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武器屋リードの営業日誌

第四話
─それでも劇は終わらない─

ライン

 かがり火の焚かれた礼拝堂に絶望と悲しみに満ちた声が響く。もう二度と触れることのできない愛する者への思い。ただ唯一自分に残された肉体と魂を用い、歌い上げるように遠く、高く響かせる。
 愛する者だけではない。国も地位も城も、幸せだった頃の全てを失った。戦火は何もかもを焼き尽くし、もう帰る場所はどこにもなかった。いや、手の中の短剣だけが自分を愛する人の許へと連れて行ってくれる。
 短剣を胸に抱き、目を閉じる。フィーナ・ハイクライン……ニースリール最後の姫の内に去来する思いを代弁するかのようにかがり火が大きく揺れた。
 礼拝堂のあちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。そのほとんどは女性のものだ。
 やがて開かれたニースリール最後の姫の目は、深く、透き通った色をしていた。悲しみと諦めと、何だろうか。とにかくじっと見ていると引き込まれそうになる。そんな瞳を舞台から客席に向け、彼女は少しだけ笑った。
 そして、手にした短剣を自らの胸に深く突き刺した。
 客席から発せられた、崩れ落ちるような呻き声が礼拝堂を包み込む。ゆっくりと降りていく幕。泣き声に混じって一つ、二つと増えていく拍手。
 やがて拍手は大きなうねりとなり、内側から修道院を破壊しかねない音量で響き出した。これが、目の前の舞台で行われたことに対する観客の評価だ。
 当然俺も手を叩き続けた。久しぶりに良質な芸術、かつ娯楽に触れたような気がする。と同時に友人の顔を思い出してもいた。ニースリール最後の姫に関係したごたごたがちょっとあったのだ。元気だろうか、あいつは。
「お姫様かわいそう」
 隣の席で手を叩きながら鼻をすすり、とうとうと涙を流す七歳の従妹の姿に俺は苦笑した。とりあえず拍手を中止し、ハンカチで顔を拭いてやる。涙声だったため「お姫様かわいそう」の台詞も実際は「おびべざまがわいぞう」にしか聞こえなかった。
 涙に濡れたブルーの瞳。かがり火に照らされた銀髪は不思議な色をしている。訳あって一緒に暮らしている従妹……クレア・アークライトは非常に感受性が高かった。
 まぁ、よく言えばだけど。
 悪く言えば物語に影響されやすい。そんな子だ。
「いい芝居だったな」
 組んだ足の上で手を叩きながら左隣に座っている女性が声をかけてくる。長く伸ばされた黒髪が印象的なこの女性はレイ・ケインベック。正確には分からないが二十五歳の俺と歳はそう変わらないらしい。
 レイとも訳あって一緒に暮らしているのだが、最近彼女目当てにウチ(二十歳の時に親父から譲られた武器屋だ)にたむろする友人達を追い払うのに苦労している。正直言ってかなり美人、というか魅力的な女性だし気持ちは分からないでもないけど。
 レイとは以前、と言っても一ヶ月以上前だが、ある事件を介して出会った。その事件で俺は右腕を折り、レイは左足を失った。それで療養と歩行訓練と、ついでに店番を兼ねてウチに居て貰っている。レイは旅人だ。この町に彼女の家はない。ついでに言えば宿を借りるお金も持っていなかった。
 ウチに居れば宿代はいらないし、店番をしてもらえば当然俺は彼女に賃金を払うことになる。レイはそこから町の先生に治療費を払えばいいというわけだ。生活費は払う前の賃金から差っ引いて貰っている……ことにしている。レイが知れば怒るかもしれないが彼女の苦しい状況を知っているだけに生活費を貰う気にはなれなかった。
 で、俺の右腕が石膏から解放され、レイが義足での歩行にも大分慣れてきた頃、娯楽というものに野犬のごとく飢えているこの町に劇団がやってきたわけだ。
「朝早くから準備した甲斐があったよ」
 笑いながらレイに向かって答える。
 ここは小さな田舎町、当然劇場などというものはない。それで町の人々が朝から修道院に集まり、礼拝堂に舞台と客席を組んだのだ。施設として十分とは口が裂けても言えなかったが、そんな舞台で劇団が見せてくれた劇は本当に素晴らしかった。豪雨のように降り注ぐ拍手の雨はもうしばらくやみそうもない。
「楽屋に顔を出そうと思うんだが、一緒にどうだろう」
 不意にレイがそんな事を言う。そう言えばこの劇団の団長と知り合いだって言ってたっけ。旅の途中で世話になったとか何とか。今回の席にしてもレイが事前に二枚のチケットを持っていたから三人で来れたわけで、とれたチケットは実質一枚だけだった。
 一瞬、久しぶりの再会に水を差したら悪いかな、とも思ったが劇団というものに興味があったのと、そして何より、
 フィーナ役の役者さん、綺麗だったよな。
 という高尚かつ純学術的な目的により俺は「ぜひ」と首を縦に振った。


 建物の中とはいえ石造りの修道院の廊下は完全に冷え切っていた。吐く息が白く染まり、ゆっくりと宙に溶けていく。クレアも手が冷えるのか、俺の袖に手をもぐりこませて手首をつかんでいた。ただ、空気は冷たくても活気はあった。色々と準備や片づけがあるのだろう。修道女達が修道服のすそを持ち上げて行き来している。劇団はこの町にいる間修道院を宿とするようだった。確かにここだと何かと都合がいい。劇場に寝泊りすることになるのだから。
 修道院の方もしばらくは礼拝堂での礼拝を中止するようだった。昼間、友人の修道女であるセシルに「いいのか?」と尋ねた所「大切なのは場所ではなく、主に対する思いよ」とそんな答えを返された。いかにも、な答えだが修道院の協力なくしては劇は見られなかったわけで、とりあえず感謝しなければなるまい。
 左隣を歩くレイの歩調に注意しながら廊下を歩いていく。義足での歩行に慣れたとはいえまだ一ヶ月と少しだ。石畳の上ではつまずいてしまうこともある。そんな訳でレイの方を見ながら歩いているのだが、これがクレアには気に入らないらしい。さっきからずっと袖の下で手首をつねられていたりする。
 遠い未来、クレアが陰険なお姑さんにならなければいいのだが。
 そんなことを考えているとレイが立ち止まった。右手に扉。「控え室」と書かれた羊皮紙が貼られている。
 レイは扉に歩み寄ると胸に手を当て、一度大きく深呼吸した。
 その仕草につい眉根を寄せてしまう。
「知り合いじゃないの?」
「知り合いだ。だが、私の方から会いに来たのは初めてかもしれない」
 そう言ってレイは苦笑いした。
「どちらかと言えば私は彼女から逃げていたからな」
 ますますもって分からない。どういう意味だ、と俺が訊こうとしたときノックの音が周囲の冷たい空気を震わせた。仕方なく質問を諦めて扉に注目する。
「レイ・ケインベックだ。アンジェラ・クルスはいるだろうか」 
 一瞬の沈黙の後、扉の向こうで何かを盛大にひっくり返したような音がした。顔を見合わせる俺とレイ。次の瞬間扉を吹き飛ばすような勢いで開き、中から出てきたのは三十代中ごろの女性だった。よほど焦っていたのかアップにされた栗色の髪は所々乱れ、肩で大きく息をしている。女性の、レイを見つめる瞳はただ驚きに満ちていた。いるはずのない人間がそこにいる。幽霊でも見たような、とでも形容すればいいような表情だ。
「久しぶりだな」
 少しばつの悪そうな笑みを浮かべ、レイが呟く。
 女性……アンジェラさんは口を微かに開き、呆然とレイを見つめていたが、やがて腕を大きく開くとレイに跳びついた。
「どこ行ってたのよ!」
 レイを抱きしめるアンジェラさんの語気は強かったがそこにレイを責めるような色はなく、どちらかと言えば迷子になっていた我が娘を見つけ母親のような口調だった。
「ほんっとに心配したんだから」
「すまなかった」
 アンジェラさんの肩に額を預け、レイが照れたように微笑む。俺はそんな二人の姿に安堵していた。レイに心を許せる人がいたということが単純に嬉しかった。辛い旅の中にあってアンジェラさんはレイにとっての安息地だったのだろう。
 アンジェラさんはレイの黒髪を撫で、最後にもう一度きつく抱きしめると腕をほどいた。それからこちらに髪の毛と同じ栗色の瞳を向ける。
 その視線に気付いたレイが俺達を紹介してくれた。
「この町での私の恩人だ」
 少しばかり大げさな紹介に笑みをこぼし、俺は右手を差し出した。
 余談だが左利きの俺は油断していると握手の時に左手を出してしまう。そんな訳で常に意識しておかなければならなかった。わずらわしいことは確かだが生まれついてのもの。神の試練だと思って諦めるしかない。
「アンジェラ・クルス。この劇団の団長よ」
「リード・アークライトです。こっちは従妹のクレア・アークライト」
 アンジェラさんの手を握り返し、微笑む。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
 と、クレアの手を握り、笑顔でぶんぶんと振るアンジェラさん。
「で、どうだった?」
 腰に手を当て、アンジェラさんが俺達の顔を覗き込んでくる。劇の感想を求められていることはすぐに分かった。さて、どう答えたものか。あの劇を見た後では「素晴らしかったです」の一言が酷く陳腐なものに思えてくる。
 逡巡した後で俺は泣き腫らしたクレアの目を指差し、それから拍手のし過ぎで赤くなった自分の手をかざして見せた。
 百聞は一見にしかず、だ。
 アンジェラさんは俺とクレアの顔を交互に見やり、それから「ん」と満足げに肯いた。どうやら分かってもらえたらしい。
「ほら、入って。立ち話もなんだしね」
 一同の顔を見回すアンジェラさんに、せっかくなので楽屋にお邪魔することにした。この部屋、普段は食堂として使われているらしいが今は所狭しと衣装や小道具が並べられ、いっぱしの「裏方」の顔をしている。部屋の中では幾人かの人たちが忙しそうに動き回っていた。衣装や小道具のチェックをしているようだが劇団員だろうか。
 そんな楽屋の真ん中に歩み出て、アンジェラさんは二つ手を打った。
「はーい、注目。置手紙一つ残してある日突然出て行ったレイが旦那と娘を連れて帰ってきたわよー」
「いや、ちが……」
 と否定する間などなかった。部屋の方々から集まってきた劇団員達にあっと言う間に取り囲まれてしまう。こちらに向けられた多くの目のどれもが好奇心に満ち溢れていた。
「へー、結婚したんだ」
「おめでとー」
「よっかたじゃないか」
「この子が娘さん? かわいー」
「ねぇねぇ、馴れ初めは?」
 などなど勘違いに満ち溢れた祝福と疑問が投げかけられる。盛り上がる劇団員を前に俺は「いや、あの」と繰り返すことしかできなかった。訂正しようにも矢継ぎ早に質問が飛んでくる。というかクレアの年恰好を見れば俺とレイの子供じゃないということは明らかなのだが、盛り上がっている彼らにはそれが分からないらしい。
 撫で回されているクレアを横目で見やり、俺は大きく息を吸った。
「俺はレイの旦那じゃありません! こっちの子は俺の従妹です!」
 息を吐くと同時に言う。静まり返る楽屋。皆の目が一斉にアンジェラさんに向けられた。
 その視線を受け、アンジェラさんが人差し指で頬を掻く。
「そうだっけ?」
「さっき自己紹介したじゃないですか」
「ごめん。忘れてた」
 いや、忘れてたって……。
「ま、いいじゃない。減るものでもなし」
 顔を引きつらせる俺に向かって、アンジェラさんは、あはは、と快活に笑って見せた。減るとか減らないの問題じゃないような気がするんですが。
「ほらほら座って座って。みんなは仕事に戻りなさい」
 さっきと同じように二度手を打つアンジェラさんに、周りの劇団員たちはぶつぶつ言いながら散っていった。「また団長の勘違いかよ」「いつものことね」と。
「クリス、お茶淹れてくれる?」
 はーい、と部屋の隅から返ってきた返事を聞きながら、俺達は席に着いた。と言っても俺達三人とアンジェラさんの間にあるのはどこからか持って来られたであろう、ベッドサイドに置くような小さなテーブルだが。普段修道女たちが食事に使っている大きなテーブルは完全に物置になっている。
「クッキー食べる?」
「うん」
 差し出された小皿を嬉しそうに受け取るクレア。そこまではよかった。
「ありがと、おばちゃん」
 口にした本人は上機嫌だが周りはそうではない。俺の耳には空気にひびの入る音が確かに聞こえた。
 なぁクレア。微妙な年齢の人にそれは言っちゃいけないんだぞ。
 と、この場で口に出して注意するわけにもいかない。素直さというのは時に何よりも残酷な結果をもたらす。まぁ、七歳の子供に空気を読めってのも無理な話かもしれないが。
 そんな訳で俺が非常に気まずそうな顔をしているとアンジェラさんがぱたぱたと手を振った。
「いいのよ、気にしないで」
 笑顔のアンジェラさんに安堵する。どうやら気に障ったわけではないらしい。
 そのままの笑顔をクレアに向け、
「おねーさん、素直な子は大好きよ」
「にぃー」
 クレアの両頬を引っ張るアンジェラさん。
 ……あぁ、やっぱり怒ってる。
「ほっぺたもちもち。若いっていいなこんちくしょー」
 伸ばされるクレアの頬を見ながら俺は小さく息を吐いた。すまん、兄は助けてやれん。
「でもほんとに柔らかいわね」
 だんだんと新種の生物を観察するような目になってきたアンジェラさんに、どうしたもんだろ、と顔を見合わせる俺とレイ。真剣な目でクレアの頬をいじっているアンジェラさんの表情は泥遊びをしている子供のそれと大差ないように思えた。
 クレアにしてもどう反応すればいいのか分からないらしい。こちらもこちらで新種の生物を観察するような目でアンジェラさんを見ている。
 もしかして精神年齢ほぼ同じなんだろうか、この二人。
 そんな恐ろしい考えが頭をよぎった時だった。
「何やってるんですか、団長」
 カップの触れ合う音と共にそんな声がする。声の主は四人分のティーカップをテーブルに置くと、呆れ顔でアンジェラさんを見下ろした。
 アッシュブロンド、と言うのだろうか。灰色がかった髪をショートカットにした十七、八歳の少女。お茶を持ってきたということはこの子がクリスなのだろう。
「この子のほっぺ、すっごく柔らかいの。あなたも触る?」
「触りません。ほら、お客さん困ってますよ」
 少女……クリスに言われて初めて気付いたようにアンジェラさんがこちらに視線を向けた。クレアの頬から手を離し、咳払いを一つ。今さらながらに優雅な動作でカップを持ち上げ口をつける。
「ま、とにかくよ」
 何がどう「とにかく」なのかさっぱり分からないが、とりあえず居住まいを正す俺。流れに逆らってはいけない。そんな気がする。
 会話の流れを引き戻してくれたクリスは頭を下げてテーブルから離れていった。
「また会えてよかったわ」
 アンジェラさんの言葉にレイの頬が緩む。
「正直、また会えるとは思ってなかったしね」
「レイとはどこで?」
 何気なく訊いたその一言にレイとアンジェラさんが顔を見合わせる。一拍置いて、レイが肯いた。
「大丈夫だ。彼は全部知ってる」
「そう」と短く返したアンジェラさんはレイとの出会いを語ってくれた。まぁ、確かにレイの旅はおいそれと人に話せるようなもんじゃないしな。
 聞いた話によると(クレアがいるため細部は多少ぼかしてあるが)今から二年ほど前、劇団が公演に訪れていたある町でレイを拾ったのが初めらしい。拾ったというのは文字通りで、レイは道のど真ん中に倒れていたそうだ。原因は空腹と疲労。ウチに来た時よりももっとぎりぎりな旅をしていたようだ。
 レイが劇団に居る間アンジェラさんは幾度となく復讐をやめさせようとしたそうだ。だがその提案を当時のレイが受け入れるはずもなく、彼女はある日突然置手紙を残して姿を消した。
 で、紆余曲折の後現在に至るというわけだ。
「あなたの旅はまだ終わらないの?」
 アンジェラさんの表情がすっと引き締まる。
「その、今は」
 レイの歯切れは悪い。意識的にか無意識にかは分からないがレイの手が左足を撫でた。その仕草に何かを感じたのかアンジェラさんが訊く。
「怪我? そういえば少し引きずってたわね、足」
 レイは唇を引き結び、隣に座る俺の顔を一度見てから観念したようにズボンの裾をまくった。
 アンジェラさんの眉間に皺が刻まれる。そこにあるのは生身の足ではなく、木製の義足だ。
「それでもなお、あなたは旅を続けるつもり?」
「分からない」
 そう答えたレイの顔は苦渋に満ちていた。この一月、レイを見ていて分かったことがある。彼女の中ではまだ全てに決着がついていない。あの三人は結果として死に、手の届かない所に行ってしまった。だが、依然として竜は生きている。その一方で以前のように槍を振れない体になってしまった事も確かだ。たとえある程度回復したとしても、とてもじゃないが竜を相手にできるような状態ではない。早朝、自らの葛藤を振り払うように庭で槍を振るレイの姿に幾度となく胸が痛んだ。
「分からないならウチに来なさい」
 アンジェラさんの一言がレイの顔を持ち上げる。
「別にあなたに答えを与えてあげられるわけじゃない。ただ、今私にとってあなたが必要なの」
「レイを舞台に?」
 反射的に訊いてしまった。俺の問いにアンジェラさんが微笑んで首を横に振る。
「さすがにこの歳まで演技の勉強をしたことのない人を舞台に上げることはできないわ。私がして欲しいのは演出なの」
 レイが、演出?
 ただ、疑問符を脳内に浮かべたのは俺だけだったようで、レイ自身は何を言われているのか分かっているようだ。その横顔に迷いはあっても驚きはなかった。
「前、彼女がウチにいた時に殺陣を見てもらったことがあって、割と好評だったのよ」
 それなら納得がいく。実戦を知っているレイだからこそできる演出があったのだろう。しかし演劇の舞台で殺陣をやるとは。どちらかというと大道芸の範疇に入るものだと思っていたのだが。
 そんな疑問が表情に出ていたのかアンジェラさんが答えてくれた。
「今日みたいな伝統的な悲劇もいいんだけど、私達みたいな小さな劇団が有名になろうと思ったら少し奇抜なこともやらないとね」
 それで、と足を組み直したアンジェラさんの視線がレイに向けられる。
「私はこの町にいる間一度殺陣のある舞台をやるつもりよ。手を貸してもらえないかしら」
 だがそんな要請からもレイは逃げるように顔を伏せてしまった。ややあって、助けを求めるような表情でこちらを見つめてくる。俺は逡巡し、
「いい話だと思うよ。店番なら心配しなくていいし」
 あえて助け舟は出さなかった。
 このままウチにいても事態が好転するとは思えない。環境が変わればレイの気持ちも動くかもしれないし、今はその選択が最良だと思った。
 レイはしばらく無言のまま自分の手を見つめていたが、やがて引き結んでいた唇を開き、分かった、と小さく肯いた。
「ありがと。よろしくね」
 差し出されたアンジェラさんの手を握り返すレイはどこかぎこちない。
 何かが変わってくれれば。今はただそう願うのみだ。


 翌日。
 俺は店のカウンターに頬杖をつき、レイのことを考えていた。今頃は修道院で打ち合わせでもしているんだろうか。朝、レイが出掛けに見せた迷うような表情が頭をよぎったが必死でそれを打ち消す。
 昨夜はレイのためと助け舟を出さなかったが、本当にそれでよかったんだろうか。そもそもこの「レイのため」という奴が単なる押し付けだったのかもしれない。彼女は大人の女性であり、自分で考え行動できる人間だ。それを捻じ曲げてしまったのではないだのだろうか。
 と、午前中ずっとそんな思考が俺の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えしている。
 大きく息を吐き、俺はカウンターに突っ伏した。
 お客さんでも来てくれれば多少は気がまぎれるんだが……。
 一人でいると色々と考えてしまってだめだ。ちなみに今クレアは昼食の準備をしている。最近は創作料理とかいうやつに凝っているらしく、まずくはないのだが名前の無い料理を食べる日々が続いていた。
 その時神の助けか店の入り口に気配が一つ生まれる。慌てて顔を上げ、俺はいらっしゃいませを言おうとした。が、それよりも先に口をついて出たのは「あ」の一言だった。
 お客さんの方も同じらしく、口を「あ」の形にしたまま入り口で立ち尽くしている。アッシュブロンドをショートカットにした十七、八歳の少女。間違いない。昨晩楽屋でお茶を入れてくれたクリスだ。
 クリスは小さな笑みをこぼすと、中に入ってきた。それから両脇に抱えた大量の荷物をカウンターに乗せ、息を吐く。彼女の額には汗が滲んでいた。いくら冬とはいえこれだけの荷物を課抱えていれば汗もかくだろう。背中にもまだ大量の荷物が背負われている。
「お兄さん、武器屋だったんですね」
 クリスが店内を見回す。
「あぁ、昨日はどうも。買出しかい?」
「うん。あそこじゃ私が一番下っ端だから」
 尋ねる俺にクリスは荷物の上に手を置いて苦笑いした。ここから修道院まで結構距離がある。やはり下積みってのは大変らしい。
 あ、そうだ……。
「ねぇ、レイの様子は?」
「普通だけど。ずっと団長と一緒みたい」
 クリスの答えにとりあえず安心する。特に落ち込んでいるというわけでもないようだ。もっとも、隠しているという可能性もあるのだが。やはりレイが返ってきたら一度話をした方がいいのかもしれない。
「お兄さん」
 不意に何とも言えない楽しそうな笑みを浮かべてクリスが身を乗り出してくる。
「レイさんのこと気になるの?」
「そりゃ、まぁ」
 何かの縁で出会い、事件に首を突っ込んでしまったわけだし。
「ねぇねぇ、お兄さんとレイさんってどういう関係?」
「どういうって、お客さんだけど」
 答えた瞬間眉をハの字にしたクリスが親指を下に向ける。大ブーイングだ。
「片思い、両思い、とりあえずキスはした、以外答えなくてよし」
「あのなぁ」
 それは質問とは言わんだろ。しかし何でこの年頃の女の子はこの手の話が好きなんだろうか。俺なんか人の恋話を聞くと「それはそれは幸せで何よりですなー」と心の中で乾いた感想を漏らしてしまうのだが。
 ひょっとして俺、人として歪んでるのか?
「とにかく、ひやかしなら帰りなさい」
「物凄く暇そうだったくせに。第一、私はちゃんとしたお客さんよ」
 胸に手を当て、なぜか得意げな顔するクリス。まぁ、客なら無下に追い返すこともできない。
「舞台で使う模擬剣か何か?」
 俺の問いをクリスが首を振って否定する。
「私の個人的な買い物」
 それからクリスは真剣な瞳で俺を見つめ、言った。
「父の作ったマン・ゴーシュを探して欲しいの」
 と。

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