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(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部

ライン

その8

 病院の廊下は静かだった。救急室と書かれている扉の向こう側は戦場なのだろうが、その喧騒がこちらに伝わってくることはない。廊下に据え付けられた長椅子に腰掛けた俺は蛍光灯の光を鈍く照り返すリノリウムの床に視線を落とした。
 右の肩にイナの重みを感じる。
「冷たいでしょ、私」
 独り言でもつぶやく様に言われた。俺は一度引き結んだ唇をわずかに歪め、それから口を開く。
「何かあったんだろ、理由」
 しばらくの沈黙があって、うん、という微かな声が返ってきた。
「でも理由なんかあったって……」
 イナの声がまたしばらく途切れる。イナの顔を見ようかと思ったが、見てはいけないような気がしてやめた。
「もしあなたが彼女に背を向けると決断したなら、私も彼女を見捨ててた。あなたが彼女を助ける決断をしたから一緒にここにいるだけ」
「そんなに自分のこと蔑むもんじゃないさ。俺だってさなちゃんを助けたことが本当に正しかったのかどうか今でも自信がない。無責任な話だろ。それに」
 俺は言葉を切って口元を軽く緩めた。
「部下に理不尽な要求をする上司ってのはどこにだっているもんさ。ですよね、福神さん」
 顔を上げればそこには福神さんがいた。気配を感じたわけではない。ただ顔を上げればそこにいるような気がしただけだ。
 福神さんは困ったような、というかバツの悪そうな顔をしていた。そういえば福神さんの笑顔以外を見たのは初めてかもしれない。
「イナ、ご苦労様でした」
「はい」
 イナの声は小さかったが、それでもその声には責任から開放された安堵感みたいなものが含まれていたように思えた。
「高杉さん」
「はい」
「まずは詫びなければなりませんね。あなたにも辛い思いをさせました。申し訳ありません」
 頭を深く下げる福神さんを見上げ、俺は口を開いた。一つだけ聞いておかなければならないことがある。
「まさかさなちゃんに自殺『させた』わけじゃないでしょうね」
「それはありません。あくまでも彼女の意思です。その場にあなたが居合わせたのは私たちの意志ですが。それだけは神に誓って」
 福神さんの言葉につい苦笑が漏れてしまう。神に誓って、か。
「それで、俺はお眼鏡にかないましたか」
「ええ、それはもう」
 穏やかな笑みを浮かべて福神さんが深くうなずく。
「言葉を選ばずに言うのなら、あなたは特別ではなかった。ですが、それ故に交わる意味がある」
 どうやら裏入社試験も合格らしい。多分それはさなちゃんの自殺を止めたからとか止めなかったからとかいう事ではないのだろう。
「ということですので、あなたさえ良ければ」
 と、福神さんの声を遮る様に両開きの扉が開き、救急室からストレッチャーが運び出されてくる。その上には身体の中にもう一つの命を抱えたさなちゃんが横たえられていた。
 揺れる黄色い点滴液が入ったバッグ。薄緑色の呼吸マスク。
「さなちゃん。大丈夫」
 反射的に立ち上がり、言えたのはそれだけだった。大丈夫? なのか、大丈夫、なのかは自分でもよく分からない。でも「だいじょうぶ」の響きだけはさなちゃんの耳に入れてあげたかった。
 さなちゃんは半濁した目でわずかにこちらを見やり、呼吸マスクを曇らせた。それだけだ。あとは病室に運ばれていくさなちゃんを見送ることしかできない。さなちゃんは何を言おうとしたのだろうか。それが「なぜ死なせてくれなかったの?」だったときのことを思うと物凄く不安になる。だが覚悟はしなければならない。俺がしたのはそういう行為だ。
 ストレッチャーが廊下の角を曲がり、さなちゃんの姿が見えなくなる。拳を握った俺は長く、ゆっくりと息を吐き出した。
「旦那さんですか?」
 青い術衣を着た中年の医師が俺に問いかける。
「いや、同じアパートの、隣人です」
「旦那さんやご両親と連絡は……」
「あの……彼女、一人ですから」
 歯切れ悪く言う俺に医師も察したのか、あぁ、と短く声を漏らした。医師は気を取り直すように小さく咳払いして、
「母子ともに一命は取り留めました。念のため入院してもらってしばらく経過を見ようと思います」
「はい」
「それで、その」
 俺に続けて医師の歯切れが悪くなる。
「彼女の保険証は……」
「話ができるようになったら本人に聞いて、持ってきます。でも、もしかしたら」
 俺は口ごもった。自ら命を絶つことを決断しなければならないような状況だ。保険料さえ払えてなかったかもしれない。だとすれば高額の治療費がさなちゃんの身体にのしかかってしまう。
 医師は一度さなちゃんが運ばれていった廊下の先に視線を送り、微かにうなずいた。
「病院内には専用の相談窓口もあります。必要なら申し出てみて下さい。それでは」
「ありがとうございました」
 頭を下げる俺に向かって会釈し、医師は踵を返した。その背中を見送りながら俺は乾いた唇を噛む。
「これからどうするの」
 イナに問われた俺はうん、と小さく返事をして視線を床に落とした。
「福祉関係の仕事してる友達が一人いてさ、連絡とってみようと思う」
 俺にできることなんてたかが知れている。そう考えていた俺はこんなことさえしていなかった。俺にとってさなちゃんの苦しみは何と言ったところで他人事でしかなかったのだ。全く迷いもせず、良心と良識をもった社会人ぶっていた自分が情けなかった。
「では高杉さん、一つお教えしましょう」
 何を、と言う代わりに顔に疑問符を浮かべる俺。対して福神さんは苦い笑みをこぼした。
「森下早苗の子の父親は宮本祐介です」
 その名を聞いたとき、一瞬誰のことか分からなかった。そして不意に病室で昏睡状態の婚約者を見つめ続けていた男の姿が思い出される。だが婚約者は鈴音の力によって目覚め、宮本雄介は眠り続ける婚約者を見つめる生活から解放された。
 あの時俺は婚約者のために身を削って治療費を稼ぐ宮本祐介を尊敬すらした。そして二人には幸せになってもらいたいと、そう願った。だが……、
「三人は同じ施設で育ちました。誰の思惑がどのように作用したのかは述べません。ですが、これが結果です」
 静かな、こちらを落ち着かせるような福神さんの声を聞きながら、俺は椅子の上に倒れ込むように腰を下ろした。感情が渦を巻き、口から出ようとする。だが言葉にならなかった。なったのはたった一つだけ、
「何で」
 だった。
 何で。
 たったこれだけのシンプルな問いに対して答えを導き出すことができない。何で。問えば問うた分だけ答えは逃げていく。
「高杉さん」
 福神さんの呼びかけに俺はゆっくりと顔を上げた。
「あなたは言いました。神様よりすごい誰かがサイコロを振ってる、と。そのサイコロに一歩でも近付いてみたいとは思いませんか?」
 恐ろしく魅力的な誘い言葉だった。隣にいるイナが無言のまま俺の右手を握る。優しく、包み込むように。
 俺は三秒ほど福神さんの顔を見つめ、うなずいた。イナが小さく息を吐き、福神さんが微笑する。
「森下早苗とその子の人生、保障することはできませんが関わってしまった以上私が責任をもって見守ります。では」
 一つ会釈した福神さんの体が透けていき、やがてその姿は音もなく消え去った。正面にはただ救急室と書かれた扉が残るのみだ。
 俺は大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。しばし天井を見上げて視線を戻すと目の前には鈴音がいた。白が基調の病院内、真っ赤な花が一輪咲いたようにも見える。
「お話終わった?」
 ちょっと首を傾げて鈴音が俺を見上げる。
「もうしばらく鈴音と一緒にいていいって」
 わーい、と声を上げて鈴音がぽんぽんと跳ねる。その様子を見ていると自然に笑みがこぼれた。あらゆる物事を素直に受け止めることができる鈴音こそが一番サイコロに近いのではないか。そんな風にさえ思えてしまう。
 俺は鈴音の頭に手を置いた。
「鈴音は幸せ?」
「うん!」
 返ってくる満面の笑顔。
「じゃあさ、幸せって何だと思う?」
「わかんない!」
 笑顔のまま即答された。鈴音が正しいのかどうかは分からない。でも強いってのはこういうことなのだろう。
 俺は鈴音の頭を撫で、それから視線を隣にいるイナに向けた。
「さなちゃんのとこに行ってみようと思うんだけどさ、手、つないでいく?」
 からかう俺にイナは一瞬きょとんとして、俺の手の上に置いていた自分の手を跳ね上げた。
「なっ、なに言ってるのよ」
 慌てるイナを見ながらけらけらと笑う。鈴音も一緒になってけらけらと笑っていた。そんな俺たちをイナが、まったく……、といった表情で見つめる。
 俺は最後にひと笑いして長椅子から立ち上がった。拳を握って廊下の奥を睨む。これからの一歩は少なからずさなちゃんの人生に踏み込む一歩だ。他人の人生に干渉するということがどれほどの重みを持つのか俺に分からせるための一歩。
「大丈夫、一緒に歩くから」
 イナの声がする。俺は大きく深呼吸して、自らのつま先に力を込めた。

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