×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

猫と魔術

ライン

エピローグ

 あれから一週間。俺は花束を手に賤民区にいた。以前と何も変わらない。薄暗く、汚くて異臭が鼻をつく。
 いつできたとも分からない水溜りを避けて歩きながら俺が辿り着いたのは、あのリム・フレイルという名の少女が命を絶った家だった。
 そこはアクロが生まれた家でもある。
 俺は粗末な小屋を見つめてからその場で膝を折った。腐りかけた扉の前に花を捧げ、祈る。
 確かにここは薄暗く汚いところだ。でも、それでも人は存在している。自分の置かれた状況に絶望したり、抗ったりしながら。
 それはどこであっても一緒だ。貴族の葬式のように一本が一日の生活費と同じだけの値の花なんて贈れないが、せめて祈りたかった。
 ここで一人の少女が命を絶ち、一つの命が生まれた。生まれた命は駆け足で俺の前を通り過ぎ、消えていった。
 鼻の奥が痛くなる。
 俺は目を開けて立ち上がった。一週間たって少しは自分でも落ち着いたと思ったがやっぱり駄目だ。思い出にしてしまうにはまだ時間が足りない。
 また来るよ。
 微笑を浮かべ、心の中で言った俺は小屋に背を向けた。余り長くいると泣いてしまいそうだ。
 午後からの仕事のことを考えながら賤民区を歩く。白濁した目で俺を見上げる野良犬。ただ見上げただけで吼えもせず、顔を伏せてしまった。
 餌をくれぬ者に興味などないと言わんばかりだ。
 ポケット探ってみれば出て来たのは緑色の飴玉だけ。少し考えてから俺は飴玉を犬の鼻先に差し出した。
 犬は胡散臭そうな眼差しで俺を見上げ、飴玉を舐める。それから首だけ伸ばして飴玉をくわえると、一気に噛み砕いてしまった。
 がりがりと音を立てて飴玉を食べ、再び寝る。尻尾の一つも振りはしない。それはこの犬にとって無駄な体力を使う行為なのだろう。
 ま、ここの犬はみんなこんなものだ。
 最後に頭だけ撫でさせてもらい、俺は再び歩き出した。その時、脇の路地から少年が弾かれでもしたように転がり出てくる。
 慌てて身をかわしたが避けきれず、少年を弾き飛ばしてしまった。
「ごめん。だいじょ……」
「ひっ!」
 助け起こそうと伸ばした俺の手から地面を這って逃げようとする少年。
 その頬には大きなあざがあり、二つの鼻腔からは赤黒い血が流れていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 恐怖に歪んだ顔で繰り返す少年に俺は歩み寄り、ハンカチで鼻を押さえてやる。
「誰かに殴られたのか?」
「俺にだよ」
 答えたのは別の声だった。ハンカチを少年に預け、立ち上がる。二人の男が立っていた。歳は俺と同じくらい。共に人をなめたような笑みを浮かべていた。
「何でそんなこと」
「何で? このガキが人様のサイフに手ぇつけやがったからだよ!」
 男の大声に背後の少年が短く高い怯えた声を漏らす。はっきり言って俺も喧嘩は苦手だ。だが、どうにも引ける状況じゃない。
「だからって、やり過ぎだ」
 情無い話だが俺の声は震えていた。以前の俺なら逃げ出していたかもしれない。でも、死とさえ向き合い静かに逝ったやつのことを思い出した。
 逃げられない。
「なぁ」
 男が俺の肩に手をかける。
「馬鹿かお前は」
 その言葉が耳に届いたのと同時に視界がぶれた。殴られたのだと理解できたのは地面に倒れ、口の中に血の味が広がったあとだ。
「死んでろ、馬鹿が」
 別の男のつま先がみぞおちにめり込む。呼吸が詰まり、視界が黒く染まった。
「賤民のガキが一人二人どうにかなったところでそれがどうしたよ」
 ブーツの底が空気を求めて開いた口を塞ぐ。
「こいつら生まれてから死ぬまでクズじゃねぇか」
 男の足がさらに強く俺の顔を押し潰す。
「そういうもんだろ、賤民ってのは」
 俺の顔を解放した男は当然のようにそう言って、俺の頭を蹴り上げた。衝撃と共に意識が半濁し、とてつもなく大きな耳鳴りが聞こえ出した。頬に下にある石畳の冷たさが妙にはっきりと伝わってくる。
 俺に唾を吐きかけ、二人の男が少年に歩み寄る。誰も少年を助けようとはしない。気配や視線は感じるのに。
 生まれてから死ぬまでクズ。
「違う」
 かすれた俺の声に男二人の足が止まった。
「生れた時からクズみたいな命なんて、ない」
 地面に肘をついて体を起こし、俺は男たちを睨みつけた。
 賤民区で生まれた、小さく短い命がどれだけのものを残してくれたかお前らに想像できるか。
「なぁ」
「あぁ」
 二人の男が互いに顔を見合わせ、こちらに向かって来る。
 結局、俺は動けなくなるまで蹴られ、立たされ、殴られ、地面に叩きつけられた。
 息を荒げた男たちが舌打ちを残して去っていく。地面に転がったまま、半分ふさがった視界で空を見上げる。
 体中が痛かった。指一本動かすだけで全身が痺れるように痛む。飲み込んだ唾は濃い血の味がした。
 不意に視界が翳る。あの少年が何を言えばいいのか分からない、といった顔で俺を見下ろしていた。
 大丈夫か? と問う。
 少年は何も言わず俺の懐に手を入れると財布を抜き取った。
「ごめんなさい」
 言い残し、少年は去っていく。
 なぜだろう。笑いが出た。
 そうだ。すっかり忘れていた。ここは、そういう所だ。
 少年時代の俺の日常。生きていくのに必死だった。
 これが俺が生まれて、消えていく街なんだ。
 笑いながら俺は一粒だけ涙を流した。おかしかったり、悲しかったり、痛かったり、まぁ、そんなのを全部ひっくるめたやつだ。
 不意に、何かざらついたものが頬に触れた。
 視線をやる、がそれよりもそいつが仰向けに倒れた俺の上に乗るほうが早かったようだ。
 そいつは白い髭と大きく綺麗な空色の瞳を持っていた。
 何事もなかったかのように、言う。
「大丈夫……じゃないか」
 黒い仔猫のくせに何事もなかったかのように、言う。
「それにしても酷いね。病院に行った方がいいんじゃない?」
 黒い仔猫のくせに。黒い仔猫のくせに。
 幻覚だろうか。夢だろうか。でも、胸の上に感じる重さは確かにこの世のものだった。
「アク……ロ」
 震える手を持ち上げ、触れようとする。物凄く恐かった。この手が幻をすり抜けてしまうことが。
 目を閉じて確かめる。
 そこには、あった。
「アクロ」
 目を開いた俺の頬をアクロの舌が舐めた。指先が震える。熱い風が全身を吹き抜け、全ての器官に火が灯る。
「へへ。また、会えたね」
 その声を聞いた瞬間、俺は叫んだ。意味のある言葉じゃない。叫ぶ事に意味があった。肺を喉を唇を拳を、とにかく全てを震わせて叫んだ。
 息の続く限り、何もかもを吐き出してしまうように。
 空に向かって地面に向かって人に向かって自分に向かって。とにかくこの世の全てに向かって叫びたかった。
「静かにしなさい」
 聞き慣れた声がして、誰かが俺の額をぺしりと叩く。
 声を断ち切って見上げれば案の定ティアさんがいた。腕を組んだティアさんは呆れ顔で俺を見下ろしてから膝を折る。
「起きられる?」
 質問に答えるように俺は全身を確かめてみた。痛みがないわけじゃない。でも起き上がる事はできそうだ。
 さっきまで指一本動かすのも嫌だったのに。
 俺は膝の上でアクロを抱き、石畳の上にあぐらをかいた。
「どうして、って顔してるわね」
「ティアさんが助けてくれたんですか?」
 それ以外の可能性は俺には考えられなかった。
 ティアさんは静かに首を横に振る。
「私は探して連れて来ただけ。この子を救ったのはあなたよ」
 意味が分からなかった。俺は何もしてないし、第一方法は何一つないって。
「ねぇ、私の言ったこと覚えてる?」
「えと……」
 言いよどむ俺にティアさんは息を吐いて、こう言った。
「心を救えるのは心でしかない。人間という不完全な存在が扱う魔法は万能ではない」
 言われて思い出す。あの日、賤民区に行く途中に言われた言葉だ。
「心を救えるのは心でしかない。逆に言えば、心によって心は救えるの」
 眉根を寄せる俺にティアさんは続けた。
「魔法や魔術って何だと思う?」
「そんな、俺に訊かれたって」
 魔法の才能がかけらもない俺にとって、その質問はかなりの難題だった。
「人の思いを現実に変えるための教科書。それも酷く不完全でいい加減な、ね」
 吹く風に揺れる髪を手で押さえ、ティアさんが目を細める。こんな優しそうな笑顔、初めて見た。
「不完全な魔術によって生み出されたこの子の身体と魂は一度崩壊した」
 ティアさんの指がアクロの喉を撫でる。
「でも、あなたの思いがこの世界に呼び戻した。教科書に頼らない、あなただけが使える本当の魔法で。そういうのを奇跡って呼ぶ人もいるみたいだけど私はそうは思わない。人間には誰にだって思いを現実に変える力があるんだから。それは神様が起こした気まぐれなんかじゃなくて、とても大切で強い人間の力よ」
 言葉を切ったティアさんはそこで少しだけ空を見上げた。
「覚えておいて。強い思いさえあればあなたにだって魔法は使える。それもまやかしの魔法じゃなくて本当の魔法がね。方法さえ間違えなければあなたには何だってできるの」
 一つ一つの言葉が染み込んでくる。
 人はみんな魔法使いだとティアさんは言った。ただ方法を知らないだけ。
「でも、こいつの場合は方法が何一つないって」
 問う俺にティアさんは口元に手をやると、からかうように言った。
「この子を助けるための思いと、この子が助からなくてもなお思ってあげられるその思いは、どっちが強いと思う?」
 言葉に詰まった俺に愉快な玩具を見るような目を向けて、ティアさんは折っていた膝を伸ばした。
「嘘ついたんですか?」
「しょうがないでしょ、それしか方法がなかったんだから」
 悪びれた様子もなく言うティアさんに俺は大きな溜め息をついた。ったく、あの時俺がどれだけの絶望感を味わったと思ってるんだ。
「さっ、立ちなさい。お昼休みは終わりよ」
 促され、立ち上がる。おかしい。体がまったく痛くない。
 驚きに目を大きくして俺はティアさんを見つめた。
「ぼこぼこの顔で窓口に立たれたら恐いでしょ」
 魔法は誰にだって使えるらしい。が、とてもじゃないが俺に人の傷を癒す事はできそうになかった。そういう意味じゃやっぱり凄いんだろうな、ティアさんって。
 痛いの痛いの飛んでけー、を高度にするとこうなるんだろうか。さっぱり分からない。
「セイル。左の肩は空いてる?」
 抱いていたアクロをご希望の席に座らせてやる。
「感想は?」
「最高だよ。一年を通して予約したいくらい」
 耳に当たる毛と声のくすぐったさ。戻ってきたんだ。ほんとに。もう二度とこんな風に話をすることはできないと思っていた。夢じゃない。現実なんだ。
「そうだ。これ、返さなきゃ」
 上着のポケットに手を入れ、俺はあの鈴の付いた首輪を取り出した。もう、思い出の品じゃないんだ。これはアクロの持ち物になる。
 俺の手から首輪を受け取ったティアさんがあるべき場所にそれを戻した。
 さぁ、これで全部元通りだ。
 こちらに背を向けたティアさんの横に並び、歩き出す。歩調に併せて鈴の音が鳴った。
「ところでティアさん。お願いがあるんですけど」
「なに?」
「今晩の食費貸して貰えません?」
「もったいないから嫌」
 財布盗られちゃって、と言う暇もなく即答されてしまった。どうやらティアさんの優しさも元通りみたいだ。今度この先輩の笑顔を見られるのはいつのことやら。
 アクロは俺の肩の上でけらけらと笑っている。
 俺の食費がないということは必然的にアクロの食費もないのだが分かっているのだろうか、こいつは。
 ま、人は誰でも魔法使い。今夜は手からニンジンでも出してみるか。

ホームへ   前ページへ   小説の目次へ