武器屋リードの営業日誌
第二話
─短剣と待ち人─
10
家に辿り着いた俺は荒い呼吸を整える時間をも惜しみ、工房に直行した。
棚から木箱を下ろし、中に入っていた組合報の写しをあさり始める。
組合報とは近隣の町や村にある武器屋で作るギルドが発行している情報紙だ。
新しい工房の紹介や売上の動向、その他業界で起きたあれこれが記載されていて、月に一度の割合くらいで回ってくる。
読んだら次に回さなければならないため、必要な情報は自分で写さなければならない。
俺は例えその時は必要なくてもとりあえず全ての情報を写すことにしていた。
そのせいか小さな情報も割とよく覚えている。新しい情報ならなおさらだ。
確か二、三ヶ月前だったよな。
組合報の写しを作業台に並べて、睨む。
これ、じゃない。これも、違う。
羊皮紙をめくる乾いた音が続く。
あった。
目当ての組合報を見つけた俺は小さく喉を鳴らしてそれを持ち上げた。
間違いない。
こんな事が組合報に載ること自体珍しいため何となく覚えていたのだ。
それはある武器屋の店主が載せた殺人に関する謝罪文だった。
殺したのは武器屋の息子。そして殺されたのは……、
「お兄ちゃん」
反射的に顔を上げ、工房の入り口に目をやる。
「お客さん」
少し戸惑うように言って、クレアは自分の後ろに立つ女性を見上げた。
店は閉まっている。勝手口から入ってきたのだろう。
女性は少しの間満月のような瞳で俺を見つめてから、深く頭を下げた。
「昨夜は、どうも」
それ以上言うべき言葉が見つからなかったのだろう。女性はそこで口をつぐんでしまう。
俺は逡巡し、クレアに視線を向けた。
「クレア、仕事の話だから」
「うん」
肯いたものの、それでも何か気になるような表情を残してクレアは立ち去る。
のけ者にしているみたいで気が重いが、子供に聞かせたくない内容の話になる可能性だって十分にあった。
「中、入りなよ」
入り口で立ち尽くす女性に声をかける。
女性は氷の橋でも進むような足取りで一歩、二歩と前に出ると後ろ手に扉を閉じた。
「どうぞ。汚いところだけど」
笑いながら椅子を勧める。
女性は気を付けていなければ聞き取れないほどの小さな声で、はい、と言って椅子に腰掛ける。
作業台を挟んで女性の向かい側に座った俺は改めて彼女……ガルドの奥さんの顔を見つめた。
笑えばかわいいのに。
そう思ってみるものの、当然のことながらガルドの奥さんは笑ってくれなかった。
とてもそんな気分じゃないだろう。
「忘れてた。お茶くらい出さなきゃな」
「あの、結構です。お話を」
立ち上がろうとした俺を手を挙げて制し、ガルドの奥さんが一つ肯く。
椅子に座りなおした俺は作業台の上で腕を組んで彼女の言葉を待った。
だが昨夜と同じくガルドの奥さんは黙ったままだ。
言うべき事は決まっているが、どうしても口が開かない。そんな印象を受けた。
「名前、聞いてもいい?」
とにかく口を開かせないとどうしようもないと思った俺はそこから始めることにした。
「すみません。あの、サラ・アルベールです」
「俺は」
と名乗ろうとしたところでサラ……さん(未来のとはいえ、さすがに友人の奥さんを呼び捨てにはできない)が顔を上げた。
「リードさん、ですよね。あの人からよく聞いてます」
どう聞いてるのか興味があったが掘り下げるのはやめておく。
どんな顔して聞けばいいってんだ、そんな話。
「そう、ですか」
とだけ言って作業台の木目をなぞる。
自然と口調も変わっていた。
沈黙が続く。
サラさんはうつむいたまま顔を上げない。一方、俺もうつむきこそしていないが口は開けないでいた。
訊きたい事は山ほどある。だが、何を言うべきなのか、考えあぐねていた。
「正直、驚きました」
今さら意味の無い言葉を発する。
「すみません。どうしても、言えなくて」
サラさんの声は微かに震えていた。親に怒られる子供を見ているようだ。
もちろん俺に彼女を責める気持ちなどこれっぽっちもない。
今のところ、という条件付ではあるが。
ガルドの前に現れることができない理由が何かあるはずだ。
責めるのはそれを聞いた後でも遅くない。
俺は作業台の上で組んでいた腕を組替え、少しだけ身を乗り出した。
大きく肩を震わせたサラさんがきつく目を閉じる。これでは罪人を問い詰める刑務官だ。
仕方なく背もたれに背を預け、組んでいた腕をほどく。
「質問した方がいいですか?」
その方が話しやすいかなと思ったのだ。
あれを言おうこれを言おうとサラさんの頭の中では無数の言葉が隼のごとく飛び回っているのだろう。
だからその中から一羽指定してやろうと、こういうわけだ。
サラさんは無言で肯くと、やっと顔を上げてくれた。
よく見れば彼女の目の下にはクマができていた。目も赤く腫れている。
ただ意味も無くガルドを待たせているわけではないことは確かなようだ。
「どうして先に俺の所に来たんですか?」
昨日、サラさんがウチに来た時のことを思い出しながら訊く。
あのときサラさんはガルドと入れ替わるようにやって来た。
いや、ガルドが出て行くのを確認してから来た、と言った方がいいだろう。
さらに言えばガルドが出て行って、もう戻ってこないだろう、というタイミングですらあった。
そこまでしてガルドではなく俺に会いたかった理由は何だろう。
「相談が、ありました」
「俺に?」
月色の瞳が無言で肯定する。
「だって、あの時が初対面だし」
戸惑う俺にサラさんは首を横に振った。
「私とは初対面でも、リードさんはあの人の友人ですから」
そりゃ確かにガルドとは十六の時からの付き合いになるし、多少はあいつの事も知っている。
だが多少はしょせん多少でしかない。
実際、ガルドが旅商人であるがゆえに会うのは三ヶ月に一度くらいなのだ。下手すれば今回のように半年振りの出会いになることだってある。
「リードさんの所が一番居心地がいいって言ってました」
「はぁ」
と気のない返事をしながらも、少しは嬉しかった。ただおおっぴらに喜びを表現するには微妙だ。
師匠にでも認められたんなら拳を握って叫び、喜べばいい。
が、友人の自分に対する好評価。これほど反応に困るものは無い。
要するに照れくさいのだ。特に男同士ってのは互いをあまり誉めないし。黙って相手を肯定することの方が多いと思う。
もっともウチにくれば三食昼寝付きだし、そういう意味で居心地がいいのかもしれないけど。
「ガルドのことで何か知りたいことでも」
結婚前に友人に相談するとしたらそれくらいだろう。生活態度とか過去の女性遍歴とか。
「相談、と言うよりもお願いなんです」
「まぁ、俺にできる事だったら」
言いながら身構える。サラさんの表情からそれが軽いお願いでないことだけは分かった。
細く、長く息を吐いた後でサラさんが発した声は驚くほど小さかった。
「結婚に反対して下さい」
だが、驚くほどよく聞こえた。静寂に包まれた工房の中で、物言わぬ工具たちが震えたような気さえする。
「私は最低の人間です」
もうサラさんの声は震えていなかった。淡々と、そんな事を言う。
「私にあの人と結婚する資格なんて、ないんです」
俺は唇を歪め、一瞬だけ目を閉じた。
続けよう。
「本当にガルドと結婚したくないんだったら自分の意志でしなければいい。でも、そうじゃないんですよね」
サラさんの顔を正面から見つめ、問う。彼女は迷うことなく肯いた。
「このままだと私は……あの人と結婚してしまいます」
「すればいいじゃないですか」
「できません!」
音が喉を掻き、口から血を吐くような声をサラさんが出す。悲痛、だった。
「だって、私……私は」
きつく目を閉じ、肩を震わせるサラさん。作業台の下に隠れた拳は握り締められているのだろうか。
工房の低い天井を見上げた俺は逡巡し、口を開いた。
「理由は分かりません。でも、サラさんの気持ちは分かりました」
息を吐いて言葉を切る。
「あいつがどんな顔して結婚するって俺に言ったか想像できますか」
答えは返ってこない。サラさんは口をわずかに開けたまま俺の顔を見ている。
「俺はあいつのあんな顔見たことがありません。本当にいい顔してた。俺は、そんなあいつに『あの女は最低だから結婚するな』って言わなきゃならないんですか」
やはり答えは返ってこない。吹く風に工房の小さな窓がかたかたと鳴った。
重たい沈黙がのしかかる。空気に色があるとすれば間違いなく鉛色だ。
ゆっくりと胸の奥で五つ数え、問う。
「ガルドのこと、好きですか?」
途端、サラさんの目から大粒の涙がこぼれた。ガラス細工みたいな雫が頬から顎、作業台の陰へと落ちていく。
「大好きです」
嗚咽混じりではあるがサラさんは確かにそう言った。
少しだけ安心した俺は表情を緩め、身を乗り出す。
「だったらそんな事やめましょうよ。どんな理由があるのかは知りませんけど、正直に話せば意外とあっさり受け入れてもらえるかもしれませんよ。そういう奴だし、あいつ」
「でも」
「本当は、恐いんじゃないですか」
唇を引き結んだサラさんが涙に濡れた瞳をこちらに向ける。
「あいつに拒絶される事が恐くて、自分から逃げようとしてませんか」
サラさんはそれこそ逃げるように視線を逸らしてしまった。
「確かに逃げれば傷付かずに済むかもしれません。でも、悲しいですよね。泣きながらあいつの事を大好きだと言える気持ちがあるのなら、あいつを信じてやって下さい」
友人として、願う。
「わっ、わた、し……」
震える口でサラさんが答えようとする。だが言葉にならない。
彼女はもどかしそうに頭振って、何度も口を開こうとした。それでも何かに蓋をされたように声が出てこない。
「落ち着いてください。今すぐ結論を出せなんて言いませんから」
笑みを浮べて言う。
「そうだ。今晩少し付き合ってもらえませんか。もしかしたらサラさんにとって何かのきっかけになるかもしれない」
ね、と駄目押しするとサラさんは戸惑いつつも「はい」と言ってくれた。
サラさんから宿の名を聞いた俺は「やっぱりお茶くらい出さないと」と席を立つ。
「あの、本当に」
と遠慮する彼女を「まぁまぁ」となだめ、工房から出る。
冷たい外気を胸一杯に吸い込んだ俺はゆっくりと吐きだした。体の換気だ。
時刻は空が赤く染まり始める頃。
「フィーナ、いるか」
「はい」
声のした方に頭を向ける。フィーナは工房の屋根に腰掛けていた。高いところが好きなんだろうか。
「今晩待ち合わせをしよう。あの山の中腹に小さな泉がある。そこに日付が変わる時間に行くから」
言いながら近くの山を指差す。「ミルスの旧坑道」があるのと同じ山だ。泉の方がふもとに近い。
泉、の一言にフィーナの顔が一瞬固まる。だがすぐに普段の表情を取り戻すとゆっくり肯いて、掻き消されるようにいなくなってしまった。
まぁ、見えなくなっただけで実際はいるんだろうけど。
腰に手を当てた俺は工房の屋根を見上げ、喉を鳴らした。
実際どうなるのか分からない。だがやらなければどうにもならない。
「よし」
己を鼓舞するように強く短く吐き出し、俺は母屋へ足を向けた。
寒かった。
吐く息は白く、つま先が寒さに痛む。
手袋をして来ればよかったと後悔してみるがもう遅い。
今さら登ってきた獣道を引き返す気にはならなかった。
肩越しに振り返り、サラさんが付いてきていることを確認してから前に進む。
草を踏みしめる二つの足音。時折そこに梟の声が混じる。
顔にかかる木の枝を手で払い、俺は空を見上げた。
覆い被さるような葉の隙間から冷たい月光が差し込んでいる。
目を細めた俺は腰に手をやった。そこにはフィーナが取り憑いている短剣が提がっている。
指で短剣の柄を撫で、俺はサラさんに笑いかけた。
「寒いですね」
「私は暑いくらいです」
俺に追いついたサラさんが額に手をやる。見ればうっすらと汗が滲んでいた。
確かに結構な山道だし、女性にはきつかったのかもしれない。
「すみません。もう少しですから」
頭を下げて一歩踏み出す。
それから歩くこと五分ほど、最後の枝を払った俺の前に現れたのは小さな泉、そしてフィーナだった。
透き通った泉は夜の闇と空を吸い込み、ただ静かにそこにあった。
その前に佇むフィーナが寂しげに微笑む。
踏み込んではならない世界に踏み込んでしまったような、そんな気分になる。
「間に合いませんでしたね」
時刻のことを言っているのだろう。
「悪いけど、始めから間に合うように来るつもりはなかった」
「あのリードさん、何を」
隣でサラさんが戸惑い、というよりも焦りの声をあげる。サラさんにはフィーナが見えていないのだ。
ならば気が狂ったと思われても仕方がない。
「フィーナ。彼女にも姿を見せてやってくれ」
俺の目から見れば何も変わっていない。
だが口に手を当て、目を見開いたサラさんの表情から察するに彼女の視界には変化があったようだ。
「あ、あの」
「フィーナ。幽霊です」
短く説明し、俺は腰に提げた短剣を抜き去る。
これで……準備は整った。
短剣を左手にぶら下げ、ゆっくりとフィーナに歩み寄る。
あとずさるフィーナ。彼女ははっきりと恐怖していた。俺を見つめる瞳からは絶望の色さえ感じられる。
俺は黙したまま歩を進め、フィーナの前に立った。追い詰めるかのように。
表情を歪めたフィーナが唇を震わせる。
「嘘」
「現実だ」
俺は振り上げた短剣をフィーナの胸に深く、突き立てた。