妹と弟とシグ・ザウエルP226  プロローグ  次々と跳ね上がるマンターゲット。  俺はその額を手中のオートマチックガン、左利き用にカスタマイズされたシグ・ザウエルP226で撃ち抜いていく。  反動でぶれそうになる銃身を両腕の力で押さえ込み、トリガーを引き絞る。 『例えば、お前が誰かに銃を向けられたとしよう』  イヤープロテクターを通して聞こえる乾いた破裂音。  『そしてお前の手の中にも銃がある』  銃口が火花を散らし、衝撃が腕を突き抜ける 『死にたくなければ急所を外そうなどという事は考えるな』  弾き出された薬莢が視界の端をかすめる。 『たった一本の指に残ったトリガーを引くだけの力がお前を殺す』  硝煙の匂いが鼻の奥を刺した。 『確実に殺せ。頭を、心臓を撃ちぬけ。即死させろ』  俺に銃の扱い方を教えた人間の言葉。  とてもじゃないが父親が息子に向かって言うことだとは思えない。まったくもってとんでもないオヤジだ。  だが今俺が行っている事は、オヤジの言葉を確実に実行するための訓練だった。  絶対に死ねない訳がある。  生きて守らなければならないものがある。  銃口が弾倉に残った最後の一発を吐き出した。  長く尾を引く銃声がコンクリート壁に染み込むように広がり、やがて消える。  銃を目の前のカウンターに置いた俺はイヤープロテクターを首にかけ、大きく息を吐いた。  手に残った痺れを逃がすように何度も拳を握ったり開いたりする。  痺れがとれた所でじっと自分の手を見つめてみた。何のことはない。唯の手だ。  啄木のように詩が浮かんでくる事もない。  俺はもう一度拳を握り、開いて銃を取ろうとした。  と、胸ポケットの携帯電話が合わせておいた時間を知らせるべく震え出す。  突然の振動に少々驚いたが、もうそんな時間か、と携帯電話取り出しアラームを解除した。時刻は午前七時。  よっしゃ。起こさなきゃな、あいつら。で、朝飯はどうしよう。とりあえず卵を焼いて……  そんなことを考えつつイヤープロテクターを壁にかける。  味噌汁、味噌汁。具は? 豆腐はある。えーっと、あぁ、ワカメがあったな、確か。  銃を片手に俺は斜め右上を見つめた。意味はない。  そういや油が減ってたんだっけ。買ってこなきゃ。  地下射撃場と自宅とをつなぐ薄暗い階段を上がっていく。響く足音は相変わらず硬い。  階段を登り切った所にある扉を開けると日常生活の匂いがした。  扉を後ろ手に閉めたところで大きく伸びをする。  さぁ、今日も一日頑張りますか。  1  カーテンを開ける。  さし込む朝日に目の前が真っ白になった。今日もいい天気だ。  先程干し終えた洗濯物のことを思いながら俺は頬を緩めた。 「優奈、優希、朝だぞ」  傍らの二段ベッドに向かって呼びかける。  上と下、ほとんど同時に布団の下の小さなふくらみが、もそもそと動き出した。  ベランダからはスズメの合唱、リビングからは女性アナウンサーの声がする。  桜の名所をリポートしているようだ。そろそろ春本番ってところか。 「おはよ、お兄ちゃん」 「はい、おはよう」  先に布団の下から顔を出したのは上に寝ていた妹の優奈だった。  目をこすった優奈は少しわざとらしく大きな伸びをする。  最近テレビのコマーシャルを見てこの仕草を覚えたらしいのだが、優奈は拳をまっすぐ突き上げてしまうため、実はあまり様になってなかったりする。  それでも気分はテレビの中の金髪美人女優。だから、 「お手をどうぞ。お嬢様」  そう言ってベッドから降ろしてやると優奈の機嫌はすこぶる良くなる。  で、朝の支度も実にてきぱきとしてくれるのだ。  笑顔で抱きついてきた優奈を上のベッドから降ろした俺は、弟の優希が寝ている下のベッドを覗き込んだ。  こちらは朝がめっぽう弱い。もう、もぞもぞとすら動いてもいなかった。  すでに洗面所に行ってしまった優奈とは大違いだ。  双子だからって似るわけでもないんだなぁと、毎朝のように思ってしまう。  まぁ二卵性だし当然と言えば当然か。 「優希、起きないと遅れるぞ」  布団を引き剥がすとその下から胎児のように体を丸めた優希が出てくる。 「おーい、朝だぞぉ」  柔らかいほっぺたを二回引っ張ると、優希がうっすらと目を開けた。  そのままのそっと上半身を起こすと無言でベッドから降り、部屋の入り口までよてよてと歩いていく。  そして、ごすっと入り口脇の壁に頭をぶつけて慌てて辺りを見回すのだ。  まぁこれもいつものことだった。 「あ。おはよ、お兄ちゃん」 「はい、おはよ。ほら、はみがきはみがき」  いたの? という顔で俺を見上げる優希の背中を押して洗面所に向かわせる。  これで一安心、というわけでもない。  歯ブラシくわえたまま寝てることがあるからな、優希は。  さてさて。  俺は台所に戻って朝食の準備を再開する。メニューはさっき射撃場から家に続く階段を上がりながら考えた。  御飯に味噌汁、卵焼きと昨日の残りの肉じゃがとそんなところだ。ウチは基本的に朝は和食である。  朝からパンみたいなスカスカしたものじゃ力が出ないだろう、という偏見と、白米食え白米を、日本人だろ? というちょっとしたナショナリズムの成せるわざだ。  朝食の準備ができるころ、身支度を終えた優奈が台所にやってくる。  最近の幼稚園の制服は実に凝っていて、そこらの私立高校なんて目じゃないくらい可愛い。  胸元の大きな赤いリボンが目を惹くこの制服はどこぞの有名デザイナーの作だ。  上下紺一色だった俺の制服なんて見せたら優奈は凄い顔するだろうな。優希はぽーっとしたまま普通に着ちゃいそうだけど。  テレビに目をやると外務省の役人がたくさんのマイクを突きつけられていた。  難しい言葉をこねくり回してはいるが、結局のところ「私は悪くない」の一言で済みそうな受け答えだ。  その役人の前を鞄を手にした優希が横切る。  男の子の制服にはリボンの代わりにネクタイがついているのだが、優希の場合これがまっすぐついていた例がない。  普通のネクタイと違って既にしばってあるものを襟にくっつけるだけ。  それでも優希のネクタイは毎朝ねじれていた。  優希のネクタイを直したところで三人揃って頂きます、である。  だがあまり悠長に食事を楽しんでいる暇はない。朝というのは世界中何処へ行っても忙しいのだ。  とにかく喉に詰まらせない程度に急いで朝食を終え、すぐさま後片付けにかかる。  その間優奈と優希は朝の子供向け番組を実に嬉しそうに見るのだ。  今日は余裕ができたので、片付けの後にお茶を一杯飲みながら五分だけその子供向け番組を見ることができた。愛嬌はあるが何類に分類すればいいのかわからない緑色の生き物が女の子と野道を歩いていた。  時計を見ればきっかり八時十五分。  手元のリモコンでテレビを消した俺はスーツの袖に手を通して号令をかける。 「整列!」  空飛ぶ円盤型の帽子をかぶり、鞄を肩からかけた優奈と優希が俺の前に並んだ。 「ハンカチ、ちり紙、お弁当。忘れ物は?」 「ありませーん」  二人揃って手を挙げる。ただし優奈は右手、優希は左手だ。 「それじゃ、お父さんとお母さんに挨拶」 「いってきまーす」  小さな棚の上、写真の中では一組の夫婦が微笑んでいる。彼らは優奈と優希の両親であり、また俺の両親でもあった。  ……当たり前か。優奈と優希は血の繋がった実の妹と弟なんだから。  俺は心中で「行ってくるわ」と挨拶し、戸締りと火の元をチェックする。  片手に鞄、片手に黒のゴミ袋を持って玄関へ。優奈と優希に続いて家を出る。  両手のふさがった俺の代わりに優希が鍵をかけてくれた。ドアノブを引いてそれを確かめるのは優奈の役目だ。  優希がポケットに鍵を返してくれたところで幼稚園に向かって歩き出す。  まだ少しばかり肌寒かったが空気は清々しく、楽しくなるような陽気だった。  俺たちが住んでいるのは郊外の住宅地。その中心にある幼稚園までは歩いて十分ほどだ。  俺が優奈と優希を幼稚園へ送るようになって一年と少し。  今では道中で出会うお母さん方とも自然に挨拶を交わせる。  その知らせは本当に突然だった。  今でもはっきりと思い出せる。  その日、その時俺は西日の差すリビングで優奈と優希とぬいぐるみに囲まれていた。  電話が鳴る。  手にした受話器から聞こえてきたのは、両親が出張先で行方不明になったことを告げる社長さんの声だった。  ちょっとしたトラブルだろ。いつものことさ。そんな風に思っていた。  だが一ヶ月たっても二ヶ月たっても二人は帰ってこなかった。  そのころ優奈と優希は一歳になったばかり。当然のことながら俺に子育ての経験なんてない。  この歳の子供に何を食べさせたらいいのかすら分からなかった。  でも、俺が途方に暮れていたところで両親が帰ってくるわけでもないし、優奈と優希が成長するわけでもない。  いま二人には頼れる人間は俺しかいない。両親が帰るまで兄としてできる限りの事はしよう、と思った。  優奈と優希が生れたのは俺が二十歳の時だ。  母親の高齢出産(しかも双子)に不安はあったが、それ以上に妹と弟ができることが嬉しくて仕方がなかった。  両親に向かって「節操ないなぁ」と言いつつ、顔はいつもにやけていた。  そして無事出産。新生児室の前、ガラス越しに小さな二人を見ていたら泣きそうになった。  守ってやらなきゃ。両親を差し置いてそんな使命感を燃やした。  だから両親が行方不明になった時もすぐに、俺が優奈と優希を育てるんだ、と決断できた。  それと同時に俺は両親を探すため、それまで勤めていた保険会社を辞めて両親と同じ業界に身を投じた。  同じ業界なら情報も集まりやすいんじゃないかと思ったのが一つと、保険会社とは比べ物にならいほど報酬が良かったのが一つ。  こんな状況だ。お金は無いよりは有った方がいい。 「そんな非合法な仕事、嫌だからな」と俺を同じ業界に誘う親父に向かって声を荒上げたのが懐かしい。  もっとも、親父は「非合法なのではない。超法規的なのだ」って言ってたけど。  やがて時は流れて近くの幼稚園に入園した優奈と優希は四歳になり、さらに一年後、この春からは年中組になった。  幼稚園まで来るとちょうど通園ラッシュだった。  お母さんに手を引かれたり、自転車の後ろに乗せられた子供たちが続々と集まってくる。  入り口で元気よく先生にあいさつして中に入っていく子もいれば、お母さんにしがみついて泣きベソをかいている子もいた。  子供を送り届けたお母さんたちが三人、四人と集まってお喋りに興じる姿も見られる。  辺りは活気に溢れていた。魚市場とだっていい勝負しそうだ。  そんな中にあって俺はとにかく目立っていた。  スーツにネクタイの男なんて俺しかいない。面白いくらいに仲間外れなのだ。  最初のうちはこちらに向けられる好奇の目に肩身の狭い思いをしたものだが、もういい加減俺も周りも慣れてしまって、今ではどうということもない。  ごく稀に俺の両親が行方不明であることを知った人に憐れみじみた目を向けられることがあるが、これも慣れてしまった。というか一々気にしてたらきりがない。  最近では「大変ねぇ、まだ若いのに」と言われたら「そーなんすよ。まだ若いのに」と笑顔で返せるようになった。  まぁ、このご時世俺より若いお父さんお母さんなんて別に珍しくもないんだけど。  それに俺なんかに比べたら優奈と優希の方がよっぽど大変だ。一番親が恋しい時期だろうに。  普段口に出すことはないが、寂しい思いをしているに違いない。  それを思えば俺の苦労なんて問題にすらならなかった。 「おはようございます」  担任の先生と目が合った俺は頭を下げ、二人の背中を押す。 「先生おはよ」 「おはよー」 「はい。優奈ちゃん、優希くん、おはようございます」  ちょうど今時分の日差しに似た優しい笑みを浮べて先生は丁寧に頭を下げた。  それから俺のほうに向き直り、そのままの笑顔で「おはようございます」と挨拶する。  俺も反射的に顔を緩めてしまった。本当に清々しい。挨拶の教科書に載せたいくらいだ。  優奈と優希の先生はまだキャリア一年の新米先生だった。  去年優奈と優希がいた年少組が短大を出て初めて受け持ったクラスで、今年は年少組から年中組にそのまま繰り上がったというわけ。  まだ少し危なっかしいけど一生懸命やっている、という事で母親たちからの評判は決して悪くない。  と同時に父親たちからの評判も悪くなかった。  日本人女性らしい長く艶やかな黒髪。まだあどけなさが残るものの優しい顔立ち。そして素敵な笑顔。  まっ、なんちゅーか、非常にかわいいんだわ、これが。加えて彼女の「保母さん」(俺は「保育士」という名称は嫌いだ。人間味がしないから)という属性とエプロンが男の奥底に眠る幼児性を刺激するのだ。  分かりやすく言えば「甘えてみたくなる」ってところか。  ちなみに俺は甘えてみたいなんて考えた事は……ちょっとだけある。  わははは。  んな事はともかく。 「今日は迎えを託児所の方に頼んでありますから」 「お仕事、ですか?」 「ええ」  優奈と優希を見ながら首筋を掻く。  俺は一つ息を吐いて膝を折った。 「二人とも先生の言う事を聞いて、いい子にしてろよ」  そう言って優奈の右手と優希の左手を握る。寂しそうな二人の顔を見ていると胸が痛んだ。 「お兄ちゃん」 「あしたは」  同じような心配顔で優希と優奈に言われた俺は笑顔で肯いた。 「忘れやしないさ。二人の誕生日だ」  俺の台詞に優奈と優希が顔を見合わせて笑う。そんな二人の頭をぽんっと叩いて俺は立ち上がった。 「それじゃ先生、よろしくお願いします」 「お兄さん」   頭を下げて立ち去ろうとした俺を先生が呼び止める。  先生は一瞬迷うようにうつむき、視線を泳がせて、なぜかうわずった声で言った。 「その、何かあったらいつでも言って下さい。私でよければお手伝いしますから。色々大変でしょうけど、あの、頑張って、下さい」  再びうつむいてしまう先生。優奈と優希も不思議そうな顔で先生を見上げている。  何をそんなに焦っているのかイマイチ分からないが、申し出自体はありがたいものだった。 「ええ。困った時は頼らせてもらいます」  そう言って俺は校門に背を向けた。  いってらっしゃい、という優奈と優希の声に一度振り向いて手を振る。  先生は手を前で重ねて微笑んでいて、やっぱりそれはとてもいいものだった。  さっ、お仕事お仕事。今日も一日頑張りますか。  と、鞄の取っ手を握る手に力を込めた俺の背中をクラクションの音が二度叩く。  聞きなれた電気ラッパの音に振り向くと、そこには案の定赤のRX-7(FD3S)がいた。  フロントガラス越しに手を振る女性、シャロンに軽く手を挙げて助手席側に回りこむ。  しかしこんな所でクラクション鳴らすなよ。思いっきり注目されてるじゃないか。  九センチの車高とギリギリで保安基準適合なマフラーが奏でる排気音で十分目立ってるってのに。  俺は母親や園児たちの視線から逃げるように車に乗り込んだ。無言で相棒を睨んでみるも完全に無視。  シャロンは何事も無かったかのようにギアを一速に入れるとクラッチを繋ぐ。  結構なGと共に景色が後方に流れだした。  排気音が高まり、電気モーターにも似たロータリー特有のエンジン音が車内に響く。  ギアは二度のオーバーレブ警告ブザーを経て四速に入った。  一度落ち着いてしまえばロータリーエンジンは静かなものだ。マフラーのせいで排気音はデカイけど。 「相変わらず優しいお兄ちゃんしてるじゃない」 「目に入れても痛くない、ってやつだよ。かわいくて仕方がない」  窓の外から運転席のシャロンに視線を移す。  住宅街を抜け、車通りの多い国道に入った。次第に建物の背が高くなっていく。  シャロンは艶っぽい唇を緩めると、細く白い指でステアリングを撫でた。  元々引き締まっている体が上下黒のスーツのせいで余計に細く見える。  タイトな7のコックピットに収まるその姿は非常にサマになっていた。  絵に描いたような大人の女性であるシャロンの横にいると、自分がとてつもないクソガキに思えてくる。  一応同い年なんだけどな、これでも。  シャロン・オブライエン。名前から分かる通り彼女は日本人ではない。  日本語をほぼ完璧に使いこなし、祖父から貰ったアコーディオンとなぜか日本のスポーツカーをこよなく愛するアイルランド人だ。 「で、今回の仕事内容は?」 「やけにやる気ね。何かいいことでもあったの?」  黄金色の前髪に触れながらシャロンが言う。 「やる気というか、今回は時間に限りがあるんでね。何が何でも明日の午後四時には幼稚園に行かなきゃならない。ケーキも作らなきゃいけないし。ウチのチビ二人、明日が誕生日なんだ」 「そう。それはおめでとう。でも帰ってからケーキ焼いたんじゃ間に合わないんじゃないかしら」 「大丈夫。スポンジは焼いてある」 「それは手際のいいことで」  呆れ声が返ってきた。 「とりあえずの資料はグローブボックスにあるから」  言われた通り正面のグローブボックスから二枚の書類を取り出す。業務内容、の欄に俺は片眉を上げた。  シャロンは黙ってステアリングを握っている。  乾いた唇を舐め、書類を一枚めくる。その瞬間、俺は添付されていた写真に瞬きできなくなった。 「冗談だろ」  人さし指でこめかみを押さえ、わざとらしく首を振る。  だが書類は間違いなく正式のものだ。  普通の人には写真付きの履歴書にしか見えないが、俺やシャロンのような人間にとっては何をどうすればいいのかが一目でわかる書類。  俺は書類の文面を脳内で変換しながら再び目で追う。  業務内容、ターゲットの抹殺。手段は問わず。ただし事故を装うこと。  ターゲットの情報。姓名、皆川はるか。性別、女。年齢、二十一。現在、私立青葉幼稚園に教諭として勤務。  そこまで読んで視線を写真に移す。  印象に残る長い黒髪。写真の中の彼女は笑ってこそいなかったが、間違いなく今会ったばかりの先生だ。  優奈と優希に向けられた笑顔を思い出しながら、俺は書類をグローブボックスに戻した。 「どういう事だよ」 「そんなに怖い声出さないで。私にだって分からないんだから」 「なぜ彼女を殺らなきゃならない」 「だから分からないって言ってるじゃない。私だってあの先生がターゲットだって知った時には驚いたもの。でも」  シャロンはそこで言葉を切ると俺を見やった。 「会社が依頼を受けたってことは、彼女に殺される理由があるってことよね」  そうだ。それが信じられない。彼女が誰かに殺したいほど憎まれているとはどうしても考えられなかった。  俺にとって先生は妹と弟の担任でしかないし、先生にとって俺は園児の保護者でしかない。  関係は非常に薄かった。毎朝五分ほど顔を会わせているだけだ。  が、その人がどういうタイプの人間かは感じる事ができる。  完全に善人だとは言い切れないが、誰かに命を狙われるほど悪人ではないと思う。  それともそれはただの錯覚で、あの笑顔の裏にドス黒いものが淀んでいるというんだろうか。  優奈と優希のなつきようからして、芯から悪人だとはどうしても考えられなかった。  優希なんて先生と結婚したいとすら言ってるのに。  だが一方で会社が依頼を受けたという厳然たる事実が 「考えたってダメよ。社長に訊くのが一番早いと思うけど」  シャロンの声が俺の思考をあっさり切り捨てる。  確かに考えて分かるような問題じゃないし、それが一番合理的だ。  俺は頭を掻いて再び街の景色に目をやる。  オフィス街に入り銀行や出版社の高層ビルが視界を横切り始めた。  増えた車線に見合った台数の車がひしめき、信号にあわせて前から順番に消えていくブレーキランプはユーモラスだ。その反面ちょっとした順番の狂いにイラついてしまう。  会社まではあと十五分くらいだろう。俺は小さく息を吐いた。  で、要するに会社が依頼を受けたってことはだな……思考再開。  どうやら俺は合理的にはできてないらしい。  2  『L and M security』  本社をイギリス、ロンドンに置く警備会社。  警備員やボディーガードの育成、派遣を行っている企業だがそれは表の顔だ。  裏では俺達のような人間(社内ではマネージャーと呼ばれている)を使って超法規的な厄介事処理業を営んでいる。  そもそも会社の創設者であり社名にもなっているLとMはLuke(ルーク)とMax(マックス)の頭文字で、この二人は元々イギリス裏社会では名の知れた何でも屋だった。  その時の経験とコネを生かして会社を興したのだが、これが大当たり。  今では世界各国に支社を持つ一流の警備会社として名を馳せている。  しかし表の世界でこれだけ成功したのなら普通裏からは手を引きそうなものだが、二人の元何でも屋はそれを良しとしなかった。  理由は需要があるから。  それもビジネスとしての面より道義的な面の方が強かった。 「自分に寄りかかってくる人間を押しのけるなんてのは男のすることじゃねぇ」 「必要とされている限り表も裏も死ぬまで現役だ」と今は亡き二人の会社創設者は言ったそうだ。  で、その経営理念は今でもしっかり受け継がれているというわけ。  二人のようにカッコイイ事を言うつもりはないが、この平和な日本にあっても俺みたいな人間が必要かもなと思う事はやはりある。  例えばストーカー。  いわゆるストーカー規正法が施行されたとはいえ、まだまだ警察はきっちり動いてくれない状況だ。  被害者が出てワイドショーでネタにされてからでは遅すぎる。  そうなる前に依頼をしてもらえれば被害者をストーカーから守ると共にストーカー本人に脅しを入れて、一生被害者の前に現れないようにする事だってできるのだ。  そもそもこのストーカー規正法、ストーカー行為をしたところで六ヶ月以下の懲役又は五十万円以下の罰金で済むし、禁止命令等に違反してストーカー行為を繰り返しても一年以下の懲役又は百万円以下の罰金で済んでしまう。  この程度の罰則では抑止力としての効果は期待できない。  だから俺みたいにストーカーの頭に鉄砲突きつけて「殺スぞ」と言うような人間も必要なんじゃないかと思う。  でもストーカー退治なんて裏の仕事じゃまだまともな方だ。  復讐。  俺たちに回ってくる依頼ではこの手のものが一番多い。  もちろん婦女暴行など事を公にしたくないという理由でウチに来る人もいるが、もう法の力ではどうにもならないという理由でウチに来る人も大勢いる。  確かに日本は平和だ。だが自分の最愛の人を殺した人間が、十数年拘束されただけで街を歩けるようになる事を許せるほど平和的な国民ばかりというわけでもない。  生物的に殺すこともあれば社会的に殺すこともある。その辺は会社の上層部が出した指示に従う。  もちろん納得できなければ自分で再調査もするしウラも取るが。  そして今回の件もいくつか確認しなきゃならない事がありそうだ。  シャロンから渡された資料を片手に会社の廊下を歩く。  最上階の一番奥、社長室というプレートが貼られた重厚な扉の前で立ち止まると、俺は二度ノックした。  すぐに返ってきた返事と共に扉を勢いよく開く。 「あっ、おはよー」 「おはようございます」  間延びした秘書の美津子さんの声にとりあえずは挨拶。  それから俺はかなり広い社長室を縦断して机についている社長の前に立った。  手にしていた書類を置き、机に片手をついて社長の顔を覗き込む。 「どうした。そんな怖い顔して」 「説明してください」  俺の台詞に社長が置いてあった書類を手に取った。眼鏡の奥の柔和な目が細くなる。  少しでっぱったおなかに薄くなり始めた髪の毛。間近で見ても遠くから見ても社長は普通の中年サラリーマンにしか見えない。だが社長が現役のマネージャーだった時、彼の右に出る者は誰一人としていなかったそうだ。 「おはよー」 「おはよ」  遅れて入ってきたシャロンが俺の背後でソファーに座った。見てなくても音と気配で分かる。 「美津子さん、コーヒーちょうだい。ブラックのうんと濃くて熱っついやつ」 「はい。でも、少しミルクを入れた方がおなかには優しいのよ」 「だいじょうぶ。私の胃は頑丈だから」 「そう? あら。そのスーツどうしたの? いいじゃない」 「でしょ。お手頃価格でね、気が付いたら服の入った紙袋持ってたの」 「へぇー。でも、わたしみたいなオバサンにはちょっと無理かな」 「だいじょうぶよ。それだけのスタイル維持してるんだもの。若い若い」  そんな女性二人の会話を背中で聞きながら社長の顔を見つめる。  社長は手にしていた書類を机の上に戻すと指を組んで俺の顔を見上げた。 「まず会社が依頼を受けた理由についてだが、それは依頼主が皆川はるか本人だったからだ」  反射的に口を開こうとした俺を目で制し、社長が続ける。 「現在皆川はるかはかなりの額の負債を抱えている。といっても彼女自身が作った負債ではなく彼女の父親が作った負債だがな」 「なぜ彼女が父親の借金を。連帯保証人になってたんですか?」 「いや、一年前彼女の父親が亡くなってな。その時に負債を相続したそうだ」  法律上借金は財産とみなされるため、相続することができる。その反面相続を拒否する事ももちろんできる。  だがその場合その他の遺産を相続できなくはなるが。 「どうしても手放せない何かがあたっとか」 「いや、父親には何一つプラスの遺産は無い。彼女の真面目さが父親の負債を相続させたんだ。まぁ、債権者に色々つつかれたりもしたんだろう。債権者のほとんどが街金や闇金だからな」  支払い義務のない者への代位弁済の強要、体売ってでも親の借金払わんかいコラァ、はれっきとした違法行為だ。ゆえに債権者は何とかして「私が借金を肩代わりします」と債務者の肉親に言わせようとする。 「結婚できなくなる」「今の地位が危なくなる」「就職できなくなる」「人として」などの言葉を使って債務者の肉親を揺さぶるのだ。そして時にその筋の人間を使い、無言の圧力をかける事もある。  あの優しい先生のことだ。きっとそんな状況に耐えられなかったのだろう。  俺は乾いた唇を舐め、うな垂れた。  借金と書類にあった事故を装うことという記述になぜ先生が死ななければならないのか、分かった。 「生命保険」 「その通りだ」  社長が短く肯定する。 「契約は小和生命、受け取り人は彼女の知人らしい」  利子が月々の返済可能額を上回り、もうどうしようもない状況なのだろう。  先生は自分の命を借金返済に当てるという最終手段に出たのだ。  ほとんどの保険契約において契約から一年以内の自殺では保険金は支払われない。  だから事故を装って殺す必要がある。  しかし先生がそこまで追い込まれていたなんて。  朝の挨拶の時も、授業参観の時も、保護者同伴の遠足の時も、いつもいつも先生は笑っていた。  楽しそうに、嬉しそうに、優しそうに、笑っていた。  どうして気付いてやれなかった。 「その、何かあったらいつでも言って下さい。私でよければお手伝いしますから」  先生の言葉が胸中に響く。俺がそう言ってやらなきゃならなかったのに。  本当に殺すのか。俺が先生を、殺す。 「そんな馬鹿な」  俺は半笑いでつぶやき、頭を振った。殺せるかよ。弟の初恋の女性なんだ。 「これ、法務課で処理できませんか」  顔を上げ、課長に訊く。  何も先生が死ななくとも、元凶である借金が無くなればいいわけだ。  完全にゼロにできなくとも、法的手段によって支払い可能な額まで落すことだってできるかもしれない。  が、社長の反応は思わしくなかった。俺の顔を見た後で社長は口の端を歪めてしまう。 「結論から言えば不可能じゃない。だがな、皆川はるかにその意思がまったくないんだ。私たちも法的な債務整理を勧めたんだが彼女、もういいんです、と言ったそうだ」 「死ぬ意思は固い、か」  机の上にある書類に添付された写真に目をやる。  車の中では普通の写真に見えたが、今あらためて見ると先生の表情から疲れのようなものを感じた。 「そんな顔をするな。お前を担当にした意味がなくなる」  課長が笑った。 「殺さずに済むのなら殺さないのがウチのやり方だ。彼女もお前の言葉なら素直に聞いてくれるんじゃないのか?」 「どうしてです? 毎朝少し顔を合わせてるだけですよ」 「そうか。シャロン君は『絶対に大丈夫です』と言ったんだがなぁ」  肩越しに振り返る。シャロンは湯気の立ち上る白いマグカップ片手に完全に落ち着いていた。  真面目に仕事の話をしている自分が愚か者にさえ思えてくる。  しかしシャロンは何を根拠に絶対に大丈夫と言ったんだろうか。  シャロンも先生のことはよく知らないはずだ。俺を迎えに来たときに見たことがある、程度のものだと思う。  それとも実は俺の知らないところで仲良しだったとか? いやいや、だったら先生の借金問題なんてとっくに片付いている。  シャロンも友人のトラブルを黙って見過ごしたりはしないだろう。  じゃあシャロンの自信の根拠はいったいどこにあ 「どうするんだ」  社長の問いかけに心の声が切れる。俺は小さく喉を鳴らした。 「もし俺が断ったら」 「その時は女性が一人死ぬかもしれない。地方紙の片隅になら載るんじゃないか?」  意地悪げな口調と笑顔で言う社長。  俺には選ぶ権利などなかったし、もし誰かが選ぶ権利をくれると言っても断っただろう。いや、絶対に断る。 「やります」  俺は社長の目を見て言い切った。 「いいだろう。だがもし皆川はるかの説得に失敗した時は、分かってるな」  社長のいわんとする事に肯き、右手を握る。  俺が先生を事故死させなければならない。一瞬、喉が詰まった。少しだけ長いまばたきの間に何とかなるさと自分を励ましておく。  やると決めたからには早速動いた方がいいだろう。 「シャロン」  呼びかけると同時に車のキーが飛んできた。それを右手で受け取り、早足で扉に向かう。 「下準備、しとくから」 「頼む」  シャロンに短く答えた俺は社長室を後にした。後ろ手に扉を閉めたところで大きく、長く息を吐く。  とりあえず幼稚園に逆戻りか。  冷たいキーを目の高さまで放り投げ、手の中へ落す。  手中のキーをポケットに移した俺は長い廊下を歩き出した。  3  運動場で遊ぶ子供たちの元気な声を聞いていると頬が緩んでしまう。  どの子もゼンマイ仕掛けのおもちゃがとてとて歩いたり走ったりしているようにしか見えないのだ。  会社から戻ってきた俺は少し離れた所に車を置いて幼稚園を見ていた。  先生を説得するといってもいきなり幼稚園に乗り込むわけにもいかない。  お弁当の時間が終われば昼休みだし、少しくらいは時間が取れるだろう。  とりあえず挨拶だけだし、それほど時間はかからないはずだ。  腕時計を見れば十時半過ぎ。もうしばらく待たなきゃならない。  俺は開けてあった窓から顔を出して運動場を見渡した。どうしても優奈と優希の姿を探してしまう。  が、二人を見つける事はできなかった。  教室の中で遊んでるんだろうか。怪我とかしてなきゃいいけど。  優奈と優希には俺の携帯電話の番号を完璧に暗記させて、何かあったらすぐここに電話する、  もしくは電話してもらうようにと教え込んである。  連絡がないというとは優奈も優希も普段と変わりないんだろう。  でもなぁ、どうしても連絡できない状況に陥っている可能性だってないわけじゃない。  うーん、ちらっとでも姿を見せてくれれば安心できるんだが。  そんなことを考えながら運動場を見渡していると、いた。  初めに数人の男の子が教室から跳び出してくる。それを追っかけて出てきたのが優奈だった。  優奈はあっという間に一人の男の子に追いつくと、腕をつかんで教室の方へ引きずっていった。  抵抗する男の子をものともしない。  一体何をやっているんだろうか、我が妹は。  その歳で男を捕まえる訓練か? だとすると兄は少し悲しいぞ。  と、今度は先生の手を引いた優希が教室から出てきた。  優希は優希なりに鋭い目で辺りを見回すと、タイル張りの水飲み場の陰に先生と隠れてしまう。  といっても教室から見て陰なのであって、俺には二人の様子がよく見えた。  一体何をやっているんだろうか、我が弟は。その歳で女を物陰に連れ込む訓練か?   だとすると兄はやっぱり悲しいぞ。  まぁ実際は鬼ごっこ……助け鬼でもしてるんだろうけど。何はともあれ二人の姿を見られて安心した。  今日も優奈と優希は元気みたいだ。  ただその元気な優希の横にいる先生まで元気そうなのが気になる。  先生は優希と顔が合うたびに笑いかけ、優希をどぎまぎさせているようだった。  優希のリアクションも分かる。あんな優しい笑顔を向けられれば男なら誰だってああなるだろう。  しかし、なぜ笑えるんだろうか。  父親の死から一年、その間にかなりの追い込みをかけられ、先生の精神は極限まで磨り減っているはずだ。  それでも先生は笑っている。  俺はシートに背を預け、ホーンボタンをぼんやりと見つめた。  もしかしたら先生は意外と強いのかもしれない。  本当に気が弱い女性なら今ごろは債権者の言うまま身体を売っているだろう。  それを一年も幼稚園の先生を続けているのだ。  一緒に頑張りましょう、と言えば意外と素直に肯いてくれるかもしれない。  とにかく顔を合わせて言葉を交わすことだ。こんな時の時間は実に遅く流れる。  幼稚園の屋根についている大きな時計を見てもまだ十一時前だ。  屋根によじ登って時計の針を十二時半くらいまで回したい衝動にかられてしまう。  結局俺は昼休みまでの時間を先生を見たり優奈と優希を見たり優奈と優希を見たり缶コーヒーを飲んだり先生を見たり優奈と優希を見たり明日の誕生パーティーの献立を考えたりして潰した。  ここまでトラブルらしいトラブルはない。  腕時計を見れば針は一時十分を指していた。  えーっと、お弁当の時間が一時までで昼休みが二時までだから、そろそろいいだろう。  お昼休みとはいっても小学校や中学校と違って幼稚園の先生は子供たちから目を離せないから、ちゃちゃっとやってしまおう。  俺はグローブボックスの書類を鞄に入れ、ドアノブに手をかけた。 「あん?」  その時、門の前に横付けされた場違いな一台の車に我ながら妙な声を出してしまう。  フルスモークのベンツS600。絵に描いたようなその筋の人間仕様だった。  中から出てきたのも絵に描いたようなその筋の人間だ。  趣味の悪いシャツの上にスーツを着たのが二人。ジャージを着ているのが一人。  遠目に見ても上下関係が一発で分かる。  ジャージの男が携帯電話取り出し、どこかへかけた。それを頭を下げながら白スーツの男に渡す。  白スーツの男は下卑た笑みを浮べながら三十秒ほど話すと、ジャージの男に携帯電話を投げて返した。  ややあって、男たちの前に現れたのは幼稚園から出てきたはるか先生だった。  先生は辺りを見回した後で、男たちに向かって頭を下げた。今は先生も笑ってはいない。  むしろ明らかに怯えていた。顔を伏せ、ただ肯いたり頭を下げたりするのみだ。  白スーツの男が先生の肩に手を回す。先生はうつむいたままで、抵抗しなかった。  男たちが先生を連れて移動を始める。  当然このままぼけっと見送るつもりは無い。  俺は鞄を手に車を降りると、先生を追った。あのチンピラ共は十中八苦金貸しだろう。  しかしこのご時世、職場まで取り立てに来るとは根性があるのか、はたまた唯の馬鹿なのか。  先生を追って辿り着いたのは、幼稚園のすぐ傍にある小さな公園だった。  食事を終えたお母さん達が子供を連れて集まってくるにはまだ時間が早い。  そのせいか公園に俺達以外の人間はいなかった。  男たちは先生を小さな公園のさらに奥、通りからは見えない位置に連れ込むと、半円状に取り囲んだ。  先生の背後には緑色のフェンス。逃げ場はない。  俺は傍の茂みに身を隠す、と同時に鞄からテープレコーダーとカメラを取り出した。  レコーダーの録音ボタンを押し、カメラを構える。  シャッターを切りながら、交わされる会話に耳を傾ける。 「それで、いつになったら返してもらえるのかな、先生」 「もう少しだけ待って下さい。すぐにお返ししますから」  先生の声は震え、今にも泣き出してしまいそうだ。 「この前も、そう言ってたよなぁ」 「本当です。一週間のうちに必ずお返しします。だから、もう少しだけ」  涙目になって頭を下げる先生に、三人の男たちがにやにやと笑う。  どこか遠くで犬が鳴いた。 「ざけんなコラァ!」  いきなり声を荒上げた白スーツの男がフェンスを蹴りつけ、先生の髪を引っ張る。  んく、と呻き声を上げた先生を無理やり引き寄せ、男はさらに声を張り上げた。 「慈善事業じゃねぇんだよ! 金が無きゃ体売ってでも作れやボケ!」   歯を食いしばりながらシャッターを切る。葉のこすれる音がやけに耳についた。それ以上に男の声に腹が立つ。  男が女の子囲んで声張り上げてんじゃねぇよ、馬鹿野郎が。 「いい風呂屋があるんだ。紹介してやろうか? 先生なら月百はいけるぜ」  もう一人の、グレーのスーツを着た男が先生を見ながらいやらしく笑う。  先生の目からとうとう涙がこぼれた。 「本当に、一週間で払います。許して……お願い……許して、ください」 「一週間? ダメだね。俺は今すぐ欲しい」 「そんな……」 「先生の一大事なんだ。保護者にいやぁカンパくらいしてくれんじゃないのか。何なら俺が手伝ってやろうか」  白スーツの言葉に涙に濡れた先生の顔が跳ね上がる。 「お願いします! それだけは許してください」 「おいおい。あれも許してくださいこれも許してくださいじゃ話にならねぇよ、先生。まっ、だが」  そこで白スーツは言葉を切ると先生の体を反転させ、後から抱いた。 「先生の気持ち一つで許してやらないこともないけどな」  無骨な手に胸をつかまれ、先生の細い肩が大きく震える。  だが、それだけだ。あとはただ全てを諦めたようにうつむき、声も出さずに涙をこぼすだけだった。  そんな先生の姿をデジカメに納め、俺は大きく長く息を吐き出した。 「見張ってろ。後で回してやるから」  白スーツに言われ、ジャージの男がこちらに向かって歩いてくる。  これから起こる事に期待するにやけた笑みが俺の神経を逆なでした。  とりあえず貴様は殴る。  ジャージが茂みの前で立ち止まったと同時に俺は立ち上がった。  面食らったジャージの動きが一瞬止まる。 「ナンだテメェはコ」  喚こうとしたジャージのみぞおちに無言で拳を叩き込む。  崩れ落ち、胸を押さえてのたうつ男の頭に蹴りを入れ、黙らせた。  いきなり割って入った俺に一瞬の戸惑いは見せたものの、残りの二人はすぐに殺気立ち、喧嘩をする態勢に入ったようだ。  この辺の切り替えはさすが本職、といったところだろう。  俺は先生の腕をつかむと、半ば無理やり白スーツから引き剥がした。  口を開こうとした先生を制し、自分の後ろに立たせる。  意味も無く(本人にとってはあったのかもしれないが)首を左右に二度ひねると、白スーツは人を見下すような薄ら笑いを浮べた。 「怪我したくなかったら今のうちに土下座しとけ、兄ちゃん」 「あんたら、金貸しだろ」 「ナメてんのかコラァ!」  声を上げていきなり殴りかかってきたグレースーツの顔面にカウンターで一発。  あぁ、こりゃ折れたな。  大量の鼻血を流しながら地面で痙攣する男を一瞥する。  俺の腕を握る先生の手に力がこもった。 「てめぇ、自分が何したかわかっ」 「そんな事はどうでもいい。で、あんたは金貸しなんだよな」  沈黙。 「そ、それがどうかしたのか」   全く態度を変えない俺に白スーツが多少気圧され始める。  俺は深く息を吸い、 「あんたのやってることは貸金業の規制等に関する法律の第二十一条に違反しているので訴えられたくなかったら今すぐ帰れ」  一息で言った。  白スーツの表情が僅かに強張る。さすがに法律を知らないほど抜けているわけではないらしい。  貸金業の規制等に関する法律によって債権者を脅すような取立ては禁止されている。  裁判になればまず間違いなくこちらが勝つだろう。 「証拠が、あんのか」  まったくもって往生際が悪い。  俺はテープレコーダーとカメラを無言で両手にぶら下げて見せた。  そして笑う。  白スーツの喉の奥から短い呻き声が漏れた。 「どこの法律屋だ、テメェ」 「いや、見ての通りバッジもない。はるか先生にお世話になってる善良な一般市民だよ」  ポケットにテープレコーダーとカメラをしまいながら言う俺に、白スーツの態度が一変した。  どうやら俺をただの正義漢だと判断したらしい。  とたんに先程まで先生を脅していたヤクザ者に戻ってしまう。  白スーツはこちらに歩み寄ると、上から俺を睨みつけた。 「かじっただけの法律振り回して喧嘩売ってっと怪我じゃすまねぇぞ」  言いながらズボンに差されているドスを見せ付けてくる。  背後で先生が短く声を上げた。なるほど、そうくるか。ふーん。  お返しにスーツの襟を持ち上げ、懐に吊ったP226を晒してやる。 「怪我じゃすまないのはどっちだろうな」  白スーツの目が僅かに大きくなる。だがすぐに唇の端を吊り上げると、さらに顔を寄せて来た。 「デキがいいじゃねか。どこのおもちゃ屋で買ったんだ」  白スーツの台詞に、俺も唇の端を吊り上げて笑う。 「試してみるかい。銀玉か鉛弾か」  公園を吹く風が辺りの木々を揺らした。竿竹を売る音質の悪い声が聞こえてくる。  一秒、二秒、三秒、四秒、沈黙。  竿やー、竿竹ぇー。硬くてじょうぶな竿だ……  白スーツの手がドスに触れる。  次の瞬間、P226の銃口がその手を抑えていた。  数秒の硬直と沈黙の後、笑う。 「試してみるかい。銀玉か鉛弾か」  俺にも聞こえるほど大きく歯軋りして、白スーツは唾を吐き捨てた。 「ヤクザにハジキ向けて無事でいられると思うなよ、兄ちゃん」 「だったら、俺も一つ忠告しとこう」  P226を白スーツの額に突きつける。 「死にたくなかったらプロに喧嘩は売らないことだ」  俺は何の迷いも無くトリガーを引いた。一発の銃声と共に白スーツの体が崩れ落ちる。 「うそ。殺し、ころ」 「ああ、大丈夫です。空砲ですから。気絶しただけですよ」  顔から血の気を引かせ、喘ぐ先生に向かって俺は微笑んだ。 「くう、ほう」 「ええ。音がするだけで弾は出ません」  そう言った瞬間先生が腰からくだけた。たぶん気が抜けたんだろう。  その場に座り込みそうになった先生の体を支え、俺は公園中央のベンチまで連れて行った。  先生の体は可哀相なくらい震えている。 「ちょっと待ってて下さい」  言い残し、自動販売機まで走った。買ってきたオレンジジュースを先生の震える手に持たせる。  焦点の合わないような目で俺を見上げる先生に「給料日前だけどおごりますよ」とつまらない冗談を言ってみた。  真面目な先生がそれを真に受けて深々と頭を下げる。  先生は缶を開けようとプルトップに指先を引っ掛けるが、震える手では開けられないようだ。  指がすべりその度に爪が当たって鳴った。  先生の隣に座った俺は細い指の上から缶を持ち、プルトップを引き上げる。  再び俺に頭を下げた先生は缶を口に近づけると一気にあおった。  細く白い喉が鳴り、大量の液体がそこを通過している事が外からも分かる。  やがて先生は上に向けていた頭を下に向け、長く、長く息を吐いた。 「少し落ち着きました?」  俺の問いかけに小さく「はい」と答えてくれる。体の震えも収まっているようだ。  先生は両手で包むように缶を持つと、まだ少し潤んだ目で見つめてきた。  照れくささから反射的に目をそらしてしまいそうになるが、そんなラブコメごっこをしてる場合じゃない。  俺は仕事で来たんだから。 「あの、本当にありがとうございました。でも、どうしてお兄さんがここに」 「その事で話があります」  何から話せばいいのか。迷った挙句、俺は鞄から今朝受け取った二枚の資料を取り出して先生に見せた。  先生は一度俺の顔を見てから資料に目を落す。  一枚目、二枚目、の最後までいったところで黒い瞳が再び俺に向けられた。 「これは」 「会社から渡された先生の資料です」  資料を鞄にしまいながら言う。 「私の、ですか」 「先生の依頼は受理されました」  少しの間の後で、先生は気付いたようだった。薄く口紅が引かれた唇が僅かに開く。 「殺しに、来ました」  俺の一言に、やはり少しの間を置いて先生は唇を引き結ぶとうつむいてしまった。  柔らかい黒髪がはらりと揺れる。 「そうですか。お兄さんが」  そう言ったっきり先生は黙ってしまった。ただじっと手の中の缶を見つめている。 「驚かないんですね」 「何だか疲れて、実感できなくて」  そう言った声は弱く、細かった。 「まっ、嘘なんですけど」 「え?」  先生の顔が勢いよく上がった。訳が分からない、という表情も実にいい。  俺は緊張の糸を切るために大きく息を吐くと、笑って見せた。 「本当は説得しに来たんです。殺さずにすむのなら殺さないのがウチの方針ですから」  少し顔を傾けて先生の顔を見つめる。だが俺の笑顔に反して先生の表情は春に似合わない曇り空だ。  園内で子供たちに向けられていた笑顔はここにはない。 「でも、もう私は」 「その先は幼稚園が終わってから伺います。とりあえず今は挨拶だけ、時間もあまりないですし」  俺は右腕の時計を先生に向けてみせた。すでに一時五十分をまわっている。  ちゃっちゃと済ますつもりがあいつらのせいで余計な時間を食ってしまった。 「そろそろ戻った方がいいんじゃないですか」  俺の言葉に小さく頷いて先生が立ち上がる。  少しふらついてるような気がするが、大丈夫だろうか。 「缶、捨てておきます」 「すみません、ご馳走様でした。お給料日前なのに」  空き缶を受け取る俺に先生が本気ですまなさそうな顔をする。 「いや、そこまで貧しくないですから」  というか本気で頭下げられてもこっちが困る。  この性格じゃ相続する必要の無い債務、相続しちゃうよなぁ。  先生は失礼しますと頭を下げると、こちらに背を向けた。が、数歩行ったところで振り返る。 「あの、嬉しかったです、助けてもらって。ありがとうございました」  そう言って、やっと微かに笑ってくれた。 「午後からは俺が見てます」  少し大きな声で言う。  手を前で重ね、もう一度頭を下げた先生は幼稚園に戻っていった。  やっぱり殺せないよな、絶対に。あんなに優しくて真面目な人は死んじゃいけない。  先生の後姿を見送りながら思う。  ゴミ箱に向かって放り投げた空き缶は一度縁に当たって中に落ちた。  先生は死んじゃいけない。  空を見上げ、日の光を顔に浴びながら俺は胸の奥で呟いた。  4  夕暮れの国道。帰宅ラッシュに巻き込まれてしまい車は遅々として進まない。  上まで回して貰ってナンボのロータリーにとっては苛つく状況だろう。  ついでに言うとクソ重いクラッチのせいで俺の左足もだいぶイライラしていた。  強化クラッチに渋滞はつらい。  右手に沈みつつある夕日を横目で見ながら、あれからの事を思い出す。   あの後俺は言葉通りに幼稚園を見張っていたのだが、結局三組の金貸しを相手にする事になった。  なだめたりすかしたり脅したり、とにかくあの手この手を使ってお帰り頂いたのだが、どいつもこいつもお日様の下を胸を張って歩けるような人間じゃなかった。  まぁ、まっとうな金貸しなら債務者の職場に取り立てに来たりはしないんだろうけど。  前の車との間が少し開き、それを詰める。もう何度繰り返しただろうか。いい加減飽きてきた。  でもこの辺にゃ裏道ないしなぁ。 「優希君と優奈ちゃんに会わなくてよかったんですか」  裏道の事を考えていたらナビシートのはるか先生に話し掛けられた。 「会うと別れが辛くなるんで」  答えて鼻の頭を掻く。  三文ドラマのヒロインの台詞みたいだが、事実だ。  二人にあの寂しそうな目で見上げられたら絶対に連れて帰りたくなってしまう。  優奈と優希は今ごろ会社の託児室にいるはずだ。  こんな仕事をしているとどうしても時間は不規則なるし、社員の身内に危険が及ぶことだってあり得る。  その辺をサポートするためにウチの会社には託児室が設置されていた。  社員が仕事をしている限り二十四時間子供を預かってくれるし、何より身の安全が保証されている。  託児室のスタッフもまたマネージャーであり、一流のボディガードなのだ。  それでもなお心配なのが兄心でもあるんだけど。 「優奈ちゃんと優希君のこと、本当に好きなんですね」 「大好きです」  俺は何の照れも無く言い切った。  優希と優奈がいなければ、今ごろ家の仏壇には両親の位牌が置かれ、俺はただの保険屋として日々を無気力に過ごしていただろう。  二人がいてくれたから腐ることなく、充実した毎日を送れるのだ。  俺は優奈と優希の存在そのものに心から感謝する。  突然負わされた保護者という立場。大変じゃないと言えば嘘になる。  炊事、掃除、洗濯その他もろもろの雑事。自由になる時間もほとんど無くなった。  それでも優希と優奈がそばにいて、怒ったり笑ったり泣いたりしてくれれば何の文句もない。  それで十分だ。それだけで俺は今のままの俺でいられる。  先生は微かに口元を緩めると、ここを左です、と言った。  指示どおりステアリングを回す。国道より細い道に入り、多少車が流れ始めた。  俺たちは今先生の家に向かっている。どこで話をしますか、と問う俺に先生は家でお願いしますと答えた。  先生が家がよいと言うのなら、俺はそれに従うだけだ。  おそらく周りに全く他人がいない状況で話をしたいのだろう。  確かに債務整理の話をするのに周りに他人がいるというのは余りいい環境じゃない。 「あの、お兄さん。訊いてもいいですか」 「内容にもよりますけど、どうぞ」   ためらうような間。 「お兄さんはどうしてこの仕事に就いたんですか」 「両親を探すため、それとお金です」  短く答える。 「あいつらのために少しでも早く両親を見つけたいんで親と同じ業界に。お金は無いより有った方がいいですから」 「そのために銃を持つような仕事を」 「確かにまともな仕事じゃないです。でも、小学校の入学式には両親を引っ張り出したいんで。ランドセルを買ってやることはできても、お父さん、お母さんとして手を引いてやることは俺にはできませんから」  俺の言葉に何を言うでもなく、先生は視界の端でうつむいている。会話はそこでしばらく途切れた。  高いエンジン音と低い排気音が社内を満たす。道は片側一車線になり、背の高いビルももう見られなかった。  スーパーの駐車場から強引に出てきた軽自動車に胸中で溜息をつきつつブレーキを踏む。  合流はもう少し上手くやってもらいたい。 「俺も、一つ訊いていいですか」 「あ、はい」  頭を上げた先生が俺を見ながら身構える。 「大した事じゃないんです。先生、ずっと笑ってましたよね。どうしてかなって」  先生はかなり面食らったようだった。質問の意味が分からない、と瞳が語っている。  俺は言葉を加えた。 「自分の命を借金の返済に充てようって人があんなに優しく笑えるのはどうしてだろうって。仕事柄、借金に追い詰められた人に何度か会った事があります。でも、みんな薄ら笑いを浮べこそすれ、先生みたいに笑う事はありませんでした」  そう言って先生を見やる。  先生は膝の上で指を組むと、自分の言葉を確かめるようにゆっくりと話し出した。 「子供って本当によく大人を見てて、何か嫌な事があって自分では顔に出していないつもりでも、先生どうしたのって必ず誰かが言うんです。私は今、幼稚園から一歩出れば嫌な事しかないから。子供たちに心配かけたくなかったんです。それに、私が笑えば子供たちも笑ってくれます。その時だけは借金のことも」  忘れられる、か。  胸中でつぶやき、乾いた唇を舐める。  先生を意外と強い人なのかもしれないと思ってしまった自分の頭をはたきたい気持ちになった。  とんでもない勘違いと楽観視だ。 「ずっと、しがみ付いてたんです。幼稚園だけが私の笑える場所だし、先生という立場だけが私の支えだったから」 「これからは増えますよ。笑える場所も支えるものも」  先生は何も言わず、窓の外に視線を移す。  それから俺たちは先生の家に着くまで何も喋らなかった。  5  先生の住むアパートは通りから結構奥に入ったところにあった。  車幅ぎりぎりしかない路地を、対向車が来ませんように、と走ることしばし。  ボロアパート……もとい、実にクラシカルな建物を先生は指さした。  ただ正直その建物を見た瞬間俺の頭に浮かんだのはアパートではなく長屋という単語だった。  しかし建物はボロ……もとい使い込まれて哀愁を漂わせているとしても、敷地は割と広いので車を置く場所が確保できるのはありがたい。  地面に白線が引かれていないため、隅の適当な所に車を置くと俺はエンジンをきった。 「驚きますよね、こんな所」  静かになった車内に先生が小さな波紋を打つ。その声は自嘲の色を含んでいた。  俺はフロントガラス越しに建物を見やる。  まぁ確かにボロではあるが、それだけだ。 「水も電気も安定して供給され、雨風も凌げる。十分じゃないですか。俺が中東のとある国にいた時には断水、停電が当たり前でしたから」  俺を見つめる先生の顔に大きな疑問符が浮かんだ。 「両親の仕事のせいで世界中引っ張りまわされてたんです。生れたのはケニア、サバンナのキャンプでしたし、アイルランドでパブの一人娘に一目惚れして、イングランドでは『サッカーにはあんまり興味ない』発言で殴り合いのケンカ。俺の国はミャンマーじゃないビルマだと熱く語る奴がいて、アメリカには女と車の話で一晩中盛り上がれる奴がいました。その他にも色んな国をまわって……結局日本に来たのは十八になってからです」  胸中で思い出を指折り数えながら言う。 「日本の習慣や言葉は両親が教えてくれてたんで割とすぐ馴染めました。味噌汁の味も知ってたし」  先生に向かって一つ微笑み、俺は鞄を手に車を降りた。  敷地が舗装されていないせいか土の匂いがする。  低い位置に僅かな夕日の赤を残した空には一番星が出ていた。  思い切り腕を振り上げて背筋を伸ばす。喉の奥から呻き声が漏れた。  走って楽しい車は往々にしてドライバーに優しくない。だから体の色んな所がこってしまう。  腕を下ろして息を吐いた俺は先生の後について行った。と、いきなり先生がドアの前で固まってしまう。  ドアを見えなくするのが義務である、とでも言わんばかりの張り紙。  張り紙の色や大きさは千差万別だが、そこに書いてある内容は満場一致で「金返せ」だった。  慌てた様子で張り紙を剥ぎ取ろうとした先生の手を抑え、ポケットからカメラを取り出す。  さすがに張った人間の連絡先までは書かれていなかったが、裁判になればこれも参考資料くらいにはなるだろう。ちなみにこの手の張り紙も違法行為だ。  だから連絡先が書かれていない。要するにただの脅しであり嫌がらせだ。  ファインダーを覗き、シャッターを三度きる。  カメラをポケットに戻したところで先生の手を握りっぱなしだった事に気付いた。  慌てて手を放した俺に先生は「構いませんよ」という風に微笑んでくれる。  照れくさかった。優希が将来結婚したいと思ったのも分かる。  毎日この笑顔を見られるのなら、そりゃあ楽しいだろう。 「あー、張り紙は張った奴らに剥がさせましょう。先生が剥がす事はないですよ」  人さし指で頬を掻きつつあさっての方を向く。  不思議な物でも見るような先生の視線を感じたが、それも一瞬の事。  ドアを開けた先生は一足先に中に入ると電灯を点けてくれた。  どうぞ、という先生の許しを待って中に入る。一部屋とキッチンという間取り。しかしこれは……  俺はしばし玄関で立ち尽くしてしまった。  先生の部屋は綺麗に片付けられていた。というか片付けられすぎだ。  小さなテーブルと本棚、たたまれて畳の上に置かれた数着の服以外に何一つ物がないのである。  パソコンやコンポはもちろんのこと、テレビや洗濯機、冷蔵庫までもなかった。 「お金がないときに少しずつリサイクルショップに持って行ってたら、こんな風に」  馬鹿みたいに口を半開きにしていた俺に向かってそう言うと、先生はうつむき恥ずかしそうに笑った。  しかしここまで追い込まれていたとは。いや、頑張っていたというべきだろう。  しがみ付いていたんです。  車の中で聞いた先生の一言が脳裏をよぎった。  一度拳を握り、靴を脱ぐ。 「あの、どうぞ座ってください。お茶入れてきますから」 「お構いなく」  と、この時ばかりは本気で言った。こんな経済状況だ。お茶の葉だって余ってはいないだろう。  声色から俺が本気だということが分かったのか、先生が台所から顔を出す。 「私、一人だとお茶飲まないんです。置いておいてもダメになるだけだから。飲んで下さいね」 「すみません」  顔を引っ込めた先生に言って、俺は小さなテーブルの前に腰を降ろした。  ぐるりと頭を巡らせてみる。何度見てもやはり何もなかった。  目を引くものといえば本棚に収まっている数冊の児童心理学の本と……写真?  立ち上がり、本棚に歩み寄る。  本の隣に置かれた写真立てには中年の女性を写したものが一葉納まっていた。  上品に笑う女性の表情に既視感を覚える。  あっ、と俺はすぐにある人物に思い当たった。 「母です」  振り返ると、台所と部屋を分ける引き戸の傍に立った先生がこちらを見ていた。  先生はおなかの上で指を組むと少しだけうつむいた。 「あの、今お母さんは」 「亡くなりました。父が亡くなった半年後に。元々あまり丈夫な人じゃなくて」 「すみません。余計な事を」  言いながら、俺は気付いた。確か先生の父親が亡くなってまだ一年だったはずだ。  ということは先生の母親がなくなってまだ半年しか経っていないことになる。  俺はあらためて先生の顔を見つめた。  もしかして、先生はまだ両親の死を自分の中で整理できてないんじゃないだろうか。  俺だって両親が失踪して、その生活が日常になるまではやはり一年くらいかかった。  先生は両親を亡くしているのだから尚更時間がかかるだろう。 「ご兄弟は」 「いえ、一人っ子でしたから」  やはり、一人残されたのか。俺には先生の喪失感を量り知る事はできない。  ただ、もし今の俺に優奈と優希がいなかったら、と想像すれば少しは近づけるだろう。  背筋が寒くなった。できれば二度と想像したくない。  生命保険で借金を返済する。  正直言って、俺は先生が死の恐怖を克服できるほど気力のある人だとは思っていない。  だが現に先生は殺される事を願っている。  恐らく両親の、いや、特に母親の死が先生を自殺にも似た今回の依頼に駆り立てたんじゃないだろうか。  孤独が「死」という選択肢を前にした先生の背中を押した。そして背中を押されるまま一歩踏み出した。  先生を取り巻く世界には彼女を引き止めるものが何一つなかったからだ。  しがみ付いていたんです。  再び先生の台詞が脳裏をよぎった。  先生がしがみ付けていたのは、常に心の片隅で「終わり」を意識していたからだろう。  人は終わりのない苦痛に耐えることはできない。  だが、その苦痛が確実に有限であると分かっているのなら耐える事ができる。  少なくとも、もう少しだけ耐えようという気持ちになる。  苦痛の終焉はもうそこまで迫っている。ならば終わりまでこのままで在ろう。  そんな思いが先生を先生たらしめていたのではないだろうか。 「母には本当に苦労をかけました。働かない父の代わりに身を粉にして、私を短大にまで入れてくれて。せめて孝行したくて借金を相続したんです。本当に母は苦労の連続で、愚痴一つ言わずあんなに頑張ったのに、どうしてほんの少しでも幸せになれなかったんだろうかって……今でも」  先生は苦しげに言葉を切ると、隠れるように台所へ戻ってしまった。  ほんの一瞬だけ見えた潤んだ瞳に、心臓を無理やり掴まれたような気分になる。  できれば見たくない種類の涙だった。  一度口元を歪めてテーブルの傍に座る。  先生に何を言えばいいんだろうか。  生きていればそのうちいい事がありますよ、か。気休めにもならない。  俺はテーブルの上で腕を組み、考えた。  だがそう簡単に自殺志願者を引き止めるほどの言葉など浮かんでくるはずもなく、気がつけば目の前には湯気の立ち上る湯飲みが置かれ、湯気の向こう側には先生が座っていた。  とりあえず湯飲みを手に取り、間を埋める。しかしこのまま無言でお茶を飲み干す訳にもいかない。  口を開いて言葉を発さなければ。それが俺の仕事だ。 「生命保険で債務を返済するという意思に変わりはありませんか」  テーブルを挟んで俺と向かい合った先生はゆっくりとではあるが、はっきりと肯いた。 「債務は、法的な整理をする事でかなり楽になるはずです。先生が死ぬ必要なんて全くありません」  俺は先生の瞳を見つめて言った。が、先生は逃げるように顔をそむけてしまう。  先生の顔を追いかけるべく身を乗り出し、俺は続けて口を開いた。 「優秀な弁護士も紹介します。両親を亡くされて気落ちするのも分かりますが少しだけ考えてもらえませんか。生命保険で借金を返すなんて馬鹿げてます」  言葉の後に行くほど語気が荒くなる。俺はどうしても先生を殺したくなかった。  単純に、できれば人を殺したくないという思いもある。だがそれ以上に先生だから殺したくないと思う。  負う義務もない親の借金を背負い、苦しむ先生を馬鹿だ愚かだと罵る事は簡単にできる。  自分で選んで背負ったんだからしょうがないだろ、と突き放す事もできる。  俺はそれが正しいとは思わない。  親の不始末を何とかしようとした先生の責任感はどうなる。母親が背負おうとした借金を背負った先生の優しさはどうなる。  ないがしろにしていいものではない。  頼まれもしない救済なんて余計なお世話かもしれない。  死にたがっている先生にとって今の俺は厄介者でしかないだろう。  それでも俺は先生を助けたかった。 「本当に馬鹿げた話ですよね」  力なく笑う先生の細い声。 「でも、馬鹿でもいいんです。それで全部投げ出せるんですから」  目を細めた先生が本棚の写真立てを気の抜けたような表情で見上げる。 「母が亡くなって実はほっとしたところもあるんです。ほとんど寝たきりだった母を看取って、あとは何とかしてお金を返したら全部終わりだな、って。そんな時偶然保険屋さんからセールスの電話がかかってきて、話を聞いているうちに生命保険でお金を返すことを思いついたんです。縁、だったのかもしれません」  俺は乗り出していた身を収め、唇を噛んだ。そんな縁あってたまるか。  先生にとって母親の存在は本当に大きかったのだろう。  その母親の最期を看取り、先生の心の糸はぷっつりと切れてしまった。  今回の件にしても母親の後追い自殺的な側面がないとは言い切れない。   完全に肩の荷を下ろしてしまった先生に、どうすればもう一度荷物を背負ってもらえるんだろうか。 「お兄さんの気持ちは本当に嬉しいんです。私のこと、こんなに心配してくれたのは母以外ではお兄さんだけですから。でも、もう」  そう言って先生は弱々しく首を振った。  喉の奥から漏れそうになった呻き声をなんとか抑え、俺はもう一度身を乗り出す。 「お願いします。考え直してもらえませんか。俺にできる事なら何でもしますから」  体を折り、テーブルに額をつける。 「頭を上げてください。お兄さんにそんなことする必要なんてないんですから」  焦ったような先生の声に顔を上げると、先生も身を乗り出していた。  期せずして縮まった距離に一瞬妙な間が開いたが、俺も先生もすぐに居住いを正して元に戻る。  言葉が出ない。完全に手詰まりだった。  沈黙が続き、一秒ごとに天井が低くなっていくような錯覚さえ覚える。  どうすればいい?   頭の中にある引出しを片っ端から開け、逆さにして振ってみても、今ここで言うべき言葉は見つからない。  そして天井が頭上すれすれに迫り、俺が膝の上で拳をきつく握った時だった。 「どうしてお兄さんは一生懸命私を助けてくれようとするんですか」  細く澄んだ声に顔を上げた俺は先生を見つめた。 「お仕事、だからですか」  先生も俺を見つめている。ただその瞳に俺を問い詰めるような色は無い。  俺は一度天井を見上げ、それから握った自分の拳に視線を落した。飾っても仕方が無い。  胸の内にある言葉を素直にはき出そう、と思った。 「仕事だから、もちろんそれもあります。でもたとえ報酬が無くても、今の俺は先生を助けたいと思っています」  一度言葉を切る。 「先生、さっきお母さんのこと言いましたよね。あんなに頑張ったのにどうして少しでも幸せになれなかったんだろうか、って。俺はこの世を不条理の塊だと思ってます。生れた瞬間に全てを約束された人もいれば、生れた瞬間に死んでしまう人もいます。大した努力もせず幸せになってしまう人もいれば、どんなに努力しても幸せになれない人もいます。人を殺した人間が八十歳まで生き、人を救った人間が二十歳で死ぬ。でも、それに理由なんてなくて、世界の気まぐれ、不条理がそこにあるだけです」  俺は乾いた唇をなめ、小さく息を吐いた。 「だけど、所詮この世は不条理なんだと肩をすくめて笑えるほど俺は物事を悟ってはいません。俺は先生のことをいい人だと思っています。そして、いい人には幸せになる権利がある。その権利を奪おうとする世界の気まぐれって奴に、俺は銃を向けたくなるんです」  俺の言葉に、先生は少し面食らったようだった。目が僅かに大きくなっている。 「その、すみません。長々としょうもない事を。あの、でも、もっとしょうもない理由も一つあって」  先生から視線をはずし、頭を掻く。俺はは二秒ほど「あー」と間を取って言った。 「先生が初恋の人なんです」 「えっ」  先生の目がさらに大きくなり、二度瞬いた。  妙な沈黙。 「いや、弟の」  再び沈黙。 「弟……あっ、あぁ、優希くんが」  なぜか言葉を詰まらせた先生は焦ったように笑うと、不思議なくらいあっちを見たりこっちをみたりそっちを見たりする。 「結婚したいって言ってました」  俺が笑いながら言うと、先生も嬉しそうに笑ってくれた。 「だから、そんな人を死なせる訳にはいかないんです」  背筋を伸ばし、先生の目を見据える。今度は先生も逃げなかった。真正面から俺を見つめている。  先生はどんなことを考えているんだろうか。  正直、俺にはもう言葉は何一つ残されていない。  もしこれでもなお先生が死を選ぶと言うのなら、俺は……いや、引けない。絶対に引けないんだ。  俺は先生を助けたいと思う。その気持ちに嘘偽りはない。  待とう。先生を信じて。  どれほどの時間、そうして見つめ合っていただろうか。長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。  先生の口がゆっくりと開いた。 「お兄さんのこと、頼ってもいいですか」 「はい」  強く肯く。 「私のこと……守ってくれますか?」 「約束します。全力で」  俺ははっきりと言い切った。  引き受けた以上俺が、そして会社のスタッフが全力で先生を守る。  と、唐突に先生の目から大粒の涙がこぼれ出した。  戸惑いに腰を上げかけた俺を前に、子供のようにしゃくりあげる先生。  ふと、デパートで迷子になった優奈とインフォメーションセンターで出会ったときの事を思い出す。  そういえば、あの時の優奈もこんなだった。 「ものすごく不安で、でも誰にも相談できなくて……恐くて、寂しかったんです。誰かに助けて欲しくて、でもどうしたらいいか分からなくて、夜、布団に入るたびに何かに押し潰されてしまいそうで……苦しくて眠れなくて。どうしてこんな事になったんだろうって、いつもいつも考えてました。本当は死にたくなんてない。死にたくなんてないんです……」  言葉を詰まらせた先生は涙を拭くことも忘れ、ただ泣き続けた。  それまで我慢していた涙と感情を全て吐き出すように、大粒の雫が形のいい顎の先から零れ落ちる。  本当は死にたくなんてない。  そうか、やっぱり死にたくなかったんだ。そうだよな、うん。  泣きじゃくる先生を前に笑みがこぼれてしまう。  俺はテーブルの下で拳を握り、小さく息を吐いた。  これで、どうやら先生を守ってあげる事ができそうだ。本人の許可が取れたんだから。  っと、笑いながら先生の泣き顔を見てる場合じゃなかった。  こんな時、泣く女性を本当に自然に何の違和感もなく胸に抱いてしまう友人が一人いるが、とてもじゃないが俺にそんな事はできない。絶対挙動不審になってしまう。  俺に出来ることと言えば、こうしてポケットを探って、ハンカチを取り出すくらいのものだ。  俺が差し出したハンカチを先生は小さく頭を下げて受け取ると、目にあてがった。  匂ったりしないだろうか。でも今日はまだハンカチ使ってないし。  そんな事を考えつつ湯飲みを手に取る。喉に流れたお茶の温度は、もうだいぶ下がっていた。  湯飲みを握る左手に力がこもる。  ガラス越し、初めて優奈と優希に出会ったときに抱き、今現在までずっと続いている感情。  先生を見ているとそれと同じものが心の奥底から湧き出してくるのだ。  こういうのを父性本能、とでも言うんだろうか。  とにかく放っておけない。  俺は先生が多少落ち着いたのを見計らって、微笑んで見せた。 「じゃあ、早速問題を片付けてしまいましょう。早い方がいいですから、こういうのは」  少々驚いた顔をする先生を横目で見ながら、上着のポケットから携帯電話を取り出す。と、同時に扉を叩く音が二度聞こえてきた。  ふむ。どうやら携帯を使う必要はなさそうだ。  不安げな表情で俺を見つめる先生に向かって一つ肯く。  残っていた涙を拭き取り、立ち上がった先生はゆっくりと玄関に向かった。  再び湯飲みを手に取り、飲み干す。ちょっと苦い。  数秒の沈黙の後、扉の開く音がした。 「はろー。はじめまして、はるか先生。私はシャロン・オブライエン。握手握手。で、ウチの労働一号がおじゃましてるはずだけど」 「誰が労働一号だ、こら」  ベストなタイミングでやって来たシャロンに向かって言い返す。  ったく、変な言葉覚えよってからに。  先生に連れられて中に入ってきたシャロンは、俺を見て挑戦的に微笑むと腰を降ろした。 「さて、私の仕事が無駄になるような結果にはなってないでしょうね」 「なってたら?」 「ハラキリ。一度でいいから見てみたいのよね。あぁ、死体の処理は心配しないで。私独自のルートが」 「笑顔で言うな、笑顔で」  半眼でうめく。 「なによ、私の異文化交流を阻止する気なの?」 「あってたまるか、そんな異文化交流っ!」 「けち。せっかく私のサイトで一部始終レポートしようと思ったのに。もちろん画像ありで」 「あのなぁ」 「あぁ、もちろんあなたの顔にはモザイクかけるから。プライバシーの保護はばっちりよ」 「プライバシーより先に保護しなきゃならんものがあるような気がするんだが」 「ない」 「……アイルランドへ帰れ、お前は」  と、バカな会話をしているうちに、はるか先生はシャロンと俺にお茶を入れてくれた。  咳払いを一つして場の空気を正す。我ながらわざとらしい。 「とにかく、先生の説得には成功した。ハラキリは無しだ。で、仕事の話に戻るが」  シャロンに目配せする。シャロンは肯くと、持参した鞄から一枚の書類を取り出した。  ちゃぶ台の上に置かれた書類には多くの数字が並び、表にまとめられている。  表を見ていた先生は何かに気付いたようだった。 「これ、私の」 「債務をまとめたものね。借金返済への第一歩よ」  先生の言葉を継ぎ、シャロンが微笑む。 「でも、どうやって調べたんですか?」 「そこはほら、蛇の道はエビ?」 「へび、だろ」 「そうそう、そのへびさんに調べて貰ったの」  本当に意味が分かって言ってるんだろうか、こいつは。  やれやれと小さく息を吐く。 「それで、こっちの方が重要なんだけど」  そう言いながらシャロンは書類をもう一枚取り出す。  これにも先程の物と同じくいくつもの数字が印刷されている。だが桁数は明らかに少なかった。 「これは利息制限法に沿って、先生が払わなければならない利息を計算したものよ。お父さんは七社からお金を借りていたみたいだけど、元本はいずれも十万円以上百万円未満だから年利は最高で十八パーセントね」  シャロンの細く白い指が紙の上を滑る。  それに併せて先生の瞳が上から下に動いた。 「手っ取り早く言うと、つまり」  シャロンが顔を上げる。 「お金を返し過ぎてるの」  シャロンを見つめる先生の目が二度、ぱちぱちと瞬いた。小さな口が開きかけて、閉じてしまう。  何か訊きたいが、何を訊けばいいのか分からない、そんな表情に見えた。  先生の顔を見たシャロンはクス、となぜか楽しそうに笑うと説明を続ける。  子供が内緒話をするときみたいな笑い方だ。 「利息制限法の定めるところによると、先生の場合年十八パーセントを越える利息分については支払いの義務がないの。具体的に言えば」  そこで言葉を切ったシャロンは二枚目の書類を手にする。 「七社のうち一社、フレンドについては年利十七パーセントだから、これは文句の付けようがなし。さすがは大手ね。問題は残りの六社。深川ファイナンス、高見金融については端数を返済すればお終い。残金は深川、二千三百五十円、高見が千七百二十円ね」  シャロンの言葉に真剣な表情で頷く先生。 「友愛、竹下興業については先月の支払いで完済。と言っても払い過ぎだからちゃんと返してもらいましょう。丸金ローンは先々月分で完済、海堂金融に至っては三か月前の支払いで返済完了よ。きっちり取り立てなきゃね」  先程の楽しそうな笑みに不敵なものを交ぜ、シャロンは言った。 「と言うわけで、実質七社中六社は返済完了よ」  そう言って今回シャロンの顔に浮かんだ笑顔は純粋に喜びだけでできていた。 「もう、お金を払わなくていいんですか」 「ええ、少なくともえげつない事やってる奴等にはね。まぁ、みなし弁済っていう規定があるにはあるんだけど」 「書類を見る限りじゃ出資法にも違反してるし、そんなもん適用されてたまるかって所だな」  シャロンに続け、俺はお茶をすすった。やっぱり緑茶はいい。 「もう、あの人達と関わらなくていいんですか」  先生の声は震えていた。ふと顔を上げる。  そこには俺のハンカチを目に当て、肩を震わせて泣く先生の姿があった。  先生の涙を見てただ単純に、良かったなと思う。こういう涙ならば大歓迎だ。 「とりあえず、お疲れ様」  シャロンの優しい声に先生は小さく頷くと、泣きながら微笑んだ。  それから俺に向って丁寧に頭を下げる。  応えて俺も口元を緩めた。だが、まだ全てが終わったわけではない。  実際に金融会社と顔を合わせて、彼等に返済の完了と超過利息分の返済を求める作業が残っている。  先生にはもう少しだけ頑張ってもらわなければならない。  俺は唇を引き締め、先生の潤んだ瞳を見据えた。 「これから金融業者をここに呼び出して決着を付けます。相手はヤクザとつながりがあったり、もしくはヤクザそのものです。おそらく一筋縄ではいかないでしょう。もちろん交渉には俺たちが当たります。でも、これ以上のお金は払えないことを先生の口からはっきりと主張してほしいんです。本人の意思がどうだのこうだのとゴネるでしょうから」  俺の台詞に先生の顔が不安気な陰りを見せる。  だがそれも一瞬のこと、一つ息をするだけの間を置いて先生は力強く「はい」と答えてくれた。 「首をくくったみたいね。いい顔よ、先生」 「首くくってどうする。くくるのは腹だろ」  顎に手を当てて頷くシャロンに向って、溜め息混じりに教えてやる。 「……下二段活用?」 「いや、いいから。無理しなくて」  俺がそう言うとシャロンは微妙に悲しそうな顔をした。どうも彼女は慣用句が苦手らしい。  まぁ、そのうち覚えるだろう。アイルランド人のシャロンにとっては死ぬほど恥ずかしい事でもなければ、死ぬほど困る事でもない。 「じゃあ、業者を呼び出します」  俺とシャロンはそれぞれの携帯電話で業者の番号をプッシュし始めた。  6  一時間後、お世辞にも広いとは言えない室内には異様にぴりぴりとした空気が充満していた。  俺とシャロンの間に先生が座り、ちゃぶ台を挟んで総勢六名の金融業者が身を寄せ合ってこちらを睨んでいる。初めは皆子分を引き連れて入って来ようとしたが部屋の広さがそれを許さず、結局子分は外で車番、各社代表一名ということになった。  なお、うち三人がやたらと怖い顔をしているが、シャロンの「ぼけ」「かす」「うっさいはげ」などの電話口での応対については俺の関知するところではない。  それにしてもどいつもこいつも煙草臭い。スーツと口に臭いが染み込んでしまっているのだろう。 「クリーニング代出してやるから何とかしろ」と本気で言おうかと思った。 「それで、どういうことだ。あ?」  一人が身を乗り出し、先生を下からチンピラ特有の目付きで睨む。もちろん口は半開きだ。  息を飲んで肩を震わせた先生に目で「大丈夫ですよ」と言ってから俺はシャロンが持ってきた二枚の書類を六人の前に差し出した。 十二のけったいな瞳がちゃぶ台の上に向けられる。 「この表からも分かるように、先生は利息制限法どころか出資法の定める年二十九・二パーセントをはるかに越える利息を払わされている。それでだ、払うもの払って返すもの返してもらって今日この場で終りにしようと思ってな」 「終りだぁ」  また別の一人がすごむ。 「そう。終り」  俺は軽く受け流し、具体的にどこへ幾ら払い、どこから幾ら返させるのか事務的に述べた。  途端に六人が殺気立つ。  まだこれから先生にたかるだけたかって最後の一滴まで搾り取り、あわよくば自分もおいしい思いをなどと考えていたんだろうが、冗談じゃない。  俺たちが関わったからには、きっちり先生を守らせてもらう。 「おとなしく返した方が得だと思うけど」  シャロンの声はいつもより低く、鋭かった。  室内に沈黙が落ちる。  外を走るスクーターの音がそこに割り込んできた。排気音が刻む妙なリズム。  多分近所のちょっとやんちゃな子供だろう。  目の前の六人は何を言うでもなく互いに顔を見合わせ、やがて最年長とおぼしき男が口を開いた。 「先生、あんた何がなんでも払いますって言ったよな」  低く、厚みのある声が室内の空気を重くする。 「はい」  先生の声はその空気に押しつぶされてしまいそうなほど細かった。  だが瞳は逃げる事なくまっすぐ男達を見つめて、いや、睨んでいる。  これほど厳しい先生の表情を見たのは初めてだ。  膝の上で二つの拳を握った先生は息を吸い込み、それを言葉にしてはっきりと吐き出した。 「確かに返済はお約束しました。ですが、違法な利息分はお支払いできません」  と、耳に障る高い声で一人の男が笑い出した。 「怖いねぇ最近の素人は。借りるときはどんな暴利でも構いません。返すときは暴利だから返せません、か」  そう言って男はまた高い声で笑った。  男の言葉に前を向いていた先生がうつむいてしまう。人が良すぎるのか「一理ある」と思ってしまったらしい。  だが男の言葉は詭弁でしかない。  人殺しに「お前だって虫の一匹や二匹殺したことがあるだろ」と非難されているようなものだ。 「馬鹿言ってんな。利息制限法はともかく出資法を違反した金利で契約を結んだ時点で違法行為なんだよ。ガタガタぬかすな」  語気を強め、言う。  ちなみに利息制限法には罰則規定がない。債務者の支払い義務がなくなるだけだ。だが出資法に違反すれば三年以下の懲役もしくは三百万円以下の罰金を払わねばならない。 「違法行為、ねぇ」  もの凄くつまらない映画の感想を述べるような口調で別の男が漏らした。 「兄ちゃんバカだろ。ヤクザに法律が通用すると思ってんのか」  男の薄ら笑いに、血液の温度が五度くらい上昇する。 「それじゃこれからも夜討ち朝駆け張り紙職場訪問ときっつい追い込みかけるから、楽しみにしてろや」  そこで六人が一斉に笑う。  交渉決裂。  だが頭の片隅ではこうなるんじゃないかと予想はしていた。  シャロンの顔を盗み見る。憤怒の表情こそ見せていないものの、まとっている空気は明らかにキレていた。  どうやらシャロンの方は準備ができているようだ。  いいだろう。上がってやるよ、無法と暴力の土俵に。  気を抜き、余裕の体で煙草に火を点ける男達に向って、俺は鞄から取り出した二丁のサブマシンガン、イングラムM11を向けた。  併せてシャロンが懐に吊った二丁のグロック26を音もなく抜き去る。 「命中精度は高くないが、この距離なら関係ない」  硬直する六人の男達。  だがその直後、室内に男達のバカ笑いが響き渡った。  どうやら硬直していたのではなく、きょとんとしていたようだ。 「に、兄ちゃん、ガンマニアか?」 「バッカ、学がねぇな。最近じゃミリタリーオタクって言うんだよ」  かなりどうでもいい訂正の後、笑い声が一段と大きくなる。  確かにこのイングラムがモデルガンなら俺はただの馬鹿野郎だ。笑われても仕方がない。  こんな「兄ちゃん」が実銃なんて持ってるわけがないという先入観は分からないでもないが。 「ねぇ、もう撃ちゃってもいいと思うんだけど。急所は外して」  見れば眉根を寄せて、シャロンはかなりうんざりした顔をしていた。  俺は唾を飲み込み、最後の意志確認をする。 「取り立てをやめる気は無いんだな」  俺の問いに男達が返したのは人を馬鹿にしきった薄ら笑いだった。どうやらこれ以上は無駄らしい。  俺は一度目を閉じ、グリップを握る手に力を込めた。人差し指がトリガーの冷気を感じる。 「撃てよ」  まだ俺たちが手にしている物がモデルガンだと信じて疑わない。 「撃てつってんだろうがっ!」  一人の男がちゃぶ台を強く叩いた。  次の瞬間、男の手をシャロンのグロックが押さえ付ける。  くぐもった破裂音。  弾丸が9ミリの風穴を男の手に開け、血と硝煙の臭いを撒き散らした。  喉の奥からひび割れた叫び声を発し、手を押さえた男がのたうちわまる。  呆然とした表情でシャロンを、グロックを、そしてのたうつ男を見つめる五人。さすがに今度は硬直したようだ。  反応は外にいる子分たちの方が早かった。悲鳴を聞いたのか、怒声と共に土足で踏み込んでくる。 「兄貴! テメェ!」  叫び、先頭切って駆け込んできた男が手にしていた銃を構えた。  だが遅すぎる。  シャロンは眉一つ動かさず、両手の銃で男の手と肩を撃ち抜いた。  新たな悲鳴、と同時に血の臭いが濃さを増す。指の一本や二本は吹き飛んだだろう。  子分どもの殺気が一気に膨れ上がる。  俺たちを狙う銃口。投げ捨てられるドスの鞘。 「FREEEEEEEZE!」  その時、シャロンの声が爆発した。  男達にその意味は分からなかっただろう。  だが油田火災を鎮火させるダイナマイトの爆風のように、シャロンの一声は部屋に充満していた殺気を一瞬にしてかき消してしまった。  その声の大きさに驚き、鋭さに恐怖したようだ。  撃たれた男達でさえ呻き声を潜め、じっと手を押さえている。  正直、俺もちょっと怖かった。  時が止まったような沈黙の中、シャロンは一度これみよがしに舌打ちをすると、俺に視線を送ってきた。  さっさとやる事をやれ。でなければ殺す。  仲間の俺にさえそんな物騒なメッセージを受け取れそうなほどシャロンの目はやばい。  俺は少し焦って頷くと喉を鳴らし、口を開いた。 「お前たちに与えられた選択肢は三つだ。二度とはるか先生に関わらないことを誓い、返金に応じるか、ウチの弁護士と法廷で争うか、この場で死ぬか」  子分たちがざわめく。 「一分あげる。それを過ぎたら十秒ごとに一人殺すから」  ざわめきが大きくなった。  しかし何てセリフだ。まるっきりテロリストじゃないか。  ……まっ、似たようなもんか。  ふと思い自嘲ぎみに薄く笑う。それがまた不気味に見えたのか、ざわめきはさらに大きくなった。 「十秒経過」  シャロンのカウントに正面の男達が互いの視線を交差させる。  もうここまでくれば答えは決まっている。あとは誰が一番最初に手を挙げるか、だ。 「二十秒経過」  言うやいなやシャロンがグッロクのトリガーを引いた。破裂音が沈黙を破り、血に汚れた銃が畳の上に落ちる。 「馬鹿なことは考えないように。そろそろ手元が狂って頭に当たるかも」  また一人指を失った。 「三十秒経過」 「お前ら……どこの組のモンだ」 「ヤクザじゃないさ」 「イタリア系……マフィアか」  そう言った男の目はシャロンに向けられていた。反射的に笑ってしまう。ちょっと短絡的だな。  シチリアの極道なら初めから皆殺しだ。 「四十秒経過」 「只の社員だよ。警備会社のな」  言い終わると同時に四人の男が一斉に鞄から金を取り出し、ちゃぶ台に乗せる。男達の顔は引きつっていた。  幽霊に出会うと人間はこんな表情をするんじゃないだろうか。  即ち、関わってはいけないものに関わってしまった。 「先生、残りの支払いを」  俺の呼び掛けに、こちらも妖怪とでも出会ったように息を飲む。  その震えが俺のスーツをつかむ先生の手から伝わってきた。  先生は震える足で本棚に歩み寄ると、財布を手に戻ってきた。やはり震える指で数枚の千円札とコインを取り出し、支払いが終わってなかった業者に差し出す。 「五十秒経過」  まず手を打抜かれた男が最後の支払いをつかみ、はいつくばるようにして逃げ出した。  それを合図に全ての男が玄関に殺到する。 「一分経過」  とシャロンが言う頃、部屋に残っていたのは俺とシャロンと先生だけだった。 「忘れ物よ」  シャロンが落ちていた銃を玄関から外に放り投げる。  やがて思い切り車のドアを閉める音と明らかに上まで回っているエンジン音がして辺りは再び静かになった。 「あっ、張り紙剥がさせるの忘れた」  イングラムにセーフティーをかけ、鞄にしまう。 「我社のネームバリューも結構すごいじゃない。だてに一部から米軍よりタチが悪いとか言われてる訳じゃないのね」 「でも初めから出しても信じないだろうな。ほとんど都市伝説みたいなもんだし」  そう言ってほほ笑んだ俺は先生の方に向き直った。 「すみません。お騒がせしました」 「いえ……」  と何ごとか言葉を継ごうとした先生の体が不意に倒れかかってくる。慌てて先生を支え、俺は息を吐いた。  柔らかく細い腕。つい触れてみたくなる黒髪からは優しいリンゴの香りがする。 「少し休んでいて下さい。張り紙、剥がしてきますから」  高鳴る鼓動を抑え、俺はそそくさと立ち上がった。 「私もこれ、固まる前に拭かないと」  畳の上にできた血痕を見ながらシャロンが苦笑いする。  かくして俺とシャノンはそれぞれの清掃作業に取りかかった。  7 「本当にお世話になりました」  張り紙が剥がされてきれいになった扉を背にして、先生が深く頭を下げた。  日は完全に落ち、空にはホットケーキのような満月が浮かんでいる。  辺りを抜ける風はやや冷たかった。銃を抜き、多少熱くなってしまったからかもしれない。  顔を上げた先生の様子にこっちが頭を下げたい気分になってくる。先生は明らかに疲労しきっていた。  この数時間でどれほどの神経を磨り減らしたんだろうか。  目の前で人が撃たれるところを見せられたんだ。普通ならやはりまいるだろう。  特にここ日本では、人が撃たれるということは「普通」じゃない。 「ごめんなさい。恐かったでしょ」  詫びるシャロンに先生は笑顔を作ると首を振った。 「私のためにしてくれたことですから。感謝してます」  と、いきなりシャロンが先生に抱きついた。 「ありがとう先生。そう言ってもらえて良かった」  安堵だろうか、シャロンの声には溜まっていたものを吐き出すような、張っていたものを緩めるような響きがある。  いきなりの抱擁に驚いた様子の先生だったが、すぐに目を細めるとシャロンの体を抱きとめ、 「ありがとうございました」  単純だが最高の一言を発してくれた。  シャロンが先生から離れ一つ頷く。それから「あ」と手を打つ。 「よかったら今晩私のマンションに泊らない? 明日の朝幼稚園には私が送って行くし。ね?」  それは提案と言うよりほとんど強引なお願いだった。  街で女性に声を掛け「暇? 遊ぼうよ」と言っている男は今のシャロンみたいな顔をしているのかもしれない。 「でも」 「ぜんっぜん迷惑じゃないから。お互い一人暮らしの寂しさは身に染みて知ってるはずでしょ」  言葉を切ったシャロンがなぜか俺を見る。 「どこかのシスコンでブラコンな男と違って」 「失礼な。家族愛と言え、家族愛と」  腕を組んでうめく。  そんなことはともかく、俺はシャロンの提案に賛成だった。 「今夜くらいは誰かが傍にいた方がいいんじゃないですか?」  迷う先生の背を押すように問う。さすがにあんな事があった後に一人では心細いだろう。  そして、それ以上にあいつらの報復が心配だった。きっちり脅したとはいえ、完全に無いとは言い切れない。  もちろんこれは先生のためを思い、口には出さなかったが。 「そうそう、夜中にふと目が覚めてさっきのこと思い出したりでもしたら」  自分の体を抱き、かなり悲壮な表情で首を振るシャロン。 「そんな時、震える体を抱きしめてくれる誰かがいるというのはとても素敵な事だと思わない?」  ナンパ男から新興宗教の勧誘になってきた。 「絶対に損はさせないから。騙されたと思って、ほら」  今度はマイナスイオンが発生する浄水器のセールスマンか。  しばらくの間先生は迷っていたようだが結局シャロンに押し切られ「それじゃ今晩だけ」とやや遠慮がちに同意する。 「荷物、取って来ますね」  それでもやはり心細かったんだろう。部屋に戻る間際、先生が見せた表情はわずかに軽くなっていた。 「かわいい女性(ひと)ね」  シャロンがこちらを振り向く。 「優しくて、素直で、でも気が弱くて。絵に描いたような守ってあげたくなるタイプ」 「同性には嫌われそうだけどな」 「あら、私は好きよ。ありがとうを言える人に悪い人はいないもの」 「基本だな」 「そういうこと」  俺はシャノンと顔を見合わせ、同時に口元を緩めた。  その時小さな鞄を一つ手にした先生が現れる。先生は扉に鍵を掛け、くるりと俺たちの方に体を向けた。  綺麗な黒髪が先生の後を追いかけて優雅に揺れる。シャンプーのコマーシャルみたいだ。 「お待たせしました」 「じゃ行きましょ」  先生の後ろに回りこんだシャロンが背中を押す。押しながら何気ない素振りで先生の髪をチェックしている。  男から見れば単なる憧れの対象も同性から見れば研究の対象になるらしい。  今晩二人はベッドの中で髪のお手入れ談義をしたりするのだろうか。  洗う、拭く、櫛、寝る、の俺には踏み込めない領域だ。 「どうするの?」  反射的に「何が」とシャロンに返そうとした俺は目の前の二台の車に気付き、慌ててそれを飲み込んだ。  一台は俺と先生が幼稚園から乗ってきたRX-7。もう一台はシャロンが乗ってきたスズキ・カプチーノである。  このシルバーのカプチーノもシャロンの持ち物だった。  二台目は少し毛色の違ったものを、ということで選んだと聞いた。  こんなサイズのスポーツカーがあるなんて日本て素敵。と納車の日ににこにこしながら言っていたのを思い出す。  俺は数秒考え、ポケットから取り出した7のキーをシャロンに投げ渡した。  とほぼ同時にカプチーノのキーが飛んでくる。強化クラッチはもう勘弁して欲しかった。 「とりあえず今日はお疲れ様、ってことで」  7の屋根に肘をかけたシャロンが微笑む。 「あぁ、お疲れ」  と返事を返そうとした時だった。ポケットの携帯電話が突然震え出した。  いや、携帯電話が震えるのはいつも突然か。  そんな事を考えつつポケットに手を入れて取り出した携帯電話を確認すれば非通知になっていた。  非通知でかけてくる相手に心当たりは全くなかったが、とにかくケイタイを開いて電話に出る。 「もしもし」  だが返って来たのは沈黙だけだった。脳内に疑問符を浮べつつ、もう一度もしもしと言ってみる。  それはかなり不自然な声だった。 『皆川はるかから手を引け』  よくテレビで素性を明かせない人間がインタビューに応じているが、その時に放送される声質そのものだ。  間違いなくボイスチェンジャーを通っている。  俺はシャロンに手と目で警戒の合図を送り、口を開いた。 「どちら様ですか」  場の空気にそぐわないバカ丁寧な対応。もちろん本気で礼を尽くしているのではない。ちょっとした牽制だ。  さてどう出るか。  しかし声の主は見事に俺の期待を裏切ってくれた。 『皆川はるかから手を引け』  何のリアクションも無い。録音されたものの様に声には何の変化もなかった。  どうやら俺と喋る気は相手にはないらしい。一方的に通告したいようだ。  俺は息を吐くだけの間を置いて短く言い切った。 「断る」  電話はあっさりと切れた。一度ケイタイを見つめ、ポケットにしまってから口元を歪める。 「先生から手を引けとさ」  シャロンの眉間に皺が寄り、当の先生は口をわずかに開いて俺の顔を見つめた。  やっと静かな生活を送れると思ったところに俺の一言だ。泣きそうな顔にもなるだろう。  後は保険の解約手続きを取って残りの大手金融会社と軽く話をすれば終わりだと思っていたんだが。  しかし嫌な予感がする。どうも今度の相手はチンピラヤクザ程度で済みそうにない。  チンピラヤクザなら初めに俺が「どちら様ですか」と言った時に組の名を出すか、容易にそれを連想できる言葉を使うはずだ。  そして「断る」の後にあらゆる種類の脅し文句が乱れ飛ぶ。  そこで「すみません! すぐ手を引きます!」となるのが脅している人間が望む展開だ。  人間一人をドラム缶に押し込みコンクリ漬けにして海に静めるより「コンクリ漬けにして海に静めてやろうか、お?」と口で言った方が時間も金も手間もかからずに済む。  だが電話の主は俺を一切脅さなかった。それが何を意味するのか。  断られたら断られたらで別に構わない。断られるとは思ってなかった。只のいたずら。  どれも可能性がないとは言い切れないが経験から言えば断れば殺す、というのが一番正解に近いだろう。  即ち、俺たちとある一点で交差しているプロフェッショナル。  向いている方向は違う。だが確実に交わっている。  今度の相手は恐らくそいつらだ。  背筋に痺れが走る。  やつらが何物でなぜ先生を狙っているのかは分からない。だが先生を狙っていることは事実だ。  俺は先生の前に立ち、笑みを浮べた。 「大丈夫、安心してください。先生には指一本触れさせません」  多少わざとらしい笑顔とセリフだったが何とか先生に通じたらしい。  先生は固めていた表情を解きほぐしてくれた。 「信じてます。お兄さんとシャロンさんのこと」  そう言って深く頭を下げる先生。その先生の白い服に赤い小虫を見つける。  てんとう虫?  思った瞬間、俺は先生を地面に引きずり倒していた。  同時に7のドアガラスが砕け落ちる。紅点はてんとう虫などというかわいらしいものではなかった。  レーザーサイトの光点に導かれた弾丸が7のボディを円形に喰らう。  俺は先生を抱きしめ、跳んだ。  その後を弾痕と鉄板に穴が開く硬い音が追いかける。先生を抱いたままボンネットへ。  脇腹に激痛。  漏れそうになった呻き声を無理やり噛み砕き、俺は先生と共に7の反対側に転がり落ちた。  脂汗を拭う間などない。目を閉じて震える先生を右腕でしっかり抱き、P226を抜きさる。  わずかに遅れて屋根を乗り越えたシャロンが俺に並んだ。  俺の表情を見て取ったのかシャロンの目が大きくなる。だが会話を交わす暇など無い。  俺はボンネットの陰からわずかに頭を出した。  一体どこから。辺りには光源がなく相手を視認できない。だがレーザーサイトの光源。  敵の武器が俺にその位置を教えてくれる。  俺はボンネットに肘を乗せた。トリガーを三度連続で引き、すぐさま身を隠す。  かすかに聞こえる何かが地面に落ちる音。手ごたえはあった。だが銃撃は止まない。敵は複数ということか。  大きく息を吸い込む。それだけで脇腹にかなり重い鈍痛が走った。  敵の弾がタイヤにヒットしたようだ。ボンネットが傾く。  乾いた破裂音の洪水の中にあって、全身に鳥肌が立っていた。  手と銃のグリップの間には汗が溢れ、反対に唇は恐ろしい勢いで乾いていく。  俺だって人間だ。死ぬのが恐くないわけじゃない。  それでもなお、やらなきゃならい事もある。それだけだ。  再び銃を構え、頭を出す。距離が詰まっていた。敵の姿を視認できる。数は四。  アサルトライフルとサブマシンガンを確認。物量で押す気か。  一番近い位置にいた男に照準を合わせ、三発の弾丸を叩き込む。  男が地面に倒れるのを確認しつつ身を隠す。  しかし黒の戦闘服にあの得物、やはりチンピラヤクザではなかった。  俺と入れ替わるように立ち上がったシャロンが発砲する。  今はあいつらがどこの誰かなんて事を考えている暇はない。また一人倒れた音がする。さすが、頼もしい。  だが腰をかがめたシャロンのこめかみからは一条の血が流れていた。 「だいじょうぶ。かすっただけだから」  俺が言葉を発するより早くシャロンが口を開く。 「それよりもあの人たち、意外と情に厚いみたいよ」  苦笑いしながら顎をしゃくって見せるシャロンに俺はゆっくりと顔を上げた。  俺が撃った男を別の男が引きずり闇の中に消えていく。シャロンが撃った男はすでに運ばれてしまったようだ。  後には赤黒い血の線と引きずり跡が残っている。  俺は息を吐き、やはり苦笑いした。殺さないように撃った甲斐があったというものだ。  死体は放置できるが負傷者は運ばねばならない。  敵を効率よく減らすためのセオリー。親父なら全員撃ち殺すんだろうけど、こんなやり方だって悪くないはずだ。  ふと腕の中の先生を見る。  先生はまだ目を閉じて微かに震えていた。銃撃が止んだことにも気付いてないらしい。 「先生」  そう声をかけようとした時だ。 「上っ!」  シャロンの鋭い声に空を振り仰ぐ。  月と重なり、弧を描いて飛んで来る二つの手榴弾。当然のようにピンは抜かれている。  俺は咄嗟に先生を突き飛ばした。シャロンが先生に覆い被さるのを横目で確認してから手榴弾を銃で撃ち抜く。  とほぼ同時に身を伏せる。  鼓膜を薙ぎ払うような爆音。爆風が7の車体をずらし、無数のボールベアリングが降り注ぐ。  人を殺傷するための鉄球雨。爆風よりこちらの方が恐ろしい。  巻き上げられた砂塵が車体の下を通って流れてくる。砂混じりの空気を一度吸い込み、俺は体を起こした。  頭の中をジェット戦闘機が飛んでいるような耳鳴りがする。  頭を振る俺の横でシャロンと先生が起き上がった。 「大丈夫ですか?」  と訊いてみるが自分の声がよく聞こえない。  全く聞こえないわけじゃないので鼓膜は破れてないと思うけど。  俺の問いに先生とシャロンが一緒に口を開いた。  やはりよく聞こえなかったが見たところ怪我もしてないし、埃のせいで黄土色になっている事を除けば二人とも大丈夫そうだ。 「お兄さんっ!」  いきなり声を上げた先生がにじり寄って来る。声が大きかったのかこれはちゃんと聞こえた。  先生の顔色は青を通り越して白くすらあった。一瞬「抱擁?」とか思ったがどうも違ったらしい。 「さっき、さっき!」  目を赤くした先生が俺の体をまさぐる。  眉根を寄せた俺だったが先生に脇腹を触られた瞬間、痛みと共に自分が撃たれていた事を思い出した。  エンドルフィンが切れたらしい。 「早く病院、救急車を」  焦りまくる先生。心配してくれるのは嬉しいがその必要はなかった。 「大丈夫ですよ。ちゃんとボディーアーマー……防弾ベスト着けてますから」  微笑む俺に先生の目が俺の顔と脇腹を行ったり来たりする。 「でも、でも」 「ほんとに大丈夫ですから。体よりも背広に穴が開いた事の方が痛いくらいで」  そんな俺にシャロンが何か言おうとしたが目で制し、もう一度微笑んでみせる。  相変わらず先生は心配顔だったが、とりあえず納得したようだ。俺の元から離れシャロンに歩み寄る。  先生はハンカチを取り出すとシャロンに向かって差し出した。  それからふと思い出したように「濡らしてきますね」とその場を離れようとする。  が、シャロンに腕をつかまれてしまった。 「ごめんなさい。今は一秒でも目を離したくないの。ほんのかすり傷だから心配しないで、ね」  それにしても。  のろのろと立ち上がった俺は7のボンネットに手を置いた。  フロント、ドア、リヤ、まともなガラスは一枚も無い。砕け、ひび割れてその破片を車内に散らしている。  銃弾を受けたドアは穴明きのオタマみたいで、ボンネットにも無数の小さい穴が開いている。  もし7を持ち上げて振ることができたら、からからと音がするだろう。この分だとエンジンも使えそうにない。  砂埃のせいでくすんだ赤になった7を見つめ、俺は軽く下唇を噛んだ。  廃車、か。  心中で呟き、シャロンを見やる。  シャロンは何を言うでもなくボディを撫で、最後に目を閉じて7に少し長いキスをした。  それから大きく息を吐いて腰に手を当てる。 「さっ、これからどうするの」 「とりあえず会社に連絡しなきゃな」  そう言って辺りを見回せばすでに野次馬が何人か集まっていた。  この分だと遅かれ早かれ警官がやって来るだろう。  正直、警官相手にこの場をしのぐのはかなりきつい。  俺は携帯電話を取り出し、さっそく会社にコールしようとした。  その時振動と共にまた電話がかかってくる。が、今度は信用できる相手からだった。  液晶画面によれば社長秘書の美津子さんからのようだ。グッドタイミング。手間が省けた。 「もしもし」  だが予想に反して電話の向こうから聞こえてきた声はかなり若かった。というより幼い。そして嬉しい。 『もしもし。お兄ちゃん?』 「優奈か……どうした」  と問いながらも条件反射的に頬が緩んでしまう。 『うん。おやすみなさいってしようと思って』  横目で腕時計を見る。もうそんな時間か。 『ほら、優希もおやすみなさいするの』  電話の向こうでお姉さんぶった優奈の声がする。  一応書類の上では優希が兄なんだが、やっぱり性格のせいだろう。 『お兄ちゃん?』とあからさまに眠そうな優希の声。  やはりついつい笑ってしまった。 『おや』  沈黙。沈黙。沈黙。 『寝ちゃった』  もしもし、という俺の呼びかけにそう答えてくれたのは優奈だった。しかし電話中に寝るかね普通。  我が弟ながらかなりゆるい。まぁ、そこがまた可愛かったりするんだけど。 『お兄ちゃんはまだお仕事なの?』 「あぁ、もうちょっとだけかかるかな」  答えながら鈍痛響く脇腹に手をやる。当然優奈も優希も俺がどんな仕事をしているのかは知らない。 『ごくろうさま。無理しないでね』  妙に大人びた優しい言葉。可笑しさと嬉しさに笑ってしまう。  笑えば笑っただけ脇腹に響いたが、そんなことはどうでもよかった。 「明日は幼稚園に迎えにいくから」 『うん』 「おやすみ」 『おやすみなさい』  なんかしみじみとしてしまう。だが余韻に浸っている暇はなかった。  続けて聞こえてきた美津子さんの声にすぐさま緩んでいた脳が引き締まる。 『どうかしらそっちは。上手くいった?』 「いえ、とにかく社長と代わって貰えますか」  俺の声から只ならぬものを感じ取ったのか、美津子さんが早足で移動を始めた。  聞こえてくる足音からそれが分かる。  とにかく要点を手短に説明して早いところ手を打ってもらわなきゃな。  さらに多くなった野次馬たちを見ながら、俺は社長に語るべき言葉を脳から取り出す作業に急いで取りかかった。  何にせよ、長い夜になりそうだ。  8 「社長!」  と社長室に入るなり叫んだ事には意味があった。  ちょっとした先制攻撃、かつ会話のイニシアチブを取るためだ。とにかくまず話を聞いてほしかった。  ソファーに腰掛けるシャロンと先生を尻目に俺は社長のデスクに歩み寄ると、朝と同じように片手を付いた。  それから大きく息を吸う。  それを言葉に代えて吐き出そうとした瞬間、俺の口に蓋でもするように社長が一枚の紙を取り出した。  やっぱりこの辺巧いよな。あっさり呼吸を読まれてしまった。年の功ってやつだろうか。  仕方なく社長の手から紙を受け取って目を落す。  二十二時、高柴の廃工場にて待つ。 「何ですか、これ」  視線を紙から社長に戻した俺はとりあえず訊いてみた。答えは何となく分かっていたが。 「古風な言い方をすれば果たし状だな。ついさっき電子メールで届いた。私たちの頃は黒電話がじりりんと鳴ったものだがな」  昔を思い出したのか楽しそうな社長。もっともこっちは全く楽しくない。  当たり前だ、撃ち合うのは俺たちなんだから。  印刷された配信時間を見るに、ちょうど俺たちが襲撃された時刻に出されたらしい。 「襲撃失敗を受けて出されたとみるのが一番妥当でしょうね」 「だろうな。まぁウチには敵も多い。偶然、このタイミングでということも考えられるが、可能性は薄いだろう」  社長は自分で行った事を確かめるように肯き、指を組んで俺の顔を見上げた。 「にしても、だ」  言いながら社長に向けていた体を九十度左に回転させる。 「なぜ先生があんな奴らに命を狙われなきゃならない」  俺を含め、その場にいる全員に問う。だがどこからも答えは帰ってこなかった。  仕方なく視線をある一方に向ける。 「心当たりはありませんか、先生」 「いえ、全く」  だよなぁ。俺たちみたいな仕事でもしてない限りあんなに派手に命を狙われる心当たりなんてあるわけない。  そこまで考え、俺は手にしたメールにふと目を落した。  二十二時、高柴の廃工場にて待つ。  思い出せ。あの時電話の相手は何と言った? そう、確か「皆川はるかから手を引け」だ。  奴らが先生の命を狙っていることは間違いない。  考える。  おかしい。先生の命だけが目的なら、俺たちを呼び出して一戦交える必要なんてこれっぽっちもないはずだ。  ということは何か、奴らは俺たちの命も狙ってるってことか。  奴らが俺たちの命を狙う理由。先生を殺すのに邪魔。可能性としてはあり得る。  俺たちが先生に張り付いている限り先生を殺す事は困難である、と先程の一戦から奴らは判断したのかもしれない。  俺たちが廃工場に行くかどうかは別にして、そう考えれば一応の説明はつく。  仲間を撃たれた恨みもあるだろうし、万全の態勢で迎えてきっちり殺りたいのかもしれない。  廃工場へ行けば百パーセント何らかの仕掛けはあるだろう。  さて、どうしたものか。 「で、どうする。行くのか行かないのか」  社長の言に俺は眉間に皺を寄せる。 「何を言ってるんですか。それを決めるのが社長の仕事でしょう。ただ希望を言わせてもらえるなら、行きたいです」 「理由は?」 「先生を狙っているのが何者か分からない以上、相手の懐に飛び込んでみるのも一つの手かと。それに、そっちの方が手っ取り早そうだし」 「私も賛成」  それまで黙っていたシャロンが不意に声を出す。 「みえみえの挑発だけどこんな事で引いてたんじゃいい笑いものよ。この業界弱者は強者の餌でしかない、誰の名言だったかしら」  そう言ったシャロンの目は笑いつつもしっかりと社長を見ていた。  社長はシャロンに向かって笑い返すと、俺の顔を見ながら小さく肯く。  おそらく奴らもこれを見越してこんな果たし状を送ってきたのだろう。シャロンの言う通り俺たちは引けないのだ。 「じゃあ上司の許可もとれたところで早速行くか」  俺の呼びかけにシャロンが立ち上がって伸びをした。気負った様子はまったくない。  ハンバーガーでも食べに行くような感じだ。 「あの、お兄さん」  社長室を出ようとした俺にかかる遠慮がちな声。  少し翳った表情で俺を見上げた先生は口を開きかけ、閉じてしまった。  それでも深く艶のある黒い瞳はじっと俺を見つめている。  そんな先生に俺は口を開きかけ、やっぱり閉じてしまった。  握った拳に汗をかく。一体何を言えばいいんだろうか。  様々な言葉が超音速で頭の中を飛び回る。というか、俺は何でこんなに焦ってるんだ。  別に助けが欲しかったわけではないが、シャロンのほうをちらりと盗み見るとなぜか彼女はキスのジェスチャーをしていた。それもかなり熱い。  ばかやろう。  シャロンに向かって心の中で呟くと少しだけ落ち着いた。痒くもない頭を掻いて言う。 「会社にいれば絶対に安全です。その、安全です。あー……ちょっとだけ行ってきます」  我ながら情無い。ただこれ以上頭を使ったところで感動的なセリフなど出てきそうになかった。  と、なぜか先生がうつむいてしまう。 「すみません。こんな事になってしまって」  先生の口から漏れた謝罪に俺の眉はハの字になった。 「何で先生があやまるんですか?」 「その、私のせいでお兄さんとシャロンさんを危ない目に」  そのセリフに俺とシャロンは顔を見合わせると同時に吹きだした。  この人はどこまで真面目なんだろうか、ほんとに。まぁ、一歩間違うと卑屈になってしまうんだけど。 「先生」  静かに呼びかける。 「場にそぐわない謝罪は悪意をもって受け取られることがあるんで気をつけたほうがいいですよ。あなたは悪くないよって言って欲しいの? という風に相手が思わないとも限りませんし」  口をわずかに開いた先生を目で制し、続ける。多分、反射的に「すみません」を言おうとしたのだろう。 「これが俺たちの仕事ですし、何より俺は先生を守ると約束しました。だから先生は『その羽の無い扇風機より価値の低いバカみたいな命、私のために派手に散らして来い』くらいに思えばいいんです」  最後に「ね」と付け加え、俺は笑って見せた。  もちろん先生が素直に肯くはずもない。  俺は先生にもう少し無責任になって欲しかったのだ。責任感が強いのはいい事だとは思う。  しかし限界を超えて荷物を背負ったところで歩けはしないし、潰れるのも時間の問題だ。  そして限界を超えて荷物を背負ってる人間に限って他人の荷物を見ては「あれは私の荷物じゃないだろうか」と思ったりする。 「俺の荷物は俺が背負います。そんなにヤワじゃないし。だから先生が謝る必要なんて欠片もないんです」  先生はしばし俺の顔を見つめていたが、やがて一つ肯いた。  表情を見るに心の底から納得できてはいないんだろうけど。性格だろうな、この辺。 「明日は優奈ちゃんと優希君を迎えに来られるんですよね」 「ええ、もちろん」 「嘘は……ダメですよ」   答えて俺は肯き、口元を緩めた。 「ひゅーひゅー。ラブラブ? ラブラブ?」  とりあえずシャロンを無視して社長の方へ向き直る。 「先生のことお願いします」 「ああ」  社長の短い返事を確認、俺は部屋を出た。  後ろ手に重い扉を閉め、息を吐く。  さすがにこの時間の社内は静かだ。リノリウムの床を一歩進むたびに大きな足音がした。  空気が重さとなって肩にのしかかってくる。やはりこれからの事を考えると気が沈む。  数時間後には血だまりの上で冷たくなっているかもしれないのだ。  心臓に氷のこてを当てられたような気分になる。だがこの気持ちを忘れてはならない。  死ぬのが恐い。死にたくない。だからこそ俺は全力で生きる。 「ねぇ、どうしてキスしなかったの? せっかく煽ってあげたのに」  緊張感のないのが一人。  立ち止まった俺は腰に手を当てて振り返った。なぜかシャロンは実に不満げな表情で俺を見上げている。 「何でキスしなきゃならないんだ」 「何でって」  そこで言葉を切ったシャロンは続けて何か言おうとしたようだが、結局大きく手を振って黙ってしまった。  一体何がそんなに気に入らないんだろうか。訳が分からない。俺が何をしたっていうんだ。  だがこのまま黙っていると一方的に俺が悪いような気がして悔しいので、それっぽいことを言ってみる。 「日本人はそう簡単にキスしないんだよ」 「あなたはしなさ過ぎるのよ」  その瞬間、脇腹を激痛が襲った。思わず涙が溢れ、奇声を発しながら廊下をのた打ち回りたくなる。  だが何とかそれを「男の子の意地」で押さえ込み、俺はシャロンを睨みつけた。 「バカやろう。折れてたらどうすんだ」  食いしばった歯の間から声を絞り出す。  ボディアーマーは確かに銃弾を防いでくれる。だがその衝撃まで完全に吸収してくれるわけではない。  よって腹に銃弾を受ければ肋骨が折れることもあるし、最悪衝撃で内臓が破裂することだってある。 「ほら、医務室」  そう言うとシャロンは俺の手を引いて歩き出した。やはり分かっていたらしい。  まぁ、シャロンもボディーマーマーの上から撃たれて肋骨折ったことあるしな。 「ったく、かっこつけるなら最後まで行けばいいのに」 「はぁ?」  聞き返す、がシャロンは何も言わず歩くペースを上げただけだった。  で、それは俺の脇腹に痛みとなって跳ね返ってくる。  あぁもうほんとに何がなんやら。やっぱり俺が悪いのか?  9  隠れていた満月が雲から顔を出し、辺りに冷ややかな光を投げかける。  雑草を揺らし埃の匂いを運んで吹く風はわずかに冷たかった。  右腕を持ち上げ時計に目をやる。指定された時間まであと五分。  時計から目を離した俺は目の前に立つ二棟の廃工場に視線を移した。  砕けた窓ガラス。灰色の壁はくすみ、流れた雨の痕が上から下に帯を引いている。  スプレー缶で書かれたであろう落書きにはセンスの欠片もなかった。  放送禁止用語をデカデカと書き殴って何が楽しいんだろうか。理解に苦しむ。  この工場が何を作りいつ倒産したのか俺は知らない。少なくとも俺がこの街に来た時からここは廃工場だった。  コンクリートの地面を突き破って生える雑草の方が俺よりもこの工場について多くを知っているのだろう。  しかし敵も中々粋な場所を指定してきた。  地面に転がる『安全第一』の全の字を見ながらそんな事を思う。  ここは住宅地から離れているため銃を撃ってもすぐに通報されるということはない。  少なくともこの近辺では一番邪魔が入らない場所と言えるだろう。  今のところ気になる事はない。幸いひびで済んだ肋骨と隣にいるシャロンを除いては。 「戦争にでも行くつもりか?」  呆れ声でからかう。  会社から支給された黒の戦闘服に六つの手榴弾を付け、腰のベルトには多数の予備マガジン。  愛用の二丁のグロックに肩から提げたサブマシンガン。手にはアサルトライフルまで抱えている。  ちなみに俺はシャロンとお揃いの戦闘服、得物はP226だけだ。  もちろん予備のマガジンはいくつか持ってきたが。  シャロンは俺の顔を見ると、やれやれといった風に首を振った。 「知らないの? あなたの国の言葉でしょ。備えあれば、う」  そこでふとシャロンの声が切れる。 「う?」 「……ウクレレ」 「もう諦めろ、な?」  俺はぽふぽふとシャロンの肩を叩いた。 「うぅ。なんか物凄くバカにされた気分」  悔しがるシャロンはとりあえず放っておいて、もう一度時計に目をやる。  もし俺たちをここに呼び出した奴が時報を聞いて時計を合わせる几帳面な人間なら、約束の時間まであと三十秒ということになる。  俺は視線でシャロンに緊張を促した。応えてシャロンがアサルトライフルを抱え直す。  あと二十秒。  その時、突然の金属音によって夜気が叩き割られた。甲高い音。だが軽くない。  鉄柱を鉄パイプで殴ればこんな音がするだろう。  反射的に地面を蹴り、工場の壁に背を預ける。銃を抜いた俺は素早く辺りを見回した。  幸い今日は月が出ている。これなら目も十分使えるだろう。夜目も利く方だ。  暗視ゴーグルを持ってこようかとも思ったが、視界が狭くなるのが嫌なので使わないことにした。  今のところ前方に気配はない。と再び同じ音が背を預けている壁を通して聞こえてきた。  中か。  隣にいるシャロンを横目で見やり、背後を彼女に任せて移動する。  ブーツと雑草のこすれる音がはっきりと聞こえる。肌で風の匂いと色を感じた。ただの錯覚だろう。  だが感覚は一歩進むたびに鋭くなっていく。高鳴る鼓動。体温が上昇する。この緊張感は悪くない。  古ぼけた木製の扉まで辿り着いた俺は一拍置いてゆっくりとノブをひねった。ほんの僅かドアを引く。  鍵はかかっていないようだ。トラップの類も無い。再びシャロンを確認。静かにドアを開いて中に入る。  どうやらここは事務所だったらしい。なぜか一つだけ残された事務机と壁際のロッカーがそれを教えてくれる。  窓から差し込む月明かりを頼りに目を凝らせば床にうっすらと残った足跡。数は一つ。  足跡は部屋の中を迷うように行ったり来たりしてから、また別の扉に向かっていた。  その扉の上にも小さな『安全第一』のプレートが張ってある。恐らく扉の向こうは作業場だろう。  埃っぽい空気を浅く吸い込み、扉脇の壁に張り付く。一度目を閉じ、ノブを握る。  金属の冷たさが皮のグローブを通して伝わってきた。あれから音はしていない。  自分の鼓動どころか血液が流れる音さえ聞こえそうなほど辺りは静かだ。  壁に預けた背が汗をかき、湿っていく。  間違いなかった。扉の向こうに誰かがいる。  しかも相手はまるで気配を隠そうとしない。扉を通して相手の息遣いさえ感じられるような気がした。  罠か。それとも余裕か。  シャロンも気配に気付いている。手にした得物も態勢も完全に「撃てる」状態だった。  シャロンに目配せし、大きく息を吸い込む。  それを短く吐き出し、俺は扉を開け放った。  可能な限り姿勢を低くして中に飛び込む。発砲音。そして人のシルエット。  俺はそれがどんなものであるか脳が認識するより早く地面を蹴っていた。  シルエットにタックルをかまし、地面に押し倒す。シルエットが発した短い呻き声は男のものだった。  男の手から投げだされた銃が地面を滑る。目で追うような事はしない。それは隙だ。  男の体をうつ伏せにひっくり返し、すぐさま関節を極める。  背中を膝で抑えつけた俺は男の後頭部に銃を突きつけた。  辺りに男があげるにしては情無い悲鳴が響き渡る。  しかし、やけにあっさりと組み伏せることができた。これではまるっきり素人だ。  俺は膝の下にいる男を「初めて」確認するように見つめた。  襟からネクタイがはみ出している。その瞬間、俺の脳裏に疑問符が浮かんだ。  どう考えても武装した相手を迎えるような装備ではない。  その他、整髪料によって光る髪、ブルーのワイシャツに灰色のスラックス。銀縁めがね、よく磨かれた靴とどう見ても一般家庭のお父さんだ。  この時間ならば廃工場ではなく、居酒屋にでもいるべきなのだが。  しかし、この人が俺に向かってトリガーを引いたのもまた事実だった。 「どういう事?」  辺りを警戒しているシャロンがこちらに視線を向けずに訊いてくる。  訊かれても困る。知りたいのは俺の方だ。 「仕方なかった、仕方なかったんだ」 「何が仕方なかったんだ?」  突きつけた銃をそのままに、膝の下で震える男に向かって問う。 「ひいぃっ。頼む、撃つな。撃たないで……下さい」 「質問に答えるんだ。そうすれば危害は加えない」  男の頭に押し付けていた銃を僅かに引く。銃口は頭から離れた。  まぁ、いつでも撃ち殺せる状態にあることに違いはないが。 「なぜ、俺たちを狙った」 「たっ、たの……いや、命令、命令されたんだ」 「誰に」  男は答えない。俺は銃口を再び男の頭に突きつけた。男の体がびくりと一度大きく震える。  だが答えは返ってこなかった。もちろん男が死を望んでいないことは分かる。  それでもなお答えないという事は…… 「命令した者の名を明かせば殺される、か。そうだろ」 「は、はい」  男の声はかすれていた。 「だが名を明かさなければ俺に殺される」  男は何も言わない。荒い呼吸音と共に背中を激しく上下させている。俺はしばし考えた後、口を開いた。 「情報を提供してくれれば命の保証はする。もちろん俺はあなたを殺さないし、奴らかあなたを守る」  また社長に迷惑かけるなぁ、と心中で思いつつ条件を提示する。 「本当か」 「本当だ」  俺はすぐさま言い切った。恐らく今男の頭の中では無数の思考が飛び回っていることだろう。  言うべきか言わざるべきか。無数の思考の末にはじき出されるイエス オア ノー。二つに一つ、だ。  ただ男がノーを選んだ場合、俺は非常に困ることになる。  殺すぞ、とは言ってみたものの実際にその気はまったく無いからだ。  どうしようか。男がノーを選んだら「今なら洗剤つけるけど?」とでも言ってみるか。 「わっ、分かった。言う。言うっ!」  長い黙考の後で男が選んだのは幸いにもイエスだった。  俺は小さく息を吐き、信用の証として極めていた関節を解くと男を解放した。  男はのろのろと立ち上がり、やや怯えた視線を俺、というか俺が手にしている銃に向ける。  さすがに銃を収めることはできなかった。  俺にしてもまだ目の前の男が完全に安全だと判断した訳ではない。  袖に隠したデリンジャーを俺に向けないとも限らないのだ。  男は唾でも飲み込んだのか一度喉を鳴らすとゆっくりと話し出した。  いや、違う。話し出そうとして話せなかった。  弾丸が肉に食い込む嫌な音。  目の前で男の体が斜めに傾く。  その瞬間、シャロンが肩で弾き飛ばした男の体を受け止めるように、俺は後ろに跳んでいた。  背中から地面に落ち、息が詰まる。だがそんなことを気にしている暇は無かった。  辺りに漂うに血の臭いに大きく舌打ちする。  打ち捨てられた工作機械の陰に身を隠した俺はすぐさま男の状態を確認した。  即死はしない。だが放っておけば確実に死ぬ。脇腹のそんな位置から血が流れ出している。  薄い月明かりのせいで震える男の唇が紺色にすら見えた。  細くかすれた呻き声をもらす男を気にしながら、工作機械から僅かに顔をのぞかせる。  気が付けば心拍数が跳ね上がっていた。だが対照的に敵が動く様子は全くない。  男を撃った一発をだけで完全に沈黙している。 「死にたくない……死にたく、ない」  小さな声がいやにはっきりと聞こえる。それだけ辺りが静かだということか。  間違いない。敵は俺たちではなく、はっきりとこの男を狙って撃った。理由は? 問うまでもない。  俺たちの状況を不利にするためだ。おそらく彼もそのためだけに利用されたのだろう。  俺はシャロンに視線を送った。 「私達が生き延びることを考えるならこの人にとどめを刺すのがベスト」  そう言ってシャロンが微笑む。俺はオーバーに肩をすくめ、改めて男の容態を見た。  もって三十分といったところか。  敵も馬鹿じゃない。俺たちがこの男を見捨てられない事を知っている。  さて、どうしたものか。などと悠長に考えている暇はなかった。こんな状況だ。一秒だって惜しい。  俺はアサルトライフルと三つの手榴弾をシャロンから奪い取った。 「援護する。その人を連れて車まで走れ」  有無を言わせぬ強い口調……のつもりだった。 「嫌よ。あなたが車まで走りなさい」  こうなってしまってはシャロンは絶対に譲らない。一度引かないと決めたら絶対に引かないのだ。  だからこういう時は先に行動するしかない。  俺は手榴弾のピンを抜き、放り投げた。  続けてもう一つ。からん、という乾いた音。続けて起こった爆発に全てが震え、衝撃が押し寄せる。 「行けっ!」  立ち上る煙の中、俺はシャロンに向かって叫んだ。  シャロンは何か言いたげに一瞬顔をゆがめたが、すぐさま男に肩を貸して動き出す。  工場内を乱れ飛ぶ銃声。弾丸が鉄骨を、工作機械をかすめ、火花が散った。  シャロンと男を背にしてアサルトライフルのトリガーを引き絞る。  暗闇と爆発の際の煙によって視界は無いに等しい。まともな射撃などできなかった。牽制程度だ。  弾丸が肩をかすめ、熱痛が走る。  敵にも俺たちの姿は見えていないはずだ。だがこちらよりも量がはるかに多い。  下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、というところか。  次々と上がる火花から敵の位置を予測し、撃ち返す。だが手ごたえはない。  焦るな。とにかく死なない事を考えろ。  自分に言い聞かせ、トリガーを引き続ける。  破裂音の洪水を抜け、何とか工場を脱出した瞬間銃口が全ての弾を吐き出し終えた。  P226に持ち替えながら背後の二人を確認する。大丈夫、怪我も増えていなければ死んでもいない。  しかしこれで視界が開けた。敵は「狙って」撃ってくる。確かな事は分からないがかなりの人数がいる。  狙いを定められたらそこで終わりだ。  集中しろ。殺気を感じ取れ。撃たれる前に撃て。  親父に銃の訓練を受けていた時の事をふと思い出す。どうしてこんな時に。いや、こんな時だからこそか。  急所を外す余裕なんてない。最小の弾丸で確実に戦闘不能に追い込む。  頭の中を風が吹いたような気がした。  その瞬間俺は三人を殺し、続けて二人殺した。一人は屋根から転げ落ち、地面でバウンドする。  放った手榴弾がさらに二人を吹き飛ばした。  トリガーの重さが命の重さだとするならば、随分と軽いものだと思う。  反面、その軽さが自分の命の重さであることを忘れてはならない。  トリガーを引く度に俺の命は加速度的に軽くなっていく。  そんな事を考えながらまた一人殺した。  敵は誰もがあの時と同じ黒の戦闘服に身を包んでいる。  車まであと何メートルだ。  もう視界の端には乗ってきた白のセダンが映っているというのに、近づいている気がしない。  それでも一歩ずつ進むしかなかった。  背後で窓ガラスが砕け落ちる。ほんの一瞬、気を逸らしてしまった。  短い呻き声と共にシャロンの体が僅かに沈む。  舌を打ったときにはもう遅い。シャロンの太腿から流れる血が地面に赤黒い点を打っていた。  歯を食いしばりトリガーを引く、引く、引く。  しかし何人いやがるんだ。全く減った気がしない。  一人倒せば二人、二人倒せば三人がこちらに銃口を向けてくる。どうあってもここで俺たちを殺す気らしい。  息があがる。激しく動いた訳でもないのに。  車まであと三歩、二歩。  そこまで来た瞬間、俺は腕を伸ばしてリアドアを開け放ち、その陰にシャロンと男を引きずり込んだ。  弾丸がガラスに傷を付け、ドアに跳ね返される。さすが社長の車。見事な防弾仕様だ。  わずかに銃撃が弱まる。その隙にシャロンを後部座席から運転席に回りこませ、男を座席に横たえた。  男の額には脂汗が滲んでいる。もう少しだけ頑張ってくれ。 「早く乗って!」  キーをひねりながらシャロンが叫んだ。敵が距離を詰めてくる。 「バカ野郎! あんな奴ら連れて街に出るつもりかっ!」 「じゃあどうするのよ!」 「俺が残る。残って何とかする!」  シャロンの顔が固まった。鳩が豆鉄砲をくらったような、という形容はこういう時にこそ使うのだろう。 「何とかって……無理に決まってるじゃないっ!」 「無理でも何とかするっ!」  叫んでドアを閉めた俺は車を乗り越え、逆側に着地した。  そこから向かって来る二人を倒し、車体を二度ノックする。行け、の合図だ。  シャロンは一度俺の顔を見やると、前を向いて唇を噛んだ。  激しいスキール音。と同時に俺は地面を蹴って工場の裏手に転がり込む。  上手く逃げろよ。  遠ざかる車に向かって発砲する敵二人の額を撃ち抜き、空になった弾倉を捨て去る。  新しい弾倉をグリップの底から押し込んだ俺は唇を一つ舐めて再び動き出した。  守るものは自分だけ。何て気が楽なんだ。改めて思う。背後には誰もいない。  翼でも手に入れたような気分だ。まぁ、実際はそれほど余裕でもないんだけど。  さて、どこまでやれるか。これでも子供の頃から親父にしごかれてきたんだ。そう簡単に死にはしない。  再び工場内に入った俺は薬莢を撒き散らしながら梯子まで一気に走った。背後で三人倒れる音がする。  確認している暇などなかったし必要もない。殺さずにすむのなら殺さないのが我が社の流儀だ。  だが裏を返せば、殺さなければならないのなら確実に殺すということだ。  そして、俺たちはその為のスキルを身につけている。  工場内を駆け抜けたそのままの勢いで鉄製の梯子を駆け上り、キャットウォークへ。  走る俺を追いかけ、手すりに当たった弾丸が火花を散らす。まだいやがったか。  体をひねって見れば、下の窓からライフルの銃身だけが覗いている。腕を下げ、発砲。銃身は窓から姿消す。  鼻がバカになったのか硝煙の臭いを感じなくなっていた。鼻から一度大きく息を吸って走り出す。  キャットウォークの端まで来たところで俺は左手の窓ガラスを開け放った。夜風が顔を打つ。  鼻の汗が一気に引いたような気がした。  短く息を吐き雨どいをつかんで体を宙に躍らせる。そのまま体を振って屋根へ。乗った瞬間、跳ぶ。  体を横に倒しながらの射撃。銃弾が頬をかする。その代償として喉を打ち抜かれた敵は屋根から転げ落ちた。  斜めの屋根の上で何とか姿勢を立て直し、頬を拳で拭う。嗅ぎ慣れた血の匂いがした。  眼下から聞こえるざわめき声。さすがにここまでてこずるとは思っていなかったのだろう。  俺だって伊達に裏社会ナンバー1……の警備会社の日本支社の裏方をやっているわけではない。  うーん、何か虎の威を借る狐みたいだな。  そんなことを考えながら呼吸を整える。予備の弾倉はあと幾つだ? ベストを手で撫でて数を確認する。  四つ。敵の数は? 皆目見当もつかない。次から次に湧いてくる。  正直、俺は一人でこいつら全員の相手ができるとは思っていない。  ただシャロンが誰かを連れて戻ってくるまでは持たせるつもりだ。  と、待てよ。今日はどのマネージャーも別々の仕事で出払ってるんじゃなかったっけ。  頼もしい仲間達の顔を思い浮かべながら、あいつはあの仕事、あの人ははあの仕事、と指折り数えてみる。  うん、誰もいないや。  わはははは。  笑い事ではない。自分で笑っておいてなんだが。  まぁ、ウチには「マネージャー」意外にも頼もしい人材はいるし、そちらに期待しよう。  それにここがいくら街から離れてるとはいえ、手榴弾を三つも使ったんだ。そろそろ警察が乗り込んでくるだろう。さすがに奴らも警察まで敵に回すつもりはないと思いたい。  しかし間が空きすぎてないか。そろそろ次のアクションがあってもいいんだが。  もちろん敵の気配がなくなったわけではない。だが屋根に上がってくる気配もなかった。  いや、ある。一つだけ。  その瞬間、深黒の影が宙を舞い、重い着地音とともに屋根に降り立った。反射的に間合いを取り銃を構える。  だがトリガーは引けなかった。  気圧された。それが理由だ。  生唾を飲み込み、目の前に現れた男を凝視する。黒のブーツに黒いズボン。そして黒のボディアーマー。  ここまでは俺と同じだ。だがその上に羽織った黒のロングコート、これが違う。  俺ならこんな場所にそんなものを着てきたりはしない。理由は只一つ。動きにくいからだ。  しかしそんな理由で「素人」の烙印を押せないほど男がまとった空気は張り詰めていた。  逆に先程まで撃ち合っていた奴らがとんでもない素人にさえ思えてくる。  一つにまとめられた男の長い髪が夜風に揺れた。黒髪黒眼。アジア系らしいが国までは分からない。  身長は俺よりやや高いほど、体はかなり鍛え上げられているらしく体重は俺プラス十キロといったところか。  銃を構えたまま、落としていた腰をゆっくりと上げる。  しかしこれだけ不利な状況下にあって眉一つ動かさないとは、よほどの大物かただのバカなのか。  そもそもなぜこの男は銃も構えずに俺の前に現れたのだろうか。  分からない。分からないが、その意味不明さが俺にトリガーを引かせない。 「お前がボスなのか?」  男は答えなかった。答えたくないのか、それとも日本語が分からないのか。  額の汗が頬に流れる。嫌な沈黙だった。 「言っておく。たとえ丸腰でも敵ならば俺は撃つ」  やはり男は何も言わない。しかし我ながら矛盾したセリフだ。丸腰でも撃つ。撃てていないじゃないか。  男がふと笑みをこぼす。張られた緊張の糸に現れた一瞬の谷。  男が視界から消えた。全身が冷や汗で濡れる。  反応できない。ひどくのろい、と感じられる動作でトリガーを引く。  同時にとてつもない衝撃がみぞおちから全身に走った。単純に息が出来ない。体が傾き、視界が黒く染まる。  その衝撃が銃器によるものではなく、たった一つの拳によって生み出されたのだと知覚できたのは屋根から転げ落ち、硬い地面に叩き付けられた後だった。  胃の中身が逆流する。体に痛みはない。だが全く動かなかった。  意識が薄れる。ダメだ。ここで気を失ったら死ぬ。失神したら死  10  口内に酸味を感じる。気持ち悪い。そういや俺、吐いたんだっけ。  舌を動かして眉をしかめる。遠い。何が遠いのかよく分からないがとにかく遠い。  自分の意識をすりガラス越しに見ているような妙な感覚。わずかな痛みが闇に響く。痛み。もう一度。  あぁ頭痛か、と俺は納得した。頭痛か。それならいい。痛いということは生きているということだ。  笑う。顔の筋肉は確かに動いた。  死んでない?  自問した瞬間、俺の意識の前にあったすりガラスが取っ払われた。意識が覚醒する。  とにかく全身、いたる所が痛かった。しかし幸いな事に骨折級の痛みは感じられない。  一度深呼吸した俺は重たいまぶたを開いて辺りを見回した。  自分が気絶してどれほどの時間が経ったのかは分からないが、とりあえずまだ薄暗い。  目が慣れないせいかほとんど何も見えなかったが、自分のすぐ傍に木製のテーブルがあるのだけは分かった。  で、テーブルに付き物の椅子はというと今は俺の尻の下にある。  身じろぎすると冷たい鎖の音がした。  ったくご丁寧にこんなもので縛りやがって。  袖口に仕込んだ刃物も使えそうにない。俺は血の味がする唇を舐め、まっすぐ目の前の闇を見つめた。  どこなんだろうか、ここは。情報が欲しい。  視覚、まだ目が慣れない。嗅覚、埃っぽい臭いがするがそれだけだ。触覚、縛られていては物に触ることはできない。味覚、口内は胃液、唇は血の味がする。最後に聴覚、と微かに聞こえるある音に気が付く。  それは波の音だった。まさか船、と思い一瞬あせったが地面は全く揺れていない。  それだけでここが陸上であると断言できるわけではないが、八割方陸上であると考えて大丈夫だろう。  ということは、ここは海の近くにある何かの建物、と考えられる。  さて、どうしたものか。  なぜ奴らが俺を殺さなかったのかは分からないが、運良く生きている以上脱出の手段を考えねばならない。  その時、鉄の扉が産む甲高いきしみ音と共に数人の人間が中に入ってきた。  蛍光灯が灯る。突然の光に目が痛み涙が滲んだ。瞬きで視界をクリアにして入ってきた人間を見やる。  男が四人。三人が黒の戦闘服、残りの一人は俺のみぞおちに拳を叩き込んだ黒コートの男だった。  ついでに周囲の様子もざっと確認しておく。広さはそれ程でもない。  積み上げられた木箱、剥き出しの鉄骨。テーブルの上には酒瓶が二本転がっていた。おそらく倉庫だろう。  海、倉庫。頭の中に地図を描く。候補は三つか。  歩み寄ってきた四人の男たちが目の前に立ち並ぶ。見上げる俺に見下ろす男たち。 「多くの仲間が死んだ」  たどたどしい日本語、と共に拳がとんで来る。  視界がぶれ、濃い血の味が口に広がった。頭を振って意識を繋ぎとめる。  間を置かず別の男が放った蹴りが腹にめり込んだ。反射的に口に溜まった血を吐き出してしまう。  咳が止まらない。  ちょっとばかしきついかな、これは。  よだれ混じり胃液混じりの血を口から垂れ流しつつ、俺は黒コートの顔を見上げた。  黒コートは無表情に俺を見下ろしている。また別の男がテーブルの上の酒瓶を手に取った。  黒コートとは対照的に、男の顔からははっきりと怒りの感情を見て取れる。  撮影用の飴細工、じゃないよなやっぱり。  酒瓶を見ながら苦笑いを浮べる。  だが酒瓶を振り上げた男を黒コートが腕を伸ばして制した。  男に向かって黒コートが何事か言う。中国語のようだが内容までは分からない。  男が渋々酒瓶を降ろしたのを見ると、諭すような言葉だったのだろう。  まぁ「瓶なんかよりいいものがある」とか言って黒コートがブラックジャックを持ち出さないとも限らないのだが。 「なぜ殺さなかったんだ」  先程日本語を喋った男に向かって訊いてみる。単純に不思議だったし、脱出の算段をする時間が欲しかった。  男は黒コートに向かって何か言い、また黒コートが男に向かって何か言う。  こんなまどろっこしい会話が今はありがたかった。 「情報が入ったからだ」  情報? と訊き返す代わりに顔をしかめてみせる。 「ただの社員なら見せしめに達磨にするところだが、お前、あの男の息子らしいな」  男の口から出た言葉に俺は口を半開きにして固まってしまった。  あの男、が誰を指しているのかは会話の流れからバカでも分かる。現在目下行方不明中の我が親父だ。  しかしこんな所で親父の関係者に出会うとは人の縁とは不思議なものだ。ていうか呪いだな、これは。 「あの男はどこにいる」  男が俺の髪をつかみ、無理やり顔を引っ張り上げた。 「悪いが教えてやれない。俺が探してるくらいだ」  薄く笑って答える。一秒後には先程と逆の頬を殴られていた。  はずみで椅子ごと冷たいコンクリートの上に倒れてしまう。  俺は口内の血を唾と一緒に吐き出し、男たちを見上げた。口がちくちくする。  舌で傷を探ってみたが多すぎて嫌になった。 「もう一度だけ問う。あの男はどこだ」 「分からない」  それからしばらくの間、俺は黒コートを除く三人に蹴られ続けた。  思い出したように親父の行方を訊かれ、また蹴られる。  気が付けば腫れ上がったまぶたのせいで左半分の視界が潰れ、鼻血を垂れ流していた。  生暖かい血が鼻から喉に抜け咳き込む。  鼻がつまってしまったため口を半開きにして空気を肺に送り込みつつ、俺は眼球だけを上に向けた。  頭を上げることさえしたくない。それでもこの男たちに訊いておかねばならないことがあった。 「なぜ、親父を狙うんだ」  答えは返ってこない。あきらめて本命の質問に移ろうとした時だ。  薄く笑って顎をしゃくった黒コートに呼応して通訳の男が口を開いた。 「あの男は俺たちの組織を潰した」  なるほど。復讐のために親父を探しているのか。  それにしても、あれだけの人数がいて残党だとはかなり大きな組織だったらしい。 「俺たちは上海を追われた。全てあの男のせいだ」  まぁ親父なら中国黒社会の幇を一つ潰すくらい朝飯前だろう。あれはそういう生き物だ。  そういえば二ヶ月ほど前社長が、中国で組織が一つ潰れた、みたいな事を言っていた。  直接関わりがないので聞き流したのだが、こいつらのことだったのか。 「お前らが俺の親父に会ったのは二ヶ月くらい前か」 「それがどうした」  もし人違いでなければ親父は二ヶ月前までは生きていたことになる。少しだけ安心した。  もちろん今日この時点で生きているという保証はないのだが、二ヶ月前に組織を一つ潰したくらいだ、今でも生きているだろう。  それに親父が生きているなら母親も無事なはず。意地でも守り通しているだろう。  ろくでもない親父だがその点においてのみ、俺は少しだけ尊敬していた。  まっ、母親自身親父の嫁になるくらいだから普通のオバサンじゃないんだけど。 「夜明け前にお前を殺す。それまでよく考えろ」  そう言うと、男は俺に唾を吐き掛けた。残りの二人がこちらを指さして笑う。  黒コートは口元さえ動かさなかった。つまらなそうに俺を見下ろし、一番最初に踵を返した。  それに三人の男が続く。ご丁寧に灯りを消してくれたため再び辺りは真っ暗になってしまった。  地面の固さを頬で感じながら大きく息を吐く。  とりあえず親父の安否は分かった。次は俺が生き延びる番だ。  先程、男たちが出て行くときに見えたのだが、外には一人見張りがいた。あまり大きな音は立てられない。  それをふまえた上でまずすべきは体の自由を確保することだ。  体をよじってみる。鎖は腕と椅子にがっちりとからみつき、はずれそうになかった。  見えない位置に南京錠でもついているのだろう。  だが幸運なのは椅子が木製であること、そしてボディーアーマーは脱がされたもののブーツがそのままだったことだ。これなら何とかいけるだろう。  俺はブーツの右の踵を床を使って外し、椅子ごと体を回転させて中に仕込んであった小さなノコギリを手に取った。  指先だけを使い、少しづつ椅子を切っていく。  指がつりそうだ。だが夜明け前まで何時間か分からない以上休んでいる暇はない。  どれだけ指の曲げ伸ばしを繰り返しただろうか、軽い手ごたえがあってノコギリがすっと抜けた。  片方が切れればもう片方は……体をひねって折る。思いのほか大きな音がしたが外から何の反応もない。  気付かれずにすんだか。立ち上がり、鎖の輪と背もたれを静かに床に下ろす。  一度大きく腕を伸ばし、肩を回した俺ははずした踵を元に戻して扉の脇に張り付いた。  胸に手を置いて息を吐く。 「屋根よりたーかーいこいのぼおりー」  歌いながら扉をノックする。 「大きい真鯉はーおとおさーん」  鍵を外す音。わずかに扉が開きサブマシンガンの銃口が顔を覗かせる。  俺はサブマシンガンをつかむと見張りごと中に引きずり倒した。  声を上げようとする見張りの口をふさぎ、ギロチンチョークで絞め落す。  二三度体を震わせて見張りの男は動かなくなった。ボディアマーとサブマシンガンを頂いておく。  それにしても俺のP226はどこにいったんだろうか。  愛着もあるんでできれば取り返したいが、今回はちょっと無理かもしれない。  俺は監禁されていた部屋を抜け出し、扉に鍵をかけた。正面には扉が一枚、左右に廊下が伸びている。  運命の分かれ道、ってやつだ。俺は逡巡した後右を選んだ。理由はない。純粋な勘だ。  裸電球が一定の間隔でぶら下がっている廊下をしばらく行くと、今度は右に折れ曲がっていた。  角で立ち止まり、先の様子を伺う。正面には扉。人の気配はない。  俺は一度背後を振り返り、扉に向かって走った。足が鉄のように重い。  途中、何度も膝が抜けたが何とか扉までは辿り着けた。壁に寄りかかって深呼吸する。  普段ならこんな間はとらないのだが、さすがに体力が落ちていた。  怪我のせいか体中が熱い。半分しかない視界がさらに霞む。  車で言えば完全に給油ランプが点灯した状態だ。  一、二、三っと同時に扉を開け放つ。中には男が一人いた。  ヘッドホンをかけ、机上の通信機に向かっている。  男がこちらに気付いた時、俺の指はすでにトリガーを引いていた。  破裂音と共に通信機が砕け飛び、男の体が椅子から転がり落ちる。  ぼやけた視界と反動のせいで狙いが定まらず、殺すことはできなかった。  だが今はこの男の頭に弾を撃ち込んでとどめを刺している暇などないし、第一弾丸の無駄だ。  腹を抑えて横たわる男に銃口を向けたまま部屋を横切り、次の扉を抜ける。  波の音、潮の香り、冷たい空気、その全てが半分眠っていた俺の五感を叩き起こした。  どうやら最短のルートで迷路からの脱出に成功したらしい。俺の目の前には港と水平線が広がっていた。  だがこれで終わりじゃない。  港と水平線のさらに前に一人の男が立っていた。  男はくわえていた煙草を吐き捨てると、ブーツで踏み消した。潮風に闇よりも濃い色をしたコートが揺れる。  やっぱりそう簡単にはいかないか。うまいことバランス取るよな、神様って。  扉に背を預けた俺はサブマシンガンを両手でしっかりと構えた。  男が懐から銃を抜き、空に向かって顎をしゃくって見せる。視線を上に持っていくと空が白んでいた。  夜明け前にお前を殺す。そういやそんなこと言われたっけ。 「Yes or No?」  こちらに向けられたシンプルな疑問文。だが意味はよく分かる。生か死か。  背後の扉を通してざわめきが聞こえてくる。もって数十秒だろう。  俺は大きく息を吸い込み、言い切った。 「No……でもな、俺は死なない。帰ってケーキ作らなきゃならないからな」  鉄の扉が激しく叩かれる。優奈と優希の顔を思い浮かべながら、俺は人差し指に力を込めた。  必ず、生きて帰る!  四発の発砲音。  一発が背後の扉に当たり、目のすぐ横で火花を散らす。  と同時に黒コートの身体が傾いた。  え。  俺は心中で間抜けな声を発していた。俺は「まだ」撃ってない。  誰が、と問いを発した瞬間黒コートの足元で無数のコンクリート片が舞った。  乱れ飛ぶ弾丸。視線が交錯する。  黒コートはやはり無表情だった。無表情のままゆっくりと後ずさり、海に落ちていく。  俺が口を半開きにしたのと叩水音が聞こえたのはほぼ同時だった。  それを合図にでもするように完全武装した十数人の男たちがこちらに向かって来る。  男の内の一人が俺の肩を押し、扉から引き離した。  ワンテンポ遅れて中に投げ込まれたスタングレネードが爆発する。  そのまま流れるような動きで突入が開始された。  乱れなど一切ない。愚直なまでの訓練によって生み出された究極の団体行動。 「一応、生きてるみたいね」  呆然とする俺にそんな声をかけてきたのはシャロンだった。  その手には愛用の二丁のグロック26が握られている。  シャロンはグロックを脇のホルスターに収めると軽く手を挙げてみせた。 「お前が撃ったのか」 「ええ、間に合ってよかった。これからは私を命の恩人として崇め奉るように」 「そっか」  言いながら、その場にへたり込んでしまう。膝が笑っていた。シャロンの顔を見上げ、力なく笑う。  助けられた。  その一言を強く噛み締める。生きているのは俺だ。だが撃ってない。黒コートの方が確実に早かった。  拳を握り締める力は残っていなかったが、それでも握らずにはいられなかった。 「よくここが分かったな」 「幸いにも廃工場で死体の処理をしてた人達がいて、教えてもらったの。なかなか喋らないから少し遅くなってしまったけど」  シャロンのセリフに俺は苦笑した。  どうやって教えてもらったのかはこの際訊かないことにしよう。 「そうそう、彼ら今日は非番だったんだから後でちゃんとお礼言っといてね」  彼ら、が突入していった扉を見ながらシャロンが笑う。彼ら、はウチの会社が独自に組織している特殊部隊だ。  マネージャーとは別物だが、時にこうして協力しあうこともある。  まぁ、今回は完全に助けてもらった形だけど。借りを一つ作ってしまった。  これでまたしばらくはつつかれるだろうな。  会社の廊下で会うたびに俺をからかう部隊長の顔を思い浮かべて小さく息を吐く。 「大変だったな」  また別の声が頭上でした。 「社長」  反射的に立ち上がろうとした俺を手で制し、社長が笑う。 「そのままでいい、シャロン」  社長に目配せされたシャロンが一つ肯いた。  シャロンは少し迷うような顔で俺を見つめた後、膝を折って目の高さを俺と同じにした。  潮の臭いに混じって香水の香りが漂ってくる。  久しぶりに血とか鉄とか硝煙とか、その類のもの以外の香りを嗅いだような気がした。 「まず、あの男性のことだけどとりあえず命に別状はなし」 「そうか」  安心した。それに、あれだけ苦労して死なれたんじゃ報われないしな。 「その男性からの情報なんだけど、彼に廃工場へ行くよう命令したのは彼の上司で小和生命の人間よ」  シャロンのセリフに俺は眉をハの字にした。俺の表情を見て取ったシャロンが微笑する。 「そ、はるか先生の生命保険を請け負ってる会社」 「でも何で保険会社の社員が俺たちを襲うんだ?」  俺が問うとシャロンはわずかに視線を下げ、口元を歪めた。 「あの男性ね、娘さんが病気で命令に従うなら治療費を負担してやるって言われたって。それに、断ればクビとも。選択権なんてなかったのね」  何か絵に描いたように不幸な話だ。 「それで、多分こっちがあなたが望んでいた答えだと思うんだけど、なぜその上司が私たちを襲わせたかについて。私は廃工場にいた人たちを尋問するのに忙しかったから情報部に当たって貰ったんだけど、そのバカ上司ちょっと締め上げたら全部喋ったそうよ」  で? とシャロンの話を促す。 「結論から言うとフレンド、小和生命、そしてあいつら」  とここでシャロンは親指を立てると背後のドアを指差した。 「みんな繋がってた」  大手金融会社、保険会社、上海の裏組織の残党、なぜこいつらが。っと、考えるより聞いたほうが早いか。 「まずはフレンドと小和生命のつながりね。まぁ正確に言えば繋がってるのは双方とも会社内部の一個人なんだけど。フレンド社長の後藤雄一、小和生命保険業務部部長の平田孝義、この二人。で、二人が何をやっていたかというと、保険金を懐にぽいっ。お小遣い稼ぎね」  口内に溜まってきた血を吐き捨て、シャロンの言葉に耳を傾ける。 「順を追って説明すると、はるか先生みたいな多重債務者に目を付けた後藤が平田に連絡、平田がはるか先生に電話でセールストーク。もちろん生命保険で借金を返しませんか? なんてことは絶対に言わない。ていうか保険会社は契約者に死なれたら損するんだから『生命保険で借金を』なんて言う会社は在り得ないし。平田の言う事には命と引き換えに大金が手に入ることを婉曲的に強調するそうよ」  そういや先生、偶然保険会社から電話がかかってきて生命保険での債務返済を思いついたって言ってたよな。  シャロンの話によればそれは偶然じゃなかったということか。 「そこで債務者がどうしてものってこなければそれまでなんだけど、はるか先生は見事に釣られちゃったのね。で、保険会社を訪れたはるか先生の担当に平田が就くわけなんだけど、ここではまだ保険の契約はしない。というか出来ない」 「受け取り人がいない、か」 「そういうこと。はるか先生には親も子も兄弟もいないしね。頼れるような親戚もいなかったんでしょう。まぁ、はるか先生のことだから迷惑がかかると思って頼れなかったのかもしれないし。そこでしどろもどろする先生に平田が言うわけ、何かわけ有りのようですがよろしかったら知り合いの弁護士を紹介しましょうか? ってね。しらじらしい」  シャロンがわざとらしく肩をすくめた。 「そこで平田の息のかかった弁護士に、これはちょっと調停も自己破産も無理ですねぇっていかにもな顔して言われるわけだ。普通の人ならまず信じるよな。弁護士って肩書きにはそれくらいの重さはある。そこで先生は生命保険で債務を返済する話を切り出すわけか」 「ええ、そしてもうワンステップ。今度は弁護士から『その手の問題に詳しい男』を紹介されるの。紹介というよりは情報を入手すると言った方が正確ね。世の中にはそのような問題を扱う業者もいるようですが、とか言って先生の気を引く。頼る人がいない先生は当然この情報に食いつく。でも弁護士は教えない。自分が保険会社側の人間であるということをアピールしておかないとね。怪しまれちゃうから。で、確たる情報は得られないまま弁護士事務所を後にする先生。すると何と目の前の電柱には『保険に関する相談承ります』というちょっと怪しい張り紙が」  俺は吹き出してしまった。よくやるよ、まったく。 「ここで先生が電話番号をメモすればしめたものよ。まっ、メモしなくてもその広告を先生の家に投げ込めばいいんだけどね。結局最後はその業者が受け取り人になって保険の契約は成立。あとは後藤の子飼いの殺し屋が先生を事故に見せかけて殺せば保険が下りて、それぞれに配当されるって仕組み。ただ」  そこで一度言葉を切ったシャロンは喉を鳴らした。 「今回に限って予想外の事態が起きてしまった」 「先生がウチに来たことか」 「ええ、業者に事故っぽく死んでくれとか言われて先生が悩んでる間に事故っぽく殺しちゃえば問題なかったんだろうけど、ウチが絡んだことで後藤の子飼いの殺し屋が仕事を拒否したらしいの」 「一部で米軍よりタチが悪いとか言われてるおかげだな」  俺のセリフにシャロンが破顔した。 「そこで、さぁどうしようって焦ってた所に現れたのがあいつらよ」  俺はシャロンの肩越しに倉庫に続く扉を見つめた。  わずかに開いた扉の奥からは細かい破裂音が断続的に聞こえている。  そこから右を見れば数人の隊員が海面にライトを当てて黒コートの死体を捜していた。 「なぜあいつらが後藤に近付いたのかは分からないけど、とにかく後藤は先生の殺害を依頼。あとは説明しなくても大丈夫よね」 「ああ」  と俺は軽く肯いた。 「にしてもさ、よりによってチャイニーズマフィアに殺しを依頼するなんて後藤もよっぽど切羽詰ってたのね。奴らに、事故っぽく殺す、なんて大人しいことができるわけないのに」  かなりの偏見を含んだ物言いだが、先生のアパートの前で銃撃された事を思い出し俺もシャロンと同じように笑う。  でも馬鹿笑いはできなかった。体中に響いて痛いのだ。  俺は思うところが有って笑いを収め、切れた唇に気を付けながら口を開いた。 「奴ら、始めから大人しく殺す気なんてなかったのかもな」  こちらに向けられたシャロンの目が少しだけ大きくなる。 「さっき、なぜあいつらが後藤に近付いたのか分からないって言ったよな。それな、答えは多分俺たちが絡んでたからだ」  首をひねって社長の顔を見上げる。 「社長、二ヶ月くらい前に中国で裏組織が一つ潰れたって言いましたよね。あれ、やったのウチのバカ親父です」  今度は眼鏡の奥で社長の目が大きくなる番だった。 「あいつの事だ、死ぬわけがないと思っていたがまさかそこまで相変わらずだとは」  苦笑する社長。だがその表情からは安堵と喜びの色が感じられた。  俺にとってはただのバカでも社長にとっては子供の頃からの友人だからな、ウチの親父は。 「お父さんの事は何か分かったの?」 「いや、何も。こっちが訊かれたくらいだからな。正直に知らないって答えたらこの様だよ」  俺は自分の顔を指差して息をついた。 「分かったのは奴らがいかに親父を憎んでるか、って事だけ」 「それであいつらはウチと絡んでる後藤に近付いたのね」 「親父は今でも一応ウチの社員だからな。それに日本で活動するためのスポンサーも手に入るわけだ。この件を片付けた後も後藤を脅せばかなりの金が引き出せるだろうし。だから奴らにとって先生の殺害とその報酬は実はどうでもいい事で、後藤というサイフをしっかり握ったうえで俺たちにケンカを売るのが本当の目的だったんじゃないかな」 「確かにマフィアの残党にしては装備がきっちり揃ってたしね。結局、後藤も利用されてたってことかぁ」 「だな」  その時倉庫に至る扉が大きく開かれ、内部の制圧に向かっていた部隊が戻ってきた。  一つ気合を入れて立ち上がり、彼らを出迎える。シャロンが砕けそうになった半身を支えてくれた。  手を拘束され銃を突きつけられた男たち。暴れようとする物はいない。だがうつむいてもいなかった。  素早く視線を左右に飛ばしている。やはりボスがいない事が気になるのだろう。  俺は海面を捜索している隊員達を再び見やった。死体はまだ見つかっていないみたいだ。  一人の男と目が合う。間違いない、俺に唾を吐きかけた通訳の男だ。  男の表情が歪んだかと思うと辺りに喉の奥から搾り出すような叫び声が響いた。 「お前があの男の息子である限り、お前は狙われ続ける! 永久にだっ!」  それはほとんど呪詛だった。血の滲んだような声色にたじろいでしまう。  隊員に銃のグリップで殴られ引っ張られながらも男はずっと俺の方を睨んでいた。  あの男の息子である限り永久に、か。  心中で繰り返す。親父の奴、一体何をやってるんだ。  一抹の不安を覚えると共にだんだん腹が立ってきた。  大体何で俺が親父のせいで命を狙われなきゃならないんだ。勘当してやろうか、本気で。  そんなことを考えていると「ほら」という声がして何かが飛んできた。  反射的に受け取ると冷たくも懐かしい感触が蘇ってくる。手の中にあったのは間違いなく俺のP226だった。  嬉しさに顔を上げるとスキンヘッドの隊長がいかつい顔を緩めて笑っている。 「たまにゃあ浮気もいいが、本当のお気に入りは大切にしねぇとな。女も銃も」 「ぶー」  親指を下に向けて唇を尖らせるシャロン。 「こいつは失言だった。今度酒でも奢ってくれや」 「ええ、浴びるほど」 「忘れんなよ」  いかつい顔の割にさわやかな笑顔を残して隊長は去っていった。  彼が隊員たちから絶大な信頼と尊敬を得ている理由が分かるような気がする。  俺は口元を緩めて空を見上げた。輝いていた星が消え朝焼けと共に夜が明ける。  水平線の彼方から昇る太陽に目が細くなった。  海面には針のような光の欠片が無数に飛び散り、その一つ一つが闇に慣れていた俺の眼球を突き刺す。  確かに目は痛かった。でも不快じゃない。反射的に流れる涙が視界の汚れを洗い流しているような気がした。  日の光を真正面から体全体に浴びて大きく伸びをする。  このままここにいればどんな怪我も病気も治ってしまうんじゃないかと思えるほど気持ちいい。  俺は大きく大きく息を吸い込むと、長くゆっくりと吐き出した。 「ご苦労だったな。二人とも帰ってゆっくりと休んでくれ」 「いえ、まだ全部終ってませんから」  シャロンと顔を見合わせた後で俺は言った。 「あとは事後処理だけだ。それは私の方でやっておく」  俺は首を横に振った。 「自分が受け持った仕事ですから最後まで」  社長は言うべき言葉を捜していたようでしばらく口を開いたり閉じたりしていたが、結局大きな溜息をついて「分かった」と一言だけ漏らした。 「無理はするなよ」  社長の視線が一度づつ俺とシャロンの視線と交差する。  社長は最後にもう一度肯くと、残っていた隊員たちの方に歩いて行った。 「もう一仕事だな」  つぶやく俺の隣で、シャロンがぱちんと両手で自分の頬を叩いた。  11  少し眠ったようだ。  目を開けると、目を閉じる前と同じビルの群れがそこにあった。変わったのは空を流れる雲の形くらいか。  眼下からは忙しく行き来する車の排気音が途切れることなく聞こえてくる。  といっても別に巨人になったわけではない。  俺はとあるビルの屋上にいた。屋上へ出るための扉に背を預けて座り込んでいる。  このまま雲を見ながら眠れたら幸せなんだが、そういうわけにもいかない。  右腕に嵌めた時計を見ればそろそろ時間だ。  俺はのろのろと立ち上がると目の前に置いてある細長いケースからスナイパーライフルを取り出した。  大きな欠伸をしながら屋上の縁まで歩く。  腹ばいになり、ライフルを構える。  大通りを挟み、六つのビルの間を抜け、さらに通りをもう一本。距離にして約800ヤード。  そこがフレンドの社長室、つまり後藤雄一が存在する部屋だ。スコープに目を当て、トリガーに指をかける。  スコープの中の後藤は昼間から飲んでいた。  値の張りそうな机の上にはそれ以上に値の張りそうなワインが置かれている。  のんきなもんだ。  一度目を閉じた俺は全神経を指先に集中させた。まず音が消え、続いてスコープ外の世界が消える。  音のない暗闇の中、一本の線で繋がる自分とライフル、そして社長室。  俺は躊躇わずにトリガーを引いた。  スコープの中、ワインボトルが砕け散る。  その瞬間、消えていた音と光が引いた波が押し寄せるように一気に戻ってきた。  長く息を吐き出し、ポケットの携帯電話を手に取る。  目的の番号をプッシュすると二回の呼び出し音の後で相手が出た。 「誰だっ」  後藤は酷く興奮し、うろたえている。初めて聞いたが酷いダミ声だ。俺にとっては煙草の煙並に不快だった。 「皆川はるかから手を引け。二度目はない」  一方的にそれだけ告げて俺は電話を切った。後藤がよほどのバカでもない限りこれで分かるだろう。  携帯電話をポケットに戻し、スナイパーライフルをケースに収める。  最後にもう一仕事、か。  ケースの蓋をぱたん、と閉じたところで立ち上がった俺は一拍おいてから振り返った。  同時に鉄の扉が甲高い音と共に開く。青空の下、薄汚れた黒いコートが揺れた。 「来るような気がしてた」  よろめき、扉脇の壁を背もたれにして立つ男に向かって俺は笑いかけた。  反応らしい反応は何も返ってこない。恐らくその気力も体力ももう残っていないのだろう。  初めて廃工場で出会ったときに感じた気迫はどこにもなかった。  コートの裾からは水滴が零れ落ち、コンクリートの上に赤黒い染みを広げている。  こちらを見つめる瞳に光はほとんどなかった。口を大きく開け、呼吸をする度に肩が大きく揺れる。  一つにまとめられていた長い髪は濡れ、解けて広がっていた。  幾発もの銃弾に体を撃ち抜かれ、支えがなければ立っていられない半死半生、いや九死一生の男。  動くはずのない体を気力で動かし、血を吐きながら男はここに辿り着いた。  何のために?  男の腕が持ち上がる。手には一丁の銃。  俺を殺すためにだ。  傷だらけの唇を舐め、俺はP226を構えた。男の手ははっきりと震えている。  もう俺の姿さえまともに見えてはいないだろう。膝が折れ、男の体が沈む。  それでも銃を構えた腕を下げようとしない。定まらない銃口で俺を狙おうとする。  俺は銃のグリップを握る手に力を込め、男の心臓に狙いを定めた。  どこからからクラクションが聞こえる。  二つの銃声が、重なった。  その銃声を押し流すような強い風。吐き出された薬莢がからからと転がる。  背後の壁に赤い帯を描き、男の体がゆっくりと崩れ落ちた。  銃を収めて二つの薬莢を拾い上げる。  男の撃った弾は俺の足元のコンクリートをわずかに削っただけで、どこかに消えてしまった。  手のひらの上、まだ少し熱い薬莢を見つめてからポケットに落とす。  ライフルケースを片手に俺はドアノブをひねった。  俺が男にかける言葉などどんなに探しても見つかりはしない。いつもの事だ、こんなのは。  その時、男の手に何か紙のようなものが握られているのに気が付いた。  といっても今にも風で飛ばされ、男の手から離れようとしている。  俺が手を伸ばした瞬間宙に舞い上がったが、何とか捕まえることができた。  それは一枚の写真だった。握られていたため幾つもの皺がはいっているが、何が写っているのかは分かる。  どこかの大きなパーティー会場。一人の中年男性を中心に黒いスーツをまとった男たちが並んでいる。  その中にはあの通訳の男もいた。  会合か何かの時に取られたのだろうが張り詰めた雰囲気はまるでなく、中年男性を中心に皆が笑顔だった。  そして、中年男性の隣でこの写真の持ち主も笑っていた。  他の男たちのように口を大きく開けて笑っているわけではない。  だが、写真の中では彼が一番幸せそうに見えた。  俺は写真の皺を手で伸ばし、コートの胸ポケット深く差し込んだ。これで風に飛ばされることはないだろう。  かける言葉なんて見つかりはしない。いつもの事だ、こんなのは。  俺は扉を押し、屋上を後にした。  エピローグ 「ただいまー、おかえりー」  正午過ぎの正門前、優奈と優希の声が見事にハモる。  ちなみに幼稚園からただいまー、会社からおかえりー、だ。 「おかえりー、ただいまー」  笑顔で答えて膝を折り、俺は優奈と優希の頭に手を置いた。  こうして二人の顔を見ていると心の底から安堵する。また生きて帰って来れたんだ、と思う。  気が付くと俺は優奈と優希を抱きしめていた。温かくて柔らかくていい匂いがする。干したての布団みたいだ。 「お兄ちゃん」  そんな何でもない呼びかけに、全身から緊張感が抜けていく。 「どうしたの? コレ」  と言って優奈がいきなり俺の腫れ上がったまぶたをつついた。 「わぁっ! コラ、触るんじゃない」  俺の慌て様が面白かったのか悪びれた様子もなく優奈はからからと笑った。  これが子供の無邪気な残虐性ってやつか。やれやれ。感動の再会だってのに。 「ほんと、何かしらー」 「お前までやるなっ! ていうかあからさまに眼球狙いじゃねーかっ!」  隣にいるスーツ姿のシャロンに怒鳴る。ちなみに俺も今は背広にネクタイだ。 「何よ。小粋なアイリッシュジョークじゃない」 「お前の国じゃパーティーの前に他人の眼球つついて笑うのか?」 「ごく稀に」  ごく稀に、シャロン・オブライエンという女性が分からなくなる時があるが、決して俺のせいじゃないと思う。 「それよりも」  言葉を切って咳払い。 「二人ともいい子にしてたか? 先生困らせたりしてないよな」 「優奈が男の子泣かしてムグ」  今度は優奈が慌てる番だった。内部告発しようとした優希の口を手でふさいであははと笑う。  元気がいいのは結構だがかなりのじゃじゃ馬になりそうだな、優奈は。  口を押さえられてもぼーっと立っている優希は気のいいロバみたいだった。 「お兄さん、シャロンさん」  この声も随分久しぶりに聞いたような気がする。俺とシャロンは立ち上がり、声の方へと向き直った。  春風に揺れる黒髪は相変わらず見るものを魅了する。何よりも桜がよく似合いそうな、そんな髪だ。  ごく個人的な意見だけど。  先生は泣いていた。  俺とシャロンは顔を見合わせて微笑を交し合う。 「先生からの依頼、完了しました」 「依頼料はスイス銀行の秘密口座へ」 「ないない。あー、後で振込み先教えますから無理のない程度に払ってください。でも」  そこで切った俺のセリフをシャロンが引き継ぐ。 「途中で逃げたりしたら……分かるでしょ」  シャロンがニヤリと笑った。 「はい」  返事をして先生も涙に濡れた目を細める。どうやらこれで一件落着といったところかな。  昨日の朝からほんっとに長かった。あとは楽しい楽しい誕生日のパーティーを残すだけだ。  あっ、そうか。 「今日の夜二人のパーティやるんだけどどう?」  でシャロンを見て、 「ですか?」  で先生を見る。どうせ勢いで三人じゃ食べきれないほどの料理を作るんだ。だったら来てもらった方がいい。  人は多い方が楽しいしな。それにちょっと思い出した事もあるし。 「じゃあ、せっかくだからお伺いしますね」  先生からは色よい返事がもらえた。その一方、シャロンはあまり乗り気じゃないようだ。 「今日はさすがに疲れたし、それに私がいると何かと邪魔だから」 「邪魔? 何で」 「あなたはもう少し色々と敏感になった方がいいかもね」  シャロンが浮べたいたずらっ子のような笑みに何の意味があるのか、結局俺には分からなかった。  何はともあれ、帰ってケーキを作らなきゃな。  テーブルの上に並ぶ料理の数々。我ながら見事な出来栄えだ。  その真ん中に鎮座しているケーキのデコレーション中に二度ほど寝そうになったのは俺だけの秘密として、料理に向けられる優奈と優希のきらきらとした瞳が実に気持ちいい。  どうだね。お兄ちゃんだってコレくらいの事はできるのだよ。  と、ありもしない髭を引っ張っているとチャイムが鳴った。どうやら最後のゲストが来たようだ。  優奈と優希が椅子から飛び降りて玄関へ走る。この時ばかりは優希の方が少しばかり反応が早かった。  ややあって小さな紳士にエスコートされた先生がダイニングに登場する。  うん。スカートもまたいい。 「おじゃまします。あ、これ、ミートパイを焼いたんですけどよかったらどうぞ」  先生が紙袋から取り出したパイは涎を誘発する匂いをこれでもかというくらいに放出していた。  そういやパイ系の料理は作ってなかったな。今度先生に習ってみようか。  ん、待てよ。と俺が抱いた疑問を察したのか、先生が少し恥ずかしそうに言った。 「オーブンはお隣さんに貸してもらったんです」 「あっ、あぁ、そうですか。その、電化製品もおいおい揃えなきゃいけませんね」  間の抜けたセリフだ。フォローになってないし。 「ねぇ、早く始めようよ」  俺が頭を掻いていると優奈に袖を引っ張られた。そうだな、お腹もすいたしそろそろ始めるか。 「はい質問。誕生日のパーティーで一番最初にすることは?」 「ろうそくー」  優奈と優希が一緒に答える。 「よくできました」  俺は用意しておいたロウソクをケーキに立て始めた。優奈の分が五本。そして優希の分も五本。  最後に少し大きいロウソクを二本と普通のやつを二本加える。 「少し多いよ」  優希が不思議そうな顔で俺を見上げた。 「いや、これでいいんだ。ちなみにこの少し大きなロウソクは一本で十歳だからな」  そう言って俺は先生の方を見やる。 「おめでとうございます、先生」 「うそ、せんせいも同じたんじょう日なの?」  興奮したのか優奈がぽん、と手を打った。 「本当はもう一週間と少し先なんだけど、一緒にお祝いしてもいいかなと思って」  ライター片手に優奈を見やる。 「迷惑でした?」 「そんな。嬉しいです、とっても」  少しうつむいて微笑む先生に俺はほっとした。 「でも、どうして私の誕生日をご存知なんですか?」 「会社の資料に書いてあったんです」  先生が「あぁ」と肯く。納得してもらえたようだ。  俺はライターに火をともし、ロウソクへと移していった。それからおもむろに灯りを消す。  十四の小さな光がぼんやりと闇を切り取り、いくつもの揺れる影を作り出した。  橙色の暖かい光に照らされた優奈、優希、先生、みんな笑顔だ。もちろん俺も。  優希、あんまり顔を近づけると髪の毛焼けるぞ。  さて、いつまでもこうして眺めていたいがそういうわけにもいかない。  お腹がすくし、何よりケーキがロウだらけになってしまう。  俺は小さく喉を鳴らして歌いだした。  ハッピバースデートゥーユー ハッピバースデートゥーユー  ハッピバースデーディア……ふと考える。  俺以外ー  ハッピバースデートゥーユー  歌が終ると同時に三人がロウソクの火を吹き消した。暗闇の中に四人分の拍手が響く。  再び電灯が灯るまでの短い闇の中、優奈と優希と俺と三人で暮らすようになってから今までの事がふと思い出された。  本当に色々な事があったし、これからもまた色々な事があるだろう。不安でもあるし楽しみでもある。  でも元気に育ってくれればそれでいい。二人が元気なら俺も元気でいられるから。  って、何だか親みたいだな。  笑いながら電灯のスイッチを入れる。さぁ、パーティーを始めようか。  結局、先生には食器洗いまで手伝ってもらってしまった。  ゲストにそんな事をさせるのは気が引けたが、さすがに今日は少しばかりきつかったので好意に甘えることにしたのだ。  申し訳ない。今度先生の家でお皿洗います。  ちなみに優奈へのプレゼントは大きなクマのぬいぐるみ、優希へのプレゼントは画材一式だった。  もちろんそれぞれが望んだ物だ。今ごろ二人は夢の中だろう。  時計を見上げれば午後十時。しかし本気でハードだった。  こうしてソファーで先生と並んでコーヒーを飲んでいても一瞬で意識が飛びそうになる。  俺はその度に頭を振って目を覚まさなければならなかった。というのも先生に渡す物があったからだ。  俺は二枚の書類を取り出し、先生に手渡した。それぞれ借金と生命保険の契約書だ。  今日の午後、会社の方に送ってきたらしいので取りに行って来た。  二枚の契約書をじっと見つめる先生。何を思っているんだろうか。 「どうします? ぱっと焼いちゃいますか」  ライターの火を点けたり消したりしながら俺は笑った。少し戸惑ったようだが、先生も「はい」と微笑む。  客用に置いてあるガラスの灰皿を引き寄せる。その中に二枚の契約書をそっと置く先生。点火。  小さな火が少しずつ契約書を黒い灰に変えていった。  やがて細く白い煙を残して二枚の契約書は完全に燃えてしまう。  俺と先生はしばらくその糸のような煙を黙って見つめた。見つめているうちに視界がだんだん狭くなっていく。  あ、やばい。 「お兄さん」  呼びかけられ、慌てて目を開く。 「あの、これ」  そう言って先生が差し出したのは一枚のハンカチと二つのお守りだった。見覚えのあるハンカチは俺のだ。  そういや返してもらってなかったっけ。ボロだし、別によかったのに。  そう思いながらも受け取ってしまう。ハンカチはきっちり洗濯されていた。 「お守りはお兄さんとシャロンさんに。気休めにもならないかもしれませんけど」 「ありがとうございます。きっと喜びますよ、あいつも」  先生に向かって頭を下げる。こういう心遣いは単純に嬉しいし、何より先生の優しさが心に沁みた。  先生は膝の上で組んだ指を一度見つめてから俺に視線を向ける。 「あの、今日は本当に嬉しかったです。今年の誕生日にはこの世にいないって思ってましたから」 「いや、大した事してないですし」  先生の笑顔に照れながら手にしていたコーヒーカップをテーブルに戻す。 「お兄さんは、今のお仕事続けられるんですよね」 「そうですね。両親が見つかるまでは」  いや。  震える腕で俺に銃を向けた男の姿が脳裏をよぎる。 「両親が見つかっても、もう戻れないかもしれません」  俺は人間を殺し過ぎた。これからもその数は増えていく。もちろん平気なわけじゃない。  でも、夜眠れないほどの罪悪感にさいなまれたのは五人までだった。だから、多分もう戻れない。  そんな俺の顔を見ながら先生は一度唇を引き結ぶと、やがて思い切ったように口を開いた。 「私はシャロンさんのように鉄砲を撃ったりはできないですけど、お料理とか、お洗濯とか、家のことならお手伝いできると思うんです。だから、本当に遠慮しないで言って下さい。私にできることだったら何でも……します……から……」  段々と先生の声が小さくなっていく。それとも俺の意識が遠のいているんだろうか。  何か柔らかくて温かい。  気が付けば俺は先生の肩に体を預けてしまっていた。慌てて背筋を伸ばし、目を開ける。 「すいません」  と言ってる傍から意思に反して俺の体は揺れ始めた。  その時、かすかな笑い声と共にすっと伸びてきた何かが俺の体を倒してしまう。  一度倒れてしまえばもう起き上がれない。  俺を倒したのが先生の腕であり、俺の頭の下にあるのが先生の膝だとしてもだ。 「あの」 「眠って下さい。私は構いませんから」  優しい先生の声。  仕事の事、この状態の事、親父の事、思う事は色々とある。  でもそれは目が覚めて、顔を洗ってから考えてもいいはずだ。とりあえず今は気持ちいいんだから。  頬に柔らかな温もりを感じながら、俺は深い深い眠りに落ちていった。