わたしのお姉ちゃんは天才である

ライン

 


 わたしのお姉ちゃんは天才である。そのうえ美人でスタイルもいい。声も綺麗だし、いい匂いもする。歳は十六歳のわたしの十コ上で二十六歳。円熟味を増した大人の魅力というやつを今日も周囲に振り撒いているのだろう。
 お姉ちゃんは日本の大学を卒業後、渡米。今はアメリカのどこかで何かの研究をしてるらしい。お姉ちゃんが渡米する前、何やらウチにおじさんたちがやって来て「貴重な頭脳」「海外流出」なんてことをお母さんと話していたけど、わたしにはよく分からなかった。ちなみに考古学者であるお父さんはいつも海外を飛び回っていて基本的に家にいない。
 たまに戻ってきても「すまん。浪漫が俺を呼んでるんだ」と無精ひげの顔に爽やかな笑顔を残してすぐに出て行ってしまう。そんなすちゃらかなお父さんに代わって我が家の家計を支えているのもまたお姉ちゃんだった。
 一度お母さんに貯金通帳を見せてもらったんだけど、そこにはアメリカでのお姉ちゃんの生活と交友関係が心配になるほどの大金が毎月振り込まれている記録がきっちり残されていた。研究職というのはそんなに儲かるんだろうか。
 とにかく、わたしが一日三回ご飯を食べられるのも高校に通えるのもお小遣いをもらえるのも、みんなお姉ちゃんのおかげなのである。
 そう、お姉ちゃんは偉いのだ。
 しかしこちとら多感な十六歳。そんなお姉ちゃんに対してコンプレックスを感じることだって……あ、ないや。うん、ない。
 なぜかって?
 眉目秀麗、頭脳明晰、才色兼備、そんなお姉ちゃんではあるけれどこれでは足りない。最後に一つ付け加えないといけないのだ。
 性格破綻、と。


 1

 夏休みも十日ほど消化したある夏の日、エアコンのきいたリビングでアイスクリームの蓋をなめながらお昼のワイドショーを見ているとインターホンが鳴った。普段なら庭で鳴くセミの声に「はーい」というお母さんの声が重なるのだけど……、
「ごめんなさい彩ちゃん。ちょっと手が離せないの」
「んー」
 リビングとつながるダイニング……ソファーに座るわたしの背後からした声に返事をして立ち上がる。廊下に出るとむあっとした熱気が身体を包み込んだ。
 あぁ、夏だ。うん、夏だ。
 そんなことを思いつつ廊下を進み玄関へ。サンダルを足に引っ掛けてドアを開く。
「どうもー、宅配便です。サインお願いしまーす」
 やたらと元気のいい声と笑顔と共に伝票を差し出す宅配便のお兄さん。渡されたボールペンでさらさらとサインを書き込み、荷物を受け取る。大きさはぎりぎり片腕で抱えられるくらい。
「ども、ありがとうございましたー」
 来た時と同じような爽やかな笑顔を残し、宅配便のお兄さんは足早に去っていった。青空の中心で夏を叫ぶ太陽を見上げ、眩しさに目を細める。
 ……アイス食べよ。
 心の中で呟いて廊下を戻り、リビングに戻ったところで「荷物? 誰から?」というお母さんの声がした。エプロンで手を拭きながらお母さんが荷物を覗き込む。そこで初めてわたしも、あぁ、そうか、と箱に貼ってある伝票に目を落とした。
「う……」
 そこに書かれていた送り主の名前を見た瞬間、わたしは条件反射的に呻き声をもらしていた。
「あら、お姉ちゃんから」
 対してお母さんはにこにこしている。というか、何も考えてないだけのような気もするけど。お母さんはもの凄くおっとりした人で何を見ても基本的ににこにこしている、そういう人だ。
「何かしらね」
「どうせまたロクなものじゃないと思うけど」
 今までお姉ちゃんが家に送りつけてきたものを思い返し、溜息混じりに言う。
 肉食のマリモ、満月の夜に植木鉢を抜け出すサボテン、エレキギターの音で鳴くスズムシ……思い浮かべただけでも頭痛がする。いったいぜんたい何の研究をしているのだろうか、わたしのお姉ちゃんは。ちなみにお母さんはその全てに名前をつけて可愛がっている。やっぱり母性って偉大だと思う。
 わたしは箱に鼻を近づけてみた。おかしな匂いはしない。続けて振ってみた。にゃー、という声がした……って、はぁ?
 一度お母さんと顔を見合わせたわたしは大慌てで箱に貼られているガムテープを剥がし、蓋を開いた。
「あら、かわいい」
 隣でお母さんが手を、ぽん、と叩く。箱から顔を出したのは一匹の、まっ白な仔猫だった。箱の縁に前脚をかけ、黒くつぶらな瞳でこちらを見上げる様は確かにかわいい。
 まぁ、わたしも子供じゃない。宅配便で生き物って送れたっけ? そもそもどうやって宅配業者に送らせたの? という類の大人気ない疑問を「お姉ちゃんのすることだし」の一言で片付けられる程度には成熟している。
 ……なんかすっごい間違った方向に成熟してるような気もするけど。
 とにかくアメリカに住む姉が宅配便で仔猫を送ってくるなんて程度のことは普通にあるのだ、我が桜井家では。
「日本へようこそ。英語で言わなきゃ分かんないかな? うぇるかむとぅーじゃぱん」
 仔猫を抱き上げ、カタカナ英語どころかひらがな英語で歓迎の言葉を述べるお母さんを横目に小さく息を吐く。なぜ神様はその順応性をわたしに遺伝させてくれなかったのだろうか。
 と、まだ箱に何か入っていることに気付いた私は腰をかがめてそれを取り出した。一枚のメモ、そして小さなカプセルがたくさん入ったビン。
 薬だろうか。そんなことを考えながらメモに視線を落とす。そこには問答無用で人を惹きつける流麗な文字で(お姉ちゃんは字まで綺麗なのだ)たった三行、記されていた。
 
 ごはんと一緒にカプセルを一つあげること。
 かわいがってやって。
 名前はビーフストロガノフ。
 
 とりあえず最後の一行を頭の中で切り捨て、わたしはお母さんの胸に抱かれている仔猫を見つめる。と、不意にお母さんが口を開いた。
「はんぺんとバファリンどっちがいいと思う?」
 眉間に皺を寄せる私。
「ほら、この子の名前」
 しばし沈黙し、問う。
「何で?」
「だって、白いし」
 そう言ってお母さんは、ね、と仔猫に笑いかけた。
 あぁ、やっぱり親子だこの人たち。わたしはしみじみとそう思った。


 2

 その日から桜井家の家族となったはんぺん(さすがにバファリンはないだろう)は、すくすくと成長していった。体も目に見えて大きくなり、今では一戸建ての我が家とほとんど同じ大きさである。
『ただいま留守にしてるっぽいです。発信音みたいなものの後にメッセージらしきものをどうぞ』
 ぴー。
「お姉ちゃんのバカぁぁぁぁっっ!」
 これでもう何度目だろう。受話器を叩きつけるようにして電話を切り、わたしはがっくりとうな垂れた。
 うぅ、涙出そう。今さらながらなんて無責任な。
 大きく息を吐いて庭の方へ視線をやる。そこには庭を占領して夏の暑さにへたっているはんぺんの姿が。お母さんはそんなはんぺんにホースで水をかけながらうちわで扇いでやっている。ここからだとその姿は小人のようにしか見えなかった。
 もう一度大きく息を吐いたわたしはテーブルの上に置いてあったうちわを手にとって、リビングから庭に降りた。
「お姉ちゃん、どうだった?」
「まだ留守電」
 お母さんの隣に並んではんぺんの顔をぱたぱたと扇いでやる。
「あらあら。困ったわね」
 と、まったく困った風でもなくお母さんが言う。縦に長い庭に寝そべっているはんぺんの頭の先から尻尾の先までを一度見やり、わたしは人差し指で頬をかいた。
 ……ほんとに何の研究してるんだろ、お姉ちゃん。
 輝く太陽、青い空、白い雲、セミの声と揺らめく陽炎。
 絵に描いたような日本の夏だけど、やっぱりはんぺんにはこの湿度が辛いみたい。庭でだらーっと長く伸びて、時折苦しそうに眉間に皺を寄せている。一度持ち上がった尻尾が地面に落ちて、ぼふっ、と砂埃が舞った。
 まるで怪獣映画みたいだけど不思議と怖いとは思わなかった。この大きさだもん。襲われたらわたしなんて一たまりもないんだろうけどそれはないような気がする。
 根拠なんてないんだけどね。はんぺん、優しい顔してるし。それだけ。ほら、嫌なやつって大抵嫌な顔してるでしょ? だから大丈夫。うん。
 わたしはふさふさとしたはんぺんの前脚に触れ、小さく微笑んだ。アゲハ蝶がはんぺんの鼻を掠めて飛ぶ。寝そべったまま前脚をふにふにと動かすはんぺんの姿は普通の猫と全く変わらなかった。ただちょっと大きいだけで。
 でも、このままずっとここにおいとくわけにもいかないし。大騒ぎになる前にお姉ちゃんと連絡がとれればいいんだけど。いいかげん近所の人に「アニマトロニクスって言って映画の特撮なんかで使われてる技術なんですよー」なんて言うのも限界がある。もっとも近所の人がみんな「そうそう、お宅のお姉ちゃん美人さんだったけど変なことばかりしてたものね」と納得してくれたのもそれはそれで嫌なんだけど。
 うぅ、完全にキワモノ扱いなのね桜井家。お姉ちゃんのばかっ。
 遠い空の下にいるだろうお姉ちゃんの姿を思い浮かべながら空を見上げる。と、太陽の眩しさに目を細めたわたしの耳にぱたぱたと何かを叩くような音が入ってきた。
 はんぺんにも聞こえるみたいで、辺りを探るように顔を持ち上げて耳をぴくぴくさせている。なんだろ、と思っているとその音は次第に大きくなり、不意に突風が体に吹きつけた。
「きゃっ!」
 舞い上がった砂埃が目に入り、反射的に目を閉じてしまう。砂埃を涙で洗い流し、目をこすった私はぼやけた視界で辺りを見回した。そしてぽつり、つぶやく。
「うそ……」
 でも、その声は怖いくらいに大きくなっていた何かを叩くような音に阻まれて自分にさえよく聞こえなかった。
 風に暴れる髪を押さえて絶句したわたしの隣で「あらあら」と相変わらずのんびりした声のお母さん。
 気が付けば桜井家は何か大きな鉄砲がついた、たくさんのヘリコプターにとり囲まれていた。


 3

 風に巻かれて洗濯物が飛んでいく。純白のシーツが青空に舞い、お気に入りのTシャツが壁に張り付き、ストライプのパン……って、ちょっと! それはダメ!
 心の中で悲鳴をあげたわたしは自由への逃走をはかろうとする三角形の布に向かってジャンプする。指先がわずかに触れ……そいつは I can fly! と魂の叫び声を残して夏の青空に吸い込まれるように消えていった。
 うぅ……泣きそう。シチュエーションは似ていても、とてもじゃないが我が子の巣立ちを喜ぶ母鳥の気分にはなれなかった。どこか誰も知らない誰もいない場所にひっそりと落ちてくれればいいんだけど。ていうかお願いだからそうして下さい。
 誰かに拾われ、あまつさえあんな事やこんな事に使われでもしたらお嫁に行けなくなってしまう。きっと脂ぎったオジサンに拾われて、出汁なんかとられたりして、素麺のつゆにされたりするんだ。ばいばい、汚れを知らなかったころのわたし。
 一度がっくりと肩を落としたわたしは奥歯をぎりりと噛み締め、乙女の大切な何かを奪い去ったヘリコプターを睨むように見上げた。
 色は真っ黒で、よく見れば大きな鉄砲以外にも穴のたくさん開いた筒とか、小さなロケットみたいなのもついている。とにかくわたしが知ってる、あの事件現場の上とかを飛んでいる丸っこいヘリコプターとは全く違った。
 それにしても何でこんなごてごてしたヘリコプターが我が家に。家庭科の教科書に一般的な家族のモデルケースとして載るような桜井家……とそこまで考えてはんぺんを見やり、あぁ、うん、違うや、と思い直す。
 一般的なのは家族構成だけ。醤油の色と匂いと味がするニトログリセリンだった、うちは。
 そうこうしてるうちに別のヘリコプター(こっちはちょっと丸っこい)からロープが垂らされ、ミリタリーファッションに身を包んだ人たちが庭に下りてくる。彼らは、多分英語で、何事か声をあげながら次々と庭に降り立ち、あっと言う間にはんぺんを取り囲んでしまった。
 やはり彼らも手に大きな鉄砲(マシンガンだっけ?)を持っている。
 その手のオタク……じゃないわよね、やっぱ。
 そういうのが好きな同じクラスの男子を数人思い浮かべてみるが、どうにも違うようだ。単純に見た目体が大きかった。みんな180cm以上あると思う。ヘルメットとゴーグルで顔は隠してるけど多分いい歳した大人なのだろう。
 で、いい歳してこんなことしてるということはつまり、筋金入りか……本物であるわけだ。
 謎の巨大生物(にゃんこ)に銃を向ける軍隊。事態はますます怪獣映画じみてきた。
 もっとも、はんぺんが大きな口を開けて吐き出したのは火炎じゃなくてあくびだったけど。ヘリコプターの音にも慣れたのか、はんぺんはぺたっと地面に寝そべって目の前の兵隊さんをしげしげと眺めている。
 手のひらを頬に当てて「あらあら」と首を傾けるお母さん。腰に手を当てて「大和撫子をなめるんじゃないわよ」と周囲を威嚇するわたし。半分くらいは虚勢だけど。
 すかたんなお姉ちゃんのおかげでトラブルには大分慣れたけど、それでも全く怖くないかと言うと嘘になる。気が付けばわたしはお母さんにぴったり寄り添っていた。
 と、兵隊さんが一人こっちに向かって歩み出てくる。反射的にあとずさってお母さんの腕をつかんでしまったわたしに兵隊さんは立ち止まり、腕を広げて見せた。
 何も持ってないよ、ということなんだろうか。
 手には何も持ってないようだけどそれだけじゃ信用できない。袖口にナイフを隠してたり、腰の後ろに鉄砲があったり、もしかしたらボタン一つで腕が大砲になるかもしれない。とにかくわたしはお母さんの腕にしがみついたまま目の前の兵隊さんを睨み続けた。
 そのまま睨み続けることしばし。兵隊さんは持ち上げていた手を降ろし、何かを考えるように空を見上げた。それから一つ肯いて顔を隠してるゴーグルとヘルメットを脱ぎ出す。
 照りつける夏の日差しの下、わたしとお母さんの前に現れたのは金髪に青い瞳。そして……、
「申しわけナイです。失礼シテござる」
 もの凄く、ある意味でべたべたにけったいな日本語だった。
 はぁ、と溜息のような返事しか出来ないわたしに向かって兵隊さんはにっこりと笑いかけ、
「ハジメマシテ。ワタシ、スティーブ・クレイマーといいマス。あなたは……アヤナですネ?」
「そうです……けど」
 意外なほど人畜無害なその笑顔にたじろいでしまう。兵隊さんなのに。
「ワタシ、アナタのお姉さんの……アヤカの恋人デス」
 ばたばたばたというヘリコプターの音。ただそれだけが鼓膜を叩く。
 約五秒の沈黙を経て言葉の内容を理解したわたしは素直に絶叫した。


 4

「どうぞ」
「スミマセンでござる」
 場所は変わってリビング。コーヒーを出すお母さんに妙に板についた動作で会釈するスティーブさん。聞いたところによるとスティーブさんは二十八歳。今は「デルタフォース」とかいうところで働いてるそうだ。
 三角州の上に立つダースベイダーを何となく想像しつつ、わたしはソファーに座るスティーブさんの横顔を見つめた。美男子というわけではないけど、精悍って単語がよく似合う。そして笑うとすごくいい人そう。とりあえず第一印象は二重丸だった。
 スティーブさんはコーヒーカップを持ち上げると手のひらの上に乗せて二回まわした。そのままカップを傾け、一つ息を吐く。
「ケッコウナお手マエでござる」
「勘違いですから、その作法は。そもそもさっきから言ってるその『ござる』っていうのも……。いや、そこまでべただと逆に嬉しかったりもするんですけど」
 と、スティーブさんが眉間に皺を寄せる。
「デモ、アヤカはこれガ今イチバンCoolな日本語ダト……」
「嘘ですから、それ。完璧に」
 わたしの台詞にスティーブさんは口元を手で覆って、黙り込んでしまった。それからやおらこんな事を言う。
「アヤカの愛情表現にはイツモ驚かされマス」
「……違うし、それも」
 スティーブさんは本当にお姉ちゃんの彼氏なんだろうか。人のいい外人さんをお姉ちゃんがだまくらかしてるだけのような気がしてならない。
「それで、いったいどういう事なんですか」
 スティーブさんに尋ね、庭の方を見やる。庭では相変わらず屈強な兵隊さんたちが鉄砲を抱えてはんぺんを取り囲んでいた。はんぺんははんぺんで仰向けになって宙を前脚でかいている。退屈なんだろう、きっと。
 スティーブさんは一度居ずまいを正すとバツの悪そうな顔をわたしと、それからお母さんに向けた。
「ジツを言うト、すべてワタシのせいなのデス」
 首をひねるわたしにスティーブさんはテーブルの上で指を組むと、ゆっくりと今回我が桜井家に起こった騒動の発端について話し出した。
「ワタシがアヤカと出会ったノハ、今カラ二年くらい前デス。アマゾンのジャングルに向かうアヤカの護衛に付いたのが最初でシタ」
 そんなに前からお姉ちゃんに彼氏がいたことに素直に驚く。ついでに家族に何も言わないお姉ちゃんに呆れる。
 しかしお姉ちゃんに彼氏とは。いや、別にいてもいいんだけど、お姉ちゃんが日本にいる頃は言い寄る男達をどっかんどっかんと撃沈させていった話しか聞かなかったし。
「ホントに驚きマシタ。アヤカはトテモきれいで、ソウ……まさしくササニシキ、デシタ」
「え……?」
「っと、スミマセン。アキタコマチでした」
 それからスティーブさんは顎に手を当てて何やら考え込み、やがて何かに気付いたように顔を上げた。
「コシヒカリ?」
「ヒトメボレ……だと思う」
「オゥ、そうデシタ。日本語ムツカシイデス」
 難しいとか、そういう問題じゃないような気がするんだけど根本的に。
 そんなわたしの胸中の呟きにも気付くことなく、スティーブさんの話は続く。
「ソレデ、運悪ク、いや、ワタシにとっては幸運デシタガ、ワタシとアヤカだけ本隊カラはぐれてしまったんデス」
「おぉ、そこで二人の間に愛が芽生えたわけね」
「ハイ……」
 照れくさそうにスティーブさんが頬をかく。
 予想もしなかった危機的状況。困難を乗り越えていくうちにいつしか二人は惹かれあうように……と、判で押したようなハリウッド映画的展開だけど燃えるものはある。というか、あのお姉ちゃんがよくそんな型にはまったものよね。やっぱりお姉ちゃんも人の子なんだろうか。
「アヤカはホントに優しかっタ。ワタシを気遣って、持っていた薬をスベテワタシに……」
 それってただの人体実験なんじゃ……と反射的に言いかけたが幸せそうなスティーブさんを前に口にすることはできなかった。
「本隊ニ救助されタとき、アヤカは言いまシタ。ワタシ達、いいコンビだと思わナイ? と」
 そこでスティーブさんの表情がさらに緩む。
 そりゃいいコンビだろう。お姉ちゃんにしてみれば自分の作った薬を飲んでジャングルで生き延びた人間なんて初めてだろうし。
 ふと、中学生の頃お姉ちゃんが作った「胸が大きくなる薬」なるものを飲んで(あの頃わたしは追い詰められていた)部屋で踊り狂う紫の妖精さんに三日三晩悩まされたことを思い出す。
 何はともあれ、お姉ちゃんは少々無茶をしても大丈夫なスティーブさんの肉体と精神に惚れたということ……なのか?
 実験動物。
 そんな単語が頭をよぎったけど考えちゃいけない事っぽいので、わたしはすぐさまそれを頭から追い出した。替わりに「……スティーブさん、がんば」と胸の奥で応援しておく。
「で、それとこの状況に何の関係が」
 問うわたしにスティーブさんが長く息を吐く。それから彼は一度お母さんの顔を見やり、少し困ったような、苦い表情を浮かべた。
「ソノ、もう付き合うようにナッテ二年デス。ジツは、アヤカには何度も一度イッショに日本へイコウ、と言われてマシタ。デモ……」
 あぁ、そうか、とふと気付く。もうスティーブさんとお姉ちゃんは結婚するつもりなんだ。それで一度両親に挨拶を、ということなんだろう。わたし達に何も言わなかったのはスティーブさんの口から伝えてもらいたかったからなのかもしれない。
 そういうとこだけ普通なのよね、意外と。
「ワタシには勇気がナカッタ」
 指を組み、スティーブさんがうつむいてしまう。
「そんな、勇気だなんて。スティーブさんみたいな人ならわたしは大歓迎だし、もっと早く来てくれればよかったのに」
 なぜか沈みがちなスティーブさんを励ますように大きな声で言う。それからわたしはお母さんに「ねぇ」と同意を求めた。
 でも、お母さんは「そうね」とは言ってくれなかった。ただいつもの穏やかな表情でスティーブさんを見つめている。表情は穏やかでも無言のプレッシャーを感じるのか、スティーブさんはお母さんと目を合わせることもできないでいた。そういえばさっきからわたしとスティーブさんだけが喋っているような気がする。
 何か重いなぁ、空気。
「あぁ……えぇと、ほらさ! どうせお姉ちゃんがあることないこと言ったんでしょ。日本の女子高生はみんな刀持ってて気に入らない男は斬ってもいい法律がある……と、か」
 リビングに流れるどこまでもわざとらしく明るいわたしの声。それは次第に小さくなっていき、やがて冷風を噴出すエアコンの音と入れ替わった。
 はぁ。うー。
「アリガトウ」
 胸中で溜息をついたわたしに向かってスティーブさんが微笑んだ。
「アヤナ、君は優しいネ」
 そのストレートな物言いについどきりとしてしまう。しょうがないじゃない。男の人にそんなこと言われたの初めてだし。照れくさくなってついスティーブさんから視線を外してしまう。
「ダイジョウブ。ワタシが考えていたイジョウにアヤカの家族はステキな人たちデシタ。問題ハ……ワタシなんデス」
 スティーブさん自身の問題。というかスティーブさん自身が問題。何だろ。実はとんでもない借金を抱えてるとか、バツイチで子供がいるとか。あとは人種の壁とか。でも今時国際結婚なんて珍しくもないし……。
 わたしが首をひねりひねり考えていると、スティーブさんはゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「ワタシは軍人デス。それデ拒絶されるノガ怖カッタ。日本人は、ソノ、軍隊キライみたいダカラ」
 そんなこと、と言おうとしてわたしは反射的に口を閉じてしまった。スティーブさんと出合った時に「兵隊さん」「なのに」「人畜無害」と思ってしまったことを思い出したのだ。
 普段考えてないだけで、やっぱりわたしもにもそういう意識があるんだろうか。スティーブさんみたいに戦争が身近にある国の人から見たら平和ボケしてる日本の女子高生なんてすごく頭悪く見えたりするのかもしれない。そう思うと何か、ただスティーブさんの前にいることすら申し訳なくなってしまった。
「ごめんネ、アヤネ。これはワタシがジブンでえらんだ仕事ダカラ。アヤネがそんなカオする必要ないヨ」
 そう言ってスティーブさんが笑う。そんなスティーブさんをお母さんは相変わらずの表情で見ている。そしてやっぱりなんか空気は重いままだった。むぅ、ここは伝家の宝刀「お姉ちゃんの高校時代の卒アル」を抜くしかないのだろうか。ちなみにこの卒アル、体操服姿のお姉ちゃんが写ってるということで狂信者の間で結構な値がついたという逸品である。これを見ればスティーブさんのテンションもいい感じに上がるかもしれない。妹のわたしが言うのも何だけど、結構ぐっとくるアングルだったし。
 そんなわけでアルバムを取りに行こうとソファーから腰を上げた時だった。外にいた軍人さんの一人がコンコンと窓を叩いてスティーブさんを呼ぶ。あうち。ばっタイミング。
 スティーブさんはちゃんとお母さんとわたしに会釈をして立ち上がった。窓に歩み寄ったスティーブさんが英語でなにやら話し込む。表情から察するに真面目な話みたいだけど。その後ろで真っ白い壁のように寝そべっているはんぺんは真面目とか不真面目とか超越してただもっふりとしていた。
「ごめんなサイ」
 戻ってきたスティーブさんの顔色はあからさまに悪くなっていた。
「どうかしたんですか?」
「エト、ソノ……どうかしまシタが軍事機密なので話せまセン」
 そんな無茶な。
「戦略原潜……北大西洋……浮上……ハッキング」
 穏やかな声が横手から聞こえた。目を向ければ膝の上で手を重ねたお母さんが微笑んでた。わたしにとってはいつものお母さんだけどスティーブさんにとっては何か驚くことがあったみたい。口を少しだけ開けてブルーの瞳でお母さんを見つめている。お母さんって英語できたんだ。
 ところで「せんりゃくげんせん」って何?
 ねぇ、お母さん、と口を開きかけた刹那だった。どばん、というけたたましい音と共にリビングのドア、床、天井が同時に破裂した。実際には違うのかもしれないけどわたしにはそう見えた。それぞれの穴から鉄砲を手にした軍人さんたちがなだれ込んで来る。
 全員が一斉に手にした銃を抱え――、
「だめえええぇぇぇっっっ!」
 気が付いたら声をあげてた。体が動いてた。リビングの真ん中、手を広げて立ちふさがったわたしに数え切れないほどの銃が突きつけられ……全員が静止した。
 十秒くらい、だったと思う。
「ふなぁ〜」
 とうとう足から力が抜けてその場にへたり込んでしまう。びっしょり汗をかいた背中にはTシャツが張り付いていた。そんなわたしの肩をお母さんが優しく撫でてくれる。正直、ちょっとだけ涙出た。
 しかし一体どういうことなのよこれは。周囲をずらりと取り囲む軍人さん達を床にへたりこんだまま見上げる。着ている服を見るに何となくスティーブさんを除いて三つのグループに分かれてるってことは分かった。それぞれが床と天井とドアから突っ込んできたみたい。軍人さんたちはわいのわいのと話しているが英語(多分)なのでさっぱり分からない。空中に字幕でも出してくれればちょっとは読めるんだけど。
 三分くらいはそんな状況だった。やがてそれぞれのグループから代表が一人出てくる。何か囲まれるのも嫌だったし、立ち上がったわたしはお母さんと一緒にスティーブさんの傍に寄った。
 最初にスティーブさんが英語で他の三人に何か言う。三人は互いに顔を見合わせて、それから一緒にわたしの方を見た。
 な、なによ。挑戦なら受けるわよ。
 お母さんに抱きついたまま三人に向かって「しっ、しっ」と左ジャブを繰り出す。
「確かに当事者であるレディの前で内緒話とは紳士のすることではないな」
 急に綺麗な日本語が聞こえた。声の主がヘルメットとゴーグルを外し、現れたのは白人のダンディな髭のおじ様だった。
「少なくともフェアではない」
 別の一人が言ってやっぱりゴーグルとヘルメットを外す。こっちは同じく白人でさっきのおじ様よりは堀が深くて鋭い目つきをしていた。
「申し訳ありません。配慮が足りなかった」
 最後に聞こえたのは完全に完璧な日本語だった。少しだけほっとする。ゴーグルの下の顔もわたしと同じ日本人らしい。少なくともアジアのご近所さんだ。
「ワタシたちが一堂に会する。コレハ異常な事態デス。所属と名前クライは名乗りまショウ。隠しても仕方がナイ」
 スティーブさんの提案に三人は再び顔を見合わせる。やがて納得したのか同時にうなずいた。
「スティーブ・クレイマー、米国デルタフォース所属」
 スティーブさんが言う。
「アーサー・メイフィールド、英国SAS所属」
 髭のおじ様が言う。
「ミハエル・グラドコフ、露国スペツナズ所属」
 目つきの鋭いお兄さんが言う。
「高原響護、日本特殊作戦群所属」
 短髪黒髪のお兄さんが言う。やっぱり日本人だったんだ。
 わたしは四人の顔をあらためて見つめ、それからお母さんの袖をくいくいと引っ張った。
「外人さんなのに日本語上手よねー」
「特殊部隊の隊員は他国に潜入して情報の収集や工作を行うことを主な任務にしているの。だから外国語もある程度はみんな話せるのよ」
「へー、そうなんだ。って、お母さん何でそんなこと知ってるのよ」
 お母さんは「ふふふ」と笑うだけで答えてくれなかった。まぁ、あのお姉ちゃんのお母さんだし今さら驚かないけど。
「それで、誰か現在の状況を説明できる者はいるのか」
 髭のおじ様……アーサーさんが周囲を見回す。
「いるわよ、ここに」
 声は意外な所からした。見ればテレビの電源が勝手に入っている。そしてその四角い画面の中にいたのは――、
「……お姉ちゃん」
 いや、まぁ、聞こえた声から予想はできてたんだけどね。周りにいた軍人さんたちの間から「おぉ……」という何とも言えない声がする。気持ちは分からないでもない。例えテレビサイズでも今日もお姉ちゃんは最高に綺麗だったから。
 伸ばされた黒髪に白衣姿。与えられる情報はそれだけ。後はそれぞれが自分にとって最高の美人を想像すればいい。その究極の女性を鼻歌交じりに越えていくのがお姉ちゃんという存在だった。
「久しぶりね、彩奈。相変わらずかわいくてお姉ちゃん嬉しいわ」
 テレビの中でお姉ちゃんが笑う。
「お姉ちゃんも相変わらずみたいで安心した」
 周りをちらりちらりと見回して苦笑い。
「はんぺんは夏の暑さでちょっとまいってるけどね」
「はんぺん?」
「お姉ちゃんが送ってきた猫よ」
 沈黙。
「ビ、ビーフストロガノフは!?」
「二十六の女がいちいちそんなことで泣きそうな声を出すなっ!」
 声を張り上げるわたしに画面の中でがっくりとうなだれるお姉ちゃん。
「うぅ、三日間寝ないで考えたのにぃ」
「また無駄なことを……」
 腰に手を当ててため息をつく。この性格と十六年付き合ってきたとはいえやっぱ疲れる。
「それで、どういうことなのよお姉ちゃん」
 いい加減話を進めてもらわないと日本の女子高生も暇ではないのだ。そろそろ見逃したドラマの再放送の時間になる。今日は予告でキスシーンとかあった回だから楽しみなのよね。
「どうもこうもないわよ」
 画面の中でむぅーとふくれるお姉ちゃん。これ録画して然るべきルートに流したら夏休みの間豪遊できるんだけど、とか不埒なことを考えながら話を聞く。
「どれもこれもそこにいる根性無しのせいなのよ。話はもう聞いてると思うけど」
 お姉ちゃんとわたし、同時にスティーブさんの顔を見る。スティーブさんは挙動不審のハムスターのようにあちこちを見回してから、結局うな垂れてしまった。
「これだもの」
「まぁ、お姉ちゃんの気持ちも少しだけ分からなくもないけど」
 わたしも一応女だし。やっぱり好きな男の人にはこう、びしっと言ってもらいたいもの。
「でしょ! だってこの人まだ私にちゃんとプロポーズさえしてないのよ!」
 前に置いてあるテーブルをだんっと叩いてお姉ちゃんが身を乗り出す。て、お姉ちゃん胸元映ってるって。そしてその瞬間跳ね上がるテレビの前の人口密度。えぇい、どいつもこいつも。
 お姉ちゃんが椅子に座り直し、テレビ前の人口密集が緩和される。
「だから私はスティーブに試練を与えることにしたの」
 ふと、お姉ちゃんが真面目な顔になる。
「世界に存在する核の全てが私の手中にあることは分かってるわよね」
「はぁ?」
 と声をあげたのはわたしだけだった。スティーブさんを初め、他の三人も渋い顔をしている。
 テレビの画面が四分割されてそこに色んな施設内の映像がザッピングでもするように流されていく。どれも操作パネルの上に数体の蜘蛛みたいな八本足のロボットが乗っている映像だった。画面の端には倒れている人がちらほら。一瞬潜望鏡みたいなのが映った所があったけど潜水艦かな?
 画面が再びお姉ちゃんのバストアップに戻る。
「素敵でしょ、核のネットワーク。これで世界のどこにいても私はキーボードのエンターを押すだけで核ミサイルを発射できる。もちろん全ての核を同時に使うことも」
「本気なの?」
 お姉ちゃんに向かって聞く。平和ボケした日本の女子高生にだって核兵器がどんなものかくらい分かってる。
「本気よ、彩奈」
 お姉ちゃんの答えにうつむき、拳を握る。
「……そんなお姉ちゃん嫌い」
 え、と画面の中でお姉ちゃんが呟く。
「もうクッキーも焼いてあげないし一緒に映画にも買い物にも行かない」
「あの、彩奈?」
「もちろん一緒に寝てもあげない」
「嘘……」
 お姉ちゃんの声はどこか虚ろだった。画面の中でなぜか右を見たり左を見たりしている。
 もう一つ押せば考え直してくれるだろうか。
「もう二度とお風呂も一緒に入らないから」
 言った瞬間お姉ちゃんが固まった。ぴし、という音が聞こえたような気がするのはわたしの幻聴だろうか。
 そこからたっぷり五分、お姉ちゃんはそのままだった。どうしようもないのでこんこんとテレビの画面を叩く。なぜかそれで意識を取り戻すお姉ちゃん。今更疑問に思ってもしょうがないんだけど。テレビの中にいたりしないよね? 割と本気で。
「それでもなお男にはやらねばならん時がある。お父さんがよく言ってたわよね」
「酔うと十秒に一回言うけどね」
「女にもやらねばならん時があることに今気付いたわ。なんて偉大な父の教え」
「……いや、別にいいんだけど」
 呆れ顔のわたしの前、お姉ちゃんがぐっと拳を握る。
「とにかくスティーブ! 私は各地のミサイル発射基地にヒントを残してきたわ。それを手がかりにしてまずは私の所まで来なさい。あなたが私の前に立ったとき、あなたはどんな顔で私に何を言ってくれるのかしら。楽しみにしてる」
「アヤカ……」
「頑張ってスティーブ。愛してる」
 それを最後にぱつん、とテレビの電源が落ちた。あ、そうだ。
「お姉ちゃん?」
「んー?」
 当たり前のように再びつくテレビ。
「はんぺんは今回の件と一体何の関係が」
「それも大事なヒントの一つよ。可愛がってあげて」
「ん、おっけー」
「じゃね」
 そして再び落ちるテレビの電源。何となくテレビの裏を覗き込んでみたけどやっぱりお姉ちゃんはいなかった。
「要するに、だ」
 顔の恐いロシアのお兄さん――ミハエルさんが口を開く。
「核を我らの手に取り戻すには各地の手がかりを元にこの腰抜けをアヤカ・サクライの所へ連れて行き」
「冷たく凍りついた彼女のハートを溶かすような熱いプロポーズを」
 アーサーおじ様がため息混じりに言う。
「桜井彩香さんにぶつけるしかないようですね」
 高原さんも少し疲れたような顔をしていた。
「お手数お掛けしマス」
 スティーブさんはしょぼくれていた。同時にため息をつくスティーブさん以外の三人。ほんとにご苦労様です。いや、わたしも身内のしでかしたことなんで他人事じゃないんだけどね。
「アヤカ・サクライの名はSASでも聞いている。奇襲の類は一切通じないだろう」
「彼女のゲームに乗るしかないわけだ」
 アーサーさんの台詞に肩をすくめるミハエルさん。
「ならば作戦名を決めた方がいいと思いますが」
 高原さんの提案に一同が考え込む。ていうか何人いるのよこの部屋。しかもわたしとお母さん以外は男の人なんて……いやらしい。
「あら、そんなの決まってるじゃない」
 屈強な兵隊さんたちの中心で小さなお母さんがぽんと手を打つ。
「『プロポーズ大作戦』よ」
 数秒の沈黙。そして――、
『てっててーってててって』
 全く同時に同じメロディを口ずさむスティーブさんアーサーさんミハエルさん高原さん。
 ……いいのか、軍隊って。そんなんで。
 まぁ、何はともあれ今ここに世界の命運をかけたプロポーズ大作戦が始動されるのだった。
 夏休みいっぱいまさかこれで終わったりしないよ……ね?

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