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武器屋リードの営業日誌

第四話
─それでも劇は終わらない─

ライン

 マン・ゴーシュ。
 左手用短剣、を意味する名称であり、その使用目的は利き手以外の手に持って敵の剣を払うことにある。要するに防御用の短剣だ。レイピア(突き刺すための、刃の長い細剣)と共に使われることがほとんどである。
「お父さんの名前は?」
 カウンターに身を乗り出し、俺は尋ねた。それが分からなければ話にならない。
「アーネスト・バーンズよ」
 その名前を出す時、クリスがほんの一瞬だけ不思議な表情をした。何かに期待するような、それでいて何かを隠すような。照れ笑いと苦笑いを足して二で割ればこんな表情になるのではないだろうか。ただ表情だけではクリスが何を考えているのかまでは分からない。そんなわけで、素直に「聞いたことがない」と答えることしかできなかった。武器屋としては情報をつかみきれてなかったわけで、非常に不名誉なことでもあるが。
 俺の答えにクリスは落胆したような、安堵したような、やはり不思議な顔をした。
 何なんだろうな、一体。
「見つからない?」
 先ほどの不思議な表情を消し、灰色の瞳でこちらを見上げるクリス。こちとら接客業。お客様の要望には何としてでも応えねばならない。
 そこで俺は門外不出の家宝に頼ることにした。
 上着から鍵を取り出した俺はクリスに背を向け、戸棚に掛かっている三つの錠前を外した。背中にクリスの視線を感じる。これだけ厳重に保管されてるんだ、彼女にしても何が出てくるのか気になるのだろう。
 俺が戸棚から取り出したのは数冊の分厚い本、古今東西のあらゆる武器を製作者と共に記してあるカタログだった。
 それらをカウンターに並べ、埃を払う。間違いなく今ウチで最も価値のあるものであり、爺ちゃんの代から積み重ねられてきた歴史の証であった。
 組合が発行している基本的なカタログに加え、爺ちゃんや親父が手書きで作った資料もかなりの量がある。俺が商売で困った時、幾度となく助けられてきた。まぁ、爺ちゃんが作った資料の端には「今日の婆さんは機嫌が悪い。近寄ったら死ぬ」とか落書きがしてあって普通に読んでても面白いんだけど。
 そんなアークライト家秘伝の品を前にちょっと胸を張る俺。が、対するクリスの目は冷めていた。正直興味ない。そんな声が聞こえてきそうだ。
 ま、武器屋でもやってなきゃ価値の分からない逸品だしな。仕方ないか。
 腰に手を当てて小さく息を吐く。
「あ、今ちょっと私のこと馬鹿にしたでしょ」
「まさか」
 と答えつつも内心ちょっと焦る。意外と鋭いな。あはは、と乾いた笑いをこぼす俺にクリスは形のいい唇を歪めた。
「ったく。これだからシスコンは根暗というか……」
「ちょっと待て。誰がシスコンだ」
 今度は俺が唇を歪める番だった。いきなり何を言い出すんだ、この子は。
「言っとくがな、俺は武器コンであって断じてシスコンではない」
「それも人としてどうかと思うけど」
 断言する俺に、なぜか嫌そうな顔をするクリス。うるせー。武器屋が武器好きで何が悪いってんだ。
「大体、誰がそんなこと」
「レイさん。クレアはリードのことが大好きだし、リードもクレアのことを大切にしてる、って言ってた」
「だったら単純に妹思いのいいお兄さんね、でいいじゃねぇか」
「えー、だって今でも一緒に寝たりするんでしょ?」
「しょうがないだろ。朝起きたら知らない間に隣で寝てたりするんだから」
「うわ、ほんとに一緒に寝てるんだ」
「ひくなひくな」
 あとずさるクリスを呼び戻すようにぱたぱたと手を振る。
「あー、まぁ、警備のお世話になるようなことだけはしないでね」
 何か、物凄く気の毒な人を見るような目を向けられているような気がするのは俺の思い違いだろうか。言いたいことは山ほどあるが、とりあえず俺は資料から「アーネスト・バーンズ」の名前を探すことにした。くすんだ羊皮紙をめくりながらそこに書かれている文字に目を走らせる。気がつけばクリスもこちらの手元を覗き込んでいた。
 静かな店内にページをめくる音が規則正しく生まれては消える。
 三冊目のカタログの中ほどまで進んだ時だった。アーネスト・バーンズの名を目が捕らえる。
「あった?」
 手を止めた俺にクリスがすぐさま反応する。その表情に微笑みつつ、俺はアーネスト・バーンズについて書かれている部分を指でなぞった。
 資料によれば彼の作ったマン・ゴーシュが世に出たのは十年程前。数自体もそれ程作られておらず、全部で三十振りにも満たないそうだ。彼の名で作られたのはマン・ゴーシュの中でも刀身の片側が櫛型になっている、一般に「ソードブレイカー」と呼ばれる物のみだった。相手の剣を払うだけでなく、櫛の部分を使ってレイピアを折ることもできる防御用の短剣だ。作者であるアーネスト・バーンズは王都の人間らしい。
 王都を中心に流通、しかも数は三十に満たない、か。
 顎を撫で、俺はため息をついてしまった。カタログによればこのマン・ゴーシュ、評価は余り高くない。というかはっきり言ってかなり低い。よって高値で売買されているということはないだろうが、百以下という低数量。さすがにこの田舎町までは品物が回ってこない。
 実際、資料を見ても自分の手で扱ったというような記憶は蘇ってこなかった。
「悪いけど、今ウチじゃ扱ってないな」
「そっか……」
 落胆するクリスに俺が提示できたのは、
「一応付き合いがある近隣の武器屋に訊いてみるよ。もしかしたら品物が流れてるかもしれないし」
 という苦肉の策だけだった。正直可能性はかなり低い。何もしないよりはマシ、という程度のことだった。
「ほんと? お願いね」
 そんな苦肉の策にもクリスは手を叩いて喜んでくれる。結果を考えると胸を叩いて「お任せください」とは言えなかった。
「返事が返ってきたら教えるよ。もうしばらくこの町にはいるんだろ?」
「うん。公演も何回かあるし、また見に来てよ」
 言いながらクリスがカウンターに置いていた荷物を抱える。これから彼女が歩く道のりを思い、苦笑せずにはいられなかった。
「競争率高いからな、チケット」
「そこはほら、私とお兄さんの仲じゃない。いい席あるんだけどなー。今なら特別に二割増し」
 冗談めかして言うクリスに、俺も演技じみた動作で肩をすくめてみせた。
「私とお兄さんの仲、って言うくらいなら普通は安くなるか最低でも定価だろ?」
「あら、お兄さん商売人でしょ。知らない? 市場原理って。今圧倒的に売り手市場なのよね」
「あいにく田舎町の武器屋だ。市場を動かすような大きな取引はしたことがなくてね」
 そんな会話の後で、俺とクリスは笑顔を交わした。
「じゃあ、戻るね」
「気をつけてな」
 大量の荷物に振り回されている感じがするが大丈夫だろうか。左右にふらふらと揺れるクリスを見ながら本気で少し心配になる。そんなクリスの足が店から一歩出たところでふと疑問が頭をよぎった。
「なぁ」
「ん?」
 振り向いたクリスの額にはもう汗が浮かんでいる。
「マン・ゴーシュ、こんな田舎で探さなくても直接親父さんに貰えばいいんじゃないか?」
 訊いた瞬間、クリスの目が僅かに伏せられ、表情に影が差す。だがそれも一瞬のこと。彼女は暗い表情を隠すように少し大げさに笑い、言った。
「ちょっとあってさ。お父さん死んじゃったから」
 反射的に詫びようとした俺の声を潰すように、クリスがさらに明るく、大きな声を出す。
「チケット、定価か少し安く売ってあげられると思うから。また見に来てね」
 そう残し、クリスは逃げるように店から出て行ってしまった。
 伸ばしかけた手をカウンターの上に戻し、大きく息を吐き出す。
 俺は乾いた唇を引き結び、天井を見上げた。


 三日後、俺は修道院への道を一人歩いていた。風がないため身を切るような寒さというわけではないが、それでもポケットに自然と手が入ってしまう程度に空気は冷たかった。周囲の芝生も緑から茶色へと装いを変え、冬が来たことを改めて実感させてくれる。この分だとそろそろ雪が降り出すかもしれない。
 あまり大雪にならなきゃいいんだけど。
 去年の雪かきを思い出し、俺は小さく笑った。その瞬間吹き付けた風に目を閉じ、身を縮ませる。冷たい風は俺にまとわりつくように渦を巻き、やがて辺りの芝生を撫でながら消えていった。
 冬からの宣戦布告か、風の精霊の挨拶か。
 吐き出す白い息の濃さが増したような気がする。
 もうしばらく歩いた所で町外れの小高い丘の上、修道院に辿り着いた。煉瓦造りの建物を一度見上げ、ノッカーに手をかける。二度ほど打ち鳴らし、とりあえずポケットからは手を出して待ってみたが扉が開く気配はない。もう一度同じ事を繰り返してみたが結果は同じだった。
 礼拝の時間か、それとも劇団が来てるせいで忙しいのか。
 とにかくここで立ち尽くしていても仕方がないので勝手に入らせてもらうことにした。基本的に「来るものは拒まず」が信条である修道院の扉には鍵が掛かっていない。不用心だと思われるかもしれないが鍵の代わりに施設と聖職者の身体は法によって守られている。たとえ飴玉一つでも修道院から黙って持ち出せば重窃盗であり、利き腕を切り落とされた挙句目を潰されることになるだろう。いわんや、聖職者に怪我を負わせてしまったら……である。
 ただ、爺ちゃんが子供の頃は子供の修道士と殴り合いの喧嘩をしたそうだから、法自体も昔に比べて厳しくなっているようだ。まぁ、国教であるフェルディナの頂点には教皇がいるわけだが、その権力が強まっているということだろう。最近では政に口を挟むようになったようだ。この国じゃ九割以上(表向きは十割か。異端は弾圧される)の人間がフェルディナ教の信者なんだ。それだけ大きな組織になれば権力も持つし権益も生まれる。権益が生まれればそれにしがみつこうとするのが人間だ。
 最近じゃ私設の宗教騎士団まで設立されたらしい。表面上彼らの任務は聖地の管理や治安維持、巡礼の旅を行う信者達のサポートであるが、実際の目的は王に対する牽制だろう。自分達が獲得した権益を王に渡さないための盾以外の何物でもない。
 権力闘争の道具にされるとは、あの世で主も泣いてるかもな。
 そんなことを思いつつ修道院に足を踏み入れる。修道女達の姿は見えなかったが、正面の、礼拝堂へと続く両開きの扉からは声が漏れていた。セシルによれば礼拝堂での礼拝はしばらく中止ということなので劇団員たちだろう。
 クリスがいればいいのだが……。これで買出しにでも出ていたら完全に無駄足だ。
 俺がここにいる理由。それはクリスにマン・ゴーシュがあったことを伝えるためだ。そう、あったのだ。奇跡的に。今朝付き合いのある武器屋からの手紙を受け取った時には本気で驚いた。一振りだけ倉庫の奥で埃をかぶっていたのが見つかったという。早速俺はそれを送ってもらうよう手紙を出し、その足で修道院に向かったわけだ。
 両開きの扉の片側を開き、顔だけ入れて様子を伺ってみる。
 その瞬間外気とは正反対の熱気が俺の顔を押した。木刀同士が激しくぶつかる音が礼拝堂に響く。正面の舞台では複数の男女による立ち回りが演じられていた。いや、舞台用の衣装を着けていないということは稽古なのだろう。しかしこれは……。
 俺はしばらく扉を閉めるのも忘れて見入ってしまっていた。多対一の殺陣のようだがその迫力ある動きに目を奪われてしまう。どの役者さんも紙一重、見ているこちらからすればもう少し余裕を持ってかわせばいいのにと思ってしまうような間合いで木刀を捌いている。木刀とはいえ当たればただではすまない。実際、腕や額に包帯を巻いた役者さんも何人かいる。
 武器を玩具に育ってきた人間の性か役者さん達の動きに合わせてつい俺の体も反応してしまう。気が付けば頭の中で舞台に立ち、俺ならこう捌くと踏み込みや手の動きを想像していた。
 舞台上で最後の一人が斬られ倒れ伏したとき、体は寒さを忘れ、手はわずかに汗ばんでいた。いつの間にか止めていた息を吐き出し、礼拝堂を舞台に向かって進む。
「お兄さん」
 俺の存在に最初に気付いたのは舞台上のクリスだった。というか今俺も舞台にクリスがいたことに気付いた。そういえば俺が礼拝堂に入った時すでに斬られて倒れていた人がいたような。
 俺はクリスに軽く手を挙げて応え、それから舞台に向かって「こんにちは」と頭を下げた。
「リード……どうしたんだ?」
 驚きの声を挙げて客席から立ち上がったのはレイだった。何やら人の動きが沢山描かれた冊子を手に少しだけ目を大きくして俺を見つめている。
「ちょっとクリスに用があってさ。邪魔だった?」
 尋ねる俺にレイは逡巡するような間を置き、言った。
「いや、一段落ついたところだ」
 それから舞台に顔を向けると、
「休憩にしよう」
 役者さんたちに告げた。そんなレイの姿を見ながらついつい笑ってしまう。
「おかしいだろうか?」
 戸惑うレイに首を振り、俺はからかうように口を開いた。
「演出家って感じがしたからさ」
 一緒に竜と対峙したことがひどく昔のことのように思えてくる。
「必死だよ。前はアンジェラの横で適当に口を出していただけだったからな」
 微笑し、レイは舞台を見上げた。なるほど。殺陣の演出は団長であるアンジェラさんの仕事だったらしい。今回はそれをまるごと任せられたというわけか。
「実戦に長く身を置きすぎたせいで戸惑うこともある」
 その言葉に顔に疑問符を浮かべる俺。レイは舞台からこちらに視線を戻し、教えてくれた。
「アンジェラに言われた。客が舞台に求めるものは現実ではなくて現実味だと」
 それでも、分からない、というような顔をしているとレイは手にしていた冊子を俺に差し出した。
「これを見れば君になら分かるはずだ」
 言われるまま冊子を受け取り、ぱらぱらとめくる。そこでレイの言ったことの意味が初めて分かった。
「君ならこんな風に剣を振るか?」
「いや、無駄が多すぎる」
 答えて俺は冊子をレイに返した。そう言えばさっき殺陣を見ながら自分の動きを想像していたときも舞台上の役者さんと随分違ってたもんな。
「実戦は思っている以上に地味で、泥臭い」
「闘技場ならともかく、舞台に誰もそれを求めてないってことか」
 続けた俺にレイは一つ肯いた。無駄とも思える大げさな動作が観客を引き込む迫力や華を生むのだろう。それが「演出」ということか。
「でも少し安心した」
「何がだ」
 不思議そうな顔でこちらを見つめるレイに俺は鼻の頭を掻いた。
「元気そうで。落ち込んでるかと思ったから」
「そうだな」
 顔を伏せ、レイが自分の左足に視線をやる。彼女が何を思っているのかは分からない。ただ、再びこちらに向けられたレイの瞳には力があった。
「正直、迷いはある。だが今は自分に与えられた役目を果たそうと思う」
 そう言ってレイは冊子を軽く掲げて見せた。それから、ふと、口元を緩める。
「君には心配をかけてばかりだな」
「あぁ、いや、俺が勝手にやってることだし」
 ばつが悪くなって後頭部を掻いてしまった。余計なお世話とかありがた迷惑というような単語が頭をよぎる。
「いいんだ。誰かが私のことを見ていてくれる。悪い気はしない」
 急に照れ臭くなり、顔に血が集まった。上昇する顔面の温度に何を言えばいいのか分からなくなってしまう。
「ありがとう」
 そう言って微笑まれた瞬間、俺はレイから視線を外しうつむいていしまった。どんな顔をすればいいのか分からない。というか表情が言うことを聞かない。
 反則だ。綺麗すぎる。
 うつむいたまま「あぁ、うん」とだけ返事をする俺。我ながら情けない。と、そんな俺の頭を何かがつついた。
「お兄さん。私に用があって来たんじゃなかったの?」
 見れば舞台の上からクリスが俺を見下ろし、木刀の先を俺に向けている。クリスは何と言うか、非常に呆れたような顔をしていた。彼女は一度レイの顔を見てから、こんなことを言う。
「今度は傾向と対策を立ててから来た方がいいかもね」
「そんなんじゃねぇよ」
 と口を歪めて答えつつ額に滲んだ汗を手で拭く。まぁ、クリスの介入によって助けられたのも事実だ。心の中だけで礼を言っておこう。
「で、何?」
「あぁ、探してたマン・ゴーシュ、見つかったぞ」
「嘘!」
 大きなクリスの声が礼拝堂に響き、反響する。
「嘘ついてどうするんだ。付き合いのある武器屋が持っててさ。今日送ってもらうように手紙出したから四、五日で渡せると思う」
「さすがお兄さん。シスコンの二つ名は飾りじゃないのね」
「それは全く関係ねぇ」
 俺の手を握り、笑顔でぶんぶんと振るクリスの顔を半眼で睨む。客の要望に応えられたのはいいのだが、どうもクリスから妙な噂が流れそうで怖い。
「品物が届いたらまた知らせるよ」
「うん。お願い」
 クリスの声は明るい。新しい玩具を買って貰った子供のようだった。いや、クリスにとっては父親の形見なのだからそれ以上だろう。とにかくクリスに吉報を届けることができてよかった。
「今日は帰ってくる?」
 視線を移し、レイに訊く。彼女、昨日は修道院に泊り込みだったのだ。
「帰れそうだ」
「そか、じゃあ夕飯用意して待ってるよ」
「奥さんみたい」
 クリスがからかう。俺は一言「うるせー」と残して二人に背を向けた。客席の間を出口まで歩き、扉の取っ手に手をかける。そこで一度振り向くとレイとクリスがこちらを見ながら何やら楽しげに話していた。内容が気にはなったがさすがに戻るわけにもいかず、おとなしく礼拝堂から廊下に出る。
 妙な噂じゃなきゃいいんだが。シスコンとか。シスコンとか。あとシスコンとか。
 いきなり冷たくなった周囲の空気に驚きながらそんな心配をしているとセシルに出会った。
 セシル・アイフォード。この修道院で暮らす修道女であり、長く伸ばしたダークブルーの髪と同じ色の瞳を持つ俺の友人だ。歳は二十二歳。
「あら、来てたの」
 俺に気付いたセシルは手にしていた桶を足元において指先に息を吹きかけた。
「ノックしたんだけどな。誰も出てこないから勝手に入らせてもらった」
「ごめんごめん。ちょうどお掃除の時間だったから」
 なるほどセシルの持っていた桶の中には雑巾が浮かんでいる。ちなみにこのセシルという女性、黙って立っていれば清楚、かつ敬虔なフェルディナの修道女に見える。それこそどこに出しても恥ずかしくない。が、
「新作のジョーク、いいやつできたんだけど聞く?」
 口を開けばなぜか人を笑わせようとする。というか非常にノリがいい。今意味もなく手拍子を打てばすぐさま意味もなく踊ってくれるだろう。どうもセシルの中には笑顔が人を幸せにするという人生哲学があるようだ。惜しむらくは、結果が出ないということなのだが。
「それは夏になったら聞かせてくれ」
「冬に聞いたら凍死するって? 上手いこと言うわね。そのネタちょうだい」
 まぁ、こんな女性だ。
 と、俺はふとセシルに訊いてみた。
「なぁ、アーネスト・バーンズって知ってるか?」
 あのときクリスが見せた不思議な表情を思い出したのだ。これでもセシルは修道院の写本室の管理人を務めている。彼女の意外な知識に驚かされることも度々だった。
 俺の問いにセシルは一度眉間に皺を寄せ、疑うような目をこちらに向ける。
「知ってるか? って、あなた知らないの?」
「うん、まぁ」
 とあいまいな返事をする俺。武器屋が刀工の名前を知らなかったわけだし、確かに恥ずかしいことではある。それより、
「何でお前がそんなマイナーな刀工の名前知ってるんだよ」
 言った瞬間セシルの眉間の皺がさらに深くなった。
「何言ってるの? アーネスト・バーンズって有名な劇作家じゃない」
 今度は俺が眉間に皺を刻む番だった。胸の下で腕を組み、セシルが続ける。
「いいお芝居たくさん書いたんだけどね、何か盗作騒動が持ち上がってお芝居の世界から追放されちゃったみたい。そのせいなのかしら、失意のうちに若くして亡くなったそうよ」
 俺は顎に手を当て、じっと足元の石畳を見つめた。
 同姓同名、ただの偶然か……それとも。
 視線を移し、今しがた出てきた礼拝堂へと続く扉の向こう、クリスの姿を思い浮かべる。
「どうしたの?」
 セシルの問いにも答えず、俺はただ厚い扉を見つめ続けた。


 さらに四日。日々は何事もなく過ぎ去った。違うのはより気温が下がったことと、店のカウンターから見える景色が変わったことくらいだろうか。開け放っていた雨戸を閉め、お客さんには雨戸についている扉を開けて入ってもらうような季節になった。外の音が入ってこないため、いつもより静かだし明かりも窓からしか入ってこなくなるため少し薄暗い。
 そんな店内で俺はクレアに算術を教えていた。眉をハの字にし、羽ペンの先で頭をかきかき数字を睨むクレア。そんなクレアに横から適当に口を挟みながら解き方を教えてやる。
 どうもクレアは算術があまり得意ではないらしい。フル回転する頭から立ち上る湯気が見えそうだった。
「ここはこうしてな……」
 と数式に指先で触れたときだった。
 結構な勢いで入り口が開き、誰かが駆け込んで来る。反射的に顔を上げた俺の目に映ったのは肩で息をするカートの姿だった。全身黒の制服に腰にはショートソードと手錠。俺の幼馴染であり、この町の警備兵でもある。短く刈り込んだダークブルーの髪を一度撫で上げ、カートはカウンターに手を突いた。
 その顔には大粒の汗が浮かび、口からは荒い呼吸が漏れている。
「何かあったのか?」
 訊く。警備兵であるカートがここまで焦ってるんだ。悪い予感がする。
「お前の所にくる予定だった荷物が道中で襲撃された。すぐ詰め所まで来てくれ」
 荷物……クリスのマン・ゴーシュか。
「クレア、留守番頼む」 
 大きく舌打ちし、俺はすぐさまカウンターを乗り越えた。
 

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