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妹と弟とシグ・ザウエルP226   

 

 先生の住むアパートは通りから結構奥に入ったところにあった。
 車幅ぎりぎりしかない路地を、対向車が来ませんように、と走ることしばし。
 ボロアパート……もとい、実にクラシカルな建物を先生は指さした。
 ただ正直その建物を見た瞬間俺の頭に浮かんだのはアパートではなく長屋という単語だった。
 しかし建物はボロ……もとい使い込まれて哀愁を漂わせているとしても、敷地は割と広いので車を置く場所が確保できるのはありがたい。
 地面に白線が引かれていないため、隅の適当な所に車を置くと俺はエンジンをきった。
「驚きますよね、こんな所」
 静かになった車内に先生が小さな波紋を打つ。その声は自嘲の色を含んでいた。
 俺はフロントガラス越しに建物を見やる。
 まぁ確かにボロではあるが、それだけだ。
「水も電気も安定して供給され、雨風も凌げる。十分じゃないですか。俺が中東のとある国にいた時には断水、停電が当たり前でしたから」
 俺を見つめる先生の顔に大きな疑問符が浮かんだ。
「両親の仕事のせいで世界中引っ張りまわされてたんです。生れたのはケニア、サバンナのキャンプでしたし、アイルランドでパブの一人娘に一目惚れして、イングランドでは『サッカーにはあんまり興味ない』発言で殴り合いのケンカ。俺の国はミャンマーじゃないビルマだと熱く語る奴がいて、アメリカには女と車の話で一晩中盛り上がれる奴がいました。その他にも色んな国をまわって……結局日本に来たのは十八になってからです」
 胸中で思い出を指折り数えながら言う。
「日本の習慣や言葉は両親が教えてくれてたんで割とすぐ馴染めました。味噌汁の味も知ってたし」
 先生に向かって一つ微笑み、俺は鞄を手に車を降りた。
 敷地が舗装されていないせいか土の匂いがする。
 低い位置に僅かな夕日の赤を残した空には一番星が出ていた。
 思い切り腕を振り上げて背筋を伸ばす。喉の奥から呻き声が漏れた。
 走って楽しい車は往々にしてドライバーに優しくない。だから体の色んな所がこってしまう。
 腕を下ろして息を吐いた俺は先生の後について行った。と、いきなり先生がドアの前で固まってしまう。
 ドアを見えなくするのが義務である、とでも言わんばかりの張り紙。
 張り紙の色や大きさは千差万別だが、そこに書いてある内容は満場一致で「金返せ」だった。
 慌てた様子で張り紙を剥ぎ取ろうとした先生の手を抑え、ポケットからカメラを取り出す。
 さすがに張った人間の連絡先までは書かれていなかったが、裁判になればこれも参考資料くらいにはなるだろう。ちなみにこの手の張り紙も違法行為だ。
 だから連絡先が書かれていない。要するにただの脅しであり嫌がらせだ。
 ファインダーを覗き、シャッターを三度きる。
 カメラをポケットに戻したところで先生の手を握りっぱなしだった事に気付いた。
 慌てて手を放した俺に先生は「構いませんよ」という風に微笑んでくれる。
 照れくさかった。優希が将来結婚したいと思ったのも分かる。
 毎日この笑顔を見られるのなら、そりゃあ楽しいだろう。
「あー、張り紙は張った奴らに剥がさせましょう。先生が剥がす事はないですよ」
 人さし指で頬を掻きつつあさっての方を向く。
 不思議な物でも見るような先生の視線を感じたが、それも一瞬の事。
 ドアを開けた先生は一足先に中に入ると電灯を点けてくれた。
 どうぞ、という先生の許しを待って中に入る。一部屋とキッチンという間取り。しかしこれは……
 俺はしばし玄関で立ち尽くしてしまった。
 先生の部屋は綺麗に片付けられていた。というか片付けられすぎだ。
 小さなテーブルと本棚、たたまれて畳の上に置かれた数着の服以外に何一つ物がないのである。
 パソコンやコンポはもちろんのこと、テレビや洗濯機、冷蔵庫までもなかった。
「お金がないときに少しずつリサイクルショップに持って行ってたら、こんな風に」
 馬鹿みたいに口を半開きにしていた俺に向かってそう言うと、先生はうつむき恥ずかしそうに笑った。
 しかしここまで追い込まれていたとは。いや、頑張っていたというべきだろう。
 しがみ付いていたんです。
 車の中で聞いた先生の一言が脳裏をよぎった。
 一度拳を握り、靴を脱ぐ。
「あの、どうぞ座ってください。お茶入れてきますから」
「お構いなく」
 と、この時ばかりは本気で言った。こんな経済状況だ。お茶の葉だって余ってはいないだろう。
 声色から俺が本気だということが分かったのか、先生が台所から顔を出す。
「私、一人だとお茶飲まないんです。置いておいてもダメになるだけだから。飲んで下さいね」
「すみません」
 顔を引っ込めた先生に言って、俺は小さなテーブルの前に腰を降ろした。
 ぐるりと頭を巡らせてみる。何度見てもやはり何もなかった。
 目を引くものといえば本棚に収まっている数冊の児童心理学の本と……写真?
 立ち上がり、本棚に歩み寄る。
 本の隣に置かれた写真立てには中年の女性を写したものが一葉納まっていた。
 上品に笑う女性の表情に既視感を覚える。
 あっ、と俺はすぐにある人物に思い当たった。
「母です」
 振り返ると、台所と部屋を分ける引き戸の傍に立った先生がこちらを見ていた。
 先生はおなかの上で指を組むと少しだけうつむいた。
「あの、今お母さんは」
「亡くなりました。父が亡くなった半年後に。元々あまり丈夫な人じゃなくて」
「すみません。余計な事を」
 言いながら、俺は気付いた。確か先生の父親が亡くなってまだ一年だったはずだ。
 ということは先生の母親がなくなってまだ半年しか経っていないことになる。
 俺はあらためて先生の顔を見つめた。
 もしかして、先生はまだ両親の死を自分の中で整理できてないんじゃないだろうか。
 俺だって両親が失踪して、その生活が日常になるまではやはり一年くらいかかった。
 先生は両親を亡くしているのだから尚更時間がかかるだろう。
「ご兄弟は」
「いえ、一人っ子でしたから」
 やはり、一人残されたのか。俺には先生の喪失感を量り知る事はできない。
 ただ、もし今の俺に優奈と優希がいなかったら、と想像すれば少しは近づけるだろう。
 背筋が寒くなった。できれば二度と想像したくない。
 生命保険で借金を返済する。
 正直言って、俺は先生が死の恐怖を克服できるほど気力のある人だとは思っていない。
 だが現に先生は殺される事を願っている。
 恐らく両親の、いや、特に母親の死が先生を自殺にも似た今回の依頼に駆り立てたんじゃないだろうか。
 孤独が「死」という選択肢を前にした先生の背中を押した。そして背中を押されるまま一歩踏み出した。
 先生を取り巻く世界には彼女を引き止めるものが何一つなかったからだ。
 しがみ付いていたんです。
 再び先生の台詞が脳裏をよぎった。
 先生がしがみ付けていたのは、常に心の片隅で「終わり」を意識していたからだろう。
 人は終わりのない苦痛に耐えることはできない。
 だが、その苦痛が確実に有限であると分かっているのなら耐える事ができる。
 少なくとも、もう少しだけ耐えようという気持ちになる。
 苦痛の終焉はもうそこまで迫っている。ならば終わりまでこのままで在ろう。
 そんな思いが先生を先生たらしめていたのではないだろうか。
「母には本当に苦労をかけました。働かない父の代わりに身を粉にして、私を短大にまで入れてくれて。せめて孝行したくて借金を相続したんです。本当に母は苦労の連続で、愚痴一つ言わずあんなに頑張ったのに、どうしてほんの少しでも幸せになれなかったんだろうかって……今でも」
 先生は苦しげに言葉を切ると、隠れるように台所へ戻ってしまった。
 ほんの一瞬だけ見えた潤んだ瞳に、心臓を無理やり掴まれたような気分になる。
 できれば見たくない種類の涙だった。
 一度口元を歪めてテーブルの傍に座る。
 先生に何を言えばいいんだろうか。
 生きていればそのうちいい事がありますよ、か。気休めにもならない。
 俺はテーブルの上で腕を組み、考えた。
 だがそう簡単に自殺志願者を引き止めるほどの言葉など浮かんでくるはずもなく、気がつけば目の前には湯気の立ち上る湯飲みが置かれ、湯気の向こう側には先生が座っていた。
 とりあえず湯飲みを手に取り、間を埋める。しかしこのまま無言でお茶を飲み干す訳にもいかない。
 口を開いて言葉を発さなければ。それが俺の仕事だ。
「生命保険で債務を返済するという意思に変わりはありませんか」
 テーブルを挟んで俺と向かい合った先生はゆっくりとではあるが、はっきりと肯いた。
「債務は、法的な整理をする事でかなり楽になるはずです。先生が死ぬ必要なんて全くありません」
 俺は先生の瞳を見つめて言った。が、先生は逃げるように顔をそむけてしまう。
 先生の顔を追いかけるべく身を乗り出し、俺は続けて口を開いた。
「優秀な弁護士も紹介します。両親を亡くされて気落ちするのも分かりますが少しだけ考えてもらえませんか。生命保険で借金を返すなんて馬鹿げてます」
 言葉の後に行くほど語気が荒くなる。俺はどうしても先生を殺したくなかった。
 単純に、できれば人を殺したくないという思いもある。だがそれ以上に先生だから殺したくないと思う。
 負う義務もない親の借金を背負い、苦しむ先生を馬鹿だ愚かだと罵る事は簡単にできる。
 自分で選んで背負ったんだからしょうがないだろ、と突き放す事もできる。
 俺はそれが正しいとは思わない。
 親の不始末を何とかしようとした先生の責任感はどうなる。母親が背負おうとした借金を背負った先生の優しさはどうなる。
 ないがしろにしていいものではない。
 頼まれもしない救済なんて余計なお世話かもしれない。
 死にたがっている先生にとって今の俺は厄介者でしかないだろう。
 それでも俺は先生を助けたかった。
「本当に馬鹿げた話ですよね」
 力なく笑う先生の細い声。
「でも、馬鹿でもいいんです。それで全部投げ出せるんですから」
 目を細めた先生が本棚の写真立てを気の抜けたような表情で見上げる。
「母が亡くなって実はほっとしたところもあるんです。ほとんど寝たきりだった母を看取って、あとは何とかしてお金を返したら全部終わりだな、って。そんな時偶然保険屋さんからセールスの電話がかかってきて、話を聞いているうちに生命保険でお金を返すことを思いついたんです。縁、だったのかもしれません」
 俺は乗り出していた身を収め、唇を噛んだ。そんな縁あってたまるか。
 先生にとって母親の存在は本当に大きかったのだろう。
 その母親の最期を看取り、先生の心の糸はぷっつりと切れてしまった。
 今回の件にしても母親の後追い自殺的な側面がないとは言い切れない。 
 完全に肩の荷を下ろしてしまった先生に、どうすればもう一度荷物を背負ってもらえるんだろうか。
「お兄さんの気持ちは本当に嬉しいんです。私のこと、こんなに心配してくれたのは母以外ではお兄さんだけですから。でも、もう」
 そう言って先生は弱々しく首を振った。
 喉の奥から漏れそうになった呻き声をなんとか抑え、俺はもう一度身を乗り出す。
「お願いします。考え直してもらえませんか。俺にできる事なら何でもしますから」
 体を折り、テーブルに額をつける。
「頭を上げてください。お兄さんにそんなことする必要なんてないんですから」
 焦ったような先生の声に顔を上げると、先生も身を乗り出していた。
 期せずして縮まった距離に一瞬妙な間が開いたが、俺も先生もすぐに居住いを正して元に戻る。
 言葉が出ない。完全に手詰まりだった。
 沈黙が続き、一秒ごとに天井が低くなっていくような錯覚さえ覚える。
 どうすればいい? 
 頭の中にある引出しを片っ端から開け、逆さにして振ってみても、今ここで言うべき言葉は見つからない。
 そして天井が頭上すれすれに迫り、俺が膝の上で拳をきつく握った時だった。
「どうしてお兄さんは一生懸命私を助けてくれようとするんですか」
 細く澄んだ声に顔を上げた俺は先生を見つめた。
「お仕事、だからですか」
 先生も俺を見つめている。ただその瞳に俺を問い詰めるような色は無い。
 俺は一度天井を見上げ、それから握った自分の拳に視線を落した。飾っても仕方が無い。
 胸の内にある言葉を素直にはき出そう、と思った。
「仕事だから、もちろんそれもあります。でもたとえ報酬が無くても、今の俺は先生を助けたいと思っています」
 一度言葉を切る。
「先生、さっきお母さんのこと言いましたよね。あんなに頑張ったのにどうして少しでも幸せになれなかったんだろうか、って。俺はこの世を不条理の塊だと思ってます。生れた瞬間に全てを約束された人もいれば、生れた瞬間に死んでしまう人もいます。大した努力もせず幸せになってしまう人もいれば、どんなに努力しても幸せになれない人もいます。人を殺した人間が八十歳まで生き、人を救った人間が二十歳で死ぬ。でも、それに理由なんてなくて、世界の気まぐれ、不条理がそこにあるだけです」
 俺は乾いた唇をなめ、小さく息を吐いた。
「だけど、所詮この世は不条理なんだと肩をすくめて笑えるほど俺は物事を悟ってはいません。俺は先生のことをいい人だと思っています。そして、いい人には幸せになる権利がある。その権利を奪おうとする世界の気まぐれって奴に、俺は銃を向けたくなるんです」
 俺の言葉に、先生は少し面食らったようだった。目が僅かに大きくなっている。
「その、すみません。長々としょうもない事を。あの、でも、もっとしょうもない理由も一つあって」
 先生から視線をはずし、頭を掻く。俺はは二秒ほど「あー」と間を取って言った。
「先生が初恋の人なんです」
「えっ」
 先生の目がさらに大きくなり、二度瞬いた。
 妙な沈黙。
「いや、弟の」
 再び沈黙。
「弟……あっ、あぁ、優希くんが」
 なぜか言葉を詰まらせた先生は焦ったように笑うと、不思議なくらいあっちを見たりこっちをみたりそっちを見たりする。
「結婚したいって言ってました」
 俺が笑いながら言うと、先生も嬉しそうに笑ってくれた。
「だから、そんな人を死なせる訳にはいかないんです」
 背筋を伸ばし、先生の目を見据える。今度は先生も逃げなかった。真正面から俺を見つめている。
 先生はどんなことを考えているんだろうか。
 正直、俺にはもう言葉は何一つ残されていない。
 もしこれでもなお先生が死を選ぶと言うのなら、俺は……いや、引けない。絶対に引けないんだ。
 俺は先生を助けたいと思う。その気持ちに嘘偽りはない。
 待とう。先生を信じて。
 どれほどの時間、そうして見つめ合っていただろうか。長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。
 先生の口がゆっくりと開いた。
「お兄さんのこと、頼ってもいいですか」
「はい」
 強く肯く。
「私のこと……守ってくれますか?」
「約束します。全力で」
 俺ははっきりと言い切った。
 引き受けた以上俺が、そして会社のスタッフが全力で先生を守る。
 と、唐突に先生の目から大粒の涙がこぼれ出した。
 戸惑いに腰を上げかけた俺を前に、子供のようにしゃくりあげる先生。
 ふと、デパートで迷子になった優奈とインフォメーションセンターで出会ったときの事を思い出す。
 そういえば、あの時の優奈もこんなだった。
「ものすごく不安で、でも誰にも相談できなくて……恐くて、寂しかったんです。誰かに助けて欲しくて、でもどうしたらいいか分からなくて、夜、布団に入るたびに何かに押し潰されてしまいそうで……苦しくて眠れなくて。どうしてこんな事になったんだろうって、いつもいつも考えてました。本当は死にたくなんてない。死にたくなんてないんです……」
 言葉を詰まらせた先生は涙を拭くことも忘れ、ただ泣き続けた。
 それまで我慢していた涙と感情を全て吐き出すように、大粒の雫が形のいい顎の先から零れ落ちる。
 本当は死にたくなんてない。
 そうか、やっぱり死にたくなかったんだ。そうだよな、うん。
 泣きじゃくる先生を前に笑みがこぼれてしまう。
 俺はテーブルの下で拳を握り、小さく息を吐いた。
 これで、どうやら先生を守ってあげる事ができそうだ。本人の許可が取れたんだから。
 っと、笑いながら先生の泣き顔を見てる場合じゃなかった。
 こんな時、泣く女性を本当に自然に何の違和感もなく胸に抱いてしまう友人が一人いるが、とてもじゃないが俺にそんな事はできない。絶対挙動不審になってしまう。
 俺に出来ることと言えば、こうしてポケットを探って、ハンカチを取り出すくらいのものだ。
 俺が差し出したハンカチを先生は小さく頭を下げて受け取ると、目にあてがった。
 匂ったりしないだろうか。でも今日はまだハンカチ使ってないし。
 そんな事を考えつつ湯飲みを手に取る。喉に流れたお茶の温度は、もうだいぶ下がっていた。
 湯飲みを握る左手に力がこもる。
 ガラス越し、初めて優奈と優希に出会ったときに抱き、今現在までずっと続いている感情。
 先生を見ているとそれと同じものが心の奥底から湧き出してくるのだ。
 こういうのを父性本能、とでも言うんだろうか。
 とにかく放っておけない。
 俺は先生が多少落ち着いたのを見計らって、微笑んで見せた。
「じゃあ、早速問題を片付けてしまいましょう。早い方がいいですから、こういうのは」
 少々驚いた顔をする先生を横目で見ながら、上着のポケットから携帯電話を取り出す。と、同時に扉を叩く音が二度聞こえてきた。
 ふむ。どうやら携帯を使う必要はなさそうだ。
 不安げな表情で俺を見つめる先生に向かって一つ肯く。
 残っていた涙を拭き取り、立ち上がった先生はゆっくりと玄関に向かった。
 再び湯飲みを手に取り、飲み干す。ちょっと苦い。
 数秒の沈黙の後、扉の開く音がした。
「はろー。はじめまして、はるか先生。私はシャロン・オブライエン。握手握手。で、ウチの労働一号がおじゃましてるはずだけど」
「誰が労働一号だ、こら」
 ベストなタイミングでやって来たシャロンに向かって言い返す。
 ったく、変な言葉覚えよってからに。
 先生に連れられて中に入ってきたシャロンは、俺を見て挑戦的に微笑むと腰を降ろした。
「さて、私の仕事が無駄になるような結果にはなってないでしょうね」
「なってたら?」
「ハラキリ。一度でいいから見てみたいのよね。あぁ、死体の処理は心配しないで。私独自のルートが」
「笑顔で言うな、笑顔で」
 半眼でうめく。
「なによ、私の異文化交流を阻止する気なの?」
「あってたまるか、そんな異文化交流っ!」
「けち。せっかく私のサイトで一部始終レポートしようと思ったのに。もちろん画像ありで」
「あのなぁ」
「あぁ、もちろんあなたの顔にはモザイクかけるから。プライバシーの保護はばっちりよ」
「プライバシーより先に保護しなきゃならんものがあるような気がするんだが」
「ない」
「……アイルランドへ帰れ、お前は」
 と、バカな会話をしているうちに、はるか先生はシャロンと俺にお茶を入れてくれた。
 咳払いを一つして場の空気を正す。我ながらわざとらしい。
「とにかく、先生の説得には成功した。ハラキリは無しだ。で、仕事の話に戻るが」
 シャロンに目配せする。シャロンは肯くと、持参した鞄から一枚の書類を取り出した。
 ちゃぶ台の上に置かれた書類には多くの数字が並び、表にまとめられている。
 表を見ていた先生は何かに気付いたようだった。
「これ、私の」
「債務をまとめたものね。借金返済への第一歩よ」
 先生の言葉を継ぎ、シャロンが微笑む。
「でも、どうやって調べたんですか?」
「そこはほら、蛇の道はエビ?」
「へび、だろ」
「そうそう、そのへびさんに調べて貰ったの」
 本当に意味が分かって言ってるんだろうか、こいつは。
 やれやれと小さく息を吐く。
「それで、こっちの方が重要なんだけど」
 そう言いながらシャロンは書類をもう一枚取り出す。
 これにも先程の物と同じくいくつもの数字が印刷されている。だが桁数は明らかに少なかった。
「これは利息制限法に沿って、先生が払わなければならない利息を計算したものよ。お父さんは七社からお金を借りていたみたいだけど、元本はいずれも十万円以上百万円未満だから年利は最高で十八パーセントね」
 シャロンの細く白い指が紙の上を滑る。
 それに併せて先生の瞳が上から下に動いた。
「手っ取り早く言うと、つまり」
 シャロンが顔を上げる。
「お金を返し過ぎてるの」
 シャロンを見つめる先生の目が二度、ぱちぱちと瞬いた。小さな口が開きかけて、閉じてしまう。
 何か訊きたいが、何を訊けばいいのか分からない、そんな表情に見えた。
 先生の顔を見たシャロンはクス、となぜか楽しそうに笑うと説明を続ける。
 子供が内緒話をするときみたいな笑い方だ。
「利息制限法の定めるところによると、先生の場合年十八パーセントを越える利息分については支払いの義務がないの。具体的に言えば」
 そこで言葉を切ったシャロンは二枚目の書類を手にする。
「七社のうち一社、フレンドについては年利十七パーセントだから、これは文句の付けようがなし。さすがは大手ね。問題は残りの六社。深川ファイナンス、高見金融については端数を返済すればお終い。残金は深川、二千三百五十円、高見が千七百二十円ね」
 シャロンの言葉に真剣な表情で頷く先生。
「友愛、竹下興業については先月の支払いで完済。と言っても払い過ぎだからちゃんと返してもらいましょう。丸金ローンは先々月分で完済、海堂金融に至っては三か月前の支払いで返済完了よ。きっちり取り立てなきゃね」
 先程の楽しそうな笑みに不敵なものを交ぜ、シャロンは言った。
「と言うわけで、実質七社中六社は返済完了よ」
 そう言って今回シャロンの顔に浮かんだ笑顔は純粋に喜びだけでできていた。
「もう、お金を払わなくていいんですか」
「ええ、少なくともえげつない事やってる奴等にはね。まぁ、みなし弁済っていう規定があるにはあるんだけど」
「書類を見る限りじゃ出資法にも違反してるし、そんなもん適用されてたまるかって所だな」
 シャロンに続け、俺はお茶をすすった。やっぱり緑茶はいい。
「もう、あの人達と関わらなくていいんですか」
 先生の声は震えていた。ふと顔を上げる。
 そこには俺のハンカチを目に当て、肩を震わせて泣く先生の姿があった。
 先生の涙を見てただ単純に、良かったなと思う。こういう涙ならば大歓迎だ。
「とりあえず、お疲れ様」
 シャロンの優しい声に先生は小さく頷くと、泣きながら微笑んだ。
 それから俺に向って丁寧に頭を下げる。
 応えて俺も口元を緩めた。だが、まだ全てが終わったわけではない。
 実際に金融会社と顔を合わせて、彼等に返済の完了と超過利息分の返済を求める作業が残っている。
 先生にはもう少しだけ頑張ってもらわなければならない。
 俺は唇を引き締め、先生の潤んだ瞳を見据えた。
「これから金融業者をここに呼び出して決着を付けます。相手はヤクザとつながりがあったり、もしくはヤクザそのものです。おそらく一筋縄ではいかないでしょう。もちろん交渉には俺たちが当たります。でも、これ以上のお金は払えないことを先生の口からはっきりと主張してほしいんです。本人の意思がどうだのこうだのとゴネるでしょうから」
 俺の台詞に先生の顔が不安気な陰りを見せる。
 だがそれも一瞬のこと、一つ息をするだけの間を置いて先生は力強く「はい」と答えてくれた。
「首をくくったみたいね。いい顔よ、先生」
「首くくってどうする。くくるのは腹だろ」
 顎に手を当てて頷くシャロンに向って、溜め息混じりに教えてやる。
「……下二段活用?」
「いや、いいから。無理しなくて」
 俺がそう言うとシャロンは微妙に悲しそうな顔をした。どうも彼女は慣用句が苦手らしい。
 まぁ、そのうち覚えるだろう。アイルランド人のシャロンにとっては死ぬほど恥ずかしい事でもなければ、死ぬほど困る事でもない。
「じゃあ、業者を呼び出します」
 俺とシャロンはそれぞれの携帯電話で業者の番号をプッシュし始めた。

 

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