武器屋リードの営業日誌
ライン

 

「おい兄ちゃん。こいつはまったく斬れないが、ここはそういう商売してんのか?」
 昼飯時少し前、店にやってきたおっさんはそう言っていきなりカウンターに長剣を放り投げた。
 おっさんの顔には見覚えがあった。その長剣、両手用のクレイモアも間違いなくウチで売ったものだ。
 しかし「まったく斬れない」ときたか。
 見たところおっさんは三十を過ぎた辺り。剣士としては一番油が乗ってる頃なんだが。
 俺はおっさんの迫力だけはあるヒゲづらをみやってから、手元の長剣を抜きさった。
 光を照り返し、刃が銀色に輝く。刃こぼれや錆などどこにもない。
 銘はディアバルト。田舎の余り知られていない刀工の作だが、真面目な仕事が気に入って取引している。
 さて。
 俺はカウンターから出ると店の隅に置いてある丸太を持ってきて、立てた。
 一つ息を吐いて大上段に構える。
 俺がクレイモアを振り下ろした瞬間、目の前の丸太は音もなくまっぷたつになっていた。
 床で揺れる半円の丸太からおっさんに視線を移し、言う。
「斬れますが」
 おっさんはしばらく「信じられない」といった顔で丸太を見つめていたが、やがて咳払いなどしてヒゲを撫でた。
「ああ、その何だ。何かの間違いだったようだな。うむ。そう、あの時はわたしも疲れていたからな」
「ではこちら、問題は無いということで」
「あ、ああ、もちろんだ。使わせてもらう」
 俺は長剣を鞘に収め、おっさんに手渡した。
「またのご利用お待ちしています」
 商売人特有の笑顔を浮かべる俺に向って、おっさんは軽く手を挙げて出て行った。
 その背中が心なしか小さく見えたのは気のせいだろうか。
 二度と来ないだろうな、多分。
 そんなことを思いながら斬った丸太を抱える。
 大上段からの一刀両断なんて実際の戦闘ではほとんど使えない。弱った敵に止めを刺す時くらいだろうか。
 だが自分の腕を棚に上げて武器の性能を語るたわけ者にはこれくらいのデモンストレーションが効果的なのだ。
 確実に客は減るけど。
 先代の親父から店を任されて五年。商売はそこそこ上手くいっている。
 そんなわけで「そこそこ」客を選ぶことはできるのだ。
 ちなみに親父は俺が二十歳になるとさっさと店を譲り、お袋と一緒に気ままな旅に出てしまった。
 一年に一度、開店記念日に帰ってきては酒を飲みながら「そもそも商売とは」と説教をくれる、とんでもない不良中年だ。
 その時、耳がおかしくなるんじゃないかってくらいの甲高い音が店内に響いた。それも三度。
 いつもの事ながら騒々しい。
「だからそれは止めろって言ったろ」
 うんざりしながら振り向いた俺の前、カウンターを挟んで立っていたのは予想通りフライパンとおたまを手にした従妹だった。
「お昼ごはんできたよ、お兄ちゃん」
 俺の言った事を聞いてなかったのか、悪びれる様子はまったく無い。
 今年で七歳になるこの子はクレア・アークライト。親父の弟夫婦の子で、訳あって俺が預かっていた。
 綺麗な銀髪に澄んだ青い瞳。近所のおばちゃん達に「お人形さんみたいね」と言われて可愛がられてはいるが、実際は朝、人の頭をおたまで殴って文字通り叩き起こすような、そんな子だ。
 ちなみに俺が叔父さんや親父と同じ黒髪黒瞳なのに、クレアが銀髪青瞳なのは母親の血を濃く引いているからだろう。
 俺は小さく息を吐いて入り口に昼休み用の札をかけた。
 札には「昼休み中 御用の方はお呼び下さい」と書いてある。
「それで、メニューは?」
「オムレツ。あっ、でも今日はうまく巻けたんだよ」
 さすがに五日連続でオムレツは後ろめたいのか、後半はちょっと言い訳っぽかった。
 研究熱心なのはいいことではあるんだけど。
 でもどうやらうまくいったようだし、オムレツも今日で終わるだろう。
「冷めちゃうよ。早く食べよ」
「そうだな」
 言われて店の奥に引っ込もうとした時だった。
「助けて下さい!」
 悲鳴といっても差し支えない声と共に、一人の少女が駆け込んでくる。
 荒い呼吸に悲壮感すら漂う表情。目には涙さえ浮かべていた。
「お願いします! 表で、表で!」
「クレア、この子を頼む」
 表で何が起こっているのかは分からないが、とにかく緊急事態であるらしい。
 少女にこれ以上の説明を求めてもまともに喋れないだろう。
 俺は店に展示してある薙刀(グレイブ)を手に取り、店を出た。
 通りに出た瞬間、複数の怒声が聞こえてくる。現場は目と鼻の先だった。
 四人の、いかにも中途半端に人の道踏み外してます、といった顔をした男達が一人の少年を取り囲んでいた。
 要するに喧嘩だ。
 腹に膝蹴りをくらった少年が地面に倒れる。これ幸いとばかりに蹴る蹴る蹴る。
 俺は走りながらグレイブを縦に一回転させ、こちらに背を向けていた男の後頭部を石突で打ち抜いた。
 つぶれたカエルみたいな声を上げつつ倒れた男はぴくりとも動かない。
 心配はいらない。一応死なないように突いた。
 不意打ちだが気にすることはない。四人で一人を袋叩きにしてるんだ。こいつらが悪いに決まっている。
 非常に公平な独断と偏見による結論だ。
 しかし柄はもう少し硬い方が好みだな。そういえばブルックの槍も割と柄がしなる。最近流行ってるんだろうか。
 そんなことを考えているといきなり別の男に胸倉をつかまれた。
「何だよテメェは!」
「ん、武器屋」
 答えて振り上げたグレイブの柄が男の股間を強打する。
 自分でやっといて何だが音もなく崩れ落ちる男にちょと同情してしまった。一週間は使えないだろうな、多分。
 さらに不意打ち気味に打ち出された拳を避け、三人目の脛を払う。
 前のめりに倒れた男が喚きながら石畳を転がった。こちらも一週間は歩くのに苦労しそうだ。
「どうする? 残りはあんただけだ」
 三人の仲間を戦闘不能にされた男に俺は笑顔を向けた。
 男がゆっくりと倒れた仲間を見回し、腰に下げた片手剣に手をかける。
 抜く気か。
 笑みを消した俺はグレイブを回転させ、刃を男に向けた。
「抜けよ。死にたければな」
 男の手が止まる。
 精一杯の虚勢か、男は大きく舌打ちして逃げていった。あれしきの脅しで逃げるとは。
 まぁ長生きはするタイプだな。
 通行人をはね跳ばしながら小さくなっていく男の背中に向かって息を吐く。
 それから俺は足元に倒れている少年を抱き起こした。
 まだあどけなさが残る顔には大きなあざができており、右のまぶたも腫れている。
 腰には似つかわしくないほど立派な両手剣が提がってるが、どうやら抜く間もなく殴られてしまったようだ。
「どうして喧嘩なんて」
 他人に因縁をつけるようなタイプではない少年に訊いてみる。
「花売りの少女が、絡まれていたんです」
「正義感が強いのもいいが、勝てない喧嘩ばっかやってるといつか死ぬぞ」
 口の端から血を流しつつ、かすれた声で言う少年に肩を貸した俺は店に向って歩き出した。
 助けを求めてきた少女とクレアが駆け寄ってくる。少女の目を濡らす涙は安堵によるものだろう。
 少女はすぐさま少年の体を支え、ハンカチで口元の血を押さえた。
「すまない、ミア」
「いいえ。ご無事で何よりです、オーフィス様」
 いや、ご無事ってほど無事でもないと思うが。しかしこの二人……。
 俺は隣を歩いているクレアに目配せした。クレアも何か感じたようだ。真剣な顔でうなずき返してくる。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「オムレツ冷めちゃったかな」
 ……クレア、お前は悪くない。お前に期待した俺が悪いんだ。
 そんなこんなで店まで戻ってきた俺は少女、ミアと一緒にボロボロになった少年、オーフィスを奥に運び込んだ。
 さすがに「じゃあこれで」と怪我人と少女を放り出すわけにはいかない。 
 店の奥はそのまま住居部分になっていて、とりあえずは俺の部屋へ。
 ベッドに横になった瞬間気が抜けたのか、オーフィスは眠るように気絶してしまった。
 再び半狂乱になりかけたミアを何とかなだめ、オーフィスの手当てを終えた頃には、完全に昼飯時は終わっていた。
 落ち着いたところでミアに昼食を勧めてみたが「私はここにいます」とその場を動こうとしないため、部屋に置いてあった椅子に座らせる。
 ミアに訊きたい事があった俺は食堂から椅子を抱えてきて彼女の横に座った。クレアは店番だ。
 それにしても。
 膝の上で手を握り、オーフィスが身じろぎする度におろおろと反応するミアの姿に、俺は人さし指でこめかみを掻いてしまった。
 見たところ二人は十七、八。これくらいの歳で男女二人の旅となると大抵は遊びか駆け落ちである。
 だがこの二人に限ってはどうやらそれが当てはまりそうになかった。
 ベッドに立てかけてあったオーフィスの剣を手に取り、静かに抜く。
 両手剣であるが故のしっかりとした重みを感じつつ、俺は切先から鍔、そして柄を眺めた。
 鍔に埋め込まれた濃青の石が神秘的な輝きを放っている。刃に指先で触れると鋭く、そして冷たかった。
 いい剣だ。そこらの武器屋で買えるような安物ではないし、また金を出したところで手に入るような物でもない。
 やはりそうか。通りでオーフィスを助けた時から気にはなっていたのだが。
 金箔によって見事な細工が施された鞘に刃を収め、隣に座っているミアの顔を見やる。
「オーフィスは王族じゃないのか?」
「どうしてそれを。紋章は外してあったのに」
 驚いたように目を大きくし、その後でミアは慌てて自分の口を押さえた。
 しかしこうも簡単にひっかかるとは。いい娘なんだろうがどこか抜けているような気がしてならない。
 そもそも隠しておきたいのならベッドに寝ている彼を「オーフィス様」などとは呼ばない方がいいと思うが。
「でも本当にどうして」
「紋章なんて無くても剣を見れば分かるさ。アトリア・デイ・ディスト。何百年もの昔からディストの王族のためだけに武具を作り続ける超一流の工房。まっ、いい物見せてもらったってところかな」
 軽く笑みなど浮かべつつ、俺は手にしていた剣を再びベッドに立てかけた。
「全部お見通しなんですね」
「腐っても武器屋だからな。ただ」
 腕を組み、オーフィスの顔に目をやる。
「何でディストの王族がこんな所にいるのかは分からないけど」
 そんな俺の台詞から逃げるようにミアはうつむき「それは」と言ったきり押し黙ってしまった。
 どうやら余り話したくないらしい。
 俺としてはそれならそれで一向に構わなかった。誰にだって絶対に明かせない秘密が一つや二つあるものだ。
 それを無理やり聞き出したところで俺が得をするわけでもなし。
「すみません」
「いいさ、色々あるんだろ。オーフィスの傷が癒えるまではウチに居るといい。こうなったのも何かの縁だろうし」
 俺は立ち上がってミアの肩を叩き、椅子を抱えた。そろそろ店の方に行かなければクレアがそわそわしだす。
 クレアは一人で店番をするのが物凄く苦手なのだ。
 一度何がそんなに苦手なのか訊いてみた事があるが「責任とか」と分かるような分からないような答えが返ってきた。
「待ってください」
 突然呼び止められた俺は抱えていた椅子を床に降ろした。声はミアのものではなかった。
 包帯が巻かれた上半身をミアに支えられ、オーフィスがゆっくりと起き上がる。
 どうやら少し前から目が覚めていたようだ。
 といっても腫れた右目は開いていないに等しい。
 残った左眼でベッドから俺を見上げて「私が話します」と言うその声は意外としっかりしていた。
 俺は手を挙げて「少し待ってくれ」という意思表示をしてから、扉を開けて廊下に顔を出した。
 まっすぐに伸びた廊下の先に店のカウンターが見える。
 普段は店と家を分ける扉は閉めてあるのだが、クレアが一人で店番をしている時は声が聞こえるように開けていた。
「クレア」
「はーい」
「大丈夫か?」
 一瞬の沈黙。
「ぼちぼち」
 どうやらまだ余裕がありそうだ。これが「多分」になって「そろそろ」が次に来て最後に何も答えなくなったら限界。
 クレアは不機嫌とも気落ちしているとも言えない妙な状態になる。
「そうだ、さっき俺が使ったグレイブがあるだろ。あれの値札一割引にして張り替えてくれないか」
「はーい」 
 元気のいい返事に安心した俺は部屋に戻ってオーフィスの前に座った。
 オーフィスだけでなくミアまでがじっと俺を見つめている。多少居心地が悪かったがそれだけ真剣な話なのだろう。
 オーフィスは一度自分の手元を見やってから静かに尋ねてきた。
「あの、お名前は」
 気が抜ける。でもそういえば自己紹介してなかった。
「……リード・アークライト。リードでいい。あだ名は無いから」
 私は、と名乗ろうとしたオーフィスをとどめて、俺は話を促す。
 今はとりあえず相手を認識できるだけの名前を知っているからそれでよかった。
 正式な名前は夕食の時にでも教えてもらおう。
 っていうかディストの王族の名前ってむちゃくちゃ長いんだよな、確か。
 オーフィスは一瞬腑に落ちないような顔をしたが、それでも一言一言を噛むようにして話し出した。
「私は、国を逃げ出したんです。リードさんはディストのことをご存知ですか」
「確か一年前にその寛大さから『大樹の王』と呼ばれた前王が病死して、弟が後を継いだんだっけ。ただそれから出入国の管理が厳しくなったせいか情報が入ってこなくなったな。武具に関しては完全に国外への持ち出し禁止だろ。おかげで付き合いがあったディストの刀工や武器職人たちとの縁もそれっきりだよ。それに税金が跳ね上がったとかで生活もかなり苦しいらしい。ディストの武器っていえばウチでも売れ筋の商品だったんだけどな。金と武器。戦争の準備でもしてるんじゃないかって、武具屋の間ではちょっとした噂だよ」
 もちろん最後のは冗談だ。
 ディストは俺の国ルーヴェリアの隣国になるわけだが、出入国の管理が厳しくなったとはいっても国交が断絶したわけではなく、武具以外の品物については今でも取引が行われている。
 一応お付き合いはあるのだ。
「で、逃げ出したっていうのは」
 俺の問いにオーフィスが沈黙する。だがそれも一瞬のこと、覚悟を決めたような顔で彼は口を開いた。
「一年前の前王の死は病によるものではありません。暗殺されたのです」
「暗殺? 誰に」
 反射的に訊き返してしまう。しかし興味からではない。その話の突拍子の無さからだ。
 この時点で俺の心にはオーフィスに対する微かな疑いが生まれていた。
 例え王族の証を持っていたとしても、今日会ったばかりの人間に「実は前王は暗殺された」などと言われて「ええっ! そうだったのか」と信じるわけにはいかない。というかそれが普通だろう。
 そんな俺の内心を知るはずもないオーフィスは、ベッドからこちらをまっすぐに見つめて言い切った。
「前王の……我が父の弟である現王にです」
 低く抑えられた声。シーツを握り締め、俺を見上げるオーフィスの隣で、ミアがうつむいて目を伏せる。
 どちらも演技には思えなかった。
 しかしオーフィスの言う事をすべて信じるならば、彼は王子様ということになる。
 国を出たのは暗殺の手から逃れるためという筋書きは可能だが、果たして信じていいものかどうか。
 まぁもう少し話を聞いてみよう。
「一年前、私は国に残り叔父を斬るべきだったのかもしれません。でも私には力が無かった。父を殺され、国の中枢を叔父に握られた私には」
 声が震えている。食いしばった歯の間から歯軋りが聞こえてきそうだった。
 たかぶった感情を逃がすように大きく息を吐き、オーフィスは続ける。
「数名の仲間と国を出た私はここルーヴェリアの『始まりの森』に身を隠しました。そこで国に残り地下に潜った仲間たちと情報をやりとりしていたのですが」
 そこでオーフィスとミアは顔を見合わせ、微笑みあった。
「やっと体勢を整える事ができて、一ヶ月後に蜂起することが決まったんです」
 蜂起、ねぇ。
「民は苦しんでいます。私には彼らを救う義務がある」
 握った拳を見つめ、オーフィスが独り言でも言うようにつぶやく。
 強い口調ではないが、そこに込められた決意みたいなものは確かに見えた。
 俺はとりあえず頭を掻いて腕を組む。
 王族である証を持っているとはいえ、オーフィスには幾つか怪しいところがあった。
 なぜ身分を簡単に明かしたのか? なぜ護衛がいないのか? なぜ蜂起の一ヶ月前という大事な時期に道で喧嘩などしてたのか? なぜ俺に蜂起の計画をぺらぺらと喋るのか? 
 考えれば考えるほど怪しかった。 
 だが考えたところで彼が本物かどうか分かるはずもない。できるのは推測だけだ。
 そんなわけで俺はオーフィスが本物かどうか気にしないことにした。
 たまに何かの縁で知り合った冒険者がウチに泊っていくことがあるが、それと同じようにオーフィス、ミアと接する。それが俺の出した結論だった。
 もしオーフィスが本物なら俺はかなりの無礼者だが、一応助けてあげてベッドを提供したのだ。そこは勘弁してもらおう。
「まー、なんだ。とにかく傷が癒えるまでゆっくりしていくといい。そこら辺の安宿よりはまともなメシを提供できるはずだから」
「ありがとうございます」
 笑いながら言う俺にオーフィスは深々と頭を下げた。
 どうやら悪い奴ではなさそうだ。
「で、昼飯はどうする?」
 訊く俺にオーフィスはミアと顔を見合わせて「今は結構です」と丁寧に断った。
「じゃ夜は気合入れて作らなきゃな」
「リードさんが料理を?」
「そっ。昼はあの子……クレアっていうんだけど、朝と夜は俺の担当」
「すごいですね。私は料理はまったくできないから」
 感心したような少年と少女の視線が照れくさい。
「親父がお袋連れて旅に出ててさ、覚えざるを得なかったんだ。そんなもんだよ」
 俺は予防線を張っておいた。過剰な期待をされても困ってしまう。
「じゃあ何かあったら呼んでくれ。店にいるから」
 席を立った俺は椅子を持ち上げた。オーフィスとミアが二人揃って頷くように頭を下げる。
 もしかしたら商売人の俺より礼儀正しいかもしれない。
 俺は二人に向ってうなずき返し、椅子を返しに食堂に向った。
 テーブルに残されていた手付かずのオムレツとパン、サラダをお盆に乗せて店に向かう。
 しかし王子様……かもしれない人を家に泊めることになるとは。ただの武器屋にも色んな縁があるものだ。 
 お盆を持って廊下を歩きながらそんな事を考える。
 店ではクレアが突っ伏してカウンターの木目を指でなぞっていた。
 お盆をカウンターに置くと驚いたように跳ね起き、それから安心したような表情を見せる。
 どうやらそろそろ限界だったらしい。
 クレアは大きく伸びをすると、ふぅっと息を履いた。
「いらっしゃいませ」
「おじゃまします」
 答えてお盆に乗せた物をカウンターに並べる。「食べるだろ?」と訊くと「うん」と笑顔で返ってきた。
 おなかが空いていたというよりも、自信作が無駄にならずに済んだのが嬉しかったのだろう。
 傍にある椅子に腰掛けた俺はフォークでオムレツを口に運んだ。
 食べる俺をクレアが期待と不安の入り混じった表情で見ている。
「どお?」
 待ちきれずに訊いてくるクレアにオムレツを飲み下した俺は微笑んで見せた。
「うまいよ」
「ほんとに!」
「ああ、今までの中で一番な。これで冷めてなければ言うことないんだけど」
「それじゃ明日は作ってすぐ食べてね」
 満足のいく評価が得られたのか、満面の笑みを浮かべるクレアに俺はこっそり苦笑した。
 どうやらもう一日オムレツを食べなきゃならないようだ。
「あっ、そうだ。さっきのグレイブ売れたよ」
 自分のオムレツを食べながらクレアが報告する。
「お兄ちゃん呼びましょうか、って言ったんだけど急いでるから今すぐ売ってくれって」
「ふーん」
 ちぎったパンを口に放り込む。店主の俺を呼ばないとは、そんなに急いでいたのだろうか。
 できればきちんと相談したうえでその客に合ったグレイブを選びたかったんだが。
 しかしこんなに早く売れるとは。一割引の力は偉大だ。
 と、お盆の下から紙の端が出ているのを見つけた俺はそれを引っ張り出した。
 何のことはない。店で使っている値札用の小さな紙片だ。
「あん?」
 クレアが書いてくれた値札だろう。まだつたない字。それはいい。
 だがどう考えても数字の大きさが足りないのだ。
 そう、そこには一割引ではなく九割引になった値段が記されていた。
 売れるわ、そりゃ。
 心中で苦笑いして、実際には笑ってしまった。クレアがどういう計算をしたのか分かったからだ。
 たぶん一割引の「一割」を出した時点で満足してしまったのだろう。それを値札に書いてしまったのだ。
 客が俺を呼ばなかったのは値段を訂正されるのを嫌がったからだ。
 この値段なら他の武器屋で捨て値で売ってもかなりの儲けになる。やれやれ。
「商売って意外と簡単かも」
 そう言いながら自信作のオムレツを食べるクレアは得意げだ。俺はクレアの頭をぽんっと叩いた。
「今晩、算術の勉強しような」

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