武器屋リードの営業日誌
4
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
わずかに交じる草の匂い。いつもと変わらぬ小鳥のさえずりを聞きながら庭を歩く。芝生についた朝露がブーツを濡らすのもいつもの事だった。
片手にぶら下げた両手剣。素振り用の模擬剣だ。刀身に重りを巻いて多少重量を増してある。朝食を作る前にちょっと運動をしようというわけだ。柔軟体操で体をほぐし、多少体温を上げたところで剣を握る。
足を開き、剣を振り上げようと全身に力を込めた時だった。庭に現れた気配が一つ近寄ってくる。
仕方なく緊張させていた筋肉をほどき、そちらに頭を向ける。
「おはようございます」
オーフィスだった。手にはあの抜けなくなった聖剣をぶら下げている。
「あぁ、振るのか?」
オーフィスが手にした剣を見ながら問う。朝の薄い光を押し広げるかのような存在感、やはり超一流品だ。
さすがに少しオーフィスが羨ましかった。ディストの工房に押し入って強盗でもしない限り決して自分の物になることはない。それどころかこの先商品として扱うこともないだろう。せいぜいこうして涎を垂らしながら「いいなぁ」と思ってみるくらいだ。
「一応、日課ですので」
自嘲するように薄く笑い、オーフィスが剣の握りに手をかけた。ためらうよな間をおいて、ゆっくりと刀身を引き抜いていく。その冷たく静かな刃の輝きに、頬の辺りが反応してしまう。
剣を見ながら頬をぴくぴくと震わせている男。傍から見れば変態以外の何者でもない。自分でもそう思う。
この場に母子連れがいれば間違いなく「お母さんあの人変だよ」「しっ、見ちゃいけません」てな会話が交わされることだろう。
しかし、あえて声を大にして言いたい。
武器屋が武器好きで何が悪い、と。
別に武器を使って人をどうこうするのが好きな訳じゃないからいいじゃないか。安全なもんだ。
「と、俺は思うんだが」
「そうですね」
何のためらいもなくオーフィスが返事をする。しかも上品な微笑み付きで。どうやら彼は人をあしらう術を知っているらしい。上流階級の社交術というやつだろうか。
……というか、年下の少年に軽くあしらわれた俺の立場は?
そんな俺の内心など知るはずもないオーフィスは正面を向くと、正眼の構えをとった。掲げられた刃がゆっくりと、だが真っ直ぐに振り下ろされる。
空気が斬れた、ような気がした。
和やかだった朝の空気が張り詰める。気温が少し下がった印象さえ受けた。剣に目を奪われていたが、それを扱うオーフィスの技術もなかなかのものらしい。素人にはここまでの緊張感を持って剣を振ることはできない。愚直に剣を振り続けてきた結果だろう。
しっかりとした下半身と半袖のシャツから覗く腕からも彼が鍛錬を怠っていないことが伺えた。剣士としてやることはやっているようだ。今なら「あんな人たちに負けるはずがないんです」というミアの言葉も信じられる。それはオーフィスが初めて見せてくれた強さだった。
徐々に素振りの速度が増していく。
短く切るようなオーフィスの呼吸と刃が空を切る音に呼応するように、庭の温度が上がり始めた。
朝日、滲む汗、美形、王子様。
夢見がちな少女ならば一撃でヤラれてしまう。それは実に絵になる光景だった。「爽やか」という単語を図解すればこうなるのだろう。
俺は模擬剣を杖にして立ち、しばらくオーフィスの素振りを眺めることにした。
素振りをするオーフィスの姿があまりに美しく、喩えるなら草原に咲く一輪の花のような……と思ったからではない。
俺は男より武器の方が好きだ。
……どっちにしろ変態っぽいか。
それはさておき、ミアのお願いを解決するヒントを得ようと思ったのだ。見たところオーフィスに技術はある。とすれば、心・技・体のうち残るのは心と体だ。このどちらか、もしくは両方に問題があるということなのだが。
下半身の安定性、上半身のバランス、腕の振り、剣先のぶれ。
俺は口をへの字に曲げて素振りを観察し続けた。
回数にして百を越えた辺りだろうか、オーフィスの手が止まる。額から流れた汗が形のいい顎を伝い、地面に落ちていった。だが彼は素振りをやめようとしない。歯を食いしばり、震える腕を無理やり振り上げる。剣先のスピードも目に見えて落ちていた。
必死なんだろうな。
剣が抜けなくなってしまった苛立ちや焦りをどうすればいいのか分からないのだろう。
苛立ちや焦りを解消することはできない。ならば忘れる。
オーフィスの素振りからはそんな魂の歯軋りが聞こえてくるようだった。
だがこんな振り方をしていたのでは体が壊れてしまう。
俺は手にしていた模擬剣でオーフィスの剣を軽く弾いた。乾いた音とともに剣が芝生の上に落ちる。握力もほとんどなくなっていたようだ。短く声を漏らしたオーフィスが口を半開きにしてこちらを見つめる。
こちらの存在を今思い出したかのような表情に、俺は小さく息を吐いた。
「落ち着いて、息吸ってみ」
素直なオーフィスは言われた通り大きく息を吸い、吐き出す。
「聞こえるか?」
「え」
「音だよ、周りの」
小鳥のさえずりや木の葉がこすれる音、目覚め始めた町の息吹。
「もう少し余裕もってもいいんじゃないか」
俺の言葉に唇を引き結び、オーフィスはうつむいてしまった。
「私は」
「まぁ待てって。だからそういうところに余裕をもつんだよ」
「はい」
と返事をしたものの、オーフィスの表情は暗いままだ。これもこれで絵にはなるが朝の空気には似合わない。
正面から訊いてみるか。その方が手っ取り早いし。
「剣、抜けなくなっちまったんだってな」
オーフィスの顔が跳ね上がる。
一瞬分かりやすく動揺した後で、彼は下手くそなごまかしの笑みを顔に貼り付けた。
「何を。あの通り抜けていますが」
地面に落ちた剣をオーフィスが見やる。
「言い直そうか。実戦で剣を振れなくなったんだろ」
やや低い声で言ってやると、オーフィスは笑みを収め顔を背けてしまった。
「どうして、その事を」
「ミアに相談されてな。心配してたぜ、彼女」
「そう、ですか」
相変わらずオーフィスの声は重い。相当落ち込んでいることは確かなようだ。
まぁ、剣を象徴とする国の自称王子さまだし、自負もあるだろう。
「で、俺でよければ話でも聞こうかな……と思ったけどやめた」
俺は唇の端を持ち上げ、笑った。模擬剣に取り付けられている重りをはずし、地面に落す。
「この方が早そうだしな」
オーフィスに剣の切先を向け、俺は構えた。
耳でいくら話を聞いたって分かることは限られている。肌でオーフィスの剣を感じてみるのが一番確かだ。
が、どうもオーフィスは乗り気ではないらしい。困ったような顔をしてこちらを見るばかりで、剣を拾おうともしない。
「どうした?」
声をかけるとオーフィスはのろのろと剣を拾い、刃を見つめる。しばしの後、それをこちらに向けることなく鞘に収めてしまった。
「模擬剣を貸して下さい」
「何で」
オーフィスの剣は俺が手にしている模擬剣と打ち合って刃こぼれしたり折れたりするほどヤワじゃないと思うんだが。アトリア・デイ・ディストの剣について「鎧を着た人間を音もなく真っ二つにする」と書いてある本さえあるのに。
まぁ、これは少し大げさとしても模擬剣と打ち合ってディストの剣がどうこうなる事はないだろう。
「これは真剣です。もしものことがあっては」
あ、そういうことか。納得した。ふーん、そうか。なるほどねぇ。
「余計な心配だな。今の君が俺に傷をつけられると思ってるのか?」
この台詞にさすがのオーフィスも少し頭にきたようだ。俺を見る目がわずかに細くなる。
それでもキレないのは性格だろう。
もう少し煽ってみるか。
「確かにいい剣だが君が使ってる限り木刀以下だな。斬れやしないさ」
短くうめいたオーフィスが拳を握る。目は完全に俺を睨んでいた。
「使い手は剣を選べるけど剣は使い手を選べない。悲劇だと思わないか?」
握りに手をかけ、オーフィスが剣を抜く。鞘は後ろに放り投げられた。
どうやらヤル気になってくれたらしい。意外と負けず嫌いじゃないか。
これで「挑発には乗りませんよ」とか悟ったような笑顔で言われたらどうしようかと思った。
やっぱ十代はこうじゃなきゃ。
ま、十代じゃなくても武器ぶら下げてる奴なんてどいつもこいつも負けず嫌いなんだけど。もちろん俺も含めて。
構えたオーフィスが剣をこちらに向ける。刃同様の切れそうなほど鋭い表情とともに。
俺は正直ちょっと煽りすぎたかも、と思っていた。気を抜けば指の一本や二本は本当にとぶかもしれない。
短く息を吐き、グリップを握る手に力を込める。
俺、オーフィスともに正眼の構え。さて、どこからくるか。
爪先をわずかに進め、間合いを詰める。さらに少し、と思った瞬間オーフィスが飛び込んできた。
大きく踏み込みつつ大上段からの一撃。
予想外だった。身長差からいって腕は俺の方が長い。つまり間合いは俺のほうが広いはず。
だがオーフィスはその間合いの外から飛び込んできた。
避けるか、いや、受ける。しばらくはオーフィスに攻めさせよう。
思考する時間はあった。意外性と迫力はあるがいかんせん動作が大きすぎる。
剣を横に寝かせ、完全に受けの態勢。
が、その瞬間髪の毛が逆立つような感覚に襲われた俺は反射的に身を引いていた。
全身の毛穴から汗が吹き出る。
「嘘だろ」
オーフィスの剣は何事もなかったかのように振り下ろされていた。俺の剣を中ほどから叩き斬って。
折れた刃が地面を転がる。それを目で追ったのは一瞬のこと。
だがオーフィスに目を戻せば既に彼は突きの体勢に入っていた。
極限まで引き絞られた弦から放たれる矢のような突きが真っ直ぐ喉元に向かって来る。
何がもしものことがあったら、だ。完全に殺る気じゃねーか。
体をずらし、かろうじて躱す。こりゃ少しばかり骨が折れそうだ。
恐ろしいほどの引き手の早さから繰り出された第二の突きを半分の長さになった模擬剣で受け流し、俺は眉間に皺を寄せた。
しかしディストの剣がここまでの斬れ味を持っているとは。
オーフィスは始めからこちらの剣を破壊する気だったらしい。
木刀以下だなんて煽りにしても見くびりすぎた。
横薙ぎの一撃を剣で受けようとして、慌てて後ろへ跳ぶ。受けてはいけない。
可能な限り躱し、どうしても不可能ならば受け流す。
この模擬剣、今の状況では紙の盾同様だ。その程度の防御力しかない。
間合いに至ってはオーフィスの半分以下。圧倒的に不利だった。
だがこっちにも武器屋の三代目としての意地がある。伊達に武器をおもちゃ代わりに育ってきたわけじゃない。
……危ない意地だな。そんな育て方をした親父が悪い。なんてヤツだ。
とにかく偉そうに話を聞いてやるなんて言った手前意地でも負けられなかった。
オーフィスの斬撃は止まらない。重さは並だがとにかく速さがある。
一つの振りが終ってから次の振りが繰り出されるまでの時間が異様に短い。
両手剣の場合一撃はずせば必ず隙ができる。
そこを狙うのが対両手剣戦のセオリーなのだがオーフィスに対してはそれが通用しそうになかった。
彼は一撃、そしてまた一撃という風に剣を振らない。
全ての動作を流れの中に組み込み、絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
小川を流れる木の葉のような剣技。攻撃を受けながらもその無駄のない動きについ見とれてしまいそうになる。
だが実際はそんなに穏やかなものではなかった。
これは確実に人を斬り殺すために組み上げられた技術の粋だ。
オーフィスの間合いにいるのが辛くなった俺は一度模擬剣で攻撃を受け流し、大きくバックステップした。
その瞬間、模擬剣の残っていた部分もついに折れてしまう。
鍔から上がなくなってしまった模擬剣を右手で持ち、左手で拳を作る。
「もう、止めましょう。これ以上は、無駄、です」
「やっと体があったまってきたところじゃないか。まだまだ」
笑いながら言ってやると、オーフィスは一度唇を噛んで再び構えをとった。
気になることが一つある。
オーフィスが異様に消耗しているような気がするのだ。
顔からは大量の汗を流し、かなり大きく肩で息をしている。
確かに両手剣をあの速度で振り続ければ疲れはするだろう。でも少し早すぎやしないか?
単なる体力不足とは思えない。
なぜか。オーフィスには技術がある。技術を習得するには鍛錬を積まなければならない。鍛錬を積んでいれば体力は自然とつく。
そりゃ確かに体力にだって才能はある。だがオーフィスに体力的な才能がなかったとしてもこれは異常だ。
体調不良、ってわけでもないと思うんだが。
少し試してみるか。
地面を蹴って再びオーフィスの間合いに入る。すぐさま襲い掛かる刃の雨。
俺はその雨を意図的に大きく避け、間合いへの出入りの回数を多くした。
当然オーフィスは俺を追って大きく動かなければならない。
剣の振りは相変わらず悪くなかった。鋭い風切り音が耳朶に触れる。だが問題はその繋ぎだ。
オーフィスは剣を大きく振った反動を次第にもてあますようになっていった。
さっきはその反動をうまく次の一撃に生かしていたというのに。
俺はさらに避ける動作を大きくした。オーフィスは追って来る。だがそこに先ほどまでの速さはない。
鋭いのは振りだけで、すべての攻撃が俺の予想よりワンテンポ遅れて放たれる。
オーフィスの表情からも彼が思い通りに動けていないことが分かった。
歯を食いしばり端正な顔を悔しさに歪めて剣を振る彼を見ているとかわいそうにすらなってくる。
最後には剣さえもてあますようになり、オーフィスが剣を振っているのではなく、剣がオーフィスを振っているような状態になってしまった。
完全に自分の振りを制御できなくなったようだ。
潮時か。
俺はオーフィスが剣を振り上げたと同時に踏み込み、蹴りで彼の両足を薙ぎ払った。
主の手を離れた剣が投げ出され、当の主は背中から地面に落ちる。
オーフィスは倒れたまま起き上がらなかった。荒い呼吸を繰り返し、胸を大きく上下させている。
腕を持ち上げ、自分の目を覆った彼は歯を食いしばって、泣いた。
嗚咽を必死で堪えているのか、歯の間からすり潰されたような呻き声が漏れる。
俺はそんなオーフィスを見ながら笑った。
悔し涙を流せるうちはまだ大丈夫。先に進む可能性があるってことだ。
で、俺の役目は先に進む手伝いをしてやることなのだが……。
俺は地面に落ちていたオーフィスの剣を拾い上げた。
よほど力を込めて握っていたのか、グリップには血がついている。
俺は剣を構えて軽く振ってみた。
素晴らしい。その一言に尽きる。
適度な重さに優れたバランス。正直、振った瞬間に鳥肌が立ったくらいだった。頬の辺りがぴくぴくする。
もう一度、振る。
お気に入りの服の様に体に馴染んでいく。実に使いやすい。
俺は地面に寝ているオーフィスを見やり、それから剣を見つめた。
鍔に埋め込まれた初代の王から受け継がれているという青い石。
多分この石だけで家の一軒や二軒は建ってしまうのだろう。
最高の剣だよな、色んな意味で。
ついため息を漏らしてしまう。最高……あ。
俺は目を見開き、剣を上から刃、鍔、青い石、握り、柄頭と見つめなおした。
分かった。というか大事なことを忘れていた。
待てよ。とするとこの青い石か。うん、それでいける。
鞘を拾い上げた俺は剣を収め、オーフィスの横に座った。
体を起こしたオーフィスが一度鼻をすすり、恥かしそうに笑う。
歳相応のあどけなさを残したいい笑顔だ。
「すみません」
「何で謝るんだ?」
「その、本気で剣を向けてしまって」
「気にしなくていい。そうなるように仕向けたんだから」
はい、とオーフィスが小さく肯く。
「情ない、と思われたでしょう」
「全然。これだけ使えればたいしたもんだよ。後はきっかけ、だな」
俺は手にしていた剣を差し出した。それを受け取るオーフィスの表情が陰る。
「あの、何か気付いたことはありませんか。どんなに小さなことでもいいんです」
「ある」
「お願いします。教えてください!」
つかみかかりそうな勢いでオーフィスが訊いてくる。今の彼になら土下座をさせた挙句、逆立ちしたまま鼻からミルクを飲ませる事だって可能だろう。
それほどオーフィスは必死だった。
「落ち着けって。教えるのはいいけどその前に訊きたい事がある」
「何でも訊いてください! 全てお話します!」
「だから落ち着け! ていうか襟首をつかむな、襟首を」
詰め寄ってきたオーフィスを引き剥がし、俺は襟首を正した。
意外と騒々しい奴だな。
「それで、何でしょう」
拳を握り、身構えた表情のオーフィス。
俺は一拍置いてから口を開いた。