妹と弟とシグ・ザウエルP226
 

 7

「本当にお世話になりました」
 張り紙が剥がされてきれいになった扉を背にして、先生が深く頭を下げた。
 日は完全に落ち、空にはホットケーキのような満月が浮かんでいる。
 辺りを抜ける風はやや冷たかった。銃を抜き、多少熱くなってしまったからかもしれない。
 顔を上げた先生の様子にこっちが頭を下げたい気分になってくる。先生は明らかに疲労しきっていた。
 この数時間でどれほどの神経を磨り減らしたんだろうか。
 目の前で人が撃たれるところを見せられたんだ。普通ならやはりまいるだろう。
 特にここ日本では、人が撃たれるということは「普通」じゃない。
「ごめんなさい。恐かったでしょ」
 詫びるシャロンに先生は笑顔を作ると首を振った。
「私のためにしてくれたことですから。感謝してます」
 と、いきなりシャロンが先生に抱きついた。
「ありがとう先生。そう言ってもらえて良かった」
 安堵だろうか、シャロンの声には溜まっていたものを吐き出すような、張っていたものを緩めるような響きがある。
 いきなりの抱擁に驚いた様子の先生だったが、すぐに目を細めるとシャロンの体を抱きとめ、
「ありがとうございました」
 単純だが最高の一言を発してくれた。
 シャロンが先生から離れ一つ頷く。それから「あ」と手を打つ。
「よかったら今晩私のマンションに泊らない? 明日の朝幼稚園には私が送って行くし。ね?」
 それは提案と言うよりほとんど強引なお願いだった。
 街で女性に声を掛け「暇? 遊ぼうよ」と言っている男は今のシャロンみたいな顔をしているのかもしれない。
「でも」
「ぜんっぜん迷惑じゃないから。お互い一人暮らしの寂しさは身に染みて知ってるはずでしょ」
 言葉を切ったシャロンがなぜか俺を見る。
「どこかのシスコンでブラコンな男と違って」
「失礼な。家族愛と言え、家族愛と」
 腕を組んでうめく。
 そんなことはともかく、俺はシャロンの提案に賛成だった。
「今夜くらいは誰かが傍にいた方がいいんじゃないですか?」
 迷う先生の背を押すように問う。さすがにあんな事があった後に一人では心細いだろう。
 そして、それ以上にあいつらの報復が心配だった。きっちり脅したとはいえ、完全に無いとは言い切れない。
 もちろんこれは先生のためを思い、口には出さなかったが。
「そうそう、夜中にふと目が覚めてさっきのこと思い出したりでもしたら」
 自分の体を抱き、かなり悲壮な表情で首を振るシャロン。
「そんな時、震える体を抱きしめてくれる誰かがいるというのはとても素敵な事だと思わない?」
 ナンパ男から新興宗教の勧誘になってきた。
「絶対に損はさせないから。騙されたと思って、ほら」
 今度はマイナスイオンが発生する浄水器のセールスマンか。
 しばらくの間先生は迷っていたようだが結局シャロンに押し切られ「それじゃ今晩だけ」とやや遠慮がちに同意する。
「荷物、取って来ますね」
 それでもやはり心細かったんだろう。部屋に戻る間際、先生が見せた表情はわずかに軽くなっていた。
「かわいい女性(ひと)ね」
 シャロンがこちらを振り向く。
「優しくて、素直で、でも気が弱くて。絵に描いたような守ってあげたくなるタイプ」
「同性には嫌われそうだけどな」
「あら、私は好きよ。ありがとうを言える人に悪い人はいないもの」
「基本だな」
「そういうこと」
 俺はシャノンと顔を見合わせ、同時に口元を緩めた。
 その時小さな鞄を一つ手にした先生が現れる。先生は扉に鍵を掛け、くるりと俺たちの方に体を向けた。
 綺麗な黒髪が先生の後を追いかけて優雅に揺れる。シャンプーのコマーシャルみたいだ。
「お待たせしました」
「じゃ行きましょ」
 先生の後ろに回りこんだシャロンが背中を押す。押しながら何気ない素振りで先生の髪をチェックしている。
 男から見れば単なる憧れの対象も同性から見れば研究の対象になるらしい。
 今晩二人はベッドの中で髪のお手入れ談義をしたりするのだろうか。
 洗う、拭く、櫛、寝る、の俺には踏み込めない領域だ。
「どうするの?」
 反射的に「何が」とシャロンに返そうとした俺は目の前の二台の車に気付き、慌ててそれを飲み込んだ。
 一台は俺と先生が幼稚園から乗ってきたRX-7。もう一台はシャロンが乗ってきたスズキ・カプチーノである。
 このシルバーのカプチーノもシャロンの持ち物だった。
 二台目は少し毛色の違ったものを、ということで選んだと聞いた。
 こんなサイズのスポーツカーがあるなんて日本て素敵。と納車の日ににこにこしながら言っていたのを思い出す。
 俺は数秒考え、ポケットから取り出した7のキーをシャロンに投げ渡した。
 とほぼ同時にカプチーノのキーが飛んでくる。強化クラッチはもう勘弁して欲しかった。
「とりあえず今日はお疲れ様、ってことで」
 7の屋根に肘をかけたシャロンが微笑む。
「あぁ、お疲れ」
 と返事を返そうとした時だった。ポケットの携帯電話が突然震え出した。
 いや、携帯電話が震えるのはいつも突然か。
 そんな事を考えつつポケットに手を入れて取り出した携帯電話を確認すれば非通知になっていた。
 非通知でかけてくる相手に心当たりは全くなかったが、とにかくケイタイを開いて電話に出る。
「もしもし」
 だが返って来たのは沈黙だけだった。脳内に疑問符を浮べつつ、もう一度もしもしと言ってみる。
 それはかなり不自然な声だった。
『皆川はるかから手を引け』
 よくテレビで素性を明かせない人間がインタビューに応じているが、その時に放送される声質そのものだ。
 間違いなくボイスチェンジャーを通っている。
 俺はシャロンに手と目で警戒の合図を送り、口を開いた。
「どちら様ですか」
 場の空気にそぐわないバカ丁寧な対応。もちろん本気で礼を尽くしているのではない。ちょっとした牽制だ。
 さてどう出るか。
 しかし声の主は見事に俺の期待を裏切ってくれた。
『皆川はるかから手を引け』
 何のリアクションも無い。録音されたものの様に声には何の変化もなかった。
 どうやら俺と喋る気は相手にはないらしい。一方的に通告したいようだ。
 俺は息を吐くだけの間を置いて短く言い切った。
「断る」
 電話はあっさりと切れた。一度ケイタイを見つめ、ポケットにしまってから口元を歪める。
「先生から手を引けとさ」
 シャロンの眉間に皺が寄り、当の先生は口をわずかに開いて俺の顔を見つめた。
 やっと静かな生活を送れると思ったところに俺の一言だ。泣きそうな顔にもなるだろう。
 後は保険の解約手続きを取って残りの大手金融会社と軽く話をすれば終わりだと思っていたんだが。
 しかし嫌な予感がする。どうも今度の相手はチンピラヤクザ程度で済みそうにない。
 チンピラヤクザなら初めに俺が「どちら様ですか」と言った時に組の名を出すか、容易にそれを連想できる言葉を使うはずだ。
 そして「断る」の後にあらゆる種類の脅し文句が乱れ飛ぶ。
 そこで「すみません! すぐ手を引きます!」となるのが脅している人間が望む展開だ。
 人間一人をドラム缶に押し込みコンクリ漬けにして海に静めるより「コンクリ漬けにして海に静めてやろうか、お?」と口で言った方が時間も金も手間もかからずに済む。
 だが電話の主は俺を一切脅さなかった。それが何を意味するのか。
 断られたら断られたらで別に構わない。断られるとは思ってなかった。只のいたずら。
 どれも可能性がないとは言い切れないが経験から言えば断れば殺す、というのが一番正解に近いだろう。
 即ち、俺たちとある一点で交差しているプロフェッショナル。
 向いている方向は違う。だが確実に交わっている。
 今度の相手は恐らくそいつらだ。
 背筋に痺れが走る。
 やつらが何物でなぜ先生を狙っているのかは分からない。だが先生を狙っていることは事実だ。
 俺は先生の前に立ち、笑みを浮べた。
「大丈夫、安心してください。先生には指一本触れさせません」
 多少わざとらしい笑顔とセリフだったが何とか先生に通じたらしい。
 先生は固めていた表情を解きほぐしてくれた。
「信じてます。お兄さんとシャロンさんのこと」
 そう言って深く頭を下げる先生。その先生の白い服に赤い小虫を見つける。
 てんとう虫?
 思った瞬間、俺は先生を地面に引きずり倒していた。
 同時に7のドアガラスが砕け落ちる。紅点はてんとう虫などというかわいらしいものではなかった。
 レーザーサイトの光点に導かれた弾丸が7のボディを円形に喰らう。
 俺は先生を抱きしめ、跳んだ。
 その後を弾痕と鉄板に穴が開く硬い音が追いかける。先生を抱いたままボンネットへ。
 脇腹に激痛。
 漏れそうになった呻き声を無理やり噛み砕き、俺は先生と共に7の反対側に転がり落ちた。
 脂汗を拭う間などない。目を閉じて震える先生を右腕でしっかり抱き、P226を抜きさる。
 わずかに遅れて屋根を乗り越えたシャロンが俺に並んだ。
 俺の表情を見て取ったのかシャロンの目が大きくなる。だが会話を交わす暇など無い。
 俺はボンネットの陰からわずかに頭を出した。
 一体どこから。辺りには光源がなく相手を視認できない。だがレーザーサイトの光源。
 敵の武器が俺にその位置を教えてくれる。
 俺はボンネットに肘を乗せた。トリガーを三度連続で引き、すぐさま身を隠す。
 かすかに聞こえる何かが地面に落ちる音。手ごたえはあった。だが銃撃は止まない。敵は複数ということか。
 大きく息を吸い込む。それだけで脇腹にかなり重い鈍痛が走った。
 敵の弾がタイヤにヒットしたようだ。ボンネットが傾く。
 乾いた破裂音の洪水の中にあって、全身に鳥肌が立っていた。
 手と銃のグリップの間には汗が溢れ、反対に唇は恐ろしい勢いで乾いていく。
 俺だって人間だ。死ぬのが恐くないわけじゃない。
 それでもなお、やらなきゃならい事もある。それだけだ。
 再び銃を構え、頭を出す。距離が詰まっていた。敵の姿を視認できる。数は四。
 アサルトライフルとサブマシンガンを確認。物量で押す気か。
 一番近い位置にいた男に照準を合わせ、三発の弾丸を叩き込む。
 男が地面に倒れるのを確認しつつ身を隠す。
 しかし黒の戦闘服にあの得物、やはりチンピラヤクザではなかった。
 俺と入れ替わるように立ち上がったシャロンが発砲する。
 今はあいつらがどこの誰かなんて事を考えている暇はない。また一人倒れた音がする。さすが、頼もしい。
 だが腰をかがめたシャロンのこめかみからは一条の血が流れていた。
「だいじょうぶ。かすっただけだから」
 俺が言葉を発するより早くシャロンが口を開く。
「それよりもあの人たち、意外と情に厚いみたいよ」
 苦笑いしながら顎をしゃくって見せるシャロンに俺はゆっくりと顔を上げた。
 俺が撃った男を別の男が引きずり闇の中に消えていく。シャロンが撃った男はすでに運ばれてしまったようだ。
 後には赤黒い血の線と引きずり跡が残っている。
 俺は息を吐き、やはり苦笑いした。殺さないように撃った甲斐があったというものだ。
 死体は放置できるが負傷者は運ばねばならない。
 敵を効率よく減らすためのセオリー。親父なら全員撃ち殺すんだろうけど、こんなやり方だって悪くないはずだ。
 ふと腕の中の先生を見る。
 先生はまだ目を閉じて微かに震えていた。銃撃が止んだことにも気付いてないらしい。
「先生」
 そう声をかけようとした時だ。
「上っ!」
 シャロンの鋭い声に空を振り仰ぐ。
 月と重なり、弧を描いて飛んで来る二つの手榴弾。当然のようにピンは抜かれている。
 俺は咄嗟に先生を突き飛ばした。シャロンが先生に覆い被さるのを横目で確認してから手榴弾を銃で撃ち抜く。
 とほぼ同時に身を伏せる。
 鼓膜を薙ぎ払うような爆音。爆風が7の車体をずらし、無数のボールベアリングが降り注ぐ。
 人を殺傷するための鉄球雨。爆風よりこちらの方が恐ろしい。
 巻き上げられた砂塵が車体の下を通って流れてくる。砂混じりの空気を一度吸い込み、俺は体を起こした。
 頭の中をジェット戦闘機が飛んでいるような耳鳴りがする。
 頭を振る俺の横でシャロンと先生が起き上がった。
「大丈夫ですか?」
 と訊いてみるが自分の声がよく聞こえない。
 全く聞こえないわけじゃないので鼓膜は破れてないと思うけど。
 俺の問いに先生とシャロンが一緒に口を開いた。
 やはりよく聞こえなかったが見たところ怪我もしてないし、埃のせいで黄土色になっている事を除けば二人とも大丈夫そうだ。
「お兄さんっ!」
 いきなり声を上げた先生がにじり寄って来る。声が大きかったのかこれはちゃんと聞こえた。
 先生の顔色は青を通り越して白くすらあった。一瞬「抱擁?」とか思ったがどうも違ったらしい。
「さっき、さっき!」
 目を赤くした先生が俺の体をまさぐる。
 眉根を寄せた俺だったが先生に脇腹を触られた瞬間、痛みと共に自分が撃たれていた事を思い出した。
 エンドルフィンが切れたらしい。
「早く病院、救急車を」
 焦りまくる先生。心配してくれるのは嬉しいがその必要はなかった。
「大丈夫ですよ。ちゃんとボディーアーマー……防弾ベスト着けてますから」
 微笑む俺に先生の目が俺の顔と脇腹を行ったり来たりする。
「でも、でも」
「ほんとに大丈夫ですから。体よりも背広に穴が開いた事の方が痛いくらいで」
 そんな俺にシャロンが何か言おうとしたが目で制し、もう一度微笑んでみせる。
 相変わらず先生は心配顔だったが、とりあえず納得したようだ。俺の元から離れシャロンに歩み寄る。
 先生はハンカチを取り出すとシャロンに向かって差し出した。
 それからふと思い出したように「濡らしてきますね」とその場を離れようとする。
 が、シャロンに腕をつかまれてしまった。
「ごめんなさい。今は一秒でも目を離したくないの。ほんのかすり傷だから心配しないで、ね」
 それにしても。
 のろのろと立ち上がった俺は7のボンネットに手を置いた。
 フロント、ドア、リヤ、まともなガラスは一枚も無い。砕け、ひび割れてその破片を車内に散らしている。
 銃弾を受けたドアは穴明きのオタマみたいで、ボンネットにも無数の小さい穴が開いている。
 もし7を持ち上げて振ることができたら、からからと音がするだろう。この分だとエンジンも使えそうにない。
 砂埃のせいでくすんだ赤になった7を見つめ、俺は軽く下唇を噛んだ。
 廃車、か。
 心中で呟き、シャロンを見やる。
 シャロンは何を言うでもなくボディを撫で、最後に目を閉じて7に少し長いキスをした。
 それから大きく息を吐いて腰に手を当てる。
「さっ、これからどうするの」
「とりあえず会社に連絡しなきゃな」
 そう言って辺りを見回せばすでに野次馬が何人か集まっていた。
 この分だと遅かれ早かれ警官がやって来るだろう。
 正直、警官相手にこの場をしのぐのはかなりきつい。
 俺は携帯電話を取り出し、さっそく会社にコールしようとした。
 その時振動と共にまた電話がかかってくる。が、今度は信用できる相手からだった。
 液晶画面によれば社長秘書の美津子さんからのようだ。グッドタイミング。手間が省けた。
「もしもし」
 だが予想に反して電話の向こうから聞こえてきた声はかなり若かった。というより幼い。そして嬉しい。
『もしもし。お兄ちゃん?』
「優奈か……どうした」
 と問いながらも条件反射的に頬が緩んでしまう。
『うん。おやすみなさいってしようと思って』
 横目で腕時計を見る。もうそんな時間か。
『ほら、優希もおやすみなさいするの』
 電話の向こうでお姉さんぶった優奈の声がする。
 一応書類の上では優希が兄なんだが、やっぱり性格のせいだろう。
『お兄ちゃん?』とあからさまに眠そうな優希の声。
 やはりついつい笑ってしまった。
『おや』
 沈黙。沈黙。沈黙。
『寝ちゃった』
 もしもし、という俺の呼びかけにそう答えてくれたのは優奈だった。しかし電話中に寝るかね普通。
 我が弟ながらかなりゆるい。まぁ、そこがまた可愛かったりするんだけど。
『お兄ちゃんはまだお仕事なの?』
「あぁ、もうちょっとだけかかるかな」
 答えながら鈍痛響く脇腹に手をやる。当然優奈も優希も俺がどんな仕事をしているのかは知らない。
『ごくろうさま。無理しないでね』
 妙に大人びた優しい言葉。可笑しさと嬉しさに笑ってしまう。
 笑えば笑っただけ脇腹に響いたが、そんなことはどうでもよかった。
「明日は幼稚園に迎えにいくから」
『うん』
「おやすみ」
『おやすみなさい』
 なんかしみじみとしてしまう。だが余韻に浸っている暇はなかった。
 続けて聞こえてきた美津子さんの声にすぐさま緩んでいた脳が引き締まる。
『どうかしらそっちは。上手くいった?』
「いえ、とにかく社長と代わって貰えますか」
 俺の声から只ならぬものを感じ取ったのか、美津子さんが早足で移動を始めた。
 聞こえてくる足音からそれが分かる。
 とにかく要点を手短に説明して早いところ手を打ってもらわなきゃな。
 さらに多くなった野次馬たちを見ながら、俺は社長に語るべき言葉を脳から取り出す作業に急いで取りかかった。
 何にせよ、長い夜になりそうだ。

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