妹と弟とシグ・ザウエルP226 2nd
─拳をどうぞ、お嬢さま─

ライン

その1

 通されたのは和室だった。畳の数は数えればいい暇つぶしになるんじゃないかというほどであり、ここからでは十回くらい前回りをしなければ辿り着かないであろう距離にある床の間には何やら立派な掛け軸が掛かっている。ちなみに俺に読めたのはその中の「知」一文字だけだった。残りは蛇とウナギとみみずのトリオ漫才にしか見えない。しかし文字とは情報を伝達するためのツールではないのだろうか。芸術点はさておき、とりあえず誰にでも読めるという点においては習字六級の俺の字の方が字としては偉い様な気がする。というか、偉い。
 文字の本質を忘れた哀れな生き物め。
 と、心中で小市民の理屈をこねくり回して手にしていた湯飲みを黒檀のテーブルに戻す。この場合テーブルというよりも卓と言った方がいいのだろうが。視線を移せば見事な日本庭園。時折聞こえてくる鹿脅しの音が嬉しい。風流とかよりも嬉しい。あまりにもベタで。
 それはもう絵に描いたような「日本の偉い人」が住んでいるお屋敷だった。そしてこの度ウチに仕事を依頼したこの屋敷の主人は絵に描いたような「日本の偉い人」なのである。
 名は朝倉醍醐。旧財閥の流れを汲む右派の大物であり、その影響力は財界はもちろん政界にまで達するという。別に悪いことをしているわけではないのに意味もなく黒幕と呼びたくなるようなそんな人物だ。
 再び湯飲みに口をつけ、見事な細工をされた欄間を見上げる。社長の話では依頼の内容はボディーガードということだった。まぁ、偉い人なんだ。命を狙われたっておかしくないし、実際朝倉醍醐は過去に二度ほど命を狙われている。今現在朝倉醍醐の周辺で何かが蠢いているのなら近いうちに大きなニュースが新聞紙上を賑わせることになるのかもしれない。金と政治のスキャンダルか、それとも……。
 視線を落とし、湯飲みの中を見つめる。
 しかし、正直なところ俺はボディーガードという仕事があまり好きではなかった。理由はただ一つ。拘束時間が長いからである。要するに優菜と優希に会えなくなってしまうのだ。俺が会社の社員として仕事をしている以上、優菜と優希の安全は会社が保障してくれるし面倒も見てくれる。世界最強の託児所だ。が、俺にしてみれば会えないのが単純に寂しいわけで、財布の中の写真だけではやっぱり兄は辛いのである。
 だから俺はボディーガードという仕事があまり好きではなかった。
 と、お茶に映る自分の顔を見ながら唇を歪ませていると廊下に人の気配が生まれた。続いて木の板が軋む音。
「待たせたな」
 居住まいを正し、正座した俺の前に現れたのは和服を着たガマガエル、もとい、朝倉醍醐だった。お付の人間はいない。命を狙われているにしては無用心だ。屋敷の中にいる限り安全だと思っているのだろうか。だとすれば甘い。俺なら……、
 視線をふと外に持っていく。そして一つのビルに目をつけた。
 あそこから狙える。
 俺は無言のまま立ち上がり、開きっぱなしになっていた障子を閉じた。神経質なようだが用心するに越したことはない。朝倉醍醐がウチに仕事を依頼してきたということは、それなりの理由があるのだろうから。
「まだ若いが気はきくようだな」
 卓の前に戻ってきた俺を見ながら、正面に座った朝倉醍醐が笑う。こちらを値踏みするようなその笑みは正直あまり気持ちのいいものではなかった。が、そんなことに対していちいち文句を言うことはできない。裏の世界でも表の世界でもお客様は神様なのである。
「基本ですから。もっとも、できるなら今すぐ窓のない奥の部屋に移ってもらいたいというのが本音ではありますけど」
「それには及ばんよ」
 朝倉醍醐は声までガマガエルのようだった。いわゆる田中角栄声というやつだ。
 ……何が「いわゆる」なのかはさっぱり分からないが。
「ほんのわずかな過信と隙が命を奪うことになってもですか?」
「ならんよ。第一、狙われているのは私ではない」
「は?」
 反射的に身を乗り出し、聞き返してしまった。朝倉醍醐の方も驚いたようで、目をわずかに大きくしている。
「なんだ、聞いとらんのか。相変わらず部下いじめが好きだな、アイツも」
 アイツ、の部分には旧知の間柄に対する親しみが込められていた。社長と朝倉醍醐が個人的に懇意にしているという話は聞いている。過去二度の朝倉醍醐襲撃の際に彼を守ったのが社長であり、それ以来の付き合いだということだ。
 しっかしあのオヤジは……。このプチサプライズに何の意味があるというのだ。どうせなら俺の誕生日に内緒でケーキを用意して「覚えててくれたんだ(はぁと)」とか言わせてほしいものである。それが正しい上司と部下のありかたというものではないだろうか。
 と、俺が現代企業の闇に潜む病巣に対して深く考察していると朝倉醍醐が奥の襖に向かって口を開いた。
「沙耶、入りなさい」
 呼びかけに答える様に襖が音もなく開く。そこに立っていたのは年の頃十六、七の女の子だった。長く伸ばされた黒髪に全開のおでこ。美人というか、整った顔立ちはしているが鋭くきつい印象を受ける。というか俺、睨まれてるような気がするんだが。
 確認するように女の子の顔を見つめ、愛想笑いなどしてみたがあっさり無視されてしまった。どうもこの子は俺に対してあまりいい感情を抱いていないらしい。
 初対面で敵意をむき出しにされるほど酷い見た目でもないと思うけどなぁ。一応スーツも着てるし。
 となれば、彼女は俺の背景に敵意を持っていると考えられる。んー、何か一筋縄ではいかない予感がしてきた。
「私の娘だ。沙耶、こちらへ来て座りなさい」
 が、朝倉醍醐の娘──沙耶は動こうとしない。俺を睨みつけたままその場に突っ立っている。
「沙耶」
「私に護衛など必要ありません」
 大きめに発せられた朝倉醍醐の声にかぶせられた沙耶の声には強さと冷たさがあった。
「しかし実際ここ最近お前の周りでは……」
「必要ありません。大体、こんな精悍さの欠片もない人に護衛など勤まるのですか?」
 どうも俺のことを言われているらしい。朝倉醍醐は沙耶の顔を見つめ、それからこちらに視線を移して困ったように押し黙ってしまった。
 ……フォローしろよ依頼主。なぜ黙る。
 こう見えても彼は世界で五指に入るボディガードだ、と言えとは言わないがせめて、こう見えても彼の作るロールキャベツはそこそこ旨いのだ、くらいは言ってくれてもバチは当たらないような気がする。
 が、そんな期待もむなしく辺りには嫌な沈黙が漂うのみだ。仕方がないので一つ咳払いして俺は自ら口を開いた。
「その、不安は分かりますが依頼を受けた以上俺と、そして会社のスタッフが全力であなたを守ります」
「信じられません」
 一秒で否定された。
「あなたみたいな気の抜けた人が優秀なボディガードだなんて。そもそも、先ほども言ったように私には護衛など必要ありません。身の危険など感じていませんから」
 こちらを突き放すような口調で言って、沙耶が胸の下で腕を組む。わずかな、少し気に掛かる衣擦れの音。
 身の危険など感じていない、か。
 俺は一度沙耶の脇辺りに視線を送り、それから彼女の顔を見やった。沙耶は俺と目が合うと慌てたように視線をそらす。
 ふう、と小さく息を吐いて俺は立ち上がった。父娘の間で見解の相違がかなりあるようだが、会社が朝倉醍醐からの依頼を受け以上俺は朝倉沙耶を守り、脅威の根源を絶たねばならない。
「では、只今からお嬢さんの護衛につきます」
「よろしく頼む」
「ちょっ、勝手に決めないでください!」
 胸の前で拳を握り、沙耶が声を荒げる。そんな彼女を見ながら俺は人差し指でこめかみを掻いた。
「と、言われても決定事項なので」
「あなたが会社に戻って説明すれば済む話じゃないですか!」
「でも会社の決定に逆らうとクビですし」
「情けない」
 俺の顔を見ながら沙耶がこれ見よがしのため息をつく。
「あなたのような人を社畜というのですよ」
「手厳しいですね。でも」
 俺はそこで言葉を切って沙耶の顔を正面から見つめた。
「これで幼い妹と弟を食べさせてますから」
 そして「なはは」と笑う。それ以上沙耶は何も言わず唇を引き結んでしまった。
「あぁ、そういえば」
 とさも思い出したように言う俺。我ながらわざとらしさ全開だ。
「一つだけ俺の裁量で決められることがありました」
「何ですの?」
 イライラを多分に含んだ沙耶の視線を微笑んで受け流し、口を開く。
「護衛対象の行動です」
「聞いてません!」
 またもや拳を握る沙耶。
「言ってませんから」
 笑う俺。
「ということで問題が解決するまで沙耶さんにはウチに来てもらいます」
「冗談じゃありません! どうして私があなたの所なんて!」
 せっかく綺麗なんだから怒らないで笑えばいいのに、と眉を吊り上げる沙耶を見ながら思ったりする。
「日本家屋、個人的には好きなんですが身を守るための箱としてはちょっと心許ないんですよ」
 さすがの俺も弾丸を止める障子はいまだ見たことがない。
「構いませんね?」
 依頼人であり保護者でもある朝倉醍醐に向かって確認を取る。朝倉醍醐は俺の顔を見上げ、顎を撫でてから歯切れ悪く言った。
「しかし、その、年頃の男女が一つ屋根の下というのは……」
 なるほど、日本の黒幕も娘に関しては一人の父親か。
「それは大丈夫です。もう一人女性スタッフが付きますから」
 にこやかな営業スマイルを浮かべて言う俺に、朝倉醍醐も「それならば」と納得してくれた。もっとも、日本の黒幕の娘に手を出すほどの無謀な根性など俺は持ち合わせてないわけだが。我が家の地下にアインシュタイン似の博士が「こんなこともあろうかと」と秘密裏に開発していた何か、核的なアレでもあれば話は別だが、残念ながら我が家の地下には射撃練習場と俺お手製の味噌と漬物しかない。それだけを武器に日本国を相手にするのは少しばかりしんどいだろう。
 いや、味はいいんだけどな、味は。近所の奥様方にもわりと好評だし。最近では師匠にも八十点くらいはもらえるようになった。ちなみに師匠とは近所に住む梅原トメさん八十二歳である。
 まぁ、そんなことはさておき、俺は「じゃ、行きましょうか」と沙耶につとめて明るく声をかけた。
「断ります」
 返ってくる苛立ちを含んだ声と視線。俺は人差し指で頬を掻き、しばし考えた上で沙耶にソフトなタックルをぶちかました。そのまま細い体を肩で抱え上げる。
「ちょっ、何を考えてるんですかあなたは!」
「じゃあ、問題が解決されるまでお嬢さんをお借りしますね」
 肩の上でバタバタと暴れる沙耶をいい感じに無視し、俺は朝倉醍醐に頭を下げた。当然のことながら営業スマイル付きで。朝倉醍醐は「あ、あぁ」と口から声とも音ともつかぬものを漏らしたが、止めないところを見るに一応沙耶を連れ出す許可はくれたらしい。後から社長に電話の一本も入るかもしれないが、それは俺の預かり知らぬこと。俺は俺の役目を果たすのみである。
「離しなさい! これは立派な誘拐です!」
「誘拐に立派をつけるのはどうかと思いますよ。この場合、れっきとした、では」
「誰もあなたに日本語の授業など頼んでいません!」
 顔が映りそうなほどに磨き上げられた板張りの廊下を歩き出した俺に向かって沙耶が声を張り上げる。
「まぁ、まぁ、騙されたと思って。我が家は良いとこ一度はおいで。一般庶民の家庭ってのもいいもんですよ」
「嫌です!」
「さすが生粋のお嬢様。前転が十回くらいできる和室と鹿脅しがないと駄目だとおっしゃる」
「何を言ってるんですか! あなたが嫌なんです!」
「そこはほら、夕日が照らす河原で殴り合ってお互いを認め合うというサプライズイベントも用意してますから安心して下さい」
 あははと笑う俺。ぎりりという沙耶の歯軋り。
「絶対に……絶対にあなたには従いませんから!」
 叩きつけられた沙耶の挑戦状に応えるように、かこんと一つ鹿脅しが鳴った。

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