武器屋リードの営業日誌

第三話 
─竜を追う者─

ライン

 大通りから一本奥に入り、繁華街の喧騒が風に乗って流れてくるような落ち着いた場所。
 目指す『風の丘亭』はそこにあった。
 周りの家々からはほのかな灯りが漏れ、穏やかな団欒を象徴するような匂いが鼻腔を抜ける。恋人の、母親の、もしかしたら父親の、手料理の匂いだ。
 そして、プロとしてその手料理の上を行く料理をお手ごろ価格で提供してくれる風の丘亭は今日も繁盛しているようだった。
 こうして扉の前に立っていても中の盛り上がりが伝わってくる。
 ドアノブに手をかけた俺は一度隣にいるレイを見やった。
 化粧は苦手なんだが。着替えを終えた彼女はそう言ってはにかんだ笑みを浮かべ、俺の前に現れた。
 そんなレイを見て、俺は笑った。人間、本当にいいと思ったものを見ると何よりもまず笑うものだ。
 すました顔で「綺麗だ」とか「美しい」とか「貴女の前では百本のバラでさえくすんで見える」なんて飾った言葉を言えてるうちはまだ余裕がある状態。
 そんな人間の飾りの部分をぶち壊すくらいレイは綺麗だった。脳に直接響く美しさ、とでも言えばいいのだろうか。
 所々跳ねていた黒髪はきれいに梳かれ、草原を流れる清流のようだった。白を基調にした服はクレアの推薦らしい。レイの髪に一番合う色を選んだ、と言っていた。
 やけに「コントラスト」と繰り返していたから、最近覚えた言葉を使いたかっただけなのかもしれないが。
「おかしくないだろうか」
 不安げな面持ちで自分の姿を確認するレイ。分かってやっているなら嫌味以外のなにものでもないが、そうではない。
 彼女は本気で心配している。そんな姿がまた、たまらくなく魅力的だった。
「大丈夫だよ。すっごく素敵だから」
 レイを見上げてクレアが笑う。クレアもクレアで対抗意識を燃やしたのか一番いい服を引っ張り出してきたらしい。
 普段は流している銀髪も今はきれいに結ってあった。首からはあのレイに貰ったペンダントがぶらさがっている。
 ちなみに俺はいつもと変わらぬ普段着だ。というか、大体『風の丘亭』ってのはこんなにお洒落して来るような場所じゃないんだから。
 二人とも気合入れすぎだ。まぁ、おかげで両手に花なんだけどさ。
 俺は口元を緩め、扉を開いた。
 扉越しに聞こえていた喧騒が一気に大きくなり、俺たちを包み込む。暖かい空気にほっとしたものを感じつつ俺は店に足を踏み入れた。
 と、なぜか店内は一瞬で静まり返ってしまった。物音を立てれば世界が終る、とでも言わんばかりの静寂に店の入り口で立ち尽くす。
 誰もが驚愕に目を見開き、こちらを凝視していた。異様な空気の中、隣のレイに視線を送る。が、レイも俺を見て小さく首を横に振るだけだった。
 当たり前か。町の人間である俺にさえ訳が分からないんだから。
 今まで幾度となく風の丘亭には足を運んだが、こんなことは初めてだった。
 長い、沈黙だったと思う。それを打ち破ったのは誰かが発したこんな一言だった。
「リードが女性と一緒にいる」
 おぉ、という重く嘆くような溜め息。
 神に見放された哀れな子羊の群れ。それでもなお人々は祈り続けた。信じれば救われる。そう信じなければ生きて行けなかったのかもしれない。そこには絶望だけが横たわっていたから……って、ちょっと待てぃ。
「絶望って何だ、絶望って。俺が女性と一緒にいちゃいかんのか」
 一瞬の沈黙。
「当たり前だっ!」
「ふざけんなっ!」
「何様のつもりだっ!」
「リードのくせにっ!」
「死んで詫びろっ!」
 なぜかめちゃくちゃに罵倒されてしまった。
「……間違ってるのか、俺?」
「いや、訊く前に怒ったほうがいいと思うんだが」
 自分の顔を指差す俺にレイが困ったような表情で言う。
「すっかり負け犬根性が染み付いちゃって」
 クレアよ、人を哀れみの目で見るんじゃない。
「ったくテメーら酒の勢いで好きなこと言いやがって」
 歯を剥き出しにしてうめきつつ、俺に心無い言葉を投げ付けた一団を見やる。思った通りそこにいたのは見知った面々。俺の幼馴染み達だ。
 皆この町で生まれ、この町で育ち、この町に根を下ろして生活している。
 肉屋のニール。花屋のクレス。木こりのリックもいる。その他にも知った顔ばかりが並んでいた。
「酒の勢い? それは違うぞ」
 肉屋のニールがすっと立ち上がる。
「俺たちは心の底からお前はモテない奴だと……」
「よけい悪いわっ!」
 拳を握って叫ぶ。手近に投擲できる物体が無い事が残念でならない。
「大体おかしいだろ」
「何が」
「何で耳からスパゲティ食う男の横にそんな綺麗な女性がいるんだよ」
「食えるかっ!」
 しゃっしゃっしゃっ、と手を叩いて笑う一団に俺のこめかみがとてつもない勢いで痙攣する。
 えぇい、このクサレ酔っ払い共が。
「とにかく、今日の俺はお前たちの相手をしてやれるほど暇じゃないんだ」
「何を元死刑囚が偉そうに」
「そうだな。恩赦がなければ今ごろ墓の下……って、あああああああああっっっ!!!」
 もう嫌だ。もうやめる。何なんだこの身のない会話は。
「というわけでカウンターにしようか」
「あ、あぁ」
 にこやかな笑顔で席を勧める俺とは対照的に、レイは何かに戸惑っているようだった。
 何に戸惑っているのかはさっぱり分からないが。
「相変わらず騒がしいな、お前らは」
 レイ、俺、クレアの順で席につくと岩を思わせるような重低音が上から落ちてきた。見上げれば筋骨たくましい大男がカウンター越しに立っている。角張った顔に口ひげ、組まれた腕は丸太のようだった。
 どう考えてもいるべき場所を間違えているような気もするが、これで正解だ。
 彼こそがこの町で一番おいしいアップルパイを焼く『風の丘亭』のマスターだった。断じて森から迷い込んできた熊ではない。
「騒がしいのはあいつら。俺じゃない」
 きっちり訂正しながら親指で背後を指さす。
「まぁいいさ。それで、こちらのお嬢さんは?」
 細くはあるがやたらと力のある目でレイを見やり、マスターが訊いてくる。
「お客さんだよ。勇気を出して食事に誘ってみた」
「そうか。お前の所に来るような人には見えないんだがな」
 そう言いたくなる気持ちも分からないでもない。今のレイはどんな角度から見たって、いいトコのお嬢さん、にしか見えない。武器屋とは一生無縁な人生を送りそうな雰囲気を全身から醸し出していた。
「レイ・ケインベックだ」
 が、自己紹介してレイが差し出した手を握り返した瞬間、マスターの顔がわずかに変化する。
 レイも同じだった。マスターの節くれだった手を握るその表情は確かに緊張している。
 共に気付いたようだ。
「確かにお前のお客さんだ」
 いかつい顔を意味ありげに緩め、マスターはレイの手を離した。
 レイは握られていた自分の手を見つめ、それからマスターの顔をどこか呆けたような表情で見上げる。
 分かる人には分かるんだよな。
 レイとマスターを見比べるように視線を動かし、俺はひとり微笑んだ。
「注文は?」
 低い声が腹に響いた。空っぽの胃を刺激するようなその声は飲食業にぴったりだと思う。
「最後にアップルパイさえあれば後はおまかせで。レイは?」
「……ん? あぁ、私もおまかせする」
 いまだもって自分の手を見つめていたレイが慌てたように答える。どうやら料理よりもマスターの方が気になっているようだ。
「わたしもおまかせ。でもオムレツは持ってきてね」
 隣でクレアが手を挙げる。相変わらず研究熱心だ。
「俺の技は簡単には盗めんぞ。プレーンオムレツってのは簡単なようで難しいんだ」
 腰に手を当てたマスターがクレアを見下ろす。この二人が喋っていると大人と子供、というより巨人と小人に見えてしまう。
「だーいじょうぶ。どんなに高い塔だって始まりは一つのレンガなんだよ」
 人差し指を立てつつ胸を張るクレア。むう、と唸るマスター。
「見事な心意気だ。いい料理人になれるぞ」
「へへ、ありがと。でもね、料理人にはなれなくてもいいの」
 と、なぜか赤く染まった頬に両手で触れ、クレアが目を閉じる。
「かわいいお嫁さんになって大好きな人にオムレツ食べてもらって、おいしいよ、って言ってもらうの」
「よかったじゃないか」
 意味ありげな目でこちらを見るマスターに、俺は微苦笑を返すことしかできなかった。
「じゃあ特別だ。料理を作るところを見せてやる」
「やった!」
 クレアの行動は素早かった。椅子から飛び降り、あっという間にカウンターの向こうに回りこんでしまう。その頃には腕まくりも終えていた。
「ちょっと行ってくるね」
「あぁ、しっかり勉強してこい」
 厨房へ向かうマスターとクレアを見送った俺はレイを見てわざとらしく肩をすくめた。そんな俺にレイも笑みを返してくれる。
 お、ちょっといい雰囲気かも。
 期せずして二人になってしまったわけだが、この雰囲気を維持するためにどんな会話を展開するべきか。
 なんて悩んでいたらレイが先に口を開いた。
「何者なんだ、彼は」
 言いながら視線はマスターが入っていった厨房に向いている。
 やはり気になるらしい。
「元ルーヴェリア騎士団団長だよ。二十三代目の」
「竜屠りの刃か!」
 声の大きくなったレイに店内の視線が集中する。彼女は咳払いを一つすると、俺の顔を覗き込むようにして身を寄せた。
 鼻をくすぐる女性らしい香りに体温が少し上がってしまう。
「なぜそんな人間が酒場のマスターなど」
 必要以上に声を小さくするレイがおかしかった。
 ちなみに「竜屠りの刃」とはマスターが現役の騎士団長だった頃の二つ名だ。読んで字の如く竜さえ屠る剣技の持ち主だった……らしい。実際に見たことないんで何とも言えないんだけど。
 俺も何度か手合わせを申し込んだんだが全て断られてしまった。もう剣を手にするつもりはない、だそうだ。
「さぁな。何かあったことは確かなんだろうけど話したがらないし」
 カウンターに頬杖をついて俺も厨房の方を見やる。
「でも、今の方が幸せだって言ってた」
「そうか」
 独り言でも呟くように言って、レイはカウンターを見つめた。その横顔に一瞬陰が差したが俺は気付かない振りをする。
 ミステリアスな女性は魅力的である。たまにそんな言葉を耳にするが、どうやら俺には肯けそうもなかった。
 隠されると心配になるし、かといって自分から訊くだけの勇気もない。
 行動しないくせに心配だけは一人前にする。典型的なダメ男じゃないか。
 心配だけなら子供にもできるんだよな。
「どうした、暗い顔をして」
 胸の奥で呟いていたらレイに言われてしまった。
 俺が心配されてどうする。
「いや、おなかが空くとこんな顔になるんだ」
「なるほど。生物にとっては死活問題だからな」
 本気か、はたまた俺をからかっているのか、とにかくやけに真剣な顔で肯くレイ。
「私は旅人だ。その気持ちはよく分かる。覚えておくといい、ヒャクニチツルギソウは煮て食べると意外と旨いぞ」
 どうやら本気だったらしい。
「変なデキモノできる前にそんな食生活やめたほうがいいと思うけど」
「大丈夫だ。そのうち慣れる」
「……慣れちゃだめだろ、それは」
 そんなツッコミなど交えつつ他愛のない会話をしばらく楽しんでいると、この店の看板娘であるニーナが料理を運んできてくれた。
 よ、と手を挙げて挨拶する。
「こんばんは、リードさん」
 ニーナは看板娘らしい素敵な笑顔を披露してくれた。相変わらず白いエプロンがよく似合う。
 ニーナはマスターの実の娘である。娘ではあるが欠片も似ていない。というか似ないでよかった。母親の血が起こした奇跡に感謝、だ。
 彼女は結構な数の皿を手際よくカウンターに並べていく。この辺の手際はさすがだった。
「クレアは?」
「まだお父さんの隣に」
 あいつも集中すると周りが見えなくなるからなぁ。ま、おなかが空いたら来るだろ。
 料理から立ち上る湯気と匂いに、胃の辺りを紐で縛られたような気分になる。正直、クレアのお料理教室が終るのを待てるだけの余裕はなかった。
 と、レイをちらりと見やったニーナが身を乗り出し、お盆で「ついたて」を作った。
「綺麗な人ですね。彼女さん……ですか?」
 表情が若干緊張しているように見えるのは気のせいだろうか。
「だと嬉しいんだけどな」
 答える俺にニーナの表情が急に明るくなった。お盆を胸に抱き、そのまま草原を駆けていってしまうんじゃないだろうかってくらいの笑顔を浮かべる。
「そうですよね。リードさんですもんね」
「笑顔で人を刺すタイプだろ、君」
 そんな俺の呻き声など耳に入らなかったのか、ニーナは「ごゆっくりどうぞ」とレイに向かって頭を下げ、軽くスッテプなど踏みながら厨房に戻っていった。
 うーん、よく分からん。あれが最近の若者ってやつか。
 ま、とにかくだ。
 俺はリンゴ酒の入ったボトルを手に取ると二つのグラスに注いだ。グラスを持ち上げ、レイの前に差し出す。透き通った黄金色の液体を通し、同じようにグラスを持ち上げたレイが見える。
「二人の出会いに」
「気取りすぎだ。似合わない」
 俺をからかうように笑いながらも、レイはグラスを打ち鳴らしてくれた。喧騒で満ちる店内にあってもその澄んだ音は不思議とはっきり聞こえる。
 基本的にアルコールは苦手だ。だが一口ふくんだリンゴ酒は本気で旨いと思った。爽やかな香りが鼻に抜け、微かな酸味が喉を滑り落ちていく。そんなに強くもないようだし、これなら付き合いではなく好きで飲めそうだった。
「旨い」
 空のグラスをしげしげと見つめ、レイが唸る。潰されないように気をつけなければ。
 木製のフォークを手に取り、山菜のスパゲティを巻き取る。漂うバターの甘い匂いに涙が出そうになった。もし今、このスパゲティを奪い取られたら俺は間違いなく魔王となって世界を滅ぼす。
「愚かな人の子よ! お前にスパゲティを奪われた者の悲しみが分かるのかっ!」
 と血の涙を流しながら勇者に向かって言ってみたい。
 大きく口を開け、フォークをその中に突入させる。程よい固さに茹でられたスパゲティに溶けたバターが絡み、そこに山菜の旨みがじゅわっと……くーっ!
 フォークを砕かんばかりにきつく握り締め、カウンターに額をつける。
 舌だけではない。全身のあらゆる器官が喜び、雄叫びを上げていた。
 ゆっくりと顔を上げた俺の魂が言う。
「生きてるって素晴らしい」
「そうだな。まったくもって素晴らしい。リード、すまないがもう一本もらっていいか?」
 少し照れたような顔でレイがリンゴ酒の瓶を振って見せた。
 ……早っ。
 少々あきれながらもリンゴ酒を追加する。ニーナから酒瓶を受け取ったレイはついでにこんな注文をしていた。
「もう少し大きなグラスが欲しいのだが」
 どうやら徹底的に飲むつもりらしい。レイの酒豪っぷりに感心とも驚きとも言えない顔で彼女を見ていたら頭を下げられた。
「すまない。本当に久しぶりなんだ」
 まぁ、野宿に野草を食べる生活だったしな。
「いいさ。お礼に好きなだけ飲んでくれ」
 グラス、というかジョッキを片手にレイが首を傾げた。意味が分かるように言葉を継ぐ。
「クレアにくれたペンダントのお礼だよ」
「そんなことか。気にしないでくれ」
 ジョッキをあおり、息を吐いたレイが僅かに赤く染まった顔で微笑んだ。色っぽいんだかオッサンくさいだかよく分からない。
「あれさ、もしかして」
 ポテトサラダをつつきながら、やや表情を改める。使ってもらった方が喜ぶから。俺はクレアがレイに言われたという言葉を思い出していた。
「察しの通り、妹の形見だ」
 レイの細く白い指が酒瓶の首を撫でる。
「そんな大事な物」
 身を乗り出そうとした俺を目で制し、レイは落ち着いた声で続けた。
「たくさんあるんだ。アクセサリーを作るのが好きな子だったから」
「そう、なんだ」
 咄嗟に何を言えばいいのか分からなくなり、曖昧な返事をしてしまう。
 そんな俺を見てレイは頬杖をつくと形のいい唇を小さく緩めた。
「他人の心の傷に触れるのは嫌いか?」
「当たり前だろ」
 いきなり何を。
「臆病だな。だが、悪くない」
 姿勢を正したレイがカウンターの上で腕を組む。彼女が動くたびに揺れる黒髪は、ただひたすらに優雅だった。触れてみたい。そう思うのは男だけではないはずだ。
「少し喋っていいか」
「駄目だ、って言ったら?」
「君が駄目だと言ってもこいつがいいと言ってる」
 レイは酒瓶に指先で触れ、愛しそうに撫でた。酒瓶さえも赤くなりそうな艶やかな指の動きについ汗をかいてしまう。
 額の汗を悟られぬよう視線をレイの顔からはずし、
「じゃあ、どうぞ」
 と黄色いかぼちゃのスープに向かって俺は答えた。
「ありがとう。そうだな……まず、村の話をしよう。私の生まれた村だ」
 酒の力か、レイの口調は軽い。
 肯き、俺はスープを口に運んだ。甘く、旨かった。
「ここからだと西の方になるな。山間にある、小さな村だ。豊かではないが冬に餓死者が出ることもなかった。何の特徴もない、ただの村だ」
 言葉を切り、思案するようにレイが顎に手をやる。それから不意に彼女は破顔した。
「困ったな。ほかに語るべきことがない。我が故郷ながら驚きだ」
「じゃあ、レイの事を教えてくれよ。どんな子供だった?」
「それこそ語るべきことがない。普通の田舎娘だ。槍ではなく鍬を握っていた」
 ジョッキに酒を注ぎ足し、レイが楽しげに笑う。が、彼女が槍を握る事になった理由を考えると一緒に笑う気にはなれなかった。
 無理をしてるんじゃないだろうか。
 レイの笑顔と飲み干されていくリンゴ酒に思ってしまう。
「すまない。やはりつまらないな」
「そうじゃないんだ」
 レイの申し訳なさげな表情に俺は慌てて首を振る。
「俺は綺麗な女性と食事できるだけで十分幸せなんだけど、そっちは?」
「幸せだ。酒も料理も十分私を満たしてくれてる」
「ならいいんだけど」
 語尾を濁しながら言って、スパゲティの上の山菜をフォークでつつく。
 本当に訊きたかったのは、俺と一緒にいて楽しいか、って事だったんだけどどうしても切り出せなかった。そんな質問をすること自体がカッコ悪いような気もするし、レイだって答えにくいだろう。
 それでもやはり気になってしまう。この時間はレイにとって有意義なものになっているのだろうか。
 そんなことを考えていたらレイに詰め寄られた。いきなり縮まった距離に口が半開きになってしまう。
「君はほんっ……とうに臆病だな。武器屋の看板が泣くぞ」
「いや、それは関係ないような」
「何をごちゃごちゃ考えているのかは知らないが、酒の力を借りてはっきりと言っておこう」
 ジョッキに残った液体を飲み干し、少しばかり据わった目で俺を見上げるレイ。
「私は君を気に入っている」
「その、なんで?」
 反射的に訊いてしまった。どこまでも自分に自信がない男なのだ、俺って奴は。
「私を誘ってくれたからだ」
「そんなの、今までだって山ほどあっただろ」
「ない」
 即答。
「いいか、冷静に考えてみてくれ。私はハンターでもないのに竜を追って野宿を繰り返し、野草を食べて生きているような女だ。どう考えたって気持ち悪いだろ」
「別に」
 今度は俺が即答する番だった。予想外の答えだったのか、レイは目を見開いて実に分かりやすく驚きを表現してくれる。
「なぜ無理をする」
「してないって。そりゃ最初はちょっと驚いたけど、よく考えたら旅人ってそういうもんだし」
 別にレイに気を使ってこんな事を言っている訳ではない。俺は本気でそう思っていた。扱っている品物ゆえ、ウチの客は八百屋の客よりも確実に濃い。
 俺は見かけによらないレイの言動に驚いたのであって、言動そのものに驚いたわけではなかった。
 これが同じ旅人でもウチのぼけ親父の言動なら「誰がそんな上等なもん食えって言った。樹液でもすすっとれ」と蹴り倒していたところだ。
「だが、私は女だ」
 お。
 うつむくレイとは対照的に、俺はにやにやとした笑みをこぼしてしまった。
「気にするんだ、そういうの」
「なっ」
 からかうように言った瞬間、レイの顔が跳ね上がった。酒によって赤くなった顔をもう少しだけ赤くして、面白いくらいに焦って見せてくれる。
「ばっ、だから……その、だいたい! 慎みとかしとやかさは男が女に押し付けたものじゃないか」
「ふーん。俺は別に押し付けた覚えはないけど」
「うるさい! とにかく私は……その、なんだ。えーっと、何を言おうとしたのか分からなくなったぞ。君のせいだ」
「んな無茶な」
 酒がレイの頭をいい感じに溶かしだしたらしい。普段の真面目な彼女との差が不思議で、愉快だった。気さくな今のレイも悪くない。
「リード・アークライト!」
 いきなり名を呼ばれて指を鼻先に突きつけられ、つい目が寄ってしまった。
「なっ、なに?」
 レイの指先を見ながらちょっと身を後ろに逸らす。戸惑う俺をよそにレイはなぜか自信ありげな、というか大物ぶった表情で「うむ」と肯くと、何とも形容しがたい笑顔を浮かべてこう言った。
「ありがとう。本当に嬉しかった」
 頭を掻き、とりあえず照れる俺。
 何なんだろうね、胸の奥に春の陽気をぽんっと置かれたようなこの気持ちは。
 まっ、レイが楽しんでくれてるならそれが一番だ。
「おい、鼻スパのリード。お前は誰に断って女性といい雰囲気になってんだ、こら」
 いきなり浴びせられた酔っ払い特有の鈍った声と酒臭さに顔を歪める。嫌々ながらも顔を向ければ案の定肉屋のニールがいた。
 完全にできあがってやがるな、こいつ。
「邪魔すんな。ていうか鼻スパって何なんだ」
「鼻からスパゲティを……すまん、お前は耳からだったな」
「場所の問題じゃねーだろ」
「だめだぞ、自分のアイデンティティは大事にしないと」
「……そんなもんに依って立った覚えはねぇ」
「それはともかく、だ」
 うめく俺を押しのけ、ニールが無理矢理俺とレイの間に割り込む。と、急に姿勢を正した彼はこんなことを言った。
「寂しい我々のテーブルを飾る一輪の花になって頂けませんか、美しいお嬢さん」
 ニールの台詞に応えて店の一角から拍手や口笛が飛ぶ。大盛り上がりだな、酔っ払い。
 レイは少し首をかしげてニールを見上げ、一度目閉じてから立ち上がった。
 さらに大きくなる喧騒。拍手喝采、と言っても差し支えない。
 なんだかなぁ。
 頬杖をついて盛り上がるテーブルとレイに目をやる。庭で大事に育てていた花を黙って持っていかれたような気分だ。と、レイは俺に顔を近づけそっと囁いた。
「収まりそうにないからな。すぐに戻る」
 子供を安心させる母親のような笑顔に顔が熱くなるのを感じる。相当納得いかなさそうな、というか寂しそうな顔してたんだろうな、俺。
 ニールに手を取られて歩いていくレイ。その後姿の見事なラインについ嘆息してしまう。まぁ、ニール達が一緒に飲みたいと思う気持ちも分からないでもなかった。
 レイがテーブルに到着すると歓声は最高潮に達した。囚われの姫を助け出した騎士団だってあそこまでの歓声は挙げないだろう。
 誰もが手を叩き、床を踏み鳴らしている。
 ていうかいい加減にしないと追い出されるぞ、お前ら。
 と、そんな喧騒から逃げ出すようにテーブルから離れ、カウンターの俺から少し離れた場所に座った人物がいた。
 木こりのリックだ。
 彼は何かを確かめるようにテーブルの方を肩越しに振り返り、それから思い詰めたような表情でカウンターを凝視する。
 気分でも悪いんだろうか。そういやリックも飲める方じゃなかったしな。
 かなりまいっているようだが、大丈夫だろうか。
 心配になった俺が声をかけようとした時だ。
 入り口の戸が開き、冷たい夜風と共に馴染みの顔がまた一つ増えた。
 ダークブルーの髪と目、そして黒の制服。腰に一振りのショートソードと手錠を提げた男の名はカート。俺の幼馴染みであり、この町の警備兵でもある。
 ちなみに昼間、パン屋のロイに告白するため俺の顔を見て気合を入れた少女はカートの妹だ。
 しかし制服のままということは飲みに来たわけではないようだ。カートは鋭い目つきで店内を見回すと足を踏み出した。その後ろからもう一人、男が顔を出す。こちらは馴染みの顔ではなかったが、知った顔ではあった。
 昨夜家の前で殴りあい寸前までいったハンターの男だ。男はポケットに手を入れたまま店の奥、ニール達がいる方に視線を飛ばすとカートに何事か囁いた。
 一つ肯いたカートがさらに歩を進める。
 警備兵とハンターという意外な組み合わせにどんな意味があるのか。それを考えているうちにカートは店内で一番騒がしいテーブルに到着してしまった。
 皆制服とカートの厳しい表情に何かを感じ取ったのか、喧騒が一瞬にして霧散する。沈黙の中、低く抑えられたカートの声が告げた。
「レイ・ケインベックだな。少し話を聞かせてもらうぞ」
 誰もが一瞬混乱したと思う。それを感じさせる妙な空気が確かに流れた。
 レイが、警備兵に何を話すんだ?
 レイもカートの顔を見上げ、何を言うべきか迷っているようだった。しかし視線がこちら、いや、俺の背後に向いた瞬間レイの表情が激変する。
「貴様ぁっ!」
 牙を剥き出しにした獣の如く吼え、テーブルを踏み越えたレイが疾る。咆哮が空気を震わせ、床に落ちた皿がその身を四散させた。
 レイの手には……ナイフ。
 食事用のそれでも人を殺すには十分な凶器となる。
 反射的に立ち上がった俺は彼女の前に立ち塞がった。
 殺させてはいけない。頭の中にあったのはそれだけだ。
「どけぇっ!」
 レイが叫ぶ。どうやら止まってはくれないようだ。
 俺は奥歯を噛み締め、構えた。拳は握らない。軽く開く。
 俺を退かせようとしたのだろう。こちらの手を狙い、レイがナイフを突き出す。
 同時に俺は強く踏み込み、手を伸ばした。手のひらに鋭い痛みが走る。だが退くわけにはいかなかった。
 レイが人殺しになってしまう。そんな予感がしていた。
 俺は痛む手でレイの手首を何とかつかんだ。そのまま力の流れに逆らわず腕をひねり、レイの体を空中で一回転させて背中から落とす。
 肺から無理矢理空気を搾り出されたような呻き声をあげたレイの体をひっくり返し、俺は彼女の腕関節を壊れない程度に極めた。
 すぐさまナイフを奪い取り、放り投げる。床を滑るナイフ。レイの歯軋りが確かに聞こえた。
「何が、どうしたんだ」
 血を流し、レイの手首を汚し続ける自分の手を気にしながら誰にともなく訊く。どこに視線をやったらいいのか分からず、店内を見回してしまった。
「一体何の騒ぎだ」
 岩石のような声を引き連れてマスターが厨房から出てくる。その足下にはクレアがいた。マスターもクレアも考えた事は俺と同じらしい。何がどうしたんだ。表情がそう言っている。
 特にクレアは泣きそうな顔で俺とレイを見つめている。泣きたくもなるだろう。俺だってそうなんだから。
「カート」
 混乱する頭で考えた末、状況を説明してくれそうな人物に思い当たった俺はその名を呼んだ。
 ショートソードを抜いたカートはレイの脇にひざまずき、剣先を白いうなじに突きつけた。
「動くなよ」
 そうレイに命令してから顔を上げる。
「今日、山で死体が二つ見つかった。彼の仲間だそうだ」
 言いながらカートは入り口で突っ立っているハンターの男に目をやった。店内の視線が男に集中する。男は何も言わず唇の端を吊り上げ、二度軽く肯いた。
「それで昨晩彼らと行動を共にしていた彼女に話を聞こうと思ったんだが」
「私は殺してなどいないっ!」
 床に組み伏せられたレイが叫ぶ。振動となって体から直接伝わってきた彼女の声に俺は唇を噛んだ。
「誰も君が殺したとは言ってない。俺は話を聞きたかっただけだ」
 カートはそう言う。だが店内にの客たちがレイを見る目は明らかに変わっていた。ニール達のように戸惑っているくらいならまだいい。中にはレイを人殺しだと決め付けているような視線もあった。
 悔しいと思う反面、この状況では仕方ないかとも思ってしまう。実際にレイはこの場で殺そうとしてしまったんだから。
「俺は、見たぞ」
 不意にそんな声がした。耳に慣れ親しんだ声。今は震えている。
「昨日の夜、この女が山で男を引きずってるのを」
 木こりのリックの発言に店内がざわめきで満ちる。
 それでさっきレイから逃げるようにテーブルから離れたわけか。
「なぜ届けなかった」
「その、関わっちゃいけねぇと思って」
 カートの問いにリックは身を縮めて答えた。たくましい体つきとは対照的に、彼は気が小さく心優しい男だった。
 よく見れば顔は青ざめてさえいる。
 しかしこれで状況はレイにとってますます不利になった。疑いの視線がさらにきつくなる。
 俺自身、怪我をしてないのに血まみれで返ってきた昨日のレイの姿が頭から離れなくなっていた。
 鼓動が緩やかに速度を上げ始める。
 まさか、あれは。
 背筋を冷たい痺れが走ったところで俺は頭を振った。レイは殺してないと言ってる。信じろ。
「とにかく詰め所に来てもらうぞ。リード、お前もだ」
 カートは俺の顔を見て続けた。
「死体の横には彼女の槍が落ちていた。あれはお前の店で売ったものだな」
「あぁ」
 カートは小さく肯き、腰の手錠を手にする。その鈍い銀色の輝きに、つい腕に力が入ってしまった。
「リード、痛い」
 苦痛を訴えるレイの声。反射的に力を緩めてしまった、その瞬間。
「バカ野郎!」
 カートの怒声が耳に入ったのと同時だった。肩の関節を曲げてはならない方向へ捻じ曲げ、レイが体を起こして床を蹴る。
 彼女が向かった先には……クレアがいた。
 伸ばした手がむなしく宙を掻く。
「動くな!」
 クレアの背後に取り付いたレイの手には小さな食器の破片が握られていた。その破片をクレアの喉元に押し付ける。
「お姉ちゃん」
 潤んだクレアの声にレイは一瞬迷うような表情を見せたが、結局は俺とカートに鋭い視線を向けた。
 いや、痛みに耐えているせいでそういう表情になってしまったのかもしれない。レイの右腕は完力なくぶら下がり肩の関節が外れていることは容易に見てとれた。
「道をあけて貰おうか」
 一度カートと顔を見合わせた俺は仕方なく立ち上がり、脇に避ける。
 周囲からレイに向けられる視線はすでに疑念ではなくなっていた。そこにあるのははっきりとした敵意だ。
 そんな雰囲気の中クレアを伴ったレイが一歩、また一歩と進んでいく。
「何で、こんなことするんだ」
 どんな理由があろうとも他に方法はなかったのか。いや、あったはずだろ?
 だがレイは俺の顔を一瞥しただけで何も答えてはくれなかった。
 変わらぬ速度で入り口まで歩み、立ち止まる。
「全員、店の奥に行くんだ。早くしろ」
 ここで飛び掛るべきか。
 腰を落とした俺の肩をカートが叩き、首を横にふる。
 だが、と口を開きかけた俺を制すように彼は言った。
「刺激するな。このままの方がいい」
 プロにそう言われてしまっては動く事もできない。俺はクレアとレイを視界に捉えたまま店の奥まで後ずさりした。
 レイは最後に俺を見て何か言おうとしたようだ。が、結局その口が声を発する事はなくレイの姿は開け放たれた扉から夜の町に消えていった。
 引いていた波が戻って来るように、ざわめきが戻ってくる。安堵の溜め息と、敵意に満ちた罵りがそのほとんどを占めていた。
 俺はクレアに駆け寄り、小さな体を抱きとめる。首筋を穴の開くほど見つめ、わずかな傷さえ付いていないことに心から安堵した。
「痛いところとかないか?」
「うん、大丈夫」
 涙に濡れたクレアの目を見た瞬間、胸の奥に黒い感情が湧き上がる。
 背後で客たちが囁いているレイへの罵りが大きく、うねるように聞こえてくるような気がした。
 と、不意にクレアが俺の手をとる。
「だめだよそんな顔したら。お姉ちゃん、わたしに『すまない』って言ったもん。謝ったんだから許してあげないとだめだよ、お兄ちゃん」
 俺は左手で自分の顔を覆い、天井を見上げた。
 長く息を吐きだして目を閉じる。
 俺はどうするべきなのだろうか。
 今はただ少し、考えるのに時間が欲しかった。

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