猫と魔術  プロローグ  竜が天を舞い、己の全てを只一振りの剣に賭けた男がいた。聖なる乙女は精霊と言葉を交わし、魔法使いと呼ばれる者たちは、その手に炎を、風を、雷を、そして時には光と闇さえも宿した。  自然の理を探求し、無から新たな生命を、石から金を生み出そうとした錬金術師たち。  暗き森には人知を超えた生物が潜み、新天地を求め海原に漕ぎ出した船を巨大な渦が飲み込む。  世界は不思議と冒険に満ちていた。  だが、この世に生きる全ての人間が不思議と冒険を求めた訳ではない。  平凡ながら安定した毎日を選んだ人々もいた。時として持ち上がる問題も役所に訴えれば大抵の事は解決してくれる。  退屈である、という自覚さえしなければ幸せな生き方なのかもしれない。  さて、そんな人々の「退屈」を守ることを仕事にしてしまった者たちがいる。役所の市民生活保護課、要するに厄介事処理係である。  時は新暦1254年、海の月第三週の五日、朝。舞台は田舎街トゥール、市民生活保護課。  物語はそこから始まる。  1  その日、役所が開くと同時に入ってきた三人の女の子が、俺に向かって差し出したのは一匹の子猫だった。何でも学校へ行く途中に、一人ぼっちで道のまん中に佇んでいたのを見つけて連れて来たそうだ。  女の子たちが言うには、この子猫は迷子で飼い主が絶対に探している、とのこと。首輪をしているのが「飼い猫」の証拠だと女の子たちは考えたようだ。  両手で子猫を抱えた俺に向って女の子たちは「ちゃんと飼い主の所に届けてあげてね」と異口同音に言うと最後に三人そろって頭を下げた。  それが少し前の話。  今、俺は自分の机に子猫を乗せ、ただじっと見つめ合っていた。  市民生活保護課に配属されてからそろそろ二年になる。この地方では珍しいダークブルーの髪と瞳が人の目を引くが、それ以外はどうということもない。特に顔がいいわけでもなく悪いわけでもなく、言ってみれば普通の青年。  それが俺だ。  あえて特徴付けをするならば、真面目そう、ということになるか。  自分で言うのもなんだが。  一方の子猫はというと、黒一色の毛に鈴の付いた赤い首輪。大きな目は澄んだ空色をしていた。子猫は机に積み上げられている書類の間におとなしく座り、少しだけ首を傾けて俺を見上げている。 「さて、どうしたもんだろ」  心中でつぶやき、俺は腕を組んだ。悩んでいるのは飼い主の探し方ではない。今までの経験からして、この子猫が本当に飼い猫であれば、そのうち飼い主が名乗り出てくるはずだ。子猫をぶら下げて町を歩き回る必要はない。  問題は、飼い主が出てくるまでこいつをどうするか、ということだった。  机の上に積み上げられた書類を見れば分かるように、一日中子猫の相手をしていられるほど俺も暇ではない。左隣に座っていた後輩は大きな鞄を持ってすでに出かけてしまったし、右隣の先輩は陳情書に回答すべく羽ペンを走らせている。皆が自分の仕事に没頭していた。 「とりあえず箱に入れて、ミルクでもやっとくか」  顎に手をやり、再び心中で漏らす。確か裏口の辺りに清掃課が集めたゴミが焼却されずに残っていたはずだ。木箱の一つや二つはあるだろう。  物珍しげにインク瓶の蓋を叩いていた子猫の首根っこをつまみ、俺は裏口に向った。かなり年季の入った板張りの廊下が、一歩踏み出すたびにみきみきと妙な音を立てる。途中、休憩室に配達されていたミルクの缶からコップ一杯分ほど失敬した。  思った通り裏口には焼却前のゴミが小さな山になっていた。ほとんどが木板や屑木、そしてお目当ての木箱だが、ナベカマの姿もちらほら見える。どうやら分別作業もまだ終わってないらしい。  ミルクの入ったコップと子猫を地面に置き、俺は適当な大きさの木箱をゴミの山から引っ張り出した。ゴミ山の頂上が崩れ、転がり落ちたナベに驚いたのか、子猫が跳びのく。首輪に付けられた鈴が可愛らしく鳴った。  軽く頬を緩めつつ子猫を木箱に入れてやる。  「それにしたって汚い箱だね」 「まぁ、ゴミだからな」  答えて、ふと空を見上げる。どこまでも高い青。綿のような雲がゆっくりと視界を流れていく。いい天気だった。ただ、続きすぎている。夏には水が不足するかもしれない。めんどくさいんだよな、節水のお願いに一軒一軒回るのって。 「俺は今……誰と喋った?」  数ヶ月先の夏に飛んでしまった己の思考を呼び戻し、俺は自問した。それから子猫、と自答しそうになった自分を慌てて否定する。  きのう飲めない酒を無理して飲んだのが良くなかった。慣れないことはするものじゃないな、ほんとに。  俺は箱の前にしゃがみ、指先で子猫の小さな顔を撫でながら苦笑する。 「まだ酒が抜けてないのかもな」 「二日酔い? だったらモールの実をお茶に入れて飲むといいよ。モールの実にはお酒を消すエレメントが含まれてるから。あっ、でもこの季節じゃ無理かな。秋じゃないと実はならないよね」  実に饒舌だ。そう、実に。  俺は無言で立ち上がり、人さし指でこめかみを掻いた。 「ちょっと待ってろ」 「うん。待ってる」  できれば聞きたくなかった返事を聞き、俺はみきみきと鳴る廊下を早足で抜けて市民生活保護課に戻った。研修中に教えてもらった「困った事があれば誰かに必ず相談する事」というのを忠実に実行するためである。 「ティアさん」  俺の右隣の机で羽ペンを走らせている先輩に向って小声で呼びかける。ティアさんは手を止めると、少し不機嫌そうに俺の顔を見上げた。黒髪黒瞳、目の覚めるような美人。街を歩けばほとんどの男が、時には女でさえ振り返る。  彼女を目当てに、用も無く役所に通ってくる人間まで出る始末だった。  涼しげな目元にすっと通った鼻筋。黒曜石を思わせる透明感溢れる瞳に対して肌は驚くほど白い。その中にあって赤い唇が……っと、今はティアさんの容姿について云々してる場合じゃない。 「何?」  研修中にお世話になった先輩の細い指の上で、ペンがくるりと弧を描く。手短にお願い、というティアさんの意思表示だった。  俺はいつの間にか乾いていた唇を舐め、ティアさんに耳打ちした。 「猫が喋りました」  一瞬の沈黙の後、何だか鈍い音が辺りに響く。 「朝から馬鹿なこと言ってないで仕事しなさい」  あまりの痛さにうずくまってしまった俺に、ティアさんはそっけ無く言った。  しかし蹴りますか、脛を。  ああ、確かに自分でも馬鹿だと思いますよ。鉄格子のついた病室に放り込まれた患者みたいなこと言ってますよ。  でも事実なんです。少しくらい信じてくれてもいいじゃないですか。  などとは間違っても口に出せない。俺は痛みににじんだ涙を拭いつつ「お願いですからちょっと来て下さい」とかなり情けない声で言った。  そんな俺を哀れにでも思ったのか、ティアさんが小さく息を吐いて立ち上がる。 「ったく。そんなことだから新しい恋人の一人もできないのよ」 「全く関係ないうえに、きっぱりとお互い様では」  俺の余計な一言にティアさんの瞳が嫌な光り方をする。 「死にたい?」 「いえ、それはちょっと」  俺は本能的に視線をずらした。多分今のを人殺しの目と言うのだろう。 「とにかく裏口にいますから、お願いします」  そう言って俺はティアさんの先に立ち、裏口に向った。  俺が戻った時、子猫は箱の中にはいなかった。といっても行方不明になっていた訳ではない。箱のすぐそば、地面に置かれたミルク入りのコップを抱きしめて舌を伸ばしていた。一生懸命、という単語がこれほど似合う猫も珍しい。  子猫は舌を出したまま上目遣いに俺を見つめた。黒い毛が口の周りだけミルクで白く染まっている。 「お帰り。あのさ、もう少し浅い入れ物に移してもらえないかな、これ」  馴染みの客が酒場のマスターにでも言うような口調。俺は「でしょ?」とティアさんを見やった。だが俺の視線に何の反応も示さず、ティアさんはじっと子猫を見下ろしている。驚きに声もでないのかと思ったが、表情からしてどうもそうではないらしい。何か考えているような、そんな感じがする。  ティアさんはその場にしゃがみ込むと、ミルクを自分の手のひらに注いで子猫の前に差し出した。それからふと思い出したように微笑む。 「どうぞ」  子猫は一瞬戸惑いの目でもってティアさんの顔を見上げたが、すぐにミルクを舐め始めた。よほど腹が減っていたのか、かなりの勢いで舌を動かしている。二日酔いの治し方なんて人に教えてないで飢えているなら飢えていると言えばいいのに。せっかく喋れるんだから。見栄でもはったんだろうか。 「変な奴」  外には漏らさないように口の中で呟く。まぁ、喋れるというだけで既に相当変ではあるのだが。しかし考え様によっては幸運だったかもしれない。喋れるということは即ち人間と対話ができるということであり、こいつがどこの誰かなんてことは本人から直接聞けばいいのである。  見た目は子供でも喋り方からするにかなりしっかりしているようだし、泣き喚く子供より対応は楽そうだった。  家がこの近くなら一人で帰ってもらえばいいし、遠ければこいつを抱えてひとっ走りすればいいだけの話。その程度なら他の仕事に支障をきたすこともないだろう。まさか街の外から来たなんてことはないだろうし。 「ありがと。ごちそうさま」  やがてコップ一杯のミルクを飲み干した子猫は澄んだ空色の瞳でティアさんを見上げ、ぱたぱたと尻尾を振った。ティアさんは何も言わずに微笑む。人間に対してもそれだけ愛想が良ければ今ごろ貴族の奥様にでもなっていたかもしれないのに。余談だがティアさんは人にほとんど笑顔を見せない。理由は分からないがとにかく笑わない。  そんなわけで課内では「美人だけど可愛げがなくて冷たい女性」として通っていた。  ただ運がいいと今みたいに人間以外のものに向って微笑んでいるティアさんを見ることができる。はっきり言って確率はかなり低い。だいたい晴れ雨に遭遇するのと同じくらいだ。  実は前に一度俺はティアさんに「何で笑わないんですか? 人間不信にでも陥ってるんですか?」と訊いてみた事がある。ティアさんは書類の束で俺の頭をはたいてから「笑いの感覚が違うだけ。あなたと私のね」と実につまらなそうに答えてくれた。  それ以来この話題には触れていないが、よく考えたら殆ど笑わないというだけで、別に後輩をいじめるとか仕事も出来ないのに威張り散らすとか、そういう問題を抱えた人ではないので俺も気にしないことにした。  さて、それはともかく。 「あなた、使い魔ね」  両手で子猫を抱えあげたティアさんの口からいきなり発せられた聞きなれない単語に、俺の口は「どこから来たんだ、お前」の「ど」を形作ったまま固まってしまった。  聞き慣れない単語とはもちろん「あなた」ではなく「使い魔」の方である。 といってもその意味すら知らないわけではない。ただきっちり説明すると長くなるので、魔法を使う人間に使役する事を目的として特別な方を用い、人並みの知能を与えられた生物、という魔法学のテキストからの引用に留めておく。  要するに魔法使いの使いっぱしりだ。  ただし、その使い魔が合法的に存在できたのも今から百年ほど前までの話。いつの時代にも悪い奴はいるもので、使い魔を悪事に利用する者が出始めた。そりゃ家の周りを猫がうろついていたら世の奥様方は晩御飯のおかずになる魚の心配くらいはするけど、へそくりを貯めて旦那には内緒で買った指輪の心配まではしないだろう。そこに目を着けた奴がいた。  そんなわけで使い魔による窃盗が爆発的に増えたのだ。そもそも使い魔ってのは卒業試験(向上心旺盛な魔法使いは入学試験とも言うが)みたいなもので、魔法使いは使い魔を持てて初めて一人前とみなされるわけだ。ただそれが金になるものだから盗賊や闇ギルドに使い魔を売る魔法使いが出始めた。需要があるから供給されているのか、供給が需要を生み出しているのかは知らないが、とにかくその当時、禁令が出るまでかなりの数の使い魔が取引されたらしい。  そして実は今でも使い魔の闇取引は行われている。年に何度かは使い魔を使ったとしか思えないような窃盗や殺人がおこるし、悪質な魔法使いも捕縛されている。一度吸った甘い汁はなかなか忘れられないようだ。  さて、となるとティアさんに抱えられているこいつは存在自体が不法ということになる。といっても別にこいつが悪いわけではないが。  ちなみにティアさんがこいつのことをすぐ使い魔だと分かったのは、彼女が魔法使いだからだろう。ならば猫が喋る可能性があるということは分かっていたはず。それでも尚俺を蹴る。ティアさんとはそういう女性だ。 「あなた、主人は誰」  子猫に訊くティアさんの声に少しだけ冷たいものが混じる。魔法に関してはかなり真面目なティアさんのこと、禁を破って使い魔を作り出した魔法使いに少なからず怒りを覚えているようだ。抱えている子猫をどうこうするつもりはないだろうが、主人の方には何らかの警告と書いてヤキ入れと読む行為がなされるだろう。  死人が出なければいいが。  子猫はティアさんの顔を見たまま黙っている。初めは主人をかばっているのかと思ったが、そうではなかった。 「分からないんだ。まったくもって困ったことに」  どう見ても顔は困ってなかった。いや、それ以前に猫は困った時に困った顔をしただろうか。 「何だよその、分からないってのは。記憶を道にでも落したのか?」 「そうみたい。紛失届はここでいいんだよね」  そう言ってティアさんに抱えられている子猫はぱたぱたと尻尾を振った。俺とティアさんは顔を見合わせてとりあえず肩などすくめる。 「冗談はともかく本当に分からないんだ。気が付いたら道のまん中にいて、女の子に拾われてた」  今度はやや深刻そうな声。俺は人さし指でこめかみを掻き、ティアさんは首を少し傾けた。 「本当に主人のこと覚えてないの?」 「うん。何一つ」  抱えていた子猫を胸に抱き直し、小さく息を吐くティアさん。 「あの、使い魔の記憶喪失って珍しいんですか?」 「記憶喪失自体はありえないことではないわね。実際にそういう記録も幾つかあるし。でも主人のことまで忘れてしまった使い魔に会ったのは初めて」  喉を撫でるティアさんの指に子猫が気持ちよさそうに目を細める。 「でも記憶喪失なんだから主人のこと忘れてても不思議じゃないんじゃ」 「人間ならね。だけど使い魔はそうじゃない。自分の名を忘れても主人のことは忘れない。そういうものなの」  正直言ってよく分からなかった。そんな俺の顔に浮かんだ疑問符が見えたらしく、ティアさんが付け加える。 「魔法使いはね、使い魔をそういう風に作るの」  やっぱりよく分からない。  二度目の疑問符に一つ息をしてからティアさんがさらに付け加える。 「使い魔を作る時に何より重要なのは主人へ絶対服従させること。主人に死ねと言われれば死ぬ存在。だから」  そこまで言われてやっと分かった。 「何があっても主人のことだけは忘れない、いや忘れさせない」 「そういうこと」  できの悪い生徒を前にした先生みたいな口調で言って、ティアさんはうなずいた。 「しかしこいつ、そんなに稀なケースならちゃんとした研究室とかに任せた方がいいんじゃないですか?」 「それはだめ」  俺の提案にティアさんが珍しく厳しい口調で反対する。 「その、実験とか研究とかされたらかわいそうじゃない」  少しだけ視線をずらして言うティアさんに、俺はわざとらしくため息をついた。 「百分の一でいいから、その優しさを後輩に向けてくれると嬉しいんですけど」 「もったいないから嫌」  正直、優しくしてくれと言ってもったいないと即答されたのは初めてだった。 「とにかくこの子に街を見せてやって何か思い出すのを待つしかないわね。どうせあなた今日は外回りでしょ」  そう言ってティアさんは抱いていた子猫を俺の左肩に乗せた。柔らかい毛が耳に触れてくすぐったい。 「連れて行くんですか、こいつ」 「そっ、連れて行くの。私は昼休みに図書館にでも行ってみるから。何か質問異論反論は?」  俺は肩に乗っている子猫と顔を見合わせてから「ありません」と答えた。魔法使いの素質が欠片もなかった俺には魔法や使い魔に関する知識はほとんどない。俺が足を使いティアさんが頭を使う。そうなるのは当然だろう。 「じゃ、お願いね」  言って子猫の頭を撫でると、ティアさんは俺たちに背を向けて建物の方に戻っていった。  と、ティアさんの姿が見えなくなる直前、子猫が口を開く。 「ごめん。なんか面倒なこと持ち込んじゃって」  小さな、しゅんとした声に振り返ったティアさんは微笑み、俺は子猫の体を軽く叩いた。 「気にすんなって。これが俺たちの仕事なんだから」  そうでしょ? と目配せした俺にティアさんは微笑んだまま小さく手を振る。 「まっ、そういうことだ」 「うん。ありがと」  礼を言う子猫と、その耳に当たる毛のくすぐったさに頬が緩んだ。  さて、落した記憶を拾いに行くとしますか。  2  愛用の大きな黒鞄を右手に持ち、同じく黒い子猫を左肩に乗せた俺は街の大通りを最初の目的地に向って歩いていた。大通りと言ったって大きな街の路地くらいしかないのだが。それでも左右に立ち並んだ商店から響いてくる店主の威勢のいい掛け声は、出張で行ったことがある大都市のそれと全く変わらない。その掛け声に引き寄せられたのか、どの店の前にも家庭の台所を預かる女性たちの姿があった。  少しでも多く売ろうとする店主と少しでも安く買おうとする奥様方の戦いはいつどこでだって熱いのである。  俺はさりげなく肉と野菜の値段を見ながら通りを行く。朝起きた時から夜は野菜炒めを作ると決めていたのだ。予想通り今日は肉と野菜が安い。自慢じゃないが俺の頭の中には特売日の情報がちゃんと入っている。長い自炊生活のなせる技だ。  そりゃ俺だって仕事から帰ったら鞄受け取ってくれて「お疲れさま。ごはんできてるよ」なんて言ってくれる存在がほしいさ。でも役所ってのはどうも出会いに乏しくて。もうしばらく寂しい一人暮らしが続きそうな予感だ。  そんなことを考えながら歩いていると背後から蹄が石畳を叩く音が近づいて来た。一定のリズムで俺に追いついたその音が少しだけ遅くなる。  濃紺の制服に軽装の鎧。腰には一振りの剣。馬に乗っていたのはこの街の警備兵だった。警備兵が馬の上から俺を、というか肩に乗っている子猫をじっと見下ろす。  一瞬バレたのかと思って背中に嫌な汗をかいたが、やがて警備兵は一礼して俺を追い抜いていった。どうやら肩に子猫を乗せた男が珍しかっただけみたいだ。まったくまぎらわしい。 「そういえば名前教えてなかったよな」  警備兵のまっすぐ伸びた背中と蹄の音とそれに合わせて揺れる馬の尻尾が大分小さくなってから、一応辺りを見回して俺は子猫に小声で話しかけた。 「セイル・ウィンフィールド。セイルでいい。あだ名はないから」 「うん。よろしく、セイル。それで僕は」  耳元で囁いていた子猫の声がそこで、はた、と止まる。  そっか。自分の名前も覚えてないんだっけ。ということは何か付けてやらないといけないってことだよな。名無しじゃ不便だし。 「どうしよう」  言いつつ俺は左肩の子猫を見やった。 「黒いからクロ、じゃぁ余りにも安直だしな」 「だね」  ふむ、体は黒。あとは赤い首輪に青い瞳か。クロアカアオ、アカクロアオ、アカアオクロ、カとオはいらんな、何となく。それでアアクロ。アを一つ削って、こんなところかな。 「アクロってのはどう?」 「うん。いいね」  子猫が嬉しげに言う。しかし相変わらず耳に毛が触れてくすぐったい。なにはともあれ本人? の了解も得られたところで子猫はめでたくアクロになったわけだ。 「それでセイル、どこに向ってるの」 「ん、公園」  答えながら角を左に曲がり、路地に入る。周りに溢れていた喧騒が遠くなり、路地を進むにつれて吹き抜ける風の音や屋根で鳴く鳥の声が大きくなった。  風に背を押されながらしばらく進むと、やがて左手の景色がぱっと開ける。  第一市民公園。  ただそのあまり色気のない正式名称でここを呼ぶ人は少ない。この街には公園は一つしかないため、市民だの第一だの付けなくても公園といえばここのことなのである。  入り口に立てられた二本の杭の間を抜け、公園の真ん中を突っ切るように俺は進んでいった。  隅に植えられた大樹に茂る葉が互いの体をこすり合わせ、さらりとした音を立てている。樹の下に置かれたベンチでは三人の女性が口に手を当てたり振ったり時には他の人を叩いたりしながらおしゃべりしていた。周りで遊ぶ子供たちよりも元気そうで生命力に溢れているような感じがするのは気のせいだろうか。まぁ、確実に子供より声は大きいが。 「何か思い出したか」  公園を歩きながらアクロに訊いてみる。射抜くような瞳で辺りを見回していたアクロだったが、やがて首を振ってうつむいてしまった。 「まっ、最初からうまくはいかないさ」  笑いながら小さな体を叩いて励ましてやる。 「焦ったところでしょうがないしな」 「うん。そうだね。ありがと」  と、律儀にアクロが礼を言ったところで俺は本当の目的地に辿り着いた。  壊れたブランコ。人が乗るべきところがまっぷたつに割れ、二本の太縄にぶらさがっている。本来同じリズムで揺れるべき二本の太縄が風に吹かれてちぐはぐに揺れる様は見ていて物悲しかった。  その物悲しさを取り除くのが俺の仕事というわけだ。  鞄を地面に下ろすと俺は中から指三本分くらいの厚さがある、両端に穴の開いた木の板と二本の太縄を取り出した。 「いやに大きいと思ったら、そんなものが入ってたんだね」  猫らしく軽いステップで地面に降り立ったアクロが鞄を見ながら言う。 「今日は少し特別だけど、普段からあれこれ持っててほうが便利だからな。大きいとたくさん入るし」  さらに鞄から小さなナイフを取り出し、だいぶくたびれた太縄をブランコから切り離す。古びた縄に生えていたコケが手を汚した。微かに青臭くなった手を払い、新しい縄を取り付けにかかる。 「ねぇねぇセイル。こういうのって大工さんか何かの仕事じゃないの?」 「普通はな。でも委託すればそれだけお金がかかるだろ。節約ってやつだよ。役所も色々苦しくてな」  答えながらわざとらしく苦笑いしてみせる。  ここルーヴェリアという街は農業と織物によって成り立っているのだが、長雨のせいで去年の秋の収穫が思ったより悪かった上に織物の方も売上が落ちていて、正直ため息をつきたくなるような懐具合だ。  織物職人たちは「こんな年もあるさ」と楽天的だが、こちらとしてはやはり気になる。一時的なものであってくれればいいんだが。  街の財政を心配しながら、取り付けた新しい縄の強度を確かめる。引っ張るたび腕にしかっりとした手ごたえが伝わってきた。これなら大丈夫だ。  陽気のせいか額ににじんでいた汗を拭い、木板の穴に縄を通す。  ああ、そういえば訊きたい事があったんだ。 「なぁ、なんで一番初めに俺に話し掛けたんだ」  木板が抜けないようにしっかりとした結び目を作り、やはりこれも強度を確かめる。 「もし俺が悪人だったら盗賊に売られてたかもしれないんだぞ」 「それはないよ。君の顔を見れば分かるさ」 「悪人には見えなかったってことか」 「うーん。というよりそんな大それた事ができるような人に見えなかったんだ。小市民的というか可もなく不可もなくというか毒にも薬にもならないっていうかノーリスク・ノーリターンっていうか」 「ああ、そう」  ちょっとヘコんだ俺は短く答えて残った穴に縄を通し始めた。  というかそこまで並べ立てられるとさすがに俺でも傷つくぞ。そりゃ確かに普通だとか平凡だとか特徴がないとか人として無色透明無味無臭とか心無い言葉を(主にティアさんに)投げ付けられたりするが、俺だって一応人として生きてるんだ。そんな、いてもいなくても同じ、みたいな言い方をされると悲しくなってしまう。  てな俺の心中を気にする素振りもなく、アクロの話は続く。 「本当はあの、黒髪の女の人にしようかなって思ったんだ。彼女が魔法使いだってことはすぐに分かったから。でもやっぱり怖くてさ」  その一言に俺はヘコんでいたことも忘れて吹き出してしまった。 「怖い? やっぱり猫でもティアさんはとっつきにくいのか」 「違うよ、恐れ多かったんだ。近くにいて気付かない?」  笑う俺をいさめるように、アクロが抑えた声で言う。 「確かに魔法の風で粉挽き小屋の風車三台を回したときには驚いたけど」  確かあれは一ヶ月くらい前のこと。あらためて「魔法は凄い」と思ったことを覚えている。 「ううん。そんなものじゃない。とにかくその、ティアを怒らせるようなことは絶対にしない方がいいよ。絶対にね」  そこまで念を押されると少し気になる。 「そんなに凄いのか」 「うん。世界を滅ぼすのに七日ってところだね」  一瞬の沈黙。  結局俺は笑ってしまった。真剣な声で何言ってるんだかまったくこいつは。 「んな、おとぎ話に出てくる魔王じゃあるまいし」 「ほんとだって。嘘じゃないって」  なぜか必死になってティアさんの凄さを訴えるアクロの声を適当に聞き流し、もう片方の縄にも結び目を作る。それから最後に地面と板が平行であることを確かめた。  これで一応修理自体は完了だが、最後にしておかなければならないことがある。  俺は修理したばかりのブランコに乗り、ゆっくりと揺らし始めた。そう、試乗だ。俺がこの高さから落ちたところでどうってことはないが、小さな子供ならどうなるか分からない。  壊れるなら、この場で壊れてくれた方がよかった。  膝に力を入れ次第にブランコを大きく振る。 「大体さ、世界をっ、七日で滅ぼす、ような人がっ、何でこんな田舎街で、役所勤めっ、してるんだよ?」 「それは僕にも分からないけど」  揺れるブランコに合わせて頭を巡らせながらアクロが答える。 「まぁ心配すんなって、ティアさん怒らせたりはっ、しないから普通に怖いし」  耳元で風が唸り、視界がめまぐるしく変化する。地面が見えたかと思うと、次の瞬間目の前は青い空だった。そしたまた地面。  俺の体はもうほとんど地面と平行になりつつあった。別にここまでやらんでも、と頭の片隅では思っているのだが、次の瞬間もっと高くもっと高くと呪文のように繰り返している自分に気付く。つい限界を見たくなってしまうのだ。  久しぶりに乗ったブランコにはそんな魅力があった。  しかしいつまでも浸っているわけにもいかない。今日の仕事はこれだけではないのだ。  俺は多少揺れが収まったところで手を離し、大きく前に飛び出した。心地よい浮遊感の後で、きつめの衝撃が足に伝わる。 「お見事。猫になれるかもよ」 「役所をクビになったら考えるさ」  笑って答える。が足に残る鈍痛のせいで微妙な笑顔になってしまった。  やっぱりあの高さからはちょっと無茶だったか。  俺はよろめきながら鞄に歩み寄って、中から羽ペンと携帯用のインク瓶と陳情書を取り出した。 「こうえんのブランコお、なおしてください」  つたない字の横に「完了」と書いてマルで囲む。  これで一つ街の厄介事が片付いた。 「よーし、次行くぞ、次」  一人で揺れるブランコに満足感を覚えつつ、俺はアクロに向って呼びかけた。  昼でも薄暗い路地裏。濁った水溜りを避けて石畳の上に鞄を降ろすと、俺は柄が二つに分かれた携帯用のシャベルを取り出した。  しかし最近雨降ってないのにいつできたんだ? この水溜り。  柄をつなげながら思う。  でもこれじゃあ仕方ないのかもな。  シャベルを杖のように突き、俺は空を見上げた。狭い路地から見えた空はやはり狭かった。この辺りは割と背の高い建物が密集してるため、路地の日当たりはかなり悪い。その上水捌けもあまりよくないので、こうして水溜りが残ってしまうのだ。  土地のない大都市ならともかく、何でこのド田舎でこんなに建物を密集させたのか理解に苦しむ。だが建っているものは仕方がない。残った水溜りはシャベルですくって溝に流すしかない。 「離れてろよ。汚れるから」  肩のアクロを少し離れたところに降ろしてやり、俺は水溜りを側溝に流し始めた。湿った匂いが鼻をつき、顔をしかめる。だが俺は水溜りを処理するために来たわけではない。これはついでだ。  本題は側溝の方である。  陳情書によれば最近水が流れにくくなっている。何とかして欲しい。とのことだが、原因は溝を見ればすぐに分かった。  汚いのだ。とにかく。  ヘドロやゴミで詰まり、溝は「そりゃ水なんて流れんだろ」という状態だ。  俺は小さく息を吐いてから、手にしたシャベルで溝のヘドロやゴミをかき出し始めた。先程とは比べ物にならない悪臭が辺りに漂い、反射的に胃から朝飯が込み上がりそうになる。それを何とか押し戻し、溝のわきにヘドロの山を作っていく。  シャベルを差し込むたびに濁った水が波打ち、時に跳ね、靴とズボンの裾を汚した。 「セイル、これも君の仕事なの?」  鼻で息をしてないと分かる少し間抜けな声でアクロが言う。 「一度清掃課に回したんだけどな、返ってきちゃってさ。こっちは人手が足りないからそっちでやれって。もう一度返してやってもよかったんだけど、そんなのたらい回しの典型だしな。どこかで止めないと溝は汚いままだろ?」  ヘドロを積み重ねながら答える。  それからしばらく路地裏にはシャベルが溝をなぞる音だけが響いた。  何らかの返答があると思っていた俺は、口を開かないアクロに拍子抜けしつつも作業を続ける。一度肩越しにその小さな姿を見やるとアクロは何事か考えるように少しうつむき、じっと黒ずんだ石畳を見つめていた。  もしかしたら何か思い出したのかもしれない。声をかけたりして気を散らさない方がいいだろう。  その後、俺は二三度腰を捻ったりしたが基本的には黙って溝掃除を続けた。  作業も終盤に差し掛かり、いいかげん鼻もバカになってきた頃、それまで黙っていたアクロが唐突に口を開いた。 「君は、どうしてこの仕事を選んだの?」  いきなりの質問に、鞄から取り出した布袋にヘドロを詰めていた俺は手を止めてしまった。  まさかそんなこと訊かれるとは思ってなかったし。  俺の戸惑いが伝わったのか、一つ呼吸をする程の間を置いてアクロが続ける。 「その、ブランコ直したり溝の掃除したり、けっして楽しそうな仕事じゃないし、どうしてそんなにまじめにやれるのかなって」  そう言った後で、アクロは申し訳なさそうにうつむいた。 「ごめん。君の仕事をばかにしてるわけじゃないんだ」 「いや、確かに人が進んでやりたがるような仕事じゃないよな」  答えながらヘドロの入った布袋の口を縛る。 「でもさ」  その時、俺の声を掻き消すように昼時を告げる鐘の音が高く響いた。お世辞にも美しい音だとは言えないが、働く者にとって昼の休憩を意味するこの鐘の音は、遥か北、聖地にある大聖堂の鐘の音より心地よく耳を打つ。  もちろん俺だって例外ではない。 「話の続きは昼飯でも食べながらにするか」  大きく伸びをしながら見上げた狭い空には、手でつかめそうなくらいふんわりとした雲が流れていた。  街の中央広場。といっても猫の額ほどの広さしかないが。俺はベンチに腰を下ろし、手にした紙袋から今日の昼飯を取り出した。程よく甘く、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。  ただのクリームパン。だがこれが驚くほど旨かった。  焼いているのは職人気質の髭オヤジだが、それとは対照的にパンは深窓の令嬢のごとく繊細だ。口に入れた瞬間柔らかい生地が舌を撫で、これ以上甘くても甘くなくてもいけないという絶妙なクリームがそこに混ざる。  今なら殴られても笑顔で許してあげられそうだった。  ちなみにこの店のジャムパンと揚げパンも絶品である。  もちろん買った。そしてもちろん食べる。  食べすぎと言うことなかれ。幸せは多い方がいいに決まっている。  ふと気が付けば、そんな風に幸せに浸る俺をアクロが見上げていた。相変わらず顔は困ってないが、多分困っているのだろう。  風が、アクロの前に置かれた器のミルクを微かに波立たせた。 「……悪い。話があるんだったな」  緩んだ頬を引き締め、一つ息を吐く。 「あぁ、うん。それでさっきも訊いたけど、どうしてセイルはこの仕事を選んだの?」  アクロの問いに俺はパンを齧り、口を動かしながら石畳を見つめた。  市民生活保護課を選んだ理由。何から話せばいいのだろうか。  しばらくパンを噛みながら考える。やがて口が空になったところで俺は顔を上げた。 「この国に身分制度があることは覚えてるか」 「うん。確か上から王族、司祭、貴族、騎士、平民、そして……賤民」  アクロの答えにうなずき、俺はまっすぐに前を見つめる。 「俺はその中で平民になるわけだ。でもな、買ったんだ。身分を」 「え?」  アクロが短く声をあげた。 「正確に言うと、買って貰った、になるかな」  いつの間にか乾いていた唇を舐め、続ける。 「俺は賤民だった親父の一人息子としてこの街で生まれた。母親のことは分からない。気が付けば親父と俺だけだったし、親父も母親の事話したがらなかったしな。親父はいつも言ってた。賤民だからって卑屈になるなって。身分なんてただの偶然だ。俺たちが人として劣っているわけじゃない。男なら胸を張れってさ」  そう言って、いつも親父は俺の左肩を叩いてくれた。  思い出の中の親父の手は俺が幾つになっても大きかった。自分の手を左肩に置いてみても、あの包み込むような感触は微塵もなく、ただ小さく頼り気もない。親父の手が大きかったのは、親父が持っていた心とか誇りとか、そういったもののせいだと思う。  親父と俺とでは人としての大きさが根本で違うのかもしれない。 「それで、俺が十八の時に親父は死んだんだけど、死ぬ前に親父が言ったんだ。今日からお前は平民だって」 「じゃあお父さんが」 「ああ、俺のために平民の身分を」  そのときのことは今でもはっきと覚えている。狭く汚い共同住宅の一室。俺はベッドの前にひざまずき、横たわる親父を見つめていた。でも涙のせいでほとんど親父の顔は見えてなかった。 (俺はお前に誇りを持てと、賤民だからと卑屈になるなと言ってきた。でもな、この先お前には俺と同じ苦しみを味わって欲しくないんだ。賤民というだけで蔑まれ、みくびられる。いいや、お前だけじゃない。どこかで止めないとお前の子供も、その子供も同じになってしまう。こんなことは俺の代で終わりにしてしまおう。俺には賤民という身分を無くせる程の力は無い。だからせめて自分の家族くらいは守ってやりたい) 「身分を買うなんてまともなやり方じゃできない。職を選ぶ自由の無い中で莫大な金を稼ぐためにどれだけ体を酷使したのか。親父の体はもう、ぼろぼろだったよ」 (後悔? 後悔なんてしてないさ。俺のために泣くバカ息子が一人いる。それで十分だ)  それを最後に親父は静かに逝った。本当に、静かに。 「こんなこと考えてるの俺だけかもしれないけど、男として生まれたからには父親を越えなきゃいけないと思う。でも、例え百匹の竜を倒したって、例え世界中の宝を手に入れたって俺は親父を越えられない。親父が生まれ育ったこの国で、街で生きて初めて近づけて、もしかしたら越えられるんじゃないかって思ってる。市民生活保護課を選んだのは、自分のためじゃなくて誰かのためにって感じられる仕事がしたかったから。もしかしたらそれはただの自己満足かもしれない。だけど、親父はそんな風に生きた人だった」  それから、しばらく俺もアクロも喋らなかった。俺は親父のことを色々思い返していたし、アクロも何か思うところがあったのだろう。  目の前の通りをロバが荷馬車を引いて通り過ぎる。積まれた干草が足跡でも付けるように点々と落ちていた。  俺は思い出に区切りをつけてうなずき、手にしていたパンを口に押し込んだ。驚いたように俺を見上げたアクロに向って、口を動かしながら笑ってみせる。 「……んっ。昼休みは無限じゃないからな。お前も早く飲んでしまえよ」  言って紙袋から手探りで次のパンを取り出す。ジャムパンだった。  アクロも睨み合いでもするようにミルクに顔を近づけて、舌を動かし始める。  と、ミルクを飲む音が止まった。 「セイル」 「んあ?」 「ありがと」  再びミルクを飲む音が聞こえ始め、反対に俺の口は止まってしまった。だがすぐに動き出す。正直、何が「ありがと」なのかよく分からなかったが、訊き返すのも野暮なような気がして結局俺は何も言わなかった。  さて、昼休みは後どれだけ残っている? 揚げパンは食べられるのだろうか。  3  フライパン片手に階段を駆け上がり、俺は自分の部屋に戻った。足で扉を閉めてテーブル上の皿にできたばかりの野菜炒めを盛り付ける。  辺りに思わず笑いたくなるような匂いが漂った。イマイチ火力が足りないかまどで作ったにしては上出来だろう。しかし管理人によって出された薪の倹約令はいつになったら解かれるのだろうか。  ちなみにここの共同住宅(というか、大体どこでもそうなのだが)かまどは一階にしかないため、二階に住んでいる俺は作った料理を抱えて階段を走らなければならない。  品数が増えるに比例して食前の運動も増えるという、とっても素敵な所だ。今日はスープに野菜炒めと二品作ったため、二往復ということになる。  ついでに言っておくと、全ての料理を一度に運ぼうなどとは考えないほうがいい。過去、階段に料理をぶちまけて血の涙を流した男がいた。  ……俺のことだけど。  何はともあれ、俺は鼻歌など歌いつつ席についた。二人用の小さなテーブル。正面にはアクロが座っている。もちろん椅子ではなくテーブルの上に。 「僕は床でいいよ」なんて言われたが、せっかく一緒に食べるんだ、顔を向き合わせて食べた方がいいに決まっている。そっちの方が話もしやすいし。  毎食ミルクだけじゃ飽きるだろ? と、アクロに訊いたところ、柔らかいものなら食べられるということだったので、パンをミルクに浸したものと野菜炒めに使った肉の残りをすり潰して軽く火を通したものを作ってやった。肉に関しては塩の一粒すら振っていない。それがアクロのリクエストだった。  さて。  俺は軽く目を閉じると右の拳を握り、左手で右の手首を握った。  天と大地の神に、俺の空腹を満たすために失われた命に、そして最後に親父に心の中で感謝の言葉を述べる。  祈りを解いて目を開けると、まだアクロがうつむいて目を閉じていた。  記憶を失った今、アクロは何に感謝しているのだろうか。気にはなったが、祈りの内容は自分から喋っても訊いてもいけないことになっているので、俺がそれを知ることはできなかった。 「さっ、食べようか」 「うん」  アクロが顔を上げたところで、おたまでナベからスープを皿に移す。早速スプーンで一口。  うーん。あと塩一つまみ。ぎりぎり及第点ってところだな。  スープに点数を付けながら俺はフォークを手にした。野菜炒めから薄緑色の葉野菜を選んで口に運ぶ。  う。芯に火が通ってない。味は悪くないんだけど。やっぱり弱火での野菜炒めは難しい。次回の課題だな、これは。  半生の芯を無理やり飲み込んで、俺はアクロを見やった。 「うまいか? っても俺は何も味付けしてないけど」 「うん。素材の味が生きてるよ」  冗談めかして言うアクロの口はやっぱりミルクで白く染まっていた。揺れるヒゲに頬など緩めつつ、ちぎったパンを口に放り込む。  やっぱり誰かと食事をするのはいい。一人で作って一人で食べているとたまに虚しくなることがあるけど、こうして目の前に誰かいるだけで命を繋ぐために行っている食事という儀式が、楽しむべき時間に変わったような気がする。  アクロを家に連れて来たのは正解だった。記憶が戻るまでは家で面倒見よう。  と、部屋に短いノックの音が二度響いた。  俺とアクロは顔を見合わせ、同時に扉の方を見る。  誰だろ。こんな時間に。  俺はフォークを置いて立ち上がると扉に歩み寄り、僅かに開いた。  次の瞬間、隙間に何者かのつま先がねじ込まれ、黒い影が部屋に滑り込む。  とっさの事に体が固まってしまう。  影が俺の背後に風の如く回りこんだ。そして、静かに言う。 「こんばんは」 「ティアさん。お願いですから普通に入ってきて下さい」  ため息混じりに言って振り向く。  黒い影に見えたのは長い黒髪と黒一色な服のせいだろう。  知り合ってそろそろ二年になるが、やっぱりこの人の事はよく分からん。 「あら。普通じゃ面白くないじゃない」   あきれ果てた俺を不思議なものでも見るような目で見上げ、僅かに首を傾けるティアさん。 「笑いの感覚が違うだけ。あなたと私のね」  その一言が頭の中を巡った。今のがいわゆるティアさん流の「笑うとこ」なのだろうか。だとすれば。  いや、やめておこう。世の中には深く考えた方がいいことと、考えない方がいいことがある。 「それで、どうしたんですかこんな時間に」  訊きながら椅子を動かし、ティアさんの席を作る。 「ちょっとあの子に訊きたいことがあったの」  尋ねる俺に、腕を組んだティアさんはアクロの方を見やった。俺も釣られてアクロの顔を見てしまう。突然二人に注目され、戸惑うような空色の瞳が俺とティアさんの間を行ったり来たりする。 「ティアさん晩御飯食べました? まだなら一緒にどうですか」  突っ立っていても仕方が無いので勧めてみる。幸い野菜炒めもスープも多少多めに作ってあった。 「そうね。いただくわ」  ティアさんの返事に新しい皿を出し、料理を盛り付ける。その間にティアさんとアクロは互いに自己紹介をしたようだった。  料理を前に祈りを捧げるティアさんを挟んで話をする訳にも食べるわけにもいかず、部屋にしばしの沈黙が流れる。  しかしアクロに訊きたいことって何だろう。もう何かつかんだのだろうか。  今日一日、俺の方はまったく成果が上がらなかっただけに期待が募る。  祈りを終えたティアさんはスープを一口飲み、少しだけ目を大きくした。 「いいお嫁さんになれるわよ、あなた」 「それはどうも。ところで訊きたい事って何なんですか」  はやる気持ちを抑えられずに、つい身を乗り出してしまう。昼間、アクロに焦ってもしょうがないと言ったばかりなのに。  ティアさんはフォークで野菜炒めをつつきながら「あなたに訊きたいわけじゃないんだけど」と俺に言ってアクロを見つめた。  身構えたアクロのヒゲがぴくりと動く。 「あなた、『リムフレイル』って言葉に聞き覚えはある?」  リムフレイル。何だろう。何か魔法関係の言葉なんだろうか。 「だからあなたが悩む必要はないの」  呆れ顔のティアさんに言われた。  一方、当事者であるアクロは天井を見上げたりテーブルを見つめたりして必死に思い出そうとしているようだった。だが、やがてうつむき微かに首を振る。 「ごめん。分からない」 「いいのよ。少し気になっただけだから」  アクロを撫で、ティアさんは微笑んだ。普段の凛とした雰囲気からは考えられないほど優しい笑顔。つい見入っていた自分に気付き、あわてて頭を振る。 「それで、リムフレイルって何ですか」 「焦らないで。もう少し情報が集まって、まとまったらその時にね」 「そう言われても、やっぱり気になるよな」  アクロに声をかける。だが意外にも同意は得られなかった。 「ティアが気にしなくていいって言ったんだ。だから大丈夫だよ」  そうか。こいつは本気でティアさんが世界を七日で滅ぼせると思ってるんだった。そんな人になら何を言われたって信じるだろう。  俺としてはもう少し追求したかったが、アクロがそう言うのなら仕方が無かった。俺がでしゃばっていい理由など無い。  結局その後は三人で普通の食事会となった。途中、俺の不用意な一言によってティアさんにフォークとフライパンの二択を迫られたりしたが、それ以外はおおむね穏やかで楽しい一時だった。  ただ、食器の後片付けを手伝ってくれながら、ティアさんが俺にささやいた言葉が気になる。 「今晩、もしかしたらあの子に何か起こるかもしれない。その時は慌てないで、とにかく安心させてあげて」  とりあえず返事はしたものの、正直言って不安だった。  俺に魔法に関する知識があれば、ティアさんがつかんだ何かを推測できたのかもしれない。だが今さら己の勉強不足を嘆いたところで仕方が無かった。  俺には何が起こっても大丈夫なように心構えをする事しかできない。  ティアさんも帰り、寝巻きに着替えた俺はベッドに仰向けになって大きく息を吐いた。体に溜まっていた一日の疲れが眠気となって頭を襲う。  気を抜いた瞬間、意識という名の砦はあっけなく陥落しそうだ。 「アクロ」  呼びかけると、ベッドの下にいたアクロが頭を上げた。 「寝ないのか?」 「あ、僕は床で」  すべてを言い終わる前に俺はアクロの首根っこをつまんでベッドに引き上げる。 「つまんない遠慮するなって」 あくび混じりに言ながら、首輪についた小さな鈴に指先で触れる。秋に鳴く虫の声のように澄んだ素朴な音がした。  遠慮はともかく、今はアクロを傍においておきたかった。心配だったのだ、単純に。  アクロはしばらくベッドの上に座っていたが、やがて手足を伸ばして、ぺたっとうつ伏せになった。 「変な寝方するのな、お前」 「何だかこの方が楽なんだ」  猫はみな丸くなって眠るものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。それともこれは人並みの知能を与えられたアクロだからこそなんだろうか。まぁ、考えたところでしょうがないんだけど。 「灯り、消すぞ」 「ん」  短い返事に、俺は枕元の棚に置いてあったランプの火を吹き消した。インクで塗りつぶしたような青い闇が部屋に落ちる。その中でアクロの大きな空色の瞳が光っていた。  黒い体は闇に溶けてしまって見えなかったので、俺は瞳の方に顔を向けて話し掛ける。 「今度、お前が何を覚えてて何を覚えてないのか調べてみような」  俺の声に反応するように、瞳がぱちぱちと点滅した。瞬きしたのだろう。 「ほら、お前ってさ自分の事は覚えてないけど身分制度とかお祈りとか、そういうのは覚えてるだろ。だからそんなのを調べてみたら何か分かるかもしれないと思って」 「そっか、知識だって記憶の一部だもんね」  そう言アクロの声もあくび混じりだった。  俺の方もそろそろ限界だ。部屋が暗いのかまぶたを閉じているから暗いのか分からなくなってきた。 「おやすみ」  半分寝言のように言って眠りに落ちていく。アクロの返事は「おやす」くらいまでしか聞こえなかった。  微かに聞こえる声。  何かを訴えるようでもあり、何かを呪うようでもある。  悲しくて恐ろしい声。  その声が、俺を眠りの底からゆっくりと引き上げた。  まだ半分寝ている頭で辺りを見回す。 「アクロ?」  窓から差し込む月明かりのせいで室内は薄明るい。アクロから返事はなかった。だが、 「わたしは悪くない。わたしは……悪くない」  今夜、あの子に何か起こるかもしれない。その時は──、  ティアさんの言葉が頭の中を駆け巡る。眠気など一瞬でとんでしまった。 「アクロ!」  跳ね起きた俺は大声でアクロの名を呼び、体を揺さぶった。しかしアクロは目を開けようとしない。ただ「私は悪くない」を繰り返し、小さな体を震わせる。  一体何が起こった。どうすればいい。  背中が冷たい汗で濡れ、反対に手は驚くほど熱かった。鼓動が激しくなり、口の中が急速に乾いていく。 「わたしは悪くないわたしは悪くない」  抱き上げたアクロの体には全く力が無い。だがその中で伸ばされた爪だけが俺の腕に力強く食い込んでいた。まるでしがみつきでもするように。  腕から血が流れ、シーツに点を打つ。  体が震えた。自分が冷静でなくなっていくのが分かる。生唾を無理やり飲み込んで気を落ち着かせようとしたが全く意味がなかった。  どうしようもない焦りと不安が溢れ出してくる。視点が定まらない。  俺は歯ぎしりして下唇を噛んだ。  自分の情けなさに腹が立った。心構えすら出来ていなかったのだ。  なぜ自分にはこいつを呪文一つで楽にしてやれるだけの力が無いんだ。 なぜ自分には不測の事態に対処できるだけの知恵が無いんだ。  結局俺にはアクロを抱きしめてやる事しかできなかった。  アクロの体は震え、爪がさらに食い込む。 「悪くない。悪くなんてないさ」  自分でも何をやってるんだ、って思う。うわ言に答えて意味があるのかすら分からない。でも俺にできることは、これしかなかった。  例え意味が無くても無駄でもやるしかない。俺が投げ出したらこいつは一人だ。この時、この場所で誰を頼りにすればいい? 俺しかいないんだ。  腕に食い込むアクロの爪。引き離してはいけない気がした。  どれほどの時間アクロを抱いていただろうか。気が付けば窓から月明かりではなく、朝日が差し込んでいた。  唐突にアクロの手から力が抜け、俺の腕から離れる。いつの間にかうわ言も聞こえなくなっていた。体も震えてはいない。 「アクロ」  答えは無い。だが俺の腕の中で微かな寝息をたてるアクロの顔は本当に穏やかだった。時々口を動かしてヒゲをぴくぴくと揺らす。  俺は笑った。  本当にのんきで幸せそうな寝顔だ。 「人の苦労も知らんとまぁ」  ぼやいて、そっとアクロをベッドの上に戻す。  確かめるように撫でたアクロの体は柔らかくてふわふわしていた。  窓から差し込む日の光はまだ弱い。少しだけ眠ろう。  枕に頭を預ける。  どこか遠くから小鳥の声が聞こえ始めていた。  4  その日の昼休み、ティアさんに連れ出された俺は図書館に来ていた。昨晩のことを話すと「あの子は連れて行かないほうがいいわね」と言われたため、左肩にアクロは乗っていない。隣の席に座っている後輩の女の子に預けてきた。  紙の匂いが漂う小さな図書館のホール。昼飯時だということで俺とティアさん以外に閲覧者はいない。こんな時間にやってきた俺たちを、司書の女性がカウンターの奥から物珍しげに見ていた。  そのホールで、ティアさんが一枚の紙を差し出す。受け取ってみると街報だった。街角に立てられた板に張られるあれだ。正確に言えば街頭情報紙になる。日付は七日前。こんな古街報がどうしたんだろうか。 「一番下の左隅の記事、読んで」  言われるままにくすんだ紙に書かれた文字に目を落す。記事の内容は読んでいて楽しくなるようなものではなかった。  賤民区に住む身寄りの無い十六歳の少女が、ナイフで首を突いて命を絶った。遺体は街外れの共同墓地に埋葬された、という訃報だ。  だが普通賤民の身分にある者が自殺しても記事にはならない。おそらく「十六歳の少女」「ナイフで首を」の二つが人の目を引くと記事にした人間は思ったのだろう。そして実際人はこの手の記事を喜ぶ。  それでもこの記事は街報の中で一番小さい。それが身分というものだ。 「この記事がどうかしたんですか」  湧き出た微かな怒りをぶつけるように言う俺に、ティアさんはいつもと変わらない静かな声で答えた。 「昨日ここでその記事を偶然見つけて、気になったから調べてみたの。それで分かった事が二つ。彼女の名前と住所よ」  役所には最終的な死亡届が提出される。職員ならそれを閲覧することもできた。  しかしティアさんはこの記事の一体何が「気になった」のだろうか。俺には不幸で悲しい事件にしか思えなかった。  それを訊こうと思った矢先、一人の男性がホールに入ってくる。続けて二人組みの女性。食事を終え、余った昼休みを図書館で過ごすつもりなのだろう。 「歩きながら話しましょ」  ティアさんが俺の手から街報を奪った。 「行くわよ」 「どこに、ですか?」  訊く俺にティアさんは街報を掲げる。 「彼女の家」  街報を棚に戻したティアさんは俺に背を向けて歩き出した。  一体何がどうなってどう関係しているのか、まったく分からない。今は考えるよりただティアさんについて行く事しかできなかった。 「何から話そうかしら」  そう言ってから先を行くティアさんは立ち止まり、俺が隣に並んだところで話し始めた。 「まずあの記事について分かったことが二つ。住所はこれから行くからいいとして、名前ね。昨日の夜、私があの子に訊いたことは覚えてる?」 「ええ、リムフレイルって言葉に聞き覚えがあるかどうか、ですよね」 「そのリム・フレイルが命を絶った子の名前よ」  驚きと疑問に自分でも目が大きくなったのが分かる。 「でも昨日は『言葉』だって」 「言ったわね。あれはあの子の心に触れてみるためにそうしたの。初めから『名前』って言ってしまったら、あの子の心を掴んでしまうおそれがあったから。些細なことかもしれないけど、心ってそれ程繊細なものだと私は思ってる。特にあの子の心はあやふやだから」  心があやふやという言い方に多少引っかかったが「記憶」の言い換えだろうくらいに思い、それ以上尋ねることもしなかった。 「でも本当に大変だったんですよ、あの後」 「あら、被害にあったのはあなたの腕と睡眠時間だけでしょ。私としては上出来よ」  すっとぼけた顔のティアさんに俺は乾いた笑みを漏らす。そう、上出来ですか。まったくこの人は相変わらずというか、何というか。 「あんな事になるなら対処方聞いておけばよかったと思いましたよ」  昨晩、何かが起こるかも、とだけ言って帰ってしまったティアさんにちょっとだけ皮肉っぽく言う。 「どうせなら居てくれればよかったのに」 「セイル」  唐突に名前を呼ばれ、俺は立ち止まってしまった。気が付けばティアさんも立ち止まっている。  細い路地のまん中、真剣な表情で顔を見上げられた俺は戸惑った。怒らせてしまったのだろうか。ティアさんはほとんど俺の顔を覗き込むようにして立っている。漆黒の瞳に俺の顔すら映りそうな距離だ。 「これだけは覚えておいて」  低く抑えた、悲しげな声色。 「心を救えるのは心でしかない。人間という不完全な存在が扱う魔法は万能ではないということ」  そこで言葉を切ると、ティアさんはうつむき独り言のように漏らした。 「私がいても何もできなかった」  普段とまったく違う、しおれた花のようなティアさんに俺は無言で立ち尽くしてしまう。路地を吹く風に揺れる綺麗な黒髪を見ていると妙な焦りすら感じた。 「分かりました」  喉の奥から搾り出すように答えた俺に小さくうなずき、ティアさんは再び歩き出す。  心を救えるのは心でしかない。  ティアさんの後をついて歩きながら胸中で繰り返す。ただ繰り返したところでその真意は分からなかった。魔法に過剰な期待をする俺への戒めなのか、それとも魔法使いとしてのティアさんの心構えなのか。  前を行く小さな背中は明確な答えを拒否しているようにも見えた。  自分で考えなさい。  そんな声が聞こえてきそうだ。  やがて路地を一本奥に入ったところで辺りの様子が変わる。立ち並ぶ家の作りが粗末になった。生きているのか死んでいるのか、皮膚を患った犬が通りの隅で目を閉じている。辺りに積まれたゴミにはハエがたかり、微かな羽音が聞こえてきた。  粗末な家も生きているのか死んでいるのか分からない犬も悪臭もゴミもハエも通りに座り込む無気力な老人の目も、俺にとっては少し前まで日常だった。俺はここで生まれ、育ち、親父を看取った。  だが、もう俺はここの人間ではない。時折向けられる目は明らかに異物を見る目だった。賤民が平民区に住むことを許されていないように、平民が賤民区に住むことも許されていない。  通りに座り込む老人に「俺も昔あなたと同じだった」と言ったところで、返ってくるのは友好の笑みではなく嘲笑だろう。それとも「金を恵んでくれ」と言われるだろうか。 「ここよ」  ティアさんの声に俺は足を止めて目の前の家を見上げた。いや見上げる必要などない。少し目を上に向ければそれで十分だった。家というよりは小屋に近い。屋根の端は腐って黒ずみ、所々が欠落していた。蹴れば簡単に割れそうな板壁に黒く浮かんだ染みがじっと俺を見ている。  染みどころか家そのものが俺を睨んでいるような気がした。この中で一人の少女が命を絶っている。その事実が俺をためらわせた。  怖いわけではない。いたたまれなかった。  一度振り返ったティアさんが確認でもするように俺の顔を見る。俺にはただ黙ってうなずき返すことしかできなかった。  とてもドアなどとは呼べない板を引いて中に入るティアさんに続く。家の中は生臭く淀んだ空気に満ちていた。昼間だと言うのに薄暗い。壁や床に見える染みは恐らく血の跡だろう。  少女は一体どんな思いでその手にナイフを握ったのだろうか。  床の染みを見つめていると横たわる少女の骸が見えてきそうになって、俺は慌てて頭を振った。全身に鳥肌が立つ。  そんな俺とは対照的に、ティアさんは家の中を調べでもするように歩き回っていた。この部屋にあるのは小さな机と椅子が一脚、それから簡素なベッドだけだ。ベッドには無数の黒い点がついたシーツがそのまま残されている。反射的に目を背けようとしたが、そのシーツを引き剥がしてベッドを調べ始めたティアさんに結局顔を背ける事はできなかった。  床に肘を突いてベッドの下を覗き込むティアさん。まるで落した羽ペンでも探すような感じだ。感傷的になったりはしないのだろうか。  ベッドの下に手を差し入れられた手が出てきたとき、そこには数枚の紙が握られていた。立ち上がったティアさんはしばらく黄土色をした紙を見つめていたが、やがて納得するようにうなずいて紙を丸めてしまう。  宙に放り投げられた紙屑が激しい炎を上げたかと思うと一瞬で燃え尽きてしまった。後にはただ焦げた匂いが残るのみだ。灰すら落ちてこない。  虚空を見つめるティアさんの目にはやはり何の感情も宿っていないように見えた。ただ小さく息を吐き、机に歩み寄る。  引き出しを開けると、まるでそこにあるのが分かっていたかのように二冊の本を取り出した。一冊は黒表紙、もう一冊には表紙がない。紙の束を自分で綴じて本の形にしたものだ。  表紙が無い方の本をめくるティアさんの瞳が左右動く。 「彼女の日記よ。読んで」  日記を手渡すティアさんの顔に家に入ってから初めて表情が浮かんでいた。伏せがちの目はやるせなさの表れだろうか。とにかくそれが正の感情でないことだけは確かだった。  開かれていたページから読み始める。小さ目の丁寧な字。  だが、そこにはただ延々と賤民に生まれた自分を嘆き、悲しみ、全てを呪う言葉が記されていた。  そして、ページを繰る度に彼女は壊れていく。  まず己の周囲から目をそらし、自分から目をそらし、最後には全てからの逃避を望むようになっていった。ある状況から抜け出すには二つの方法しかない。状況を変えるか、そこから逃げ出すかである。  十六歳の少女には状況を変えることはできず、また逃げ出す事もできなかったのだろう。日記の中でのみ彼女は自由だった。  日記の中で彼女は一匹の猫になっていた。人からも社会からも解き放たれ、勝手気ままに街を歩く。食べたい時に食べ寝たいときに寝た。  何物にも干渉されずに生きる猫は本当に幸せそうだ。  それが、つらかった。  自由を手に入れた代わりに孤独を背負った猫。何物にも干渉されないとはそういうことだ。それを幸せだと信じていた、いや、そう信じなければならなかった少女を思い、俺は唇を噛んだ。  そして、ティアさんが俺をここに連れてきた訳が分かった。 「アクロは、この娘なんですね」  日記を閉じ、傍に佇んでいるティアさんに目を向ける。ティアさんは一度床に視線を落してから答えた。 「アクロの一部が、ね」  どういうことですか、と表情で問う俺にティアさんは思案するように目を細めてから説明してくれた。 「まだ、魔法が魔術と呼ばれていた時代の話よ。魔術師にゼロから使い魔をつくる技術はなかった。魔術には今の魔法のように技術的な体系もなかったし、分かりやすく言えば未熟だったのね」  説明を聞きながら俺はとりあえず肯いてみせた。まぁ、魔法が使えない俺からしたら魔術も魔法もよく分からないけど不思議な力、でしかないんだけど。 「それで、魔術師たちは人の魂を動物に込める事で使い魔を作っていたの」 「は?」  つい、強い口調で疑問符を発してしまう。だってそんなことをすれば……。 「そうね。魂を抜かれた人間は当然死ぬ。でも、彼らに拒否する権利はなかった」  俺には黙ってティアさんの言葉を聞くことしかできなかった。次にティアさんの口から出る言葉がどんなものなのかは分からない。だが、自分が酷く怯えているということだけが実感としてあった。 「彼らが賤民だったからよ」  薄暗い部屋の中がさらに暗くなったような気がする。重たい空気がぬめるように肌にまとわりつく。 「お金のために自ら魂を売る人もいた」 「嘘だ」 「史実よ。魔術と、そして魔法というものの歴史の一部」  吐き出した息が酷く熱い。胸が痛かった。握った拳はどうすればいい?  俺を落ち着かせるようにティアさんはゆっくりと息を吐き、続けた。 「もちろん今ではそんな事しないわ。魔法には人の魂を使わなくても使い魔を作れる技法があるし、使い魔自体が法律で禁じられているから」  胸の下で腕を組んだティアさんが机上にある黒い表紙の本へ視線を移す。  それは非常に嫌な黒をしていた。何百人分かの血が入った鍋に本を入れて煮込めばこんな色になるのではないだろうか。黒、というよりはドス黒い赤に見える。 「魔法に比べて魔術は未熟だと言ったのは覚えてる?」  俺は黙ったまま肯いた。 「でも魔術には一つだけ魔法より優れてる点がある」  言いながら唐突に膝を折ると、ティアさんは白く細い指の先でくすんだ床にそっと触れた。  床を見つめるティアさんの目がわずかに細くなる。 「術陣と術符があれば才のない人にもある程度使うことができるの」  こちらに向けられたティアさんの促すような瞳に俺も膝を折った。暗い中で目をこらせば確かに床に何か描いてある。  炭で描かれたものなのだろうか。薄く黒い線を辿っていくと円が描かれていた。その中に見たこともないような文字や記号が規則正しく配置されている。ただ、手馴れた感じはしない。意味も分からずに書き写したであろうことはすぐに分かった。 「じゃあ、さっき燃やしたのが術符ですか?」  今度はティアさんが無言で肯く番だった。透明感のある漆黒の瞳で俺を見つめ返し、ゆっくりと立ち上がる。衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。  ティアさんは黒い本を手に取ると、 「これが術符と術陣の写し元」  つまらなさそうに言って燃やしてしまった。熱風が頬に吹き付け、前髪を揺らす。やはり後には灰さえ残らない。  しかしこうも勝手に燃やしてしまっていいんだろうか。一応まだ警備所の管理下にあると思うのだが。  当のティアさんはそれを気にする様子はまったくない。変わらぬ調子で話を続ける。 「テキスト……もう燃えてしまったけど、によると使い魔を作るのに必要な要素は」  俺の目の前に拳が突き出された。 「術符、術陣、魂を差し出す人間、魂を受け入れる動物、これだけよ」  言いながら指を一本づつ立てていき、最終的には四本の指が俺の前に並ぶ事になった。 「方法だって難しくない。術陣の中で人間と動物の決められた箇所に術符を貼り、人間が自ら命を絶つと同時に動物の命を絶つ。それで終り」 「だって、そんなの」 「あとは」  言葉を継ごうとした俺をティアさんが遮る。 「人間と動物の魂が溶け合って使い魔の魂が出来上がるまでの七日間、半死半生の『人間でも動物でもないもの』に徹底的な教育を施すの。文字通り魂に刻み込む作業ね」 「それで、できあがりってわけですか」  自分でも分かる。声が震えていた。命は野菜炒めじゃないんだ。そんな風に作るもんじゃないだろ。  間違ってる。理屈もないくせにその答えだけは曲げたくなかった。 「落ち着いて聞いて。ここからが本題よ」  唇を噛んでティアさんの言葉を待つ。高まりもせず、ただじらすようにゆっくりと打つ胸の鼓動がこの時は憎らしかった。 「あの子、アクロには誰も何も教えなかった。だからあの子は自分の主人が誰かも知らなかったの」 「じゃあ、あいつの記憶喪失って」  ゆっくりと、だが確実にティアさんは肯いた。 「記憶を失ったんじゃない。始めからなかった。それが答え」  言って嘆息し、目を僅かに伏せる。 「今あの子が持ってるのは人と猫が持っていた記憶の欠片よ」  人、とはこの場所で命を絶った少女のことだ。  猫、とは少女と共に命を絶った仔猫のことだ。  アクロがお祈りや身分制度のことを知っていた理由が分かったような気がした。少女には身分制度を呪い、神様に祈る事しかできなかったのだろう。  それがアクロに記憶として受け継がれている。  自分の生い立ちを知ったとき、あいつはどんな顔をするんだろうか。  過去が無い、と言われて喜ぶ奴なんていやしない。  柔らかく、愛嬌のあるアクロの顔を思い浮かべ、俺は舌打ちしたい気分になった。  どう伝えればいいのだろうか。  言葉の引き出しの少なさ。情けなく、腹立たしい。  気がつけばうつむき、汚れた床を見つめていた。  そんな俺にティアさんの声がかかる。 「残念だけど、あなたが悩むのはそのもう一つ先」  意味が分からなかった。ただ何となく声の調子と響きからそれが歓迎すべき事柄でないことだけは分かる。  そして、顔を上げてティアさんの顔を見たとき、予感は確信に変わった。  ティアさんは何かよくない事を言おうとしている。反射的に耳を塞ごうと手が僅かに持ち上がる。だが、ティアさんの目は怒るように、励ますように「受け入れなさい」と言っていた。  手を諦めにも似た気持ちで元の位置に戻し、唾を飲み込む。針で刺されでもしたように喉の奥が痛かった。 「魔術は術符と術陣があればある程度は才のない者にも使える。でも、所詮はある程度でしかない」  淡々と事実のみを伝える乾いたティアさんの声。釣られたのか、口の中が急速に乾いていく。 「不完全な魔術によって蘇生され、作り出されたアクロの身体と魂は……ほどなくして崩壊する」  耳鳴りがした。甲高く、それでいて地を這うような酷く不快なやつ。  船の甲板にでも立っているように地面が揺れ、視界までが歪む。痺れた顔面を片手で覆い、俺は頭を振った。  崩壊。  目の前にいる人は一体何を言っているのだろうか。  そうか。崩壊、ってのは魔法の特殊な用語か何かで……思い、口を開きかけた俺にティアさんはやはり淡々と言った。 「あの子は死んでしまう。数日のうちに」  床がさらに大きく揺れた。よろめき、あとずさった俺を薄い木の壁が支える。背を預けるには余りにも頼りない木の板。だが、預けなければ立っていられなかった。  アクロが死ぬ。  辛いとか悲しいとかではなく、ただ信じたくなかった。  あり得ない。そんなことあっちゃいけない。  だってあいつはまだ生まれたばかりなんだぞ。いい事も悪い事も何もしてないじゃないか。全部これからなのに。 「方法、あるんですよね」  震えながらもきつい口調になる。否定されたくなかった。  いつもと変わらぬ表情で俺を見つめたティアさんはゆっくりと首を横に振った。 「方法、あるんですよね」 「ないわ。何一つ」  全てを切り捨てるように響いたティアさんの声に指先が震える。不意に、いつもと変わらぬ顔をしているティアさんが憎くなった。  恐ろしく整った顔は高名な芸術家が魂を削って彫り上げた像のようだ。だが、触れれば彫像のように固く、冷たいのだろう。  神様という名の芸術家に心までは彫れなかったようだ。 「平気そうですね」  口元を歪める。  俺の言葉にティアさんは少しだけ目を大きくすると、ぽつり、言った。 「そんな風に……見える?」  俺から逃げるように顔を背け、ティアさんは一瞬だけ泣きそうな顔をした。 「ごめんなさい」  詫びられた瞬間、俺はを食いしばり後頭部を壁に打ちつけた。鈍い音ともに重たい痛みが額に抜ける。  目は閉じていた。ティアさんを見ることができなかった。  最低だ。  平気なわけないのに。ティアさんがそういう人じゃないことは分かっていたはずだ。  どこまで馬鹿なんだ、俺は。  閉じたまぶたの裏が熱くなる。  泣く前にやることがあるだろ。そう言って自分を励ませる状況ですらないことに涙が出た。  粗末な小屋の中。薄暗く、日は差さない。  5  午後から自分が何をしていたのかはよく覚えていない。ただ、一度もアクロと目を合わせることができなかった。  役所から家までの帰り道も、食事のときも、今こうしてベッドに座り、隣で意味もなくコロコロと転がっているアクロを見ているときでさえも、だ。  俺はどこまでも澄んだ空色の瞳を正面から見ることができないでいた。  だが伝えなければならない。こうして俺が悩んでいる一秒は今のアクロにとって限りなく貴重な一秒なのだ。その重さは綿と鉄くらい違う。  大きく息を吸い込み、口を開く。開いただけで声は出ない。さっきから何度同じ事を繰り返しただろうか。  声を出すことを心が拒否していた。  理屈では分かっている。アクロは近いうちに死ぬ。そして俺にはそれを伝える義務がある。  どうやったら言えるんだよ、そんな事。  きつく目を閉じた俺は自分の腕を握り締めた。肌に食い込む爪の痛みさえ自分を救ってくれるような気がする。  ただ「痛い」と思っている間だけはアクロのことを忘れられるのだから。  全てを投げ捨てて逃げてしまいたい。子供のころはゴミ溜めのような賤民街で毎日そう思っていた。  もう、こんな気持ちになることは二度とないと信じていたのに。  右手を左の肩に乗せ奥歯を噛み締める。親父なら何て言ってくれるだろうか。  たった一言でいい。今は前に進むための言葉が欲しかった。 「セイル?」  あどけない声に肩が震える。顔を上げた俺は死にものぐるいで微笑み、ん? と返事をした。 「どうかしたの?」  俺を見上げるアクロの空色の瞳は悲しいくらいに綺麗だった。アクロの瞳が空色なんじゃない。空がアクロの瞳の色をしてるんだ、きっと。  そんなことを思い、泣きそうになった。 「何でもない。考え事してた」 「でも、辛そうだよ」  俺はアクロの頭を手で包むようにして胸に抱いた。顔を見られてしまえばきっと気付かれる。その方が楽なのかもしれないが、どうしてもできなかった。  小さなふわふわとした頭を撫でながら奥歯を噛み締める。  そっとアクロの胸に手をやればそこで心臓が小さく、だが確かに命の鼓動を刻んでいた。自ら止まることなど考えもしないけなげなリズム。理由などなく、これが数日のうちに止まってしまう。  運命。  そんな言葉一つで全てを受け入れられるほど俺は単純にできてなかった。いや、もしかしたら単純だからこそ受け入れられないのかもしれない。  複雑にできている人なら複雑に考え「運命だから仕方がない」なんて結論を出せるのだろう。  だが大した学もない俺には単純に、感情まかせに「嫌だ」としか言えなかった。それが全てだ。とにかく絶対に嫌なんだ。 「嫌だ」  呟いてしまった。俺の意思ではない。少なくとも声に出してはならないと分かっていたはずだ。  アクロの瞳が俺を見上げる。  時間が止まったような気がした。きっと神様が俺の背中を押してくれたんだろう。  もう諦めろ、って。  ありがたくて涙が溢れた。俺が死んで神様に会うことができたら心の底から礼を言おう。 ありがとう。くそったれの大馬鹿野郎。 「セイル?」  何でそんなに優しい声を出すんだよ。もっと汚いダミ声で俺を罵ってくれればいいのに。そうすれば俺はお前を嫌いになれる。少しは楽になれるんだ。 「泣いてるの?」  小さな手を胸に置かれた瞬間、堰が切れそうになった。声を漏らさぬよう喉を無理矢理閉じる。一度泣き声を出してしまえば止められそうになかった。  破裂寸前の塊を飲み下だし、震える気管で大きく息を吸い込む。 「アクロ」  名を呼んで、俺は覚悟を決めた。  冷たくなった指先を隠すようにアクロの体から手を離す。拳で涙を拭いた俺はゆっくりと、つっかかりながら全てを話した。  アクロはただ黙って俺の話を聞いていた。 二度、髭を揺らした以外はじっと俺の顔を見つめ続け、最後に「うん」と小さな声で言って頷いた。  話せば何かが変わるかもしれないと思っていた。確かに変化はあった。  余計、悲しくなった。  ベッドの上、じっと足元の白いシーツを見つめていたアクロが不意に顔を上げる。  アクロは眩しそうに目を細めると、こう言った。 「ねぇセイル。公園に行こうよ」  昨日と同じ様にアクロを左肩に乗せ、二本の杭の間を通る。本当に昨日のことだっただろうか。随分と昔の事のように思えた。  夜風が木々を揺らし、穏やかに葉を鳴らす。誰も、俺とアクロ以外は誰もいない公園。月明りによって投げ掛けられた影の間を縫うようにして歩き、俺はブランコに腰掛けた。 膝の上にアクロを乗せ、軽く地面を蹴る。きぃ、と小さく鳴ってブランコはゆっくりと揺れ出した。  なぜアクロが公園に行こうと言い出したのかは分からない。膝の上のアクロはただ真っ直ぐに、先、を見つめていた。  やがてブランコの揺れも小さくなり、最後には止まってしまう。俺の膝から軽いステップで飛び下りたアクロは二、三歩進んでからこちらを振り返った。  月に照らされ、まっすぐに背筋を伸ばして座るアクロの姿は気高くさえあった。艶やかな黒毛の輝きは誇り高き騎士の鎧のようだ。  アクロは気持ち良さそうに目を細め、鼻の先を遥か頭上で輝く月に向けた。月の光を存分に楽しむように首を伸ばし、髭を震わせる。再びアクロが目を開いたとき、二つの空色の瞳は月色に輝いていた。  何が起こったのかは分からないし、俺の気のせいなのかもしれない。でもこれだけは言える。アクロは月を心に刻み込んだんだ。ずっと、忘れないように。 「セイル」  名を呼ばれ、ブランコの縄をつかむ手に力が入る。が、すぐに思い直し俺はゆっくりと手を膝の上にもっていった。  じたばたするな、もう。  こちらを見つめるアクロの瞳はいつの間にかいつもの空色に戻っていた。  アクロが深く頭を下げる。一緒に小さな影がおじぎした。 「ありがとう」  突然の事に何も言えなくなる。何で礼なんて。俺には何もしてやれ無かったのに。  唇を強く引き結ぶ。義理で礼を言われているのならこれほど情けないことはない。  今、この瞬間、努力賞に何の意味があるっていうんだ。そんなもの、かけらも欲しくなかった。  頭を上げたアクロはそんな俺の顔を見て、頭を横に振った。 「ひざの上、乗ってもいい?」  訊かなくたっていつも空いてる。しばらくはお前以外誰も座らないさ。  そんな軽口を胸中で呟き、軽く手で膝を叩く。  アクロは力を溜めるように身を縮め、跳躍する。ぽんっ、と俺の膝に手をかけ……そのままずり落ちた。  慌ててアクロを支えてやる。  小さいくせに無理するから。 「ふぅ。ちょっと失敗」  そう言って、えへへと笑うアクロに釣られて笑ってしまう。久し振りに笑ったような気がした。乾いた唇が少し痛い。 「セイル。僕は君と出会えて笑えたんだ。だから、ありがとう」  膝の上から俺を見上げ、アクロが目を細めた。猫は笑顔を作ったりしない。  それは正真正銘アクロだけの笑顔だった。  俺は首を振ってアクロの小さな顔を包むように撫でる。 「俺と出会ってなくたってお前は笑ってたさ、きっと」  本心だった。アクロなら誰の前でだって笑えたはずだ。 「でもそれは可能性の話でしょ。大切なのは君と出会って僕が笑えたっていう事実なんだ」  居住まいを正し、アクロが続ける。 「その事実が僕にとっては大切な歴史だし、思い出なんだ。僕という存在の一部でもあるしね」 「難しいこと考えてるんだな」  ほほ笑む俺にアクロは凄い勢いで首を横に振る。小さな鈴は立て続けに鳴っても綺麗な音をしていた。 「難しくなんてないよ。あ、こんな話しつまんない? でも少しだけ喋らせてよ。僕は今とても興奮してるんだ」  アクロが人間なら辺りを歩き回り、拳を振り回しながら話していることだろう。  少しでも長く聞いていたい。アクロの声はそんな色をしていると思う。 「きのう、広場でセイルのこと話してくれたよね。あれから僕はいろんな事を考えたんだ」  アクロはちょっと目を閉じると、答えを教えたくて仕方ない、といった口調でこんなことを訊いてきた。 「ねぇ、『僕』ってなんだと思う?」  質問の意味が分からずつい無反応になってしまう。アクロは斜め上を見上げてから、 「えっと、『自分』って何だろうって意味なんだけど」  そう言い直した。 「ごめん。考えたこともなかった」  素直に答える。『自分』とは何か。言わなくてもここにいるだろ、としか言えないような気もするけど。 「やった。僕の話を聞いてもらえそうだね」  と、今度は人間なら指を鳴らしているであろう様子でアクロは話し出した。 「僕ね、思ったんだ。僕は僕だから僕なんじゃない。僕は君じゃないから僕なんだ」  アクロの言葉を処理しようとした俺の頭はあっさり停止した。何か早口言葉みたいだ。そんな情ない感想しか出てこない。 「どういうこと?」  説明を求める俺にアクロは頬をぴくぴくさせた。続きを喋れる事が嬉しくて仕方ないらしい。言葉は難しくても態度は子供そのものだ。  小さな大発見を親に向かって嬉々として話す子供と同じだ。 「教えてくれよ」  唇を噛んでから、続きを促す。  笑顔で聞くんだ。笑え、微笑め、口元を緩めて目を細めろ。そんなことしかできないんだから。 「んと、僕はね、確かな僕として世界にいるんじゃなくて、この世界すべての僕以外のもの、以外のものが僕なんだ」 「もっと分からなくなった」 「じゃあ、セイルでもなくてティアでもなくて公園の木でもなくて月でもなくて……っていうのを繰り返していって、最後に残るのが僕、って言えば分かるかなぁ」  俺は頭の中で腕を組み、アクロの言葉を見つめた。 「自分なんてものは絶対的に存在してるわけじゃないってことか?」  考えながら、自分の解釈をアクロに提示する。 「そうそう。そういうことなんだ」  嬉しそうに言って、右の前足で宙を掻くアクロ。 「もし自分以外に何もない状態に置かれたら、自分なんてのは存在しなくなっちゃうと思うんだ」  アクロに言われた状態を想像してみる。確かにそうかもしれない。  ここにきてアクロが言った「〜じゃないから僕」の意味が分かったような気がした。 「だからね、僕はセイルがいるから僕でいられるし、僕になれたんだ」 「そりゃ大げさだ。俺以外にも色んなものがあるだろ」 「あるけど、僕にとって一番大きな僕じゃないもの、は間違いなく君だよ」  大きな瞳が俺を見上げる。吹き抜けた強い風が俺の背を押し、微かにブランコを揺らした。 「セイルがたくさん話をしてくれたから、今の僕がいるんだ。セイルじゃないのが僕だって気付けたから、僕は……」  言葉を切ったアクロがうつむき、慌てて頭を振る。目に溜まった何かを隠すように。 「僕の命にどんな意味があったのかは分からない。でも……短い時間の中で出会えたのは最高の僕以外だったよ」 「過去形なんて使うな」  食いしばった歯の間からうめき、言う。叫んでしまいたくなる思いを押さえ込み、唇を震わせる。  喋るんだ、最後の一瞬まで。泣き叫んでしまえばもう言葉は交わせなくなってしまう。ティアさんは「数日のうちに」と言っていた。でも、なぜだろう。分かるんだ。きっとアクロは夜明けと共に消えてしまう。  予感とかそういうのじゃなくて、初めからそういう約束だったって感じさえする。  初めから俺とアクロの生活はこの短い間だけの約束だった。ずっと一緒にいることなどできやしない。生き物である以上いつか別れはやってくる。それが少し早かっただけの話。よくあることさ、よくある。  涙が頬を伝った。冷たいとか暖かいとかじゃなくて、固い。 「誰も悪くないのに。何でだよ。何で……」  一つ呼吸をする度に喉を痛みの塊が通っていった。それは胸で広がり、重たく、ただ重たく沈殿していった。 「セイル、泣いちゃだめだよ」  握り締めた拳の上に柔らかな手が、ぽんっ、っと乗った。小さいのに、俺の全てを包み込むような優しさがそこにはあった。 「せっかく素敵な出会いができたんだ。お別れも笑顔でしようよ」  すすり泣く俺を見上げ、アクロが髭を揺らす。  顔を上げ無理矢理笑顔を作った俺にアクロは満足そうに肯いた。  気がつけば辺りの闇は薄れ、空は紫色に染まり始めていた。  視線を一瞬だけ空に向けたアクロが少し照れたような声色でこんなお願いをする。 「ねぇセイル。だっこして」  俺は肯いてアクロを両の手でしっかりと抱きかかえ、胸に押し当てた。  目を閉じたアクロが大きなあくびを一つする。 「セイルの手、気持ちいいよ。寝ちゃいそうだ」  俺は黙って、アクロの顔に頬を寄せた。初めてアクロを肩に乗せた時と同じ感触。  俺は、絶対に忘れない。  囁くような呼吸音がだんだんと小さくなっていく。手のひらを通して伝わる鼓動がだんだんと小さくなっていく。 「ねぇ、セイル」  太陽がその頭を空に出し、朝日が公園に差し込む。  一日の始まりと一つの命の終わりを告げる光だった。 「大好きだよ」  その一言を最後にアクロが小さく息を吐きだす。そのまま全ては動かなくなった。  薄く目を開けて正面から登る太陽を見上げる。  いつもと同じ、明るく健やかで力強い日。  そっと腕の中から形と重さと柔らかさが消え、気がつけば後にはほのかな温もりだけが残っていた。  なぜアクロが消えてしまったのかは分からない。でも、アクロらしいと俺は本気で思った。  小さな鈴の音がする。  俺は地面に落ちていた鈴付きの赤い首輪を拾い上げた。小さな首輪を手のひらに乗せ、見つめる。 「俺もだよ、アクロ」  呟いた瞬間手が震えた。鈴が小刻みに鳴り、感情を煽る。  もういい、叫んでしまおう。我慢する事なんてないんだ。  そう、思ったときだった。  誰かが日の光を遮り、俺の前に立つ。逆光とかすんだ視界のせいで顔がよく見えない。細身のシルエットは何も言わず膝を折ると、そっと俺を抱き寄せた。  優しい香りがする。  母親っていうのはこんな感じなのかもしれない。生れた時から父親と二人だった俺にとって、それは初めての温もりだった。  父親の大きな手とは違う、でも柔らかくて繊細な手が頭をゆっくりと撫でてくれる。  心を丸裸にされるような感覚に抗う事もせず、俺は貯めていた涙を吐き出し続けた。  喉が震え、しゃっくりにも似た嗚咽が喉からせり上がってくる。 「俺は、あいつに……何もしてやれませんでした」  ティアさんは、静かに首を横に振ってくれた。 「あの子は幸せだったはずよ。そして……」  アクロの首輪が乗った俺の手を、白く細い指が包み込んだ。 「あなたがあの子のことを思い、忘れなければこれからも幸せでいられる。覚えておいて。それはあなたにしかできないことだし、あなただからできることよ」  歯を食いしばり、肯く。 「それさえ忘れなければ大丈夫。きっとね」  俺は何度も何度も肯き、鼻をすすった。  手の中の首輪を握り締める。大丈夫。アクロはここにいるんだ。  日はさらに高くなり、微かに町がざわめき始めた。  小鳥のさえずり。荷車を引く馬の蹄が石畳を叩く音。そして人々の、命の息吹。  全てが動き出そうとしている。そんな町の鼓動が俺の背中を少しだけ押してくれた。  拳で涙を拭いて立ち上がる。  アクロは消えてしまった。でも、俺はここに在る。  最高の僕以外、と言ってくれたアクロを裏切ることはできない。  今すぐに走り出す事はできないけれど、歩く事はできそうだ。  アクロがこの町で生まれ、消えていったように、俺もこの町で生まれて消えていく。  そう、決めたんだ。  一つ息を吐いて空を見上げる。きれいなアクロの瞳色だった。  今日も天気は良さそうだ。  エピローグ  あれから一週間。俺は花束を手に賤民区にいた。以前と何も変わらない。薄暗く、汚くて異臭が鼻をつく。  いつできたとも分からない水溜りを避けて歩きながら俺が辿り着いたのは、あのリム・フレイルという名の少女が命を絶った家だった。  そこはアクロが生まれた家でもある。  俺は粗末な小屋を見つめてからその場で膝を折った。腐りかけた扉の前に花を捧げ、祈る。  確かにここは薄暗く汚いところだ。でも、それでも人は存在している。自分の置かれた状況に絶望したり、抗ったりしながら。  それはどこであっても一緒だ。貴族の葬式のように一本が一日の生活費と同じだけの値の花なんて贈れないが、せめて祈りたかった。  ここで一人の少女が命を絶ち、一つの命が生まれた。生まれた命は駆け足で俺の前を通り過ぎ、消えていった。  鼻の奥が痛くなる。  俺は目を開けて立ち上がった。一週間たって少しは自分でも落ち着いたと思ったがやっぱり駄目だ。思い出にしてしまうにはまだ時間が足りない。  また来るよ。  微笑を浮かべ、心の中で言った俺は小屋に背を向けた。余り長くいると泣いてしまいそうだ。  午後からの仕事のことを考えながら賤民区を歩く。白濁した目で俺を見上げる野良犬。ただ見上げただけで吼えもせず、顔を伏せてしまった。  餌をくれぬ者に興味などないと言わんばかりだ。  ポケット探ってみれば出て来たのは緑色の飴玉だけ。少し考えてから俺は飴玉を犬の鼻先に差し出した。  犬は胡散臭そうな眼差しで俺を見上げ、飴玉を舐める。それから首だけ伸ばして飴玉をくわえると、一気に噛み砕いてしまった。  がりがりと音を立てて飴玉を食べ、再び寝る。尻尾の一つも振りはしない。それはこの犬にとって無駄な体力を使う行為なのだろう。  ま、ここの犬はみんなこんなものだ。  最後に頭だけ撫でさせてもらい、俺は再び歩き出した。その時、脇の路地から少年が弾かれでもしたように転がり出てくる。  慌てて身をかわしたが避けきれず、少年を弾き飛ばしてしまった。 「ごめん。だいじょ……」 「ひっ!」  助け起こそうと伸ばした俺の手から地面を這って逃げようとする少年。  その頬には大きなあざがあり、二つの鼻腔からは赤黒い血が流れていた。 「ごめんなさい。ごめんなさい」  恐怖に歪んだ顔で繰り返す少年に俺は歩み寄り、ハンカチで鼻を押さえてやる。 「誰かに殴られたのか?」 「俺にだよ」  答えたのは別の声だった。ハンカチを少年に預け、立ち上がる。二人の男が立っていた。歳は俺と同じくらい。共に人をなめたような笑みを浮かべていた。 「何でそんなこと」 「何で? このガキが人様のサイフに手ぇつけやがったからだよ!」  男の大声に背後の少年が短く高い怯えた声を漏らす。はっきり言って俺も喧嘩は苦手だ。だが、どうにも引ける状況じゃない。 「だからって、やり過ぎだ」  情無い話だが俺の声は震えていた。以前の俺なら逃げ出していたかもしれない。でも、死とさえ向き合い静かに逝ったやつのことを思い出した。  逃げられない。 「なぁ」  男が俺の肩に手をかける。 「馬鹿かお前は」  その言葉が耳に届いたのと同時に視界がぶれた。殴られたのだと理解できたのは地面に倒れ、口の中に血の味が広がったあとだ。 「死んでろ、馬鹿が」  別の男のつま先がみぞおちにめり込む。呼吸が詰まり、視界が黒く染まった。 「賤民のガキが一人二人どうにかなったところでそれがどうしたよ」  ブーツの底が空気を求めて開いた口を塞ぐ。 「こいつら生まれてから死ぬまでクズじゃねぇか」  男の足がさらに強く俺の顔を押し潰す。 「そういうもんだろ、賤民ってのは」  俺の顔を解放した男は当然のようにそう言って、俺の頭を蹴り上げた。衝撃と共に意識が半濁し、とてつもなく大きな耳鳴りが聞こえ出した。頬に下にある石畳の冷たさが妙にはっきりと伝わってくる。  俺に唾を吐きかけ、二人の男が少年に歩み寄る。誰も少年を助けようとはしない。気配や視線は感じるのに。  生まれてから死ぬまでクズ。 「違う」  かすれた俺の声に男二人の足が止まった。 「生れた時からクズみたいな命なんて、ない」  地面に肘をついて体を起こし、俺は男たちを睨みつけた。  賤民区で生まれた、小さく短い命がどれだけのものを残してくれたかお前らに想像できるか。 「なぁ」 「あぁ」  二人の男が互いに顔を見合わせ、こちらに向かって来る。  結局、俺は動けなくなるまで蹴られ、立たされ、殴られ、地面に叩きつけられた。  息を荒げた男たちが舌打ちを残して去っていく。地面に転がったまま、半分ふさがった視界で空を見上げる。  体中が痛かった。指一本動かすだけで全身が痺れるように痛む。飲み込んだ唾は濃い血の味がした。  不意に視界が翳る。あの少年が何を言えばいいのか分からない、といった顔で俺を見下ろしていた。  大丈夫か? と問う。  少年は何も言わず俺の懐に手を入れると財布を抜き取った。 「ごめんなさい」  言い残し、少年は去っていく。  なぜだろう。笑いが出た。  そうだ。すっかり忘れていた。ここは、そういう所だ。  少年時代の俺の日常。生きていくのに必死だった。  これが俺が生まれて、消えていく街なんだ。  笑いながら俺は一粒だけ涙を流した。おかしかったり、悲しかったり、痛かったり、まぁ、そんなのを全部ひっくるめたやつだ。  不意に、何かざらついたものが頬に触れた。  視線をやる、がそれよりもそいつが仰向けに倒れた俺の上に乗るほうが早かったようだ。  そいつは白い髭と大きく綺麗な空色の瞳を持っていた。  何事もなかったかのように、言う。 「大丈夫……じゃないか」  黒い仔猫のくせに何事もなかったかのように、言う。 「それにしても酷いね。病院に行った方がいいんじゃない?」  黒い仔猫のくせに。黒い仔猫のくせに。  幻覚だろうか。夢だろうか。でも、胸の上に感じる重さは確かにこの世のものだった。 「アク……ロ」  震える手を持ち上げ、触れようとする。物凄く恐かった。この手が幻をすり抜けてしまうことが。  目を閉じて確かめる。  そこには、あった。 「アクロ」  目を開いた俺の頬をアクロの舌が舐めた。指先が震える。熱い風が全身を吹き抜け、全ての器官に火が灯る。 「へへ。また、会えたね」  その声を聞いた瞬間、俺は叫んだ。意味のある言葉じゃない。叫ぶ事に意味があった。肺を喉を唇を拳を、とにかく全てを震わせて叫んだ。  息の続く限り、何もかもを吐き出してしまうように。  空に向かって地面に向かって人に向かって自分に向かって。とにかくこの世の全てに向かって叫びたかった。 「静かにしなさい」  聞き慣れた声がして、誰かが俺の額をぺしりと叩く。  声を断ち切って見上げれば案の定ティアさんがいた。腕を組んだティアさんは呆れ顔で俺を見下ろしてから膝を折る。 「起きられる?」  質問に答えるように俺は全身を確かめてみた。痛みがないわけじゃない。でも起き上がる事はできそうだ。  さっきまで指一本動かすのも嫌だったのに。  俺は膝の上でアクロを抱き、石畳の上にあぐらをかいた。 「どうして、って顔してるわね」 「ティアさんが助けてくれたんですか?」  それ以外の可能性は俺には考えられなかった。  ティアさんは静かに首を横に振る。 「私は探して連れて来ただけ。この子を救ったのはあなたよ」  意味が分からなかった。俺は何もしてないし、第一方法は何一つないって。 「ねぇ、私の言ったこと覚えてる?」 「えと……」  言いよどむ俺にティアさんは息を吐いて、こう言った。 「心を救えるのは心でしかない。人間という不完全な存在が扱う魔法は万能ではない」  言われて思い出す。あの日、賤民区に行く途中に言われた言葉だ。 「心を救えるのは心でしかない。逆に言えば、心によって心は救えるの」  眉根を寄せる俺にティアさんは続けた。 「魔法や魔術って何だと思う?」 「そんな、俺に訊かれたって」  魔法の才能がかけらもない俺にとって、その質問はかなりの難題だった。 「人の思いを現実に変えるための教科書。それも酷く不完全でいい加減な、ね」  吹く風に揺れる髪を手で押さえ、ティアさんが目を細める。こんな優しそうな笑顔、初めて見た。 「不完全な魔術によって生み出されたこの子の身体と魂は一度崩壊した」  ティアさんの指がアクロの喉を撫でる。 「でも、あなたの思いがこの世界に呼び戻した。教科書に頼らない、あなただけが使える本当の魔法で。そういうのを奇跡って呼ぶ人もいるみたいだけど私はそうは思わない。人間には誰にだって思いを現実に変える力があるんだから。それは神様が起こした気まぐれなんかじゃなくて、とても大切で強い人間の力よ」  言葉を切ったティアさんはそこで少しだけ空を見上げた。 「覚えておいて。強い思いさえあればあなたにだって魔法は使える。それもまやかしの魔法じゃなくて本当の魔法がね。方法さえ間違えなければあなたには何だってできるの」  一つ一つの言葉が染み込んでくる。  人はみんな魔法使いだとティアさんは言った。ただ方法を知らないだけ。 「でも、こいつの場合は方法が何一つないって」  問う俺にティアさんは口元に手をやると、からかうように言った。 「この子を助けるための思いと、この子が助からなくてもなお思ってあげられるその思いは、どっちが強いと思う?」  言葉に詰まった俺に愉快な玩具を見るような目を向けて、ティアさんは折っていた膝を伸ばした。 「嘘ついたんですか?」 「しょうがないでしょ、それしか方法がなかったんだから」  悪びれた様子もなく言うティアさんに俺は大きな溜め息をついた。ったく、あの時俺がどれだけの絶望感を味わったと思ってるんだ。 「さっ、立ちなさい。お昼休みは終わりよ」  促され、立ち上がる。おかしい。体がまったく痛くない。  驚きに目を大きくして俺はティアさんを見つめた。 「ぼこぼこの顔で窓口に立たれたら恐いでしょ」  魔法は誰にだって使えるらしい。が、とてもじゃないが俺に人の傷を癒す事はできそうになかった。そういう意味じゃやっぱり凄いんだろうな、ティアさんって。  痛いの痛いの飛んでけー、を高度にするとこうなるんだろうか。さっぱり分からない。 「セイル。左の肩は空いてる?」  抱いていたアクロをご希望の席に座らせてやる。 「感想は?」 「最高だよ。一年を通して予約したいくらい」  耳に当たる毛と声のくすぐったさ。戻ってきたんだ。ほんとに。もう二度とこんな風に話をすることはできないと思っていた。夢じゃない。現実なんだ。 「そうだ。これ、返さなきゃ」  上着のポケットに手を入れ、俺はあの鈴の付いた首輪を取り出した。もう、思い出の品じゃないんだ。これはアクロの持ち物になる。  俺の手から首輪を受け取ったティアさんがあるべき場所にそれを戻した。  さぁ、これで全部元通りだ。  こちらに背を向けたティアさんの横に並び、歩き出す。歩調に併せて鈴の音が鳴った。 「ところでティアさん。お願いがあるんですけど」 「なに?」 「今晩の食費貸して貰えません?」 「もったいないから嫌」  財布盗られちゃって、と言う暇もなく即答されてしまった。どうやらティアさんの優しさも元通りみたいだ。今度この先輩の笑顔を見られるのはいつのことやら。  アクロは俺の肩の上でけらけらと笑っている。  俺の食費がないということは必然的にアクロの食費もないのだが分かっているのだろうか、こいつは。  ま、人は誰でも魔法使い。今夜は手からニンジンでも出してみるか。