猫と魔術

ライン

 午後から自分が何をしていたのかはよく覚えていない。ただ、一度もアクロと目を合わせることができなかった。
 役所から家までの帰り道も、食事のときも、今こうしてベッドに座り、隣で意味もなくコロコロと転がっているアクロを見ているときでさえも、だ。
 俺はどこまでも澄んだ空色の瞳を正面から見ることができないでいた。
 だが伝えなければならない。こうして俺が悩んでいる一秒は今のアクロにとって限りなく貴重な一秒なのだ。その重さは綿と鉄くらい違う。
 大きく息を吸い込み、口を開く。開いただけで声は出ない。さっきから何度同じ事を繰り返しただろうか。
 声を出すことを心が拒否していた。
 理屈では分かっている。アクロは近いうちに死ぬ。そして俺にはそれを伝える義務がある。
 どうやったら言えるんだよ、そんな事。
 きつく目を閉じた俺は自分の腕を握り締めた。肌に食い込む爪の痛みさえ自分を救ってくれるような気がする。
 ただ「痛い」と思っている間だけはアクロのことを忘れられるのだから。
 全てを投げ捨てて逃げてしまいたい。子供のころはゴミ溜めのような賤民街で毎日そう思っていた。
 もう、こんな気持ちになることは二度とないと信じていたのに。
 右手を左の肩に乗せ奥歯を噛み締める。親父なら何て言ってくれるだろうか。
 たった一言でいい。今は前に進むための言葉が欲しかった。
「セイル?」
 あどけない声に肩が震える。顔を上げた俺は死にものぐるいで微笑み、ん? と返事をした。
「どうかしたの?」
 俺を見上げるアクロの空色の瞳は悲しいくらいに綺麗だった。アクロの瞳が空色なんじゃない。空がアクロの瞳の色をしてるんだ、きっと。
 そんなことを思い、泣きそうになった。
「何でもない。考え事してた」
「でも、辛そうだよ」
 俺はアクロの頭を手で包むようにして胸に抱いた。顔を見られてしまえばきっと気付かれる。その方が楽なのかもしれないが、どうしてもできなかった。
 小さなふわふわとした頭を撫でながら奥歯を噛み締める。
 そっとアクロの胸に手をやればそこで心臓が小さく、だが確かに命の鼓動を刻んでいた。自ら止まることなど考えもしないけなげなリズム。理由などなく、これが数日のうちに止まってしまう。
 運命。
 そんな言葉一つで全てを受け入れられるほど俺は単純にできてなかった。いや、もしかしたら単純だからこそ受け入れられないのかもしれない。
 複雑にできている人なら複雑に考え「運命だから仕方がない」なんて結論を出せるのだろう。
 だが大した学もない俺には単純に、感情まかせに「嫌だ」としか言えなかった。それが全てだ。とにかく絶対に嫌なんだ。
「嫌だ」
 呟いてしまった。俺の意思ではない。少なくとも声に出してはならないと分かっていたはずだ。
 アクロの瞳が俺を見上げる。
 時間が止まったような気がした。きっと神様が俺の背中を押してくれたんだろう。
 もう諦めろ、って。
 ありがたくて涙が溢れた。俺が死んで神様に会うことができたら心の底から礼を言おう。 ありがとう。くそったれの大馬鹿野郎。
「セイル?」
 何でそんなに優しい声を出すんだよ。もっと汚いダミ声で俺を罵ってくれればいいのに。そうすれば俺はお前を嫌いになれる。少しは楽になれるんだ。
「泣いてるの?」
 小さな手を胸に置かれた瞬間、堰が切れそうになった。声を漏らさぬよう喉を無理矢理閉じる。一度泣き声を出してしまえば止められそうになかった。
 破裂寸前の塊を飲み下だし、震える気管で大きく息を吸い込む。
「アクロ」
 名を呼んで、俺は覚悟を決めた。
 冷たくなった指先を隠すようにアクロの体から手を離す。拳で涙を拭いた俺はゆっくりと、つっかかりながら全てを話した。
 アクロはただ黙って俺の話を聞いていた。 二度、髭を揺らした以外はじっと俺の顔を見つめ続け、最後に「うん」と小さな声で言って頷いた。
 話せば何かが変わるかもしれないと思っていた。確かに変化はあった。
 余計、悲しくなった。
 ベッドの上、じっと足元の白いシーツを見つめていたアクロが不意に顔を上げる。
 アクロは眩しそうに目を細めると、こう言った。
「ねぇセイル。公園に行こうよ」

ライン


 昨日と同じ様にアクロを左肩に乗せ、二本の杭の間を通る。本当に昨日のことだっただろうか。随分と昔の事のように思えた。
 夜風が木々を揺らし、穏やかに葉を鳴らす。誰も、俺とアクロ以外は誰もいない公園。月明りによって投げ掛けられた影の間を縫うようにして歩き、俺はブランコに腰掛けた。 膝の上にアクロを乗せ、軽く地面を蹴る。きぃ、と小さく鳴ってブランコはゆっくりと揺れ出した。
 なぜアクロが公園に行こうと言い出したのかは分からない。膝の上のアクロはただ真っ直ぐに、先、を見つめていた。
 やがてブランコの揺れも小さくなり、最後には止まってしまう。俺の膝から軽いステップで飛び下りたアクロは二、三歩進んでからこちらを振り返った。
 月に照らされ、まっすぐに背筋を伸ばして座るアクロの姿は気高くさえあった。艶やかな黒毛の輝きは誇り高き騎士の鎧のようだ。
 アクロは気持ち良さそうに目を細め、鼻の先を遥か頭上で輝く月に向けた。月の光を存分に楽しむように首を伸ばし、髭を震わせる。再びアクロが目を開いたとき、二つの空色の瞳は月色に輝いていた。
 何が起こったのかは分からないし、俺の気のせいなのかもしれない。でもこれだけは言える。アクロは月を心に刻み込んだんだ。ずっと、忘れないように。
「セイル」
 名を呼ばれ、ブランコの縄をつかむ手に力が入る。が、すぐに思い直し俺はゆっくりと手を膝の上にもっていった。
 じたばたするな、もう。
 こちらを見つめるアクロの瞳はいつの間にかいつもの空色に戻っていた。
 アクロが深く頭を下げる。一緒に小さな影がおじぎした。
「ありがとう」
 突然の事に何も言えなくなる。何で礼なんて。俺には何もしてやれ無かったのに。
 唇を強く引き結ぶ。義理で礼を言われているのならこれほど情けないことはない。
 今、この瞬間、努力賞に何の意味があるっていうんだ。そんなもの、かけらも欲しくなかった。
 頭を上げたアクロはそんな俺の顔を見て、頭を横に振った。
「ひざの上、乗ってもいい?」
 訊かなくたっていつも空いてる。しばらくはお前以外誰も座らないさ。
 そんな軽口を胸中で呟き、軽く手で膝を叩く。
 アクロは力を溜めるように身を縮め、跳躍する。ぽんっ、と俺の膝に手をかけ……そのままずり落ちた。
 慌ててアクロを支えてやる。
 小さいくせに無理するから。
「ふぅ。ちょっと失敗」
 そう言って、えへへと笑うアクロに釣られて笑ってしまう。久し振りに笑ったような気がした。乾いた唇が少し痛い。
「セイル。僕は君と出会えて笑えたんだ。だから、ありがとう」
 膝の上から俺を見上げ、アクロが目を細めた。猫は笑顔を作ったりしない。
 それは正真正銘アクロだけの笑顔だった。
 俺は首を振ってアクロの小さな顔を包むように撫でる。
「俺と出会ってなくたってお前は笑ってたさ、きっと」
 本心だった。アクロなら誰の前でだって笑えたはずだ。
「でもそれは可能性の話でしょ。大切なのは君と出会って僕が笑えたっていう事実なんだ」
 居住まいを正し、アクロが続ける。
「その事実が僕にとっては大切な歴史だし、思い出なんだ。僕という存在の一部でもあるしね」
「難しいこと考えてるんだな」
 ほほ笑む俺にアクロは凄い勢いで首を横に振る。小さな鈴は立て続けに鳴っても綺麗な音をしていた。
「難しくなんてないよ。あ、こんな話しつまんない? でも少しだけ喋らせてよ。僕は今とても興奮してるんだ」
 アクロが人間なら辺りを歩き回り、拳を振り回しながら話していることだろう。
 少しでも長く聞いていたい。アクロの声はそんな色をしていると思う。
「きのう、広場でセイルのこと話してくれたよね。あれから僕はいろんな事を考えたんだ」
 アクロはちょっと目を閉じると、答えを教えたくて仕方ない、といった口調でこんなことを訊いてきた。
「ねぇ、『僕』ってなんだと思う?」
 質問の意味が分からずつい無反応になってしまう。アクロは斜め上を見上げてから、
「えっと、『自分』って何だろうって意味なんだけど」
 そう言い直した。
「ごめん。考えたこともなかった」
 素直に答える。『自分』とは何か。言わなくてもここにいるだろ、としか言えないような気もするけど。
「やった。僕の話を聞いてもらえそうだね」
 と、今度は人間なら指を鳴らしているであろう様子でアクロは話し出した。
「僕ね、思ったんだ。僕は僕だから僕なんじゃない。僕は君じゃないから僕なんだ」
 アクロの言葉を処理しようとした俺の頭はあっさり停止した。何か早口言葉みたいだ。そんな情ない感想しか出てこない。
「どういうこと?」
 説明を求める俺にアクロは頬をぴくぴくさせた。続きを喋れる事が嬉しくて仕方ないらしい。言葉は難しくても態度は子供そのものだ。
 小さな大発見を親に向かって嬉々として話す子供と同じだ。
「教えてくれよ」
 唇を噛んでから、続きを促す。
 笑顔で聞くんだ。笑え、微笑め、口元を緩めて目を細めろ。そんなことしかできないんだから。
「んと、僕はね、確かな僕として世界にいるんじゃなくて、この世界すべての僕以外のもの、以外のものが僕なんだ」
「もっと分からなくなった」
「じゃあ、セイルでもなくてティアでもなくて公園の木でもなくて月でもなくて……っていうのを繰り返していって、最後に残るのが僕、って言えば分かるかなぁ」
 俺は頭の中で腕を組み、アクロの言葉を見つめた。
「自分なんてものは絶対的に存在してるわけじゃないってことか?」
 考えながら、自分の解釈をアクロに提示する。
「そうそう。そういうことなんだ」
 嬉しそうに言って、右の前足で宙を掻くアクロ。
「もし自分以外に何もない状態に置かれたら、自分なんてのは存在しなくなっちゃうと思うんだ」
 アクロに言われた状態を想像してみる。確かにそうかもしれない。
 ここにきてアクロが言った「〜じゃないから僕」の意味が分かったような気がした。
「だからね、僕はセイルがいるから僕でいられるし、僕になれたんだ」
「そりゃ大げさだ。俺以外にも色んなものがあるだろ」
「あるけど、僕にとって一番大きな僕じゃないもの、は間違いなく君だよ」
 大きな瞳が俺を見上げる。吹き抜けた強い風が俺の背を押し、微かにブランコを揺らした。
「セイルがたくさん話をしてくれたから、今の僕がいるんだ。セイルじゃないのが僕だって気付けたから、僕は……」
 言葉を切ったアクロがうつむき、慌てて頭を振る。目に溜まった何かを隠すように。
「僕の命にどんな意味があったのかは分からない。でも……短い時間の中で出会えたのは最高の僕以外だったよ」
「過去形なんて使うな」
 食いしばった歯の間からうめき、言う。叫んでしまいたくなる思いを押さえ込み、唇を震わせる。
 喋るんだ、最後の一瞬まで。泣き叫んでしまえばもう言葉は交わせなくなってしまう。ティアさんは「数日のうちに」と言っていた。でも、なぜだろう。分かるんだ。きっとアクロは夜明けと共に消えてしまう。
 予感とかそういうのじゃなくて、初めからそういう約束だったって感じさえする。
 初めから俺とアクロの生活はこの短い間だけの約束だった。ずっと一緒にいることなどできやしない。生き物である以上いつか別れはやってくる。それが少し早かっただけの話。よくあることさ、よくある。
 涙が頬を伝った。冷たいとか暖かいとかじゃなくて、固い。
「誰も悪くないのに。何でだよ。何で……」
 一つ呼吸をする度に喉を痛みの塊が通っていった。それは胸で広がり、重たく、ただ重たく沈殿していった。
「セイル、泣いちゃだめだよ」
 握り締めた拳の上に柔らかな手が、ぽんっ、っと乗った。小さいのに、俺の全てを包み込むような優しさがそこにはあった。
「せっかく素敵な出会いができたんだ。お別れも笑顔でしようよ」
 すすり泣く俺を見上げ、アクロが髭を揺らす。
 顔を上げ無理矢理笑顔を作った俺にアクロは満足そうに肯いた。
 気がつけば辺りの闇は薄れ、空は紫色に染まり始めていた。
 視線を一瞬だけ空に向けたアクロが少し照れたような声色でこんなお願いをする。
「ねぇセイル。だっこして」
 俺は肯いてアクロを両の手でしっかりと抱きかかえ、胸に押し当てた。
 目を閉じたアクロが大きなあくびを一つする。
「セイルの手、気持ちいいよ。寝ちゃいそうだ」
 俺は黙って、アクロの顔に頬を寄せた。初めてアクロを肩に乗せた時と同じ感触。
 俺は、絶対に忘れない。
 囁くような呼吸音がだんだんと小さくなっていく。手のひらを通して伝わる鼓動がだんだんと小さくなっていく。
「ねぇ、セイル」
 太陽がその頭を空に出し、朝日が公園に差し込む。
 一日の始まりと一つの命の終わりを告げる光だった。
「大好きだよ」
 その一言を最後にアクロが小さく息を吐きだす。そのまま全ては動かなくなった。
 薄く目を開けて正面から登る太陽を見上げる。
 いつもと同じ、明るく健やかで力強い日。
 そっと腕の中から形と重さと柔らかさが消え、気がつけば後にはほのかな温もりだけが残っていた。
 なぜアクロが消えてしまったのかは分からない。でも、アクロらしいと俺は本気で思った。
 小さな鈴の音がする。
 俺は地面に落ちていた鈴付きの赤い首輪を拾い上げた。小さな首輪を手のひらに乗せ、見つめる。
「俺もだよ、アクロ」
 呟いた瞬間手が震えた。鈴が小刻みに鳴り、感情を煽る。
 もういい、叫んでしまおう。我慢する事なんてないんだ。
 そう、思ったときだった。
 誰かが日の光を遮り、俺の前に立つ。逆光とかすんだ視界のせいで顔がよく見えない。細身のシルエットは何も言わず膝を折ると、そっと俺を抱き寄せた。
 優しい香りがする。
 母親っていうのはこんな感じなのかもしれない。生れた時から父親と二人だった俺にとって、それは初めての温もりだった。
 父親の大きな手とは違う、でも柔らかくて繊細な手が頭をゆっくりと撫でてくれる。
 心を丸裸にされるような感覚に抗う事もせず、俺は貯めていた涙を吐き出し続けた。
 喉が震え、しゃっくりにも似た嗚咽が喉からせり上がってくる。
「俺は、あいつに……何もしてやれませんでした」
 ティアさんは、静かに首を横に振ってくれた。
「あの子は幸せだったはずよ。そして……」
 アクロの首輪が乗った俺の手を、白く細い指が包み込んだ。
「あなたがあの子のことを思い、忘れなければこれからも幸せでいられる。覚えておいて。それはあなたにしかできないことだし、あなただからできることよ」
 歯を食いしばり、肯く。
「それさえ忘れなければ大丈夫。きっとね」
 俺は何度も何度も肯き、鼻をすすった。
 手の中の首輪を握り締める。大丈夫。アクロはここにいるんだ。
 日はさらに高くなり、微かに町がざわめき始めた。
 小鳥のさえずり。荷車を引く馬の蹄が石畳を叩く音。そして人々の、命の息吹。
 全てが動き出そうとしている。そんな町の鼓動が俺の背中を少しだけ押してくれた。
 拳で涙を拭いて立ち上がる。
 アクロは消えてしまった。でも、俺はここに在る。
 最高の僕以外、と言ってくれたアクロを裏切ることはできない。
 今すぐに走り出す事はできないけれど、歩く事はできそうだ。
 アクロがこの町で生まれ、消えていったように、俺もこの町で生まれて消えていく。
 そう、決めたんだ。
 一つ息を吐いて空を見上げる。きれいなアクロの瞳色だった。
 今日も天気は良さそうだ。

ホームへ   前ページへ   小説の目次へ   次ページへ