(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部
その1
「やおよろずかみ……のかみ? ざしきわらしはけんぎょうむぶばすえしぶ」
扉に貼られたプレートを胸の内で読み上げ、俺は小さく息を吐いた。
とあるマンションの一室の前、辺りに人の気配はない。眼下の国道を行き来する車の音が初夏の風に乗って流れてくる。汗ばむ首元に手をやり、ネクタイを正した俺はもう一度そのプレートを見つめた。そこに書いてあることを信じるならば座敷童の派遣業務を行っているみたいだが。
「んなアホな」
再び胸中でつぶやいて、首を振る。そして、ふと思う。一番アホなのは求人広告を見て面接を受けに来た俺自身ではなかろうか、と。
俺は大学を出て就職した銀行をつい先日辞めた。上司とちょっとした口論。売り言葉に買い言葉。気がつきゃ机に辞表をバンッだ。でも「中小零細の一つや二つ潰れても構わん。死ぬ気で回収しろ」という上司の言葉がどうしても許せなかった。俺の親父がその潰れても構わんと言われた中小零細の社長だからだ。
……思い出したら何か腹立ってきた。
そんな訳で銀行を辞めた俺は新たな仕事を探し始めたのだが、そのときに出会ったのがこの「(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部」の求人広告だった。
はっきり言って死ぬほど怪しい。この広告を見た瞬間、ぼったくり風俗店、自己啓発セミナー、悪徳商法の三つが即頭に浮かんだくらいだ。特にぼったくり風俗店、これがにおう。なんせ仕事の内容が「当社スタッフの送迎」だし。
それでもなお俺がここにいる理由は二つ。給料が割といいのと、何か面白そうだったから。変な会社だったら断ればいいし、やばくても面接に来たくらいで殺されることはないだろう。飲み会での話のネタを一つくらいゲットできるかなと、その程度だ。正直、次の企業を受けるための予行演習くらいにしか考えてない。
果たして鬼が出るか蛇が出るか。
咳払いを一つしてインターホンを押し込む。
くぐもった電子音。そしてしばしの沈黙。やがてドアを開けて出てきたのはパンチパーマにサングラスのお兄さん……ではなく、キャミソールにジーンズ姿の女性だった。俺と同年代くらいでどこか狐っぽい顔をしている。結構、いや、かなりの美人だ。
「あ、あの」
出てきた人物の属性が意外だったので言葉に詰まってしまう。しかしこのまま黙っているわけにもいかない。とりあえず面接を受けに来たことをだけは伝えねば、と口を開きかけたときだった。
女性がいきなり俺の右手をつかんだ。
突然のことに混乱する俺をよそに女性は俺の手をしげしげと見つめている。俺の右手には子供のころできた割と大きな傷があり、それを観察されているようであまりいい気分はしなかった。次第に混乱も収まり、代わりに微かなイライラがふつふつと沸いてくる。
それで「俺の手が何か」と言おうとした時だった。その鼻先を押さえ込むように女性が微笑んだのだ。なぜか、ひどく嬉しそうに。
歯の裏まで出ていた文句は自然と霧散し、焦りさえも胸の中に広がっていく。つまりは、そういう笑顔だった。
酒の席で男がよく口にする「美人にだったら何をされても許せる」という言葉。あれ、半分は嘘だけど半分は本気なんだよなぁ、なんてことをふと考えてしまう。
「面接でしょ。待ってたよ」
「いや、あの」
「ほら、早く」
笑顔のまま女性が言って俺の手を引く。俺は拒否するまもなく部屋の中に引っ張り込まれてしまった。
眼前で揺れる栗色の髪。背後で閉じる鉄の扉。
あぁ、もう、当たって砕けろ……か?
室内は静かだった。他の従業員がいると思って頭を下げる準備をしていたのだが無駄だったようだ。奥の方に事務机が三つ、手前には申し訳程度の応接スペースがしつらえてあった。生活するためのマンションを事務所として使っている、典型的なマンションカンパニーと言ったところか。
「そこに座ってて」
女性がソファーを指差す。
「失礼、します」
とりあえず俺は言われるままソファーに腰掛けた。
「ちょっと待ってて。支部長を呼んでくるから」
支部長さんはいるようだ。まぁ、この時間に面接を指定されたんだから当然と言えば当然なのだが。
支部長さんを呼びに別の部屋に歩いていく女性の後姿を何となく見てしまう。それは実に見事な曲線だった。
うーん、ないすばでぃ。
って、何を考えてるんだ俺は。
頭を振って雑念を追い払う。さっきはネタ一つゲットとか思ってたけどやっぱりそれなりに緊張するものだ、面接ってのは。ふざけた気分で会社前までは来れたが、さすがにここでふざけた態度がとれるほど俺は大物ではない。それにこの世の中、誰がどこでつながってるか分からない。もし次に面接に行った会社の面接官とここの面接官が知り合いだったらどうするよ。
最近ふざけた若僧がきてさー、なんて情報交換されたら完全にアウトだ。断るにしても無難にこなすのが間違いない。
と、
「うわあっ!」
いきなりつぶらな二つの瞳に見つめられた俺は思わずソファーから腰を浮かせてしまった。心臓がバクバクと脈打ち、背中に冷たい汗がにじんでいく。
いつの間に。
ゆっくりと、長く息を吐いて俺はいつの間にかソファーの傍に立っていた女の子を見つめた。気配が全くしなかった。それこそ沸いて出たようだ。
歳は五、六歳くらいだろうか。おかっぱ頭に赤い振袖。それが不思議そうな顔で俺を見ている。何かのお祝い事で着せてもらったんだろうか。雛祭りはとっくに終わったし誕生日か?
「あ、こ、こんにちは」
戸惑いながらも挨拶などしてみる。しかし何でこんな所に子供がいるんだろうか。思い当たる可能性としては社員さんの子供、くらいだけど。
返事は返ってこない。女の子は相変わらず不思議そうな顔で俺を見つめている。
沈黙と沈黙。そして沈黙が流れそこに沈黙が重なる。
うぅ。視線が困る。
耐え切れなくなって視線を外そうとしたときだった。不意に女の子がふっと笑う。
「こんにちは」
赤みの差した柔らかそうな頬に、ついこちらの表情まで緩んでしまった。
「おめかしさんだね」
「へへ……かわいいでしょ」
ころころとした小さな鈴みたいな声で言って、その場で女の子はくるりと回って見せた。綺麗な黒髪と鮮やかな朱色の振袖が併せて揺れる。
「何かお祝い事なの?」
「その子はいつもその姿です」
「だあぁっ!」
いきなり聞こえた声に本日二度目の奇声を発してしまう。気がつけば正面のソファーにスーツを着た恰幅のいい中年男性が座っていた。一体いつ現れたのだろうか。これまた全く気配を感じなかった。そのうえ振袖の少女がいつの間にやらいなくなっている。それこそ、かき消すように。
何か、ちょっと怖いぞ。
「すみません。お待たせしてしまって」
頭を下げる中年男性にとりあえず恐怖心を押し殺した俺は立ち上がる。
「高杉優一郎です。よろしくお願いします」
「ほっほっほっ。まぁそう緊張せずに。どうぞ、腰を降ろして」
頭を下げる俺に面接官であろう中年男性は穏やかな声で言った。
「失礼します」
ソファーに座り、背筋を伸ばす。
「わたくし、こういう者です」
差し出された名刺を両手で受け取り、視線を落とす。
(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部 支部長 福神 三十万郎。
「あの、ふくがみ……何とお読みすればいいんでしょうか」
「みとまろ、です」
「変わったお名前ですね」
会話のきっかけをつかむためにそんな話を振ってみる……って、なんで俺は気を使って面接に受かろうとしてるのだろうか。ひやかしで来ただけだってのに。
「ほっほっほっ。そうですかそうですか」
そんな俺の内心を知るはずもなく、福神さんが楽しげに笑う。たださえ細い目が糸のようになってしまった。見る人を安心させるような穏やかな笑顔だ。
「これ、履歴書です」
鞄から取り出した履歴書を福神さんに手渡す。福神さんは履歴書をちらりと見ただけでテーブルの上に置いてしまった。何か不備でもあったんだろうか。緊張する。
いや、だから何で俺は……、
「高杉さん」
名を呼ばれ、思考が途切れる。
「はい」
「あなた、合格」
早っ! 面接短かっ!
絶句する俺をよそに福神さんがどこからともなく取り出した大きなスタンプを俺の履歴書についた。スタンプの下から現れる大きな朱色の「合格」の文字。
「ちょ、いいんですか? 面接らしい面接してませんよ」
さすがに慌てる俺。
「いいんです。これでも人を見る目は確かですから。君はその、実にいい目をしています」
「はぁ」
いや、その、そっちはそれでいいかもしれませんが、こっちにはこっちの事情というものが。
「何か不都合でも?」
人差し指で頬をかく俺に福神さんが言う。そりゃよく考えたらおかしいよな。俺は雇ってもらうために来てるわけだし、喜びこそすれ渋る場面ではないはずだ。微妙にさび付いた脳みそに油を差し、何とか言葉を紡ぎ出す。
「いや……まだ業務内容の説明もして頂いてませんし、いきなり合格を頂いても」
「おぉ、そうでしたそうでした。これは失礼。いい人材に巡り会えたもので興奮してしまって」
「ありがとう……ございます」
「広告は読まれましたよね」
「はい」
「あなたにしていただく仕事は、そこに書いてあった通り我が社スタッフの送迎です。書類の整理などこまごまとした雑用をしていただくこともあるかもしれませんが」
淀みない福神さんの声は穏やかであり、誠実だった。少なくともそこから悪意を感じとることはできない。
「それは分かりました。その、企業としてはどのような業務を?」
「むつかしい質問ですね。私たちはこの日本のどこにでもいて何でもしていますから」
「あの、いわゆる『何でも屋さん』と思っていいんでしょうか」
「そうですね、それでいいかと」
日本のどこにでもいて、か。それにしちゃ八百万神なんて企業名聞いたことないぞ。
「それで、スタッフというのは」
「私だよ」
「うわあっ!」
本日三度目の奇声。
視線の先にはさっきの振袖の女の子がいた。そう、いつの間にやら日本人形のように俺のすぐ隣にちょこんと腰掛けている。当然のように、気配もなく。
おかしい。絶対おかしいって。
「お兄ちゃんは私を連れて色んな所に行くんだよ」
女の子が笑顔で俺の腕にしがみ付く。
「いや、お兄ちゃんて」
いきなりそんなこと言われても困ってしまう。
「だめなの?」
頼むからそんなすがりつくような目で見ないでくれ。
でもこの子たちがスタッフって一体どういうことだ? こんな子供を派遣して何の仕事になるって言うんだ。
「あの、この子たちが何をするんでしょうか」
正面の福神さんに視線を戻す。
「幸せを運びます」
……もしかして、これは物凄く高度な入社試験なんだろうか。
そう思わずにはいられない。というか、そう思わなければやってられない。
「どうやって……ですか」
「この子たちは座敷童ですから」
福神さんが笑う。背筋を冷たい汗が伝う。
やばいって。これ宗教だよ、絶対。
「すみません。体調がすぐれないもので。失礼させて頂きます」
言って立ち上がろうとする。が、
「だめ!」
腕にぶら下がった重りが俺を放してくれない。「むー」という表情で俺を見上げ、眉をハの字にする女の子。
仕方なく俺はソファーに座りなおし、福神さんの顔を見つめた。
ええぃ。こうなったらいけるところまでいってやる。上手くいけば団体制作のアニメとかレアな物が見られるかもしれない。でもマインドコントロールとサブリミナルには要注意だぞ、俺。
「へへ」
女の子が腕に頬を摺り寄せてくる。何か妙になつかれてしまった。
「信じられないのも無理はありません。それが、あなたが正常な人間であるという証でもありますし。どうでしょう。一度この子の仕事を見られては。百聞は一見に如かずとも言います」
「まぁ、俺も目の前で幸せを運ばれたら信じるしかありませんけど」
口ごもりながらも言う。確かにそれ以上の「信用の材料」はない。
「ではそういうことで……イナ」
「はーい」
「うわあっ!」
やはり気が付けば、そこにいた。あの狐顔の女性。
「何よ、大きな声だして」
「声も出ますよ、そんな現れ方されたら。せめて足音と気配を伴って現れてください」
「嫌よ、めんどくさい」
めんどくさいって。足音と気配を消すほうがよっぽどめんどくさいと思うんだが。
「それでは後はイナが面倒を見ますので。よろしくお願いします、高杉さん」
「あっ、はい。こちらこそ」
頭を下げ、上げる。
福神さんはもう、いなかった。親指と人差し指で目頭を揉み、俺は頭を振る。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと恐くなって」
「意外と小心者なのね」
「そういう問題じゃないような気がするんですけど」
「まぁいいわ。まずは自己紹介ね。私はイナ。ここで二番目に偉い存在よ。敬いなさい。でも敬語は許してあげる。堅苦しいの嫌いだから」
狐顔の女性、イナが手を差し出してくる。
「よろしく」
戸惑いながらも俺はイナの手を握った。やはり暖かく、柔らかい。長くすらっとした指はすごくきれいな形をしていた。
「その、それでイナ、何さんなの?」
「へ?」
「だから下の名前だよ。イナって漢字は稲穂のイナでいいの?」
「うーん、下の名前か。考えたこともなかった」
イナが顎に手を当てて天井を見上げる。何かとんでもない事をさらっと言ってないか?
「いいじゃない。イナだけあれば困らないんだし、ね」
いやに軽いな、おい。まぁ本人がいいと言っているのだら良しとしよう。深入りは禁物だ。すでにマインドコントロールが始まっているのかもしれない。まずはこちらの常識を崩壊させることから始めるのがセオリーらしいし。
「で、その子がウチの稼ぎ頭、座敷童の……」
そこでタメを作ったイナはなぜか胸を張った。
「シュールストレミングよ」
「あ、あのっ」
改まった紹介に緊張したのか少女……シュールストレミングがおなかの上で組んだ指をもじもじと動かす。それからちらっと上目遣いに俺を見上げて、
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた。
とりあえず押し黙り、色々と考える俺。そして、あぁ、もうダメかもしれん、と思う。
「なぁ、これって児童虐待だと思うぞ」
「何が」
顔に浮かんだ本気の疑問符が恐ろしい。
「いやな、児童労働だとか座敷童だとか言いたいことは色々とあるんだが、その前になぜ世界一臭い缶詰なんだ?」
「何となく」
事も無げに答えるイナに、俺は黙ったままシュールストレミングの顔を見つめた。世界一臭い缶詰と同じ名を持つ少女ははにかんだような微笑で俺を見上げている。
でも、その笑顔の裏にいくつの涙があるんだろうか。
「辛かったら泣いてもいいんだぞ。無理やり笑うことなんてないんだ」
膝を折って目線の高さを少女と同じにする。手で撫でた黒髪は柔らかく、羽毛のように軽かった。
「傷つくのはいつだって子供だ」
黒く、つぶらな瞳を見つめて眉間に皺を刻む。
「かわいそうに」
「……あなた、私のこと鬼女だと思ってるでしょ」
「違うのか?」
反射的に顔を上げてイナをまじまじと見つめてしまう。
「あのねぇ、私は比喩として鬼でもなければ文字通り鬼でもないの」
「じゃあ何だよ」
尋ねる俺に再びイナが胸を張る。
「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)様の使いよ」
「なにそれ」
沈黙。その合間を縫ってどこからかおっさんの怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら駐車違反で監視員ともめてるらしい。運が悪かったと思って諦めた方がいいかと、名も顔も知らぬどこかのおっさん。
「……まっ、まぁ、あなたたちの間じゃ『お稲荷様』の方が通りがいいかもね」
しばしおっさんに思いを馳せていた俺はイナを見つめ、首を振った。
「辛かったんだな、君も。大丈夫、心の病は決して恥かしい事じゃ……」
「失礼ね! 私は至って正常なの!」
「うん、うん、分かってる。最初はみんなそう言うんだ」
「分かってない! 大体、そこまで言うんだったらあなたがこの子に名前を付けてあげればいいじゃない」
「いいのか?」
「ええ」
「教団の教えに反したりは」
「……しないから」
なぜか非常に疲れた感じでイナが言う。まぁ、名前って言ってもあだ名だしな。本当の名前はちゃんとあるんだろ。
うーん。
顎に手を当てて少女の顔を見つめる。やっぱ日本名だよな、ここは。可愛らしさの中にもこう、一服の清涼感があるような……、
と、じっと見つめていたら恥ずかしくなったのか少女はイナの後ろに隠れてしまった。イナの脚にしがみつき、顔だけ出してこちらを見るその様子につい吹き出してしまう。
「そうだな、鈴音(すずね) 鈴の音だ」
特に何か意味があるわけじゃない。ただ、小さな鈴の音が似合いそうな子だと思った。それだけだ。
「どう?」
腰に手を当てて立ち上がり、首を傾げて訊いてみる。少女はしばらく何かを考えるような表情で俺を見上げていたが、やがて「ありがとう」と笑ってくれた。これでめでたく少女はシュールストレミングあらため鈴音になったわけだ。
「じゃ、さっそく行きましょ」
「はーい」
イナに応えて鈴音が手を上げる。
やれやれ。怪しい社会科見学のはじまりはじまり、か。果たして見学後に俺がもらえるのはあんぱんかメロンパンか、それとも。