナが嘘をついていたとは思っていない。
 フィーナは愛する男に殺された自分を受け入れられなかった。だからどこかで聞いたことがあったフィーナ・ハイクラインの物語に、自分と同じ名を持つ姫の物語に自分を埋め込み、虚構のフィーナを作り上げたのだ。
 フィーナはニースリール最後の姫を演じていたわけじゃない。
 本気でそう思い込んでいたんだと思う。そうでもしなければ耐えられなかったのだろう。
 だからフィーナの言う呪いの正体ってのは、彼女の心の殻なんだと思う。
 殻を破りたいフィーナが俺に呪いを解いて欲しいと言い、虚構のフィーナ・ハイクラインでいたいと願うフィーナがそれを邪魔する。
 本人も分からない位に混ざり合った二人のフィーナが起こしていた心の揺らぎだ。
 もしフィーナが自分を殺した男を心の底から憎んでしまえればこんな事にはならなかったのだろう。
 憎しみで全てを塗りつぶしてしまえれば苦しむこともなかった。
 でもフィーナの心には何かの欠片が残っていた。
 それを愛と呼ぶのなら、随分と罪作りなものだ。
「どうしようか」
 フィーナの髪に沿って手を動かしながら、問う。
 血は洗い流されたようにきれいに消えていた。
「分かりません」
 子供がいやいやをするようにフィーナが頭を振る。少し落ち着いたのか口調が元に戻っていた。
「困ったな。俺にも分からない」
 笑う俺にフィーナが顔を上げる。泣いている彼女は随分と幼く、心細げに見えた。
「そんな顔するなって。みんなで考えよう。一人より二人、二人より三人だ」
 な、とフィーナに言って俺はサラさんに視線を向けた。
 不意に注視されたせいかサラさんの表情が固まる。いや、それだけが理由ではないようだ。
「どうすればいいと思います?」
「そんなの、私にだって」
 おなかの上で指を組んだサラさんはそう言っただけで顔を伏せてしまった。
 細く息を吐き、目を閉じる。
 俺の予想は多分間違ってないと思う。
 目を開いたとき、サラさんはこちらを伺うような視線を投げかけていた。
 彼女の予想も間違っていない。即ち、俺が何かに気付いたという予想だ。
 乾く喉を押し広げ、言う。
「子供、いますよね」
 大きな反応はなかった。だがサラさんの手は確実に震えている。
 フィーナの視線が幾度となく俺とサラさんの間を行き来した。
 誰も何も言わない。だが沈黙が全てを肯定していた。
「どうして、ですか」
 細くかすれたサラさんの声。
「白状すれば勘です。フィーナの話を聞いて凄い顔してたから」
 あれは自分に関係ない話を聞いている顔じゃなかった。
「ガルドと結婚できない理由。何か事件を起こして逃げてるようには見えなかったし、それが一番可能性が高いかなと思って」
 子供の父親が誰なのかは分からない。ただ確かなのはガルドではないという事だけだ。
 一度唇を引き結んだサラさんは呟くように話し出した。
「私も……彼女と同じなんです」
 フィーナを見つめるサラさんの瞳には憐憫、同情、共感と幾種もの色が広がっていた。
「いえ、私はまだ良かった。捨てられただけですから」
 まだ良かった。そう言いながらもサラさんの目は潤んでいた。当たり前だ。サラさんにはサラさんの苦しみがある。
 だがフィーナの前ではそう言うしかないのだろう。
「そのときガルドと?」
 とうとうこぼれ落ちた涙を人差し指ですくい、サラさんは笑った。
 その笑顔に小さな針が胸の奥に刺さったような気分になる。
 なぜ彼女がこんな笑い方をしなければならないんだ。
「あの人ったらおかしんですよ。だって、出会ってから十日で結婚しようって言うんだもの。もっと時間をかけなきゃ駄目なのに。あまり女性と付き合った経験がないんでしょうね、きっと」
 揺れる声で言いながらサラさんは涙の数を増やしていった。
「でも、不器用だけど凄く嬉しかった」
 大切なものをぎゅっと抱きしめるような響きがそこにはあった。
 思い込んだら一直線なところがあるからな、あいつ。
 今も同じ空の下サラさんを待っているであろうガルドの顔を思い浮かべる。
「なのに、私はあの人を裏切って……」
「それはまだ分からないでしょ。問題はあいつが裏切られたと感じるかどうか、だと思いますけど」
「だって、こんな、こんなのって」
 おなかの上の服を握り締めたサラさんが唇を噛む。
 俺だったらどうするだろうか。
 愛する女性のおなかに別の男の子供がいる。まず驚くだろう。驚いて、どうしよう。
 そうだ、悩まなきゃいけない。
 悩んで悩んで朝も昼も晩も悩んで、結局「どうしよう」って呟くような気がする。
「リードさん」
 すがるような目でこちらを見るサラさんに俺は無言で首を横に振った。
 俺だったらこうする「だろう」なんて無責任な答えにどれだけの意味があるってんだ。
 だから一番確かなものだけを拾い上げよう。
「サラさんはガルドのことを思い、ガルドはサラさんのことを思っている。それだけは間違いないんです」
 一人は冷たい風の吹く中で待ちつづけ、一人は「彼を裏切ってしまった」と泣いている。
「人を信じるって大変なことだと思います。特に一度裏切られたりすると」
 フィーナ、サラさん、二人に向かって言う。
「商売柄、取引なんかで人を信じなきゃいけない場面が結構あって、もちろん俺も裏切られた事があります。そのせいで店を潰しかけたこともあったし」
 高い授業料だったと最近やっと思え始めた出来事だ。
「それでも俺は人を信じなきゃならない。そうしないと商売できないし、生きていけないから」
 二人は黙って俺の話を聞いている。少しだけでいいから分かって欲しい。
「でも裏切られればやっぱり辛いし悔しい。もう二度と他人なんか信じるか、って気持ちにもなる」
 俺は口元を軽く緩め、言葉を継いだ。
「だから自分で背負う事にしたんです。あいつを信じた俺がバカだった、って」
 同時に見開かれた二人の女性の目に笑みがこぼれる。タイミングばっちりだ。
「別にいじけてるわけじゃなくて、自分をバカだと自覚して、じゃあどうしたらバカじゃなくなるかって事を考えれば少しは成長できると思うし」
 フィーナとサラさんは互いに顔を見合わせ、何か言いたげな表情で俺を見る。
 人間はそんなに強くない、か。
「もちろん心の底からそう思えるわけじゃない。しこりは残るさ。でも、辛いだろ。信じた人に裏切られたことをいつまでも心に残しておくのって。そこには必ず憎しみがついて回るし。だから、少しでも自分が成長するための糧にしてしまった方が楽じゃないかなと思ってさ」
 空を見上げ、息を吐く。白いもやが夜空に溶けた。
「それに、俺たちはもう子供じゃないんだ。信用と裏切りは表裏一体、そのリスクは背負わなきゃならない。つまり、信じると決断した自分の責任ってやつだ」
 視線を元に戻し、乾いた唇を舐める。
「人が何かを無条件に信じていいのは子供が親を信じるときだけさ」
 俺という人間に関して言えば、クレアが俺を信じるときだけ。そして俺には保護者としてクレアに「無条件に信じさせてやる」義務がある。
 三人とも何も言わなかった。いや、俺は言えなかった。
 これ以上俺に言えることはない。あとは二人が何を思いどう結論を出すか、だ。
 長い沈黙の後で最初に動いたのはフィーナだった。
 俺の腕の中から一歩下がったフィーナは一度うつむき、
「少し、一人にして下さい」
 やや固い声でそう言った。
「短剣は俺が持ってる。落ち着いたら戻るといい」
「はい」
 返事をし、サラさんにむかって頭を下げたフィーナは風と共に消えてしまった。
 改めてフィーナが幽霊だという事実を目の当たりにしたサラさんが口を微かに開ける。
 ちょっと感覚が麻痺してたけど普通だよな、これが。
 笑いながらつま先で地面を蹴る。
「で、どうしますか?」
 訊く俺にサラさんの表情が引き締まった。
 彼女の中で何かが決まったのだろうか。
「私は……」
 背を押すような風が一陣、舞った。

ライン

 夜の町は相変わらず静かだ。
 いるのはどこかで鳴いている野良犬と、ベンチに一人座っているガルドくらいか。
 俺とサラさんは中央広場の入り口で立ち止まり、待ち人を見ていた。
 ガルドは身じろぎ一つせず、じっと自分のつま先を睨んでいる。
 あいつは今、何を考えてるんだろうか。
「さあ」
 短く言い、サラさんの背中を押す。
 彼女がガルドに会って全てを話せるかどうかはまだ分からない。だが少なくもガルドに会うという決断だけは下してくれた。
「あの、リードさんは」
「俺はここまで。こんな時間にサラさんと一緒にいたことがガルドにバレたらどろどろの愛憎劇になるから」
 と笑ってみるがサラさんの緊張はほぐれなかったようだ。
 当然といえば当然なのだが。
「サラさん、ここからはあなたの領域です。あなたが考え、行動し、責任を負い、結論を出す」
「はい」
 ゆっくりと、でもしっかりとサラさんが肯く。
「陳腐な言葉だけど……幸運を」
「ありがとうございます」
 深く、長く頭を下げたサラさんが顔を上げたとき、その目に小さな力が宿っているような気がした。
 足を前に向けようと決断できた人間の力だ。
 人間は強くない。でも、そんな言葉に甘えちゃいけない。強くなくたって、強くあろうとする事はできるはずだ。
「行ってきますね」
「はい」
 俺に背を向けたサラさんが大切な人に向かって歩き出す。
 サラさんの鼓動は沈黙した夜の町を揺らさんばかりに強く、激しいことだろう。
 共鳴するかのように俺の鼓動も強くなる。握った拳には汗が滲んでいた。
 随分と長い間息を殺してサラさんを見ていたような気がする。それだけの時間をかけてサラさんはガルドの傍に辿り着いた。
 ガルドがゆっくりと顔を上げる。
 サラさんが小さく肯く。
 そこまで見届けた俺は微笑して中央広場に背を向けた。
 もう大丈夫だ。
 脇役が退場するにはいい頃合だろう。
 空を見上げ、家に向かって歩き出す。
 中央広場を通らず家に戻るには結構な遠回りをしなければならない。だが何も問題はなかった。
 散歩を楽しむには月も星も気分も悪くない夜なのだから。

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