(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部 1 「やおよろずかみ……のかみ? ざしきわらしはけんぎょうむぶばすえしぶ」  扉に貼られたプレートを胸の内で読み上げ、俺は小さく息を吐いた。  とあるマンションの一室の前、辺りに人の気配はない。眼下の国道を行き来する車の音が初夏の風に乗って流れてくる。汗ばむ首元に手をやり、ネクタイを正した俺はもう一度そのプレートを見つめた。そこに書いてあることを信じるならば座敷童の派遣業務を行っているみたいだが。 「んなアホな」  再び胸中でつぶやいて、首を振る。そして、ふと思う。一番アホなのは求人広告を見て面接を受けに来た俺自身ではなかろうか、と。  俺は大学を出て就職した銀行をつい先日辞めた。上司とちょっとした口論。売り言葉に買い言葉。気がつきゃ机に辞表をバンッだ。でも「中小零細の一つや二つ潰れても構わん。死ぬ気で回収しろ」という上司の言葉がどうしても許せなかった。俺の親父がその潰れても構わんと言われた中小零細の社長だからだ。  ……思い出したら何か腹立ってきた。  そんな訳で銀行を辞めた俺は新たな仕事を探し始めたのだが、そのときに出会ったのがこの「(株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部」の求人広告だった。  はっきり言って死ぬほど怪しい。この広告を見た瞬間、ぼったくり風俗店、自己啓発セミナー、悪徳商法の三つが即頭に浮かんだくらいだ。特にぼったくり風俗店、これがにおう。なんせ仕事の内容が「当社スタッフの送迎」だし。  それでもなお俺がここにいる理由は二つ。給料が割といいのと、何か面白そうだったから。変な会社だったら断ればいいし、やばくても面接に来たくらいで殺されることはないだろう。飲み会での話のネタを一つくらいゲットできるかなと、その程度だ。正直、次の企業を受けるための予行演習くらいにしか考えてない。  果たして鬼が出るか蛇が出るか。  咳払いを一つしてインターホンを押し込む。  くぐもった電子音。そしてしばしの沈黙。やがてドアを開けて出てきたのはパンチパーマにサングラスのお兄さん……ではなく、キャミソールにジーンズ姿の女性だった。俺と同年代くらいでどこか狐っぽい顔をしている。結構、いや、かなりの美人だ。 「あ、あの」  出てきた人物の属性が意外だったので言葉に詰まってしまう。しかしこのまま黙っているわけにもいかない。とりあえず面接を受けに来たことをだけは伝えねば、と口を開きかけたときだった。  女性がいきなり俺の右手をつかんだ。  突然のことに混乱する俺をよそに女性は俺の手をしげしげと見つめている。俺の右手には子供のころできた割と大きな傷があり、それを観察されているようであまりいい気分はしなかった。次第に混乱も収まり、代わりに微かなイライラがふつふつと沸いてくる。  それで「俺の手が何か」と言おうとした時だった。その鼻先を押さえ込むように女性が微笑んだのだ。なぜか、ひどく嬉しそうに。  歯の裏まで出ていた文句は自然と霧散し、焦りさえも胸の中に広がっていく。つまりは、そういう笑顔だった。  酒の席で男がよく口にする「美人にだったら何をされても許せる」という言葉。あれ、半分は嘘だけど半分は本気なんだよなぁ、なんてことをふと考えてしまう。 「面接でしょ。待ってたよ」 「いや、あの」 「ほら、早く」  笑顔のまま女性が言って俺の手を引く。俺は拒否するまもなく部屋の中に引っ張り込まれてしまった。  眼前で揺れる栗色の髪。背後で閉じる鉄の扉。  あぁ、もう、当たって砕けろ……か?  室内は静かだった。他の従業員がいると思って頭を下げる準備をしていたのだが無駄だったようだ。奥の方に事務机が三つ、手前には申し訳程度の応接スペースがしつらえてあった。生活するためのマンションを事務所として使っている、典型的なマンションカンパニーと言ったところか。 「そこに座ってて」  女性がソファーを指差す。 「失礼、します」  とりあえず俺は言われるままソファーに腰掛けた。 「ちょっと待ってて。支部長を呼んでくるから」  支部長さんはいるようだ。まぁ、この時間に面接を指定されたんだから当然と言えば当然なのだが。  支部長さんを呼びに別の部屋に歩いていく女性の後姿を何となく見てしまう。それは実に見事な曲線だった。  うーん、ないすばでぃ。  って、何を考えてるんだ俺は。  頭を振って雑念を追い払う。さっきはネタ一つゲットとか思ってたけどやっぱりそれなりに緊張するものだ、面接ってのは。ふざけた気分で会社前までは来れたが、さすがにここでふざけた態度がとれるほど俺は大物ではない。それにこの世の中、誰がどこでつながってるか分からない。もし次に面接に行った会社の面接官とここの面接官が知り合いだったらどうするよ。  最近ふざけた若僧がきてさー、なんて情報交換されたら完全にアウトだ。断るにしても無難にこなすのが間違いない。  と、 「うわあっ!」  いきなりつぶらな二つの瞳に見つめられた俺は思わずソファーから腰を浮かせてしまった。心臓がバクバクと脈打ち、背中に冷たい汗がにじんでいく。  いつの間に。  ゆっくりと、長く息を吐いて俺はいつの間にかソファーの傍に立っていた女の子を見つめた。気配が全くしなかった。それこそ沸いて出たようだ。  歳は五、六歳くらいだろうか。おかっぱ頭に赤い振袖。それが不思議そうな顔で俺を見ている。何かのお祝い事で着せてもらったんだろうか。雛祭りはとっくに終わったし誕生日か? 「あ、こ、こんにちは」  戸惑いながらも挨拶などしてみる。しかし何でこんな所に子供がいるんだろうか。思い当たる可能性としては社員さんの子供、くらいだけど。  返事は返ってこない。女の子は相変わらず不思議そうな顔で俺を見つめている。  沈黙と沈黙。そして沈黙が流れそこに沈黙が重なる。  うぅ。視線が困る。  耐え切れなくなって視線を外そうとしたときだった。不意に女の子がふっと笑う。 「こんにちは」  赤みの差した柔らかそうな頬に、ついこちらの表情まで緩んでしまった。 「おめかしさんだね」 「へへ……かわいいでしょ」  ころころとした小さな鈴みたいな声で言って、その場で女の子はくるりと回って見せた。綺麗な黒髪と鮮やかな朱色の振袖が併せて揺れる。 「何かお祝い事なの?」 「その子はいつもその姿です」 「だあぁっ!」  いきなり聞こえた声に本日二度目の奇声を発してしまう。気がつけば正面のソファーにスーツを着た恰幅のいい中年男性が座っていた。一体いつ現れたのだろうか。これまた全く気配を感じなかった。そのうえ振袖の少女がいつの間にやらいなくなっている。それこそ、かき消すように。  何か、ちょっと怖いぞ。 「すみません。お待たせしてしまって」  頭を下げる中年男性にとりあえず恐怖心を押し殺した俺は立ち上がる。 「高杉優一郎です。よろしくお願いします」 「ほっほっほっ。まぁそう緊張せずに。どうぞ、腰を降ろして」  頭を下げる俺に面接官であろう中年男性は穏やかな声で言った。 「失礼します」  ソファーに座り、背筋を伸ばす。 「わたくし、こういう者です」  差し出された名刺を両手で受け取り、視線を落とす。 (株)八百万神 座敷童派遣業務部 場末支部 支部長 福神 三十万郎。 「あの、ふくがみ……何とお読みすればいいんでしょうか」 「みとまろ、です」 「変わったお名前ですね」  会話のきっかけをつかむためにそんな話を振ってみる……って、なんで俺は気を使って面接に受かろうとしてるのだろうか。ひやかしで来ただけだってのに。 「ほっほっほっ。そうですかそうですか」  そんな俺の内心を知るはずもなく、福神さんが楽しげに笑う。たださえ細い目が糸のようになってしまった。見る人を安心させるような穏やかな笑顔だ。 「これ、履歴書です」  鞄から取り出した履歴書を福神さんに手渡す。福神さんは履歴書をちらりと見ただけでテーブルの上に置いてしまった。何か不備でもあったんだろうか。緊張する。  いや、だから何で俺は……、 「高杉さん」  名を呼ばれ、思考が途切れる。 「はい」 「あなた、合格」  早っ! 面接短かっ!  絶句する俺をよそに福神さんがどこからともなく取り出した大きなスタンプを俺の履歴書についた。スタンプの下から現れる大きな朱色の「合格」の文字。 「ちょ、いいんですか? 面接らしい面接してませんよ」  さすがに慌てる俺。 「いいんです。これでも人を見る目は確かですから。君はその、実にいい目をしています」 「はぁ」  いや、その、そっちはそれでいいかもしれませんが、こっちにはこっちの事情というものが。 「何か不都合でも?」  人差し指で頬をかく俺に福神さんが言う。そりゃよく考えたらおかしいよな。俺は雇ってもらうために来てるわけだし、喜びこそすれ渋る場面ではないはずだ。微妙にさび付いた脳みそに油を差し、何とか言葉を紡ぎ出す。 「いや……まだ業務内容の説明もして頂いてませんし、いきなり合格を頂いても」 「おぉ、そうでしたそうでした。これは失礼。いい人材に巡り会えたもので興奮してしまって」 「ありがとう……ございます」 「広告は読まれましたよね」 「はい」 「あなたにしていただく仕事は、そこに書いてあった通り我が社スタッフの送迎です。書類の整理などこまごまとした雑用をしていただくこともあるかもしれませんが」  淀みない福神さんの声は穏やかであり、誠実だった。少なくともそこから悪意を感じとることはできない。 「それは分かりました。その、企業としてはどのような業務を?」 「むつかしい質問ですね。私たちはこの日本のどこにでもいて何でもしていますから」 「あの、いわゆる『何でも屋さん』と思っていいんでしょうか」 「そうですね、それでいいかと」  日本のどこにでもいて、か。それにしちゃ八百万神なんて企業名聞いたことないぞ。 「それで、スタッフというのは」 「私だよ」 「うわあっ!」  本日三度目の奇声。  視線の先にはさっきの振袖の女の子がいた。そう、いつの間にやら日本人形のように俺のすぐ隣にちょこんと腰掛けている。当然のように、気配もなく。  おかしい。絶対おかしいって。 「お兄ちゃんは私を連れて色んな所に行くんだよ」  女の子が笑顔で俺の腕にしがみ付く。 「いや、お兄ちゃんて」  いきなりそんなこと言われても困ってしまう。 「だめなの?」  頼むからそんなすがりつくような目で見ないでくれ。  でもこの子たちがスタッフって一体どういうことだ? こんな子供を派遣して何の仕事になるって言うんだ。 「あの、この子たちが何をするんでしょうか」  正面の福神さんに視線を戻す。 「幸せを運びます」  ……もしかして、これは物凄く高度な入社試験なんだろうか。  そう思わずにはいられない。というか、そう思わなければやってられない。 「どうやって……ですか」 「この子たちは座敷童ですから」  福神さんが笑う。背筋を冷たい汗が伝う。  やばいって。これ宗教だよ、絶対。 「すみません。体調がすぐれないもので。失礼させて頂きます」  言って立ち上がろうとする。が、 「だめ!」  腕にぶら下がった重りが俺を放してくれない。「むー」という表情で俺を見上げ、眉をハの字にする女の子。  仕方なく俺はソファーに座りなおし、福神さんの顔を見つめた。  ええぃ。こうなったらいけるところまでいってやる。上手くいけば団体制作のアニメとかレアな物が見られるかもしれない。でもマインドコントロールとサブリミナルには要注意だぞ、俺。 「へへ」  女の子が腕に頬を摺り寄せてくる。何か妙になつかれてしまった。 「信じられないのも無理はありません。それが、あなたが正常な人間であるという証でもありますし。どうでしょう。一度この子の仕事を見られては。百聞は一見に如かずとも言います」 「まぁ、俺も目の前で幸せを運ばれたら信じるしかありませんけど」  口ごもりながらも言う。確かにそれ以上の「信用の材料」はない。 「ではそういうことで……イナ」 「はーい」 「うわあっ!」  やはり気が付けば、そこにいた。あの狐顔の女性。 「何よ、大きな声だして」 「声も出ますよ、そんな現れ方されたら。せめて足音と気配を伴って現れてください」 「嫌よ、めんどくさい」  めんどくさいって。足音と気配を消すほうがよっぽどめんどくさいと思うんだが。 「それでは後はイナが面倒を見ますので。よろしくお願いします、高杉さん」 「あっ、はい。こちらこそ」  頭を下げ、上げる。  福神さんはもう、いなかった。親指と人差し指で目頭を揉み、俺は頭を振る。 「どうしたの?」 「いや、ちょっと恐くなって」 「意外と小心者なのね」 「そういう問題じゃないような気がするんですけど」 「まぁいいわ。まずは自己紹介ね。私はイナ。ここで二番目に偉い存在よ。敬いなさい。でも敬語は許してあげる。堅苦しいの嫌いだから」  狐顔の女性、イナが手を差し出してくる。 「よろしく」  戸惑いながらも俺はイナの手を握った。やはり暖かく、柔らかい。長くすらっとした指はすごくきれいな形をしていた。 「その、それでイナ、何さんなの?」 「へ?」 「だから下の名前だよ。イナって漢字は稲穂のイナでいいの?」 「うーん、下の名前か。考えたこともなかった」  イナが顎に手を当てて天井を見上げる。何かとんでもない事をさらっと言ってないか? 「いいじゃない。イナだけあれば困らないんだし、ね」  いやに軽いな、おい。まぁ本人がいいと言っているのだら良しとしよう。深入りは禁物だ。すでにマインドコントロールが始まっているのかもしれない。まずはこちらの常識を崩壊させることから始めるのがセオリーらしいし。 「で、その子がウチの稼ぎ頭、座敷童の……」  そこでタメを作ったイナはなぜか胸を張った。 「シュールストレミングよ」 「あ、あのっ」  改まった紹介に緊張したのか少女……シュールストレミングがおなかの上で組んだ指をもじもじと動かす。それからちらっと上目遣いに俺を見上げて、 「よろしくお願いします」  ぺこりと頭を下げた。  とりあえず押し黙り、色々と考える俺。そして、あぁ、もうダメかもしれん、と思う。 「なぁ、これって児童虐待だと思うぞ」 「何が」  顔に浮かんだ本気の疑問符が恐ろしい。 「いやな、児童労働だとか座敷童だとか言いたいことは色々とあるんだが、その前になぜ世界一臭い缶詰なんだ?」 「何となく」  事も無げに答えるイナに、俺は黙ったままシュールストレミングの顔を見つめた。世界一臭い缶詰と同じ名を持つ少女ははにかんだような微笑で俺を見上げている。  でも、その笑顔の裏にいくつの涙があるんだろうか。 「辛かったら泣いてもいいんだぞ。無理やり笑うことなんてないんだ」  膝を折って目線の高さを少女と同じにする。手で撫でた黒髪は柔らかく、羽毛のように軽かった。 「傷つくのはいつだって子供だ」  黒く、つぶらな瞳を見つめて眉間に皺を刻む。 「かわいそうに」 「……あなた、私のこと鬼女だと思ってるでしょ」 「違うのか?」  反射的に顔を上げてイナをまじまじと見つめてしまう。 「あのねぇ、私は比喩として鬼でもなければ文字通り鬼でもないの」 「じゃあ何だよ」  尋ねる俺に再びイナが胸を張る。 「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)様の使いよ」 「なにそれ」  沈黙。その合間を縫ってどこからかおっさんの怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら駐車違反で監視員ともめてるらしい。運が悪かったと思って諦めた方がいいかと、名も顔も知らぬどこかのおっさん。 「……まっ、まぁ、あなたたちの間じゃ『お稲荷様』の方が通りがいいかもね」  しばしおっさんに思いを馳せていた俺はイナを見つめ、首を振った。 「辛かったんだな、君も。大丈夫、心の病は決して恥かしい事じゃ……」 「失礼ね! 私は至って正常なの!」 「うん、うん、分かってる。最初はみんなそう言うんだ」 「分かってない! 大体、そこまで言うんだったらあなたがこの子に名前を付けてあげればいいじゃない」 「いいのか?」 「ええ」 「教団の教えに反したりは」 「……しないから」  なぜか非常に疲れた感じでイナが言う。まぁ、名前って言ってもあだ名だしな。本当の名前はちゃんとあるんだろ。  うーん。  顎に手を当てて少女の顔を見つめる。やっぱ日本名だよな、ここは。可愛らしさの中にもこう、一服の清涼感があるような……、  と、じっと見つめていたら恥ずかしくなったのか少女はイナの後ろに隠れてしまった。イナの脚にしがみつき、顔だけ出してこちらを見るその様子につい吹き出してしまう。 「そうだな、鈴音(すずね) 鈴の音だ」  特に何か意味があるわけじゃない。ただ、小さな鈴の音が似合いそうな子だと思った。それだけだ。 「どう?」  腰に手を当てて立ち上がり、首を傾げて訊いてみる。少女はしばらく何かを考えるような表情で俺を見上げていたが、やがて「ありがとう」と笑ってくれた。これでめでたく少女はシュールストレミングあらため鈴音になったわけだ。 「じゃ、さっそく行きましょ」 「はーい」  イナに応えて鈴音が手を上げる。  やれやれ。怪しい社会科見学のはじまりはじまり、か。果たして見学後に俺がもらえるのはあんぱんかメロンパンか、それとも。 2 白く清潔感のある五階建ての病院前。周囲の植え込みが青々と茂っている。駐車場に会社の車である白のセダンを停めた俺は運転席から降りて目の前の建物を見上げた。イナに言われるまま車を走らせ、到着したのがこの市立病院だった。俺も何度かお世話になったことがある。  白い外壁が照り返す日光が目に痛い。ドアを閉めたところで鈴音がぱたぱたと寄ってきた。 「おててつないで、お兄ちゃん」 「あー、はいはい」  車のキーを上着のポケットに突っ込み、手に小さな紅葉を握る。その温かく柔らかい感触につい口許が緩んでしまった。 「お父さんっ」 「うるせぇ」  からかうイナに照れながら反抗する。 「で、ここで何をするんだ?」 「それは見てのお楽しみということで」  と、イナがいきなり自分の胸元に手を入れた。少しだけ見えた胸の谷間に素で焦る俺。別に純情ぶってるわけじゃないが、こんな所でそんなことをされると、つい辺りを見回してしまう。妙に恥かしい。この恥かしさが快感に変わるとき立派な野外プレイマニアが誕生するのかもしれない。 「おっ、おい」 「あったあった」  俺の微妙な男心などどこ吹く風、イナは実にあっけらかんとしていた。  見ないでよ……ばか。くらい言ってみろってんだ。ていうかむしろ言え。何なら俺が言ってやろうか。 「はい」  笑顔と共にイナが差し出したのは一枚の葉っぱだった。ちょっと虫が食っている。 「は?」  俺の頭上に浮かんだ巨大な疑問符などどこ吹く風、イナが俺の胸ポケットに葉っぱを押し込む。 「これでよし」  いや、何が。 「あのさ」 「ん?」 「オヤツに葉っぱを齧る習慣は俺にはないんだけど」 「私にだってないわよっ!」  え……。じゃあこれは一体何のために。  はっ。 「大丈夫、心の病は決して恥かしいことじゃ……」 「それはもういいっ!」  叫ぶイナを前に押し黙る。考えることしばし、思い当たった。 「電波を……」 「もう、何でもいいからとにかく黙って大人しく素直にその葉っぱを持ってなさい!」  結構な勢いで踵を返してイナが入り口に向かって歩き出す。 「いこ、お兄ちゃん」  鈴音に手を引かれ、俺はイナの後を追い始める。  やーれ、やれ。深みにはまり始めたかな、ちょっと。 「おてぇて、つないでー、のみちーをゆけぇばー」  リズムに併せて前後に揺れる腕。上機嫌な歌声が看護婦や入院患者の行き来する廊下に響く。  ここは野道ではなくて病院の廊下です、と大人気ないツッコミを入れられるほど俺は勇気ある人ではない。だがそれ以前に、 「ストップ。病院では静かにな」 「あら、大丈夫よ」  前を歩いていたイナが不意に振り返る。 「何で?」 「この子の声は私たち以外には聞こえてないもの。それ以前に姿すら見えてないし」  俺は無言で鈴音の顔を見つめた。 「へへ」  とても楽しそうな笑みが返ってくる。続けて俺は無言でイナの顔を見つめた。 「ちなみに私とあなたの姿も見えてないから」  わけの分からないことを言うイナ。しばし考え、言葉を選んでから言う。 「一緒に森へ帰ろう。な?」 「まったくどうしてほんとにあなたって人は!」  酷い頭痛でも抱えたような表情になってイナが首を小さく振る。それから彼女は鈴音に視線を落とした。応えるように鈴音がぱっとつないでいた手を離す。 「回れー右!」  いきなりイナに肩をつかまれた俺は、病院の白い壁と向き合わされてしまった。 「発射!」 「え?」  押される感覚。  我ながら間の抜けた声だ、と思ったときには視界は白一色、壁だけだった。  反射的に目を閉じて手を前に突き出す。が、いつまで経っても衝撃が訪れない。おかしい。そろそろ壁に激突して鼻血の一つも吹いた挙句イナに「出るとこ出るぞこら!」と叫んでいてももいい頃なんだが。  とりあえず目でも開けてみるか?  一度喉を鳴らして唾を飲み込み、ゆっくりと目を開く。  それ程広くはない個室。多くの機材に囲まれた女性がベッドに横たわっていた。ベッドの傍には青年が座り、じっと女性の顔を見つめている。  俺の目が腐ってなければ、ここは病室である。壁に向かって突き飛ばされた俺が病室にいる。規則的に聞こえてくるピッ、ピッという電子音を聞きながら俺は一度目を閉じて頭を振った。それでも間違いない。ここは病室だ。 「信じてもらえたかしら」  壁から湧き出るように現れたイナが俺を見て笑う。視線をやや落とせば鈴音が同じように壁から湧き出てきた。変わらぬ二人の笑顔がローギアから一気にトップギアに入ろうとした俺の心臓を静めてくれる。  俺は顔を上げてイナを見つめた。 「夢じゃないわよ」  続けて鈴音の顔を見る。鈴音も俺の顔を見ている。さらに鈴音の顔を見つめる。 「あうぅ」  ふ、照れよって。  それはさておき。 「とりあえず二人は普通じゃないと仮定する」 「まだ『仮定』なの?」 「るさい。人間には薄皮一枚の理性で認めてはならんものがあるんだ」 「無駄な足掻きを」  ダメねぇ、と言わんばかりわざとらしく肩をすくめるイナ。俺は唇を一度ひん曲げてから鈴音の前で膝を折った。 「俺、鈴音を普通じゃないって言ったけど、それは個性であって決して悪いことじゃないんだ。それは忘れないで欲しい。でも……」  言葉を切って鈴音の頭に手を置く。 「あっちのお姉ちゃんはただの変態だからそれも忘れないで欲しい」 「うあ、むかつく。人間のクセに」 「それだ」  俺はイナの顔を見ながら立ち上がった。 「俺は人間だぞ。何で壁を抜けられるんだ?」  と、イナが黙って俺の胸ポケットを指さす。  そこにあるのは一枚の葉っぱ。先ほどイナにとにかく黙って持ってろと言われたものだ。 「それに私のありがたーい力を込めてあなたに分けてあげたの」 「ありがたい? うさんくさーい、の間違いじゃないのか」 「あなたねぇ、本気でバチ当たるわよ。私の力はご主人様に与えて頂いたものなんだから。それを胡散臭いだなんて」 「ご主人様ってアレだろ、確か……農家の味方のタンバリン」 「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)よ!」 「たんばりーん」  万歳するように両手を持ち上げて鈴音が飛び跳ねる。無邪気に無意味に楽しそうだ。 「たんばんりん、ってなぁに?」  汚れなど一ミクロンも感じさせない瞳で見上げられ、俺は人差し指で頬をかいた。それから手でわっかを作り、 「……えーっとな、こういう薄い太鼓みたいなやつで」 「へー」 「ちょっと、人のご主人様をタンバリン呼ばわりしたことについては一言もなしなの?」 「おう」 「胸を張らないでほしいんだけど」  自信を持って答えた俺に対し、腰に手を当てたイナが大きく息を吐く。 「とにかく、これから鈴音に頑張ってもらうから、目の前で起こることをちゃんと受け止めるように」  問題児を前にした先生のような顔で言って、イナはベッドの方に向き直った。  俺も視線をそちらへ向ける。 「何が見える?」 「多分昏睡状態であろう女性と、それを見つめている男」 「よくできました」 「バカにしてるだろ」 「ええ」 「即答か、コラ」 「それはさておき」  うめく俺をあっさり無視してイナは僅かに目を伏せた。 「ベッドで眠っているのは今井綾香、二十三歳。二年前、交通事故に遭って以来ずっとこの状態が続いてるわ。男性も同じく二十三歳。名前は宮本祐介、彼女の婚約者よ」  胸の下で腕を組み、イナが一度唇を結ぶ。 「二人は同じ施設で育ち、恋をした。ささやかでもいい、幸せな家庭をつくろう、それが二人の合言葉だったみたい。アパートの小さな部屋でささやかなパーティーをして、彼は彼女に指輪を渡した。でも、その翌日」 「事故が起こった」  イナの台詞を継ぐ。 「ええ、犯人はいまだに捕まってないわ。でも、それ以上に深刻な問題があるの」 「治療費、か」  イナが黙って肯く。  俺は宮本祐介の顔を見つめた。疲労の色が濃い。目を細めている理由は婚約者を前にしているから、だけじゃないはずだ。  眠気。明らかに睡眠が足りていない顔をしている。  婚約者の治療費を稼ぐためにかなり無理をしてるんじゃないだろうか。 「何か、きつい話だな」  眠る恋人を前に丸められた背中を見ながら呟く。 「別に彼らが世間様に対して何かしたわけじゃないんだろ? 不公平っていうか不条理っていうか」 「そうね。でも、あなただけがそう思ってるわけじゃないの。神様も同じよ」  俺は眉根を寄せてイナの顔を見つめた。 「詳しいことは後で話すから。今は少し、見てて」  そう言われてしまえば仕方がない。俺は黙って一歩下がった。それと入れ替わるようにして鈴音がベッドに歩み寄る。  座敷童。  この子が住み着いた家は栄え、この子がいなくなるとその家は没落するという、幸せを運ぶ存在。  唇が乾いた。鈴音は目を閉じ、うつむいている。汗ばむ肌。室温が少し上がったのだろうか。   緊張感に生唾を飲み込む。その時だった。かざされた鈴音の手に淡く温かい光が灯り、優しくはじける。  細かい光の砂がベッドの上、眠っている今井綾香に降り注いだ。粉雪のようにゆっくりと舞った光の砂は白いシーツの上に一度積もり、今井綾香の中に吸い込まれるようにして消えていく。  手に残った光の砂をぱんぱんとはたいて鈴音が振り向いた。その顔に大きく「達成感」の三文字を書き付けて。 「だいせいこー。もうだいじょうぶだよ」 「お疲れ様。偉い偉い」  膝を折ったイナが鈴音のおかっぱ頭をくりくりと撫でる。目を細める鈴音は気持ちがいい時の猫みたいだ。 「……あのさ」  問おうとした俺の声を遮り、イナが立てた人差し指を唇に当てる。押し黙った俺の視界の端で今井綾香の身体がわずかに動いた。反射的に目を見開いてベッドを凝視する。  宮本祐介の身体がびくりと震え、頭が跳ね上がる。 「あ……」  か細くはあるが確かに聞こえる意思を持った声。 「綾香……綾香!」  混乱と喜びを含んだ恋人の声に今井綾香の目がうっすらと開く。 「分かるか? 俺だよ、祐介」 「祐介……さん?」 「あぁ、うん。そうだ。待ってろよ、先生呼んでくるから」 「あ……うん」  今井綾香の返事を受け、椅子を蹴り倒すような勢いで立ち上がった宮本祐介は病室から駆け出していった。  派手に開け放たれ、ゆっくり閉じていく扉を見ながら俺は拳を握る。  マジかよ。  二年間、意識不明だったんだよな。  鈴音が手をかざして、光がはじけて。  偶然? ……にしては都合がよすぎる、か。 「信じなきゃ、ダメなのか?」  汗ばんだ拳を開く。 「信じて」  今までとは違う、その穏やかなイナの声につい沈黙してしまう。俺を見つめる栗色の瞳は胸が高鳴るほど深い色をしていた。  大きく息を吸い込んだ俺はそれをゆっくりと吐き出し、一度自分のつま先を見つめてから顔を上げた。 「イナは神様の使いで」 「うん」 「鈴音は幸せを運ぶ座敷童」 「そうだよ」  二人の笑顔から邪気は感じない。こちらを騙そうとしてるわけではないらしいが……。 「やっぱり信じなきゃダメなのか?」 「ダメ!」  イナと鈴音の声が見事に重なる。  俺は何となく天井を見上げて、頭を落とした。それからベッドにいる今井綾香に目をやる。  そう、だな。何より目の前で見せられちまったし。 「信じるよ」 「あは。偉い偉い」 「撫でるなって」  頭の上のイナの手をぺしっとはたく。 「どうも新興宗教とかじゃないみたいだし、信じても自我は保てそうだから」 「新興なんて」  イナが人差し指を立てた。 「私たちは一番の古株だもの。だから安心して信じてちょうだい」 「信じて信じて」  鈴音が振袖を揺らしてぴょんぴょんと跳ねる。 「あぁ、信じるよ」  こちらを見上げるどこかふわふわとした少女。その頭の上に手を置く。  へへ、と笑う鈴音。俺も釣られて笑ってしまう。  その時ざわめきと複数の足音が近付いてきた。宮本祐介が先生たちを連れて戻ってきたようだ。 「私たちはそろそろおいとましましょ。今日中に行かなきゃならない所がまだまだあるんだから」  軽いステップで振り返り、壁に向かって歩き出すイナ。 「おててつなご?」  差し出された小さな手を握り、俺もイナの後を追った。  が、ふと立ち止まり肩越しにベッドを見やる。  こちらを見つめる今井綾香と目が合った。いや、多分気のせいだ。相手に俺の姿は見えてないんだから。 「お幸せに」  呟くように言う。と、今井綾香の目が大きく開かれた。  反射的に、え、と口を半開きにしてしまう。 「なっ、なぁ。俺たちの姿は見えてないんだよな?」  慌てて鈴音に視線を送る。鈴音は少しだけ困ったような顔をして、 「えとね、力を使ったあとだとときどき見えちゃうの」  沈黙の中、病室に近づいてくるざわめきが大きくなっていく。 「ども、失礼しましたー」  とりあえず愛想笑いなど浮べつつ、俺は鈴音の手を引いて壁に突っ込んだ。幼女を連れたスーツ姿の男の霊がでるなんて噂がたたなきゃいいんだけど。 3 その後も鈴音は何人もの人たちを幸せにしていった。  ある少年は幸運にも意中の少女と声を交わす機会を得、またある女性は無くした大切な指輪を幸運にも見つけた。あの中年男性は幸運にも事故を回避できた事に気付いているだろうか?  幸運。  鈴音と俺があだ名を付けた座敷童によって演出された幸運。  それはいい。  鈴音は座敷童なんだ。幸運くらい演出できるだろうし、実際してみせた。  でもちょっと待ってくれ。  座敷童ってのは家に住み着くものであって、こんな「幸せ宅配便」みたいなことはしなかったはずだ。  それともそれは俺の勝手なイメージで、座敷童にとっては当然のことなんだろうか?  そもそもなぜ座敷童は人間を幸せにするんだろうか。人間を幸せにしたところで何の見返りもない。  家に住み着いて、雨風をしのがせてもらう礼としてその家に幸福をもたらす?  というか、座敷童に雨風をしのぐ必要があるんだろうか。  いや、座敷童なんか雨に濡れてればいいんだよ、とかそういうことじゃなくて、そもそも雨に濡れるのかとかその次元の話であって……、 「ブレーキ!」 「え?」  唐突に鼓膜を打ったイナの声に右足が反射的にブレーキを踏んだ。  全員仲良く前につんのめる。車間距離は、たぶん拳ひとつ分くらいしか残ってないだろう。 「ふぃー」  息を吐いて冷や汗のにじんだ額に手をやる。全身の毛穴が開いたような気がした。  こちらに向けられた視線ががすがす刺さる。特にイナのは鋭かった。かなりの業物だ。俺は助手席のイナと後部座席から身を乗り出している鈴音の顔を一度ずつ見てから、かくんと頭を下げた。 「ごめん」 「しっかりしてよね。これがあなたのお仕事なんだから」 「以後気をつけます」  前の車が動き出したのを見てギアを一速へ。ゆっくりクラッチをつなぐ。 「死ぬのはあなただけなんだから……あ、問題ないじゃない」 「ないことあるか!」  夕日に赤く染まる車内でイナに向かって叫ぶ。 「あら、だいじょぶよ。死んでも私たちの仲間になるだけだから」 「俺にはまだこの世でやりたいことがあるの」 「ふーん。何?」 「……近所の定食屋のメニュー制覇」 「小さっ」 「るせぇ。とりあえずだよ、とりあえず。まだまだ後には大物が控えてんだよ。四天王だって最初に出てくるのは一番弱いヤツで、後ほど強いだろ」 「いや、よく分からないんだけど」 「そういうもんなんだ」 「でも、最初が『近所の定食屋のメニュー制覇』だったら最後までいっても『いつかはスポーツカーに乗りたい』くらいしか出てこないような気がするんだけど」  イナの浅慮な台詞に俺は、ふっ、と口元を緩めた。 「心配するな。四天王の後には五人衆とか十二神将とか際限なく出てくるから」 「あ、そう」  返ってきたのは心底どうでもよさそうな返事だった。 「で、何考えてたの?」 「何、って?」 「あなたねぇ、それでさっきぶつかりそうになったんでしょ」 「あぁ、うん」  先ほどまで考えていたことをまとめるためにステアリングを人差し指で叩いて間を取る。 「何で二人がこんな事してるのかなって」 「こんな事?」 「幸せ宅配便」  言いながらギアを三速から二速に落とす。やっぱりこんな時間に国道を走るもんじゃない。予想通りの帰宅ラッシュだ。 「座敷童ってのはどこかの家に住み着くものじゃなかったっけ?」  言いながらルームミラーでらちらりと鈴音の顔を見る。 「今でもそうだよ」  身を乗り出している鈴音の声はすぐ耳元でした。鼓膜が妙にくすぐったい。 「でもね、わたしは違うの」 「どんな風に?」 「えーっとね」  尋ねる俺にルームミラーの中の鈴音は立てた人差し指を顎に当てて、 「うんとね」  それからちょっと首をひねって上を見上げて、 「違うの」 「……そっか。違うのか」  うんうんと肯きながら俺はイナの顔に視線をやった。俺の意を汲み取ってくれたのかイナが口を開く。 「この子は神様から命じられてこんなことをやってるの。もちろん私もね」 「それじゃ何か、神様に『そこの二人、ちょっと人間幸せにしてきて』とか言われたのか?」 「そんなところかしら」  相変わらずではあるがイナはあっけらかんと答える。母親に頼まれて近所のスーパーに醤油を買いに行くのと同じような口調。 「あなた、昼間病院で不公平だとか不条理だとか言ってたじゃない」 「あぁ、そういや神様も同じとかなんとか」 「人間ってね、生れた時から一生のうちにつかめる幸せの量が決まってるの」 「……マジかよ」 「ええ、それも神様にさえ分からない偶然性によってね」 「神様よりすごい誰かがどこかでサイコロ振ってるってことか」 「そうね」 「それじゃなにか、幸せになれない奴はどんなに努力してもダメってことなのか?」  イナが黙って肯く。 「何か、イヤな話だな」  小さく息を吐く。  俺だって努力は必ず報われる、なんて思っちゃいない。でも、いつか報われると信じて努力する事を心底バカにしているわけでもなかった。可能性は信じたい。でなきゃやっぱり、辛いし。 「だから私たちみたいなのがいるわけ。生まれつき三しか幸せをつかめない人が、死ぬまでにそのうちの一しかつかめなかったんじゃ悲惨だもの」 「じゃあ、生まれつき十の幸せをつかめる人が死ぬまでに一しかつかめなかったら?」 「それは本人のせい。しかるべきところで努力を怠った結果よ」 「まぁ、な」  確かにそれだけチャンスが多いということだけど……。 「生まれつき5の人が死ぬまでに1だったらどうなるんだ?」 「それは……微妙」 「微妙、って」 「だからそれを判定して、私たちの行き先を決めるのが福神さんの仕事なの」  福神さんの温和な笑顔を思い出す。八百万神、座敷童派遣業務課、場末支部の支部長。 「なぁ、福神さんって福の神なの?」 「そうよ」  さらっと言われた。  まぁ、福神と福の神、分かりやすいだけマシかもしれない。俺も今さら驚かなかった。 「何で神様は人間を幸せにしてくれるんだ?」 「突然ね」 「だってそうだろ、何の見返りもないのに」 「あら、人間の幸せが神様の幸せだもの」 「嘘くさ」 「あなたねぇ……まぁ、でも何の打算もないわけじゃないんだけどね」  イナが一つ息を吐く。 「あなたの言葉を借りれば、カミサマよりすごい誰かがどこかでサイコロ振ってる。その『誰か』を私たちは知ろうとしてるの。そのために人間を幸せにしながら、人間の幸せについて調べてるってわけ。視点が一方的にならないように人間を交えて、ね」  イナの説明にふぅん、と一つ息を吐く。それが俺の雇われた本当の理由だろう。本社スタッフの送迎は建前ってわけだ。ただ、神様よりすごい存在なんて正直想像力さえ及ばない範囲だった。 「よく分かんないけど神様も大変なんだな」 「興味なさそうね」 「興味がないっていうより実感が沸かない。正直、神様の調べものより一ヵ月後にちゃんと給料が支払われるかの方が俺にとって大事だし」 「小市民」 「何とでも言え。人間はメシ食わなきゃ死ぬんだよ」 「そっか。あ……だったらご飯作ってあげよっか」  こちらを見ながらイナがぽんと手を叩く。 「はぁ?」 「なによ、その反応は」 「いや……確かに最近温もりを感じられる食事はしてないけど」  今の俺はいいかげん飽きてきたカップラーメンから冷凍食品への移行期にあった。手料理を、それもこんなに綺麗な人が作ってくれる手料理を食べられるというのは幸運なことではあるのだろうが……、 「できるの? 料理」  俺は疑惑の表情をイナに向けてしまった。 「どういう意味よ」 「なんか、その、いかにも今どきだし」  たぶん髪の毛が茶色、というか狐色のせいだと思うが、どうにも料理が得意な様には見えないのだ。夏はボディボード、冬はスノボ。クラブなんかもたまに行くかな、なんて自己紹介が似合いそうな風貌とでも言えばいいのだろうか。俺のものすごい偏見なんだろうけど。  そんなイナを試すように、言ってみる。 「お米ってさ、洗剤使わなくてもきれいになるんだぞ」 「うそっ!」  車内に響く驚きの声。そして沈黙。夕日が目にしみる。  あぁ、やっぱりか。まったく最近の若いもんは。フェミニストに何と言われようが家庭的な女の子を愛する会名誉会長代理補佐として慨嘆のため息をつこうとした時だった。助手席のイナが小さく鼻で笑う。 「……なんて言うとでも思ったの?」  イナの顔には実に挑戦的な微笑が浮かんでいた。 「あのねぇ、これは世を忍ぶ仮の姿で、私はあなたよりもずーっと、ずーっと長生きしてるの。薪とかまどとお釜でご飯を炊いた事だってあるんだから。電気炊飯器なんて寝てても使えるわよ」 「失礼しました」  素直に謝る。確かに考えてみればこの世で一番日本的な「神様」の使いだもんなぁ。どうやら俺の方が未熟だったらしい。 「じゃあさ、洗濯板とか使ったりもした?」 「もちろん。特に冬場はつらいのよ。今みたいに蛇口をひねればお湯が出る時代でもないし」  と、イナはどこかババくさいことを自慢げに語ってくれた。 「でも、なんで神様の使いがそんなに人間くさいんだ? ご飯とか洗濯とか」 「長く生きてると色んなことがあるのよ。神様に関わった人間のお世話をするのが私の役目でもあるしね」  イナが破顔する。 「というわけで、あなたのアパートに行きましょ。会社には寄らなくていいから」 「お兄ちゃんのおうちに行くの?」  鈴音が後部座席からぴょこんと顔を出す。 「そうよ。一緒にご飯食べましょ」 「ねぇねぇ、畳はある?」 「どうして?」 「そのほうが落ち着くの」  尋ねる俺に鈴音が満面の笑みで答える。  そっか、座敷童だもんなぁ。  でも……、 「ごめん、俺んちフローリングなんだ」 「ふろーりんぐ、ってなぁに?」  鈴音が後ろから袖を引っ張る。 「えっと……板の間、かな」 「わたしは好きだよ、板の間。つめたくてきもちいの」 「ごめん、上に絨毯敷いてる」 「むう」  困ったように、何かを考えるように腕を組む鈴音。  あぁ、俺の大馬鹿野郎。とりあえず帰ったら絨毯を引っぺがすこと。まずそこから始めよう。時期的にも丁度いいしな。  そんなことを考えながら、俺はアクセルを踏み込んだ。 4 「ふつー」 「んだよ、その反応は」 「だって、ねぇ」  イナが俺の住むアパートを見上げてため息をつく。二階建てのごく一般的な物件。 「物凄くキレイだとか物凄くボロだとかいうんならまだしも、これじゃリアクションにも困るってものよ」 「るさい。勝手に困れ」  一言残して俺は自分の部屋のドアへと歩き出した。大体なんでリアクションに困らねばならんのだ。芸人か、君は。  ちなみに俺の部屋は一階の一番端だ。階段からは一番遠い側だし、上の住人も生きてるのか死んでるのか分からないほど静かなので環境は悪くない。 「さてと」  俺はドアの前で立ち止まり、振り向いた。後ろからついて来たイナ、鈴音と向き合う。それぞれの顔に浮かぶ二つの疑問符。 「五分くれ」 「イヤ」  即答だった。 「一体何の権利があってそんなに偉そうなんだ?」 「あら、私は一応あなたの上司よ」  食材の詰まったビニール袋を後ろ手に、イナがふふんと胸を張る。 「忘れたてよ。こんないいかげんな上司初めてだし」 「失礼ね。これでも新人の教育には定評があるんだから」 「調教の間違いだろ」 「してあげよっか?」  小声で言ったのに見るものを幸せにしない笑顔で詰め寄られてしまった。 「いや、できれば次の機会にでも」  目をそらしてしまう根性無しの俺。 「……ったく、どうせ部屋が汚いとかその程度のことでしょ」 「方向性としては間違ってない」 「いいわよ、それくらい。気にしにないから」 「俺が気にするんだ」 「なんで?」 「いいからとにかく少しだけ待っててくれ」  言いながら鍵を開けた俺は扉を開き、部屋に滑り込んだ。  使い慣れた自分の部屋。  今日一日がとんでもなかったこともあり、妙に落ち着く。鼻腔に抜ける嗅ぎ慣れた匂いはどんなお香よりも心を静めてくれる。最高のアロマテラピーだ。  やれやれ。今日も一日頑張った……と、まったりしてる場合じゃない。  俺は床に散らばった私物を手当たり次第押入れに投げ込んでいった。正直、少々散らかっているくらいなら俺も気にしない。  問題は、その私物の中に女子供の見てはならんものが含まれていることだ。  あぁ、俺は堕落してしまった。  実家にいる頃はブツの隠し場所にあれほど神経を使ったというのに。  今では机の上に、床の上に何の偽装もなく放り投げられている。  昔の俺は野獣の目と牙を持っていた。母親との心理戦。リスクの分散は常に怠らなかった。なのに……。  今の俺は抜け殻だ。 「老いたな」 「ねぇねぇ、なんでこのお姉ちゃん裸なの?」 「だあぁっ!」  いきなりの鈴音の声に驚きつつも、その小さな手から雑誌をもぎ取る。 「ふっ、風呂!」 「え」 「今からお風呂入るの!」 「へぇー」  勘弁してくれ、そんな純粋な眼差しは。お兄ちゃんには眩しすぎるよ。  ヨゴレになってしまった自分を嘆きつつ俺は押入れに雑誌を放り込んだ。 「あは、カッコ悪ぅ」 「だから五分でいいから待っててくれって言ったのに」  押入れの戸をきっちりと閉めて、肩を落とす。イナの言う通りさすがに少しばかりカッコ悪かった。 「今度からは気を抜かないことね。備えあれば憂い無し、よ」  どこか勝ち誇ったような表情で言ってイナが台所に向かう。手痛い教訓、高い授業料だった。しかし雑草とは踏まれて強くなるもの。更なる成長を遠く、宇宙の果てで輝く俺の星に誓い青年は深く頷くのだった。 「ねぇ、お塩はどこ?」  台所からひょいと身体を覗かせたイナはいつの間にかエプロンを着けていた。 「あ、その、上の右端の開きの中。調味料は全部そこだから」 「ん、了解」 「あのさ、あれ。包丁、気を付けてな、指。あんまり切れないから」 「うん、気をつけるね」  我ながら無茶苦茶な日本語だが、イナには俺の言いたい事が分かったらしい。  一つ微笑んで彼女は台所に戻り、料理を再開する。  俺は台所の方を見ながら、気が付けば手に汗をかいていた。  身体が温かい。  イナのエプロン姿。素直に「いいなぁ」と思った。無理してるわけでもなく、変にこなれてるわけでもない。実に自然な感じがした。  もっとも、俺の勝手な主観だけど。 「お兄ちゃん」  くいくいと袖を引っ張られる感覚。 「どうしたの?」 「あぁ、いや、ちょっとぼーっとしちゃっただけ」  少し慌てながら上着を脱ぎ、ネクタイをはずす。さすがに「イナのエプロン姿にグッときてた」とは言えない。  上着とネクタイをクローゼットのハンガーにかけ、俺はベッドに腰を下ろした。  大きく、長く息を吐き出す。  俺のこれまでの人生の中で、今日が間違いなく最もとんでもない一日だった。  でも、ふと思う。  結構冷静だよな、俺。  今、この部屋には三人いる。が、実際に「人」なのは俺だけで、残りの二人はなんという単位で数えたらいいのかすら分からない存在だ。それでも俺は落ち着いていた。むしろ賑やかになって嬉しい、くらいに思っている。相手に敵意がないんだから、こっちも気を張る必要がないってだけなんだろうけど。 「おとなり、座っていい?」 「もちろん」  こちらを見上げる鈴音に向かって少し大仰に手を広げて自分の隣を指し示す。  はにかんだ鈴音が俺の隣にちょこんと腰掛けた。  まっ、こんな子を恐がる方がどうかしてるよな。 「わたしね、ベッドに上がるの初めてなの」  言いながらベッドに転がる鈴音。 「おふとんもいいけどベッドもいいね」 「布団で寝たりすること、あるの?」  訊きながら俺も鈴音の隣に転がった。 「たまーに」 「たまーに、か」  台所からは包丁がまな板を叩く軽妙な音が聞こえてくる。  待てよ……。 「ご飯は普通に食べるんだ」 「へ?」 「ええと、食べ物から栄養を取って身体を維持する……ちょっと難しいな」  もう少し分かりやすい言い回しはないものか。 「ご飯を食べると元気になる、とか」 「うーん」 「分かんないか」 「うん……ごめんね」 「いいよ。変なこと訊いてごめんな」  謝りながら小さなおかっぱ頭を撫でる。  まっ、あとでイナに訊けばいいか。神様の食生活ってのにも興味あるしな。  ──神様。  正確に言えばイナは神様じゃなくて神様の使い、なんだよな。それはさておき、鈴音は何になるんだろうか。座敷童は俺たち人間から見れば一応「妖怪」ってことになってるけど。  妖怪。妖怪、ねぇ。  隣で寝ている鈴音を見る  そのはにかんだような笑顔は相変わらずむにむにしていた。ついほっぺをつまんで引っ張りたくなってしまう。 「……なんでもいいか、うん」  勝手に納得して小汚い天井を見上げる。脇の辺りにもそもそとした感触。  ほんと、妙に懐かれちまったな。  心中で苦笑しつつ少し身体を起こして鈴音の頬に手のひらで触れる。不思議な感触だ。何物にも喩えられない。柔らかく温かい。 「ん……うん」  鈴音の目が閉じかける。 「眠い?」 「ちょっとだけ」 「頑張ってたもんな。いいよ、眠って」  と、ほとんど落ちそうになっていた鈴音の瞼がわずかに持ち上がる。 「だめ、なの」  その声は寝言と言っても差し支えなかった。 「どうして?」 「お兄ちゃん、と……おはなし、でき……ない、から」  鈴音の台詞につい口元を緩めてしまう。でも、とてもじゃないが鈴音は「おはなし」できる状態じゃなかった。 「ほら、無理しなくていいから」  それでも鈴音はふるふると頭を振って、無理やり目を開けようとする。  やれやれ。まいったな。 「じゃあ、一緒に寝るってのはどう?」  陥落寸前の寝ぼけ眼が俺を見つめる。 「俺も寝るからさ」 「……うん」  肯きついでに俺の胸に頭を預ける鈴音。そのまま「くー」と眠ってしまった。  俺もまた微笑んで目を閉じる。  目を閉じると自然にあくびが出た。肉体的にはさておき、精神的に疲れていることは確かだ。  やば。本気で眠い。  慌てて目を開けようとするが、身体が言うことをきかない。というか俺自体が本気で目を開けようと思っていなかった。  台所から聞こえてくる単調な「とんとんとん」という音が、さらなる眠りの世界に俺を誘う。  いいや。ちょっとだけ、ちょっとだけ。  再び、あくび。  五分。五分だけだから。  誰に向かって言ってるんだろうか。  分からない。  むしろ誰でもいい。  眠い。ていうかもう寝る。  胸元からは規則正しい寝息がかすかに聞こえてくる。  気が付けば──。  ──気が付けば、夢を見ていた。  暗闇の中、俺は一人で泣いている。何が悲しいのかは分からない。でも、涙が止まらなかった。  鼻の奥がつんと痛む。何なんだろうか、これは。悲しいわけじゃないのに。ただとめどなく涙が溢れてくる。 「あ……」  覚醒。  小汚い天井。それをバックにイナの顔がぼんやりと見えた。慌てて顔に手をやり、目をこする。  やはり現実でも泣いていた。  見られた、か。  急に恥かしくなり顔を逸らす。男は泣き顔をそうおいそれと見せるもんじゃない。  今さら隠しても遅いんだけど。  にしても、さっきから顔の前でうろうろしてる緑色の物体は何なんだ。目をこすり、焦点をだいぶ近くに合わせてみる。相変わらず鼻の奥は痛いままだった。 『生 ねりワサビ』  確認できた文字を胸中でつぶやき、目を閉じる。 「おはよ。目は覚めたかなー?」  鼓膜を打つあくまで能天気な声。かみ締めた奥歯が口の中で鳴る。 「あれあれ、元気ないぞー」  ゆっくりと再びまぶたを持ち上げる。 「うーん。ちょっと目が恐いかなー?」  怖いだろうね、そこのお馬鹿さん。 「じゃあ、ごあいさつしてみようか。せーの」 「逝け」 「あうぅ」  寝起きの俺は少しばかり機嫌が悪い。ねりワサビのチューブを手にしたイナを半眼で睨みつつ、体を起こす。  どうりで鼻が痛くて涙が出るわけだ。別に自分でも気付いていない心の傷が、とかそういうのではなかったらしい。がっかりだ。 「なぁ、もう少しマシな起こし方はなかったのか?」  頭をがしがしと掻く。 「えっと、からしの方がよかった?」 「とりあえず薬味から離れようか」 「鼻の穴にじょうごを突っ込んで水を」 「ヨゴレの芸人か、俺は」 「だって、それ以外に方法なんてないし」  ……この女。 「声かければいいんじゃねーかな。普通に」 「あっ、そうか」  実にわざとらしくイナが手を打つ。 「ごめんね、気付かなくて」 「嘘だ。絶対嘘だ」 「ふん、だ。ひとがご飯作ってあげてるのに熟睡しちゃうあなたがいけないんでしょ」 「それはだな、その、鈴音を寝かしつけるために仕方なく」  むくれるイナに対して視線をあさっての方向に地球脱出速度で飛ばす俺。 「狸寝入り」 「できませんでした」 「っとに。正座して待ってるくらいの甲斐性はあってもいいと思うんだけどな」 「ごめん」  ここは素直に謝っておく。 「ほんとに反省してる?」 「してるさ」 「じゃ、誠意見せてよ」 「僕の熟れたボディでよければいくらでも」  はたかれた。 「気色の悪いことを言わないっ!」 「失礼な。これでも学生時代は魅惑のボディで何人も虜にしたんだぞ。……宴会芸で」 「あなたの灰色の学生時代なんてどうでもいいのよ。私が言ってるのは食事を作った人に対する誠意、即ち」  イナが人差し指をぴんと立てる。 「残さず食べること」  何だ、そういうことか。 「楽勝」  イナに向かってピースサインを突き出す。 「ほんとに?」 「あぁ、足のあるものは椅子とテーブルでも食べる子だったから」 「空を飛ぶものは飛行機でも?」 「おぅ。よく捕まえて食べてたよ」 「ん、よし。じゃ、約束ね」 「と、その前に」  俺は隣で眠っている鈴音を抱き上げた。練乳にも似た柔らかく甘い匂いが微かにする。  しかし、びっくりするくらい軽いな。 「布団、はぐって」 「あ、うん」  鈴音を起こさないようにそっとベッドに横たえる。 「苦しくないかな、帯」 「だいじょうぶよ。着てる物も含めてこの子なんだから」 「そか」  言いながら俺は鈴音に布団をかけてやった。穏やかな寝顔だ。見ているだけで頬が緩みそうになる。しばらくこうして眺めていたいくらいだった。もし鈴音が自分の娘だったら、なんて思ってみる。  財布の中に娘の写真を入れて持ち歩いている世のお父さんたちの気持ちが少しだけ分かったような気がした。 「よっしゃ」  頬を両手で叩いて気合を入れた俺は、ベッド脇のテーブルの前に腰を下ろした。  テーブルの上に並べられた料理の上には、何のつもりか白い布がかけられていた。ちなみにこんな布ウチにはなかったはずだが、そんなことをいちいち気にしていたらキリがない。イナがどこからともなく取り出したんだろう。 「気合十分ね」  俺の向いに正座したイナが笑う。 「あぁ……足、痛くないか?」 「だいじょうぶ。慣れてるから」  座布団、なんてものが一人暮らしの男の部屋にあるわけがないため、愛用の大きなクッションを渡そうとしたが断られてしまった。 「そか」  何となく、イナを見つめてしまう。  正座をし、すっと背筋を伸ばしたイナの姿に俺は凛とした心地よさを感じていた。正直、ちょっと感動していたりさえもする。  着物、似合うだろうな。  そんな思考が頭をかすめる。 「どうしたの?」 「あぁ。いや、どうもしない」 「ヘンなの。食べよ」  料理の上にかかっていた布をイナが翻す。布の下から現れたのはそりゃあもう見事な和食の数々だった。お吸い物に焼き魚、煮物に和え物、そして……大量のいなり寿司。 「あ、あのさ」  大皿にこんもりと積み重ねられたいなり寿司に声もかすれてしまう。  俺は己に問うた。  イナとの約束なんだっけ? 「あの」 「ん?」 「前言てっか……」 「残さず食べてね」  イナは笑顔だ。有無を言わせぬほどに。  静かに手を合わせる。やるしか、ない。 「いただきます」 「はい。どうぞ」  あくまで笑顔を絶やさないイナを前にお吸い物の椀を手に取る。椀の底に沈んでいるハマグリとにらめっこをしてから口へ。  その瞬間、豊かな出汁の風味が口いっぱいに広がり、鼻に抜けた。深みがあるが決してくどくないそのお吸い物を、あぁ、日本人でよかった、と胸の奥でつぶやきながら食道に通す。一度目を閉じた俺はゆっくりと息を吐き、言った。 「旨い」  それは、俺の舌が発した嘘偽りのない一言だった。 「ほんとに?」  テーブルに手をついたイナが詰め寄ってくる。 「ほんとに」  神妙かつ不安げな顔をしているイナに、俺は一つ肯いて見せた。 「はぁー、よかった」  胸に手を当てたイナが大きく息を吐く。 「お料理するの久しぶりだったからちょっと不安だったの」 「へー」  と言いながら俺の箸はすでにいなり寿司をつまんでいた。 「こんなもの喰えるかー、ってテーブルひっくり返されたらどうしよ、なんて」 「ふーん」  返事をしながら煮物を口に放り込む。 「でも嬉しい。おいしいって言ってもらえて」 「ほー」  焼き魚の身をほぐすのに夢中な俺。 「頑張って作ったかいがあったかな」 「ふえっ、ぐし」  くしゃみ出た。 「……聞いてる? 人の話」 「いや、食べる方が忙しくて」  和え物が入った小鉢を手にイナの顔を見る。食欲にフルブーストがかかった状態の俺にまともな会話などできるわけがない。今はもう亡くなってしまったお婆ちゃんに「ゆうちゃんは一生懸命食べるねぇ」と何回言われたことか。  と、イナが小さくふき出した。 「ほら、ついてる」 「え?」  一瞬固まった俺に向かってイナが手を伸ばす。俺の頬についていたご飯つぶを細い指でひょいと取ると、イナはそれを口に運んだ。 「あ、ありがとう」  頬が熱くなる。  子供っぽいところを見られた。確かに恥かしい。でもそんなこと以上に俺はイナを、その、ちょっと、いいなぁ、と思っている。  間違いない。さっき腕が伸びてきたときにしたイイ香りが鼻の奥に残っている。忘れようとしても忘れられなかった。  微かに高鳴る鼓動。滲む汗。一度そんな風に意識し出すともうダメだ。  栗色の髪の毛、艶やかな紅い唇、白いうなじ、エプロンを持ち上げる胸のふくらみ、その全てを見てはならないもののように感じてしまう。そのくせ頭の中では一糸まとわぬイナの姿を思い浮かべていた。  中学生かよ、俺は。  頭を振って雑念を追い払う。 「とりあえず食おう。今は喰おう。まず食おう」 「どうしたの?」 「あー、ほら、体育会系だから、俺。声出していかないと」 「それ、笑うとこ?」  そんなツッコミをいれながら微笑むイナの顔を、やっぱりまともに見れなかった俺は、少し視線をずらしていなり寿司に齧りついた。 5 「っだぁー。もういい。うっく」  床に転がった俺は刺せば破裂しそうなほどに膨れたお腹をぺしぺしと叩いた。今、誰かに上に乗られたら酸味のきいた噴水が口から吹き出ることだろう。  っと、やめよう。そんな想像は。シャレにならなくなる。  喉まで上がってきたような気がする「何か」を胃に押し戻し、俺は大きく息を吐いた。  しかしマジに喰いすぎた。これっぽっちも動きたくない。 「ほんとに……食べちゃった」 「んだよ。そっちが残さず食べろって言ったんだろ」  少しだけ頭を上げ、口を歪めながらイナの顔を見る。 「そうね。ありがと」 「ん、あぁ」  あらためて礼なんぞ言われると少しばかり照れくさい。確かに結構な量だったけど、完食できたのは八割方「味」のおかげだし。箸を動かした、よりも、箸が止まらなかったと言った方が正確だ。  ふと流れるちょっとした間。  外を走るバイクの低い排気音が聞こえてくる。やがてそれは尾を引くようにして小さくなり、消えた。  もう一度頭を上げる。イナが慣れた手つきでお茶を淹れていた。それを何とはなしに見ていると、目が合った。何を言うでもなくただ微笑んだイナに顔が熱くなり、やはり目を逸らしてしまう。  なに意識してるんだろ、俺。  顔の上半分を手で覆い、小さく息を吐く。でも、口は緩んでいた。  おいしいご飯を作ってくれたイナに対して好意を抱いているだけなのか、それとも彼女に恋心を抱いてしまったのか、それはよく分からない。ただ俺に分かるのは「悪くない」ということだけだ。  そう、悪くない。うん。  それから間を置くこと暫し。湯呑みがテーブルに置かれる音を聞いた俺は普段の倍は重たく感じるお腹を持ち上げて身体を起こした。  湯飲みを手に、黙ってお茶をすする。  久しぶりに飲んだ温かいお茶が身体の隅々まで染み込んでいくような気がした。  一人暮らししてると急須でお茶なんか淹れないし。落ち着く。やっぱ日本人だわ、俺  黙ったままもう一口。湯呑みの中を見つめる。茶柱は立ってなかった。  ……いかん。だんだんと間が持たなくなってきた。何か喋らなくては、と思えば思うほど頭は空回り。何の解決策も出せなくなる。  ならば、 「なぁ」 「ん?」 「……あの」  とりあえず話し掛けて己を追い込んでみたものの、やっぱりどうにもならなかった。 「どうしたの?」 「いや、どうもしないんだけど、な」  背中を濡らす嫌な汗。  もはやこれまでか。そう思った瞬間、俺の頭に神様が降りてきた。 「何で俺なのかな、って」  可能な限り自然に言葉をつなぐ。 「どうして俺が選ばれたんだ? 別に俺じゃなくてもいいような気がするんだけど」  一度話題が決まれば言葉はすらすらと出てきた。まぁ、本当に訊きたい事でもあったし。忘れてたけど。 「嫌、だった?」 「え?」  反射的に聞き返してしまう。 「あなたが普通の生活に戻りたいって言うんだったら明日にでも福神さんに話して……」 「いや、別に嫌だとかそんなんじゃなくて、純粋にどうしてかなって」  申し訳なそうな顔をするイナの言葉を遮って、俺は笑って見せた。  にしても何か違和感がある。 「神様の決定に人間が従うのはとーぜんよ」とか言われるかと思ったんだが。ウチに来た辺りから、どうもイナが「気遣いさん」になっているような気がするのだ。少なくとも俺は昼間のイナにこんなにドギマギしてなかった。  と、なぜか照れたような表情でイナがうつむいてしまう。 「お礼をしたかったの」  俺の頭の上に疑問符が一つ、ぽんっと出現する。が、いくら考えたところで答えは出なかった。俺が謎の組織にさらわれて特殊な機械で記憶喪失にでもされてない限り間違いなくイナとは初対面だ。  無言で顔を見つめる俺にイナは微笑みながら小さく頷いた。 「その、手の傷ができたときのこと、覚えてる?」  言われて右手に視線をやる。手のひらを横断するように残る横一文字の傷跡。  この傷は確か……。 「今日あなたに会って握手をしたとき、ほんとにドキドキした。これが私を助けてくれた手なんだ、って」  私を助けた。  傷に関する記憶がゆっくりと、滲むように思い出され、俺は反射的に声をあげそうになった。  俺が小学校の低学年の頃だから……えーっと、何年前だ?  咄嗟には計算できなかったが、夏休み中のアホみたいに熱い日だったことは覚えている。その日、虫捕り網と虫かごを手に近所の山に遊びに行った俺は、そこで罠にかかっている一匹の狐を見つけた。  罠にはさまれた足から滴る鮮血に毛を染め、こちらを見つめる狐に子供だった俺はまずショックを受けた。  周りには誰もいない。自分が何とかしなければこの狐は死んでしまう。勝手に狐の命を背負った気になってしまった俺に、大人を呼んでくる、などという選択肢は存在しなかった。下手すれば指がちぎれ飛ぶ、などということは子供の無知ゆえに考えもせず罠をこじ開ける俺。そのとき少しばかし引っ掛けてできてしまったのが右手の傷というわけだ。ちなみに手を切った俺は狐のことも虫捕り網のことも虫かごのことも忘れて家に向かって泣きながら山を走った。  怒られると思って親にも怪我したわけを言えなかったんだよな。  そんな子供の頃の思い出し、つい笑ってしまう。  それから包帯がとれるまでの数日間、友達に怪我の理由を訊かれるたびに「ちょっとね」と答える自分をカッコイイと思っていたんだから何とも、いや。幼い俺は「誰にも言えない名誉の負傷」をヒーローっぽくて悪くない、とか思っていた。 「あのときの狐とはねぇ」  イナの顔をしげしげと見つめてしまう。急に彼女が身近な存在であるかのように思えてくる。不思議な親近感。 「ここにいるってことは無事に逃げられたんだ」 「はい。あなた様のおかげで命をつなぐことができました。感謝の言葉もございません」  急に口調を変えたイナが三つ指をついて深々と頭を下げる。 「ありがとうございました」 「どしたの?」 「ん。お礼はちゃんと言わないと、って思ってたから」  頭を上げたイナは、また照れたように笑った。 「でも納得したよ。お礼、ね。それで無職の俺に仕事をくれたってわけか」 「恩返し、したくて」 「そか」 「うん」  湯飲みを両手で包むようにして持ち、緑色の水面を見つめる。情けは人のためならず。お婆ちゃんの言っていたことは本当だった。  狐の恩返し、か。  世の中には色んなことがあるもんだ、まったく。 6 「……郎。優一郎ってば」  闇の中に優しい声が響き、身体が揺さぶられる。俺はまだ寝たいと絶叫する脳ミソに逆らい、張り付いてしまった感じのする瞼を何とか持ち上げた。 「起きて。ご飯できたよ」  声に導かれるままもそもそと布団から這い出す。辺りには味噌汁のいい匂いが漂っていた。いつ以来だろうか、こんな朝は。まるで実家にいるみたいだ、と覚醒前の頭でぼんやりと考えているうちに俺は気付いた。 「……何やってんだ?」 「まだ寝ぼけてるの? 朝ごはん作ってるのよ」  味見用の小皿とお玉を手にしたイナがやれやれといった風に俺を見下ろす。当然のように彼女はエプロン姿だった。 「だから、何で朝ごはん作ってるんだ?」 「あのねぇ、朝ごはんは一日の基本でしょ。ちゃんと食べて血糖値上げないとぼんやり午前中を過ごしちゃうわよ」 「いや、そういうことを聞いてるんじゃないんだが……」  理解に苦しむ、と言わんばかりの表情を浮かべるイナに対し、とりあえず人差し指で頬などかいてみる。俺が聞きたいのは何で合鍵渡した彼女みたいなことをしてるのかであって、別に朝ごはんの効用とかではないのだが。  ないのだが、何かこのシチュエーションは非常に嬉しいので疑問を差し挟むのは止めにした。寝起きでややこしい問答するのもめんどくさいし。もちろん昨日の夜、俺とイナの間に何かがあったとか、そういうのは一切ない。そういえば神様に関わった人間の世話をするのも自分の仕事だって言ってたし、これもその一環なんだろうか。  とりあえず俺はイナの隣、流し台の前に立って歯磨きと洗顔を済ませる。冷水で顔を洗うとぼんやりしていた頭も多少はすっきりした。 「はい」 「ありがと」  どこからともなくイナが取り出したタオルを受け取り、顔を拭く。 「おはよ」 「ん、おはよう」  照れつつ小声で返事をして、何となく手にしていたタオルを首にかける。 「鈴音が外にいるから呼んできてくれる?」 「あ、鈴音も来てるんだ」 「当たり前じゃない。私だけ来てどうするのよ」  怪訝そうな顔をするイナに向かって、そりゃそうだよなと乾いた笑みを浮かべてしまう。やっぱり朝ごはん作ってくれてるのも仕事だからなんだろうか。ちょっとだけ期待したんだけどなぁ。  なんてことを考えつつ、俺はサンダルを足に引っ掛けて表に出た。 「お兄ちゃん!」  表に出ると早速鈴音が駆け寄ってくる。お日様に朝の挨拶をする暇もない。もっとも、そんなことした記憶なんてないんだけど。 「おはよ、お兄ちゃん」  腕をぶんぶんと振って鈴音が朝の挨拶をしてくれる。朱色の振袖が目に眩しい。 「はい、おはよ」  抱きつき、頬をすり寄せてくる鈴音の頭を撫でながら、俺は朝の太陽を見上げた。すがすがしい、というよりはむしろせかされている気分になる。さぁ、起きろ。起きて活動しろ。と言われながら脳みそを揺さぶられていうるような。 「お兄ちゃん、ちょうちょ、ちょうちょ」  俺のTシャツを引っ張りながら鈴音が指さした所を、二匹のモンシロチョウが互いの位置を入れ替えながら舞っていた。 「もう大分暖かくなったからな」  蝶を目で追う。今日も汗ばむような陽気になりそうだ。目と肌で聞く夏の足音、か。と、少しばかりしみじみしたところで鈴音に呼びかける。 「さ、ご飯食べよ」 「えー」  鈴音はあからさまに不満げな声をあげると駆け出してしまった。先ほど蝶が飛んでいた辺りまで行って、くるりと振り返る。 「鬼さんこちら」  朝日にも負けないくらい眩しい笑顔で手を叩く鈴音。  腰に手を当てた俺は微苦笑した。  首をコキコキと鳴らし……ダッシュ。振袖を揺らして逃げる鈴音を追いかける。何がおかしいのか大笑いしながら走る鈴音に、俺もつい笑ってしまう。まっ、朝イチから鬼ごっこも悪くない。  適当に泳がせたところで鈴音をキャッチ。 「ほら捕まえた」  鈴音を抱きかかえた俺は自分の部屋に足を向けた。 「えー、もういっかいしよ」 「先にご飯食べてからな」 「むー」  と、むくれながらも鈴音が首に手を回して抱きついてくる。首筋に感じる柔らかい髪の感触に口許を緩めた、その時だった。 「あ……おは、よう」 「ん、おはよ」  何のことはない、見慣れた人物。そこに立っていたのは隣人の女の子だった。  森下早苗。俺は勝手に親しみを込めて「さなちゃん」と呼んでいる。歳は18だと言っていた。ゴミ袋を手にした彼女は少し驚いた表情で俺の顔を、いや正確には俺の肩辺りを見ている。  そこに何がいるのかと言えば……え?  背中から吹き出る嫌な温度の汗。 「あの」  恐る恐る声を出す。 「はい」 「見えて……る?」 「えっと……」  さなちゃんはしばらく俺の肩辺り、要するに鈴音を見つめてから、 「姪っ子さん?」  いくつかの選択肢からとりあえずは一番可能性が高いものを選んでくれたようだ。もちろんその選択肢の中に「座敷童」などというものはなかっただろうが。 「まぁ、そんなもの、かな」  適当にごまかすしかなかった。でも何で鈴音の姿が見えてしまったんだろうか。鈴音のせいなのか、さなちゃんのせいなのか、この場でそれを追求する事はできないが。 「親戚の子でさ、ちょっと預かることになって」 「そうなんだ」  苦笑しながら言う俺にさなちゃんは素直に納得してくれた。お兄さんは疑うことを知らない素直な子は好きだぞ。 「おはよ」  さなちゃんが鈴音に顔を寄せる。 「へへ……おはよ、お姉ちゃん」 「いくつ?」 「んと、215歳」  眉根を寄せるさなちゃんに、固まる俺。 「えと、その……笑うとこ。多分」 「あ、うん」  俺のフォローにさなちゃんも気を取り直したのか再び鈴音に笑顔を向けた。 「すごいね。わたしなんてまだ18歳なのに」 「すごいでしょ」  鈴音が小さな胸を張る。しかし俺も始めて知ったぞ、鈴音が215歳だなんて。 「お姉ちゃん」 「なぁに?」 「赤ちゃんいるの?」 「あ……うん」  鈴音が言うようにさなちゃんのお腹は大きく膨らんでいる。だが彼女の表情は決して明るいものではなかった。理由は分からないでもない。さなちゃんのおなかの中には確かに赤ちゃんがいる。だが俺は一度として父親の顔を見たことがなかった。偶然、ということも考えられるが予定日間近になっても傍にいないとなると……。  まぁ、色々とあるんだろうな、事情が。  胸中でつぶやき、わずかの間をおいて拳を握り締める。俺はさなちゃんが結婚したとも聞いてないし、相手が死んだとも聞いていない。正直かなりムナクソ悪かった。  子供作って逃げるか? 普通。最低だ、男として。  だが怒ってみたところでその怒りをぶつける先はなし。心の奥で噛み潰すしかなかった。 「まだ入院しなくて大丈夫なの?」 「うん、もう少しだけ。そんなにお金もないし」  さなちゃんは笑うがそれはできれば見たくない種類の笑顔だった。 「そっか」  俺にはそうつぶやくように答えることしかできない。 「俺の携帯の番号知ってるよね。いつでも鳴らしてくれていいから」 「うん。ありがと」 「お姉ちゃん。赤ちゃん生まれたら見せてね」  屈託のない鈴音の笑顔が今はありがたくもあり、羨ましくもあった。 「ええ、一緒に遊んであげてね」 「うん!」  さなちゃんは俺と鈴音に向かって微笑むと、ゴミ捨て場に向かって歩いて行った。離れていく小さな背中に胸が重くなる。 「楽しみだね、赤ちゃん」 「そうだな」  せめて元気に生まれてくれればいいけど。  生まれてくる赤ちゃんには父親がいない。それどころかお爺ちゃんとお婆ちゃんもいない。幼い頃事故で両親を亡くしたさなちゃんは施設で育った。人づてにそんな話を聞いたことがある。彼女には頼るべき親がいない。俺も協力は惜しまないつもりだが他人にできることなどたかが知れている。出産祝いをいくらか包むとか、どんなに夜泣きがうるさくても怒鳴りこんだりしないとか、そんなものだ。  視界の端で不意にドアが開く。ドアを少しだけ開き、なぜかイナがこそこそと顔を出した。まるでさなちゃんがいなくなるのを待っていたかのように。 「どうした。何かやましい事でもあるのか?」 「ん? あぁ、いや、別に」 「別にって」 「……ちょっと、ね」 「どっちだよ」  彼女は俺を無視してさなちゃんが去っていったゴミ捨て場の方を見つめている。 「なぁ」 「なに」 「あさりたいのか? ゴミ」 「何でわたしがゴミあさりしなきゃなんないのよっ!」  朝も早くから叫ぶイナ。 「いや、狐って犬科だし。DNAに刻まれたゴミあさりズムがうずくのかと」 「うずかないっ!」 「存在は否定しないんだな。ゴミあさりズム」  反論はない。 「と、とにかくご飯にしましょ」  なぜか焦ったように言ってイナは引っ込んでしまう。 「変なの」 「へんなの」  鈴音が俺の口調をなぞってにへへと笑う。 「マネするなー」 「まねするなー」  どうやら新しい遊びを思いついたらしい。 「バスガス爆発」 「ばすがすばくはつ」  お、なかなかやるじゃないか。 「生麦生米生卵」 「なまむぎなまごめなまたま……ご」 「この杭は引き抜きにくい」 「このくいは引きぬきにくい」 「隣の客は柿喰う客だ」 「となりのきゃくは柿くうきゃくだ」 「あ、間違えた」 「まちがえてないよ!」  と言った後で鈴音の口が半開きになる。まだまだ子供よのう。215歳だけど。 「むー」  ふくれながらも抱きついてくる鈴音。そんな鈴音の頭を撫で、俺は部屋に戻った。 7  車の中、俺はご機嫌だった。鼻歌など歌いながら昼飯は何にするかと考える。 「楽しそうね」 「楽しいぞ」  イナに答えてステアリングを右に回す。あのあと朝飯を食べて「仕事」に出かけたのだが、昨日と同じように鈴音の力で色んな人が幸せになっていた。とりあえず午前中だけで五人だ。いや、副次的に幸せになった人の数まで入れるともっとだろう。幸せというのは波及するのだ。 「他人の不幸は蜜の味、なんて言うけどさ、やっぱり他人のものでも幸福の方が見てて楽しいよな」 「そう」  イナの返事はそっけない。 「そりゃ頑張ってるのは俺じゃなくて鈴音だから俺がはしゃぐのは筋違いだろうけど」 「えらい?」  後部座席から鈴音が身を乗り出す。 「もちろん」 「へへ」 「あのね、優一郎」  イナの声には浮かれた雰囲気を押さえ込むような重さがわずかに含まれていた。イナは何かを考えるようにしばらく押し黙った後で結局俺から視線をそらす様にうつむいてしまった。 「ごめん。何でもない」 「んだよ、気持ち悪いな。気になるだろ。そんな何でもあるような顔で何でもないとか言うなよ」  言葉を切って息を吐く。 「ていうか朝から少し変だぞ」  俺は助手席のイナをちらりと見やった。 「そうね。変、かもね」 「かもね、じゃなくて確実に変、だ」  俺の指摘に再び空気が重さを増す。朝、さなちゃんに対してもそうだし、それから後も仕事をしながらイナはずっと何かを考えているようだった。 「ごめん」 「いや、別に怒っちゃいないさ。悩み事なら話くらい聞くけど」 「ありがと。でも、悩むのは多分私じゃないから」  意味が分からない。情報の断片だけ小出しにされても困ってしまう。それがイナにも伝わったのか彼女はふたたび、ごめん、とつぶやくように詫びた。 「話したくない、とか」 「というよりは、上手く話せない、かな。これからする仕事のことなんだけど」 「やっかいなのか?」  イナは答えない。俺は小さく息を吐いてステアリングを握りなおす。意味ありげなイナの沈黙は俺の浮かれ気分を根っこから引き抜いていった。  イナは何を悩んでるんだろうか。考えたところで分かるはずもない。ただ俺が知る限り、といっても昨日今日の話だけど、鈴音に、座敷童に関わった人たちはみんな最後には笑顔だ。幸せを運ぶ、の看板に偽りはない。 「あなたのアパートに戻って欲しいの。そこが次の仕事場だから」 「ん、了解」  と返事をしてから気付いた。 「ウチのアパートから選ばれたんだ」 「……うん」 「へー。誰だろ。あ、俺って可能性も」 「あるかもね」  よっしゃ、と心の中で拳を握る。  でも……な。 「できればさなちゃんがいいな」 「どうして?」 「いい娘だから」 「好き……なの?」 「話をとばし過ぎ」  ブレーキを踏みながら苦笑する。先生に引率され、横断歩道を渡っていく幼稚園児たちはカルガモのお引越しみたいだ。 「でも、まぁ好きか嫌いかで言えば間違いなく好きなんだけど。人間的にって言うか友達として」 「……そう」 「さなちゃんから逃げた男な、ほんとに馬鹿だと思うよ。なかなかいないと思うんだけどな、あんなできた娘」  本人が苦労してきたせいか、さなちゃんは他人の痛みが分かる人だった。一度さなちゃんが公園のベンチで中学生くらいの女の子と話しているのを見かけたことがある。女の子は泣いていた。よく晴れた日曜日の午前くらいだったろうか。夕方、同じ場所を通りかかったら二人はまだ話し込んでいた。  あとでさなちゃんに聞いたら「知らない子。泣いてるの見たら気になっちゃって」と笑いながら答えてくれた。 「気に入ってるんだ、彼女のこと」 「嫌いになる理由がないからな」  イナが何かに耐えるように下唇を噛む。 「何だよ、そんな顔して。ヤキモチか?」 「馬鹿なこと言わないで。私はただ……」 「ただ?」 「とうちゃくー」  後ろから聞こえてきた元気一杯の鈴音の声に、会話を続けられなくなってしまう。ま、とりあえず産地直送幸せ宅配便の当選者発表といきますか。  車から降りた俺は目を細めて自分が住むアパートを見上げた。イナに言われたとおり普通の、二階建てのアパート。これから少しの間だけ座敷童が幸せを呼ぶ普通じゃないアパートになる。  特に何を言うでもなくイナは歩き出した。その表情は相変わらず厳しい。一体何だというんだろうか。人が幸せになる。それはもちろんいいことだし、俺がイナや鈴音と見てきたのは実際いい事だった。なのにイナの唇は引き結ばれたままだ。  鈴音の手を引いて無言のままイナに付いていく。鼻歌を歌う鈴音だけが相変わらず元気だ。  イナは角部屋である俺の部屋の前をあっさりと通り過ぎ、その隣のドアの前で立ち止まった。角部屋に住む俺の隣人は一人しかいない。言うまでもなくそれはさなちゃんが住む部屋の前だった。  ついつい顔がほころぶ。 「さすが。やっぱり神様は見てるんだねぇ」  うんうんと大きく二つ頷く。「ゆうちゃん。誰もいなくてもお天道様はいつもゆうちゃんを見てるんだよ」というお婆ちゃんの言葉は本当だったようだ。 「鈴音、お願い」 「はーい」  硬いイナの声にも元気よく返事をして鈴音がドアをすり抜けていく。が、イナは立ち止まったままだ。 「入らないの?」 「あとで、ね。あなたも少しだけここで待ってて」  胸の下で腕を組み、ドアを見つめたままイナが言う。言われるまま待つことしばし、ドアをすり抜けて鈴音が戻ってきた。しかしいつもの笑顔はない。ただ自分の手を見ながら不思議そうな顔をしている。  イナの顔を見上げた鈴音は何事か言おうとした。だがそれを遮るようにイナが鈴音の頭に手を置く。 「少し遊んでて。あとは私たちがやるから」  でも、と再び口を開きかけた鈴音をイナは視線で制した。結局鈴音はちらりと俺の顔を見て、駆けて行ってしまった。その小さな後姿を見ながら乾いた唇を結ぶ。明らかに雰囲気が今までと違う。イナに問いたい気持ちではあったが、そのいつもとは違う空気が問を発せさせてくれない。 「行きましょ」  短くそれだけ言ってイナがドアをすり抜ける。胸のポケットにイナがくれた葉っぱがあることを確認し、俺もドアをすり抜けた。  視界が一瞬暗転して、気が付けばそこはもうさなちゃんの部屋だった。何度か訪れたことがある、六畳一間の殺風景な部屋。  カーテンが閉じられているせいで室内は薄暗い。そして不思議なくらい静かだった。 「さなちゃ……」  声は自分でも分かるほどにかすれていた。よろめくように一歩前に踏み出す。つま先が玄関に揃えられていたさなちゃんのサンダルにあたって、こつん、と鳴った。  カーテンの前でさなちゃんが揺れていた。カーテンレールにかけられたビニール紐。それにさなちゃんの体がぶら下がっていた。 「さなちゃん!」  俺は靴も脱がずに部屋に上がり、さなちゃんのもとに駆け寄った。お腹の膨らんだ体を抱き上げようと震える手を伸ばす。だが俺の手はさなちゃんの体をすり抜けるだけで触れることはできなかった。  葉っぱ。  だが同じように胸ポケットの葉をつかみ出すこともできなかった。 「イナっ!」  叫びながら振り返る。だがイナは返事をしてくれない。俺の声など聞こえないといった風に腕を組んで立ち、じっとさなちゃんを見つめている。その表情に同情や哀れみはあっても焦りは全くなかった。  そんなイナの様子が俺をさらに焦らせ、苛立たせる。 「何やってんだ! 早く!」 「その必要はないわ」  イナの声は冷たかった。だがイナに対する畏れが麻痺しかけていた思考能力を回復させたのも確かだ。  その必要はない。そうか、そうだ。俺たちはさなちゃんに幸せを運びにやってきて、鈴音はもう幸せを運んだんだ。これからどうなるのかは分からないが、さなちゃんが助かることは間違いないんだ。今にもそこのドアから医者や救急隊員が飛び込んでくるに違いない。  でもさすがにこれはまずいんじゃないだろうか。神様なら完全に死んだ状態の人間さえ生き返らせてしまうだろうが、このままなのは気の毒だし。 「やっぱりさなちゃんに触れるようにしてくれよ。下ろすだけは下ろしてあげたいし」 「だめよ」  厳しい口調でこちらの提案を切り落とし、イナが俺を睨む。ついだじろんでしまった俺から瞳を閉じたままのさなちゃんに視線を戻してイナは言った。 「そんなことをしたら助かってしまうから」  その言葉の意味が理解できず、口を半開きにしてしまう。だがイナは何も言葉を継いでくれない。さなちゃんを見つめたまま押し黙っている。 「なに言ってるんだ」  気が付けば俺はイナの肩をつかんでいた。俺から視線を外そうとするイナの両肩をつかんで無理やりこちらを向かせる。 「助けに来たんだよな? さなちゃんを幸せにしに来たんだよな?」  イナは何も答えない。ただ唇を噛んだまま俺から逃げるように顔を背けるだけだ。 「言えよ!」 「そう……」  俺の怒声にイナの口がわずかに開く。 「私たちは彼女に幸福を運んできた。だから、殺すの」  イナの肩をつかんだ手が汗ばむ。喉は張り付くほどに渇いていた。 「人間は一生のうちにつかめる幸せの量が決まっている。彼女には……もうほとんど残ってないの」 「だから、殺すのか」  乾いた喉を通った声はやけにかすれていた。 「彼女は自ら死を望み、それを実行した。彼女は偶然部屋を訪れたアパートの住人によって発見されてしまう。私たちの干渉がなければ、ね」 「死んだ方がさなちゃんにとって幸せだって言いたいのか」 「少なくとも彼女はそう考えた」 「ふざけるな!」  叫び、イナを壁に押し付ける。 「そんなことがあってたまるか! さなちゃんが何したって言うんだ! ただ普通に、いや」  言葉を切り、短く唇を引き結ぶ。 「人よりいっぱい苦労して、それでも頑張ってただけじゃないか!」  それが何で……。 「何でなんだよ!」  俺はつかんだままのイナの肩を強く揺さぶった。それでもイナは眉間に深くしわを刻んだまま俺の顔を見ようとしない。ただ唇を噛みうつむいていた。  喉の奥から小さなうめき声が漏れる。顔面の温度が一気に上昇した。 「神様にとっちゃ人間が一人二人死のうが関係ないってのか!」 「勝手なこと言わないでよ!」  薄暗いアパートの一室にイナの声が爆ぜる。睨むように俺を見上げた彼女の瞳は潤んでいた。イナの肩をつかんでいた両手から力が抜ける。指先が痺れるような感覚。  イナは嗚咽を堪えるように一度息を飲み込み、それからゆっくりと吐き出した。 「じゃああなたには彼女の人生を背負う覚悟があるの? あなたには自ら死を選んだ彼女に死よりもつらい人生を歩めと言う権利があるの?」 「そんなの、俺は」  言葉が続かなかった。気が付けばイナの肩をつかんでいた手は垂れ下がり、指先はだらしなく伸びきっていた。 「生きろ、なんて一番残酷で無責任な優しさじゃない!」  イナの声が耳朶を打つ。確かに、と思ってしまった。イナはさなちゃんの人生にはもうほとんど幸せが残っていないと言う。それが真実ならばこのまま死なせてあげた方がいいのかもしれない。イナの言う通り俺には覚悟も権利もない。一人の女の子が自分の責任で自分の人生を見つめ、決断を下した。それを侵していい法などどこにもない。そして、このままさなちゃんに背を向けたとしても誰も俺を責めはしない。葬儀に出て幾ばくかの香典を包み、涙の一つでも見せれば隣人としての、一社会人としての俺の責任は果たされる。何一つ間違ってはいなかった。  でも、 「じゃあ何で泣いてるんだよ」  潤んだイナの瞳を見つめ、震える声を喉から絞り出す。 「その顔は何なんだよ」  まばたきをしたイナの目から大粒の涙が一つこぼれ落ちた。 「泣くほど辛いんだったら心にもないこと言う必要なんてないだろ」  きっと俺も泣きそうな顔をしていたと思う。イナに何が課せられているのか俺には分からない。でも、彼女の中に葛藤があることだけは分かった。イナは自分の言葉を信じ切れていない。 「そりゃ確かに筋は通ってるさ。さなちゃんの人生はさなちゃんのものだし、自殺が肯定されるべきか否定されるべきかなんてことも俺には分からない。でも」  言葉を切って一度唇を引き結ぶ。 「目の前で死のうとしてる人間を見捨てるなんてことはしちゃいけないんだ。俺にさなちゃんの人生に踏み込む権利なんてない。だけど覚悟なら今この場でする。それしかできないなら」 「あなた、自分が言った言葉の意味が分かってるの」  睨むような目つきでイナが俺を見上げる。俺はゆっくりと首を横に振った。 「分かってない。口でどれだけ覚悟するなんて言ったって、きっと分かってない。でも、今この瞬間に自分を追い込まないとさなちゃんは助けられないし、助けちゃいけないんだと思う」  もう俺にはイナの目を見ながら偽らざる気持ちを吐き出すことしかできなかった。自ら命を絶とうとしているさなちゃんを助けたいという俺の気持ちはただの我がままなのかもしれない。それとも英雄願望だろうか。人を見殺しにしたという重圧から逃げたいだけ? 余裕ある者が持つ弱者への優越。同情。憐憫。自己満足。そして、純粋に助けたいと思う気持ち。  そのどれでもなくて、どれでもある感情が心中で渦を巻く。感情の整理なんてつけられないし、通すべき道理を構築することもできない。でも、どうしたところで選択肢は二つしかないんだ。さなちゃんを止めるか、止めないか。  自分の中に確固たる信念があるわけじゃない。それについて思うとき、”それ”はいつでも霞んで揺れて左右にぶれる。だから積極的に「止める」を選べるわけじゃない。でも積極的に「止めない」を選べるほど俺は悟ってもいないし、達観してもないし、強くもない。  それに、この先もし俺が人生に絶望し生きることよりも死ぬことを選ぶようなことがあったとき、俺は誰かに助けて欲しい。どんなに陳腐な言葉でもいい。「人を励ます101の言葉」なんて本に載ってるフレーズでも構わない。一言でいい。大丈夫だよ、と言って欲しい。  だから……、 「頼む」  最後に祈るように頭を下げ、イナに言えたのはその一言だけだった。外から聞こえてくる車の音。こんな状況でも世の中はちゃんと動いている。  どれほどの時間が流れただろうか。イナの口から小さな吐息が漏れた。細く白い指が俺の胸ポケットから一枚の葉っぱを持ち去る。イナは何も言わなかった。ただ潤んだ瞳で俺を見上げている。 「ありがとう」  心の底から声を絞り出し、俺はさなちゃんに向かって踏み出した。 8  病院の廊下は静かだった。救急室と書かれている扉の向こう側は戦場なのだろうが、その喧騒がこちらに伝わってくることはない。廊下に据え付けられた長椅子に腰掛けた俺は蛍光灯の光を鈍く照り返すリノリウムの床に視線を落とした。  右の肩にイナの重みを感じる。 「冷たいでしょ、私」  独り言でもつぶやく様に言われた。俺は一度引き結んだ唇をわずかに歪め、それから口を開く。 「何かあったんだろ、理由」  しばらくの沈黙があって、うん、という微かな声が返ってきた。 「でも理由なんかあったって……」  イナの声がまたしばらく途切れる。イナの顔を見ようかと思ったが、見てはいけないような気がしてやめた。 「もしあなたが彼女に背を向けると決断したなら、私も彼女を見捨ててた。あなたが彼女を助ける決断をしたから一緒にここにいるだけ」 「そんなに自分のこと蔑むもんじゃないさ。俺だってさなちゃんを助けたことが本当に正しかったのかどうか今でも自信がない。無責任な話だろ。それに」  俺は言葉を切って口元を軽く緩めた。 「部下に理不尽な要求をする上司ってのはどこにだっているもんさ。ですよね、福神さん」  顔を上げればそこには福神さんがいた。気配を感じたわけではない。ただ顔を上げればそこにいるような気がしただけだ。  福神さんは困ったような、というかバツの悪そうな顔をしていた。そういえば福神さんの笑顔以外を見たのは初めてかもしれない。 「イナ、ご苦労様でした」 「はい」  イナの声は小さかったが、それでもその声には責任から開放された安堵感みたいなものが含まれていたように思えた。 「高杉さん」 「はい」 「まずは詫びなければなりませんね。あなたにも辛い思いをさせました。申し訳ありません」  頭を深く下げる福神さんを見上げ、俺は口を開いた。一つだけ聞いておかなければならないことがある。 「まさかさなちゃんに自殺『させた』わけじゃないでしょうね」 「それはありません。あくまでも彼女の意思です。その場にあなたが居合わせたのは私たちの意志ですが。それだけは神に誓って」  福神さんの言葉につい苦笑が漏れてしまう。神に誓って、か。 「それで、俺はお眼鏡にかないましたか」 「ええ、それはもう」  穏やかな笑みを浮かべて福神さんが深くうなずく。 「言葉を選ばずに言うのなら、あなたは特別ではなかった。ですが、それ故に交わる意味がある」  どうやら裏入社試験も合格らしい。多分それはさなちゃんの自殺を止めたからとか止めなかったからとかいう事ではないのだろう。 「ということですので、あなたさえ良ければ」  と、福神さんの声を遮る様に両開きの扉が開き、救急室からストレッチャーが運び出されてくる。その上には身体の中にもう一つの命を抱えたさなちゃんが横たえられていた。  揺れる黄色い点滴液が入ったバッグ。薄緑色の呼吸マスク。 「さなちゃん。大丈夫」  反射的に立ち上がり、言えたのはそれだけだった。大丈夫? なのか、大丈夫、なのかは自分でもよく分からない。でも「だいじょうぶ」の響きだけはさなちゃんの耳に入れてあげたかった。  さなちゃんは半濁した目でわずかにこちらを見やり、呼吸マスクを曇らせた。それだけだ。あとは病室に運ばれていくさなちゃんを見送ることしかできない。さなちゃんは何を言おうとしたのだろうか。それが「なぜ死なせてくれなかったの?」だったときのことを思うと物凄く不安になる。だが覚悟はしなければならない。俺がしたのはそういう行為だ。  ストレッチャーが廊下の角を曲がり、さなちゃんの姿が見えなくなる。拳を握った俺は長く、ゆっくりと息を吐き出した。 「旦那さんですか?」  青い術衣を着た中年の医師が俺に問いかける。 「いや、同じアパートの、隣人です」 「旦那さんやご両親と連絡は……」 「あの……彼女、一人ですから」  歯切れ悪く言う俺に医師も察したのか、あぁ、と短く声を漏らした。医師は気を取り直すように小さく咳払いして、 「母子ともに一命は取り留めました。念のため入院してもらってしばらく経過を見ようと思います」 「はい」 「それで、その」  俺に続けて医師の歯切れが悪くなる。 「彼女の保険証は……」 「話ができるようになったら本人に聞いて、持ってきます。でも、もしかしたら」  俺は口ごもった。自ら命を絶つことを決断しなければならないような状況だ。保険料さえ払えてなかったかもしれない。だとすれば高額の治療費がさなちゃんの身体にのしかかってしまう。  医師は一度さなちゃんが運ばれていった廊下の先に視線を送り、微かにうなずいた。 「病院内には専用の相談窓口もあります。必要なら申し出てみて下さい。それでは」 「ありがとうございました」  頭を下げる俺に向かって会釈し、医師は踵を返した。その背中を見送りながら俺は乾いた唇を噛む。 「これからどうするの」  イナに問われた俺はうん、と小さく返事をして視線を床に落とした。 「福祉関係の仕事してる友達が一人いてさ、連絡とってみようと思う」  俺にできることなんてたかが知れている。そう考えていた俺はこんなことさえしていなかった。俺にとってさなちゃんの苦しみは何と言ったところで他人事でしかなかったのだ。全く迷いもせず、良心と良識をもった社会人ぶっていた自分が情けなかった。 「では高杉さん、一つお教えしましょう」  何を、と言う代わりに顔に疑問符を浮かべる俺。対して福神さんは苦い笑みをこぼした。 「森下早苗の子の父親は宮本祐介です」  その名を聞いたとき、一瞬誰のことか分からなかった。そして不意に病室で昏睡状態の婚約者を見つめ続けていた男の姿が思い出される。だが婚約者は鈴音の力によって目覚め、宮本雄介は眠り続ける婚約者を見つめる生活から解放された。  あの時俺は婚約者のために身を削って治療費を稼ぐ宮本祐介を尊敬すらした。そして二人には幸せになってもらいたいと、そう願った。だが……、 「三人は同じ施設で育ちました。誰の思惑がどのように作用したのかは述べません。ですが、これが結果です」  静かな、こちらを落ち着かせるような福神さんの声を聞きながら、俺は椅子の上に倒れ込むように腰を下ろした。感情が渦を巻き、口から出ようとする。だが言葉にならなかった。なったのはたった一つだけ、 「何で」  だった。  何で。  たったこれだけのシンプルな問いに対して答えを導き出すことができない。何で。問えば問うた分だけ答えは逃げていく。 「高杉さん」  福神さんの呼びかけに俺はゆっくりと顔を上げた。 「あなたは言いました。神様よりすごい誰かがサイコロを振ってる、と。そのサイコロに一歩でも近付いてみたいとは思いませんか?」  恐ろしく魅力的な誘い言葉だった。隣にいるイナが無言のまま俺の右手を握る。優しく、包み込むように。  俺は三秒ほど福神さんの顔を見つめ、うなずいた。イナが小さく息を吐き、福神さんが微笑する。 「森下早苗とその子の人生、保障することはできませんが関わってしまった以上私が責任をもって見守ります。では」  一つ会釈した福神さんの体が透けていき、やがてその姿は音もなく消え去った。正面にはただ救急室と書かれた扉が残るのみだ。  俺は大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。しばし天井を見上げて視線を戻すと目の前には鈴音がいた。白が基調の病院内、真っ赤な花が一輪咲いたようにも見える。 「お話終わった?」  ちょっと首を傾げて鈴音が俺を見上げる。 「もうしばらく鈴音と一緒にいていいって」  わーい、と声を上げて鈴音がぽんぽんと跳ねる。その様子を見ていると自然に笑みがこぼれた。あらゆる物事を素直に受け止めることができる鈴音こそが一番サイコロに近いのではないか。そんな風にさえ思えてしまう。  俺は鈴音の頭に手を置いた。 「鈴音は幸せ?」 「うん!」  返ってくる満面の笑顔。 「じゃあさ、幸せって何だと思う?」 「わかんない!」  笑顔のまま即答された。鈴音が正しいのかどうかは分からない。でも強いってのはこういうことなのだろう。  俺は鈴音の頭を撫で、それから視線を隣にいるイナに向けた。 「さなちゃんのとこに行ってみようと思うんだけどさ、手、つないでいく?」  からかう俺にイナは一瞬きょとんとして、俺の手の上に置いていた自分の手を跳ね上げた。 「なっ、なに言ってるのよ」  慌てるイナを見ながらけらけらと笑う。鈴音も一緒になってけらけらと笑っていた。そんな俺たちをイナが、まったく……、といった表情で見つめる。  俺は最後にひと笑いして長椅子から立ち上がった。拳を握って廊下の奥を睨む。これからの一歩は少なからずさなちゃんの人生に踏み込む一歩だ。他人の人生に干渉するということがどれほどの重みを持つのか俺に分からせるための一歩。 「大丈夫、一緒に歩くから」  イナの声がする。俺は大きく深呼吸して、自らのつま先に力を込めた。  終