武器屋リードの営業日誌

第三話
─竜を追う者─

ライン

 夜の景色が背後に流れていく。前を行く二人はさすがに速かった。俺にしたって日々の鍛錬を怠っているわけではないが、やはり基本的な運動量が違うらしい。離されず、付いて行くのがやっとだった。それでも息はかなりあがり、肺は少しでも多くの空気を吸い込もうとする。立ち並ぶ家の数がまばらになり、山が近いことが分かった。石畳も終わり、道が僅かに傾斜し始める。
 依然先頭はエイク。その後にレイと俺が続く。走り続けた後の山登りにふくらはぎが疲労を訴える。少し休もうよ。体中から聞こえるそんな声無視して、俺は山道を登り出した。
 月明かりだけを頼りに二つの背中を追う。パルチザンを手にした左腕が痛んだ。筋肉が張っているのだ。今すぐにでも揉み解してやりたいところだがそういうわけにもいかない。
 額から流れる汗を拭くこともせず、走る。両側から覆いかぶさってくるような木々に俺の荒い呼吸音が吸い込まれ消えていった。
 まずいな。
 この山道がどこに続くのかを思い出し口内で舌打ちする。やがて視界が開け、正面の岩山に口を開けた洞窟が現れた。ミルスの旧坑道。中は迷路のように入り組み、それこそ入り口から紐でも伸ばしながら歩かなければ確実に迷ってしまうような、そんな場所だ。子供の頃、ここでだけは絶対に遊ぶなと言われた場所でもある。
 先頭を行くエイクは一度こちらを振り返り、迷うことなく坑道に突入した。闇に飲まれる。そんな表現がぴったりと当てはまった。エイクの姿は一瞬にして闇の中に消えてしまう。
 当然のようにレイもその後を追った。入り口の小石を蹴り飛ばし、闇を斬るように加速する。
 最良の選択を……するんじゃない。したと信じろ。最良なんて結果論でしかない。
 俺は足を止めなかった。
 とてもじゃないがランプを取りに戻る暇などない。それにここは子供時代の俺の庭だ。多少の地の利もある。遊ぶな、などという大人の忠告は当然ことながら無視した。もっとも、この闇の中で「地の利」とやらがどれほど生かせるのかは分からないが。
 坑道に足を踏み入れた俺は呼吸を整えつつ、一歩一歩進んでいった。伸ばした自分の手どころか目の前に立てた指さえ見えないような闇だ。先行する二人も移動する速度を必ず落とす。
 重く湿った空気を手にしたパルチザンで押しのけるように進む。埃っぽく、淀んだ匂いが息をするたびに鼻を抜けた。前を行く二人の気配は完全に消えている。
 最初の分岐点に到達。地面に鼻をくっつけてみたが暗すぎて足跡も見えなかった。子供の頃の記憶を頼りに左を選ぶ。単なる勘、というわけでもない。記憶が確かなら左が本道で右は枝道だ。闇のせいで分岐に気付かなかった可能性もあるし、たとえ気付いていたとしても不慣れな場所では太い道を選びたくなるのが心情ではないだろうか。特にこのような場所では。知らない町の路地に入るのが何となく嫌なのと似ているかもしれない。まぁ、俺を基準にした予想でしかないのだが。
 記憶を頼りにさらに進む。この先、道は三つに分かれている……はずだ。選ぶならやはり正面か。
 不意に首筋に垂れてきた雫に身が硬くなる。まったく心臓に悪い。が、同時に昔のことをよりはっきりと思い出した。
 そう言えば雫に驚いた奴が大声上げて、一同パニックになったのもここだっけな。
 こんな状況であるにも関わらずつい笑ってしまう。
 あのあと散り散りに逃げた俺達の大部分が迷子になり、大捜索隊が結成されたわけだ。で、無事救出されたもののそれぞれがぞれぞれの父親に拳で殴られ、町の人たちの前で土下座させられた。今になってはいい思い出だ。
 しかし、だとするとこの辺に……。
 俺は膝を折り、地面に手を這わせた。土を触っていた指先が別の感触を捉える。地面に埋められた大き目の石。間違いない。俺達が埋めた物だ。
 はた迷惑な話だが、親父に殴られ土下座させられたくらいで俺達の好奇心とフロンティアスピリットが萎えるはずもなく、結局それは坑道に道しるべを埋め込むという新たな作戦を俺達に実行させた。
 石の表面を撫でると懐かしい感触を見つけることができた。石に掘り込まれた矢印と、その下の行き先。ちなみにこのアイディアを教えてくれたのは爺ちゃんだった。親父に怒られ、庭で泣く俺の頭に手を置いて「冒険は男のロマンじゃからな」と笑顔で慰めてくれた。もっとも、岩に目印を刻むために店から持ち出したナイフが何やら高級品だったらしく、やっぱりまた親父に殴られたわけだが。
 とにかく子供の頃の冒険心のおかげで俺は自分の位置を正確に知ることができた。間違いなくここは分岐の手前だ。
 と、俺の指先がまったく予定外の感触を捉えた。反射的に跳び退り、パルチザンを構える。
 俺の指先が触れたのは間違いなく誰かの手だった。鼓動が一気に早くなり口内が乾いていく。
 目の前の闇がふらり、と揺れた。
「リードか?」
 周囲の湿気にそぐわない澄んだ声がする。俺は安堵のため息をついた。
「あぁ」
「焦り過ぎた」
 自嘲するような響きを混ぜ、レイが言う。
「何も見えない。奴の気配も見失ってしまった」
「一度外に出ないか? このままじゃらちが開かないだろ」
「それはできない」
 柔らかく、だがはっきりと拒絶された。
「君は私を止める。だから……ここまでだ」
 闇の中で、レイの瞳に宿る光が見えたような気がした。強い、意志の光。
「リード、もう君は戻れ。でなければ、私は本気で槍を向けなければならない」
「覚悟してるさ」
「らしくないな」
 会話が途切れる。一呼吸ほどの間をおいてレイが続けた。
「勝手な覚悟だ。君が死ねば泣く子がいる。自分が背負っているものを忘れたわけじゃないだろう」
「それを言われると辛いな。まぁ、死なない程度にやるさ」
 正面の闇からため息が聞こえた。俺は俺で口元を緩める。
「もう少し別の形で出会いたかった」
「言うなよ、そんなこと」
 そんな俺の一言を最期に、多少緩んでいた空気が再び張り詰める。互いに相手の姿は見えていない。後はどれだけ敏感に気配、音、空気の揺れを感じられるかだ。正面の闇を凝視する。本当に目の前にレイはいるのだろうか。不安になった。それほどに何も見えない。瞬きさえできなかった。乾いた眼球が痛みを訴える。基準がないゆえにぶれ始める焦点を何とか合わせ、俺は周囲の情報を集め続けた。
 動かない。
 ためらいか、それとも……。
 その時、前方で小さな火花が散った。ほんの一瞬。一面の闇だからこそ気付けた。
 全身に痺れのような危機感が走り抜ける。反射的に踏み込んだ俺はそこにいるであろうレイに飛び掛った。穂先がかすったのか、肩に鋭い痛みが走る。だが気にしている余裕はない。
 俺がレイを押し倒した瞬間、脇を何者かが通り抜けた。ざっ、と地面を滑る音がして足音がやむ。
「リード」
「あぁ、一人増えた」
 俺の下で名を呼ぶレイにそう答え、ゆっくりと立ち上がる。
「お喋りは身を滅ぼすぞ」
 楽しげな響きだった。俺達の声を頼りにここまで戻ってきたってわけか。理屈は分かるがたいした勘と耳だ。ハンターの名は飾りじゃないということか。
 肩の痛みに顔をしかめながらエイクがいるであろう方にパルチザンを向ける。柄を強く握るだけでかなりの痛みが肩に伝わった。だが、肩を貫かなかっただけでもマシだと思わなければ。
「血の匂いがするじゃねぇか。仲間割れか?」
「ちょっと引っ掛けただけさ。お前こそ逃げるんじゃなかったのか?」
 生暖かいものが右の拳を伝わり、地面に落ちる。湿気と血の匂いにむせ返りそうになった。
「せっかくの機会だ。後腐れないように始末をつけとこうと思ってな」
 せっかくの機会、か。
 エイクの台詞を胸中で反芻し、苦笑する。確かにこの状況、エイクのほうが有利だ。エイクは何も気にせず剣を振る事ができるが、俺はレイとの同士討ちを避けなければならない。
「リード、手を」
 不意に耳元で声がした。
「早く」
 返事をする間もなく右手をとられてしまう。
 一瞬の沈黙。
「すまない」
「どうして」
 訊くと同時にレイの手を強く握り返す。
「私にしてもこれ以上君を傷つけたくない。手をつないだ状態でどれだけ動けるか分からないが同士討ちは避けられるはずだ」
「じゃあ、俺が前に出るよ」
「馬鹿を言うな。怪我人は下がっていろ」
「体の面積が広い方が盾には適してる。それに言ったろ。人殺しにしたくないって」
 この状況じゃどうしたって防戦一方だろうけど。
「私に、ただ隠れていろと言うのか」
「できればこの場から逃げて欲しいくらいさ」
「なぜ……そこまでするんだ」
 ふと考えた。
「男の子の意地、かな」
 レイの言葉が途切れる。
「言ったはずだ。そういう優しさには弱いと」
「忘れたよ」
 俺は闇の中で微笑んだ。そう、結局はただの意地だ。たとえ圧倒的に不利な状況であっても負けを認めるのが嫌だった。人間的に尊敬できない奴相手にならば尚更だ。
「終わったかい?」
 待ちくたびれた、と言わんばかりの声がする。
「悪かった」
「いいさ。思いは残さない方がいい。化けて出られても困るからな」
 俺は口元を緩め……先に撃って出た。片手で扱う槍にどれほどの威力があるのかは分からない。が、恐らく攻められるのはこの瞬間だけだ。強く踏み込み、必死で腕を伸ばす。
 手ごたえは、ない。それどころか金属同士が打ち合う甲高い音と共に穂先が跳ね上がった。火花が散り、衝きの体勢に入ったエイクの姿が一瞬だけ浮かび上がる。俺は槍を引き戻しつつ体をひねった。次の瞬間眼前を風切り音が通過する。全身から吹き出す汗。あと少しずれていればこめかみから串刺しにされていた。
 次は何がくる。
 この狭い坑道内で両手剣を大きく振ることはできないはずだ。衝き主体で攻めてくるとみて間違いない。だがエイクにとって俺が突き出したパルチザンが脅威であることも確かだ。下手に踏み込めば自ら槍に向かってしまう可能性もある。とすると。
 パルチザンの先に何かが触れた。その瞬間予想通り穂先が跳ね上げられる。続けて踏み込み音。その音に合わせて俺は再び大きく体をひねった。と同時に槍を引き戻す。
「はずれだ」
 相手を挑発するように言ってやった。
「なら当たるまでやるさ!」
 槍が跳ね上がってから踏み込み音がするまでの間隔が一気に短くなる。俺は口の中でうめき、とにかくかわし続けた。いや、当たらないよう神様に祈りながら体を動かし続けた、と言った方が正確だろう。
 闇の中に時折火花が散り、剣戟の響きが走る。槍を持つ左手の握力と腕力が目に見えて落ち始めた。パルチザンを払われるたびに腕ごと弾き飛ばされそうになる。
 出血のせいか体がふらついた。ふんばりが効かない。徐々に後ろに押され始める。どうすればいい? 考えろ。このままだと時間の問題だ。
 肺の求めに応じ、大きく息を吸い込んだその時だった。頭部に衝撃が走り、俺はレイを巻き込むようにして後ろに倒れ込んでしまった。手から離れた槍が地面に落ち、転がる。
 頭が熱い。頬を鉄臭い液体が流れ落ちていく。混濁する意識の中で分かったのは石を投げられた、ということだけだった。タイミングをずらすためにエイクが投げたのだろうが、
 よりによって頭に当たるかよ。
 日頃の不信心のせいだろうか。この状況にあって運にさえ見放された。笑うしかない。
「リード、もういい」
 荒い呼吸音の合間、耳元でレイの声がする。彼女の手が俺の胸元をつかんでいた。
「泣きそうな声出すなよ」
 そう言ったつもりだが音にはならなかった。胸元にあるレイの手を引き剥がし、頭の命令を聞こうとしない足に鞭打って立ち上がる。
「手間かけさせやがって」
「まだ終わらないさ」
 拳を持ち上げ、正面に向ける。落としたパルチザンは闇に没し、どこにあるのか分からない。
 坑道に風が吹いた。脳内に疑問符が浮かぶ。風が、なぜ。だが考えている暇などなかった。
「死ねっ!」
 そんな一言に対して精一杯の抵抗を込めて拳を突き出す。決して潔く散るためではない。生き残るために俺は前に出る。
 だが、足は応えてくれなかった。地面に張り付いてしまったように動かない。
 せめて一歩。そんな思いも届かなかった。一つ、二つと逃げるようによろけ、後ずさる。
 もう、だめなのか。
 体から力が抜ける。刹那、坑内が赤く染まった。熱と光の奔流が目の前のエイクを飲み込み、その姿をかき消してしまう。光に包まれる寸前、エイクと目が合った。彼は笑っていた。歯を剥き出しにして。歓喜か、それとも狂気か。
 自分の目の前を走り抜けたものが巨大な炎だと理解できたのは辺りに漂う焦げの匂いを知覚してからだった。周囲は再び闇に包まれ、目の前から人間の気配が一つ消えていた。
 エイクの持ち物であった両手剣が熱せられ、地面の上で赤い、夕日のような光を放っている。
 何が起こった。上手く回転しない頭で必死に考える。一つだけ分かったことがあった。今自分は坑道の本道ではなく枝道にいる。もし最後の瞬間前に出ていれば人一人を消し去るだけの力を持った炎に巻き込まれていたということだ。俺の意識は生きるために前に出ようとした。だが、足は言うことを聞かず後ろに下がり、結果的に俺は生き残った。本当に生きようとしてたのは俺の意識ではなく体だというのだろうか? ただの幸運で片付けてしまうことはできないような気がした。
 助かったよ。
 とりあえず手で膝に触れ、俺は胸中で礼を言った。
「リード」
 俺の名を呼ぶレイの声がする。俺は大きく息を吐き、大丈夫だ、と返した。が、どうもおかしい。レイの声が硬いような気がする。一応の危機は脱したというのに。
 まぁ、俺にしたって目の前で一人人間が消え去ったという事実を上手く処理できていないんだが。
「最悪だ」
 レイの声は低く、抑えられていた。闇を通して緊張感がこちらまで伝わってきそうなほどの雰囲気。
「奴だ」
 レイの台詞に呼応するようにして咆哮が坑道を震わせた。反射的に頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたくなる。声だけでここまで恐怖心を煽られたのは初めてだった。巨大な爪で心臓を鷲掴みにされたような、とでも言えばいいのだろうか。心の奥底、動物としての本能が残る場所で「こいつとは関わってはいけない」と警鐘が打ち鳴らされる。何度も、何度も。
 どうにも頭が鈍っていたらしい。エイクを消し去った炎を発した何か、についてすぐさま考えるべきだった。
「今のがブレスってやつか」
「血の臭いを嗅ぎつけたのかもしれない」
 レイに言われ、肩に手をやる。出血は止まっていなかった。
「諦めてくれるまでここで待つ?」
「それだと君がもたない。第一……」
 轟音と共に地面が揺れ、天井から砂や小石が降り注ぐ。
「奴にとってこんな坑道など砂の城と同じだ」
 このまま待っていても生き埋めになるだけか。
「入り口以外にどこか出られる場所はないのか?」
 ない、と答えようとして俺は留まった。子供の頃探検して見つけた場所が一つだけある。俺は昔の記憶を引っ張り出し、頭の中に地図を描いた。と同時に友達の誰かが言った言葉を思い出す。
 この道から左の壁に手をついて歩けばいいんだ。
 その後で「おお、頭いいなー」と拳を握ってそいつを賞賛したっけ。
「手を。案内するよ」
「いや、肩を貸そう」
 言いながら、レイは俺の体を支えてくれた。それだけで大分楽になる。腕がレイの髪に触れた瞬間、不思議と安らいだ。久しぶりに温かく柔らかいものに触れたような気がする。
「どうした?」
「何でもない。行こう」
 足に力を込め、俺は左の壁伝いに歩き出した。

ライン


 穴の縁に手をかけ、かろうじて体を引き上げる。左の腕を地面につけた俺はイモムシのように縦穴から這い出した。地面に転がり、長く息を吐く。下で支えてくれたレイに感謝だ。でなければとても左腕一本で縦穴を登ることはできなかった。完全に痺れてしまった右腕の感覚はないに等しい。
 血が足りなくなった体に冷たい夜風は厳しかった。真冬でもないのにじっとしていると体が震える。
 ややあって縦穴からパルチザンの穂先が顔を出し、続けてレイが登ってきた。
「大丈夫か?」
「何とか」
 答えて立ち上がる。頭の傷のせいか酷い頭痛がする。脳味噌の代わりに鉄でも詰められたように頭が重かった。
「リード、腕を」
 言いながらレイが薄いブルーのハンカチを取り出す。見覚えがあると思ったら俺のだった。そういや修道院で貸したんだっけ。
 レイは俺の服の袖をちぎり取ると右の上腕をハンカチできつく縛った。
「もう少しマシな返し方をしたかったんだがな」
 ハンカチを見ながらレイが苦笑する。月明かりに照らされた黒髪が風に吹かれ、音もなく揺れた。場違いな感想ではあるが、純粋に綺麗だと思った。こんな状況でなければ胸が高鳴っていたかもしれない。
「十分さ」
 それだけ言って、俺は今いる山の頂上付近から下方に視線を落とした。
 山が動いたような気さえする。坑道に突っ込まれていた鼻先が何か、恐らくは血の臭いを求めるようにしてこちらに向けられた。
 足が震え、歯が鳴る。真紅の鱗に覆われた巨体からは圧倒的な力が発せられていた。あらゆる生物の頂点に立つにふさわしい風格。何をどうすればこれだけ鋭い歯ができあがるのだろうか。たとえ千年に一人の職人であっても、この歯に勝る刃は作り出せないだろう。
 地獄より深いところから響いてくるような低い呻き声が山を揺らす。こちらに向けられた黄色い二つの瞳は月さえもその中に飲み込んでしまいそうだった。
 何も言えず、ただその場に立ち尽くす。冷や汗さえかかなかった。
 小さな家の屋根ほどもある翼がはためく。瞬間、巻き起こった突風と共に巨大な体が地を離れ一気に上昇した。月に食らいつくような勢いで空を割り、遥か上空、星空を背に一度翼を揺らす。それから諦め、神に祈る時間をやるとでも言わんばかりにたっぷりと時間をかけ生物達の王は俺とレイの前に舞い降りた。翼がはためく度に周囲の木々を折るような勢いの風が吹き、押し倒されそうになる。
「逃げろ」
 渦を巻く風の中でレイの声がする。彼女はただ正面、竜を見つめパルチザンを構えていた。
 エイクの話はやはり嘘だった。レイは竜を前に笑ってなどいない。俺の目に映っているのは必死なって恐怖と戦い、押し殺しているレイの横顔だ。妹のために。そして、今は俺のために。あの夜、俺の家の前でレイが見せた高揚感に満ちた笑顔は自分を鼓舞するための、精一杯の強がりだったのだろう。
「断る」
 ならば尚更逃げられない。当たり前だ。
「歯を食いしばってる女性を置いて男が逃げられるわけないだろ」
 少しだけ間をおいて、レイが小さく吹き出した。
「馬鹿だな君は。本当に……」
「何事も割と器用にこなすタイプなんだけどな、俺」
 言って笑う。実に心外なお言葉だ。
「何か弱点とかないのか?」
 よだれを垂らし、舌なめずりをする竜を見据えながら俺は訊いた。
 もう少し待ってろ。行儀悪いぞ。
「目を狙えればひるませること位はできるかもしれない」
 結果に期待を持てそうもないが、それ以外に方法はなさそうだ。
「俺が囮になる。その間に奴の側面に回り込んでくれ。そうだな……さっき奴がいた所、坑道の前まで引っ張る」
 レイの口が僅かに開いた。それを目で制し、続ける。
「俺には槍を振れるだけの力が残ってない。それに……どう考えたって俺の方が旨そうだろ?」
 この状況における渾身のジョークにレイは、仕方ないな、という風に笑ってくれた。それは母親が小さな子供に向ける笑顔に似ていたのかもしれない。予定では爆笑するはずだったんだが、まぁ、いいだろう。改良の余地ありということで。
 なんて、バカなことを考えていなければ恐怖に飲み込まれてしまうという事実を心の奥底にしまい込み、俺は竜を下から睨み上げた。
「幸運を」
 呟き、俺はレイの肩を押した。
「死ぬなよ」
 言い残し、レイが地面を蹴る。竜の視線が動き出したレイに向けられた。足元の石を拾い上げ、それを竜の鼻先にぶつけてやる。レイに向けられていた視線は興味のそれだ。だが、視線が俺に移った時そこにははっきりとした怒りの色が滲んでいた。
 人間ごときが。
 そんな声さえ眼光から聞こえてくる。
 こんな生き物がこの世にいるなんてな。できれば一生出会いたくなかった。
 一度目を閉じ、ゆっくりと開く。驚いたことに竜は跡形もなく消えていた。……なんてうまい話があるわけない。
 覚悟を決めろ。
 俺は親指を立て、それで自分の胸を指差した。竜に向かって言ってやる。
「血のしたたるレアステーキだ。喰ってみろよ」
 反応は早かった。恐ろしいほどの速度で視界が鋭い歯と毒々しいまでに赤い舌で塗りつぶされていく。短く息を吐いた俺は跳躍するような勢いで地面を蹴った。
 背後で巨大な顎が閉じた音がする。次々となぎ倒される木々を避け、俺は斜面を転がるような勢いで駆け下りた。気を抜くと膝が砕け、前のめりに倒れそうになる。だがまだ喰われてやるわけにはいかなかった。ディナーの会場はここじゃない。
 地面に大きく張り出した木の根を跳び越え、着地。が、バランスをくずして転倒する。鼻の先まで迫った巨大な爪をかろうじて避け、俺は再び走り出した。口にたまった埃っぽい唾を吐き捨てる。もう走っているのか坂に合わせて足を動かしているのか分からない。太ももの筋肉はとっくの昔に痙攣を始めていた。
 空気が気管を通るたびにかすれた音をたてる。喉が痛い。小さなイガ栗を吸い込み、吐き出しているような気分だった。
 衝突音と共に地面が揺れ、小石が頭上から降り注ぐ。背後では大きく地面がえぐれていることだろう。人間など一瞬で挽肉だ。
 その力で畑を耕してみろよ。大豊作だ。
 胸中で軽口を叩きつつ全力で逃げる。心臓が限界を訴えても足は止められない。その瞬間に俺は死に、全ては終わる。食物連鎖の一環だと言ってしまえばそれまでだが、さすがにそこまでは達観できていない。
 どれほど走ったのかは分からない。ただ、目的地である坑道前をかすれた視界で確認できる所までは来た。
 あと少し。一秒か、二秒か。
 弾き飛ばされた枝が頬をかすめ、咆哮が背を押す。びびったわけでも気を抜いたわけでもない。ただ、俺の足はもう限界だった。
 視界が開けた、と思った瞬間俺はいまだかつて感じたことがない程の衝撃を背に受け、宙を舞っていた。呼吸が止まり、胃から上がってきた血が口から吹き出る。星空が一瞬だけ見えた。そして落下。
 腹から地面に叩きつけられた俺が見たものは黒くもやがかり、九十度傾いた視界の中で悠々と歩み寄る竜の姿だった。
 再び口から血が溢れ、地面に黒い染みを広げる。声も出ない。指一本さえ動かない。ただ浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。死にかけの魚のように口を喘がせ、唯一動く眼球で竜を睨む。
 竜は鼻先を俺に寄せ、匂いをかいでいるようだった。
 血の匂いがそんなに嬉しいのかよ。
 やがて竜は満足したのか、俺を噛み砕くべく巨大な口を開いた。赤黒い闇が眼前に迫る。
 その時、視界のほんの端にレイの姿が映った。パルチザンを構え、竜に向かって走るレイを見て最初に思ったことは「あぁ、逃げなかったんだな」だった。
 彼女も損な性格をしている。でも……悪くない。
 レイに気付いた竜が視線を転じ、振り払うような前足の一撃を放った。レイの体が大きく沈み込む。
 一瞬、時が止まったような気がした。音も匂いも味も感触も全てを感じなくなり、ただ視覚だけが異常に研ぎ澄まされた状態。
 竜の前足は空を切り、鋭い爪に切り取られたレイの二本の髪の毛が宙に舞う様を俺にははっきりと見ることができた。
 引いていた波が帰ってくるように、一気に時が流れ出す。
 低い体勢で踏み込んだレイの体は限界まで引き絞られた弓のようだった。目に見えない射手が手を離した瞬間、矢は確実に目標を撃ち抜いた。眼球を貫かれた竜の顎が跳ね上がり、泣き叫ぶような甲高い咆哮が夜空を震わせる。
 レイが俺に視線を向けた。俺も応えて笑おうとする。が、もうそこにはレイの姿はなかった。丸太ほどの太さがある竜の尾がレイの体をなぎ払ったのだ。何かが潰れるような衝突音と共にレイが弾け跳ぶ。
 俺の視界の中でレイの体は風に舞う木の葉のように地面を転がり、止まった。あとはもう、目を見開いたままぴくりとも動かない。彼女の下で黒い染みがゆっくりと広がっていった。片足が曲がってはならない方に曲がっている。
 巨大な前足が振り下ろされるたびに大地が揺れ、地面がひび割れた。甲高い咆哮は尚も続く。目から緑色の涙を流しつつ真紅の鱗に覆われた太い鞭を何度も何度も地面に叩き付ける。
 やがて竜は狂ったように翼をはためかせ、空に舞い上がった。そのまま頭をかきむしる様に無茶苦茶な軌道で飛び、怒りに満ちた叫び声を引きながら月に向かうようにして消えていった。
 山が静寂を取り戻す。いや、完全な静寂ではない。虫の声や梟の声が聞こえるいつもの夜の山だ。
 俺は体に残ったカスみたいな力を振り絞り、片腕だけで地面を這った。全身に激痛が走る。視界のほとんどは闇に包まれていた。
「レ……イ……」
 かすれた声でそう言った瞬間限界を迎える。後はもう、全てが闇だ。

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