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武器屋リードの営業日誌

第三話
─竜を追う者─

ライン

 上着のポケットに手を突っ込み、通りに一歩踏み出す。大きな溜め息をついた俺は背後を振り返り、口元を歪めた。こじんまりとした、警備の詰め所。看板を変えれば女の子に人気の雑貨屋に見えないこともない。 
 あれからカートによってここに連れて来られた俺はレイに関してあらゆることを喋らされた。 レイと出会ってから風の丘亭で別れるまでの全て。 おかげで日付はとうの昔に変わってしまった。 
 窓から漏れる灯りに向かって白い息を吐き、俺は正面に向き直った。
 椅子に座りっぱなしだったせいか腰が痛い。そんなことをぼんやりと思いながら空を見上げる。
 昨日と変わらぬ星空がそこにはあった。いや、正確に言えば少しは変わっているのだろうが、それを説明できるほど俺は星に詳しくない。
 それとも実は星空は大きく変化していて、その変化をつかめないほど俺が鈍感なだけなのだろうか。
 レイに関しても同じ事なんじゃないかと、ふと思う。
 少なくとも俺には彼女が豹変したように見えた。だがそれは豹変したようにしか見えなかっただけなのだろう。
 敏感な人なら気付くサインや前兆といったものをレイは発していたのかもしれない。それをつかむことのできなかった自分が腹立たしく、情無い。
 俺は空から石畳に視線を落とし、足を引きずるようにして一歩踏み出した。と、視界の端に茶色いブーツのつま先が入り込んでくる。
 我ながら視線に落ち着きがない、と思いつつ俺は顔を上げた。一緒に警備の詰め所まで連れて来られ、一緒に開放されたハンターの男が目の前に立っている。詰め所内で何となく聞こえたカートとこの男の会話によれば、名前はエイクというらしい。少し絞り過ぎじゃないだろうかと思えるような体とこけた頬をしているが、決して華奢というわけではない。よくしなる、そして打たれれば痛そうな鞭を連想させるような男だった。
 できれば時間をずらして解放してほしかったんだがな。
 心中で嘆息する。
 出会いが最悪だっただけにどう口をきけばいいのかが分からなかった。だいたい何でこの男は俺の方を向いて立ち止まっているんだろうか。彼……エイクにしたって話すことなど何もないだろうに。
「災難だったな」
 と思っていたら声をかけられた。あまりに意外だったものでつい無言になってしまう。ただ眉間に皺を寄せてしまった俺にエイクは口元を歪めると、鼻で息を吐いた。
「俺とは喋りたくもないってか?」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
 反論した事によって会話が成立してしまう。何となく納得いかなかったが、えぇい、と手を振り言うべきことだけは言っておくことにした。
「災難なのはあんたの方だ。その、お悔やみだけは言っとくよ」
 たとえ気の合わない相手であっても仲間を失った人間に喧嘩腰で臨むほど俺は子供でもない……と思う。
 エイクの表情が僅かに変化した。まず驚きにか目が少し大きくなり、それから顔全体に張り付いていた「けん」が薄れる。
 どうやらエイクの方も俺と殴りあう気はないらしい。昨晩の続きが始まるのかと少し身構えてはいたのがその必要はなかったようだ。
 さすがにこんな時じゃな。
 寒さに痛む手をポケットに突っ込み、臨戦体勢を解く。拳は必要ないだろう。エイクも同じようにポケットに手を入れると独り言でも呟くように言った。
「顔も頭も悪かったが、それでもいい奴らだった」
 夜気に交じった白いもやが解けるように消えていく。表情だけ見ればそこから何かを感じとることはできなかった。だが、感情の匂いとでも言うべきものは確かに感じる。器用な寂しがり方だな、と思った。仲間が死んだんだ。俺なら歯を食いしばって地面に座り込んでいる。
「こんなこと、あんたに言っても仕様がないな」
 薄く笑い、じゃあな、とこちら背を向けるエイク。
「おい」
 立ち去ろうとしたエイクの背に向かって声をかけてしまう。この生意気な男に同情したわけではなかった。冷たい夜風が俺を感傷的にしただけだと思う。いや、そうに違いない。断じてそうだ。
 振り返ったエイクが肩眉を上げて俺を見る。用があるなら早くしろ。顔がそう言っていた。
 そんなエイクの表情に俺は一瞬迷ったが、結局は言ってしまう。
「あんたも貧乏なのか?」
 も、としたのは頭の中にレイの姿があったからだ。エイクの方眉がさらに釣り上がる。
「失礼な奴だな。宿代くらいは持ってる」
「酒代は?」
「それはないな。最近狩れてないんでね」
 俺はポケットにあった銀貨を一枚取り出し、エイクに向かって放り投げた。ポケットから出した右手でそれを受け取り、彼は不思議そうな顔をしてみせる。食堂でスパゲティを頼んだら、皿に乗った本が出てきた。そんな時にならするかもしれない表情。
「この通り沿いに一軒の酒屋がある。まだ開いてるはずだ」
「飲んで寝ちまえ、と」
 俺は黙って首を縦に振った。
「同情してんのか?」
「してねぇよ!」
 つい叫んでしまう。 自分の中にある甘さとか、おせっかい焼きの部分が少し嫌だったのだ。
 っとに、何で俺は友人でもない男に、初対面で殴り合いそうになった男に酒代など渡してしまったんだろうか。
 いきなりの大声にかエイクが顔をしかめる。その後で嘆息し、不意に彼は表情を改めた。真剣な眼差しに身構えてしまう。
「礼の代わりに一つ忠告しておいてやる。あの女には関わるな」
 あの女、がレイを指していることは間違いなかった。
「彼女が殺したと思ってるからか?」
「そうだな。だが、それだけじゃない」
 言いながらエイクはポケットから小さな赤い実を取り出した。
「これが何か分かるか」
 正直に首を振って否定する。見たこともない植物だ。主張の激しすぎる赤色は月の光の下で見ていても苦々しかった。同時に、齧っても苦いんだろうな、なんてことを思う。
「キャストの実だ。こいつには痛みや恐怖心を取り除く作用がある。もっとも、使いすぎれば頭がいかれちまうわけだが」
「何でそんなもの俺に見せるんだ?」
「あんた、竜の前に立った事はあるか?」
 質問に質問で返され多少むっとしつつも「いいや」と答える。エイクはキャストの実を握り締め、幾分引きつった笑みを浮かべて見せた。
「恐いんだよ。半端じゃなくな」
 人に弱みを見せるタイプではない男が言った一言だけに妙な真実味がある。
「本能が死を察知するんだろうな。失禁なんて珍しくもない。そのままぷつんとイっちまう奴だっている。正直、俺だって泣きながら逃げた事がある。要するに、だ」
 言葉を切ったエイクが人差し指と親指で小さな実をつまんで見せた。
「こんなもんに頼らなきゃやってられないんだよ、ハンターってのは」
 なるほど。そうやって恐怖心を抑えていたわけか。動物の中でもかなり戦闘力が低い人間が世界最強の種族を狩るんだ。そんな反則技でも使わないとやってられないだろう。だが……、
「それがどうしたんだ、って顔してるな」
 口元にふざけた笑みを貼り付け、エイクが言う。慌てて表情を改める自分が情けなかった。
「あの女はな、使わないんだよ。何もな。それどころか笑ってやがるんだ」
 信じられるか? そう言いたげな目をこちらに向けてくるエイク。ただ竜の前に立った事がない俺にはそれがどれだけ異常なことなのか、実感しづらかった。レイなら竜を前にして笑うくらいのことはするんじゃないかと思ってしまう自分がいる。特にレイの場合復讐のために竜を追っている。憎しみが恐怖を凌駕することだってあるんじゃないだろうか。
「まぁ、経験したことのない人間に言っても無駄か」
 こちらを見ながら諦めたような表情でエイクが言う。疑問が顔に出てしまっていたようだ。
「あんた、あの女と一度竜を狩ってみたらどうだ。竜もそうだが、あの女の変わり様も見物だ。見ておいて損はないと思うがな」
 口元を薄く緩め、エイクが首を僅かに傾ける。どうだ、ん? というポーズなのだろう。
「変わり様、ってのはどういうことだ」
「そうだな。分かりやすく言えば中身がそっくり入れ替わっちまう。そんな感じだ」
「分かりにくい」
 即答する俺にエイクは腕を組み、しばし考えた後で組んでいた腕をほどいて開いた。
「いやな、竜を前にした瞬間目の色が変わるって言うか、とにかく変わっちまうんだ。ほとんど別の人間だな、ありゃ」
 エイクの代わりに腕を組んだ俺は小さく嘆息した。竜を前にした瞬間、レイの感情が憎しみ一色になるということなのだろうか。
「竜を狩るためだったら何だってやるだろうな、あの女は。それこそ人殺しさえ」
 ポケットに手を入れたエイクが空を見上げる。数秒、目を閉じた間に彼が何を考えたのかは分からない。ただ、何かをこらえるような表情だったことだけは確かだ。
 怒りか、悲しみか、恐怖か。
「なぁ、山で何があったんだ?」
 警備の人間でもない俺がそれを聞いたところでどうにもならないことは分かっている。だがそれでも得られた情報から考えてみたかった。好奇心、というよりもレイ、か。レイは殺していない、という結論を導き出したいだけなのかもしれないが。正直、いまだに信じられないし、信じてもいない。どうしてもレイが人を殺すとは思えなかった。クレアを人質にとった時にも謝ったというし、やはり何か理由があるのだろう。肩をはずしたまま逃亡しているレイの姿を思い浮かべ、唇を歪める。
 責任を感じていた。もしあのとき俺が手を緩めさえしなければレイは逃げず、もう少しマシな結果になっていたかもしれない。少なくともレイと話をすることはできたはずだ。彼女がクレアを盾にして逃げたことにより、町の人間がレイに対して抱いている感情はかなり悪い。 もし警備より先に町の人間に捕まりでもしたら私刑にかけられる可能性だって十分ある。それだけは何としても避けたかった。レイが私刑にかけられるのも、町の人間がレイを私刑にかけるのも、見たくはなかった。
「悪いが、喋るなって言われてるんでね」 エイクの返事は素っ気なかった。彼は警備の建物を一瞥し、こちらに背を向ける。
「どうしても、か」
「俺はよそ者だ。知らない土地で警備に逆らいたくないんでね。味方がいないからな」
 確かにそれは道理だ。
 俺は拳を握り、口を開いた。
「どうしても駄目か」
「勘弁してくれ。あんたには誰かを守ってやれる余裕があるだろうが、俺は自分一人で精一杯だ」
 エイクの言葉に握っていた拳を開き、諦める。押し通せるようなわがままではなかった。
「悪かった」
 溜め息交じりに詫びる。
「いや、酒代ありがとな」
 ひらひらと手を振ったエイクは乾いた足音を伴って闇に消えていった。細くはあるが決して狭くない背中を見送り、地面を蹴る。
 俺にできることは何なのだろうか。家に帰るまでに思い付けばいいのだが。

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  カウンターに頬杖を付き、道行く人々をただぼんやりと眺める。結局、あれから何も思いつかなかった。した事といえば朝からひっきりなしにやって来る近所のおばちゃん達の相手くらいだ。
 昨夜の一件は田舎町で起きた大事件として広まっており、噂好きのおばちゃんたちにとって格好の餌だったようだ。
 みな口々にクレアの心配をしてくれるのはいいのだが、噂に尾ひれどころか羽まで生えているようで、クレアが首を切られて生死の境をさ迷っていると思い込んでいるおばちゃんまでいた。
 それを否定しつつ、レイのフォローを入れてみたが、はたしてどれだけの効果があったのか。
 町の人間は完全にレイが人殺しだと決め付けている。
 人が二人集まれば必ずその話題から会話が始まっているような雰囲気があった。
 人殺しの女が逃げ回っている。
 いつもなら耳を塞いでいても聞こえる子供達の声も今日は聞こえない。恐らく親によって家の中に監禁されているのだろう。大体、警備兵自体が「殺人犯が付近に潜んでいる可能性があります。できるだけ家から出ないように」と言って町を走り回っているのだ。
 レイにかけられた疑惑は法を司る、疑わしきは罰せず、のはずの警備兵によって確信に変えられてしまった。
 たとえ警備の人間にとってレイが容疑者でも町の人間にとっては確実に人殺しだ。
 俺はカウンターに顎を乗せ、長く息を吐いた。唇を引き結び、頷く。俺にできる事が全くないわけじゃない。それは分かっていた。分かっていて気付かないふりをしていた。
 レイを探そう。悠長に店を開けてる場合じゃない。
 そんな事をしても無駄だと囁いていた己の心の嫌な部分にふたをして俺は立ち上がった。
 とにかく動くことだ。動けばこの胸の奥にたまったもやもやも晴れるだろう。
 と、店の臨時休業を告げるべく奥にいるクレアを呼ぼうとしたときだった。入り口に小柄な人影をみとめ、目を凝らす。そこにいたのはこちらから呼び出すことはあっても客としてここを訪れることはまずない人物だった。
 よれた白衣に同じくよれた白髪と白髭。口は不機嫌そうにへの字にひん曲り、眉間には深い谷のような皺が刻まれている。
 そこにいたのはレイの治療でお世話になった先生だった。
 先生は無言でカウンターの前までやって来ると、俺を睨むように見上げた。
「あの……何か」
 小柄な老人が発する妙な迫力に押されてしまう。これが年の功ってやつだろうか。つい一歩あとずさってしまう。
「ついて来い」
 先生はそれだけ言ってこちらに背を向けてしまった。突然のことに事態を把握できないでいる俺にさらなる声がとぶ。
「早くしろ」
「いや、あの、俺にはやる事が」
 言ってはみたものの、「そんな事は知らん」 あっさり却下されてしまった。どこまで頑固なんだこの爺さんは。というかただのワガママだな、こりゃ。
「そうそう」
 思い出したように言って振り返る先生。
「嬢ちゃんも連れて来い。会いたがっとる」
「会いたがって……誰がですか?」
「来ればわかるわい」
 俺の質問に答えもせず、先生は店から出ていってしまった。大きく息を吐いた後で吸い込み、奥にいるクレアに呼び掛ける。
 とりあえず店を閉めるまでは待ってて下さいよ、先生。

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クレアの手を引き、小さな背中を見ながら歩く。振り返れば町並みとうねるような石畳の道が見えるはずだ。
 ここまで来れば問わずとも行き先は分かった。この道を通って行ける場所は一つしかない。
 天気は驚くほど良かった。降り注ぐ日の光のおかげで寒さもだいぶ和らいでいる。上で昼寝ができそうなほどふわふわとした雲を見上げ、目を細くする。殺人犯の噂で持ち切りの町には酷く似合わない雲だった。
 目的地に到着したところで前を行く先生が立ち止まり、こちらを一瞥する。
 同じく立ち止まった俺も目の前の建物を見つめ、人差し指でこめかみを掻いた。
「本を読むの?」
 そんな問いを発するクレアに向かってわざとらしく肩をすくめて見せる。
 俺が自発的に来たのであれば本を読む以外にここに来る理由はないんだけどな。
 町の外れに建つレンガ造りの建物。神に仕える者たちの家。俺にとっては読書の場。要するに修道院だ。
 しかし何でまたこんな所に。俺はいまだに先生の真意をはかりかねていた。何の用事があるのかは知らないができるだけ早く済ませてレイを探しに行かなければ。まだ野宿が辛い程度には夜は冷える。
 ノックもなしに、まるで自分の家であるかのように扉を開け、先生は中に入っていった。我が道を他人を引きずって無言で歩く先生の性格は今に始まったことではないが、一言くらい説明があってもいいような気がするんだが。
 小さく溜め息をついたときには説明を求めるべき背中はとっくの昔に消えており、扉も閉じかけていた。
 扉を押して中に入り、先生の後を追う。
 薄暗くはあるが決して不快ではなかった。静かに澄んだ空気に三つの足音が波紋を打つ。波紋は石造りの廊下に染みるように吸い込まれ行った。
「お兄ちゃん?」
 雰囲気がいつもと違うことに気付いたのかクレアが顔を上げた。
 答えてやりたいところが俺にも言葉がなかった。ただクレアの顔を見て頷くことしかできない。
 説明責任を果たすべき人物は廊下の途中で立ち止まると庭へと続く出入り口から差し込む光の中で振り返った。そのまま何を言うでもなく白衣の裾を揺らして先生は光の中に消えていってしまう。
 空いている左手を腰に手を当てて一度目を閉じた俺は先生に続いて庭に出た。
 目より先に耳が反応する。
 鋭い風切り音に背筋が痺れた。反射的に目を見開いた俺が目にしたのは舞い落ちる枯れ葉をとてつもない速度と正確さで打ち落とす物干し竿だった。
 残像を引き、物干し竿が見事な円を描く。
 一枚の葉が俺の鼻先に重なった。瞬間、円から線になった物干し竿が俺の顔面に向かって撃ち出される。
 反射的に首を逸らそうとしたが間に合わなかった。
 物干し竿は俺の鼻を叩き砕き……と言いたいところだが幸いにも枯葉を鼻に押し付けるような位置で止まってくれた。
 寄り目で鼻先の枯れ葉を見つめ、長く息を吐く。吹き出した冷や汗で背中が一気に濡れてしまった。
「お見事。助かったよ」
 俺は鼻先から物干し尾竿の持ち主に視線を移し、努めて軽い口調で言った。
 吹き付けた少しばかり冷たい風に長い黒髪が揺れる。やっと先生が俺とクレアをここに連れて来た理由が分かった。
 黒髪の持ち主……レイは口をわずかに開いて物干し竿を引くと、うつむいてしまう。さすがに昨日の今日じゃ顔も合わせ辛いのだろう。まぁ、俺の方にだって戸惑いはあるんだけど。
 にしても、だ。なぜレイがここにいるのだろうか。
 今度こそきっちり説明してもらおうと俺は先生に視線をやった。先生は腰の後ろで手を組むと「今朝、山に薬草を採りに行ったら倒れとったからな。拾って帰った」と言う。
 その声色は「今朝は暖かかった」と言うときとさほど変わらないように思えた。
 ま、今さら先生の言動にイチイチ驚いたって仕方ない。こういう性格なんだ、この人は。
 と、胸中でやれやれと首を振ろうとした瞬間、脛に激痛が走った。
「何するんですか!」
「顔に出とるわ。バカタレ」
 うめく俺。さすが年の功。
 先生は俺からレイに目を移すと言った。
「まぁ、一度傷を診た以上ワシの患者だしな。見捨てるわけにもいかんじゃろ」
 その表情はずいぶん穏やかだ。俺に向けられるあの不機嫌そうなへの字口はどこにいったんだ?
「ありがとうございます」
 頭を下げるレイに先生は深く肯いた。
「それで、なぜ『ここ』なんですか?」
 ここ、と言いながら地面を指差す。
「それについてはワシよりもほれ、ちょうど来よった」
 先生に習って背後を振り向けばそこにいたのは、
「あ、芸人さんだ」
「はいっ、というわけで私も頑張っていかなきゃなーなんて、ってちがぁぁう」
 風が、吹いた。
 明らかに無理がある修道女、セシルの言動に無言になる一同。見てはいけないものを見てしまった。皆がそう思っていることだろう。事実、誰一人として視線を合わせようとしない。
「えと」
 セシルの頬に流れる汗一筋。
 俺は目を細め、空を見上げた。
「今、ちょっとだけカミサマに同情した」
「しないでよっ! 大体あなたがふったんでしょ。何か場が暗かったから私なりに気を使って……」
「うんうん。分かったから次は結果だそうな」
「うぅ、めげるもんか。めげるもんか」
 何やら繰り返すセシルはさておき、ってさておいちゃ駄目だった。
 長く伸ばされたダークブルーの髪に同じ色の瞳。裾の長いゆったりとした修道服に身を包んでいるこのセシル・アイフォードという二十二歳の女性。芸人のようではあるが、驚くべきことに非常に敬虔な修道女である。
 黙って立っていれば体の線が出ない服を着ているのにも関わらずなぜか色っぽいのだが、口を開けばまぁ、こんな感じだ。初めて出会ったのがセシルが十五歳の時なので、付き合い自体は結構長い。
「で、レイがここにいる理由は?」
 本日二度目の問いを発する。セシルは胸の前で手を組むと深く肯いた。
「主は全ての者を等しく愛されます」
「なるほど。それで保護したってわけか」
 腕を組む俺に向かってセシルが微笑む。
「でも、最初は少しびっくりした。戸惑いもあったけど神仕様のお許しもあったから」
 ふーん、と肯きながらこの修道院をまとめている神仕様(しんしさま)の柔和な髭面を思い浮かべる。
 神仕様とは何か。
 修道士よりもう一段階偉い信徒だと思ってもらえればそれでいい。セシルのお師匠様みたいなもんか。
「それに、レイさんは自分の口で『私は殺してない』って言ったんだから。主は決してその言葉をお疑いにならない。主の子である私たちにとってもそれは同じよ」
 微笑むセシルと寛大な神の愛と先生の機転にこの時ばかりは本気で感謝した。確かにこの町で人をかくまおうと思えば修道院が最高の選択だ。ここなら警備の連中もやすやすとは踏み込んでこれないだろう。宗教施設ということでどこか特別視されてる部分もあるし。 とりあえずレイの身柄に関しては一安心、か。
「肩、ごめん。痛かったろ」
「そんな、これは自分のせいだ」
 詫びる俺に肩を押さえたレイが慌てて否定する。押さえた肩をきつく握り、歯を食いしばったような表情でレイは深く頭を下げた。
「すまなかった」
 喉の奥から搾り出すようなその声に俺とクレアは互いに顔を見合わせる。それから同時に口元を緩めた。
「いいよ、お姉ちゃん」
 たん、と踏み出したクレアが物干し竿を握るレイの手を両手で包んだ。
 唇を引き結んで顔を上げたレイにクレアが笑いかける。何かに耐えるような顔をこちらに向けるレイ。俺は頬を掻きながら我が家の家訓をレイに教えた。
「誠意の感じられるごめんなさいには許しを与えるべし」
「与えるべし」
 最後だけ復唱し、クレアがレイに向かって人差し指と中指を立てて見せる。
「ま、そういうことだ」
 腕を組んで笑う。そんな俺とクレアにレイが差し出した「ありがとう」の声は少しだけ潤んでいた。
 これにて一件落着。一緒にご飯でも食べに行こうか……と言えたらどんなに楽だろう。そう、問題はまだまだ山積みだ。今始まったと言っても過言じゃない。町の人間にとってレイが殺人の容疑者であるという事実は何一つ変わっていないのだ。
 当然のことながらレイは動けない。となると動けるのは俺だけか。さすがに先生とセシルをこれ以上巻き込むわけにもいかないし。
 あの女には関わるな。
 昨晩警備の詰め所の前で言われた台詞が頭をよぎる。が、よぎっただけで留まりはしなかった。関わるべきか関わらざるべきか、判断するのは俺だ。俺が見て聞いて自分で決める。この先に最悪の結末が待っている可能性だってあった。だがそれはあくまで可能性だ。かもしれない、を恐れていたら何もできやしない。
「話してくれよ。何があったのか」
 促す俺にレイは一度空を見上げ、ゆっくりと肯いた。

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