武器屋リードの営業日誌

第三話
─竜を追う者─

ライン

「ごめん。私がちゃんと気をつけてれば」
「謝るな。お前のせいじゃない」
 うつむき、唇を引き結ぶセシルに俺は首を振って見せた。肩の一つでも叩いてやれればいいのだがそういうわけにもいかない。
 妙な所で真面目なんだよな、こいつ。
 気が付けば目に涙までためているセシルを見ながら息を吐き、夕日に赤く照らされた町並みに視線を移す。
 もうすぐ日が沈む。レイが闇の中にまぎれてしまえば探し出すのはほぼ不可能だ。レイは男たちを狙いながらも竜を狙っていた。息を殺し、気配を絶つことが狩りの鉄則だ。隠れるという点に関して言えば俺よりもレイの方が一枚も二枚も上手だろう。
 俺は短く息を吐き、閉めてあった店の雨戸を開け放った。
 店内をゆっくりと進み、売り物のパルチザンを手にする。木製とはいえ、握った柄は冷たかった。
 修道院で目にしたレイの棒さばきが頭をよぎる。彼女が槍の名手であることは間違いない。できれば杞憂であってほしい。だが、レイと対する時のことを思い俺が手にしたのはこの店で最も値段、質ともに高いパルチザンだった。
 腕に差がある以上、道具くらいはいい物を持っておきたい。というか、道具の質でしか腕の差を埋められそうになかった。
 今レイは槍を持ってはいない。俺が売ったパルチザンは警備に証拠品として押収されてしまったし、この町に一軒しかない武器屋の俺には、レイに二本目の槍を売った覚えがない。
 素手対槍ならこちらにもいくらか勝機はありそうなんだが。正直、物干し竿対槍でもいい勝負ができそうな予感がしていた。
 レイの行き先について心当たりは二つある。一つは復讐の相手であるエイクの所。そしてもう一箇所はここだ。
 くどいようだがレイは今丸腰であり、武器を入手できる場所はこの町でここしかない。レイにしてみればエイクを殺しに行く前に自分の得物である槍を手にしたいはずだ。ここで待っていればレイと出会える可能性は十分にある。が、問題はレイがここに来ず、エイクの所に直行する可能性があるということだ。
 偶然にも槍をどこかで手に入れてしまうかもしれないし、槍以外の武器でも殺せればいいと思うかもしれない。
 俺はレイに人殺しになって欲しくない。そして俺にとってベストなのはエイクを背に槍以外の武器を手にしたレイと対峙することだ。
 ここで待っていればレイが槍を手にすることは防げる。が、その間にレイがエイクを殺してしまったのでは意味がない。
 結局のところエイクを背に槍を手にしたレイと対峙する、という選択肢を選ぶことになりそうだ。となると……、
「クレア」
 カウンターの向こう、店と住居部分をつないでいる扉に向かって呼びかける。ややあって、ぱたぱたという足音が近づいてきた。足音が止まったところで扉が開く。
「おかえり、お兄ちゃん」
 カウンターを迂回したクレアが駆け寄ってくる。
「ただいま」
 クレアの様子はいつもと変わりない。状況を理解できてない、というかセシルも俺と同じようにあえて理解させようとはしなかったのだろう。それでも沈んだセシルの様子に何かを感じ取ったのか、クレアは俺を見上げて少し不安そうな顔をした。
 そんなクレアの頭に手を置き、笑って見せる。
「今日、ちょっと忙しくて晩ごはん作れそうにないんだ。悪いけどセシルと一緒に風の丘亭で食べてくれないか」
「お仕事、なの?」
 クレアの視線が俺が手にしているパルチザンへと移る。
 俺は少しだけ考え、
「お仕事だ」
 そう答えた。
 ポケットに手を入れ、二枚の銀貨を取り出す。
「これだけあれば足りるだろ。おみやげにアップルパイを買ってきてくれると兄は喜ぶぞ」
 銀貨をクレアに手渡し、頭を撫でてやる。
「はーい」
 元気よく手を上げたクレアは俺の脇をすり抜け、セシルの腕にしがみついた。
「いこ、お姉ちゃん」
「あ、うん」
 小さく答え、セシルがこちらを見つめる。
「何だよその飼い主に説教食らった犬みたいな顔は」
「だって……」
「だって、じゃない。お前のせいじゃないって言ったろ。それに」
 言葉を切り、ため息をはさむ。
「その場に誰がいたってレイは止められなかった」
 俺は口元を歪め、自分の爪先を見つめた。
「それよりクレアのこと頼むな。修道院には後で俺から頭下げとくから」
 セシルにしても暇なわけではない。彼女には彼女のお勤めがあるのだ。そのセシルを個人の勝手な都合で拘束しているわけで、まぁ、さすがに一言もなしというわけにはいかないだろう。
「ま、とにかく行った行った。あまりもたもたしてると、な」
 野良犬でも追い払うようにぱたぱたと手を振る。
 セシルはそんな俺の顔を見ながら小さく肯くと、クレアの手を握った。
「じゃあ、行くね」
「あぁ」
 短く返事をして二人に背を向ける。俺は一度店内を見回し、クレアとセシルの気配が背中で感じられなくなったところで表に出た。パルチザンを手に雨戸を閉め、足元の鍵をスライドさせる。
 気休めだ。これくらいじゃ諦めてくれないだろうけど。窓の一枚や二枚は覚悟しとかなきゃな。
 初めから店先に槍を立て掛けて置けばいいのかもしれないが、そうもいかない。レイだって馬鹿じゃない。これみよがしに置いてある槍など細工を警戒して使いはしないだろう。どのみち店に侵入されることに変わりはないのだ。だったら店先に槍を置いておいて、まったくの他人に持っていかれるリスクを背負うこともない。
「さて、と」
 何とはなしに言って乾いた唇を舐める。気が付けばパルチザンを握る手が汗ばんでいた。
 首をひねり、その場で軽く跳躍する。体の調子は悪くない。これならきっちり動けそうだ。
 できれば口だけ動かして一件落着といきたいんだけどな。
 無理だと分かっていてもそう思わずにはいられない。
 口元を苦く緩めた俺は大きく深呼吸して石畳を蹴った。
 間に合ってくれよ、頼むから。

ライン


「おかみさん、ごめん!」
 つい先ほどまでいた宿に踏み込んだ俺はカウンターの前でそれだけ言い捨て、階段を駆け上がった。視界の端を一瞬おかみさんの唖然とした顔がよぎったが、今は説明している暇がない。こちらにも後で頭の一つでも下げなきゃならないだろう。しばらくはおかみさんの包丁を格安で研ぐことにしよう。
 足音を気にしつつ二階の廊下を走り抜け、エイクがいるであろう部屋、203号室の前で立ち止まる。壁に背を預け、短く息を吐く。パルチザンの柄をきつく握り締め、俺は扉を蹴り開けた。
 姿勢を低くして部屋に踏み込む。視線を走らせれば部屋にいたのはエイク一人だった。口を半開きにし、唖然とした表情でこちらを見ている。が、それも一瞬のこと。彼は脇にあった両手剣の柄を手にすると、鞘から引き抜き、剣先を俺に向けた。
 使い込まれてはいるが手入れは怠っていないようだ。窓から差し込む沈みかけた夕日に照らされ、刃がうす赤く染まっている。
 間に合った、か。
 心中でつぶやき、俺はパルチザンの穂先をエイクから天井に移した。だがエイクは動かない。こちらを睨み、両手剣を構えたままだ。
「話がある」
「そんな風には見えないけどな」
 口元を緩めたエイクの腰がわずかに落ちる。
「これはあんたを守るために持ってきたんだ」
 エイクの表情は変わらない。ただ、眉間の皺が少しだけ深くなった。
「レイがあんたを殺そうとしてる。身に覚えは?」
「残念ながら全くない。第一、そんな心当たりがあれば一緒に竜など狩らない」
「もっともだ」
 小さく肯き、俺は息を吐いた。
「お前、何を知ってる」
 こちらに向けられた剣先がわずかに持ち上がり、エイクが足を開く。不穏な言動をとれば即撃ち込まれそうな雰囲気だった。緊張感に肌が痺れ、鼓動が早くなる。飲まれたら終わりだ。この体勢からではどうあがいても相手の方が速い。
「剣を下ろしてくれ」
 こちらの緊張を悟られぬよう強く、はっきりとした声で言う。
「だったら先に槍を捨てるんだな」
 エイクの声は明らかな怒気をはらんでいた。爆発こそしてはいないがかなり熱い。それはただ部屋に乱入され槍を向けられたことに対する怒りだけではないように思えた。もっと別の何かを内包した怒り。
 例えば……裏切りとか。もしくは計画の失敗。
 仕方ない。俺が騙された振りをしたのは事実なんだ。
 背筋を流れる汗を感じながら、渇いた喉に唾を流し込む。とにかく一秒でも早くこの男を確保しなくては。レイと顔を合わせてしまう前に。
 その点で言えばパルチザンを持ってエイクの前に現れたのは失敗だった。レイとエイクが刃を交えていた場合のことを考えての行動だったのだが、もっとよく状況を確認するべきだった。
「どうした。何か捨てられない理由でもあるのか?」
 あからさまな牽制。
 俺はパルチザンの柄を握る手に力を入れ、顔では笑って見せた。
「あんたが剣を向けてる」
「自衛権の行使ってやつさ。お前が槍を捨てれば剣を下ろす」
「保障は?」
「ないね。俺を信じろ」
 最高にたちの悪いジョークだった。本人にも何らかの自覚あるのか、エイクが口を歪めるようにして笑ってみせる。 
「お前が何をつかんだのかは知らん。だが、それが真実だと誰が証明してくれる。やめとけ」
「証明など必要ない」
 それは三つ目の声だった。床のきしむ音がする。反射的に体を反転させ、俺はエイクを背にしてその声の主と向かい合った。と同時にパルチザンを構える。
 来たか。
「貴様を殺せればそれでいい。それが全てだ」
 底冷えがするような声が耳朶を打つ。レイは手にしているパルチザンをゆっくりと持ち上げ、こちらに向けた。それだけで既に心臓を撃ち抜かれたような気分になる。胸が苦しい。向き合ってみて初めて分かった。互いに槍に込めているものが違いすぎる。
 レイの槍は……重い。受けきれるのだろうか。
 一瞬不安にかられ、だがすぐに胸中で頭を振る。できるできないの問題じゃない。やるかやらないか、だ。
「悪いが一本貸してもらった」
 レイが俺を見て微笑む。予想通り、店に残っていたものの中では最高の一本だった。
「傷つけずに返してくれよ」
「残念だがそれはできそうにない」
 俺の軽口を受け流し、レイが唇を引き結ぶ。周囲の空気が一気に張り詰めた。こうして視線を交えているだけで息があがっていくのを感じる。
 黒というのは厄介な色だ。何よりも重く冷たい闇を連想させる。同じ黒髪黒瞳同士ではあるが今のレイにこそその色はふさわしかった。
「リード。退いてくれ」
 形こそ懇願だが、声色は有無を言わせぬ命令だった。
 落ち着け。正念場だ。
 閉じてしまった喉を開くように大きく息を吸い込んだ俺は、腹を決め、ゆっくりと吐き出した。
「断る」
 外を吹く風が窓枠をかたかたと鳴らす。
「……そうか」
 レイの返事は短かった。
「交渉決裂だな」
 背後から聞こえてきたまるで他人事のような一言に、俺は音が出そうなほど奥歯を噛み締めた。目を逸らす余裕があるなら睨みつけている所だ。
「そう怒るなって」
 背中を通して雰囲気が伝わったのかエイクが言う。
「勝手に盛り上がられても俺にはさっぱり分からんね」
「心配するな。あの世で死神が教えてくれる」
 レイの口元がいびつに歪んだ。
 場の空気にそぐわない口笛が一つ。
「で?」
 エイクは俺にターゲットを移したようだ。眉間に皺を刻んだ俺は短く、切り捨てるように説明してやった。
「昔、あんたがある村に持ち込んだ竜のせいで彼女の妹が死んでる」
 エイクは、ああ、と声を出し、そのまま黙ってしまった。俺の背後で今何を思っているのだろうか。この体勢では表情を伺う事もできない。
 ややあって、エイクは大きく息を吐き出した。
「くだらねぇ理由だ」
 聞いて損をした。そんな風にさえ思える声色。
「くだらないだと」
 歯軋りがここまで聞こえてきそうな、レイはそんな表情をしていた。
「運のないガキが一人死んだだけの話だ。それがお前の妹の寿命だったのさ」
 瞬間、レイの槍が疾駆した。視界の中で穂先がいきなり巨大化する。俺のわき腹をかすめる様に放たれた衝きに体がかろうじて反応した。
 重たい衝突音。
 柄でレイの槍を跳ね上げた俺は背後のエイクをレイから完全に隠すように立ち直した。
 肩まで痺れやがる。
 下唇を噛み、視点をレイに定める。衝きを放つための前動作をほとんど察知できなかった。集中しなければ。一瞬のためらいが全てを終わらせてしまう。
「で、お前はどうして俺を守ろうとするんだ?」
 俺の顔を覗き込むようにしてエイクが訊いてくる。やはりその声には緊張感がない。正直、かなり癇に障った。この男を今すぐ拳で殴り倒せればどんなにすっきりするだろうか。
「勘違いするな。俺はレイを人殺しにしたくないだけだ」
「何を今さら。その女はもう二人殺してる」
 開きかけたレイの口を目で制し、俺はエイクに返した。
「騙し合いは終わりだ。殺したのは……あんただ」
 身じろぎしたのか、背後で床のきしむ音がする。
 数秒の沈黙の後でやや抑えられた声が発せられた。
「なぜ、そう思う」
「死体を視た医者から傷の状況を教えた貰った。致命傷になった胸への一撃、深すぎる」
「だからどうした」
「パルチザンの穂先、両刃が何のために存在するか知ってるか?」
「衝くことも斬ることもできるようにだ」
 質問に質問で返されたせいかエイクの声はいらついていた。それとも、焦りか。
「正解だ。ただし半分だけ」
 乾いた唇を舐め、続ける。
「穂先が、深く敵の体に刺さらないようにするためでもある」
 戦場での取り回しを考えてのことだ。穂先が敵の体に刺さったまま抜けないなどという事態はそのまま死に直結する。
「あんな深い傷、それこそ両手剣で衝きでもしない限りできやしない。傷の周りにさもパルチザンで衝いたように二つの小さな傷があったが偽装だろう」
 先生から見せてもらった傷の状態から俺が導き出した疑問と、その答えだった。
「そして、あんたはあの夜一度もその両手剣を手放していない」
 言葉を切り、長く息を吐く。
 沈黙が続いた。レイも今はただ事の成り行きを見守っている。視線は俺ではなく、背後のエイクに注がれていた。
 どれほどの時間が経っただろう。短かったのか、長かったのか。
「しゃあねぇな」
 それは、ひどくあっさりとした声だった。うろたえもせず、諦めもせず。まるで世間話でもするような口調。
「ご明察だ。そこの女が食事に混ぜた薬で眠った時には成功を確信したんだがな」
 レイの記憶が途切れていたのはそういうことか。
「他の二人は怪しまなかったのか?」
「魔法の言葉をかけてやったのさ。気の強い女を犯してみたくないか、ってな」
 いいアイディアだろ。言外に込められたそんな響きに俺は舌打ちした。
「なぜ殺した。仲間だろ」
 はっ、と吐き捨てるような笑い声がした。
「馬鹿言うな、あんなボンクラども。大体あいつらが素直に全財産差し出してりゃ死なずに済んだんだ」
 どこまでも人を見下した響きが夕日に照らされた室内に放たれる。俺は沈黙をもって話を促した。
「デカいハンターギルドに誘われてな、ちょっとばかし持参金が必要だったのさ」
 そんな理由で、とは言わない。これでも商売人だ。金の力は身に染みて知っている。金のために他人に刃を向ける者、金のために自らの首に縄をかける者、全く見てこなかったと言えばそれは嘘だ。
 またか。そう……また金だ。そのせいで二人死んだ。
「結局、全部ブラフだったってことか」
 胸に溜まった熱いものを吐き出しつつ、言う。警備の詰め所の前、エイクと交わした言葉が脳内で蘇る。
「お前もあの女を疑ってる振りをして俺に近づいた。お互い様さ」
「言い訳する気はない」
「心配するな。して欲しいなんて欠片も思ってねぇ。さて……その女が警備に拘束されるまでは町にいるつもりだったんだがな。潮時らしい。抜けさせてもらうぜ」
 エイクの手が俺の左肩を叩いた。
「ま、あと頼むわ。頼もしい騎士さま」
「リード、退けぇっ!」
 レイの声が爆ぜた。俺の体を押し倒すような怒声。その声量に窓さえ震える。パルチザンと言う名の牙をこちらに向け、低く腰を落としたレイの姿は獰猛な獣そのものだった。
 頬を一筋の汗が伝う。レイを止めなければならない。エイクを逃がしてはならない。
「泥水をすすった。残飯をあさった。故郷を捨てた。全てはその男を殺すためだっ! お前に私を止める権利などないっ!」
「それでも、俺は」
 そこまで言って言葉を切る。何を言っても自分勝手な言い分にしかならないことは分かっていたはずだ。
「想像しろ。あの子が、もしクレアが殺されても許せるのか。諦められるのかっ!」
 血を吐くようなレイの声。俺は微かに首を横に振った。
「許さない。犯人を追い詰めて八つ裂きにする」
 想像するのも嫌だった。恐らく、良心という名の精神のたがなど一瞬で吹き飛ぶだろう。
「だから……その時は君が俺を止めてくれ」
 喰いしばったレイの歯の間から呻き声が押し出される。
 筋が通っていないことは十分承知していた。だが筋を通していたのではレイの前に立つ事さえできない。
 エゴだ。それ以外に拠って立つものはない。
 しかしこの状況、どうすればいい。エイクの気配はまだ背後にある。だが時間の問題だ。三人の立ち位置から考えるにエイクの脱出経路は窓しかない。
 エイクを押さえるか。いや、ほんの僅かでもレイから視線を外せば次の瞬間、槍がエイクの胸を貫く。
 両方をとることはできそうになかった。どちらか一方を選ぶ。だとすれば考えるまでもない。エイクの確保を諦め、レイを止める。
 それが最良の選択だと俺は信じている。
 そう、俺が腹を決めた時だった。
「動くなっ!」
 そんな怒声と共に固まっていた場が動き出す。
 俺の目に入ったものは抜き身のショートソードを構え、レイの背後に立つカートの姿だった。カートを挟むようにしてさらに二人の警備兵が並び、そのさらに後ろからこの宿のおかみさんが不安そうな顔を覗かせている。
 通報されたか。
 まず背後で床を蹴る音がした。俺の中で僅かな意識の移動が起こる。と、ほぼ同時に一陣の風が俺の脇を走り抜けた。
 動いた。だが……間に合う!
 自分の間合いは熟知していた。手を伸ばせば届く。視界で展開する景色がひどくゆっくりと見えた。レイの肩に、まず中指が到達する。確かに触れた。
 そして、掴んだ。
 と思った瞬間、俺の体は激しく引っ張られ、レイから引き剥がされてしまう。
「動くなと言ったはずだっ!」
 カートが二度目の怒声を上げた。だがエイクの姿は既になく、レイはその身を窓から宙に躍らせた。
 追え。
 体の反応は早かった。背後に取り付いている警備兵を柄で叩き伏せ、窓に向かって走る。赤から黒へ。夕日から月へ。冷たく乾いた夜気が顔を撫でる。明かりの灯りだした町を走るエイクとレイの姿が、ここ……宿の二階からかろうじて確認できた。
「お前、自分が何してるのか分かってるのか!」
「うるせぇっ! 話なら後で聞いてやる。今は黙ってろ!」
 叫ぶカートに向かって言い放ち、窓枠に手をかけた俺は宙に舞った。先行する二人が向かった先には山がある。山と闇。一度見失ってしまえば再び捕捉できる保証はない。
 着地、と同時に衝撃が頭まで駆け上がる。
「リード、待て!」
 頭上からのカートの声にも、足の痺れにも付き合っている暇はない。大きく息を吸い込んだ俺はすぐさま地面を全力で蹴り、駆け出した。

ホームへ   前ページへ   小説の目次へ   次ページへ