血と香水のインク  1  俺は人を殺して生きている。      背後で巨大な爆発音が響いた。飛び散った家屋の破片が足元に転がる。炎が闇に沈んでいた俺の影を庭に映し出し、辺りに煙の匂いが広がった。  そして錆びた鉄に似た匂い。  返り血に濡れた忍装束と忍刀。それが全てだった。闇夜に赤く切り取られた庭を走り抜け、身長の倍はある屋敷の壁を乗り越える。  耳元で風が唸った。  石畳の通りに降り立った俺を、ゴミをあさっていた野良犬が見つめた。  俺は狭い路地へと己の身を滑り込ませた。背後の大通りに野次馬が集まり始めた気配がする。  強く石畳を蹴り、高く跳躍した俺に応えるかのように、再び響いた爆発音が夜気を揺らした。  目を覚ますと時計の針は昼の十二時を周っていた。堅いスプリングが軋むベッドの上で寝返りを打ち、起き上がった俺は窓に歩み寄る。薄汚れたカーテンの隙間から外を覗く俺の目に、黒煙を吐き出す工場の煙突が映る。黄土色の運河沿い、工場区に立てられたアパートメントの四階からは街の姿を一望できた。  ガラス窓に薄く映る、髪も瞳も服も黒づくめの自分の姿。  煙草を吸う人間の部屋がヤニで黄色く染まるように、この街はススで黒ずんでいた。見た目がロクでもない街は大抵住んでいる人間もロクでもない。ドラッグ、人身売買、窃盗、密輸、非合法賭博、そして……殺し。この街に存在する多くの裏組織は常に一触即発の状態にあり、血を見ることなど別段珍しくも無かった。いつもどこかで誰かが死んでいる。そういう街だ。  だから俺のような人間が生きていける。  窓を離れ、扉下の隙間に差し込まれていた新聞を拾い上げた俺はベッドに腰をおろし、一面の記事に目をやった。  インクの匂いが鼻を撫でる。  見出しには「新型蒸気機関」の文字が太く印刷されており、記者は人類の叡智とたゆまぬ努力の結果得られた進歩を賛美していた。何でも仕事効率は従来の二倍だそうだ。これでこの街も従来の二倍汚くなる。  俺はベッドに広げた新聞をめくっていった。特に興味を引く記事は無かった。強いて言うならば、ある小説家が自殺したことくらいか。  俺は彼の作風が好きだった。  読み終えた新聞を折りたたみ、床に投げた俺は再びベッドに横になる。腹は減らない。仕事があった翌日はいつもそうだ。下の部屋から何かを叩き壊す音が聞こえ、続けて叫び声があがった。それはしばらく続き、何かを思い出したように止んだ。そしてまた唐突に始まった。下の部屋にはドラッグに永遠の愛を誓った奴が住んでいる。  俺は目を閉じ、下階から漏れてくる騒音を頭から締め出した。  ふと部屋に響いたノックの音に俺は目を開く。少しまどろんだらしい。時計の長針が一時間の四分の一ほど進んでいた。  仕事を終えた後はいつもそうだが、体が熱い。自分で自分の手首をつかむと普段より早く大きな脈と上がった体温が手に伝わってきた。たぎっている訳ではない。火は蝋燭一本分にも満たない小さなもの。わずかな風が少しでも吹けばそれで消えてしまう。しかし風などどこからも吹いてきはしない。無風だ。そんなとき俺は女を抱くことにしている。そうすれば蝋燭が早く燃え尽きることを経験から知っていた。  仕事終わりに娼館に寄り、昼過ぎに来るように告げていたことを思い出す。  ベッドから降りた俺は扉に向かい、わずかに開いた。隙間から濃い香水の匂いが室内に入り込む。 「おはよ。目は覚めた?」  俺は無言でエレナを招き入れた。  エレナとは知らない仲ではない。もう何度も交わった。もちろんその後に代価を支払わねばならない関係だが。俺は彼女のことを気に入っていた。エレナはこんな時間にでも嫌な顔をせず仕事をしてくれる。それが理由だ。 「今回は誰を殺し……んっ」  扉にエレナの体を押し付け、唇を塞ぐ。俺は波がかった金色の髪をかき乱すように彼女の頭を押さえた。  いきなりで少し驚いたのかエレナの舌が逃げようとする。その舌を追いかけ、さらに自らの舌を伸ばす。戸惑っていたエレナの舌が今何をするべきか気付いたようだ。すぐに俺の舌を押し返し、ぬるぬるとした唾液と共に俺の口内に侵入を試みる。と同時に抱きしめたエレナ体が震え出した。頬は上気し、澄んだブルーの瞳が潤み始める。  敏感な心と体。これも俺がエレナを気に入っている理由の一つだった。  口内の熱く柔らかい舌を押し返し、俺はエレナの唇を解放した。  唾液が細い橋となり、両者の唇の間に一瞬だけかかる。エレナの口から熱い吐息が漏れた。 「はやく……しよ」  桃色の唇をわずかに開いてささやくエレナ。彼女の濡れた瞳は俺の背後にあるベッドを見ていた。だが残念ながら期待には応えられない。俺はエレナの上衣、格子型の紐に手をかけ引き抜いた。ベストをはだけさせ、ブラウスのボタンを一つずつはずしていく。そのままの白い首筋に唇をはわせ、あらわになった豊かな双丘に下着の上から指を食い込ませる。 「んあ……だめ、ベッドで……」 「ここでいい」  短く言い放ち、俺はエレナの下着を引きちぎるように剥ぎ取った。  あとはただ貪るのみだ。荒い呼吸と嬌声と体液。カーテンの隙間から漏れる微かな日の光。薄暗い室内で全てが混ざり合い、淀み、まとわり付く。弓のようにしなるエレナの肢体に指を、舌を這わせ、俺は彼女を征服していった。曲線をなぞるように汗が流れ、床に小さな染みを作る。溶け出した蝋が流れるように、一滴、一滴と。安アパートメントの壁は薄い。筒抜けだろうが俺は気にしなかった。かといって見せ付けてやろうという気もない。そういう場所だ。ここに住んでいる奴等は自分にしか興味がない。  足元で床がきしむ。肉体をぶつけ、互いの体を互いの体液で汚すという行為。俺には食事や睡眠と同じ程度の意味しかない。子孫を残すためでもなければ、ましてや愛情の確認でもなかった。  食事を摂る。体が求めるからだ。眠る。体が求めるからだ。女を抱く。体が求めるからだ。それ以上でも以下でもない。  その身を縮め、燃え尽きようとする心奥の蝋燭が最後の輝きを要求する。ふと、匂いに色があれば、と思った。この部屋に充満しているものの色は? 分からない。ただ、一つ確かなことがある。桃色などという健全な艶色では決してない。もっと暗く淀んだ色だ。  耳元で発せられるエレナの震える声を聞きながら、そんな事を考えた。背中に爪を立てられている。気にはなったが、やめさせる気もなかった。  やがてエレナは俺の腕の中で二度、大きく体を震わせた。同時にその身に灯した火を一瞬だけ燃え上がらせ、目に見えない蝋燭が燃え尽きる。  荒い、エレナの呼吸音だけが室内に残された。高まった彼女の鼓動が肌を通して伝わってくる。俺は一つ息を吐き、エレナの肩を押した。それに逆らうように俺の背中を抱くエレナの手に力がこもる。 「もう少しだけ。立っていられないの」  俺の胸に顔を預け、深呼吸を繰り返すエレナ。細く白い肩が大きく上下している。併せて揺れる波がかった金髪を見ながら、しばらく俺は立ち尽くしていた。エレナの言う通りベッドでした方がよかったのかもしれない。今さらのように思う。  暇つぶしに時計の秒針を眺めていると、三周半したところでエレナが俺の胸から顔を上げた。彼女は少しはにかんだような笑顔で肯くと、手早く衣服を身に着けた。それから最後に香水を一振りする。  俺はズボンのポケットから取り出した二枚の金貨をエレナに手渡した。が、エレナの表情は沈んでいた。手の中の金貨を見つめ、うつむいている。 「足りないか?」 「そうじゃないの。そんなんじゃなくて」  尋ねる俺にエレナは何かに耐えるような表情で首を横に振った。 「わたしね、これ以上あなたからお金を貰いたくないの」  エレナの台詞は俺にとって全く理解できないものだった。 「働いた分だけの報酬を手にする。労働者にとって最も大切な権利を放棄するつもりか?」 「権利とかそんなことよりも悲しくなる、から」  エレナが金貨の乗った手を差し出してくる。 「だから返すね、これ」 「俺が人を殺して稼いだ金だからか?」 「違うの。どんなお金かなんて関係ない。あなたから貰いたくないの!」  突然破裂するように大きくなったエレナの声に俺は目を細くした。涙に濡れたブルーの瞳をただ直視する。 「ごめんなさい。でも、わたしは」  さらに押し出される金貨の乗ったエレナの手。俺はそれを無言で押し返し、再び首を横に振った。 「どうしても駄目なの? 答えが欲しいわけじゃない。ただお金を受け取ってくれればそれでいい」  涙声で訴えるエレナに、俺は何も言わなかった。無言のまま彼女を見つめ続ける。それでもエレナは引き下がらなかった。 「だったら」  エレナが下唇を噛み、金貨が乗っているのとは逆の手を胸の前で握り締める。 「今使う。持って帰りたくないからこの場で使う」  エレナは完全に泣いていた。 「この金貨二枚でわたしにキスをして。ぎゅ、って抱きしめて」  涙目のエレナを見ながら小さく息を吐く。彼女の金の使い道に俺がどうこう言う権利もない。 「分かった」  俺はエレナから金貨を受け取り、ズボンのポケットに落とした。エレナの細い肩に手をかけ、唇で唇に触れる。一度顔を離した俺は注文通りエレナをきつく抱きしめた。ブルーの瞳から大粒の涙が零れ落ち、俺の服を濡らしていく。 「わたしが娼婦だから?」 「違う。俺なんて人殺しだ」 「じゃあ、単純にわたしのこと嫌いなの?」 「それも違う。俺が今まで出会った人間の中じゃ悪くない部類に属してる」 「初めてしたときに処女じゃなかったから?」 「関係ない」 「ねぇ、どうして」  逡巡の後、答える。 「人との距離を詰めるのは苦手だ」 「そんなのわかんないよ」  何も言わず、俺はエレナの額に唇で触れた。  腕をほどいてエレナを解放する。エレナはしばらく俺の顔を見上げていたが、やがて人差し指で涙を掬い取り、微笑んだ。 「もう少しだけいていい?」 「眠らなくていいのか?」  俺の所に来ていなければ今はエレナにとって寝ているはずの時間帯だ。 「いいの。あなたの顔見てる」  子供のような笑顔で言ってエレナがベッドに腰掛ける。 「好きにするさ。俺は寝るぞ」  エレナに告げ、返事も待たずに俺はベッドに横になった。心地よい疲労感が全身を包み込む。体が沈み込むような感覚。どうやら先ほどよりは深い眠りに入れそうだ。  と、目を閉じ意識を落とそうとした時だった。  聞いたことのない足音に俺は全神経を聴覚に集中させた。人間の顔が一人ずつ違うように、足音もそれぞれ違う。間違いなくここに住んでいる人間のものではない。  足音は俺の部屋の前を通り過ぎ、ゆっくりと戻ってきて止まった。愛用の忍刀を手にベッドから降りた俺は音を立てず扉の脇に張り付く。  どうやらお客さんのようだ。  戸惑うエレナに向かって口の前で人差し指を立て、息を殺す。  乾いたノックの音が三度室内に響いた。  珍しいこともある。ノックなどという高尚な礼儀をわきまえた人間が一日に二人も俺の部屋を訪れるとは。普段はいきなり押し入るか、悪ければ銃弾が飛んでくる。  先ほどよりも少し強めのノック。やはり三度だった。 「あの、すみません」  まだ若い女の声だった。同業者特有の、隠しても隠し切れない張り詰めた感じはない。どうやら襲撃者とは違うようだ。ならば放っておくに限る。そのうち帰るだろう。  俺は再びベッドに戻ると目を閉じた。が、同時に嫌な予感を感じてもいた。 「すみません。いませんか?」  さらに強く扉が叩かれる。 「ねぇ、いるんでしょ?」  既にノックではない。間違いなく扉を殴っている。片目を開いた俺は何となくエレナを見やった。彼女は苦笑するのみだ。 「開けなさいよ! この社会生活不適合者!」  やはり悪い予感というのはよく当たる。襲撃者の方がマシだったかもしれない。この女は何の権利があって人を罵倒し、他人の睡眠時間を削り、扉がしなるほどのノックを続けているのだろうか。  いい加減鬱陶しくなった俺は扉に歩み寄り、指二本分だけ開いた。 「あら、やっぱりいるんじゃない」  扉の向こうにいたのはやはり若い女だった。二十歳を越えた辺りだろう。肩まで伸ばされた栗色の髪と同色の、罪悪感の欠片もない瞳をこちらに向けて立っている。 「何の用だ」  俺にしてみれば珍しいことだった。厄介ごとに言葉をもって対応している。エレナが来る前ならば確実に忍刀を抜いていただろう。  だが当然のようにそんな幸運に気付くこともなく、女は軽い調子で口を開いた。 「そんなに恐い顔しないで。わたしはサラ・バークレイ。アウルポスト新聞社の記者よ。あなたに取材を申し込みたいの」  俺は部屋にねじ込まれていた女の爪先を蹴り出し、扉を閉めた。 「待って! あなたの名前は伏せるし、住所だって絶対に明かさない! 約束する」 「関係ない。帰れ」  扉越し、叫ぶ女に向かって返す。取材だと? 笑えない冗談だ。 「もちろん謝礼だってさせてもらうわ。その、十分とは言えないかもしれないけど」 「金なら腐るほどある。帰れ」 「あなたにとっても顔を売るいいチャンスだと思うの」  俺は勢いよく扉を開け放った。女……サラを部屋に引きずり込み、閉じた扉に押し付ける。俺ははっきりとイラついていた。 「顔を知られた暗殺者に仕事ができると思っているのか」  サラの首をつかみ、締め上げる。死体の処理が面倒なので死なない程度に力を弱めてはいるが、サラの喉からは押しつぶされた呼吸音が漏れ、目じりにはうっすらと涙が浮かんでいた。 「誰から俺の事を聞いてきたのかは知らない。死にたくなければ二度と俺の前に現れるな」  吐き捨てるように言い、サラの首から手を離す。膝から崩れ落ちる新聞記者を見下ろし、俺は短くため息をついた。エレナはベッドに腰かけ、黙って女を見つめている。ただ口元が緩んでいる所を見ると全く興味がないわけではないようだ。野次馬気分といったところだろう。 「いきなり首絞めるなんて、ほんとにこれで機嫌がいいのかしら」  咳き込みながらもサラが立ち上がる。 「何をわけの分からないことを言っている。帰れ」  言い放ち、俺はベッドに戻るべくサラに背を向けた。だが気配は扉の方ではなく、ゆっくりとこちらに向かって来る。どうやらこの女は今まで俺の部屋を訪れた人間の中で一番ロクでもないようだ。  背後で床がきしむ。  俺は振り向き様に忍刀を抜き去り、サラの手に握られていたナイフを跳ね上げた。甲高い金属音。銀光をひき、弾かれたナイフが天井に突き刺さる。 「さすがね。やっぱり本物だわ、うん」  その声は驚きを含みつつも確実に高揚していた。その、好奇心に満ち溢れた栗色の瞳が苛立ちを募らせる。子供が珍しい虫でも見るような目と同じだ。 「死にたくなければ二度と俺の前に現れるなと言ったはずだ」  俺は手にしている忍刀の切っ先をサラの喉許に突きつけた。女の顎が僅かに上がり、さすがに瞳から浮かれた雰囲気が消え去る。だが完全に怯えているわけではない。逆に挑戦するような表情でこちらを見つめている。  何を根拠にこの女はこんな顔をするのだろうか。俺が忍刀を横に滑らせさえすれば全てが終わるというのに。 「仕事のためだったら命の百や二百、幾らでもくれてやる」  うわずってはいたが、意思の込められた声だった。  俺は無言のまま、表情を変える事もせず忍刀を横に滑らせらた。僅かの間を置いて血が滲み出し、女の白い首筋を流れ落ちていく。サラは動かなかった。短く悲鳴を上げることも、目を閉じることもしない。それどころか変わらぬ目つきで俺を睨んでいた。 「珍しいな。死ぬのが恐くないのか」 「バカ言わないで。恐いに決まってるじゃない。でもね、それでもやらなきゃいけない事だってあるのよ」  純粋に興味が沸いた。 「言ってみろ」  問う。 「やらなければならない事とやらを言ってみろ」  サラは答えない。唇を引き結び、相変わらずの表情で俺を睨んでいる。 「どうした。言えないのか」  促す俺にサラの喉が大きく鳴った。震える喉の動きが刀身を通して手に伝わる。 「みんなに私を認めさせることよ」 「そのために俺を利用するのか。たいした野心家だな」  気が付けば俺は口元を緩めていた。 「そうよ。私のためにあなたを利用するの」  単純に面白い女だと思った。何かと命を天秤にかけ何かの方が重いと言った人間など、少なくとも俺が殺した中にはいない。皆、俺を前にして命だけはとむせび泣いた。  俺は突きつけていた忍刀をひき、鞘に収めた。 「いいじゃない。受けてあげれば? 取材」  それまで黙っていたエレナが不意にそんな事を言う。 「俺にとって何の得もない」 「あら、面白そうじゃない」  このサラという新聞記者が面白そうな性格をしていることは認めるが、俺自身取材を受けること自体については興味の欠片もなかった。面倒なだけだ。 「あなた、命よりも大切なものがあるって言ったわよね」  俺に向けていた微笑をどこから薄ら寒いものに変え、エレナがサラに視線を向けた。俺のことはお構いなしらしい。無視して寝ようかとも思ったが、 「だったら証明して見せてよ」  というエレナの一言に少しだけ付き合ってみることにした。今日、俺がこれから見る予定になっていた夢よりも愉快な展開になってくれればいいのだが。睡眠時間を削るんだ。そうでなければ割に合わない。 「証明って言ったって」  戸惑うサラにエレナはどこからともなく小瓶を取り出した。中には白い、小さな粒がいくつか入っている。 「これね、宣伝だって言って薬屋さんにもらったんだけど」  エレナの言う薬屋とはもちろんまともな薬屋ではない。俺が仕事で使うような薬や使うと楽しくなるような薬を扱っている奴らのことだ。彼等は宣伝と称して新製品を置いていくことがある。要するに試しに使ってみて感想を聞かせてくれということだ。 「寄生虫の卵で人間の体に入ると数日で孵化するんだって。その後は内臓を食い荒らしながら脳に達して宿主を殺すそうよ。孵化してから宿主を殺すまでだいたい一週間。今のところ効く薬もないんだって」  その様を想像し、俺は苦笑した。そんな死に方は御免こうむりたい。 「一週間あれば記事くらい書けるでしょ」  エレナの声は刺々しい。 「飲んで」 「そんな。大体、何であなたにそんな事言われなきゃなんないのよ。私は彼に取材を申し込みに来たのよ。あなたには関係ないじゃない」  まぁ、確かにそれはそうなんだが。  俺はエレナが手にしている小瓶を見やり、顎に手をやった。寄生虫の卵か。眉唾ものだが試してみる価値はありそうだ。使えるものであれば俺の仕事も多少は楽になるだろう。 「いいだろう。そいつを飲め。それで取材を受けてやる」  エレナが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、サラが喉の奥で小さくうめく。 「どうぞ。味の方は保障できないけど」  差し出された小瓶をサラが受け取る。サラは小瓶を握り締めたままエレナの顔を見つめ続けた。その表情からは明らかな敵意が見て取れる。一方のエレナは実に楽しそうだ。それにしても……、 「お前にこういう趣味があったとはな」  エレナは被虐によって快感を覚えるタイプだと思っていたのだが。 「ほんとはね、虐められる方が好き。ただ……命より大事なものがあるなんて言う人間は大嫌いなの」  エレナがサラに向かって見せた笑みは実に挑戦的だった。 「私はただ生きるために生きてきた。体まで売ってね。だから分かるの。体も張ったことがない人間に命なんて張れるわけないじゃない。命を賭ける? 言うだけなら誰にだってできるものね」  奇麗事をねじ伏せたいわけか。自分の人生を肯定するために。と、エレナを睨みながらサラが笑みを浮かべる。こちらもこちらで敵意に満ちていた。 「あなたが今までに出会ってきた人間が腰抜けだっただけでしょ。知ってる? 類は友を呼ぶって言葉」  言い返そうとしたエレナを制すようにサラは手にした小瓶を前に突き出した。 「私はやる。腰抜けじゃ、ない」  コルク栓を抜き、サラが口の上で小瓶を逆さまにした。白い粒が眉間に皺を寄せたサラの口内に落ちていく。全てを飲み込み、胃に落とした女は狂気すら感じさせる笑みをエレナに向けた。 「まだ何か言いたい事はある? 娼婦さん」  エレナは何も答えない。ただ、その拳はきつく握り締められ震えていた。怒りと悔しさ。それらを内包したような瞳でサラを下から睨み上げ、下唇を噛んでいる。 「帰るわね。また来る」  爆発しそうになる感情をかろうじて抑えたような声でそれだけ言い残し、エレナは部屋から出て行ってしまった。この勝負サラの勝ちか。 「しかし本当に飲むとはな」  言って薄く笑う。 「驚いた? でもね、今回ばかりはちょっと本気なの」  射抜くような眼差しで俺を見つめるサラ。 「どんな理由があるのか俺には関係ないし興味もないが約束は守ってやる」 「当然よ。偉そうに言わないで」  腰に手を当て、新聞記者が俺を見上げる。 「それで、早速始めたいんだけど」  言いながらベッドに腰かけると、女は俺の返事も待たずに懐からメモ帳とペンを取り出した。女の手がメモ帳のあるページで止まる。質問でも並べてあるのだろう。とりあえず俺も愛用のボロ椅子に腰を下ろす。座るたびにきしむ、そんなやつだ。 「それじゃあまずあなたの名前を教えてくれる? あ、名前載せてもいいよね。命懸けるんだし」 「捨てた」  俺は即答した。 「真面目に答えて」  不満げな表情がこちらに向けられる。 「真面目だ。殺しをやるのに名前は必要ない」 「じゃあみんなあなたのことを何て呼ぶの?」  サラはペンの尻をこめかみに当て、困ったような顔をした。 「呼ばない。どうしても呼ぶ必要があれば代名詞を使えばいい」 「ふむ」  女のペンがメモ帳の上を走る。 「私はあなたの事を何て呼べばいい?」 「好きにしろ」  女は少しばかり考えるような素振りを見せた後で、口を開いた。 「じゃあ、クロちゃんはどうして暗殺者になったの?」  眉根を寄せ、女の顔を見つめる。 「何よ、その人様をバカにしきったような目は」 「ような、じゃない。してる」 「うあ、ムカツク。髪の毛も黒、瞳の色も黒、おまけに着てるものも黒なんだからクロちゃんでいいじゃない。何が気にいらないの?」 「分からないのか?」 「さっぱり」  わざとか、それとも本気か。言い切るサラに反論する気も失せた俺は手を振って取材の続きを促した。まぁいい。どうせ二、三日の付き合いだ。 「じゃあ続けるわね。さっきも聞いたけど、あなたが暗殺者になった理由を教えて。そう……外国人であるあなたがなぜこの国で暗殺者になったのか、そこのところを詳しく聞きたいの。その髪と瞳の色、それに顔立ち。あなた、この国の人間じゃないんでしょ?」  女がペンを構え、身を乗り出してくる。 「髪と瞳か。お前こそこの国の人間じゃないだろ。移民か?」  この国のにおいて生まれた人間は普通エレナのように金色の髪と青い瞳を有している。 「そうね。ま、私のことはいいじゃない。それで?」  俺は自分がこの国に来た時のことを思い出しながら口を開いた。 「両親に連れられてこの国に来たのは六歳の時だ。技術者だった父親はこの国に工業技術を学びに来たらしい。俺の国は工業的に随分と遅れていたからな。その頃の俺は何も考えていないただのガキだった」  言葉を切り、一度大きく息をする。ここまでが序章だ。 「この国に来てから十年は何もなかった。相変わらず俺はただのガキだ。だが、ある日を境に少しだけ物事を考えるようになった」 「ある日?」 「両親が殺された日だ」  僅かに身じろぎしたサラを前に、俺は声に感情を込めることもなく淡々と続けた。 「別に政治的な意図があったわけでも宗教上の理由があったわけでも、思想の違いでもない。奴らは食パンを一斤買うだけの金が欲しかった。結果、俺の両親は殺された」  室内に沈黙が落ちる。 「それで、あなたはどうしたの?」 「言っただろ。少しだけ物事を考えるようになった」  唇の端を少しだけ上げ、サラを見やる。 「殺したよ。三人もいやがった」  言葉という名の反応はなかった。ただ、興味と関心に満ち溢れた瞳がこちらに向けられている。 「考えて殺したからな。未だに三人の死体は見つかっていない」 「それから?」  サラの声は震えもかすれもしていない。色気はないが人ごみでもよく通りそうな声。 「親のいない外国人にまともな仕事なんてあるわけがない。気がつけばマフィアの構成員だ。そこでも考え、何人も殺した。考え、殺されないようにもなった。おかげで今では気楽なフリーの暗殺者だ」  言い終え、俺は口を閉じた。サラはメモをとることもせず、じっと俺の顔を見つめている。何を考えているのかは知らないが、他人の顔を見ながら思考に沈むのは遠慮してもらいたい。 「どうした。質問には答えたはずだが?」  視線が鬱陶しくなった俺はそう言ってサラの意識を彼女の中から引きずり出した。  思い出したように目の焦点を俺に合わせ、サラが慌ててメモをめくる。 「ごめんなさい。じゃあ次の質問。あなたの、その小さな剣について聞きたいんだけど……」  結局、取材は夕方まで続き、気がつけば窓から赤い日が差し込むような時刻になっていた。 「とりあえず今日はこんな所ね。ありがと、いい記事が書けそうよ」  女はそう言うと笑いながらペンとメモ帳を懐にしまった。そしてベッドから立ち上がり、大きく伸びをする。床に映った影が細く、長く伸びた。 「今度の取材日なんだけどいつにする? 都合のいい日を選んでくれればこっちが合わせるけど」  サラに俺を恐れるような様子は全くない。それは仲のいい友人と旅行の計画でも立てているような口調だった。この女は警戒心を母親の胎内に忘れてきたらしい。それとも人生の途中で落としでもしたのだろうか。  記者魂というよりは単に女の中で重要な線が一本切れているだけのような気がしてならなかった。俺は不意にこの女が現場でどんな顔をするのか見たくなった。 「今夜はどうだ」  提案する。仕事の難度もターゲットもこの女を連れて行くには最適の依頼があった。 「あら、お誘い? 私は安くないわよ」  下らない冗談に付き合う気はない。大してありもしない胸の下で腕を組み、挑発的な目でこちらを見つめる女を無視して俺は口を開いた。 「命を懸けるんだ。その代償として仕事を見せてやる」 「仕事って」  そこで女の声が途切れる。しばしの沈黙の後、自分が何を見せられるのか気付いたようだ。 「バカなこと言わないで。これでも私は市民なのよ。殺人が起こると分かっていて見逃せる訳ないでしょ。通報するわ」  まくし立てるように言われ、睨まれた。対して俺は微笑する。悪くない答えだ。それでこそ連れて行く意味がある。この女が持っている常識と正義感という名の糸の限界を俺は知りたい。ターゲットを前にして切れるのか、切れないのか。  女は無言でこちらに背を向けると扉に向かって大股で歩いて行った。 「仕事を見たいのなら明日の午前二時、中央の公園に来い」  女の足がその場で止まる。 「間違えるなよ。明後日ではなく明日だ」  女はこちらを振り向きもせずに扉を開き、出て行った。  2  油と煤の匂いが混ざった生暖かい夜風がまとわり付く。水の枯れた噴水の前に立ち、俺は月を見上げていた。自然を愛でるような趣味はない。だが月だけは好きだった。青く冷たい光を見ていると不思議と退屈せずにいられた。  待ち合わせに指定した中央の公園。再び吹き抜けた風が周囲の木々を揺らす。  来るか、来ないか。……いや、余計な考え事だった。  現れた気配と足音に視線を落とす。 「お待たせ」  サラはこちらに向かって軽く手を挙げて見せた。さすがに夕方までのような浮かれた調子ではない。月明かりの下でも緊張感が見て取れるほどに表情が強張っている。一応人並みの神経を持ち合わせている部分もあるらしい。 「一人か?」  俺はわざとらしく辺りを見回し、顔の下半分を隠している覆面の下で笑った。サラは俺から視線を外して言う。その口元は苦々しいと言わんばかりに歪んでいた。 「信じてもらえなかった」  案の定か。 「奴等は死体が出ない限り動きはしない」  奴等とは言うまでもなく警察を指す。奴等の防犯意識とやらは極めて希薄だ。事件が起こりそう、と、事件が起こった、の間には底知れぬほど深く、暗い溝が横たわっている。 「行くぞ。時間は無限にあるわけじゃない」 「あ、ちょっと待って」  一歩踏み出そうとした俺を呼びとめ、サラが懐からメモ帳とペンを取り出す。それから俺の姿を観察でもするように上から下まで視線でなぞった。 「どうした」 「面白い格好ね。剣は背中に背負うんだ」  ペンの蓋を抜き、何やらスケッチを始めるサラ。俺の姿を写しているらしい。  忍装束。見慣れない者にとっては確かに面白い格好だろう。 「ん、完成」  満足げに肯き、サラがメモ帳とペンを懐にしまう。 「あとは、と」 「まだ何かあるのか」 「これは私事」  苛つく俺の声を気にする様子もなく白い錠剤を取り出し、サラは口に放り込んだ。 「寄生虫に効く薬はないそうだが」 「そこまで往生際悪くないわ。ただの栄養剤よ。夜更かしはお肌の大敵なんだから」  僅かな間を置き、自国語で呟く。 「焼け石に水だな」  え? と聞き返すサラを無視して俺は歩き出した。  細い路地の影に隠れ、今から自分が侵入する巨大な屋敷を見上げる。周囲を高い塀に囲まれた屋敷の外観に俺はつい皮肉げな笑みをこぼしてしまった。成金趣味ではないが、決して質実剛健でもない。周囲の目を気にして豪華な装飾を避けてはいるが隠し切れない自己顕示欲が滲み出たような、一言で言えば往生際の悪い建物だった。家主の性格がよく現れている。 「さすがですな、こう、さりげない所に手が掛かっていて、いや、なんとも」  などと自分より下だと思っている連中に言われるのが嬉しくて仕方がないのだろう。 「ここって……」  隣にいるサラが屋敷を見上げ、口を半開きにする。 「極右政党アーディスカの党首、ベイルートの屋敷だ。知っていると思うが」  俺の台詞にサラはわざとらしく肩をすくめ、ため息をついた。 「移民排斥運動の急先鋒……私たちの天敵ね」  アーディスカは先日の定例議会において「他国人の移動、就労等に関する法律」とやらを提出している。名称こそ真っ当だが中身を見れば移民排斥法以外の何物でもない。まぁ、俺には関係のない話だが。 「で、どうするの?」  サラの視線は屋敷の門、その前に立つ二人の警備員に向けられていた。警備員が持つカンテラの光が風に吹かれて時折揺れる。屋敷を囲む塀の形はほぼ正方形。警備員が見回りを行う時間も下調べしてある。俺は懐中時計を取り出し、時間を確認した。サラがいるせいで多少予定から遅れているが問題ない。予想の範囲内だ。  俺は路地から抜け出し、門があるのとは違う辺の壁に歩み寄った。後からサラが足音も消さずに付いて来る。  俺は無言のまま正面の壁を見上げた。高さは四メートルと少し。これで侵入者を防げると思っているのなら死んだ方がいい。まぁ、実際死ぬんだが。  俺は短く息を吐いて背中の忍刀を塀に立てかける。刀の鍔に足をかけ、跳躍。伸ばした手は楽に塀の高さを越えた。塀の頂上をつかみ、腕の力で身体を引き上る。見張りからは死角になって俺の姿は見えないはずだ。鞘についている帯紐を手繰り寄せ、忍刀を回収する。  四メートル下にいるサラが辺りを見回した後でこちらを見上げた。 「ちょっと、私はどうすればいいのよ。そんな特殊技能は身につけてないんだけど」  俺は無言で腰の帯をほどくとサラの目の前に垂らしてやった。サラも無言で帯を両手に巻きつける。塀の上でバランスを取りながら女を引き上げてやった。重くはないが決して軽くもない。 「っと」 「落ちるなら内側にしろ。苦労して引き上げたんだ」  塀の上でバランスをとるサラに向かって、腰に帯を巻き直しながら言う。 「苦労ってなによ、苦労って。これでも体型には気を使って……きゃっ!」  俺はサラを抱え上げると塀から飛び降りた。お喋りに付き合っている暇はない。さっさと潜入するに限る。音もなく地面に降り立った俺は芝生が敷き詰められた庭を女を抱えたまま走り抜けた。  やや広めの廊下。左手には月光の差し込む窓、右手には重厚な木の扉が並んでいる。敷かれた赤い絨毯が月明かりに照らされて薄い紫色をしていた。天井にはそれほど大きくはないものの、値の張りそうなシャンデリアが一定間隔で並んでいる。いかにも愛国者らしい、この国の歴史と伝統に忠実な内装だ。お飾りで極右政党の頂点に立っているわけではないらしい。 「っとに、どうして偉い人のお屋敷ってこうも無駄に広いのかしら。元を正せば私たちの税金よ、税金」  俺の後ろを歩きながらサラがぼやく。庶民感覚の権化のような発言だった。 「関係ないな。俺は税金など払っていない」 「私は払ってるの!」  サラの声は大きい。それでも警備員が飛んで来るようなことはなかった。俺なら多少値は張るがもう少しまともなボディーガードを紹介してやれる。今さら言っても仕方ないのだが。 「気に入らなければ払わなければいい。市民登録の抹消を仕事にしている者を何人か知っているが紹介してやろうか」 「結構よ。税金納めなきゃ国がやってることに文句つけられないじゃない」 「好きに文句を言えばいい。誰も止めたりはしない」 「主義の問題」 「理解しかねる」  背後にわざとらしいため息を残し、サラが俺の前に回りこんでくる。彼女は左手を腰に手を当てると残った右手の人差し指を俺の鼻先に突き出した。その姿はできの悪い生徒を前にした教師と大差ない。 「そもそも権利ってのは義務と表裏一体であって……んぐっ」  俺は講釈を垂れる女の口を手で押さえ、神経を聴覚に集中させた。どこからか声が聞こえたような気がしたのだ。気のせいか? いや、確かに聞こえる。女、と言うにはまだ幼い。喉の奥から無理矢理押し出されるようなかすれた声。  俺は息を吐いてゆっくりと歩を進めた。後からサラの気配がついて来る。  廊下を進むにつれて声は大きくなっていく。どうやら誰かがお楽しみ中らしい。その誰かがベイルートならば願ってもないことだ。性交中の人間ほど殺しやすいものはない。女を貪ることにのみ集中し、全ての急所をさらけ出すのだから。  俺は口元を歪め、あたりをつけたドアの前で立ち止まった。静かにドアノブをひねり、扉をわずかに開く。きつい香の匂いに混じって卑猥な匂いがした。匂いに手触りがあるとするならば、確実にぬめっている。拷問でも受けているかのような呻き声が大きくなり、耳朶を打った。  室内に視線を走らせた俺の口元は自分でも気付かぬうちに緩んでいた。予想通りだ。これでこそこの女を連れてきた意味がある。  俺は一度自分の脇の下辺りにいるサラを見下ろしてから、再び室内を覗き込んだ。  シャンデリアに火が灯され、室内は明るい。おかげで俺達はそこで行われている事の全てを見る事ができた。床には真紅の絨毯。正面奥には暖炉、その上の壁には城を描いた絵がかけられている。  そして天蓋付きの豪奢なベッドの上で移民の少女が一人、俺のターゲットによって犯されていた。たるみきったターゲット……ベイルートの腹が波打つ度に声にならない声が少女の小さな口から漏れる。完全に子供というわけではないが、かといって大人でもなかった。少なくとも俺なら抱こうなどとは欠片も思わない年端もいかぬ少女。そんな少女を手錠で後ろ手に拘束し、腰を振るベイルートの姿は滑稽以外の何物でもなかった。  どうだ、あの嬉しそうな顔は。脂ぎった中年の顔は征服し、蹂躙する喜びに満ち溢れていた。剥き出された黄色い歯にぎらつく眼球。議会で熱弁をふるっているであろう口からは時折、ふひっ、ふひっ、と笑いとも呼吸ともつかない音が漏れている。ここまで欲望をさらけ出した人間の姿などそうそう見られるものじゃない。  少女の、サラと同じ色の瞳からは涙がこぼれ続けていた。頬は赤く腫れ、所々に痣ができてる。ベイルートに殴られでもしたのだろう。  ベイルートが移民の女、特に少女を犯すことに目がないという事実は裏の世界ではよく知られていた。移民社会には彼とつながっている人身売買業者が何人もいる。ある時ベイルートは付き合いのあるマフィアの幹部に言ったそうだ。 「奴等はこの国に居ついとる寄生虫に過ぎん。その事実を身体に刻み込んでやっとるのだよ」と。  何のことはない。単に圧倒的な立場から相手を見下ろし、絶望を与えることに性的興奮を覚えているだけのことだ。 「ふざけるな……」  サラが呟く。表情は見えないが細い肩は震え、声は押しつぶされでもしたようにかすれていた。背中から立ち上る怒気が目に見えるようだ。移民としての怒りか女としての怒りかサラ・バークレイ個人としての怒りか。  顔を上げたサラの肩が一度大きく揺れる。と同時に俺はサラの襟をつかみ、後ろに引きずり倒した。  怒るのは勝手だが叫ぶのは遠慮してもらいたい。  廊下の壁に背中からぶつかり、サラが短く呻き声をあげる。唇を引き結び、睨むように俺を見上げるサラの目は涙でにじんでいた。 「許されない」  サラの、握り締められた拳が震える。俺はサラを見下ろし口を開いた。 「なぜ許されない。あの娘にしてもさらわれて来たわけじゃない。自らの意思と判断で身を売った。その結果があれだ」  背後、扉の隙間に一瞬だけ視線をやる。もはや少女の搾り出すような声も途切れ途切れになっていた。 「だからって、こんなこと」 「道徳的に許されないか?」  サラは俺を見つめたまま何も答えない。ただ、涙が一粒彼女の頬を伝って落ちた。 「俺は今からあの男を殺す。道徳的どころか法的にさえ許されない。十秒だけ待ってやる。止めたければ、止めろ」  サラの口がわずかに開き、栗色の瞳が不意に焦点を失う。どこか呆けたような表情でこちらを見つめるサラを、俺は黙って見下ろし続けた。  サラの瞳には明らかな混乱があった。葛藤ではない。混乱だ。今日、俺の部屋でこの女は言った。市民として殺人を見過ごせるわけがない、と。だがサラは動かない。気付いたのだろう。自分がベイルートに対して殺意を抱いているという事実に。少なくとも自分が殺人を見過ごせない人間であると信じていたはずだ。しかし、今は動けない。自分達を排斥しようとしている人間が、自分達と同じ民族である少女を犯している。その事実がサラの土台にひびを入れた。 「時間だ」  胸中で十秒を数え終えた俺は踵を返した。と、背後で気配が動く。数秒を置いて後ろから袖をつかまれた。  土台にひびこそ入ったが崩れはしなかった、ということか。 「法で奴を裁く事はできない。それでも止めるのか」  答えはない。ただ、さらにきつく袖をつかまれた。  三つ呼吸をするだけの沈黙。  背後でサラが声を搾る。 「あんな男死ねばいい。でも、私の武器はペンだから」  背中に何かが触れた。額を預けられたらしい。 「それを譲ってしまったら、私が終わる」  喉を無理矢理押し広げるような声だった。手の震えが袖を通してこちらまで伝わってくる。  最後の一線で踏みとどまったか。  エゴを剥き出しにし、俺がベイルートを暗殺する様を嬉々として見物するサラの姿が見られると思ったのだが。期待外れではあったがその精神の強さに感心しないでもない。  だが、それだけだ。  俺は袖からサラの手を振り払い、振り向き様に彼女のみぞおちに拳を叩き込んだ。濁った声を口から押し出し、サラがその場に膝をつく。当然のことだがサラに止められたところで暗殺をやめるつもりは全くなかった。ただの戯れにすぎない。  と、サラがゆっくり顔を上げた。みぞおちを押さえ、苦しげに喘いではいるが瞳の光は失われていない。下唇を噛み、涙に濡れた瞳で俺を見上げている。  俺はサラに背を向け、ドアノブに手をかけた。 「それが精神の限界だ」  言い残し、部屋に入る。後ろ手に扉を閉じる寸前、 「分かってるわよ。だからあなたを取材してる」  サラの呟くような声が聞こえた。何も答えず、無言のまま扉の鍵を掛ける。意味はよく分からない。だがサラが俺の部屋に来た時、自分を認めさせるために俺を利用すると言っていた事を思い出した。  目を閉じ、頭の中から余計なものを追い出す。  今考えても仕方がない。思考を切り替えろ。仕事だ。  背中の忍刀を抜き去り、ベッドに歩み寄る。シャンデリアの光を吸い込み、刃が鈍く、橙色に染まっていた。  少女を攻め立てることに夢中でベイルートは俺に気が付かない。俺は軽くため息をついて歩を進めた。足音は消していない。それでも気付かれないのだから問題はなかった。ベイルートはたるんだ腹を揺らし、無心に腰を振っている。少女は焦点の失われた瞳で宙を見上げ、時折身体を震わせていた。これでは人形と大差ない。少女の視界に俺の姿が入ったところで気付きはしないだろう。  よく聞けば少女の口からは言葉が漏れていた。ごめんなさい、ごめんなさい、とうわ言のように繰り返している。顔だけではない。痣は体中に広がり、両手の爪は全て剥がされていた。細い指が血に汚れている。  なるほど、いい趣味だ。  口元を皮肉げに歪め、俺はベッドの脇に立った。 「なん」  俺の姿に気付き、目を見開いたベイルートの口から漏れたのはそれだけだった。  ぱく、という喉の裂ける音が聞こえたような気がした。  沈黙。  ベイルートの身体がゆっくりと後ろに倒れる。瞬間、真紅の間欠泉が天井近くまで吹き上がった。錆に似た臭いが一気に広がり、降り注ぐ血の雨が純白のシーツをどす黒く染めていく。  ごぼごぼと口からも血を吐き、痙攣するベイルート……だったものを見下ろし、俺は静かに息を吐いた。懐紙を取り出し、血に汚れた刃を拭う。投げ捨てられた懐紙がベッドの上で血を吸い、白から赤へとその身の色を変える。忍刀を鞘に収めた俺は少女に視線を向けた。少女はその場から動こうともせず、少しだけ首を傾けて俺を見上げている。目の前で起こっていることが理解できないのだろう。もっとも、それは人が死んだからではなく少女の精神状態によるものだ。今の状態では目の前で猫が鳴いても理解できないだろう。  焦点の合わぬ瞳で俺を見つめたまま、ふと少女が口を開いた。 「カミ……サマ?」  面白い冗談だ。 「俺の国には死を司る神がいるが、この国の神は人を殺さないことになっている」  まぁ、言ったところで耳に入りはしないだろうが。案の定少女は俺の台詞に反応することもなく、ただ首をかしげている。 「ここで起こったことは忘れろ。全てな」  それだけ言い残し、俺は部屋を後にした。扉を閉じる寸前、ありがとう、の一言が聞こえたが気のせいに違いない。もしくは面白くもない冗談だ。  廊下に戻ると疲れたような顔で壁に背を預け、突っ立っているサラと目が合った。 「血の匂いがする」 「当たり前だ」  それだけ言って俺は廊下を歩き出した。後ろをついてくる足音はわずかに重い。  気の抜けた見張りどもがベイルートの殺害に気付くのは夜が空けてからだろう。今回はお荷物がいたが、それでも楽な仕事だった。  肩越しに振り返り、背後のサラを見やる。うつむき、肩を落としてふらふらと歩くサラに俺は立ち止まった。体に変調をきたしている事は明らかだ。先ほどの一発が意外と響いたのだろうか。手加減したつもりなのだが。  どうした、と問おうとした時だ。突然前のめりにサラが倒れた。 「おい」  呼びかけるも返事はない。ただ指先がわずかに動いている。仕方なく歩み寄ろうとすると、床に肘をついたサラがゆっくりと上半身を起こした。額に大粒の汗が滲み、かなり辛そうだが、 「ごめんなさい。立ちくらみがしただけだから」  そう言って力なく笑う。笑いながら口許に手を当てた。  激しい咳。  細い指の間から濃い色をした液体が零れ落ちる。自分の手のひらを呆然と眺めるサラ。俺はサラの元に歩み寄り、膝を折った。先程嫌というほど嗅いだ血の匂いが再び鼻腔を抜ける。 「血って初めて吐いたけど、結構きっついのね」  そう言うサラの瞳はどこか虚ろだ。  俺は一つ大きく舌打ちして女を抱きかかえた。このタイミングで血を吐くなど、狙って嫌がらせをしているとしか思えない。腹の中で寄生虫が暴れるにはまだ時間があるはずだ。となるとこの女、先程公園で薬を飲んでいたが病気持ちなのだろうか? 「とりあえずここからは連れ出してやる。あとは適当な病院で捨てるぞ」 「優しいんだ、暗殺者のくせに」  サラの声はか細い。 「お前にこんな所にいられたら俺が迷惑する」  もう一度大きく舌打ちして、俺は廊下を駆け出した。  あの夜から五日。その日俺がベッドで寝ているとアウルポスト社の新聞と共に一通の手紙が届いた。差出人はあの女だ。手紙には丁寧な字で『記事が新聞に載りました。病気のせいで一度しか取材できなかったけど、いい記事が書けたと思います。よかったら読んでみてください』と書いてあり、最後にとある場所の住所が記されていた。  とある場所……頭の中に地図を描く。病院だ。  ただ、あの夜俺が女を担ぎこんだ病院とは違うようだが。やはりサラは持病を抱えていたようだ。サラが寄生虫の卵ををあおった理由が何となく分かったような気がした。  俺は手紙をテーブルの上に置き、新聞を広げた。目当ての記事を探し、目を通す。記事は社会欄に割と大きなスペースを取って掲載されていた。記事を読み終えた俺は新聞から視線を上げ、短く息を吐いた。特に何か感想があるわけではない。だが少なくとも腹が立つような文章ではなかった。現在の俺よりも過去の俺、両親を殺された俺に重きを置き、この『不幸な少年』を救えなかった社会に対して問題を提起する。よそ者を排除する傾向の強いこの国の社会性に対する反抗か。まぁ、移民であるあの女が書きそうといえば書きそうな記事だ。 「不幸な少年か」  一人呟き、微かに口許を緩める。  俺は自分のことを不幸だと思ったことはない。だが他人から見れば不幸な状況にある、ということは理解していた。事実『そいつらが正しいと思っている道』に俺を引き戻そうと、何人もの善人が俺の前に現れては去っていった。だから女の書いた記事にも腹が立たなかった。あの当時、俺が不幸な少年だと思われていたのは事実だからだ。  まぁそんなことはどうでもいい。俺にはあの女に訊いておかなければならない事がある。  俺は新聞をベッドに放り投げ、上着に手を伸ばした。  俺が病室に姿を見せた時、サラは驚きながら少しだけ笑った。薄緑色の病室着に身を包みベッドの上で上半身を起こしている。病室の窓、吹く風に揺れるレースのカーテンを視界の端に捕らえつつ、俺はベッドに歩み寄った。  見舞いの花も持たずやって来た黒衣の男、つまりは俺に同室の入院患者達の視線が集まる。死の匂いを感じでもしたのだろうか。だが、注目されるは嫌いだった。  俺は一度病室内を見回した。それだけで集まっていた視線が霧散する。 「記事、読んでくれた?」  無言で肯く。 「感想聞かせてよ」 「腹は立たなかった」 「なによ、それ」  サラは不満げだ。眉間に皺を寄せ、口を尖らせている。黙っていてもその表情は変わりそうにない。仕方なく俺は頭の中で言葉をまとめた。 「書いてあるのは俺のことだ。自分が一番よく知っている。記事を読んだところで未知との遭遇があるわけでもなければ知的好奇心が満たされるわけでもない」  息を継ぐ。サラの表情が陰った。 「だが、俺以外の人間が読めば面白いだろうな。こんなネタ、そうはないだろう」  言って俺は微笑した。 「なんだ、普通に笑えるんじゃない」  呆れたような声でそんな事を言われる。意味が分からない、という顔をしているとサラが首を横に振った。 「何でもない。物珍しかっただけ。でも、あなたに笑ってもらえて少しだけ安心した」  組んだ自分の指を見つめ、サラが嬉しそうに笑う。 「そんなに悪い記事じゃなかったってことかな」  同意を求めるような口調。俺は小さく息を吐き、 「そうだな」  と短く答えた。 「やった」  サラが両方の拳を握り締める。喜びを噛み締めているといった表現がぴったりだった。 「走り回りたい気分」 「好きにしろ。天気も悪くない」  ベッドの上で軽く腕を振るサラからレースのカーテンが揺れる窓に目をやる。空は呆れるほどに青かった。苦手な景色だ。落ち着かない。俺は視線をサラに戻し、口を開いた。 「元々長くなかったのか?」  サラの顔から笑みが消える。手元の一点を見つめ、彼女は固まってしまった。かと言ってこちらか言葉を継ぐつもりもない。どうあがいたところで時間は余っていた。サラが口を開くまでの、暇つぶしを探すべく病室を見回したがあいにく興味を引くようなものは何もなかった。仕方なく栗色のサラの頭を見ながら、何も考えず、ただ待つことにする。 「もって、あと一ヶ月だって言われてた。今はお腹の虫さん次第だけど」  こちらを見ることもせず、サラが言う。その声は意外と落ち着いていた。俺にしても別に驚かなかった。まだ予想の範囲内だ。 「お前がたかだか数十行の文章に命を掛けられたのも、どうせ散るならば、という思いがあったからだろう」  サラはしばらく間を置き、そうね、と一言だけ答えた。 「静かに死を迎えようとは思わなかったのか?」 「ぜんぜん。趣味じゃないもの、そんなの」  こちらに顔を向け、サラが笑う。 「それに、このまま死んだんじゃ悔しいしね。どうしても一矢報いたかったの」 「誰に」  俺の問いにサラが小さく吹き出す。自分の笑い話に自分で笑ってしまう奴がまれにいるが、今のサラがまさにそんな状態だった。 「かっこつけて言わせてもらえるなら正義に、かな」  そう言ってサラはまた少しだけ笑う。それから表情をあらためたサラにこんな事を訊かれた。 「正義って誰が決めてるんだと思う?」 「さぁな。そもそも俺はこの世に正義が存在するとは思ってない」  ただ欲望があるだけだ。  俺の答えにサラが微笑む。 「あなたらしい。でもね、大部分の人たちにとっては違う。それぞれの心の中に自分の信じる正義があるの。そしてそれぞれの正義がある同じ方向を向いて、一つになったとき社会的な正義が生まれる」  言葉を切ったサラは小さく喉を鳴らし、言い切った。 「その正義を決めているのが情報よ」 「お前の言う社会的な正義とはつまり世論のことか?」  サラが、ん、と一つ肯く。 「私ね、新聞社に勤めるようになって色んなことを知った。政治家からお金を貰って対立陣営をこき下ろすのなんて当たり前、自社のカラーに合う情報ならウラもとらずに載せてしまう。例えそれが誤報であってもほんとに小さい訂正記事を載せてそれでおしまい。ときには記事の捏造さえしてしまう」  サラの口調が次第に熱を帯びてきた。 「特に移民関係の記事は酷くて、犯罪者の統計なんて一桁くらい違ったりするの」 「結果、移民の排斥がこの国にとっての正義になってしまったと」 「確かに私たちはよそ者よ。でも、情報を操作されて排斥されなければならないほど罪深くもないと思う。まじめに働いてきちんと税金を納めている人が大部分なんだから」 なるほど。過去、安価な労働力としてこの国が移民を求めたのは事実だ。まぁ、景気が悪くなれば今のように邪魔者として扱われるわけだが。 「で、それが俺の所に来たのとどう関係する」 「カラタ賞って知ってる?」  俺は二秒ほどかけ、その単語の意味を頭から引っ張り出した。 「その年一番の記事に送られる賞だ。ここ二、三年審査員はそろって無能だがな」 「それがね、あと一週間で発表されるの。私のは締め切りぎりぎり」  狙うつもりか。  驚き、わずかに目を大きくした俺を意思のこめられた瞳で見つめるサラ。 「もし、私が賞を取れたら新聞業界での移民の地位も少しは上がるかなって。そうすれば移民を不当に貶めた記事が掲載され続けてるこの状況も少しは変わるかもしれないし」  俺はサラと初めて出会った時の事を思い出していた。私をみんなに認めさせる。そのためにあなたを利用する。あながち誇張された台詞でもなかったようだ。この女は本気で俺を踏み台にするつもりだったらしい。 「あの夜、私に言ったこと覚えてる?」  俺に分かったのは「あの夜」がベイルートを暗殺した夜だということだけだ。どんな会話を交わしたかなどいちいち覚えていられない。仕事を行ううえでの情報でもないものを。  俺は首を横に振った。 「それが精神の限界だ、って言っでしょ」  サラから言われても思い出さなかった。ただ、俺の中にある哲学の一つであることは間違いない。 「力なき信念に意味などない」 「うん、だから私には力が必要なの。カラタ賞、っていう分かりやすい力が」  野心家、か。  目を閉じ、俺はサラには分からないほど微かに口元を緩めた。計画性の欠片もない生き方だ。近所の山を適当に登り、振り下ろしたつるはしが即金鉱にぶち当たれば苦労しない。もっとも、俺も人のことを言えた義理ではないが。 「審査員は全員お前の、移民の敵なんだろ。とれるのか?」  閉じていた目を開き、問う。確か審査員は全員この国生まれの人間だったはずだ。 「それは神のみぞ知るってところね。でも私は信じてる。だって今年一年ロクな記事がなかったもの」  サラが吹き出す。その笑顔は明るかった。まぁ、確かに俺が読んでいる大手二社の新聞には今年一年、というかここ二三年ロクな記事がなかった。あとは個人の思惑と時流がどの方向を向くか、だろう。  俺は踵を返し、女に背を向けた。 「もう会うこともないだろうな」 「あ、つれないなぁ。お見舞いには来てくれないの?」  肩越しに振り返る。サラは小首をかしげて微笑んでいた。近所に住んでいる野良猫がよくこんな表情をする。それは餌を求める仕草だ。俺は気が向いたときにしか餌はやらない。 「最後に訊いておきたい事がある」  サラの肩が微かに震え、身構えたのが分かった。 「お前は、新聞というメディアをどうするつもりだ」 「信じるに足るものへ」  即答だった。唇を引き結ぶサラを見つめ、俺は皮肉げに笑った。 「ふざけた話だ」 「そんな、私は真剣に」  言葉を継ごうとしたサラを視線で制し、正面に向き直る。 「これから死ぬ人間が未来を語るなんてな」  それだけ言い残し、俺は病室を後にした。  エピローグ  その日、昼過ぎに目覚めた俺はベッドから降り、いつもと同じようにドアの下から差し込まれている新聞を上半身裸のまま手にとった。  同じベッドで眠っているエレナが身じろぎして、小さく声を漏らす。  いつもと同じようにつまらない記事を、いつもと同じように一面から読んでいく。そんなにつまらないのなら読むこともない気がするが、ほかにすることもない。それに、一度ついてしまった習慣というものはなかなか抜けるものではなかった。  新聞をめくっていく。  普段ならペースを崩さず通過してしまう社会面。ただ、その日は違っていた。  カラタ賞決まる。  心中で見出しを声に出して読み、俺は記事を追った。 『先日発表されたカラタ賞においてサラ・バークレイ氏(アウルポスト新聞社 22歳)の『暗殺者になった少年』が大賞を受賞した。バークレイ氏は両親を殺され、暗殺者となった異国の青年にスポットを当て、彼の辿ってきた人生を描くことで我々が住む社会に潜む他者とのつながりの薄さを抉り出しており……』  本当に取るとはな。  喉の奥でうめくように笑う。どうやら一発で金鉱を掘り当てたようだ。あの長々とした取材にも意味があったというわけか。  ベイルートが死んだことにより移民に対して融和政策をとる政党が台頭してきたことも受賞の一因だろう。政治的な干渉があったことはまず間違いない。  人権、平和、協力、反省。良識派を気取る人間にとっては甘美なスローガンだろう。そんな良識派を煽るのにサラの記事はうってつけだったということだ。  しかしベイルートの暗殺とサラの受賞。話ができすぎているような気もする。俺がベイルートを暗殺し、結果サラはカラタ賞を受賞し、その記事は移民に対して融和政策をとる政党に有利なものだった。俺とサラの間には取材する者、される者、以上のつながりはない。あれだけの事を言っていたんだ、サラと政党の間にもつながりはないだろう。  俺の依頼人にしてもベイルートに個人的な恨みがあるだけだと言っていたが、裏ではもっと大きなものが動いていた可能性がある。だとすると……。  考えようとして、やめた。今さら詮索しても仕方がない。終わったことだ。  この国の空気が少し変わるかもしれない。それだけの事だった。  俺はさらに記事を追った。受賞者のコメントも一緒に掲載されている。 『……この度、このような素晴らしい賞を頂き本当に嬉しく思っています。と同時に驚きを隠せないでいます。まさか自分が選ばれるなんて夢にも思っていませんでした……』  よく言う。  鼻から息を吐き、続きを読む。 『……彼に取材を申し込むまで本当に何日も何日も悩みました。相手は現役の暗殺者ですし、無事に取材を終えられる保証なんてありませんでしたから。でも、友人の協力もあり何とか記事を書くことができて、本当に良かったと思います。また彼の話に私自身多くのことを考えさせられました。これから先、生きていくうえでたくさんの、大切なことを学んだような気がします。ただやはり精神的にきつく胃に穴を開けたりもしましたが……』  案の定、か。  あの夜、屋敷で吐血したサラの姿を思い浮かべ、俺は頭をかいた。予想していたとはいえさすがに呆れてしまった。途中まで気付かなかった自分自身に。しかしそうなると共犯者がいるわけだが、果たしてどうしてやるべきか。  背後でエレナが起き上がる気配がする。とりあえずそちらは無視して俺は記事を読み進めた。 『最後に、これは私信になるんですけど取材に協力してくれた彼に一言。クロちゃん、ごめんね。でもあなたなら大丈夫だと思うから。エレナのこと、大切にしてあげて』  そこまで読んだところで新聞から顔を上げる。振り向けば目を覚ましたエレナがベッドの上で目をこすっていた。当然一糸まとわぬ姿だが、今さら気にする必要もない。 「んー、おはよ」  寝ぼけまなこのエレナに無言で新聞を突きつける。焦点を合わせるのにたっぷり五秒以上使い、エレナは間の抜けた声で言った。 「あ……カラタ賞決まったんだ」  ブルーの瞳がゆっくりと左から右へ動く。体内時計で計ったところによると、俺がエレナに新聞を突きつけていた時間は三分と十二秒だった。 「あ、やだ、あの娘ったら。大切にしてあげてね、なんて」  挙句、出た台詞がこれだ。  俺は新聞を床に放り投げ、ただ無言でエレナを見つめる。エレナはしばらく視線をさ迷わせていたが、やがて糸の切れた人形のように、かくん、とふざけた動作で頭を下げた。 「ごめんなさい」 「説明しろ」  言いながらベッドの上、エレナの隣に腰掛ける。安物のベッドは相変わらずよくきしんだ。 「あのね、サラにあなたのこと紹介したの私なの」 「知り合いだったのか」 「一度彼女の取材を受けたことがあって、それ以来」  うつむくエレナに俺は大きく腕を振って息を吐いた。 「じゃああの日、彼女が来ることを知っていたのか」 「うん。わたしがあの時間に来るようにって言ったの」 「なぜ」 「だってあなた、その、したあとが一番優しいし」  エレナが俺を上目遣いで見つめる。  確かにそれは間違っていない。事実俺はサラと交渉を行い、結果取材を受けることになった。これが機嫌の悪い時であったなら顔面に拳を入れていた可能性もある。  と、不意にエレナが詰め寄ってきた。 「でも勘違いしないで。あのときの言葉は嘘じゃない、から」  不安そうな顔をするエレナ。その頭を軽く叩いてやる。 「分かってる。お前が本気だと思ったから俺も嘘は言わなかった」 「うん……」  抱きつかれた。柔らかい金髪が素肌に触れ、くすぐったい。 「なぜこんなまどろっこしい事をしたんだ?」 「それは、サラがあの手の人は普通に行ったんじゃ上っ面しか見せてくれない。奥まで見ようと 思ったらちょっと捻らないとね、って」  確かに、あの女が命を懸けると言わなければ、俺は彼女をベイルートの屋敷にまで連れて行ったりはしなかっただろう。自分の過去を話したかどうかさえも怪しい。 「ということは、あれも」 「ぜんぜん……寄生虫の卵なんかじゃない」  俺は大きなため息をつき、手で顔を覆った。つい喉の奥から笑い声を漏らしてしまう。 「俺をはめて恐いとは思わなかったのか? これでもそれなりに実績のある人殺しなんだが」 「思ったよ」  エレナがベッドを降り、俺の前に立った。その素晴らしい肢体を見せつけるように一拍置いて服を着け始める。俺も放り投げてあった黒シャツを何となく手に取った。 「だから、サラは最後の一手を打ったんだと思う」  最後の一手?  心中で反芻したときだった。唐突に、それもかなりせわしなく扉が叩かれる。俺は反射的に忍刀をつかむと何があっても動けるように腰を落とした。その瞬間、激しく扉を蹴破り、銃を手にした数人の男が部屋になだれ込んでくる。 「警察だ! 動くなっ!」  と言われて動かないわけにはいかない。捕まれば確実に死刑だ。 「一時五分、六件の殺人容疑でお前を……おいっ!」  そんな刑事の声を背後に聞きながら、俺は窓を破って屋外に身体を躍らせた。耳元で風が唸る。俺が住んでいるのはアパートメントの四階だが問題ない。下は運河だ。工場廃水で汚れきってはいるが死ぬことはないだろう。  最後の最後までやってくれる。  サラが「あなたなら大丈夫だと思う」と言った理由が分かったような気がした。  自分から人を警察に売っておいてよく言う。  黄土色をした、冷たい運河に窓の破片と共に叩き付けられながら俺は笑った。これだけきっちり警察に目をつけられてしまったんだ。もうこの街には、いや、国にすらいられはしない。この手の情報はあっという間に広がってしまう。だれも仕事を依頼してくれはしない。こうなった以上、警察は威信をかけて俺を捕らえようとするだろう。俺にしても国内で下らない鬼ごっこをするつもりはなかった。さっさと国外へ出てしまうに限る。結果としてサラの命は守られることになったわけだ。  その時、俺の隣で盛大な水柱が上がった。  ややあって、水面に顔を出したエレナが大きく息継ぎをする。 「なぜお前まで飛び込む」 「嫌いなの、警察って。わたしだって全く脛に傷がないわけじゃないし」  そう言ってエレナは今しがた自分が身を投げた窓を見上げた。窓からは二人の刑事が身を乗り出し、何やら叫んでいる。だが、飛び降りてくるだけの根性はないらしい。  俺はふと恐ろしい考えに思い至り、エレナの顔を凝視した。 「まさかお前、始めから俺と一緒に逃げるつもりだったのか」  詰め寄る俺に全身びしょ濡れのエレナがあげたのは実に乾いた笑い声だった。ひとしきり笑った後で、 「だめ?」  と小首を傾げてみたりする。 「俺は、今ほど女を怖いと思ったことはない」  サラとエレナの間ではここまでのシナリオが完璧に出来上がっていたのだろう。いくら馴染みの仲だとはいえ、ここまで他人の思惑通りに事を運ばれるとは。 「もしお前が俺を狙った暗殺者なら、完全に殺されていた」  自嘲気味に笑う俺に対して、エレナが浮かべたのは照れたような微笑だった。 「でも嬉しい」 「何がだ」  指先だけを触れさせた両手を水面から半分出し、エレナが頬を赤くする。 「騙されたってことは、それだけ信じてくれてたってことだから」  俺は手の甲で水面を払い、無言でエレナの顔に水をかけた。 「いたぞ! あそこだ!」  叫ぶ刑事の声がする。どうやら連れて行け連れて行かないの押し問答をしている暇はないらしい。 「勝手にしろ。面倒はみんからな」 「ありがとう。大好きよ」  抱きつこうとするエレナ。俺は再び手の甲で水面を払った。 「そんなことをする暇があったら泳げ」 「……うん」  冷たい運河の中、なぜこんなことになったんだろうかと己の運命に問いながら、俺はただひたすら手足を動かし続けた。