武器屋リードの営業日誌 第三話 ─竜を追う者─  1 「いらっしゃいませ。何をお探しですか」  言って微笑む。  昼下がりの商店街。俺の腕が伸ばされた先にあるのは、二十歳のときに親父から譲られた武器屋だ。  半年振りに来ていた友人を見送り、訳あって預かっている従妹のクレアと天下の公道で鬼ごっこをしていたら女性に声をかけられた。  どうやら武器屋を探しているらしい。だとすれば俺の出番だ。  武器屋のリード。  それがこの町での俺のポジションだった。  声をかけてきた女性はこの町の人間ではないようだ。そう思う理由はいくつかあるが一つ挙げるなら「噂になりそうなほど美人」というところか。  小さな町だ。それゆえこんな女性が町にいればとっくの昔に噂になっている。  長く伸ばされた黒髪に同じ色の瞳。  少し冷たく鋭い感じを受けるが、掛け値なしの美人だった。  今は薄汚れた旅装束に身を包んでいるが、本気で飾ったらどうなるんだろうかなんてことを思ってしまう。  思っていたらクレアに下から睨まれた。澄んだブルーの瞳で俺を射抜き「ふーん」ってな顔をするクレア。風に揺れる銀髪が今にも伸びてきて俺の首を締めそうだった。  厳しいね、まったく。  まぁ、女性の美しさ以外に武器屋として注目すべき点があるんだけど。  女性は布に包まれた長い棒状の物を背負っていた。  布に包まれていても穂先の形からそれが槍、パルチザンであることは容易に予想できる。  てことは探し物もやっぱり槍かな。 「君が店主なのか?」  女性の切れ長の目が少し大きくなった。 「意外ですか?」 「いや、随分と若いようだが」  もちろん、店主としてはという意味だろうが。 「先代がかなりのろくでなしで、店を放り出して逃げてしまったものですから」  苦笑する。と、女性も形のいい唇を緩めてくれた。  満面の笑み、ではないが背筋が痺れるような大人の笑顔だった。 「苦労しているようだな」 「そうですね」  答えてから気付く。こんな所で立ち話をする必要なんてなかった。 「店にどうぞ」 「あぁ、見せてもらう」  女性は外套をひるがえすと店に向かった。細身の長身に外套がよく似合っている。  俺も女性に続いて店に入った。 「楽しそうだね」  絵に描いたような不機嫌な声でクレアが言う。 「なに怒ってるんだよ」 「別に」  どう見たって「別に」って顔はしてない。尖った唇と眉間の皺の深さから推測するに十段階の八くらいは不機嫌らしい。  俺は顎に手をやり、ちょっと考えてからクレアを思いっきりくすぐった。  案の定身をよじってクレアがもだえる。火薬の代わりに小さな鈴を詰めて爆弾を作ったらこんな音がするのかもしれない。そんな笑い声が店内に爆ぜた。 「商売人だったら客の前では笑え」 「わ、わひゃ、かった。分かったからっ」  涙を流して笑うクレアに向かって、うむ、と肯き解放してやる。クレアは肩で息をしながら指で涙をすくい「もう、子供なんだから」と少し背伸びをした台詞を俺にプレゼントしてくれた。  何にせよ機嫌は直ったようだ。  本当に子供なのはどっちかな?  もちろんその一言は胸にしまっておく。新たな争いの火種をわざわざ蒔くこともない。  ふと、ものすごく不思議なものでも見るような視線をこちらに向けている女性に気付く。魚が二本の足で歩いて野菜を買いに来たってこんな顔はしないだろう。  ……いや、さすがにするか。 「何を、してるんだ?」  女性の問いに俺とクレアは互いに顔を見合わせ、その後で女性を見て同時に言った。 「教い育や的が指ら導せ」  一瞬の間。 「はぁ?」  俺とクレア、そして女性の声が見事に重なる。  互いの言葉に納得できなかったのが二人に、何を言っているのか聞こえなかったのが一人。  今度は三人で顔を見合わせ、その後でとりあえずみんなして笑っておいた。  物事を適当に流すには笑うのが一番だ。それで大抵のことは何とかなってしまう。 「それで、できれば槍を見せて欲しいんだが」  一番最初に笑いを納めた女性が遠慮がちに言う。別に遠慮する必要なんてないのに。お客様なんだから。  いい人なんだろう、きっと。  商売をやっていて「客という立場に立ったときの態度」ってのはその人の人間性を計るいい物差しになるんじゃないだろうかと俺は常々思っている。  何が言いたいのか。要するに「俺は客だ文句あるかばかやらう」なんて態度を商売人に対してとる奴は人としてロクでもない、とこういうことだ。  礼儀を忘れた人間ほど醜いものはない。  それはさておき。 「槍ですか。何かご希望は?」 「そうだな」  呟いて、女性は懐から小さな布袋を取り出した。それをカウンターの上で逆さまにする。  固い音を立ててカウンターに落ちたのは五枚の金貨だった。  踊るように回転し、倒れた最後の一枚を確認するように見つめた女性は小さく息を吐いた。  それから少し申し訳なさそうな苦笑を浮べて見せる。 「これで買えるものを」  金貨五枚か。  女性の苦笑も分からないでもなかった。槍ならば、それなりに使える物を買おうと思えば金貨で十枚はする。最低でも八枚は欲しかった。  さて、どうしたもんだろ。  安物でよければ金貨五枚でもあるんだけど。武器としてのデキは「それなり」だもんなぁ。  あとは中古か。  うーん。  頭の中に倉庫を思い浮かべ、槍の在庫を思い出す。 「やはり無理だろうか」  考え込んでいたら渋っているのだと思われたらしい。落胆する女性に向かって慌てて手を振る。 「あぁ、いや。心当たりを探ってたんです」 「そうか。何とか頼む」 「大丈夫だよ。武器に関してだけは頼りになるから」 「だけ、って……」  クレアの台詞に唇を歪めてうめく。  人を一点豪華バカみたいに言いやがって。  と、クレアが顎に人差し指を当てて天井を見上げた。 「あ、おはじきも上手かな」 「いまいちフォローになってないような」 「どうして? わたし達の間じゃお兄ちゃんってカニミソなんだよ」 「カニ……ひょっとしてそれはカリスマのことか?」 「そうとも言うかな」 「カ、しか合ってないぞ」  しかもカニミソなんて食べた事ないくせに。俺でさえ片手で数えるほどだ。 「ダメだよ。大きく行かなきゃ人間は」  人差し指を立てて振るクレアに俺は笑うしかなかった。  ちなみに「おはじきが得意」ってのは事実だ。たまに近所の女の子が挑戦しにやって来ることもあった。  どうも俺を倒す事が女の子たちの間で一つの最終到達地点になっているらしい。  なぜおはじきが得意なのか。  伝説の聖なるおはじきで魔王を倒した勇者の子孫、なわけはない。子供の頃から店番の暇つぶしにカウンターの上でコインをはじいて遊んでた、という単純な理由ゆえにだ。  狙ったところで止めるなんてのは当たり前。技なんか編み出したりして、結構本気で遊んでたような気がする。  そもそもおはじきとは道である。道であるがゆえに日々の精進が……、 「あの、それで槍を」  おはじき道を脳内で語りそうになった俺を女性の声が現実に引き戻す。  そうだった。 「すみません」  咳払いなど一つして、俺は武器屋らしい質問をしてみることにした。ちゃんと槍の事は考えてますよ、なんて意味も込めて。 「やはりパルチザンをご希望ですか?」  女性に背負われている槍に目をやる。 「そうだな」  女性は槍を背中から下ろすと手に取った。先ほども言ったように、薄いブルーの布に包まれたそれが穂先の形からパルチザンであることは分かる。  いわゆる「槍」にもいくつか種類があって穂先の形によって呼び名が違う。  女性が手にしているのが楓の葉のような穂先を持つパルチザン。両刃の穂先に左右対称に突起が付いていて、斬ることも突くこともできるようになっている。  で、俺がオーフィスを助ける時に使ったのがグレイブ。薙刀だ。  他には穂先が二つに分かれた二叉槍や三つに分かれた三叉槍、斧と槍を足したような穂先を持つハルベルトなんてのがある。  まぁ、こんなこと武器屋でもやらない限り知る必要はないわけで、他の人にとっては無駄な知識でしかないだろう。  しかし金貨五枚でパルチザンか。  眉間に皺を寄せ、顎を撫でながら考える。 「これを下取りに出しても駄目だろうか」  女性が手にしていたパルチザンを差し出した。 「ちょっと見ますね」  受け取ったパルチザンには結構な重さがあった。女性が使うには少しきついような気もするが。  布を払い、カウンターにかける。  布の下から現れたパルチザンに俺は目を見張った。別に非常に高価な品が出てきたとかそういうことじゃない。  異常に使い込まれていたからだ。興味がなければただのボロい槍にしかみえないだろう。しかし俺は数え切れない戦場を潜り抜けてきたような迫力を目の前のパルチザンから確かに感じていた。  つい生唾を飲んでしまう。  柄に視線を転じれば二箇所の黒ずみ。使い手の血の跡だろう。  盗み見るように女性の手を一瞥する。確かに武器を扱って生きている人間の手だ。お嬢様の手ではない。  俺は一度目を閉じ、それから頭上にある穂先を見やった。刃こぼれがかなり酷い。  修復でどうこうなるような状態ではなかった。  一体なにを突けばこんな事になるんだろうか。これではいつ穂先が折れてしまってもおかしくない。 「傭兵、ですか?」 「まさか」  言って女性が笑う。  じゃあ何を、と訊こうとしたところで先に女性が口を開いた。 「それで、いくらで買い取って貰えるだろうか」  俺は小さく息を吐いて、もう一度パルチザンを上から下まで見つめた。  確かに迫力はある。が、それはあくまでリード・アークライト個人としての意見だ。 「申し訳ないんですが出せて銀貨一枚です」  それが武器屋リード・アークライトの出した答えだった。  さすがに状態が悪すぎる。武器としての価値は無いに等しく、あるのは鉄屑としての価値のみだ。 「そうか」  落胆する女性に申し訳ない気分になるがこちらも商売だ。これで生きているだけにいい加減な事はできなかった。  と、不意にクレアが俺の袖を引っ張る。 「ねぇ、あれは?」  クレアが見ている先には一本の槍があった。壁に掛けてある特にどうと言うことのないパルチザン。よく言えば癖がなく使いやすそう。悪く言えば没個性的。 「あれか」  俺は壁に向かって手を伸ばし、そのパルチザンを手にした。重くもなく軽くもない。だが造り手の誠実さは伝わってくる。一人の職人が槍というものに対して出した結論がこれだ。  このパルチザンを持ち込んだ青年も同じく誠実で、どちらかといえば個性を主張しないタイプだった。 「卸値は幾らでもいいんです。とにかく置いて下さい」  そう言って深く頭を下げた自分より年下の職人の姿を思い出す。  まず使ってもらわなければ話にならないと、自分の造った槍を持って近隣の武器屋を回っていたようだ。  その情熱にほだされ、結局金貨三枚の卸値で店に置く事にしたのだが。 「これだったら金貨五枚とその古いパルチザンの下取りで構いませんけど」  言って女性に渡す。これが普通のパルチザンなら俺は金貨八枚の値をつけていた。だが誰も使ったことがないゆえに信用がない。それを差っ引いて金貨五枚でいいというわけだ。  女性は手にしたパルチザンを軽く振る。それから何かを考えるように目を閉じた。自分がこの槍を振るところをイメージしているのかもしれない。  やがて黒曜石のような瞳で俺を見つめ、女性は小さく肯いた。  どうやら納得言ったようだ。  一本売れたぞ。  心の中で造り手である青年に報告しておく。あ、ほんとに手紙でも出してやろうか。職人として歩き出したばかりなら嬉しいだろうし、そういうの。 「これでいい。貰おう」 「ありがとうございます」  女性に向かって深く頭を下げた俺はカウンターに散らばっていた五枚の金貨を集め、鍵のついた引き出しにしまった。  それから買い取ったパルチザンに改めて目をやる。 「あぁ、そうだ」  新しい槍に布を巻きながら女性が思い出したように声を上げる。  どうも先に口を開かれてしまうな。 「この町に人を雇ってくれそうな所はないか?」  意外な言葉につい大げさな驚きの表情を作ってしまう。 「恥かしい話だがこれで全財産を使い果たしてしまった」  綺麗に布に巻かれたパルチザンを見ながら照れ笑いする女性。その魅力的な笑みにくらくらしながらも、俺は別の意味でもくらくらしていた。  女性の計画性のなさに、だ。  なぜそんな無茶なお金の使い方をするのだろう。衣食住のどれかにまずお金をかけるべきだと思うのだが。それを削ってまで使える武器を手元に置いておかなければならない理由ってなんなのだろう。暗殺者に命を狙われでもしてるんだろうか。 「じゃあ今晩の宿は」  おそるおそる訊いてみる。 「大丈夫だ。野宿には慣れている」  大丈夫だ、って、なぁ。  着飾れば華やかな貴族のパーティーで視線を独占できそうなほどの女性が言う言葉だとはとても思えない。 「じゃあ、その、食事は」 「山へ行けば野草くらいは生えてるだろう」  ……マジかい。  つい胸中でうめいてしまう。顔に似合わずかなり逞しいお人らしい。 「できるだけ早く仕事が見つかるといいんだが」  まるで他人事のように言う女性に、顔を見合わせた俺とクレアは互いに「すげーな、おい」なんて表情を浮かべた。  何か野に咲く一輪の美しい花を摘もうとしたら、無茶苦茶ぶっとい根っこが付いていた。  そんな気分になる。  さすがにこう提案せざるを得なかった。 「泊ります? ウチに」  若い女性を泊めようとするとあれこれ文句を言うクレアもこの時ばかりはさすがに黙っていた。  飴かと思って口に入れたらビー玉だった。そんな顔はしてるけど。 「いいのか?」  女性にとっては思いがけない提案だったのだろう。声が大きくなっている。 「えぇ、どうせ俺とこの子しかいませんし。使ってない部屋、ありますから」 「ありがたい。恩に着る」  いきなり手を握られ、反射的に血液の温度が上がってしまった。  しかし随分と固い手をしている。この人は槍を手にして生きてきた人間なんだな、と改めて思った。  一度手合わせできるといいけどな。  女性の手を握り返し、そんなことを思う。と、俺の手を握った女性も同じ事を考えたのかどこか含みのある笑みを返してきた。  似たもの同士、ってところか。 「おほん」  どこまでもわざとらしいクレアの咳払いに繋いでいた手を離す。  膝を折った女性は口元を緩め、クレアに向かって手を差し出した。クレアは顔を引き締め、なぜか胸を張ってからその手を握り返す。  対抗心が見え隠れするのは気のせいだろうか。 「よろしく頼む」 「こちらこそ。でも……コレはわたしのだからね」 「いつから俺はお前の所有物になったんだ」  こちらを指さすクレアに向かってうめく。 「今、この時よ」 「選択肢とか拒否権は?」 「そんな言葉知らなくていいの」  俺とクレアのそんなやりとりに女性が目を細めて笑い出す。 「随分と愛されているな」 「あ、やだ。そんな……」  頬を押さえて赤くなるクレアに俺は痒くもない首筋を掻いた。 「この世で一番頑丈な鎖ですよ。身動きとれませんから」  女性は最後に一笑いし、立ち上がる。併せて長い黒髪が優雅に揺れた。 「レイ・ケインベックだ」 「リード・アークライトです。こっちは従妹のクレア」  まだ赤くなっているクレアの頭に手を置いて俺も自己紹介する。  と、女性……レイが軽く手を挙げた。 「敬語は止めにしてくれ。歳も近いようだし何より世話になるのは私の方だ」 「そりゃそうだ。じゃあこんな感じで」 「あぁ、その方が話しやすい」  少し安堵したようにレイが笑った。女性にしてはぶっきらぼうな話し方だが、どうやらこれが彼女の地らしい。  そりゃこれで相手に敬語を使われたら恐縮の一つもするだろう。 「じゃあ少し打ち解けたところで訊きたいんだけど」 「何をだ?」 「いや、一体何を突いたらこうなるのかなって」  やっと訊けた、なんて思いつつ手にしたパルチザンの穂先を見る。 「竜だ」  さらりと言われたその答えに、俺の口は「は?」の形のまま固まってしまった。 「だから、竜だ」  強めの口調で言い直すレイ。だが俺の口は固まったままだ。 「この町の近くまでは追ってこれたのだが見失ってしまった」  竜。  この世界において最も巨大で最も強きもの。あらゆる生物の頂点に君臨する正真正銘の王。巨大な翼の一振りで千の山と谷を越え、灼熱のブレスは全てを焼き払う……という噂のとんでもないやつらしい。  らしい、というのは俺自身生まれてから一度も竜を見たことがないからだ。  竜は人前にめったに姿を現さない。現すのはその人間を喰うときだけだ。そのせいか目撃情報でさえもかなり少なかった。 「ハンターなの?」  その希少性ゆえに竜は鱗一枚から骨にいたるまでその全ての部位が高値で取引されている。一攫千金を目指し命を賭けて竜を狩る者がいると聞いたことがあるが、レイもそうなのだろうか。  だとすれば何よりも武器にお金をかける理由も分かる。獲物が目の前にいるのに得物がないのでは話にならない。  が、レイは静かに首を横に振った。  お金のためじゃないのか。  だったら何のため……、 「復讐だ」  低く、冷たい声が腹に響く。レイの瞳はいつの間にか闇よりも深い黒を湛えていた。  乾いた唇はそのままにレイを見つめ続ける。正確に言えば目を離せなかった。 「妹を喰われた」  クレアが俺の手をきつく握り締める。小さな手は驚くほど冷たくなっていた。 「奴は……私が狩る」  暗く、落ちていくような決意。  俺にできたのは喉の奥からかすれた溜め息をもらす事だけだった。  2 「妹を喰われた」  深夜、ベッドに寝転がった俺はくすんだ天井を見つめながらレイの言葉を胸中で呟いていた。  低く、唸るような風の音が微かに聞こえる。獣の咆哮にも似たその音に俺は小さく息を吐いて寝返りをうった。  ばふ、と枕に顔をうずめる。  そろそろ干さなきゃな。ふかふか度の減ってきた枕にそんなことを思う。  目を閉じた俺は再びレイについて考える事にした。  竜を狩るために旅を続けている女性。理由は復讐だという。だがそれ以上のことは分からない。夕飯のときもレイは自分について何一つ話してくれなかった。本人が話したくないものをこちらが訊くわけにもいかない。 「妹を喰われたって、どんな風に?」  そんな質問ができるほど無謀な勇気を俺は持ち合わせていない。  だから結局分かったのは妹を竜に殺されたレイが復讐のためにその竜を追っている、ということだけだ。  もっとも、それだけ分かれば十分のような気がするが。  俺がレイにしてあげられるのは今のところメシとベッドを提供する事だけ。  それ以外のことに首を突っ込もうとは思っていなかった。  もっとも、そんな権利もないのだが。  ゆえに、クレア以外の誰かがきしむ廊下を踏みしめて外に向かう気配と足音を察知したときも無視しようかと思った。  子供ではないのだ。余計な詮索以外のなにものでもない。  が、俺はまず右目を開き、ちょっと迷ってから左目も開いた。ベッドから降り、机の上に放り投げてあった上着の袖に腕を通す。  その冷たさに一度身震いしてから俺は息を止めて部屋の扉をわずかに開いた。一度外の様子を伺い、頭を出す。  俺の目に映ったのは闇に溶けていくレイの背中だった。とてもじゃないが「夜中にトイレに起きた」という風には見えない。  第一、彼女の背には布に包まれたパルチザンがしっかり背負われていた。  その後姿を見送り、自分をごまかすために言い訳を必死で考える。が、結局は何も思いつかなかった。  思いつかぬまま余計な詮索を続ける。  とりあえずどっち方面に行くのか位は客の身を預かっているホストとして知っておいた方がいいだろう。  お、何かちょっと納得できそうな言い訳ができた。  口元を苦く緩め、廊下に出た俺は足音に細心の注意を払いつつレイを追う。  我ながら情無い。素直に「何か気になるから」とか「興味がある」とか思ってしまえばいいものを。  言い訳を考えなければ女性の一人も追えないとは。自分がいまだに独り身な訳が少しだけ分かったような気がした。  要するにへたれ、なんだよな。  冷たい夜気にさらされ感覚を失っていく手をこすり合わせ、嘆息混じりの息を吐きかける。  指先は暖まったが心はちと寒い。  レイは食堂から外に出ると庭を横切って勝手口に向かった。  そこで辺りを警戒するように左右を見回してから表に出る。  庭に降り立った俺は草をつま先で踏みしめ、勝手口に歩み寄った。立ち止まり、ゆっくり五つ数えてから勝手口の戸を開く。 「うわらっ!」  思わず妙な声をあげて飛びすさってしまった。  開けた戸の隙間から黒い瞳が俺を見つめていたからだ。 「何をしてるんだ?」  眉根を寄せたレイが首を傾げる。責めている、というよりは本気で俺の行動が理解できないらしい。  後をつけられていたという自覚はなさそうだ。 「いや、あの」  夜の散歩、とでも言えばごまかせそうな状況ではあるがなぜか正直に言ってしまう。 「どこ行くのかな、と思って」  が、ばつが悪い俺とは対照的にレイが浮かべたのは納得の表情だった。 「そうか。一言いえばよかったな」  言葉を切ったレイが町外れに立つ山のシルエットを見やる。その目には確かな昂揚感があった。形のいい唇がわずかに緩んでいる。  兎を前にした狼はこんな顔で笑うのかもしれない。  最後まで聞かずともレイの表情と背中のパルチザンが教えてくれた。 「こんな時間に?」 「奴だって生き物だ。夜は眠る」  そこを狙い撃つというわけか。 「卑怯だと思うか?」  俺は少し考え、首を横に振った。 「そうでもしなきゃ竜なんて討てないだろ」  あぁ、またか。そんな感想しか抱けなくなるほどのハンターが毎年竜によって殺されている。ハンターは手段を選ばない。必要とあれば毒や爆薬だって使う。それが周囲にどんな影響を及ぼそうとも、だ。  だがそこまでしても竜は人の上をいく。竜とはそういう生物だ。  大体、槍一本で竜に立ち向かう事自体が自殺行為外のなにものでもない。今までレイが死なずに済んでいることは奇跡に近かった。  とてつもない強運の持ち主か、とてつもない槍の使い手か。 「よく分かってるじゃないか」  声はレイの肩越しにいきなり飛んできた。人をなめたような響きに反射的に口を歪めてしまう。  レイの背後に闇から切り取られるようにして三人の男が現れた。三人は揃って顔に感じの悪い笑みを貼り付けている。  直感で分かった。俺はこいつらとは友達になれない。というよりなりたくない。  そんなわけで俺はかなり不機嫌な視線でもって男たちを見やった。  声を発したであろう男が軽くこちらを睨みつつレイの横に並ぶ。恐らくこいつがリーダーなのだろう。  皮革の鎧に腰に提げた両手剣。男もレイと同じように武装していた。  残りの二人も似たようなもんだ。特に注目するに値しない。 「彼らはハンターだ。しばらく前から行動を共にしている。もっとも、奴と対峙する時だけだが」  レイの紹介に俺はとりあえず肯き、どうも、とあからさまにやる気のない挨拶をした。  リーダーの男は俺を嘲るように笑うと、路上に唾を吐いた。それだけだ。  うぁ、感じわる。  ま、人のこと言えないけどな。 「武器屋ってのは儲かるのか?」  唐突にそんなことを訊かれ、言葉に詰まる。  男は空を見上げ、心底どうでもよさそうに続けた。 「俺も狩りに飽きたらやってみるか。楽そうだし」  楽そう。その一言に血液の温度が上がる。だが俺は敢えて笑みを浮かべた。 「ハンターってのは儲かるのか?」  今度は男が言葉に詰まる番だった。 「武器屋に飽きたら俺もやってみるか。楽そうだし」  俺の台詞に三人のハンターが色めき立つ。  自分が言われて嫌なんだったら初めから人に言うんじゃねぇよ。 「こっちは命かけてやってんだ。なめてんのか、田舎の武器屋ごときが」  何が命がけだ。  鼻で笑い、言い返す。 「安い命だから幾らでもかけられるんだろうが。あんたが死んだって誰も困らないんだろ?」  一歩踏み出した俺に男も一歩踏み出した。 「狩ってやろうか、この場で」  あ、と顔を歪める男に俺は拳を握る。何が「狩ってやろうか」だ。自分に酔ってんじゃねぇぞ。 「やってみろよ。俺は竜より弱いがあんたに狩られるほど間抜けじゃない」  唇の端を吊り上げ、笑う。  張り詰め、硬質化する空気。握った拳の内を熱い汗が濡らした。  何でもいい。きっかけが一つあればこの男に拳を打ち込める。この距離なら両手剣よりも拳の方が早い。  開始の合図はまだだろうか。犬の鳴き声でも風の音でも構わない。  さっさとやらせろ。  そう、思ったときだった。  俺と男の間に何かが割って入る。薄いブルーの何か。焦点を合わせてみればパルチザンの穂先だった。穂先から柄を辿り、持ち主へと視線を移す。  当然そこにはレイがいた。 「すまない。抑えてくれ」  そう言われてしまったら続けることはできない。仕方なく握っていた拳をほどき、一歩下がる。熱かった手が一気に冷めていった。  男は大きく舌打ちしてこちらに背を向けた。 「行くぞ」  吐き捨てるように言って歩き出す。二人のハンターがその後に慌てて続いた。  レイはそんな男たちの後姿と俺の顔を一度ずつ見てから、やれやれ、といった風に笑う。 「子供だな」 「俺は別に……その」  言葉を濁す俺にレイは声をあげて笑った。その楽しそうな笑顔につい見とれてしまう。  いつもこんな風に笑ってればいいのに。  レイは最後に俺の肩を叩くと踵を返した。揺れる黒髪は闇夜の中であってもその存在感を失わない。 「朝食までには帰る」  振り向かぬままでレイが言う。 「気を付けてな」 「心配するな。今日こそ狩ってやるさ」  残し、レイは歩き出した。闇に溶けていく後姿を俺は見つめ続ける。考えてはならない事だが、これが今生の別れになる可能性だってあるのだ。  日の出までレイ生きている保証は無い。  吹き付けた風の冷たさに一度目を閉じ、開いた時、通りにいるのは俺一人になっていた。  もう一度手に息を吐きかけ、レイが見ていた町外れの山を見上げる。恐らくはあそこに竜がいるのだろう。この近辺でそんな巨大な生物が身を隠せるところといえば山くらいしかない。  月は、出ていなかった。  そういやランプ持ってなかったけど大丈夫かな。  そんな心配をしながら、朝食を三人分作ることを俺は心に決めた。  レイは約束を守ってくれなかった。  一年中変わらないような気がする小鳥のさえずりを聞きながら俺は頬杖をついていた。  朝の食堂。  テーブルの上には少しばかり気合を入れて作った朝食が並び、そのまま視線を正面に持っていけばクレアがいる。  朝からよく食べるクレアの健康を嬉しく思いながらも、口から出たのは小さな溜め息だった。 「どうしたの?」  頬にパン屑をつけたクレアに訊かれ、何となくスプーンを手に取る。オニオンスープをかき混ぜながら視線は残された三つ目の席にいったままだ。  さすがにクレアも俺が何を気にしているか気付いたようだ。レタスを突き刺したフォーク片手に俺と同じ方を見る。 「お姉ちゃん、どうしたの?」 「あ、あぁ。そうだな」  曖昧な返事をしてスプーンを口に運ぶ。スープの味は悪くなかった。  食べて欲しかったんだけどな。  スープを喉から胃に落とし、二度目の溜め息をつく。  クレアには何と言えばいいだろうか。まさか「竜を狩りに行って死んだかもしれない」とは言えない。やはり「ちょっと用事で出かけてるだけさ」くらいが妥当だろうか。  と、そこまで考えて俺は苦笑した。  別にレイが死んだと決まったわけじゃない。なのになぜこんな事で悩んでるんだろう。思い当たる理由がないと言えば嘘になる。  竜のせいだ。  竜を狩りに行って帰ってこない。ならば生存は絶望的だ。そう、思わせるだけの力が竜にはある。  もしかしたら俺の中で勝手に竜という存在が肥大化しているだけなのかもしれないが、普通の人にとっては大抵そうだろう。  時化の海で船が転覆した。竜を狩りに行って帰ってこない。  少なくとも俺にとってこの二つの言葉には大した差が無かった。 「大丈夫さ、きっと」  自分に言ったのかクレアに言ったのか分からないような声で呟き、俺はパンを口に入れた。分かっていたことだが随分と乾いている。パンってのはそういうもののはずなのに。  口を動かしながら視線をあちこちに飛ばす。話題を変えるためのネタが欲しかったのだ。  ネタは意外と近く、クレアの胸元にあった。見覚えの無いペンダントに気が付く。 「どうしたんだ、それ」  パンを飲み下した俺はクレアの瞳と同じ、澄んだブルーの石をあしらったペンダントを指さした。  クレアは、これ? と石を人差し指と親指ではさむと笑みを浮かべた。 「きれいでしょ。お姉ちゃんにもらったの」  結局レイの話題からは離れられないらしい。 「高いもんじゃ……ないよな」  身を乗り出し、ペンダントを見つめる。宝石の類ではないようだが。 「分かんない。使ってもらった方が喜ぶから、ってお姉ちゃん言ってたよ」  ふぅん、と鼻から息を吐く様に肯いて元の姿勢に戻る。 「ちゃんとお礼言ったか?」 「言いました」  むくれたクレアが唇を尖らせた。子ども扱いしないで。表情がそう言っている。  しかし、使ってもらうと誰が喜ぶんだろうか。ペンダントを作った職人、じゃないよなぁ。  綺麗ではあるがどこか造りが素人くさいペンダントを見ながら考える。  となると、まさか。  思い当たり、顔を上げたときだった。  外から聞こえてきた木の板を叩く音に俺は立ち上がる。よく知った音だった。誰かが勝手口の戸を叩いている。  どうやら心配するだけ損だったようだ。勝手口の戸を叩く知り合いなんて今はレイくらいしかいない。町の知り合いなら庭まで勝手に入ってくる。  都会の人間には信じられないだろうが、田舎ってのはまぁそんな所だ。 「お姉ちゃんかな」 「多分な」  嬉しげなクレアの声に答え、俺は食堂から庭に出た。歩きながら朝の空気を胸一杯に吸い込み、吐き出す。  瞬間、舌打ちした俺は勝手口に向かって庭を走っていた。  微かに感じる血の臭い。戸は同じリズムで叩き続けられている。  奥歯を食いしばった俺は戸を勢いよく引いた。同時に血の塊が倒れ込んでくる。濃い錆の匂いにむせ返りながらも俺は血まみれのレイをしっかりと抱き止めた。  血に固まった黒髪は顔に張り付き、指先から滴る雫が赤黒い染みを地面に打つ。  レイの体は俺の体温を奪ってしまいそうなほどに冷え切っていた。 「すまない」 「喋るなっ!」  青紫色の唇を震わせ、かすれた声で詫びるレイに向かって叫ぶ。 「クレアッ! 先生呼んで来い!」  背後にいるであろうクレアに声を飛ばす。だが気配は動こうとしない。振り返ればクレアは手で口を押さえ、目を見開いて泣いていた。足は大きく震えている。  子供には酷だ。だが、この場には俺とクレアしかいない。 「クレア。お前がレイを助けるんだ」  涙に濡れた瞳を視線で射抜き、ゆっくりと言う。 「やれるか?」  問う俺にクレアは鼻をすすると拳で涙をぬぐった。それから小さな唇を引き結び、何かを振り払うかのように駆け出した。  勝手口から出て行くクレアを見送り、レイを地面に横たえる。 「すぐにクレアが医者を呼んでくる。大丈夫。あの子は歳以上にしっかりしてる」  薄く目を開いたレイは小さく肯き、咳き込んだ。口から散った血が芝生に、俺の手に降りかかる。 「薬と包帯、取ってくるな」  支えていたレイの頭を下ろした俺は家に向かって走った。  一瞬でも迷う事の無いように、全ての手順と必要な道具を頭に思い浮かべる。  俺にできるのはせいぜい先生が来るまでのつなぎだ。  だが応急処置の良し悪しが生死を決める事だってある。  庭で死人なんて出してたまるか。  胸中で強く吐き出し、俺はもう一度「今やらなければならない事」を頭の中で繰り返した。  部屋のドアがゆっくりと開く。  死刑宣告をされる罪人ってのはこんな気持ちなのかもしれない。ゆっくりとではあるがやたらと強く打つ心臓に息苦しさを覚えた。  白衣と薬の匂いをまとった裁判官が廊下で待っていた俺の前に姿を現す。  ぼさぼさの白髪に口ひげ。白衣を着ていなければ彼が医者だとは誰も思わないだろう。実際白衣を着てたって近所の小うるさそうな爺さんにしか見えない。  先生は腰の後ろで手を組んだまま不機嫌そうな顔で俺を見上げた。これが先生の地顔だ。常に何かに対して苛立っているような目にへの字口。失礼な話だが、あまり品を感じる顔だとは言えない。  それゆえに、医者っぽくない、と思ってしまうのだ。  だが彼がこの町一番の名医である事は疑い様のない事実だ。俺も生死に関わるような怪我をしたら、この先生を呼んでもらおうと思ってる人間の一人だった。 「あの」  レイの容態は。  そう訊こうとした瞬間脛に激痛が走った。片足を上げ、廊下で妙な踊りを舞いながら蹴られたのだと気付く。 「何するんですか!」 「うるさい。この程度の怪我でいちいちワシを呼ぶな」  先生の言葉に上げていた片足を下ろす。眉根を寄せる俺に、先生はへの字口を九十度になる勢いでひん曲げた。 「大騒ぎしよって、この小心者が。大した怪我はしとらん」 「じゃあ、彼女は助かるんですか?」  つい声が大きくなる。俺の喜びに反比例するように先生の眉間の皺はさらに深くなった。 「初めから死にかけとらんわ。疲労が溜まって倒れただけだ。血もほとんどあの娘のものではない。あの程度の傷ではあそこまでの血は出はせん。おのれで包帯を巻いておいて気付かんかったのかこのバカタレが」 「いや、その、必死だったもので。あ、でも口から血を吐いてたし内臓がやられてるとかは」 「少し派手に口の中を切っただけだ」  このバカタレが。そう続けたそうな目で先生が俺を睨む。  俺はとりあえず頭を掻き、天井を見上げた。長く息を吐くと同時に気を抜く。胸の中にあった重く黒い塊が溶けていくようだ。 「自分で騒いで自分で収まってりゃ世話ないわい」  先生の一言に苦笑する俺。面目ない。  そんな俺に一瞥くれ、先生は廊下を歩き出した。 「あの、診察代を」 「いらんわ。あんなのは患者のうちに入らん。そんな金があるんだったらあの娘に何か栄養のあるものを食わせてやれ。それで治る」  言いながらも先生はさっさと廊下を歩いて行ってしまう。俺はその小柄な背中に向かって頭を下げた。 「ありがとうございました」 「でかい声出すな。起きるだろうが」  返ってきた台詞に慌てて口をつぐむ。もう遅いんだけど。扉を見やり、とりあえず起きた気配がないことに安心する。  最後に先生は、ふん、という極めて不機嫌そうな吐息を残して姿を消した。  やれやれ、か。  廊下の壁に背を預け、膝を少しだけ曲げる。  もっとも、先生の言った通り勝手に一人で騒いでただけなんだけど。いやもう一人。クレアまで巻き込んで、だ。  とりあえず大丈夫だって教えてやらなきゃな。  一つ息を吐いて体を起こし、店に向かって歩き出す。  ふと、先生のある一言が思い出された。  血もほとんどあの娘のものではない。  じゃあ誰のものなのか。どうしてその血をレイがかぶっていたのか。  立ち止まり、レイが寝ている部屋を肩越しに見やる。  今は考えるのをよそう。レイが目を覚ましてから。それからでも、な。  問題を先送りにしている。  そんな自覚を胸に抱きつつも俺は再び店に足を向けた。  靴の下で廊下が不安を煽るかのように、きしむ。  3  夕方になって俺はレイが寝ている部屋の戸を軽く叩いた。女性が寝ている部屋にノックもなしに入るのは気が引けたし、かといってノックの音で起こしてしまうのも気が引ける。  で、結局軽く叩くことにしたのだ。  起きていれば聞こえる。寝ていれば気付かない。そんな微妙な力加減。 「起きている」  扉の向こうから聞こえてきた声はしっかりとしていた。どうやら目が覚めていたようだ。 「入るよ」 「あぁ」  返事を待って扉を開く。 「どう? 調子は」 「悪くない」  敗因はつま先を見ながら部屋に入った事だと思う。視線を上げぬまま、先に後ろ手に扉を閉めたのが間違いだった。退路を断ってしまったんだから。  顔を上げた。レイがベッドに座っている。  全裸で。  らっきー。とか言って指を鳴らす余裕は俺にはない。ぶっとぶ思考、流れる汗、バクつく心臓。 「ごめんっ!」  叫ぶように詫び、俺は天井を仰いで目を閉じた。手探りでドアノブを探すがなぜか見つからない。  何でこんな時に限って。  必死に手を動かす。何度やっても木目をなぞるだけの指先は震えてさえいた。  と、唐突にレイが笑い出した。なぜか明るいその声にドアノブを探す手を止めてしまう。 「気にしなくていい。見られたところで減るものでもない」 「いや、でも」 「見る価値もないか?」 「まさか」  反射的に答える。そりゃ見たくないと言えば嘘になる。でも、いくら本人がいいって言ったってこの状況はなぁ。  大体、目を開けたとして俺はどんなツラをすればいいんだろうか。というより半笑いになってしまいそうな自分が恐かった。とてもじゃないが普段の表情を保持する自信はない。 「意外と純情なんだな」  目を開けられないでいるとそんな事を言われた。小さな溜め息混じりに。  意外と「子供」なんだな。響きから察するに、そう言われているのと大差ないようだ。  さすがにこれは聞き流せなかった。胸の奥で対抗心が頭をもたげる。この時点ですでに「子供」のような気もするが都合の悪い事には蓋をするのが「大人」なのでそれに倣うことにする。  とにかく俺は男のプライドをかけて目を開き、レイを見やった。  頬は緩まない。とてもではないが笑みなど浮かべられなかった。口を半開きにしたまま何も言えなくなる。  傷だ。  体に巻かれた包帯のことではない。それ以外にもレイの体には無数の傷跡が刻まれていた。大きなものから小さなものまで、数えればきりがない。  もちろん数える気などなかったが。  そして、無数の傷跡を残すその体は見事なまでに引き絞られていた。  女性特有の丸みを残しつつも、筋肉はその存在をはっきりと誇示している。割れた腹筋を見つめながら、俺は喉を鳴らした。  間違いなく戦って生きてきた人間の体だ。これがレイ・ケインベックという人間の歴史なのだろう。  全てがここに集約されている。そう思うと鳥肌が立ち、レイから目を離せなくなった。 「リード」 「あぁ」  レイの体に気圧されたせいか、少し低い声で返事をする。彼女の人生を想像すればそれも必然だった。 「そう凝視されるとさすがに困る」 「え?」  一瞬意味が分からなかったせいで妙な声を出してしまう。  レイはシーツで体を覆い隠し、苦笑した。 「少し、はずかしい」  言葉の意味が分かるまでたっぷり三秒はかかった。三秒間棒立ちになった後で俺は、逃げた。  扉を叩きつけるように閉め、廊下を走り抜けて店を通り抜け、なぜか外にまで出てしまう。  通りに出た俺は大きく深呼吸した。肺の中の熱い空気を抜き、火照った体を冷やすための冷たい空気と入れ替える。  夕日に赤く染まる町並みを見ながら俺は「まいったな」と呟いた。  俺は別に変な目でレイの体を見ていたわけではない。その姿に圧倒され、目が離せなくなってしまっただけだ。が、問題はレイがそう思ってはくれないであろうところにある。  彼女の目には俺がもの凄く飢えた男に見えたことだろう。  大体出会いからして発禁本拾ってもらってるし。  何と言うか、とてつもなくカッコ悪い。  空を見上げると涙が出そうになった。夕日ってこんなに眩しかったっけ。 「どうしたの?」  店から出てきたクレアに問われ、言う。 「俺は今非常に落ち込んでいる。励ましてくれ」  腕を組み、むー、とうなるクレア。それから手を打って一言。 「どんなに小さな虫にだって生きる権利はあるんだよ」 「真顔で言うな」  うめき、腕を組む。とうとう人として生きる権利さえも失ったか。  でも色々考えないで済むだけ虫の方が楽しいかもしれない……などと本気で思ってしまった自分がとてつもなく悲しかった。 「あぁ、春はどこだ」 「ん? 冬の次だよ」  何の疑いもなく、きょとんとした顔で答えるクレアに俺は小さく吹き出した。 「長いのかな、その冬は」 「分かんないよ。でも、早く雪が降るといいね」 「どうして?」 「雪だるまでしょ、雪合戦でしょ、あと……遭難ごっこ」 「は?」 「遭難ごっこ。一人を雪に埋めて掘り返すの。去年パトラを埋めたらほんとに場所が分からなくなっちゃって、どうしようかと」 「やめなさい。そんな危険で不毛な遊び」 「えー、楽しいよ。お兄ちゃんも一度やってみればいいのに。知ってる? 雪の中でじっとしてると何か気持ちよくなってくるんだよ」 「凍死しかけてるだけだ、それは」  半眼で言う俺にクレアは明らかに「分かってない」顔をしていた。どうやら雪が降り始めたらこいつを徹底監視する必要がありそうだ。  組んでいた腕をほどき腰に当てた俺はやれやれと首を振った。子供ってのは突発的に訳の分からない事するからな。  まぁ、俺も子供の頃「水死体ごっこ」とか言って川の上流からとりあえず流されてみるっていうアホな遊びしてたから気持ちは分からないでもないけど。  一度本気で流されて「ごっこ」じゃなくなりかけたことがあったが今ではいい思い出だ。  あのとき俺を引っ張り上げてくれたのは俺が生まれる前に亡くなった婆ちゃんだった。少なくとも俺はそう信じている。  ありがとう婆ちゃん。リードはこんなに立派になりました。墓参り行くからねー。  と、夕日に向かって叫びたい気分だったが人の目もあることだし止めておく。  俺は武器屋だ。ちょっとでも精神に異常をきたしたと思われたら営業停止処分になってしまうのだ。  だって恐いだろ。キチ○イに刃物は。  そんなわけで武器屋の営業許可審査ってのは結構厳しい。親父から店を引く継ぐときだって三回くらい役所に呼び出されたし。  で、許可が取れたら取れたで一週間に一度は警備兵が見回りに来る。  何か変わったことはありませんか、なんて言ってはいるが目的は俺の監視だ。まぁ、扱ってる品物が品物なだけに犯罪集団と武器屋ってのは結びついたりする事があるから仕方ないんだけど。  それに今ウチに来てる警備兵は子供の頃からの友人だ。遊び仲間だった頃、そのままの関係が続いている。それゆえ一週間に一度監視に来られても嫌な気分にはならなかった。 「あ、リード」  不意に声をかけられ、俺は視線をそちらに飛ばした。三人の少女がこちらに向かって歩いてくる。歳はみな十八だ。なぜ年齢を知っているのか。知り合いだから。単純な理由だ。 「独り身のリードだ」 「独り身、だね」 「こんばんは、独り身さん」 「喧嘩なら買うぞ」  前に並んだ三人娘に向かって顔を引きつらせる。と、少女たちは互いの顔を見合わせてけらけらと笑った。 「ただの挨拶じゃない」 「社交辞令よね」 「年上は敬わないと、です」 「いや、君ら言ってることが無茶苦茶だから」 「そんな事より」  一番背の高い赤毛の少女が無理矢理話を打ち切って前に出る。 「そんな事、って」 「あ、クレア。こんばんは」 「こんばんは」 「今日もかわいいですね」 「あー、いいなぁ。綺麗な銀髪」 「人の話聞きゃあしないし」  呟き、大きな大きな溜め息をつく。ていうか誰が喋ってるのかもよく分からなくなってきた。もっとも、会話の流れさえ分かれば特定する必要もないのかもしれないが。 「で、君らはこんな所で何をしてるんだ?」  収拾がつきそうに無いので会話を仕切ることにした。と、胸の前で手を組んだ一番背の低い少女がこんな事を言う。 「気合を入れに来たんです」  言葉の意味が分からず、俺は顔に疑問符を浮かべた。  そんな俺を見ながら赤毛の少女が笑う。 「この子さ、今から告白するんだ。知ってるだろ、パン屋の」 「ロイ、だよな」  赤毛の少女にこの子、と呼ばれたダークブルーの髪を持つ少女に向かって訊く。 「うん。ロイ」  青い髪の少女は頬を染めて肯いた。なるほど、よく見れば彼女だけかなり気合を入れてお洒落をしている。初々しいね、まったく。 「で、気合を入れに来たってのは」 「ほら」  赤毛の少女が青い髪の少女の肩を押す。青い髪の少女は一度肯くと俺の顔を見上げた。それから唇を引き結び、両手で自分の頬を叩く。 「大丈夫。こんなの私の未来じゃない」 「……言いたい事は山ほどあるがとりあえずお役に立てたようでよかったよ」  笑いながらもかなり低い声を出す。  どうせ俺は恋愛ヒエラルキーのアンタッチャブルだよ。俺でよければいくらでも踏み台にしてくださいな。  ご用命とあらば四つん這いにだってならせて頂きます。これで高いところだって安心さ。  あぁ、何か全てが嫌になってきた。明日の夜明け前に音も無く消えてたりしないかな、俺。それならそれで構わないような気がしてきた。  と、クレアが俺の袖を引っ張る。 「お金で買える愛もあるらしいよ」  俺はふと顎に手を当て……泣きそうになった。 「うぅ、ちょっとでもその手があったかなんて思ってしまった自分が嫌だ」  そんな俺を尻目に三人の少女は現れたときと同じように騒がしく去って行く。  用が済んだら、ぽい、ですか? 「あぁ、くそ! お前ら夜道を歩く時は背後に気をつけろよ」  そう言う俺に三人は笑いながら手を振って、やがて消えてしまった。 「ったく、嵐かよ」  女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだ。まだ耳の奥に声が残ってるような気がする。  耳の穴を掻きながら、俺は大きく息を吐いた。  まぁ、からかわれつつも嫌われてないだけましなのかもしれない。納得はいかないけど。  人通りの少なくなってきた通りを見ながら苦笑する。  皆が一日の仕事を終え、かまどから煙が立ち昇る時刻。そろそろ店じまいか。 「華やかだな」  不意に背後からした声に俺は振り向き、ばつの悪さに視線を戻してしまった。 「もう大丈夫なの?」 「あぁ、おかげ様で何ともない」  クレアに向かって答えたレイは俺の隣に並ぶと胸の下で腕を組んだ。袖口からは巻かれた包帯が覗いている。  微かに漂う消毒液の匂い。そして思い出される一糸まとわぬレイの姿。  とてつもなく居心地が悪い。風に揺れるレイの黒髪さえ俺を軽蔑しているように思えてくる。 「その、さっきは」 「気にしなくていい。それよりも私の方が迷惑をかけてしまった」 「それこそ気にしなくていいさ。大した事ないってんで治療費取らずに先生帰っちゃったし」 「いや、この恩は必ず」  どうもかなり義理堅い性格らしい。ほんとに気にしなくていいのに。  少し考えた俺は人差し指を立ててこう提案した。 「じゃあ、さっきのでチャラ」 「いいのか、あれで」  驚きに目を大きくするレイ。 「十分さ」  冷たくなってきた手を上着のポケットに入れながら言う。 「ありがとう」  微笑んだレイに俺は表情を緩めてしまった。土台がいいだけに笑うと冗談も言えなくなるくらい綺麗だ。自分が隣にいていいんだろうか。そんなことさえ考えてしまう。 「歳の離れた友人がいるんだな」  一瞬誰の事か分からず眉間に皺を寄せてしまったがすぐにあの三人の事だと思い当たる。 「友人っていうか小さい時から知ってるだけだよ」  この歳になってからは一緒に遊ぶなんて事ないしな。あの子らにしてみれば俺は「近所の兄ちゃん」だし、俺にしてみればあの子らは「近所の女の子」だ。 「どうかした?」 「いや、何でもない」  自分のつま先を見つめるようにうつむいてしまうレイ。彼女が何を考えているのかは分からない。だが表情から察するに楽しいことではないようだ。  俺は一度日の沈みかけた空を見上げ、切り出した。 「どうだろう、今晩食事でも」 「唐突だな」  こちらを見つめるレイの瞳には驚きと戸惑いがあった。まぁ、明らかに食事に誘うような会話の流れじゃなかったしな。  でもいいだろ、断ち切ったって。暗くなりそうな流れだったし。 「いやな、先生に言われたんだ。何か栄養のあるもの食べさせてやれって」 「私は君の料理で十分ありがたいのだが」 「それはそれで嬉しいんだけど過労だとも言われたし。何と言うか、美味しいものでも食べて飲んでさっさと寝て少し休養をとった方がいいんじゃないかと思って」 「だが、私にはお金も服もない」 「そんなこと。お金は俺が出すし、服は……」 「おばちゃんのがあるよ」  言いよどんだ俺をクレアが助けてくれた。俺の母親も女性にしては背が高い方だったし、サイズは合うんじゃないだろうか。 「お化粧道具も残ってるし」  レイを見上げてクレアが「にっ」と笑う。 「『風の丘亭』だよね」 「もち」  返事をして大きく肯く。風の丘亭。俺たち行きつけの店だ。ここの料理はとにかく旨い。特にデザートのアップルパイ。これが絶品なのだ。 「お姉ちゃん、服選ぼ」 「あっ、あぁ。だが……」  戸惑うレイに俺は笑みを浮かべてこう言った。 「もてない男が勇気を出して食事に誘ったんだ。情をかけるとおもって、な」 「そうそう、お兄ちゃんが女の人にお金を使うことなんてめったにないんだから少しくらいたかったって大丈夫だよ」  大層な言われようだな、おい。 「でも、リードはクレアのではないのか?」 「いいのいいの。お姉ちゃん優しいから半分だけ貸してあげる」 「優しい? 私がか」 「うん。優しい人。それより早く服選ぼ。お姉ちゃんお化粧して着替えたら絶対綺麗になるよ」 「そうだろうか」 「もちろん。早く早く」 「あ、あぁ。じゃあリード、すまないが」  クレアに手を引かれながら頭を下げるレイに俺は、いってらっしゃい、と手を振った。 「母親の部屋にあるものは自由に使って構わないから。見事に変身して見せてくれよ」 「努力する」  そんな言葉を残し、レイはクレアに引っ張っていかれた。  大きく伸びをして、ゆっくりと手を下ろす。やっぱり「お出かけ」ってのは楽しいものだ。それが綺麗な女性となら尚更だった。  これで少しでも気を緩めてくれればいいんだけどな。  レイとクレアが入っていった店の奥、住居部分へと続く扉を見ながら思う。  誰にだって疲れてるときには休息が必要だ。肉体的にも精神的にも。  もちろん依然として気になっている事はある。  レイの体に付いていた血のことだ。  あれが誰の血なのかは分からない。そもそも人間の血であるかどうかさえも分からないのだ。  知る方法はただ一つ。レイに直接訊く事のみ。  しかし、と思い直す。  俺にそれを訊く権利はあるのだろうか。彼女から話してくれない限り訊いてはならないような気もする。  話さないという事は話したくないという事なんだから。  でも、と再び思い直す。  もし、仮にだが、人の命が絡んでいるとすれば放っておくわけにもいかなかった。  でもな……さすがにそれは何らかの態度に出るだろ。  見たところレイの様子に変化はない。何かを隠してるとか、何かに怯えてるとかそんな風には思えなかった。  結局、心配するだけ損なのかもしれないな。  種明かしをすれば意外としょうもない理由だったという可能性だって十分あるのだ。  とりあえず閉店準備、だな。  こきこきと首を二度鳴らした俺は店の雨戸に手をかけた。  でも、と思考の輪を断ち切れぬまま。  4  大通りから一本奥に入り、繁華街の喧騒が風に乗って流れてくるような落ち着いた場所。  目指す『風の丘亭』はそこにあった。  周りの家々からはほのかな灯りが漏れ、穏やかな団欒を象徴するような匂いが鼻腔を抜ける。恋人の、母親の、もしかしたら父親の、手料理の匂いだ。  そして、プロとしてその手料理の上を行く料理をお手ごろ価格で提供してくれる風の丘亭は今日も繁盛しているようだった。  こうして扉の前に立っていても中の盛り上がりが伝わってくる。  ドアノブに手をかけた俺は一度隣にいるレイを見やった。  化粧は苦手なんだが。着替えを終えた彼女はそう言ってはにかんだ笑みを浮かべ、俺の前に現れた。  そんなレイを見て、俺は笑った。人間、本当にいいと思ったものを見ると何よりもまず笑うものだ。  すました顔で「綺麗だ」とか「美しい」とか「貴女の前では百本のバラでさえくすんで見える」なんて飾った言葉を言えてるうちはまだ余裕がある状態。  そんな人間の飾りの部分をぶち壊すくらいレイは綺麗だった。脳に直接響く美しさ、とでも言えばいいのだろうか。  所々跳ねていた黒髪はきれいに梳かれ、草原を流れる清流のようだった。白を基調にした服はクレアの推薦らしい。レイの髪に一番合う色を選んだ、と言っていた。  やけに「コントラスト」と繰り返していたから、最近覚えた言葉を使いたかっただけなのかもしれないが。 「おかしくないだろうか」  不安げな面持ちで自分の姿を確認するレイ。分かってやっているなら嫌味以外のなにものでもないが、そうではない。  彼女は本気で心配している。そんな姿がまた、たまらくなく魅力的だった。 「大丈夫だよ。すっごく素敵だから」  レイを見上げてクレアが笑う。クレアもクレアで対抗意識を燃やしたのか一番いい服を引っ張り出してきたらしい。  普段は流している銀髪も今はきれいに結ってあった。首からはあのレイに貰ったペンダントがぶらさがっている。  ちなみに俺はいつもと変わらぬ普段着だ。というか、大体『風の丘亭』ってのはこんなにお洒落して来るような場所じゃないんだから。  二人とも気合入れすぎだ。まぁ、おかげで両手に花なんだけどさ。  俺は口元を緩め、扉を開いた。  扉越しに聞こえていた喧騒が一気に大きくなり、俺たちを包み込む。暖かい空気にほっとしたものを感じつつ俺は店に足を踏み入れた。  と、なぜか店内は一瞬で静まり返ってしまった。物音を立てれば世界が終る、とでも言わんばかりの静寂に店の入り口で立ち尽くす。  誰もが驚愕に目を見開き、こちらを凝視していた。異様な空気の中、隣のレイに視線を送る。が、レイも俺を見て小さく首を横に振るだけだった。  当たり前か。町の人間である俺にさえ訳が分からないんだから。  今まで幾度となく風の丘亭には足を運んだが、こんなことは初めてだった。  長い、沈黙だったと思う。それを打ち破ったのは誰かが発したこんな一言だった。 「リードが女性と一緒にいる」  おぉ、という重く嘆くような溜め息。  神に見放された哀れな子羊の群れ。それでもなお人々は祈り続けた。信じれば救われる。そう信じなければ生きて行けなかったのかもしれない。そこには絶望だけが横たわっていたから……って、ちょっと待てぃ。 「絶望って何だ、絶望って。俺が女性と一緒にいちゃいかんのか」  一瞬の沈黙。 「当たり前だっ!」 「ふざけんなっ!」 「何様のつもりだっ!」 「リードのくせにっ!」 「死んで詫びろっ!」  なぜかめちゃくちゃに罵倒されてしまった。 「……間違ってるのか、俺?」 「いや、訊く前に怒ったほうがいいと思うんだが」  自分の顔を指差す俺にレイが困ったような表情で言う。 「すっかり負け犬根性が染み付いちゃって」  クレアよ、人を哀れみの目で見るんじゃない。 「ったくテメーら酒の勢いで好きなこと言いやがって」  歯を剥き出しにしてうめきつつ、俺に心無い言葉を投げ付けた一団を見やる。思った通りそこにいたのは見知った面々。俺の幼馴染み達だ。  皆この町で生まれ、この町で育ち、この町に根を下ろして生活している。  肉屋のニール。花屋のクレス。木こりのリックもいる。その他にも知った顔ばかりが並んでいた。 「酒の勢い? それは違うぞ」  肉屋のニールがすっと立ち上がる。 「俺たちは心の底からお前はモテない奴だと……」 「よけい悪いわっ!」  拳を握って叫ぶ。手近に投擲できる物体が無い事が残念でならない。 「大体おかしいだろ」 「何が」 「何で耳からスパゲティ食う男の横にそんな綺麗な女性がいるんだよ」 「食えるかっ!」  しゃっしゃっしゃっ、と手を叩いて笑う一団に俺のこめかみがとてつもない勢いで痙攣する。  えぇい、このクサレ酔っ払い共が。 「とにかく、今日の俺はお前たちの相手をしてやれるほど暇じゃないんだ」 「何を元死刑囚が偉そうに」 「そうだな。恩赦がなければ今ごろ墓の下……って、あああああああああっっっ!!!」  もう嫌だ。もうやめる。何なんだこの身のない会話は。 「というわけでカウンターにしようか」 「あ、あぁ」  にこやかな笑顔で席を勧める俺とは対照的に、レイは何かに戸惑っているようだった。  何に戸惑っているのかはさっぱり分からないが。 「相変わらず騒がしいな、お前らは」  レイ、俺、クレアの順で席につくと岩を思わせるような重低音が上から落ちてきた。見上げれば筋骨たくましい大男がカウンター越しに立っている。角張った顔に口ひげ、組まれた腕は丸太のようだった。  どう考えてもいるべき場所を間違えているような気もするが、これで正解だ。  彼こそがこの町で一番おいしいアップルパイを焼く『風の丘亭』のマスターだった。断じて森から迷い込んできた熊ではない。 「騒がしいのはあいつら。俺じゃない」  きっちり訂正しながら親指で背後を指さす。 「まぁいいさ。それで、こちらのお嬢さんは?」  細くはあるがやたらと力のある目でレイを見やり、マスターが訊いてくる。 「お客さんだよ。勇気を出して食事に誘ってみた」 「そうか。お前の所に来るような人には見えないんだがな」  そう言いたくなる気持ちも分からないでもない。今のレイはどんな角度から見たって、いいトコのお嬢さん、にしか見えない。武器屋とは一生無縁な人生を送りそうな雰囲気を全身から醸し出していた。 「レイ・ケインベックだ」  が、自己紹介してレイが差し出した手を握り返した瞬間、マスターの顔がわずかに変化する。  レイも同じだった。マスターの節くれだった手を握るその表情は確かに緊張している。  共に気付いたようだ。 「確かにお前のお客さんだ」  いかつい顔を意味ありげに緩め、マスターはレイの手を離した。  レイは握られていた自分の手を見つめ、それからマスターの顔をどこか呆けたような表情で見上げる。  分かる人には分かるんだよな。  レイとマスターを見比べるように視線を動かし、俺はひとり微笑んだ。 「注文は?」  低い声が腹に響いた。空っぽの胃を刺激するようなその声は飲食業にぴったりだと思う。 「最後にアップルパイさえあれば後はおまかせで。レイは?」 「……ん? あぁ、私もおまかせする」  いまだもって自分の手を見つめていたレイが慌てたように答える。どうやら料理よりもマスターの方が気になっているようだ。 「わたしもおまかせ。でもオムレツは持ってきてね」  隣でクレアが手を挙げる。相変わらず研究熱心だ。 「俺の技は簡単には盗めんぞ。プレーンオムレツってのは簡単なようで難しいんだ」  腰に手を当てたマスターがクレアを見下ろす。この二人が喋っていると大人と子供、というより巨人と小人に見えてしまう。 「だーいじょうぶ。どんなに高い塔だって始まりは一つのレンガなんだよ」  人差し指を立てつつ胸を張るクレア。むう、と唸るマスター。 「見事な心意気だ。いい料理人になれるぞ」 「へへ、ありがと。でもね、料理人にはなれなくてもいいの」  と、なぜか赤く染まった頬に両手で触れ、クレアが目を閉じる。 「かわいいお嫁さんになって大好きな人にオムレツ食べてもらって、おいしいよ、って言ってもらうの」 「よかったじゃないか」  意味ありげな目でこちらを見るマスターに、俺は微苦笑を返すことしかできなかった。 「じゃあ特別だ。料理を作るところを見せてやる」 「やった!」  クレアの行動は素早かった。椅子から飛び降り、あっという間にカウンターの向こうに回りこんでしまう。その頃には腕まくりも終えていた。 「ちょっと行ってくるね」 「あぁ、しっかり勉強してこい」  厨房へ向かうマスターとクレアを見送った俺はレイを見てわざとらしく肩をすくめた。そんな俺にレイも笑みを返してくれる。  お、ちょっといい雰囲気かも。  期せずして二人になってしまったわけだが、この雰囲気を維持するためにどんな会話を展開するべきか。  なんて悩んでいたらレイが先に口を開いた。 「何者なんだ、彼は」  言いながら視線はマスターが入っていった厨房に向いている。  やはり気になるらしい。 「元ルーヴェリア騎士団団長だよ。二十三代目の」 「竜屠りの刃か!」  声の大きくなったレイに店内の視線が集中する。彼女は咳払いを一つすると、俺の顔を覗き込むようにして身を寄せた。  鼻をくすぐる女性らしい香りに体温が少し上がってしまう。 「なぜそんな人間が酒場のマスターなど」  必要以上に声を小さくするレイがおかしかった。  ちなみに「竜屠りの刃」とはマスターが現役の騎士団長だった頃の二つ名だ。読んで字の如く竜さえ屠る剣技の持ち主だった……らしい。実際に見たことないんで何とも言えないんだけど。  俺も何度か手合わせを申し込んだんだが全て断られてしまった。もう剣を手にするつもりはない、だそうだ。 「さぁな。何かあったことは確かなんだろうけど話したがらないし」  カウンターに頬杖をついて俺も厨房の方を見やる。 「でも、今の方が幸せだって言ってた」 「そうか」  独り言でも呟くように言って、レイはカウンターを見つめた。その横顔に一瞬陰が差したが俺は気付かない振りをする。  ミステリアスな女性は魅力的である。たまにそんな言葉を耳にするが、どうやら俺には肯けそうもなかった。  隠されると心配になるし、かといって自分から訊くだけの勇気もない。  行動しないくせに心配だけは一人前にする。典型的なダメ男じゃないか。  心配だけなら子供にもできるんだよな。 「どうした、暗い顔をして」  胸の奥で呟いていたらレイに言われてしまった。  俺が心配されてどうする。 「いや、おなかが空くとこんな顔になるんだ」 「なるほど。生物にとっては死活問題だからな」  本気か、はたまた俺をからかっているのか、とにかくやけに真剣な顔で肯くレイ。 「私は旅人だ。その気持ちはよく分かる。覚えておくといい、ヒャクニチツルギソウは煮て食べると意外と旨いぞ」  どうやら本気だったらしい。 「変なデキモノできる前にそんな食生活やめたほうがいいと思うけど」 「大丈夫だ。そのうち慣れる」 「……慣れちゃだめだろ、それは」  そんなツッコミなど交えつつ他愛のない会話をしばらく楽しんでいると、この店の看板娘であるニーナが料理を運んできてくれた。  よ、と手を挙げて挨拶する。 「こんばんは、リードさん」  ニーナは看板娘らしい素敵な笑顔を披露してくれた。相変わらず白いエプロンがよく似合う。  ニーナはマスターの実の娘である。娘ではあるが欠片も似ていない。というか似ないでよかった。母親の血が起こした奇跡に感謝、だ。  彼女は結構な数の皿を手際よくカウンターに並べていく。この辺の手際はさすがだった。 「クレアは?」 「まだお父さんの隣に」  あいつも集中すると周りが見えなくなるからなぁ。ま、おなかが空いたら来るだろ。  料理から立ち上る湯気と匂いに、胃の辺りを紐で縛られたような気分になる。正直、クレアのお料理教室が終るのを待てるだけの余裕はなかった。  と、レイをちらりと見やったニーナが身を乗り出し、お盆で「ついたて」を作った。 「綺麗な人ですね。彼女さん……ですか?」  表情が若干緊張しているように見えるのは気のせいだろうか。 「だと嬉しいんだけどな」  答える俺にニーナの表情が急に明るくなった。お盆を胸に抱き、そのまま草原を駆けていってしまうんじゃないだろうかってくらいの笑顔を浮かべる。 「そうですよね。リードさんですもんね」 「笑顔で人を刺すタイプだろ、君」  そんな俺の呻き声など耳に入らなかったのか、ニーナは「ごゆっくりどうぞ」とレイに向かって頭を下げ、軽くスッテプなど踏みながら厨房に戻っていった。  うーん、よく分からん。あれが最近の若者ってやつか。  ま、とにかくだ。  俺はリンゴ酒の入ったボトルを手に取ると二つのグラスに注いだ。グラスを持ち上げ、レイの前に差し出す。透き通った黄金色の液体を通し、同じようにグラスを持ち上げたレイが見える。 「二人の出会いに」 「気取りすぎだ。似合わない」  俺をからかうように笑いながらも、レイはグラスを打ち鳴らしてくれた。喧騒で満ちる店内にあってもその澄んだ音は不思議とはっきり聞こえる。  基本的にアルコールは苦手だ。だが一口ふくんだリンゴ酒は本気で旨いと思った。爽やかな香りが鼻に抜け、微かな酸味が喉を滑り落ちていく。そんなに強くもないようだし、これなら付き合いではなく好きで飲めそうだった。 「旨い」  空のグラスをしげしげと見つめ、レイが唸る。潰されないように気をつけなければ。  木製のフォークを手に取り、山菜のスパゲティを巻き取る。漂うバターの甘い匂いに涙が出そうになった。もし今、このスパゲティを奪い取られたら俺は間違いなく魔王となって世界を滅ぼす。 「愚かな人の子よ! お前にスパゲティを奪われた者の悲しみが分かるのかっ!」  と血の涙を流しながら勇者に向かって言ってみたい。  大きく口を開け、フォークをその中に突入させる。程よい固さに茹でられたスパゲティに溶けたバターが絡み、そこに山菜の旨みがじゅわっと……くーっ!  フォークを砕かんばかりにきつく握り締め、カウンターに額をつける。  舌だけではない。全身のあらゆる器官が喜び、雄叫びを上げていた。  ゆっくりと顔を上げた俺の魂が言う。 「生きてるって素晴らしい」 「そうだな。まったくもって素晴らしい。リード、すまないがもう一本もらっていいか?」  少し照れたような顔でレイがリンゴ酒の瓶を振って見せた。  ……早っ。  少々あきれながらもリンゴ酒を追加する。ニーナから酒瓶を受け取ったレイはついでにこんな注文をしていた。 「もう少し大きなグラスが欲しいのだが」  どうやら徹底的に飲むつもりらしい。レイの酒豪っぷりに感心とも驚きとも言えない顔で彼女を見ていたら頭を下げられた。 「すまない。本当に久しぶりなんだ」  まぁ、野宿に野草を食べる生活だったしな。 「いいさ。お礼に好きなだけ飲んでくれ」  グラス、というかジョッキを片手にレイが首を傾げた。意味が分かるように言葉を継ぐ。 「クレアにくれたペンダントのお礼だよ」 「そんなことか。気にしないでくれ」  ジョッキをあおり、息を吐いたレイが僅かに赤く染まった顔で微笑んだ。色っぽいんだかオッサンくさいだかよく分からない。 「あれさ、もしかして」  ポテトサラダをつつきながら、やや表情を改める。使ってもらった方が喜ぶから。俺はクレアがレイに言われたという言葉を思い出していた。 「察しの通り、妹の形見だ」  レイの細く白い指が酒瓶の首を撫でる。 「そんな大事な物」  身を乗り出そうとした俺を目で制し、レイは落ち着いた声で続けた。 「たくさんあるんだ。アクセサリーを作るのが好きな子だったから」 「そう、なんだ」  咄嗟に何を言えばいいのか分からなくなり、曖昧な返事をしてしまう。  そんな俺を見てレイは頬杖をつくと形のいい唇を小さく緩めた。 「他人の心の傷に触れるのは嫌いか?」 「当たり前だろ」  いきなり何を。 「臆病だな。だが、悪くない」  姿勢を正したレイがカウンターの上で腕を組む。彼女が動くたびに揺れる黒髪は、ただひたすらに優雅だった。触れてみたい。そう思うのは男だけではないはずだ。 「少し喋っていいか」 「駄目だ、って言ったら?」 「君が駄目だと言ってもこいつがいいと言ってる」  レイは酒瓶に指先で触れ、愛しそうに撫でた。酒瓶さえも赤くなりそうな艶やかな指の動きについ汗をかいてしまう。  額の汗を悟られぬよう視線をレイの顔からはずし、 「じゃあ、どうぞ」  と黄色いかぼちゃのスープに向かって俺は答えた。 「ありがとう。そうだな……まず、村の話をしよう。私の生まれた村だ」  酒の力か、レイの口調は軽い。  肯き、俺はスープを口に運んだ。甘く、旨かった。 「ここからだと西の方になるな。山間にある、小さな村だ。豊かではないが冬に餓死者が出ることもなかった。何の特徴もない、ただの村だ」  言葉を切り、思案するようにレイが顎に手をやる。それから不意に彼女は破顔した。 「困ったな。ほかに語るべきことがない。我が故郷ながら驚きだ」 「じゃあ、レイの事を教えてくれよ。どんな子供だった?」 「それこそ語るべきことがない。普通の田舎娘だ。槍ではなく鍬を握っていた」  ジョッキに酒を注ぎ足し、レイが楽しげに笑う。が、彼女が槍を握る事になった理由を考えると一緒に笑う気にはなれなかった。  無理をしてるんじゃないだろうか。  レイの笑顔と飲み干されていくリンゴ酒に思ってしまう。 「すまない。やはりつまらないな」 「そうじゃないんだ」  レイの申し訳なさげな表情に俺は慌てて首を振る。 「俺は綺麗な女性と食事できるだけで十分幸せなんだけど、そっちは?」 「幸せだ。酒も料理も十分私を満たしてくれてる」 「ならいいんだけど」  語尾を濁しながら言って、スパゲティの上の山菜をフォークでつつく。  本当に訊きたかったのは、俺と一緒にいて楽しいか、って事だったんだけどどうしても切り出せなかった。そんな質問をすること自体がカッコ悪いような気もするし、レイだって答えにくいだろう。  それでもやはり気になってしまう。この時間はレイにとって有意義なものになっているのだろうか。  そんなことを考えていたらレイに詰め寄られた。いきなり縮まった距離に口が半開きになってしまう。 「君はほんっ……とうに臆病だな。武器屋の看板が泣くぞ」 「いや、それは関係ないような」 「何をごちゃごちゃ考えているのかは知らないが、酒の力を借りてはっきりと言っておこう」  ジョッキに残った液体を飲み干し、少しばかり据わった目で俺を見上げるレイ。 「私は君を気に入っている」 「その、なんで?」  反射的に訊いてしまった。どこまでも自分に自信がない男なのだ、俺って奴は。 「私を誘ってくれたからだ」 「そんなの、今までだって山ほどあっただろ」 「ない」  即答。 「いいか、冷静に考えてみてくれ。私はハンターでもないのに竜を追って野宿を繰り返し、野草を食べて生きているような女だ。どう考えたって気持ち悪いだろ」 「別に」  今度は俺が即答する番だった。予想外の答えだったのか、レイは目を見開いて実に分かりやすく驚きを表現してくれる。 「なぜ無理をする」 「してないって。そりゃ最初はちょっと驚いたけど、よく考えたら旅人ってそういうもんだし」  別にレイに気を使ってこんな事を言っている訳ではない。俺は本気でそう思っていた。扱っている品物ゆえ、ウチの客は八百屋の客よりも確実に濃い。  俺は見かけによらないレイの言動に驚いたのであって、言動そのものに驚いたわけではなかった。  これが同じ旅人でもウチのぼけ親父の言動なら「誰がそんな上等なもん食えって言った。樹液でもすすっとれ」と蹴り倒していたところだ。 「だが、私は女だ」  お。  うつむくレイとは対照的に、俺はにやにやとした笑みをこぼしてしまった。 「気にするんだ、そういうの」 「なっ」  からかうように言った瞬間、レイの顔が跳ね上がった。酒によって赤くなった顔をもう少しだけ赤くして、面白いくらいに焦って見せてくれる。 「ばっ、だから……その、だいたい! 慎みとかしとやかさは男が女に押し付けたものじゃないか」 「ふーん。俺は別に押し付けた覚えはないけど」 「うるさい! とにかく私は……その、なんだ。えーっと、何を言おうとしたのか分からなくなったぞ。君のせいだ」 「んな無茶な」  酒がレイの頭をいい感じに溶かしだしたらしい。普段の真面目な彼女との差が不思議で、愉快だった。気さくな今のレイも悪くない。 「リード・アークライト!」  いきなり名を呼ばれて指を鼻先に突きつけられ、つい目が寄ってしまった。 「なっ、なに?」  レイの指先を見ながらちょっと身を後ろに逸らす。戸惑う俺をよそにレイはなぜか自信ありげな、というか大物ぶった表情で「うむ」と肯くと、何とも形容しがたい笑顔を浮かべてこう言った。 「ありがとう。本当に嬉しかった」  頭を掻き、とりあえず照れる俺。  何なんだろうね、胸の奥に春の陽気をぽんっと置かれたようなこの気持ちは。  まっ、レイが楽しんでくれてるならそれが一番だ。 「おい、鼻スパのリード。お前は誰に断って女性といい雰囲気になってんだ、こら」  いきなり浴びせられた酔っ払い特有の鈍った声と酒臭さに顔を歪める。嫌々ながらも顔を向ければ案の定肉屋のニールがいた。  完全にできあがってやがるな、こいつ。 「邪魔すんな。ていうか鼻スパって何なんだ」 「鼻からスパゲティを……すまん、お前は耳からだったな」 「場所の問題じゃねーだろ」 「だめだぞ、自分のアイデンティティは大事にしないと」 「……そんなもんに依って立った覚えはねぇ」 「それはともかく、だ」  うめく俺を押しのけ、ニールが無理矢理俺とレイの間に割り込む。と、急に姿勢を正した彼はこんなことを言った。 「寂しい我々のテーブルを飾る一輪の花になって頂けませんか、美しいお嬢さん」  ニールの台詞に応えて店の一角から拍手や口笛が飛ぶ。大盛り上がりだな、酔っ払い。  レイは少し首をかしげてニールを見上げ、一度目閉じてから立ち上がった。  さらに大きくなる喧騒。拍手喝采、と言っても差し支えない。  なんだかなぁ。  頬杖をついて盛り上がるテーブルとレイに目をやる。庭で大事に育てていた花を黙って持っていかれたような気分だ。と、レイは俺に顔を近づけそっと囁いた。 「収まりそうにないからな。すぐに戻る」  子供を安心させる母親のような笑顔に顔が熱くなるのを感じる。相当納得いかなさそうな、というか寂しそうな顔してたんだろうな、俺。  ニールに手を取られて歩いていくレイ。その後姿の見事なラインについ嘆息してしまう。まぁ、ニール達が一緒に飲みたいと思う気持ちも分からないでもなかった。  レイがテーブルに到着すると歓声は最高潮に達した。囚われの姫を助け出した騎士団だってあそこまでの歓声は挙げないだろう。  誰もが手を叩き、床を踏み鳴らしている。  ていうかいい加減にしないと追い出されるぞ、お前ら。  と、そんな喧騒から逃げ出すようにテーブルから離れ、カウンターの俺から少し離れた場所に座った人物がいた。  木こりのリックだ。  彼は何かを確かめるようにテーブルの方を肩越しに振り返り、それから思い詰めたような表情でカウンターを凝視する。  気分でも悪いんだろうか。そういやリックも飲める方じゃなかったしな。  かなりまいっているようだが、大丈夫だろうか。  心配になった俺が声をかけようとした時だ。  入り口の戸が開き、冷たい夜風と共に馴染みの顔がまた一つ増えた。  ダークブルーの髪と目、そして黒の制服。腰に一振りのショートソードと手錠を提げた男の名はカート。俺の幼馴染みであり、この町の警備兵でもある。  ちなみに昼間、パン屋のロイに告白するため俺の顔を見て気合を入れた少女はカートの妹だ。  しかし制服のままということは飲みに来たわけではないようだ。カートは鋭い目つきで店内を見回すと足を踏み出した。その後ろからもう一人、男が顔を出す。こちらは馴染みの顔ではなかったが、知った顔ではあった。  昨夜家の前で殴りあい寸前までいったハンターの男だ。男はポケットに手を入れたまま店の奥、ニール達がいる方に視線を飛ばすとカートに何事か囁いた。  一つ肯いたカートがさらに歩を進める。  警備兵とハンターという意外な組み合わせにどんな意味があるのか。それを考えているうちにカートは店内で一番騒がしいテーブルに到着してしまった。  皆制服とカートの厳しい表情に何かを感じ取ったのか、喧騒が一瞬にして霧散する。沈黙の中、低く抑えられたカートの声が告げた。 「レイ・ケインベックだな。少し話を聞かせてもらうぞ」  誰もが一瞬混乱したと思う。それを感じさせる妙な空気が確かに流れた。  レイが、警備兵に何を話すんだ?  レイもカートの顔を見上げ、何を言うべきか迷っているようだった。しかし視線がこちら、いや、俺の背後に向いた瞬間レイの表情が激変する。 「貴様ぁっ!」  牙を剥き出しにした獣の如く吼え、テーブルを踏み越えたレイが疾る。咆哮が空気を震わせ、床に落ちた皿がその身を四散させた。  レイの手には……ナイフ。  食事用のそれでも人を殺すには十分な凶器となる。  反射的に立ち上がった俺は彼女の前に立ち塞がった。  殺させてはいけない。頭の中にあったのはそれだけだ。 「どけぇっ!」  レイが叫ぶ。どうやら止まってはくれないようだ。  俺は奥歯を噛み締め、構えた。拳は握らない。軽く開く。  俺を退かせようとしたのだろう。こちらの手を狙い、レイがナイフを突き出す。  同時に俺は強く踏み込み、手を伸ばした。手のひらに鋭い痛みが走る。だが退くわけにはいかなかった。  レイが人殺しになってしまう。そんな予感がしていた。  俺は痛む手でレイの手首を何とかつかんだ。そのまま力の流れに逆らわず腕をひねり、レイの体を空中で一回転させて背中から落とす。  肺から無理矢理空気を搾り出されたような呻き声をあげたレイの体をひっくり返し、俺は彼女の腕関節を壊れない程度に極めた。  すぐさまナイフを奪い取り、放り投げる。床を滑るナイフ。レイの歯軋りが確かに聞こえた。 「何が、どうしたんだ」  血を流し、レイの手首を汚し続ける自分の手を気にしながら誰にともなく訊く。どこに視線をやったらいいのか分からず、店内を見回してしまった。 「一体何の騒ぎだ」  岩石のような声を引き連れてマスターが厨房から出てくる。その足下にはクレアがいた。マスターもクレアも考えた事は俺と同じらしい。何がどうしたんだ。表情がそう言っている。  特にクレアは泣きそうな顔で俺とレイを見つめている。泣きたくもなるだろう。俺だってそうなんだから。 「カート」  混乱する頭で考えた末、状況を説明してくれそうな人物に思い当たった俺はその名を呼んだ。  ショートソードを抜いたカートはレイの脇にひざまずき、剣先を白いうなじに突きつけた。 「動くなよ」  そうレイに命令してから顔を上げる。 「今日、山で死体が二つ見つかった。彼の仲間だそうだ」  言いながらカートは入り口で突っ立っているハンターの男に目をやった。店内の視線が男に集中する。男は何も言わず唇の端を吊り上げ、二度軽く肯いた。 「それで昨晩彼らと行動を共にしていた彼女に話を聞こうと思ったんだが」 「私は殺してなどいないっ!」  床に組み伏せられたレイが叫ぶ。振動となって体から直接伝わってきた彼女の声に俺は唇を噛んだ。 「誰も君が殺したとは言ってない。俺は話を聞きたかっただけだ」  カートはそう言う。だが店内にの客たちがレイを見る目は明らかに変わっていた。ニール達のように戸惑っているくらいならまだいい。中にはレイを人殺しだと決め付けているような視線もあった。  悔しいと思う反面、この状況では仕方ないかとも思ってしまう。実際にレイはこの場で殺そうとしてしまったんだから。 「俺は、見たぞ」  不意にそんな声がした。耳に慣れ親しんだ声。今は震えている。 「昨日の夜、この女が山で男を引きずってるのを」  木こりのリックの発言に店内がざわめきで満ちる。  それでさっきレイから逃げるようにテーブルから離れたわけか。 「なぜ届けなかった」 「その、関わっちゃいけねぇと思って」  カートの問いにリックは身を縮めて答えた。たくましい体つきとは対照的に、彼は気が小さく心優しい男だった。  よく見れば顔は青ざめてさえいる。  しかしこれで状況はレイにとってますます不利になった。疑いの視線がさらにきつくなる。  俺自身、怪我をしてないのに血まみれで返ってきた昨日のレイの姿が頭から離れなくなっていた。  鼓動が緩やかに速度を上げ始める。  まさか、あれは。  背筋を冷たい痺れが走ったところで俺は頭を振った。レイは殺してないと言ってる。信じろ。 「とにかく詰め所に来てもらうぞ。リード、お前もだ」  カートは俺の顔を見て続けた。 「死体の横には彼女の槍が落ちていた。あれはお前の店で売ったものだな」 「あぁ」  カートは小さく肯き、腰の手錠を手にする。その鈍い銀色の輝きに、つい腕に力が入ってしまった。 「リード、痛い」  苦痛を訴えるレイの声。反射的に力を緩めてしまった、その瞬間。 「バカ野郎!」  カートの怒声が耳に入ったのと同時だった。肩の関節を曲げてはならない方向へ捻じ曲げ、レイが体を起こして床を蹴る。  彼女が向かった先には……クレアがいた。  伸ばした手がむなしく宙を掻く。 「動くな!」  クレアの背後に取り付いたレイの手には小さな食器の破片が握られていた。その破片をクレアの喉元に押し付ける。 「お姉ちゃん」  潤んだクレアの声にレイは一瞬迷うような表情を見せたが、結局は俺とカートに鋭い視線を向けた。  いや、痛みに耐えているせいでそういう表情になってしまったのかもしれない。レイの右腕は完力なくぶら下がり肩の関節が外れていることは容易に見てとれた。 「道をあけて貰おうか」  一度カートと顔を見合わせた俺は仕方なく立ち上がり、脇に避ける。  周囲からレイに向けられる視線はすでに疑念ではなくなっていた。そこにあるのははっきりとした敵意だ。  そんな雰囲気の中クレアを伴ったレイが一歩、また一歩と進んでいく。 「何で、こんなことするんだ」  どんな理由があろうとも他に方法はなかったのか。いや、あったはずだろ?  だがレイは俺の顔を一瞥しただけで何も答えてはくれなかった。  変わらぬ速度で入り口まで歩み、立ち止まる。 「全員、店の奥に行くんだ。早くしろ」  ここで飛び掛るべきか。  腰を落とした俺の肩をカートが叩き、首を横にふる。  だが、と口を開きかけた俺を制すように彼は言った。 「刺激するな。このままの方がいい」  プロにそう言われてしまっては動く事もできない。俺はクレアとレイを視界に捉えたまま店の奥まで後ずさりした。  レイは最後に俺を見て何か言おうとしたようだ。が、結局その口が声を発する事はなくレイの姿は開け放たれた扉から夜の町に消えていった。  引いていた波が戻って来るように、ざわめきが戻ってくる。安堵の溜め息と、敵意に満ちた罵りがそのほとんどを占めていた。  俺はクレアに駆け寄り、小さな体を抱きとめる。首筋を穴の開くほど見つめ、わずかな傷さえ付いていないことに心から安堵した。 「痛いところとかないか?」 「うん、大丈夫」  涙に濡れたクレアの目を見た瞬間、胸の奥に黒い感情が湧き上がる。  背後で客たちが囁いているレイへの罵りが大きく、うねるように聞こえてくるような気がした。  と、不意にクレアが俺の手をとる。 「だめだよそんな顔したら。お姉ちゃん、わたしに『すまない』って言ったもん。謝ったんだから許してあげないとだめだよ、お兄ちゃん」  俺は左手で自分の顔を覆い、天井を見上げた。  長く息を吐きだして目を閉じる。  俺はどうするべきなのだろうか。  今はただ少し、考えるのに時間が欲しかった。  5  上着のポケットに手を突っ込み、通りに一歩踏み出す。大きな溜め息をついた俺は背後を振り返り、口元を歪めた。こじんまりとした、警備の詰め所。看板を変えれば女の子に人気の雑貨屋に見えないこともない。   あれからカートによってここに連れて来られた俺はレイに関してあらゆることを喋らされた。 レイと出会ってから風の丘亭で別れるまでの全て。 おかげで日付はとうの昔に変わってしまった。   窓から漏れる灯りに向かって白い息を吐き、俺は正面に向き直った。  椅子に座りっぱなしだったせいか腰が痛い。そんなことをぼんやりと思いながら空を見上げる。  昨日と変わらぬ星空がそこにはあった。いや、正確に言えば少しは変わっているのだろうが、それを説明できるほど俺は星に詳しくない。  それとも実は星空は大きく変化していて、その変化をつかめないほど俺が鈍感なだけなのだろうか。  レイに関しても同じ事なんじゃないかと、ふと思う。  少なくとも俺には彼女が豹変したように見えた。だがそれは豹変したようにしか見えなかっただけなのだろう。  敏感な人なら気付くサインや前兆といったものをレイは発していたのかもしれない。それをつかむことのできなかった自分が腹立たしく、情無い。  俺は空から石畳に視線を落とし、足を引きずるようにして一歩踏み出した。と、視界の端に茶色いブーツのつま先が入り込んでくる。  我ながら視線に落ち着きがない、と思いつつ俺は顔を上げた。一緒に警備の詰め所まで連れて来られ、一緒に開放されたハンターの男が目の前に立っている。詰め所内で何となく聞こえたカートとこの男の会話によれば、名前はエイクというらしい。少し絞り過ぎじゃないだろうかと思えるような体とこけた頬をしているが、決して華奢というわけではない。よくしなる、そして打たれれば痛そうな鞭を連想させるような男だった。  できれば時間をずらして解放してほしかったんだがな。  心中で嘆息する。  出会いが最悪だっただけにどう口をきけばいいのかが分からなかった。だいたい何でこの男は俺の方を向いて立ち止まっているんだろうか。彼……エイクにしたって話すことなど何もないだろうに。 「災難だったな」  と思っていたら声をかけられた。あまりに意外だったものでつい無言になってしまう。ただ眉間に皺を寄せてしまった俺にエイクは口元を歪めると、鼻で息を吐いた。 「俺とは喋りたくもないってか?」 「誰もそんなこと言ってないだろ」  反論した事によって会話が成立してしまう。何となく納得いかなかったが、えぇい、と手を振り言うべきことだけは言っておくことにした。 「災難なのはあんたの方だ。その、お悔やみだけは言っとくよ」  たとえ気の合わない相手であっても仲間を失った人間に喧嘩腰で臨むほど俺は子供でもない……と思う。  エイクの表情が僅かに変化した。まず驚きにか目が少し大きくなり、それから顔全体に張り付いていた「けん」が薄れる。  どうやらエイクの方も俺と殴りあう気はないらしい。昨晩の続きが始まるのかと少し身構えてはいたのがその必要はなかったようだ。  さすがにこんな時じゃな。  寒さに痛む手をポケットに突っ込み、臨戦体勢を解く。拳は必要ないだろう。エイクも同じようにポケットに手を入れると独り言でも呟くように言った。 「顔も頭も悪かったが、それでもいい奴らだった」  夜気に交じった白いもやが解けるように消えていく。表情だけ見ればそこから何かを感じとることはできなかった。だが、感情の匂いとでも言うべきものは確かに感じる。器用な寂しがり方だな、と思った。仲間が死んだんだ。俺なら歯を食いしばって地面に座り込んでいる。 「こんなこと、あんたに言っても仕様がないな」  薄く笑い、じゃあな、とこちら背を向けるエイク。 「おい」  立ち去ろうとしたエイクの背に向かって声をかけてしまう。この生意気な男に同情したわけではなかった。冷たい夜風が俺を感傷的にしただけだと思う。いや、そうに違いない。断じてそうだ。  振り返ったエイクが肩眉を上げて俺を見る。用があるなら早くしろ。顔がそう言っていた。  そんなエイクの表情に俺は一瞬迷ったが、結局は言ってしまう。 「あんたも貧乏なのか?」  も、としたのは頭の中にレイの姿があったからだ。エイクの方眉がさらに釣り上がる。 「失礼な奴だな。宿代くらいは持ってる」 「酒代は?」 「それはないな。最近狩れてないんでね」  俺はポケットにあった銀貨を一枚取り出し、エイクに向かって放り投げた。ポケットから出した右手でそれを受け取り、彼は不思議そうな顔をしてみせる。食堂でスパゲティを頼んだら、皿に乗った本が出てきた。そんな時にならするかもしれない表情。 「この通り沿いに一軒の酒屋がある。まだ開いてるはずだ」 「飲んで寝ちまえ、と」  俺は黙って首を縦に振った。 「同情してんのか?」 「してねぇよ!」  つい叫んでしまう。 自分の中にある甘さとか、おせっかい焼きの部分が少し嫌だったのだ。  っとに、何で俺は友人でもない男に、初対面で殴り合いそうになった男に酒代など渡してしまったんだろうか。  いきなりの大声にかエイクが顔をしかめる。その後で嘆息し、不意に彼は表情を改めた。真剣な眼差しに身構えてしまう。 「礼の代わりに一つ忠告しておいてやる。あの女には関わるな」  あの女、がレイを指していることは間違いなかった。 「彼女が殺したと思ってるからか?」 「そうだな。だが、それだけじゃない」  言いながらエイクはポケットから小さな赤い実を取り出した。 「これが何か分かるか」  正直に首を振って否定する。見たこともない植物だ。主張の激しすぎる赤色は月の光の下で見ていても苦々しかった。同時に、齧っても苦いんだろうな、なんてことを思う。 「キャストの実だ。こいつには痛みや恐怖心を取り除く作用がある。もっとも、使いすぎれば頭がいかれちまうわけだが」 「何でそんなもの俺に見せるんだ?」 「あんた、竜の前に立った事はあるか?」  質問に質問で返され多少むっとしつつも「いいや」と答える。エイクはキャストの実を握り締め、幾分引きつった笑みを浮かべて見せた。 「恐いんだよ。半端じゃなくな」  人に弱みを見せるタイプではない男が言った一言だけに妙な真実味がある。 「本能が死を察知するんだろうな。失禁なんて珍しくもない。そのままぷつんとイっちまう奴だっている。正直、俺だって泣きながら逃げた事がある。要するに、だ」  言葉を切ったエイクが人差し指と親指で小さな実をつまんで見せた。 「こんなもんに頼らなきゃやってられないんだよ、ハンターってのは」  なるほど。そうやって恐怖心を抑えていたわけか。動物の中でもかなり戦闘力が低い人間が世界最強の種族を狩るんだ。そんな反則技でも使わないとやってられないだろう。だが……、 「それがどうしたんだ、って顔してるな」  口元にふざけた笑みを貼り付け、エイクが言う。慌てて表情を改める自分が情けなかった。 「あの女はな、使わないんだよ。何もな。それどころか笑ってやがるんだ」  信じられるか? そう言いたげな目をこちらに向けてくるエイク。ただ竜の前に立った事がない俺にはそれがどれだけ異常なことなのか、実感しづらかった。レイなら竜を前にして笑うくらいのことはするんじゃないかと思ってしまう自分がいる。特にレイの場合復讐のために竜を追っている。憎しみが恐怖を凌駕することだってあるんじゃないだろうか。 「まぁ、経験したことのない人間に言っても無駄か」  こちらを見ながら諦めたような表情でエイクが言う。疑問が顔に出てしまっていたようだ。 「あんた、あの女と一度竜を狩ってみたらどうだ。竜もそうだが、あの女の変わり様も見物だ。見ておいて損はないと思うがな」  口元を薄く緩め、エイクが首を僅かに傾ける。どうだ、ん? というポーズなのだろう。 「変わり様、ってのはどういうことだ」 「そうだな。分かりやすく言えば中身がそっくり入れ替わっちまう。そんな感じだ」 「分かりにくい」  即答する俺にエイクは腕を組み、しばし考えた後で組んでいた腕をほどいて開いた。 「いやな、竜を前にした瞬間目の色が変わるって言うか、とにかく変わっちまうんだ。ほとんど別の人間だな、ありゃ」  エイクの代わりに腕を組んだ俺は小さく嘆息した。竜を前にした瞬間、レイの感情が憎しみ一色になるということなのだろうか。 「竜を狩るためだったら何だってやるだろうな、あの女は。それこそ人殺しさえ」  ポケットに手を入れたエイクが空を見上げる。数秒、目を閉じた間に彼が何を考えたのかは分からない。ただ、何かをこらえるような表情だったことだけは確かだ。  怒りか、悲しみか、恐怖か。 「なぁ、山で何があったんだ?」  警備の人間でもない俺がそれを聞いたところでどうにもならないことは分かっている。だがそれでも得られた情報から考えてみたかった。好奇心、というよりもレイ、か。レイは殺していない、という結論を導き出したいだけなのかもしれないが。正直、いまだに信じられないし、信じてもいない。どうしてもレイが人を殺すとは思えなかった。クレアを人質にとった時にも謝ったというし、やはり何か理由があるのだろう。肩をはずしたまま逃亡しているレイの姿を思い浮かべ、唇を歪める。  責任を感じていた。もしあのとき俺が手を緩めさえしなければレイは逃げず、もう少しマシな結果になっていたかもしれない。少なくともレイと話をすることはできたはずだ。彼女がクレアを盾にして逃げたことにより、町の人間がレイに対して抱いている感情はかなり悪い。 もし警備より先に町の人間に捕まりでもしたら私刑にかけられる可能性だって十分ある。それだけは何としても避けたかった。レイが私刑にかけられるのも、町の人間がレイを私刑にかけるのも、見たくはなかった。 「悪いが、喋るなって言われてるんでね」 エイクの返事は素っ気なかった。彼は警備の建物を一瞥し、こちらに背を向ける。 「どうしても、か」 「俺はよそ者だ。知らない土地で警備に逆らいたくないんでね。味方がいないからな」  確かにそれは道理だ。  俺は拳を握り、口を開いた。 「どうしても駄目か」 「勘弁してくれ。あんたには誰かを守ってやれる余裕があるだろうが、俺は自分一人で精一杯だ」  エイクの言葉に握っていた拳を開き、諦める。押し通せるようなわがままではなかった。 「悪かった」  溜め息交じりに詫びる。 「いや、酒代ありがとな」  ひらひらと手を振ったエイクは乾いた足音を伴って闇に消えていった。細くはあるが決して狭くない背中を見送り、地面を蹴る。  俺にできることは何なのだろうか。家に帰るまでに思い付けばいいのだが。  カウンターに頬杖を付き、道行く人々をただぼんやりと眺める。結局、あれから何も思いつかなかった。した事といえば朝からひっきりなしにやって来る近所のおばちゃん達の相手くらいだ。  昨夜の一件は田舎町で起きた大事件として広まっており、噂好きのおばちゃんたちにとって格好の餌だったようだ。  みな口々にクレアの心配をしてくれるのはいいのだが、噂に尾ひれどころか羽まで生えているようで、クレアが首を切られて生死の境をさ迷っていると思い込んでいるおばちゃんまでいた。  それを否定しつつ、レイのフォローを入れてみたが、はたしてどれだけの効果があったのか。  町の人間は完全にレイが人殺しだと決め付けている。  人が二人集まれば必ずその話題から会話が始まっているような雰囲気があった。  人殺しの女が逃げ回っている。  いつもなら耳を塞いでいても聞こえる子供達の声も今日は聞こえない。恐らく親によって家の中に監禁されているのだろう。大体、警備兵自体が「殺人犯が付近に潜んでいる可能性があります。できるだけ家から出ないように」と言って町を走り回っているのだ。  レイにかけられた疑惑は法を司る、疑わしきは罰せず、のはずの警備兵によって確信に変えられてしまった。  たとえ警備の人間にとってレイが容疑者でも町の人間にとっては確実に人殺しだ。  俺はカウンターに顎を乗せ、長く息を吐いた。唇を引き結び、頷く。俺にできる事が全くないわけじゃない。それは分かっていた。分かっていて気付かないふりをしていた。  レイを探そう。悠長に店を開けてる場合じゃない。  そんな事をしても無駄だと囁いていた己の心の嫌な部分にふたをして俺は立ち上がった。  とにかく動くことだ。動けばこの胸の奥にたまったもやもやも晴れるだろう。  と、店の臨時休業を告げるべく奥にいるクレアを呼ぼうとしたときだった。入り口に小柄な人影をみとめ、目を凝らす。そこにいたのはこちらから呼び出すことはあっても客としてここを訪れることはまずない人物だった。  よれた白衣に同じくよれた白髪と白髭。口は不機嫌そうにへの字にひん曲り、眉間には深い谷のような皺が刻まれている。  そこにいたのはレイの治療でお世話になった先生だった。  先生は無言でカウンターの前までやって来ると、俺を睨むように見上げた。 「あの……何か」  小柄な老人が発する妙な迫力に押されてしまう。これが年の功ってやつだろうか。つい一歩あとずさってしまう。 「ついて来い」  先生はそれだけ言ってこちらに背を向けてしまった。突然のことに事態を把握できないでいる俺にさらなる声がとぶ。 「早くしろ」 「いや、あの、俺にはやる事が」  言ってはみたものの、「そんな事は知らん」 あっさり却下されてしまった。どこまで頑固なんだこの爺さんは。というかただのワガママだな、こりゃ。 「そうそう」  思い出したように言って振り返る先生。 「嬢ちゃんも連れて来い。会いたがっとる」 「会いたがって……誰がですか?」 「来ればわかるわい」  俺の質問に答えもせず、先生は店から出ていってしまった。大きく息を吐いた後で吸い込み、奥にいるクレアに呼び掛ける。  とりあえず店を閉めるまでは待ってて下さいよ、先生。  クレアの手を引き、小さな背中を見ながら歩く。振り返れば町並みとうねるような石畳の道が見えるはずだ。  ここまで来れば問わずとも行き先は分かった。この道を通って行ける場所は一つしかない。  天気は驚くほど良かった。降り注ぐ日の光のおかげで寒さもだいぶ和らいでいる。上で昼寝ができそうなほどふわふわとした雲を見上げ、目を細くする。殺人犯の噂で持ち切りの町には酷く似合わない雲だった。  目的地に到着したところで前を行く先生が立ち止まり、こちらを一瞥する。  同じく立ち止まった俺も目の前の建物を見つめ、人差し指でこめかみを掻いた。 「本を読むの?」  そんな問いを発するクレアに向かってわざとらしく肩をすくめて見せる。  俺が自発的に来たのであれば本を読む以外にここに来る理由はないんだけどな。  町の外れに建つレンガ造りの建物。神に仕える者たちの家。俺にとっては読書の場。要するに修道院だ。  しかし何でまたこんな所に。俺はいまだに先生の真意をはかりかねていた。何の用事があるのかは知らないができるだけ早く済ませてレイを探しに行かなければ。まだ野宿が辛い程度には夜は冷える。  ノックもなしに、まるで自分の家であるかのように扉を開け、先生は中に入っていった。我が道を他人を引きずって無言で歩く先生の性格は今に始まったことではないが、一言くらい説明があってもいいような気がするんだが。  小さく溜め息をついたときには説明を求めるべき背中はとっくの昔に消えており、扉も閉じかけていた。  扉を押して中に入り、先生の後を追う。  薄暗くはあるが決して不快ではなかった。静かに澄んだ空気に三つの足音が波紋を打つ。波紋は石造りの廊下に染みるように吸い込まれ行った。 「お兄ちゃん?」  雰囲気がいつもと違うことに気付いたのかクレアが顔を上げた。  答えてやりたいところが俺にも言葉がなかった。ただクレアの顔を見て頷くことしかできない。  説明責任を果たすべき人物は廊下の途中で立ち止まると庭へと続く出入り口から差し込む光の中で振り返った。そのまま何を言うでもなく白衣の裾を揺らして先生は光の中に消えていってしまう。  空いている左手を腰に手を当てて一度目を閉じた俺は先生に続いて庭に出た。  目より先に耳が反応する。  鋭い風切り音に背筋が痺れた。反射的に目を見開いた俺が目にしたのは舞い落ちる枯れ葉をとてつもない速度と正確さで打ち落とす物干し竿だった。  残像を引き、物干し竿が見事な円を描く。  一枚の葉が俺の鼻先に重なった。瞬間、円から線になった物干し竿が俺の顔面に向かって撃ち出される。  反射的に首を逸らそうとしたが間に合わなかった。  物干し竿は俺の鼻を叩き砕き……と言いたいところだが幸いにも枯葉を鼻に押し付けるような位置で止まってくれた。  寄り目で鼻先の枯れ葉を見つめ、長く息を吐く。吹き出した冷や汗で背中が一気に濡れてしまった。 「お見事。助かったよ」  俺は鼻先から物干し尾竿の持ち主に視線を移し、努めて軽い口調で言った。  吹き付けた少しばかり冷たい風に長い黒髪が揺れる。やっと先生が俺とクレアをここに連れて来た理由が分かった。  黒髪の持ち主……レイは口をわずかに開いて物干し竿を引くと、うつむいてしまう。さすがに昨日の今日じゃ顔も合わせ辛いのだろう。まぁ、俺の方にだって戸惑いはあるんだけど。  にしても、だ。なぜレイがここにいるのだろうか。  今度こそきっちり説明してもらおうと俺は先生に視線をやった。先生は腰の後ろで手を組むと「今朝、山に薬草を採りに行ったら倒れとったからな。拾って帰った」と言う。  その声色は「今朝は暖かかった」と言うときとさほど変わらないように思えた。  ま、今さら先生の言動にイチイチ驚いたって仕方ない。こういう性格なんだ、この人は。  と、胸中でやれやれと首を振ろうとした瞬間、脛に激痛が走った。 「何するんですか!」 「顔に出とるわ。バカタレ」  うめく俺。さすが年の功。  先生は俺からレイに目を移すと言った。 「まぁ、一度傷を診た以上ワシの患者だしな。見捨てるわけにもいかんじゃろ」  その表情はずいぶん穏やかだ。俺に向けられるあの不機嫌そうなへの字口はどこにいったんだ? 「ありがとうございます」  頭を下げるレイに先生は深く肯いた。 「それで、なぜ『ここ』なんですか?」  ここ、と言いながら地面を指差す。 「それについてはワシよりもほれ、ちょうど来よった」  先生に習って背後を振り向けばそこにいたのは、 「あ、芸人さんだ」 「はいっ、というわけで私も頑張っていかなきゃなーなんて、ってちがぁぁう」  風が、吹いた。  明らかに無理がある修道女、セシルの言動に無言になる一同。見てはいけないものを見てしまった。皆がそう思っていることだろう。事実、誰一人として視線を合わせようとしない。 「えと」  セシルの頬に流れる汗一筋。  俺は目を細め、空を見上げた。 「今、ちょっとだけカミサマに同情した」 「しないでよっ! 大体あなたがふったんでしょ。何か場が暗かったから私なりに気を使って……」 「うんうん。分かったから次は結果だそうな」 「うぅ、めげるもんか。めげるもんか」  何やら繰り返すセシルはさておき、ってさておいちゃ駄目だった。  長く伸ばされたダークブルーの髪に同じ色の瞳。裾の長いゆったりとした修道服に身を包んでいるこのセシル・アイフォードという二十二歳の女性。芸人のようではあるが、驚くべきことに非常に敬虔な修道女である。  黙って立っていれば体の線が出ない服を着ているのにも関わらずなぜか色っぽいのだが、口を開けばまぁ、こんな感じだ。初めて出会ったのがセシルが十五歳の時なので、付き合い自体は結構長い。 「で、レイがここにいる理由は?」  本日二度目の問いを発する。セシルは胸の前で手を組むと深く肯いた。 「主は全ての者を等しく愛されます」 「なるほど。それで保護したってわけか」  腕を組む俺に向かってセシルが微笑む。 「でも、最初は少しびっくりした。戸惑いもあったけど神仕様のお許しもあったから」  ふーん、と肯きながらこの修道院をまとめている神仕様(しんしさま)の柔和な髭面を思い浮かべる。  神仕様とは何か。  修道士よりもう一段階偉い信徒だと思ってもらえればそれでいい。セシルのお師匠様みたいなもんか。 「それに、レイさんは自分の口で『私は殺してない』って言ったんだから。主は決してその言葉をお疑いにならない。主の子である私たちにとってもそれは同じよ」  微笑むセシルと寛大な神の愛と先生の機転にこの時ばかりは本気で感謝した。確かにこの町で人をかくまおうと思えば修道院が最高の選択だ。ここなら警備の連中もやすやすとは踏み込んでこれないだろう。宗教施設ということでどこか特別視されてる部分もあるし。 とりあえずレイの身柄に関しては一安心、か。 「肩、ごめん。痛かったろ」 「そんな、これは自分のせいだ」  詫びる俺に肩を押さえたレイが慌てて否定する。押さえた肩をきつく握り、歯を食いしばったような表情でレイは深く頭を下げた。 「すまなかった」  喉の奥から搾り出すようなその声に俺とクレアは互いに顔を見合わせる。それから同時に口元を緩めた。 「いいよ、お姉ちゃん」  たん、と踏み出したクレアが物干し竿を握るレイの手を両手で包んだ。  唇を引き結んで顔を上げたレイにクレアが笑いかける。何かに耐えるような顔をこちらに向けるレイ。俺は頬を掻きながら我が家の家訓をレイに教えた。 「誠意の感じられるごめんなさいには許しを与えるべし」 「与えるべし」  最後だけ復唱し、クレアがレイに向かって人差し指と中指を立てて見せる。 「ま、そういうことだ」  腕を組んで笑う。そんな俺とクレアにレイが差し出した「ありがとう」の声は少しだけ潤んでいた。  これにて一件落着。一緒にご飯でも食べに行こうか……と言えたらどんなに楽だろう。そう、問題はまだまだ山積みだ。今始まったと言っても過言じゃない。町の人間にとってレイが殺人の容疑者であるという事実は何一つ変わっていないのだ。  当然のことながらレイは動けない。となると動けるのは俺だけか。さすがに先生とセシルをこれ以上巻き込むわけにもいかないし。  あの女には関わるな。  昨晩警備の詰め所の前で言われた台詞が頭をよぎる。が、よぎっただけで留まりはしなかった。関わるべきか関わらざるべきか、判断するのは俺だ。俺が見て聞いて自分で決める。この先に最悪の結末が待っている可能性だってあった。だがそれはあくまで可能性だ。かもしれない、を恐れていたら何もできやしない。 「話してくれよ。何があったのか」  促す俺にレイは一度空を見上げ、ゆっくりと肯いた。  6  手にしていた物干し竿を先程から葉を落としている木に立て掛け、自らもその幹に背を預けるレイ。 「ワシは帰るぞ。患者は一人じゃないからな」  と、レイが口を開く前に言って先生はこちらに背を向けた。 「ありがとうございました」  小さく曲がった背中に礼を述べるも返ってきたのは「ふん」という不機嫌そうな鼻息だけだった。先生にしてみれば精一杯のどういたしましてなのかもしれない。 「ねぇクレア。本読もっか」 「読む読む」  微笑むセシルにクレアが飛び跳ねるような勢いで手を挙げた。セシルは俺に向かって小さく頷くと、クレアの手を引いて庭から廊下に歩いて行った。恐らく気を遣ってくれたのだろう。クレアに聞かせたくないような話ももしかしたら出るかもしれないし。ありがたかった。 「いい子にしてろよ」  クレアの背中に向かって声を掛ける。 「お兄ちゃんこそお姉ちゃんにちゅーしちゃダメだよ」 「するかっ!」  何なんだその具体的な手の出し方は。  だったら胸揉むのはいいのかよ。と、思ってはみたもののさすがに口には出せなかった。女性三人に男が一人。味方は誰もいない。笑いも起きず、六つの視線に突き刺されて精神的に死ぬのが関の山だ。  まぁ、そんなことはともかく。  セシルとクレアの姿が完全に消えたところでレイの方へ向き直る。  レイは一度自分の爪先を見つめ、何かを決意するかのように唇を引き結んだ。地面に穴が開きそうなほどの強い視線。それはそのまま持ち上げられ、俺に向けられる。  受け止めなければ。  手のひらにかいた汗を拳に握り込む。  それから三秒ほどの間を置いてレイはゆっくりと話し出した。 「私の妹は竜に殺された。それは知っているな」  頷き、返事をする。 「だが、ただ殺されたわけじゃない。そこには三人の人間が関わっていた」  三人という数に俺の唇は微かに開いた。が、俺が推論を述べるまでもなく事実はレイの口からか語られるだろう。 「それがあの三人のハンター達だ」  そこで言葉を切り、レイは長く息を吐き出した。胸に溜まった熱気を放出するような吐息。怒りの炎はレイの中で静かに、しかし高温で燃え続けているのだろう。 「その日、生け捕りにされた一匹の竜が村に運び込まれた。まだ小さいし、眠り薬もしっかり体に回っている。だから大丈夫だと彼等は言っていた」 「だが、大丈夫じゃなかった」  レイが無言で俺の言葉を肯定する。彼女の漆黒の瞳がその濃さを増したような気がした。 「竜は戒めを引きちぎり、暴れた。小さいと言ってもその力は絶大だ。小一時間ほどで……いや」  自嘲気味にレイが笑う。 「時間はよく覚えてなかった。とにかく村のほとんどが破壊され、多くの村人が死んだ。妹もその中の一人だ」  眉寝を寄せ、顔を背けるようにしてレイが目を閉じる。 「夜、眠りに就くと今でも無数の悲鳴が聞こえてくる。耳の奥にこびりついて離れないんだ」  レイは木の幹に背を預けたまま膝を折り、その場にしゃがみ込んでしまった。内に籠るように膝を抱き抱え、うつむいてしまう。 「あの子は私を助けようとして、突き飛ばしたせいで食われたんだ。私の目の前で。なぜ私など助けた。私が死ねばよかったのに」  身を削るようにレイが己の手の甲に爪を立てる。流れ出た血に俺は慌てて彼女の手を握った。  やり場のない怒りに満ちた表情とは裏腹にレイの手はひどく冷たい。よく見ればレイの手の甲には爪を立てたときにできたであろう傷跡が無数にあった。眠れぬ夜を過ごす度に傷を一つ増やしてきたのだろうか。  俺はレイの手を左右に引き離し、血が出ている方の手にハンカチを巻いた。思い切り爪を立てたらしく結構深い傷になっている。 「あとでちゃんとセシルに手当てしてもらってな」  薄いブルーのハンカチを見つめるレイの前にあぐらをかいて座り込む。  俺がレイにかけてあげられる言葉なんて一つもない。少なくとも身内を殺された事がない俺にとってレイの苦しみは「他人事」にしかなり得ないのだ。もしレイの苦しみを心の底から分かってやれると思えるのなら、それはただの思い上がりだ。  謙虚にならなければ、と思う。この世に生まれてたかだが二十五年。胸を張って誇れるほどのものを積み上げてきたわけでもない。偉い学者でもなければ高名な芸術家でも徳の高い教祖様でもない。  俺の持っている感性なんて多分みんな持ってる。  俺はただの兄ちゃんだ。ただの兄ちゃんが今のレイにしてあげられること。それが相手を促し、話を聞くことなんじゃないだろうか。俺はレイに共感してあげることはできない。ただ、それでレイの気持ちが少しでも楽になるのなら全て聞こう。たとえ今の俺に必要のない情報であったとしても。  まぁ、要するに雑談を交えつつたまに真面目な話をして精神と情報の整理をしようと、こういうわけだ。  手に巻かれたハンカチを撫で、レイが俺の顔を見つめる。 「あ、洗濯してあるから大丈夫だと思うけど」 「不思議な話だな」  唐突に言われ、唇が「は?」の形で固まってしまう。  レイは呆れたように微笑むと、ハンカチが巻かれた手をもう片方の手で包むように握った。その表情からは少しだけ黒いものが抜けたように見える。 「君が独りだという事実が、だよ」  咄嗟に言うべき言葉が浮かんでこない。渋い切り返しができれば良かったのだが結局俺には苦笑しながら人差し指で頬をかくことしかできなかった。 「もう、これっきりにしてくれ」  風が俺とレイの間に落ちていた一枚の葉を運んでいく。 「弱いんだ。こういう優しさには」 「迷惑だった?」 「そうじゃなくてだな……」  何かを言おうとして、結局何かを諦めたような表情になってしまうレイ。頭の中にこんがらがった糸屑がつまっているような顔をしている。 「前言撤回だ。やはり君はもうしばらく独りかもな」  意味はさっぱり分からなかったがレイの中で俺の評価が落ちたことだけは確かみたいだ。  激しく納得いかないが今はそれを追及している場合でもない。逸れ始めている話の軌道を元に戻さなければならなかった。 「山で何があったんだ?」  尋ねる俺にレイは二秒ほど目を閉じ、俺の顔を正面から見つめた。自然と俺も背筋を伸ばしてしまう。 「あの夜、私はあの三人を殺すつもりだった」  事実のみを語ろうと感情を押し殺していることがレイの声からは伺えた。  ひどく乾いた唇を気にしながら、俺は黙って頷く。驚きはあったが衝撃はなかった。まったく予想していなかったわけではない。レイがあの三人のハンターに殺意を抱くには十分な理由がある。  彼等が竜の管理を怠らなければレイの村は破壊されず彼女の妹も死ななかったはずだ。 「村を出て何年もかけずり回った。泥水もすすった。残飯も漁った。やっとつかんだ千載一遇の機会だった」  風に木が揺れ、乾いた音と共に数枚の葉が視界を横切る。 「焚き火を前に彼等は私の村の事を話し出した。目の前に村の生き残りがいるとも知らずに。彼等の中ではもう村の事は思い出になっていた。笑いながら、楽しげに話すんだ。干した肉と固いパンを齧りながら」  形のいい唇を緩め、レイが薄く笑う。 「怒りを覚えた反面、嬉しくもあった。殺したいと心から思った男達は数年の時を経て何も変わってなかった。軽薄で傲慢で無責任。おかげで自分の憎しみを再確認することができた」  言ってレイはブラックジョークを披露した皮肉屋のような笑みを浮かべたが、とてもじゃないが一緒に笑うことはできなかった。  レイの抱いた憎しみの深さに唖然としつつ、そこに到達することがなかった自分の二十五年間は穏やかで幸せなものであったのだと再認識する。  辛いことがまったく無かったわけではない。だが少なくとも誰かに心の底から殺意を抱いたことは一度としてなかった。  口には出さない。きっとレイは嫌がるだろう。だが俺はレイに同情する。安っぽい感情かもしれないがレイをかわいそうだと思う気持ちを消すことはどうしてもできなかった。 「それで?」  気が付けば止めていた呼吸を再開し、続きを促す。できるだけ表情は変化させないように気をつけてはいるが大丈夫だろうか。感情が顔に出やすいみたいだし、俺。 「そこから先は記憶が少しばかりとんでいる」 「どういうこと?」  聞き返す俺にレイも首を横に振る。 「分からない。焚き火を囲んでいた事までは覚えているんだがその先の記憶がないんだ。気が付けば地面に横たわり、隣には二つの死体があった」  顎に手を当て、俺はレイの瞳を見返した。にわかには信じられない話だ。気が付いたら死んでいたなんて。 「すまない。だが事実なんだ」  申し訳なさそうにレイが視線を落とす。 「あ、いや……」  俺は慌てて表情を改め、次の問いを飛ばした。とりあえず最後まで聞いてみないことにはどうにもなりそうにない。考えるのはその後だ。 「昨日、風の丘亭に来たハンターの男は側にいなかった?」 「彼はいなかった」  彼、エイクがその間何をしていたのかは分からない。本人に直接聞くしかないだろう。しかしこれで昨夜レイがエイクを殺そうとした訳が分った。レイは竜を追うと共に、竜を追う者も追っていたというわけだ。  クレアを人質にとってまで警備の人間に拘束されるのを拒んだのは機会を失わないためだろう。  今だって自由に動ける状況ではないが、牢屋に入れられて取り調べを受けるよりかは自由度は高い。俺がレイを止めてしまったことが彼女にとって一番の誤算だったのかもしれない。 「でも、よくそんな状況で俺と食事をしようなんて思ったな」 「混乱して、いらついていた。少しだけでも発散させたかったんだ。それに、最後の晩餐のつもりだった」  こちらに向けられた憂いを帯びた瞳に何も言えなくなってしまう。 「食事が終われば君の前から姿を消すつもりだった。遅かれ早かれ私はあの男を殺す。嫌だろ? そんな人間の側にいるのは」 「嫌だとか、そういう問題じゃないだろ」  言うべき言葉が見つからない苛立ちについ口調がきつくなってしまう。すまない、とレイに謝られた後で俺は酷く後悔した。 「だが最後の晩餐が君とでよかった。楽しかったよ、本当に」  微笑むレイに俺はきつい視線を正面からぶつけた。 「なぁ、早まったまねだけは絶対にしないでくれよ。押し付けがましい話だけど君のために動いてくれた人間がいるんだ。その人たちの思いを無駄にしちゃ駄目だ。もしどうしても自分の気持ちを抑えられなくなったら先生やセシルの顔を思い出してほしい」 「分かっている」  漆黒の瞳で俺をしっかりと見返し、レイが頷く。 「彼等には感謝している」 「だったら、頼むよ」 「あぁ」  短い返事。  俺は小さく息を吐き、身じろぎした。 「悪かった。続けよう」  手を組み、体を前傾させる。 「それで、リックが言ってた『男を引きずってた』ってのは?」 「それは事実だ。体の血はその時に付いた」 「なぜそんな事を?」  殺した人間が死体を引きずっているのなら分からない話でもない。だが殺した覚えのない、自分が関わっていない死体をなぜレイが引きずっていたんだろうか。 「竜に死体を食わせるわけにはいかなかったからだ」  顔に疑問符を浮かべた俺にレイが続ける。 「ハンターが狩りを行う前にキャストの実を口にすることは知っているか?」 「あぁ、痛みや恐怖心を取り除くためにだろ」  昨夜、警備の詰め所の前でエイクに見せられた毒々しい赤い実を思い出す。 「そうだ。昔からハンター達の間では広く使われている。だがこの実を使うに当たって気をつけなければならないことがある」 「使い過ぎると心身に異常をきたすって話しだけど」 「もちろんそれもある。だがより気をつけなければならないのは、キャストの実を使用した人間を竜に食われることだ」 「というと、まさか」 「予想通り、キャストの実を使用した人間を食った竜は凶暴化する。そうなってしまえばもう手には負えない。人はただ逃げるのみ、だ」  レイの言葉に唖然としつつも俺は口を開いた。 「じゃあ死体を引きずってたのは」 「隠すためだ」  短く言い切るレイに俺の口から何とも言えない吐息が漏れた。賞賛か安堵か諦めか。 「よくそんな状況でまず死体を隠そうと思えたな。だって気が付いたらいきなり二つ目の前にあったわけだろ?」 「そうだな。だが生き残るために何をするべきか常に考えておかなければ竜を相手にすることはできない。もう癖だよ、ほとんど」  苦笑するレイ。 「死体を見て悲鳴を上げるような人生にはもう戻れそうもない」 「でも戻りたいんだろ?」 「そうだな」  言葉を切ったレイが目を細めて頭上、風に揺れる木の枝を見上げる。 「全てが終わったら戻るのも悪くない」 「だから全てが終わったらとか言うなって」  俺は唇をへの字にひん曲げた。 「全てを終わらせないように何とかしようとしてる人間がいるんだから」  頬杖をつき、レイの顔を下から睨む。俺の視線に気付いたのかレイは顔を下げ、こちらを見て少し困ったように笑った。 「頼むよ、っとに」 「分かっている」  イマイチ不安なレイの返事を聞きつつ、俺は立ち上がった。ズボンをはたきつつ、訊く。 「で、結局あの日竜には会えたのか?」 「あぁ、会えた」 「それで?」 「走って逃げたよ。さすがに素手じゃ戦えないからな」  立上がり、んっ、とレイが背を伸ばす。 「パルチザンはどうしたんだ」 「遺体の側に置いてきた。竜は金属を嫌うんだ。もっとも、気休め程度だが」  竜にそんな習性があったとは。初めて知った。まぁ、気休め程度って言うんだから極度に嫌ってるわけでもなさそうだけど。  ふぅん、と息を吐き顎に手をやる。  一応これであの夜レイが血まみれでウチの庭に帰ってきた理由は理解できた。問題は意識を失い、気が付いたら隣に二つの死体があったという部分だろう。  こんなことを警備に主張したってキチンとした捜査なんてしてくれないだろう。一日中ぶっ通しの取り調べが続き、最後にはやってないことまで「やりました」と言わされてしまう。  この部分について少しばかり気になることがあるのだが、それを考慮しつつもう少し関係者に話を聞いてみることにしよう。差し当たってはもう一人の当事者、ハンターのエイクということになるか。  昨夜彼が歩いていった方面にある宿を頭の中でリストアップする。といっても片手で足りるほどの数しかないのだが。こういうとき田舎というのは実にありがたい。 「じゃあ、もう少しだけ待っててくれよ。ここにいれば取り敢えずは安心だと思うし。それと最後にもう一度だけ言っとくけど」  人差し指をレイの顔に突き付け詰め寄る。身を後ろに反らすレイにさらに一歩近付き俺は念を押した。 「早まったまねだけは絶対にしないでくれ。約束だからな」 「あ、あぁ。分かっている」  突き付けられた指を見つめ、気圧されたような声で返事をするレイに俺は指をひっ込めた。これだけ言っておけば大丈夫だろう。 「行ってくる」  残し、俺はレイに背を向けた。芝生を踏む音が葉のこすれる音に混じる。 「リード」  背にかけられた声に足を止める。  数秒の間を置いて、何かを噛み締めるような「ありがとう」が聞こえた。  少し考えて、返す。 「アフターサービスってやつさ。またうちで槍を買ってもらうための、な」  ひらひらと手を振って、俺は庭を後にした。  7  庭を後にした俺はポケットに手を入れて石の廊下を歩き、写本室の前で立ち止まった。扉を開こうとして延ばした手を引っ込め、一応ノックする。  乾いたノックの音ののち数秒の間を置いて「はい」というセシルの声が返ってきた。 「入るぞ」  言って返事も待たずに扉を開ける。と、そこにあったのはクッキーと紅茶、要するに午後のティータイムセットを挟んで閲覧台についているセシルとクレアの姿だった。 「あ、クッキー美味しいよ、お兄ちゃん」 「食べる?」  なぜかひどく納得いかない感情に襲われた俺はセシルの手から皿を奪い取り、クッキーを全て口に流し込んだ。 「ひゃふへめーら、ひろらあれふぉれはやんれるほふぃにのんふぃにひゃなんはほみやはっれ」  口をもごもごさせる俺に顔を見合わせるセシルとクレア。  数秒の沈黙ののち、二人は同時に肩をすくめやがった。 「でね、言ったのよ私」 「うんうん」 「何事もなかったかのように茶会を再開するんじゃねぇ。大体その二皿目のクッキーはどこから出てきた」  気が付けば閲覧台にはもう一皿クッキーが載っている。 「謎多き女って魅力的じゃない?」 「それはただの奇術だ」  沈黙。 「じゃあ次は本から鳩だしまーす」 「出すなっ!」 「わぁ、凄ーい」 「お前も喜ぶなっ!」  ったく。  腕を組んでセシルの顔を見やる。 「本当に修道女だよな、お前」  本気で不安になってきた。 「間違いなく修道女よ、今はね」 「神に誓って?」 「ええ、もちろん」  俺はしばし考え、 「セシルの『セ』ー」 「精一杯生きてますー」  沈黙。 「だから何で反応するんだ?」 「いいじゃないのよ。それよりも続きやらないの? せっかくオチ考えたのに」  俺の中でセシルの過去が決まった。旅芸人の一座にいた彼女は問題起こして辞めさせられ、各地を転々としたあと修道院に拾われたに違いない。絶対そうだ。  辛いと言えば辛い、暗いと言えば暗いセシルの過去に俺は同情を禁じ得なかった。 「頑張れよ。生きてればきっといい事があるから」 「あのさ、あなたの中で物凄く私が歪んでるような気がするんだけど」  涙ぐむ俺をセシルが半眼で見上げた。 「まぁ、そんなことはともかくだ」  馬鹿話はこのくらいにして本題に入ろう。 「何かとても大切なことを軽く流されたような気がする」 「気がするだけだ」  俺は断言した。 「むう」  うなるセシル。 「いやさ、ちょっと聞きたいことがあって」  気を取り直し、話を始める。 「人の中身が入れ替わってしまうって話を聞いたことがないかな、って」  俺の問いにセシルが、ついでにクレアまで眉間に皺を寄せた。そんな顔をしながらふたりともきっちりクッキーを手にしているのにはなんだかなぁ、ではあるが。 「それは何、その、例えばあなたとクレアの心が入れ替わってしまうっていうような」 「いや、そうじゃなくてだな、酔っ払って記憶なくしちまう人間っているだろ。あれのもっとシビアなやつだ」  この説明で分かるかどうか不安だったが、セシルの表情を見るに何か思い当たる事があるようだ。  セシルはクッキーを口に放り込んで席を立ち、本棚の間を歩いていった。  しばらくしてセシルは一冊の本を手に戻ってくる。埃を払われ手渡された本には「一体二心」というタイトルがつけられていた。  セシルから本を受け取りぱらぱらとめくる。めくってから今さら初めから読んでいる時間などこっれぽっちもないことに気が付く。 「この本読んだんだろ? 何が書いてあったのかまとめてくれよ」  恥も外聞もなくセシルに頼る俺。 「訊くんならはじめから本を受け取らないの」  呆れ顔で俺の手から本を引き抜き、セシルは小さく息を吐いた。本の内容を思い出すように手の中の表紙を見つめ、一呼吸おいてから口を開く。 「まぁ、書いてあることは貴方の頭の中にあるだろう事とほとんど同じだと思う」  つまり、とセシルが言葉をつなぐ。 「時として自分の中に二人の自分を持つ人がいるってこと。本の書き手はそれをタイトル通り一体二心って名付けてる」  表紙を手のひらで撫で、セシルが俺を見上げる。  そこまでは知識として俺の頭の中にもあった。問題はその先だ。 「で、その一体二心はどんな場合に発生するんだ?」 「そうね、たとえば酷く辛いことがあったときなんか、その辛さを押し付けるための自分を作ってしまうことがあるって書いてあったけど。具体的には親に虐待を受けた子供なんかにみられることがあるらしいわ」 「そか」  短く返事をして俺は顎に手を当てた。しばし考え、その情報を頭の片隅に置いておく。 「でもどうしたの? 急にこんな事に興味持ったりして」  本を胸元に抱え、探るような視線を俺に向けた。さすが写本室の管理人。好奇心は人一倍旺盛なようだ。 「どうもしないさ」  と、どうもしているときに最も使われるであろう台詞を言っておく。この台詞を受けて「嘘つき」と返すほどセシルは空気が読めないわけでも無粋でもない。が、 「三食昼寝つき」  返ってくる台詞は俺の予想の斜め上をすっ飛んでいく。まぁ、慣れてしまった今ではどうということもないが。問い詰められるよりはよっぽどいい。 「あ、先生が見せたいものがあるから後で来いって言ってた」  そして何事もなかったかのように会話を再開させるこの図太さ。ある意味、この修道院で一番神に近いのはセシルかもしれない。もっとも、世界で一番どうしようもない神様だろうけど。  俺は頭をかき、あぁ、と短く肯いた。ハンターであるエイクの所に行くつもりだったがその前に先生の所に寄ったほうがよさそうだ。気ぃ短いからな、あの人。 「クレアはもう少しここでお茶してましょ」 「はふ?」  急に名を呼ばれ、両の手に二枚ずつ、口に一枚のクッキーをくわえたクレアが顔を上げた。 「幸せか?」  目を細めたクレアが大きく肯く。 「そりゃよかった。つーわけで、悪いけど」  言いながらセシルに視線を移す。 「ええ、後でちゃんと送っておくから」 「頼む」  言って俺は二人に背を向けた。 「主の御加護を」  背後から聞こえたセシルの妙に真剣な声にとりあえず、 「ばーか」  と礼を言って俺は写本室を後にした。  町で最も寂れていると言っても過言ではない裏通り。俺を呼びつけた先生の診療所はそんな所にある。風の丘亭がある裏通りが知る人ぞ知る、閑静でちょっと洒落た裏通りなら、ここはできれば知りたくない、ちょっと洒落にならない裏通りだ。  まぁ、自分で自分の身を守れれば結構楽しいところなんで男友達だけでたまに遊びに来たりはするんだけど。危ないといったって所詮田舎町の裏通り。たかが知れている。  しかし昼間だというのにこの静けさ。さすが夜型人間の集まる通りだ。  視線を移せば酒瓶片手の酔っ払いが昼間から道端で寝ている。そしてそれを気にする人間は誰もいない。昼寝の場所を奪われた野良猫が不機嫌そうな顔をしているくらいか。  そんな通りの並びにある二階建てのこじんまりとした建物。その脇の階段をきしませながら上っていくと診療所だ。扉には診療所の「し」の字も書いてないが町の人間の大抵はここが診療所だということを知っている。腕のいい人間ってのは隠れていたって自然と表に出て来るものだ。  ただ先生自身はそれについて複雑な思いをしているらしい。  自分を頼ってくるのは構わない。自分は医者だ。いつでも来い。ただ大通りに引っ越せとか、治安のいい所に住んでくれとは言うな。ワシはこの通りが気に入っている。  なんてことを言っていた。もともとが裏通りの医者みたいだし、先生にとってはここが一番住み心地がいいのだろう。  俺はドアノブをひねり、扉を押して中に入った。何とも言えない薬品臭さが鼻を抜ける。長椅子がに二脚おかれた、くすんではいるが掃除はされている待合室を抜け診察室に向かう。靴の下できしみ、やたら沈み込む床に抜けたりしないだろうかと心配しつつ奥へ。 「じゃあね、先生」 「あぁ、今度はもう少し早く来い」  そんな声が聞こえ、ふと診察室の入り口に目をやる。診察室から出てきたのは妙に胸元が大きく開いた服を着た女性だった。女性は俺を見つめ、艶っぽい唇を緩めると指先で俺の頬を撫でた。そのまま何を言わず俺の脇を通り抜ける。濃くはあるが不快ではない香水の香りが後に残った。この診療所がどこにあるのかを考えれば彼女の職業を推測することはそう難しいことではない。まぁ、いわゆる「人類最古の職業」ってやつだ。  俺は少々間を置いてから一つ咳払いをした。先生にも後片付けがあるだろうし。  そして努めて明るく、 「いやー、昼間っから先生も好きですねぇ」  と言って診察室に顔を出した瞬間、銀光が俺の頬をかすめた。汗を一筋たらしつつ視線をやれば、背後の壁に突き刺さる手術用の小刀。 「患者だバカタレが」  つまらなそうに言って、先生は手を拭いていたタオルを診察台に放り投げた。 「危な……、刺さったらどうするんですかっ!」 「心配するな、その時は二割引で治療してやる」  金とるのかよ。  二本目の小刀が怖かったので心中でつっこみつつ、俺は診察室に足を踏み入れた。ここの雰囲気も待合室と大差ない。掃除はされているがくすんでいる。待合室より窓が大きいので多少明るくはあるが。  先生は使い古された机につくと、引き出しから二枚の羊皮紙を取り出した。何も言わずにそれを俺に向かって差し出す。 「何ですか、これ」 「いいから見ろ」  ため息をつきつつも言われるまま二枚の羊皮紙を受け取る。  そこに描かれていたのは人体の全身図だった。その図にはところどころ線が引かれており、その線について説明書きがしてある。俺は僅かに眼を大きくして先生の顔を見やった。線が傷を表していることは一目瞭然だった。とするとこれは……、 「二つの死体についていた傷の状態を描き取った。警備に提出したものの写しだ」 「何で先生がこんなものを」 「なぜだと? ワシが死体を視たからに決まっとろう」 「いや、だから何で町医者の先生が検死なんて」 「警備直々の依頼だ。この町には死体を視る人間など医者以外におらんからな」 「じゃあ、殺人が起こる度に先生が?」 「まぁな」  言って、白髭を撫でる先生。 「もっとも、建前上ワシは、協力、だが」  知らなかった。でもよく考えたらこの町で殺人が起こることなんてほとんどないし、そんな所に専門の検視官を派遣できるほど王都の中央警備院にも余裕がないのだろう。町医者に任せられるんならそうしてしまおう、ということなのかもしれない。で、書類上は町の医者に「協力」してもらったことにするわけか。  まぁ、そんな警備がらみの裏話はさておき、だ。  俺は二枚の図を両手に持ち、交互に眺めた。眺めつつ、つい顔をしかめしまう。  致命傷となったのは互いに胸への一刺しのようだ。だがそれ以外にもかなりの刺し傷が確認できた。めった刺し、というやつだ。他には斬り傷も幾つかある。 「胸の傷、深いですね」 「あぁ、ほとんど背中まで達しとったよ」   答える先生に俺は再び図へと視線を落とす。  背中まで達しそうな傷、か。  胸中でつぶやき、俺は手にした二枚の図を重ねた。 「専門家としての意見は?」  頬杖をついた先生が試すような視線を俺に向けた。 「専門家って、傷に関しては先生が専門家でしょうに」  わざとらしく肩をすくめる俺。 「傷に関してはな。だが、傷を付けたものに関しては?」 「まぁ、一応武器屋ですが」 「じゃろ?」  俺は小さく息を吐き、それから口を開いた。 「刺し傷と斬り傷、突くことも斬ることもできるパルチザンならばこんな傷ができるでしょうね。それに突き傷と並ぶように二つの小さな傷もある。両脇に刃がついているパルチザンによってつけられた傷の特徴です」  俺の言葉を聴きながら黙って先生が肯く。 「ただ、気になることが一点だけ」 「それは?」  先生の方眉がわずかに上がる。俺は乾いた唇を湿らせ、自分が感じた疑問点を先生に話して聞かせた。その間先生は目を閉じ、時折肯くだけだったが俺の話が終わると、にやり、と音が出そうな笑みを浮かべた。 「まだ、確信がもてたわけじゃないんですけどね」  言って俺は二枚の図を机の上に置く。先生はその図をちらりと見やり、顎を撫でた。 「それで、これからどうするつもりだ?」 「とりあえずもう一人の当事者のところに行ってきますよ。色々と聞きたいことあるし。話してくれればいいんですけど」  昨晩は話を聞くことはできなかったが、今回は少し粘ってみるつもりだ。早いところなんとかしないとレイが暴走しそうで怖かった。話を聞いて穏便に……結果はどうあれ血を流さずに済むのならそれが一番いい。 「ところで、なぜこれを俺に見せたんですか?」  尋ねつつ机の上の図に視線をやる。俺はこの事件に首を突っ込んでいるとはいえただの武器屋だ。というかこれ、警備の外に持ち出しちゃいけない大事な資料のような気がするんだが。 「なぁに、頭の固い警備の連中にいささか腹が立っとるだけだ」 「何かあったんですか?」  訊く俺に先生は小さく息を吐くと、不機嫌そうな目つきでこちらを見上げた。  いや、別に俺は何もしてない……よな? 「お前と同じ疑問はワシも抱いた。だがあいつらはまともに話を聞きもせん。人が安い謝礼で手伝ってやっとるというのに、だ。どうもあいつらは疑わしい奴をかたっぱしから捕まえて拷問にでもかければその内に犯人に行き当たると思っとる節がある。王都ならともかく、こんなど田舎じゃあ検死の結果を冊子の厚さを水増しするための飾りとしか思っとらん。死体は誰よりも雄弁だというのに。まぁ、ほれ、お前の友人で……」 「カートですか?」 「あぁ、あの若造だけはワシの話を熱心に聞いとったがな」  ふーん、と息を吐きつつ酒の席で愚痴を漏らしていたカートの姿を思い出す。そういやあいつも王都に比べて捜査の手法が遅れてるとか前時代的だとか言ってたっけ。俺は自営業だけど組織に所属してると上との軋轢に疲れたり腹立ったりするんだろうな。 「まぁ、結局のところ警備の連中が気に食わないから先に犯人捕まえて鼻をあかしてやれ、と」 「そういうことだな。じゃあ頼んだぞ」  ぶっきらぼうにそれだけ言って先生は机の上で何やら書き物を始めてしまった。しかしよく考えたら殺人犯と対峙することになるか、もしくはもう対峙してるわけで……俺ってただの武器屋かつ善良なる一般市民だったよな、確か。  もし俺が先に犯人捕まえたら警備に納品してるショートソードの数、倍にしてもらおう。一振りあたりの単価上げるのもいいな。大体あいつら公の機関のくせして金払い悪すぎるんだ。今月は予算が厳しいから一振り辺りこの値段で、とか言いながら立てた指二本減らされた時には本気で両手剣振り回して乗り込んでやろうかと思った。それじゃあ、ほとんど儲けないんですけど、って顔引きつらせながら言ったら「そろそろ立ち入り検査の時期だね」だと。それは「武器屋の一軒や二軒、営業停止に追い込むなんてわけないんだよ」と言われているのと同じだった。  うむ、何か思い出したら腹立ってきた。真実を明らかにする事と同じくらいの、事件に首を突っ込むだけの理由があるじゃないか。どうやら日々の生活の中であの時の屈辱を忘れていたらしい。リード・アークライト、お前はいつからそんな腑抜けになったんだ? 商売人の牙はまだ鈍ってないはずだろ? 銅貨一枚でも多くの儲けを。それが唯一にして絶対の正義だったはずだ。そう、むしっても心痛まないところからはきっちりむしらなきゃな。  俺は口元をいびつに歪め、先生に向かって宣言した。 「必ずや国家権力の犬どもに正義の鉄槌を下してやります」 「何か、お前の黒い部分を垣間見たような気がするが、まぁ……気をつけてな」  なぜか引き気味の先生に向かって肯き、俺は診察室を後にした。歩きながら、手のひらに拳を撃ち付ける。  やる気出てきたな、おい。  所変わって気持ちのいい風が吹く表通り。宿屋の看板を見上げ、立ち止まる。左手には一本の酒瓶。脇を駆け抜けていった子供達の背中を見送り、俺はスイング式のドアを押し開けた。 「こんちはー」 「おや、どうしたんだい?」  挨拶をしながら中に入るとすぐさまこの宿のおかみさんと目が合った。小さなカウンターの中でレース編みをしていたようだ。編み棒を手にこちらを見ているおかみさんに向かって「いや、ちょっと」なんて言いながらカウンターに歩み寄る。  太めな体にそれに見合った指。細い編み棒がさらに細く見えた。ただ、そのアンバランスな指と道具からは見事な作品たちが生み出されているようで、ここ、一階の待合室は趣味よくおかみさんの作品で飾られていた。 「あー、えっと」  と、言いよどんでいると不意におかみさんが眼鏡をはずし、カウンターに身を乗り出した。 「とうとう決心がついたんだね」  なぜかその顔はひどく嬉しそうだ。わけが分からず一歩引く俺に、おかみさんの顔がずいっと前に出てくる。だから、何でそんなに嬉しそうなんですか? 「うんうん、私に任せな。世話焼きおばさんの名にかけてあなたにぴったりのお嫁さん探してかげるから」 「そりゃどうも……って、はぁ?」  ここにきて俺はおかみさんが年頃の男女をくっつけることをレース編みと同じくらいの趣味にしていることを思い出した。要するに俺の天敵である。 「あなたは……そう、胸の大きな娘が好きそうだね。そんな顔してる」 「勝手に決めないで下さいっ」 「嫌いだった?」 「いや、嫌いじゃないですけど……というか基本的に胸なら何でも。できれば形重視で」 「ふんふん。形重視、ね」  かりかりとペンを走らせるおかみさん。  ……で、俺は何をやってるんだ?  自問し、自答する。  嫁探し。 「違うわっ!」  叫ぶ俺に驚いた顔でおかみさんがこちらを見上げる。  えぇい、あやうくおかみさんワールドに引き込まれるところだった。 「あの、嫁探しはまたいつかお願いするとして、ここにエイクって男が泊まってませんか?」  俺の問いにおかみさんの表情が曇った。悲しげに眉を寄せ、小さく首を振る。 「泊まってるね。仲間を二人も殺されたそうじゃないか。可哀そうに」  宿帳を見ずとも分かったということは、殺人事件の関係者として彼もそこそこ有名というわけか。 「ええ、その彼とは少し面識があって、今会えますか?」 「部屋にいるはずだよ。行って少し話しでもしておやり。気がまぎれるだろうから。203号室だよ」 「そのつもりで来ました」  微笑、手にした酒瓶を掲げて見せる。 「グラスを二つ、貸してもらえませんか?」 「あぁ、ちょっと待っておいで」  一度奥に引っ込んだおかみさんはすぐに二つのグラスを持って戻ってきてくれた。  俺は頭を下げてグラスを受け取り、階段へと足を向ける。肩越しに振り向くとハンカチで目を押さえているおかみさんの姿が見えた。  おっせかいな所もあるけどいい人なんだよな、実際。  そんなことを思いつつ階段を上っていく。203号室は二階廊下の中ほどにあった。扉に貼られた木のプレートを確認してからノックする。さて、上手くいくだろうか。  返事もなく、扉はいきなり開いた。一見不健康に思えるこけた頬が目に入る。隙間から覗く顔は間違いなくエイクのものだった。もともと友好そうな顔つきではないがこちらを伺うような目つきがさらにそれを酷くしている。どうやら警戒しているらしい。まぁ、友人でもない男がいきなり宿まで訪ねてきたら警戒の一つもするだろう。 「何の用だ?」 「いや、ちょっと話をしたくてさ」  エイクの眉間に刻まれた皺がさらに深くなる。一秒後には「帰れ」と言われそうな雰囲気に、ブーツの先を部屋にねじ込むと俺はエイクの眼前に酒瓶をぶら下げて見せた。 「頼むよ。なんか俺だけ仲間外れにされてるみたいで気持ち悪いんだ」  な、と言いつつ酒瓶を振る。数秒の間があってエイクは人間が中に入れるだけの隙間を作ってくれた。 「悪いな」  言いながら酒瓶をエイクに手渡す。 「いや、警備の連中にここを出るなって言われてな。息が詰まってた。酒を買う金もないしな」  子供が見れば泣くか逃げるかしそうではあるが、多少は友好的な笑みをエイクは浮かべて見せた。  エイクがベッド脇の小さなテーブルの上に酒瓶を置き、俺がその隣に二つのグラスを並べる。壁に立てかけてあるエイクの両手剣を一瞥し、俺は椅子に腰を下ろした。椅子が一脚しかないためベッドに腰掛けるエイク。  まぁ、とりあえず向かい合って座ることはできたわけだ。  小さく息を吐き、ややうつむいて乾いた唇を舐める。  コルクを抜く音が聞こえ、やがて二つのグラスは琥珀色の液体で満たされた。  何を言うでもなくグラスを持ち上げ、互いに打ち合わせる。硬く、小さな音が室内の空気を揺らした。  エイクはグラスを大きく傾けると、半分ほど一気に飲み干した。それから長く、大きく息を吐く。俺は対照的に唇を少し濡らしただけだ。さすがに昼間からこれだけ強い酒を飲む気にはなれないし、酔って前後不覚になってしまったんじゃここに来た意味がない。 「旨いな」  酒に映る自分の顔を見つめるように視線を落とし、エイクが呟いた。 「心に染みるってのはこういうのを言うのかもな」  目を細め、寂しげに口元を緩めるエイクに胸が重くなる。ただあまり深く感傷に浸ることはできなかった。今はできるだけ感情を動かさず、冷静でいなければならない。惑ってしまっては意味がなかった。 「あの夜のこと、聞いてもいいか?」  グラスをテーブルに戻し、切り出す。エイクは口に運ぼうとしていたグラスを宙で止め、いぶかしむ様な視線を俺に投げた。 「聞いて……どうする」 「なぁに、自分の推論を確かめてみたくてさ」  エイクの警戒心を受け流すように軽く、柔らかな口調で言う。 「推論?」  肩眉を僅かに上げたエイクに、俺は身を乗り出した。  さて、うまく引き込まないと。 「俺も、レイが殺ったんじゃないかと思ってる」  声を抑え、低く真剣な音を出す。エイクも身を乗り出し、テーブルに両肘をついた。どうやら興味は持ってもらえたようだ。 「あんた、レイが竜を前にすると人格が入れ替わる、って言ったよな」 「入れ替わってるかどうかは知らないが、少なくとも外からはそう見える」 「酒場でのことを思うに……あり得ると思ってさ」 「俺にいきなり襲い掛かったときか」 「あのときの彼女は確かに別物だと、そう感じた」  酒を口に含み、乾いた喉を濡らす。できれば水の方がいいのだがない物ねだりをしても仕方ない。 「それで?」 「俺は、一体二心を疑ってる」  エイクの口が僅かに開き、すぐさま閉じる。笑ったように見えたのは気のせいだろうか。 「クレアを人質にとったことも含めて、彼女のもう一つの人格が暴走してるんじゃないかと思って」 「なるほどな」  言いながら空のグラスに酒を注ぐエイク。結構早いペースで飲んでいる。まぁ、適度に酔ってくれた方が俺としてはありがたいのだが。 「それで、あの夜のレイの様子を知りたいんだ」 「残念だがそれは無理だ」  エイクの返答に一瞬肩を震わせてしまう。焦るなよ、俺。 「警備に止められてるからか」 「いや、それはどうでもいいんだ。ただ……あの夜俺が見たのはまともな方の女だけだ」  眉根を寄せてエイクの顔を見る。酒のおかげか、彼は自分からあの夜のことを話し出した。 「焚き火の周りで軽く腹ごしらえしたあとで、俺達はそれぞれの持ち場に散った。それから不意にあいつらの叫び声がして……竜にやられたんだ、と思った」  黙ったまま、俺は視線で話を促した。  細く息を吐き、エイクが続ける。 「俺は逃げたよ。薄情だと思うかもしれないが、初めから仲間内で決めていたことだ。大きなギルドに所属していて人数を集められるなら別だが、俺達のような野良のハンターは一人かけちまえばもう狩りはできない。当然、あの女にも逃げるように言ってあった」 「なるほどね」  小さく肯きながら、傾ける気もないグラスに触れる。 「竜を見てとうとう錯乱しちまったんだろうな、あの女。前から危ないとは思っていたが、まさか仲間に手を出すなんてな」 「兆候はあった?」 「そうだな、狩りのあとなんかは特に不安定だった。俺達にまで敵意をぶつけることもあったからな」 「感情の暴走、か」 「さぁな、俺は学者様じゃないんでね、難しいことは分からない」  お手上げ、のポーズをとりつつエイクは口元を緩めた。  合わせて笑みを浮かべつつ、俺は視線を移した。そこにはエイクの得物である両手剣が立て掛けられている。鞘、鍔、握り共に一切の装飾もなく実用一辺倒な一物だが、使い手の思想は伝わってくる。即ち、 「戦闘に飾りはいらない」  だ。  職人気質とでも言えばいいんだろうか。 「もう、長いのか?」  壁際の両手剣を見ながら問う。 「そうだな」  エイクにとっても自慢の一品らしく、その声は僅かに弾んでいた。本当に、僅かに、だが。 「死んじまった仲間には悪いが、俺は誰よりもこいつを信じている。こいつだけは絶対に裏切らない」 「武器を信じてるってことは、それだけ自分の腕も信じてるってことだ」  冗談めかして言いながら笑ってみる。 「これでも竜を相手にして生き延びてきたからな。あの夜もこいつで竜を狩ってやるつもりだった」 「じゃあ、ずっと手放さず持ってたんだな」 「当たり前だ。もうこいつは俺の体の一部さ」 「そうか」  俺は小さく肯き、テーブルの下で指を組み合わせた。じっとりと、汗ばんでいる。  それからはただ適当に話をし、相槌を打って俺は部屋をあとにした。  また来いよ。そう言って酒瓶を振るエイクを見るに、俺を疑ってはいないようだ。  通りに出ればいつの間にやら辺りは夕日に照らされ赤く染まっていた。立ち止まり、宿を見上げる。 「あとは……どうするか、だな」  一人呟き、俺は石畳の通りをゆっくりと歩き出した。  あれこれと、これからこのことを考えながら町を歩き、店の前まで戻ってきてみればそこに見知った顔が二つあった。クレアとセシルだ。どうやら修道院から送ってくれた所に鉢合わせたらしい。 「ありがとう。悪かったな」  セシルに向かって礼を言ったその時だった。 「どこ行ってたのよっ!」  いきなりセシルの声が爆ぜた。彼女の表情からはかなりの焦りと苛立ちが見てとれる。セシルが修道女でなければ、多分俺はつかみかかれていただろう。それほどの勢いだった。 「何だよいきなり。先生のところに行くって言った」 「レイさんがいないの……どこにも」  拳を握り、セシルが悲痛とさえ言える声を漏らす。  夕飯を囲み、人々が一日で最も穏やかな瞬間に安堵する時刻。どうやら俺には無縁な話のようだ。  8  「ごめん。私がちゃんと気をつけてれば」 「謝るな。お前のせいじゃない」  うつむき、唇を引き結ぶセシルに俺は首を振って見せた。肩の一つでも叩いてやれればいいのだがそういうわけにもいかない。  妙な所で真面目なんだよな、こいつ。  気が付けば目に涙までためているセシルを見ながら息を吐き、夕日に赤く照らされた町並みに視線を移す。  もうすぐ日が沈む。レイが闇の中にまぎれてしまえば探し出すのはほぼ不可能だ。レイは男たちを狙いながらも竜を狙っていた。息を殺し、気配を絶つことが狩りの鉄則だ。隠れるという点に関して言えば俺よりもレイの方が一枚も二枚も上手だろう。  俺は短く息を吐き、閉めてあった店の雨戸を開け放った。  店内をゆっくりと進み、売り物のパルチザンを手にする。木製とはいえ、握った柄は冷たかった。  修道院で目にしたレイの棒さばきが頭をよぎる。彼女が槍の名手であることは間違いない。できれば杞憂であってほしい。だが、レイと対する時のことを思い俺が手にしたのはこの店で最も値段、質ともに高いパルチザンだった。  腕に差がある以上、道具くらいはいい物を持っておきたい。というか、道具の質でしか腕の差を埋められそうになかった。  今レイは槍を持ってはいない。俺が売ったパルチザンは警備に証拠品として押収されてしまったし、この町に一軒しかない武器屋の俺には、レイに二本目の槍を売った覚えがない。  素手対槍ならこちらにもいくらか勝機はありそうなんだが。正直、物干し竿対槍でもいい勝負ができそうな予感がしていた。  レイの行き先について心当たりは二つある。一つは復讐の相手であるエイクの所。そしてもう一箇所はここだ。  くどいようだがレイは今丸腰であり、武器を入手できる場所はこの町でここしかない。レイにしてみればエイクを殺しに行く前に自分の得物である槍を手にしたいはずだ。ここで待っていればレイと出会える可能性は十分にある。が、問題はレイがここに来ず、エイクの所に直行する可能性があるということだ。  偶然にも槍をどこかで手に入れてしまうかもしれないし、槍以外の武器でも殺せればいいと思うかもしれない。  俺はレイに人殺しになって欲しくない。そして俺にとってベストなのはエイクを背に槍以外の武器を手にしたレイと対峙することだ。  ここで待っていればレイが槍を手にすることは防げる。が、その間にレイがエイクを殺してしまったのでは意味がない。  結局のところエイクを背に槍を手にしたレイと対峙する、という選択肢を選ぶことになりそうだ。となると……、 「クレア」  カウンターの向こう、店と住居部分をつないでいる扉に向かって呼びかける。ややあって、ぱたぱたという足音が近づいてきた。足音が止まったところで扉が開く。 「おかえり、お兄ちゃん」  カウンターを迂回したクレアが駆け寄ってくる。 「ただいま」  クレアの様子はいつもと変わりない。状況を理解できてない、というかセシルも俺と同じようにあえて理解させようとはしなかったのだろう。それでも沈んだセシルの様子に何かを感じ取ったのか、クレアは俺を見上げて少し不安そうな顔をした。  そんなクレアの頭に手を置き、笑って見せる。 「今日、ちょっと忙しくて晩ごはん作れそうにないんだ。悪いけどセシルと一緒に風の丘亭で食べてくれないか」 「お仕事、なの?」  クレアの視線が俺が手にしているパルチザンへと移る。  俺は少しだけ考え、 「お仕事だ」  そう答えた。  ポケットに手を入れ、二枚の銀貨を取り出す。 「これだけあれば足りるだろ。おみやげにアップルパイを買ってきてくれると兄は喜ぶぞ」  銀貨をクレアに手渡し、頭を撫でてやる。 「はーい」  元気よく手を上げたクレアは俺の脇をすり抜け、セシルの腕にしがみついた。 「いこ、お姉ちゃん」 「あ、うん」  小さく答え、セシルがこちらを見つめる。 「何だよその飼い主に説教食らった犬みたいな顔は」 「だって……」 「だって、じゃない。お前のせいじゃないって言ったろ。それに」  言葉を切り、ため息をはさむ。 「その場に誰がいたってレイは止められなかった」  俺は口元を歪め、自分の爪先を見つめた。 「それよりクレアのこと頼むな。修道院には後で俺から頭下げとくから」  セシルにしても暇なわけではない。彼女には彼女のお勤めがあるのだ。そのセシルを個人の勝手な都合で拘束しているわけで、まぁ、さすがに一言もなしというわけにはいかないだろう。 「ま、とにかく行った行った。あまりもたもたしてると、な」  野良犬でも追い払うようにぱたぱたと手を振る。  セシルはそんな俺の顔を見ながら小さく肯くと、クレアの手を握った。 「じゃあ、行くね」 「あぁ」  短く返事をして二人に背を向ける。俺は一度店内を見回し、クレアとセシルの気配が背中で感じられなくなったところで表に出た。パルチザンを手に雨戸を閉め、足元の鍵をスライドさせる。  気休めだ。これくらいじゃ諦めてくれないだろうけど。窓の一枚や二枚は覚悟しとかなきゃな。  初めから店先に槍を立て掛けて置けばいいのかもしれないが、そうもいかない。レイだって馬鹿じゃない。これみよがしに置いてある槍など細工を警戒して使いはしないだろう。どのみち店に侵入されることに変わりはないのだ。だったら店先に槍を置いておいて、まったくの他人に持っていかれるリスクを背負うこともない。 「さて、と」  何とはなしに言って乾いた唇を舐める。気が付けばパルチザンを握る手が汗ばんでいた。  首をひねり、その場で軽く跳躍する。体の調子は悪くない。これならきっちり動けそうだ。  できれば口だけ動かして一件落着といきたいんだけどな。  無理だと分かっていてもそう思わずにはいられない。  口元を苦く緩めた俺は大きく深呼吸して石畳を蹴った。  間に合ってくれよ、頼むから。 「おかみさん、ごめん!」  つい先ほどまでいた宿に踏み込んだ俺はカウンターの前でそれだけ言い捨て、階段を駆け上がった。視界の端を一瞬おかみさんの唖然とした顔がよぎったが、今は説明している暇がない。こちらにも後で頭の一つでも下げなきゃならないだろう。しばらくはおかみさんの包丁を格安で研ぐことにしよう。  足音を気にしつつ二階の廊下を走り抜け、エイクがいるであろう部屋、203号室の前で立ち止まる。壁に背を預け、短く息を吐く。パルチザンの柄をきつく握り締め、俺は扉を蹴り開けた。  姿勢を低くして部屋に踏み込む。視線を走らせれば部屋にいたのはエイク一人だった。口を半開きにし、唖然とした表情でこちらを見ている。が、それも一瞬のこと。彼は脇にあった両手剣の柄を手にすると、鞘から引き抜き、剣先を俺に向けた。  使い込まれてはいるが手入れは怠っていないようだ。窓から差し込む沈みかけた夕日に照らされ、刃がうす赤く染まっている。  間に合った、か。  心中でつぶやき、俺はパルチザンの穂先をエイクから天井に移した。だがエイクは動かない。こちらを睨み、両手剣を構えたままだ。 「話がある」 「そんな風には見えないけどな」  口元を緩めたエイクの腰がわずかに落ちる。 「これはあんたを守るために持ってきたんだ」  エイクの表情は変わらない。ただ、眉間の皺が少しだけ深くなった。 「レイがあんたを殺そうとしてる。身に覚えは?」 「残念ながら全くない。第一、そんな心当たりがあれば一緒に竜など狩らない」 「もっともだ」  小さく肯き、俺は息を吐いた。 「お前、何を知ってる」  こちらに向けられた剣先がわずかに持ち上がり、エイクが足を開く。不穏な言動をとれば即撃ち込まれそうな雰囲気だった。緊張感に肌が痺れ、鼓動が早くなる。飲まれたら終わりだ。この体勢からではどうあがいても相手の方が速い。 「剣を下ろしてくれ」  こちらの緊張を悟られぬよう強く、はっきりとした声で言う。 「だったら先に槍を捨てるんだな」  エイクの声は明らかな怒気をはらんでいた。爆発こそしてはいないがかなり熱い。それはただ部屋に乱入され槍を向けられたことに対する怒りだけではないように思えた。もっと別の何かを内包した怒り。  例えば……裏切りとか。もしくは計画の失敗。  仕方ない。俺が騙された振りをしたのは事実なんだ。  背筋を流れる汗を感じながら、渇いた喉に唾を流し込む。とにかく一秒でも早くこの男を確保しなくては。レイと顔を合わせてしまう前に。  その点で言えばパルチザンを持ってエイクの前に現れたのは失敗だった。レイとエイクが刃を交えていた場合のことを考えての行動だったのだが、もっとよく状況を確認するべきだった。 「どうした。何か捨てられない理由でもあるのか?」  あからさまな牽制。  俺はパルチザンの柄を握る手に力を入れ、顔では笑って見せた。 「あんたが剣を向けてる」 「自衛権の行使ってやつさ。お前が槍を捨てれば剣を下ろす」 「保障は?」 「ないね。俺を信じろ」  最高にたちの悪いジョークだった。本人にも何らかの自覚あるのか、エイクが口を歪めるようにして笑ってみせる。  「お前が何をつかんだのかは知らん。だが、それが真実だと誰が証明してくれる。やめとけ」 「証明など必要ない」  それは三つ目の声だった。床のきしむ音がする。反射的に体を反転させ、俺はエイクを背にしてその声の主と向かい合った。と同時にパルチザンを構える。  来たか。 「貴様を殺せればそれでいい。それが全てだ」  底冷えがするような声が耳朶を打つ。レイは手にしているパルチザンをゆっくりと持ち上げ、こちらに向けた。それだけで既に心臓を撃ち抜かれたような気分になる。胸が苦しい。向き合ってみて初めて分かった。互いに槍に込めているものが違いすぎる。  レイの槍は……重い。受けきれるのだろうか。  一瞬不安にかられ、だがすぐに胸中で頭を振る。できるできないの問題じゃない。やるかやらないか、だ。 「悪いが一本貸してもらった」  レイが俺を見て微笑む。予想通り、店に残っていたものの中では最高の一本だった。 「傷つけずに返してくれよ」 「残念だがそれはできそうにない」  俺の軽口を受け流し、レイが唇を引き結ぶ。周囲の空気が一気に張り詰めた。こうして視線を交えているだけで息があがっていくのを感じる。  黒というのは厄介な色だ。何よりも重く冷たい闇を連想させる。同じ黒髪黒瞳同士ではあるが今のレイにこそその色はふさわしかった。 「リード。退いてくれ」  形こそ懇願だが、声色は有無を言わせぬ命令だった。  落ち着け。正念場だ。  閉じてしまった喉を開くように大きく息を吸い込んだ俺は、腹を決め、ゆっくりと吐き出した。 「断る」  外を吹く風が窓枠をかたかたと鳴らす。 「……そうか」  レイの返事は短かった。 「交渉決裂だな」  背後から聞こえてきたまるで他人事のような一言に、俺は音が出そうなほど奥歯を噛み締めた。目を逸らす余裕があるなら睨みつけている所だ。 「そう怒るなって」  背中を通して雰囲気が伝わったのかエイクが言う。 「勝手に盛り上がられても俺にはさっぱり分からんね」 「心配するな。あの世で死神が教えてくれる」  レイの口元がいびつに歪んだ。  場の空気にそぐわない口笛が一つ。 「で?」  エイクは俺にターゲットを移したようだ。眉間に皺を刻んだ俺は短く、切り捨てるように説明してやった。 「昔、あんたがある村に持ち込んだ竜のせいで彼女の妹が死んでる」  エイクは、ああ、と声を出し、そのまま黙ってしまった。俺の背後で今何を思っているのだろうか。この体勢では表情を伺う事もできない。  ややあって、エイクは大きく息を吐き出した。 「くだらねぇ理由だ」  聞いて損をした。そんな風にさえ思える声色。 「くだらないだと」  歯軋りがここまで聞こえてきそうな、レイはそんな表情をしていた。 「運のないガキが一人死んだだけの話だ。それがお前の妹の寿命だったのさ」  瞬間、レイの槍が疾駆した。視界の中で穂先がいきなり巨大化する。俺のわき腹をかすめる様に放たれた衝きに体がかろうじて反応した。  重たい衝突音。  柄でレイの槍を跳ね上げた俺は背後のエイクをレイから完全に隠すように立ち直した。  肩まで痺れやがる。  下唇を噛み、視点をレイに定める。衝きを放つための前動作をほとんど察知できなかった。集中しなければ。一瞬のためらいが全てを終わらせてしまう。 「で、お前はどうして俺を守ろうとするんだ?」  俺の顔を覗き込むようにしてエイクが訊いてくる。やはりその声には緊張感がない。正直、かなり癇に障った。この男を今すぐ拳で殴り倒せればどんなにすっきりするだろうか。 「勘違いするな。俺はレイを人殺しにしたくないだけだ」 「何を今さら。その女はもう二人殺してる」  開きかけたレイの口を目で制し、俺はエイクに返した。 「騙し合いは終わりだ。殺したのは……あんただ」  身じろぎしたのか、背後で床のきしむ音がする。  数秒の沈黙の後でやや抑えられた声が発せられた。 「なぜ、そう思う」 「死体を視た医者から傷の状況を教えた貰った。致命傷になった胸への一撃、深すぎる」 「だからどうした」 「パルチザンの穂先、両刃が何のために存在するか知ってるか?」 「衝くことも斬ることもできるようにだ」  質問に質問で返されたせいかエイクの声はいらついていた。それとも、焦りか。 「正解だ。ただし半分だけ」  乾いた唇を舐め、続ける。 「穂先が、深く敵の体に刺さらないようにするためでもある」  戦場での取り回しを考えてのことだ。穂先が敵の体に刺さったまま抜けないなどという事態はそのまま死に直結する。 「あんな深い傷、それこそ両手剣で衝きでもしない限りできやしない。傷の周りにさもパルチザンで衝いたように二つの小さな傷があったが偽装だろう」  先生から見せてもらった傷の状態から俺が導き出した疑問と、その答えだった。 「そして、あんたはあの夜一度もその両手剣を手放していない」  言葉を切り、長く息を吐く。  沈黙が続いた。レイも今はただ事の成り行きを見守っている。視線は俺ではなく、背後のエイクに注がれていた。  どれほどの時間が経っただろう。短かったのか、長かったのか。 「しゃあねぇな」  それは、ひどくあっさりとした声だった。うろたえもせず、諦めもせず。まるで世間話でもするような口調。 「ご明察だ。そこの女が食事に混ぜた薬で眠った時には成功を確信したんだがな」  レイの記憶が途切れていたのはそういうことか。 「他の二人は怪しまなかったのか?」 「魔法の言葉をかけてやったのさ。気の強い女を犯してみたくないか、ってな」  いいアイディアだろ。言外に込められたそんな響きに俺は舌打ちした。 「なぜ殺した。仲間だろ」  はっ、と吐き捨てるような笑い声がした。 「馬鹿言うな、あんなボンクラども。大体あいつらが素直に全財産差し出してりゃ死なずに済んだんだ」  どこまでも人を見下した響きが夕日に照らされた室内に放たれる。俺は沈黙をもって話を促した。 「デカいハンターギルドに誘われてな、ちょっとばかし持参金が必要だったのさ」  そんな理由で、とは言わない。これでも商売人だ。金の力は身に染みて知っている。金のために他人に刃を向ける者、金のために自らの首に縄をかける者、全く見てこなかったと言えばそれは嘘だ。  またか。そう……また金だ。そのせいで二人死んだ。 「結局、全部ブラフだったってことか」  胸に溜まった熱いものを吐き出しつつ、言う。警備の詰め所の前、エイクと交わした言葉が脳内で蘇る。 「お前もあの女を疑ってる振りをして俺に近づいた。お互い様さ」 「言い訳する気はない」 「心配するな。して欲しいなんて欠片も思ってねぇ。さて……その女が警備に拘束されるまでは町にいるつもりだったんだがな。潮時らしい。抜けさせてもらうぜ」  エイクの手が俺の左肩を叩いた。 「ま、あと頼むわ。頼もしい騎士さま」 「リード、退けぇっ!」  レイの声が爆ぜた。俺の体を押し倒すような怒声。その声量に窓さえ震える。パルチザンと言う名の牙をこちらに向け、低く腰を落としたレイの姿は獰猛な獣そのものだった。  頬を一筋の汗が伝う。レイを止めなければならない。エイクを逃がしてはならない。 「泥水をすすった。残飯をあさった。故郷を捨てた。全てはその男を殺すためだっ! お前に私を止める権利などないっ!」 「それでも、俺は」  そこまで言って言葉を切る。何を言っても自分勝手な言い分にしかならないことは分かっていたはずだ。 「想像しろ。あの子が、もしクレアが殺されても許せるのか。諦められるのかっ!」  血を吐くようなレイの声。俺は微かに首を横に振った。 「許さない。犯人を追い詰めて八つ裂きにする」  想像するのも嫌だった。恐らく、良心という名の精神のたがなど一瞬で吹き飛ぶだろう。 「だから……その時は君が俺を止めてくれ」  喰いしばったレイの歯の間から呻き声が押し出される。  筋が通っていないことは十分承知していた。だが筋を通していたのではレイの前に立つ事さえできない。  エゴだ。それ以外に拠って立つものはない。  しかしこの状況、どうすればいい。エイクの気配はまだ背後にある。だが時間の問題だ。三人の立ち位置から考えるにエイクの脱出経路は窓しかない。  エイクを押さえるか。いや、ほんの僅かでもレイから視線を外せば次の瞬間、槍がエイクの胸を貫く。  両方をとることはできそうになかった。どちらか一方を選ぶ。だとすれば考えるまでもない。エイクの確保を諦め、レイを止める。  それが最良の選択だと俺は信じている。  そう、俺が腹を決めた時だった。 「動くなっ!」  そんな怒声と共に固まっていた場が動き出す。  俺の目に入ったものは抜き身のショートソードを構え、レイの背後に立つカートの姿だった。カートを挟むようにしてさらに二人の警備兵が並び、そのさらに後ろからこの宿のおかみさんが不安そうな顔を覗かせている。  通報されたか。  まず背後で床を蹴る音がした。俺の中で僅かな意識の移動が起こる。と、ほぼ同時に一陣の風が俺の脇を走り抜けた。  動いた。だが……間に合う!  自分の間合いは熟知していた。手を伸ばせば届く。視界で展開する景色がひどくゆっくりと見えた。レイの肩に、まず中指が到達する。確かに触れた。  そして、掴んだ。  と思った瞬間、俺の体は激しく引っ張られ、レイから引き剥がされてしまう。 「動くなと言ったはずだっ!」  カートが二度目の怒声を上げた。だがエイクの姿は既になく、レイはその身を窓から宙に躍らせた。  追え。  体の反応は早かった。背後に取り付いている警備兵を柄で叩き伏せ、窓に向かって走る。赤から黒へ。夕日から月へ。冷たく乾いた夜気が顔を撫でる。明かりの灯りだした町を走るエイクとレイの姿が、ここ……宿の二階からかろうじて確認できた。 「お前、自分が何してるのか分かってるのか!」 「うるせぇっ! 話なら後で聞いてやる。今は黙ってろ!」  叫ぶカートに向かって言い放ち、窓枠に手をかけた俺は宙に舞った。先行する二人が向かった先には山がある。山と闇。一度見失ってしまえば再び捕捉できる保証はない。  着地、と同時に衝撃が頭まで駆け上がる。 「リード、待て!」  頭上からのカートの声にも、足の痺れにも付き合っている暇はない。大きく息を吸い込んだ俺はすぐさま地面を全力で蹴り、駆け出した。  9  夜の景色が背後に流れていく。前を行く二人はさすがに速かった。俺にしたって日々の鍛錬を怠っているわけではないが、やはり基本的な運動量が違うらしい。離されず、付いて行くのがやっとだった。それでも息はかなりあがり、肺は少しでも多くの空気を吸い込もうとする。立ち並ぶ家の数がまばらになり、山が近いことが分かった。石畳も終わり、道が僅かに傾斜し始める。  依然先頭はエイク。その後にレイと俺が続く。走り続けた後の山登りにふくらはぎが疲労を訴える。少し休もうよ。体中から聞こえるそんな声無視して、俺は山道を登り出した。  月明かりだけを頼りに二つの背中を追う。パルチザンを手にした左腕が痛んだ。筋肉が張っているのだ。今すぐにでも揉み解してやりたいところだがそういうわけにもいかない。  額から流れる汗を拭くこともせず、走る。両側から覆いかぶさってくるような木々に俺の荒い呼吸音が吸い込まれ消えていった。  まずいな。  この山道がどこに続くのかを思い出し口内で舌打ちする。やがて視界が開け、正面の岩山に口を開けた洞窟が現れた。ミルスの旧坑道。中は迷路のように入り組み、それこそ入り口から紐でも伸ばしながら歩かなければ確実に迷ってしまうような、そんな場所だ。子供の頃、ここでだけは絶対に遊ぶなと言われた場所でもある。  先頭を行くエイクは一度こちらを振り返り、迷うことなく坑道に突入した。闇に飲まれる。そんな表現がぴったりと当てはまった。エイクの姿は一瞬にして闇の中に消えてしまう。  当然のようにレイもその後を追った。入り口の小石を蹴り飛ばし、闇を斬るように加速する。  最良の選択を……するんじゃない。したと信じろ。最良なんて結果論でしかない。  俺は足を止めなかった。  とてもじゃないがランプを取りに戻る暇などない。それにここは子供時代の俺の庭だ。多少の地の利もある。遊ぶな、などという大人の忠告は当然ことながら無視した。もっとも、この闇の中で「地の利」とやらがどれほど生かせるのかは分からないが。  坑道に足を踏み入れた俺は呼吸を整えつつ、一歩一歩進んでいった。伸ばした自分の手どころか目の前に立てた指さえ見えないような闇だ。先行する二人も移動する速度を必ず落とす。  重く湿った空気を手にしたパルチザンで押しのけるように進む。埃っぽく、淀んだ匂いが息をするたびに鼻を抜けた。前を行く二人の気配は完全に消えている。  最初の分岐点に到達。地面に鼻をくっつけてみたが暗すぎて足跡も見えなかった。子供の頃の記憶を頼りに左を選ぶ。単なる勘、というわけでもない。記憶が確かなら左が本道で右は枝道だ。闇のせいで分岐に気付かなかった可能性もあるし、たとえ気付いていたとしても不慣れな場所では太い道を選びたくなるのが心情ではないだろうか。特にこのような場所では。知らない町の路地に入るのが何となく嫌なのと似ているかもしれない。まぁ、俺を基準にした予想でしかないのだが。  記憶を頼りにさらに進む。この先、道は三つに分かれている……はずだ。選ぶならやはり正面か。  不意に首筋に垂れてきた雫に身が硬くなる。まったく心臓に悪い。が、同時に昔のことをよりはっきりと思い出した。  そう言えば雫に驚いた奴が大声上げて、一同パニックになったのもここだっけな。  こんな状況であるにも関わらずつい笑ってしまう。  あのあと散り散りに逃げた俺達の大部分が迷子になり、大捜索隊が結成されたわけだ。で、無事救出されたもののそれぞれがぞれぞれの父親に拳で殴られ、町の人たちの前で土下座させられた。今になってはいい思い出だ。  しかし、だとするとこの辺に……。  俺は膝を折り、地面に手を這わせた。土を触っていた指先が別の感触を捉える。地面に埋められた大き目の石。間違いない。俺達が埋めた物だ。  はた迷惑な話だが、親父に殴られ土下座させられたくらいで俺達の好奇心とフロンティアスピリットが萎えるはずもなく、結局それは坑道に道しるべを埋め込むという新たな作戦を俺達に実行させた。  石の表面を撫でると懐かしい感触を見つけることができた。石に掘り込まれた矢印と、その下の行き先。ちなみにこのアイディアを教えてくれたのは爺ちゃんだった。親父に怒られ、庭で泣く俺の頭に手を置いて「冒険は男のロマンじゃからな」と笑顔で慰めてくれた。もっとも、岩に目印を刻むために店から持ち出したナイフが何やら高級品だったらしく、やっぱりまた親父に殴られたわけだが。  とにかく子供の頃の冒険心のおかげで俺は自分の位置を正確に知ることができた。間違いなくここは分岐の手前だ。  と、俺の指先がまったく予定外の感触を捉えた。反射的に跳び退り、パルチザンを構える。  俺の指先が触れたのは間違いなく誰かの手だった。鼓動が一気に早くなり口内が乾いていく。  目の前の闇がふらり、と揺れた。 「リードか?」  周囲の湿気にそぐわない澄んだ声がする。俺は安堵のため息をついた。 「あぁ」 「焦り過ぎた」  自嘲するような響きを混ぜ、レイが言う。 「何も見えない。奴の気配も見失ってしまった」 「一度外に出ないか? このままじゃらちが開かないだろ」 「それはできない」  柔らかく、だがはっきりと拒絶された。 「君は私を止める。だから……ここまでだ」  闇の中で、レイの瞳に宿る光が見えたような気がした。強い、意志の光。 「リード、もう君は戻れ。でなければ、私は本気で槍を向けなければならない」 「覚悟してるさ」 「らしくないな」  会話が途切れる。一呼吸ほどの間をおいてレイが続けた。 「勝手な覚悟だ。君が死ねば泣く子がいる。自分が背負っているものを忘れたわけじゃないだろう」 「それを言われると辛いな。まぁ、死なない程度にやるさ」  正面の闇からため息が聞こえた。俺は俺で口元を緩める。 「もう少し別の形で出会いたかった」 「言うなよ、そんなこと」  そんな俺の一言を最期に、多少緩んでいた空気が再び張り詰める。互いに相手の姿は見えていない。後はどれだけ敏感に気配、音、空気の揺れを感じられるかだ。正面の闇を凝視する。本当に目の前にレイはいるのだろうか。不安になった。それほどに何も見えない。瞬きさえできなかった。乾いた眼球が痛みを訴える。基準がないゆえにぶれ始める焦点を何とか合わせ、俺は周囲の情報を集め続けた。  動かない。  ためらいか、それとも……。  その時、前方で小さな火花が散った。ほんの一瞬。一面の闇だからこそ気付けた。  全身に痺れのような危機感が走り抜ける。反射的に踏み込んだ俺はそこにいるであろうレイに飛び掛った。穂先がかすったのか、肩に鋭い痛みが走る。だが気にしている余裕はない。  俺がレイを押し倒した瞬間、脇を何者かが通り抜けた。ざっ、と地面を滑る音がして足音がやむ。 「リード」 「あぁ、一人増えた」  俺の下で名を呼ぶレイにそう答え、ゆっくりと立ち上がる。 「お喋りは身を滅ぼすぞ」  楽しげな響きだった。俺達の声を頼りにここまで戻ってきたってわけか。理屈は分かるがたいした勘と耳だ。ハンターの名は飾りじゃないということか。  肩の痛みに顔をしかめながらエイクがいるであろう方にパルチザンを向ける。柄を強く握るだけでかなりの痛みが肩に伝わった。だが、肩を貫かなかっただけでもマシだと思わなければ。 「血の匂いがするじゃねぇか。仲間割れか?」 「ちょっと引っ掛けただけさ。お前こそ逃げるんじゃなかったのか?」  生暖かいものが右の拳を伝わり、地面に落ちる。湿気と血の匂いにむせ返りそうになった。 「せっかくの機会だ。後腐れないように始末をつけとこうと思ってな」  せっかくの機会、か。  エイクの台詞を胸中で反芻し、苦笑する。確かにこの状況、エイクのほうが有利だ。エイクは何も気にせず剣を振る事ができるが、俺はレイとの同士討ちを避けなければならない。 「リード、手を」  不意に耳元で声がした。 「早く」  返事をする間もなく右手をとられてしまう。  一瞬の沈黙。 「すまない」 「どうして」  訊くと同時にレイの手を強く握り返す。 「私にしてもこれ以上君を傷つけたくない。手をつないだ状態でどれだけ動けるか分からないが同士討ちは避けられるはずだ」 「じゃあ、俺が前に出るよ」 「馬鹿を言うな。怪我人は下がっていろ」 「体の面積が広い方が盾には適してる。それに言ったろ。人殺しにしたくないって」  この状況じゃどうしたって防戦一方だろうけど。 「私に、ただ隠れていろと言うのか」 「できればこの場から逃げて欲しいくらいさ」 「なぜ……そこまでするんだ」  ふと考えた。 「男の子の意地、かな」  レイの言葉が途切れる。 「言ったはずだ。そういう優しさには弱いと」 「忘れたよ」  俺は闇の中で微笑んだ。そう、結局はただの意地だ。たとえ圧倒的に不利な状況であっても負けを認めるのが嫌だった。人間的に尊敬できない奴相手にならば尚更だ。 「終わったかい?」  待ちくたびれた、と言わんばかりの声がする。 「悪かった」 「いいさ。思いは残さない方がいい。化けて出られても困るからな」  俺は口元を緩め……先に撃って出た。片手で扱う槍にどれほどの威力があるのかは分からない。が、恐らく攻められるのはこの瞬間だけだ。強く踏み込み、必死で腕を伸ばす。  手ごたえは、ない。それどころか金属同士が打ち合う甲高い音と共に穂先が跳ね上がった。火花が散り、衝きの体勢に入ったエイクの姿が一瞬だけ浮かび上がる。俺は槍を引き戻しつつ体をひねった。次の瞬間眼前を風切り音が通過する。全身から吹き出す汗。あと少しずれていればこめかみから串刺しにされていた。  次は何がくる。  この狭い坑道内で両手剣を大きく振ることはできないはずだ。衝き主体で攻めてくるとみて間違いない。だがエイクにとって俺が突き出したパルチザンが脅威であることも確かだ。下手に踏み込めば自ら槍に向かってしまう可能性もある。とすると。  パルチザンの先に何かが触れた。その瞬間予想通り穂先が跳ね上げられる。続けて踏み込み音。その音に合わせて俺は再び大きく体をひねった。と同時に槍を引き戻す。 「はずれだ」  相手を挑発するように言ってやった。 「なら当たるまでやるさ!」  槍が跳ね上がってから踏み込み音がするまでの間隔が一気に短くなる。俺は口の中でうめき、とにかくかわし続けた。いや、当たらないよう神様に祈りながら体を動かし続けた、と言った方が正確だろう。  闇の中に時折火花が散り、剣戟の響きが走る。槍を持つ左手の握力と腕力が目に見えて落ち始めた。パルチザンを払われるたびに腕ごと弾き飛ばされそうになる。  出血のせいか体がふらついた。ふんばりが効かない。徐々に後ろに押され始める。どうすればいい? 考えろ。このままだと時間の問題だ。  肺の求めに応じ、大きく息を吸い込んだその時だった。頭部に衝撃が走り、俺はレイを巻き込むようにして後ろに倒れ込んでしまった。手から離れた槍が地面に落ち、転がる。  頭が熱い。頬を鉄臭い液体が流れ落ちていく。混濁する意識の中で分かったのは石を投げられた、ということだけだった。タイミングをずらすためにエイクが投げたのだろうが、  よりによって頭に当たるかよ。  日頃の不信心のせいだろうか。この状況にあって運にさえ見放された。笑うしかない。 「リード、もういい」  荒い呼吸音の合間、耳元でレイの声がする。彼女の手が俺の胸元をつかんでいた。 「泣きそうな声出すなよ」  そう言ったつもりだが音にはならなかった。胸元にあるレイの手を引き剥がし、頭の命令を聞こうとしない足に鞭打って立ち上がる。 「手間かけさせやがって」 「まだ終わらないさ」  拳を持ち上げ、正面に向ける。落としたパルチザンは闇に没し、どこにあるのか分からない。  坑道に風が吹いた。脳内に疑問符が浮かぶ。風が、なぜ。だが考えている暇などなかった。 「死ねっ!」  そんな一言に対して精一杯の抵抗を込めて拳を突き出す。決して潔く散るためではない。生き残るために俺は前に出る。  だが、足は応えてくれなかった。地面に張り付いてしまったように動かない。  せめて一歩。そんな思いも届かなかった。一つ、二つと逃げるようによろけ、後ずさる。  もう、だめなのか。  体から力が抜ける。刹那、坑内が赤く染まった。熱と光の奔流が目の前のエイクを飲み込み、その姿をかき消してしまう。光に包まれる寸前、エイクと目が合った。彼は笑っていた。歯を剥き出しにして。歓喜か、それとも狂気か。  自分の目の前を走り抜けたものが巨大な炎だと理解できたのは辺りに漂う焦げの匂いを知覚してからだった。周囲は再び闇に包まれ、目の前から人間の気配が一つ消えていた。  エイクの持ち物であった両手剣が熱せられ、地面の上で赤い、夕日のような光を放っている。  何が起こった。上手く回転しない頭で必死に考える。一つだけ分かったことがあった。今自分は坑道の本道ではなく枝道にいる。もし最後の瞬間前に出ていれば人一人を消し去るだけの力を持った炎に巻き込まれていたということだ。俺の意識は生きるために前に出ようとした。だが、足は言うことを聞かず後ろに下がり、結果的に俺は生き残った。本当に生きようとしてたのは俺の意識ではなく体だというのだろうか? ただの幸運で片付けてしまうことはできないような気がした。  助かったよ。  とりあえず手で膝に触れ、俺は胸中で礼を言った。 「リード」  俺の名を呼ぶレイの声がする。俺は大きく息を吐き、大丈夫だ、と返した。が、どうもおかしい。レイの声が硬いような気がする。一応の危機は脱したというのに。  まぁ、俺にしたって目の前で一人人間が消え去ったという事実を上手く処理できていないんだが。 「最悪だ」  レイの声は低く、抑えられていた。闇を通して緊張感がこちらまで伝わってきそうなほどの雰囲気。 「奴だ」  レイの台詞に呼応するようにして咆哮が坑道を震わせた。反射的に頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたくなる。声だけでここまで恐怖心を煽られたのは初めてだった。巨大な爪で心臓を鷲掴みにされたような、とでも言えばいいのだろうか。心の奥底、動物としての本能が残る場所で「こいつとは関わってはいけない」と警鐘が打ち鳴らされる。何度も、何度も。  どうにも頭が鈍っていたらしい。エイクを消し去った炎を発した何か、についてすぐさま考えるべきだった。 「今のがブレスってやつか」 「血の臭いを嗅ぎつけたのかもしれない」  レイに言われ、肩に手をやる。出血は止まっていなかった。 「諦めてくれるまでここで待つ?」 「それだと君がもたない。第一……」  轟音と共に地面が揺れ、天井から砂や小石が降り注ぐ。 「奴にとってこんな坑道など砂の城と同じだ」  このまま待っていても生き埋めになるだけか。 「入り口以外にどこか出られる場所はないのか?」  ない、と答えようとして俺は留まった。子供の頃探検して見つけた場所が一つだけある。俺は昔の記憶を引っ張り出し、頭の中に地図を描いた。と同時に友達の誰かが言った言葉を思い出す。  この道から左の壁に手をついて歩けばいいんだ。  その後で「おお、頭いいなー」と拳を握ってそいつを賞賛したっけ。 「手を。案内するよ」 「いや、肩を貸そう」  言いながら、レイは俺の体を支えてくれた。それだけで大分楽になる。腕がレイの髪に触れた瞬間、不思議と安らいだ。久しぶりに温かく柔らかいものに触れたような気がする。 「どうした?」 「何でもない。行こう」  足に力を込め、俺は左の壁伝いに歩き出した。  穴の縁に手をかけ、かろうじて体を引き上げる。左の腕を地面につけた俺はイモムシのように縦穴から這い出した。地面に転がり、長く息を吐く。下で支えてくれたレイに感謝だ。でなければとても左腕一本で縦穴を登ることはできなかった。完全に痺れてしまった右腕の感覚はないに等しい。  血が足りなくなった体に冷たい夜風は厳しかった。真冬でもないのにじっとしていると体が震える。  ややあって縦穴からパルチザンの穂先が顔を出し、続けてレイが登ってきた。 「大丈夫か?」 「何とか」  答えて立ち上がる。頭の傷のせいか酷い頭痛がする。脳味噌の代わりに鉄でも詰められたように頭が重かった。 「リード、腕を」  言いながらレイが薄いブルーのハンカチを取り出す。見覚えがあると思ったら俺のだった。そういや修道院で貸したんだっけ。  レイは俺の服の袖をちぎり取ると右の上腕をハンカチできつく縛った。 「もう少しマシな返し方をしたかったんだがな」  ハンカチを見ながらレイが苦笑する。月明かりに照らされた黒髪が風に吹かれ、音もなく揺れた。場違いな感想ではあるが、純粋に綺麗だと思った。こんな状況でなければ胸が高鳴っていたかもしれない。 「十分さ」  それだけ言って、俺は今いる山の頂上付近から下方に視線を落とした。  山が動いたような気さえする。坑道に突っ込まれていた鼻先が何か、恐らくは血の臭いを求めるようにしてこちらに向けられた。  足が震え、歯が鳴る。真紅の鱗に覆われた巨体からは圧倒的な力が発せられていた。あらゆる生物の頂点に立つにふさわしい風格。何をどうすればこれだけ鋭い歯ができあがるのだろうか。たとえ千年に一人の職人であっても、この歯に勝る刃は作り出せないだろう。  地獄より深いところから響いてくるような低い呻き声が山を揺らす。こちらに向けられた黄色い二つの瞳は月さえもその中に飲み込んでしまいそうだった。  何も言えず、ただその場に立ち尽くす。冷や汗さえかかなかった。  小さな家の屋根ほどもある翼がはためく。瞬間、巻き起こった突風と共に巨大な体が地を離れ一気に上昇した。月に食らいつくような勢いで空を割り、遥か上空、星空を背に一度翼を揺らす。それから諦め、神に祈る時間をやるとでも言わんばかりにたっぷりと時間をかけ生物達の王は俺とレイの前に舞い降りた。翼がはためく度に周囲の木々を折るような勢いの風が吹き、押し倒されそうになる。 「逃げろ」  渦を巻く風の中でレイの声がする。彼女はただ正面、竜を見つめパルチザンを構えていた。  エイクの話はやはり嘘だった。レイは竜を前に笑ってなどいない。俺の目に映っているのは必死なって恐怖と戦い、押し殺しているレイの横顔だ。妹のために。そして、今は俺のために。あの夜、俺の家の前でレイが見せた高揚感に満ちた笑顔は自分を鼓舞するための、精一杯の強がりだったのだろう。 「断る」  ならば尚更逃げられない。当たり前だ。 「歯を食いしばってる女性を置いて男が逃げられるわけないだろ」  少しだけ間をおいて、レイが小さく吹き出した。 「馬鹿だな君は。本当に……」 「何事も割と器用にこなすタイプなんだけどな、俺」  言って笑う。実に心外なお言葉だ。 「何か弱点とかないのか?」  よだれを垂らし、舌なめずりをする竜を見据えながら俺は訊いた。  もう少し待ってろ。行儀悪いぞ。 「目を狙えればひるませること位はできるかもしれない」  結果に期待を持てそうもないが、それ以外に方法はなさそうだ。 「俺が囮になる。その間に奴の側面に回り込んでくれ。そうだな……さっき奴がいた所、坑道の前まで引っ張る」  レイの口が僅かに開いた。それを目で制し、続ける。 「俺には槍を振れるだけの力が残ってない。それに……どう考えたって俺の方が旨そうだろ?」  この状況における渾身のジョークにレイは、仕方ないな、という風に笑ってくれた。それは母親が小さな子供に向ける笑顔に似ていたのかもしれない。予定では爆笑するはずだったんだが、まぁ、いいだろう。改良の余地ありということで。  なんて、バカなことを考えていなければ恐怖に飲み込まれてしまうという事実を心の奥底にしまい込み、俺は竜を下から睨み上げた。 「幸運を」  呟き、俺はレイの肩を押した。 「死ぬなよ」  言い残し、レイが地面を蹴る。竜の視線が動き出したレイに向けられた。足元の石を拾い上げ、それを竜の鼻先にぶつけてやる。レイに向けられていた視線は興味のそれだ。だが、視線が俺に移った時そこにははっきりとした怒りの色が滲んでいた。  人間ごときが。  そんな声さえ眼光から聞こえてくる。  こんな生き物がこの世にいるなんてな。できれば一生出会いたくなかった。  一度目を閉じ、ゆっくりと開く。驚いたことに竜は跡形もなく消えていた。……なんてうまい話があるわけない。  覚悟を決めろ。  俺は親指を立て、それで自分の胸を指差した。竜に向かって言ってやる。 「血のしたたるレアステーキだ。喰ってみろよ」  反応は早かった。恐ろしいほどの速度で視界が鋭い歯と毒々しいまでに赤い舌で塗りつぶされていく。短く息を吐いた俺は跳躍するような勢いで地面を蹴った。  背後で巨大な顎が閉じた音がする。次々となぎ倒される木々を避け、俺は斜面を転がるような勢いで駆け下りた。気を抜くと膝が砕け、前のめりに倒れそうになる。だがまだ喰われてやるわけにはいかなかった。ディナーの会場はここじゃない。  地面に大きく張り出した木の根を跳び越え、着地。が、バランスをくずして転倒する。鼻の先まで迫った巨大な爪をかろうじて避け、俺は再び走り出した。口にたまった埃っぽい唾を吐き捨てる。もう走っているのか坂に合わせて足を動かしているのか分からない。太ももの筋肉はとっくの昔に痙攣を始めていた。  空気が気管を通るたびにかすれた音をたてる。喉が痛い。小さなイガ栗を吸い込み、吐き出しているような気分だった。  衝突音と共に地面が揺れ、小石が頭上から降り注ぐ。背後では大きく地面がえぐれていることだろう。人間など一瞬で挽肉だ。  その力で畑を耕してみろよ。大豊作だ。  胸中で軽口を叩きつつ全力で逃げる。心臓が限界を訴えても足は止められない。その瞬間に俺は死に、全ては終わる。食物連鎖の一環だと言ってしまえばそれまでだが、さすがにそこまでは達観できていない。  どれほど走ったのかは分からない。ただ、目的地である坑道前をかすれた視界で確認できる所までは来た。  あと少し。一秒か、二秒か。  弾き飛ばされた枝が頬をかすめ、咆哮が背を押す。びびったわけでも気を抜いたわけでもない。ただ、俺の足はもう限界だった。  視界が開けた、と思った瞬間俺はいまだかつて感じたことがない程の衝撃を背に受け、宙を舞っていた。呼吸が止まり、胃から上がってきた血が口から吹き出る。星空が一瞬だけ見えた。そして落下。  腹から地面に叩きつけられた俺が見たものは黒くもやがかり、九十度傾いた視界の中で悠々と歩み寄る竜の姿だった。  再び口から血が溢れ、地面に黒い染みを広げる。声も出ない。指一本さえ動かない。ただ浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。死にかけの魚のように口を喘がせ、唯一動く眼球で竜を睨む。  竜は鼻先を俺に寄せ、匂いをかいでいるようだった。  血の匂いがそんなに嬉しいのかよ。  やがて竜は満足したのか、俺を噛み砕くべく巨大な口を開いた。赤黒い闇が眼前に迫る。  その時、視界のほんの端にレイの姿が映った。パルチザンを構え、竜に向かって走るレイを見て最初に思ったことは「あぁ、逃げなかったんだな」だった。  彼女も損な性格をしている。でも……悪くない。  レイに気付いた竜が視線を転じ、振り払うような前足の一撃を放った。レイの体が大きく沈み込む。  一瞬、時が止まったような気がした。音も匂いも味も感触も全てを感じなくなり、ただ視覚だけが異常に研ぎ澄まされた状態。  竜の前足は空を切り、鋭い爪に切り取られたレイの二本の髪の毛が宙に舞う様を俺にははっきりと見ることができた。  引いていた波が帰ってくるように、一気に時が流れ出す。  低い体勢で踏み込んだレイの体は限界まで引き絞られた弓のようだった。目に見えない射手が手を離した瞬間、矢は確実に目標を撃ち抜いた。眼球を貫かれた竜の顎が跳ね上がり、泣き叫ぶような甲高い咆哮が夜空を震わせる。  レイが俺に視線を向けた。俺も応えて笑おうとする。が、もうそこにはレイの姿はなかった。丸太ほどの太さがある竜の尾がレイの体をなぎ払ったのだ。何かが潰れるような衝突音と共にレイが弾け跳ぶ。  俺の視界の中でレイの体は風に舞う木の葉のように地面を転がり、止まった。あとはもう、目を見開いたままぴくりとも動かない。彼女の下で黒い染みがゆっくりと広がっていった。片足が曲がってはならない方に曲がっている。  巨大な前足が振り下ろされるたびに大地が揺れ、地面がひび割れた。甲高い咆哮は尚も続く。目から緑色の涙を流しつつ真紅の鱗に覆われた太い鞭を何度も何度も地面に叩き付ける。  やがて竜は狂ったように翼をはためかせ、空に舞い上がった。そのまま頭をかきむしる様に無茶苦茶な軌道で飛び、怒りに満ちた叫び声を引きながら月に向かうようにして消えていった。  山が静寂を取り戻す。いや、完全な静寂ではない。虫の声や梟の声が聞こえるいつもの夜の山だ。  俺は体に残ったカスみたいな力を振り絞り、片腕だけで地面を這った。全身に激痛が走る。視界のほとんどは闇に包まれていた。 「レ……イ……」  かすれた声でそう言った瞬間限界を迎える。後はもう、全てが闇だ。  エピローグ〜プロローグ  何よりもまず茶色い物が見えた。ぼやけた視界と頭がそれを天井だと判断するまでにたっぷりと十秒はかかった。続けて嗅覚が覚醒する。これほど懐かしく、安らぎを感じる匂いがあるだろうか。それは間違いなく自分のベッドの匂いだった。周囲は明るい。ということは昼間なのだろう。ただ問題が一つある。なぜ自分は昼間からベッドで寝ているのだろうか。それが分からない。  ベッドに入る前の記憶を手繰り寄せる。深い深い水底から気泡が登るようにではあるが、少しずつ記憶が戻ってきた。  山、坑道、竜、そして……レイ。  血だまりの中、目を見開いて全く動かなかったその姿が不意に脳裏に叩きつけられる  彼女はどうなった。  反射的に体を起こそうとして呻き声を漏らしてしまう。全身が半端でないほどに痛いのだ。目に涙を滲ませた俺の視界をふと何かが遮った。 「リード」  優しく、澄んだ声が俺の名を呼ぶ。穏やかな香りが鼻腔を抜けた。 「大丈夫か?」  そんなことを訊きながら声の主は俺の額に手を置いた。 「熱は下がったみたいだな。三日も目を覚まさなかったんだ、心配した」 「そりゃこっちの台詞だ」  体を気遣いながらゆっくりと上半身を持ち上げる。何か動きにくいと思ったら右腕を石膏で固められていた。  ぼやけていた視界が像を結び、俺の目の前にいる人物をはっきりと見せてくれる。  長く、艶やかな黒髪は変わらなかった。意思の強そうな瞳に整った顔。ただ、目元が少し優しくなったような、そんな印象は受けた。  俺は肺に溜まったものを吐き出すように一度大きく吸い込み、ゆっくりと長く吐き出した。体中に蓄積されていた不安や恐怖、緊張感が全て溶けていく。 「よかった。ほんとに……」 「あぁ、君のおかげだ」  微笑み、レイがベッド傍の椅子に腰掛ける。 「怪我は?」 「まぁ、それなりにな」  どこか歯切れ悪く答えるレイの脇には二本の松葉杖があった。そういや足、無茶な方向に曲がってたもんな。  そんなことを思い出し、何とはなしに視線をレイの足に向けた。  その瞬間体が硬直し、何も言えなくなってしまう。黒いズボンのすそから出ているべきものがない。レイの左足は膝から下が無くなっていた。  口を半開きにし、固まる俺に向かってレイは静かに言った。 「気にしないでくれ。あの状況だ、命があっただけでも運が良かった」  俺は無言のまま唇を噛み締める。 「ましてや自分のせいなどとは間違っても思わないでくれ。その方が私にとって、辛い」  俺にはただ肯く事しかできなかった。こんな時に何も言えなくなってしまう自分の底の浅さが腹立たしい。 「みんなを呼んでくる」  そう言ってレイは立ち上がると松葉杖をついてドアに向かった。その後姿を見ながら拳を握り、口を引き結ぶ。  やれるだけのことはやった。そして……結果がこれだ。  仕方なかった。その一言で片付けてしまうにはあまりに重い。耐えられなくなった俺はレイから視線をはずしてしまった。と、ベッド脇のテーブルに乗せられた二枚のチケットが目に入る。チケットの下には小さなメモが一枚。そこには一言「世話になった」とだけ記されてていた。  当然、俺が置いた物ではない。 「レイ」  きつめの口調で彼女を呼び止める。レイの方向転換を待って、俺はそのチケットとメモをかざして見せた。 「何のつもりだ」  俺の問いにレイは自嘲気味に笑うと足元を見つめ、口を開いた。 「私が持っていた唯一価値のあるものだ。旅の途中で知り合った劇団の団長から貰った。この町にも劇団が寄ることを思い出してな。それで、せめてもの礼に」 「そんな事を訊いてるんじゃない」  口調が強くなる。 「まさか、その体で出て行くつもりじゃないだろうな」  レイは何も言わず、うつむいている。即答できないことが、即ち答えだった。 「どうしてそんな無茶なこと」 「ありがとう。だが、これ以上に君に迷惑をかけるわけにはいかない」 「俺は迷惑だと思ったことなんて一度もない」  本心だ。レイは押しかけてきたのではなく、俺が泊めようと思って泊めたのだから。 「だが……」  レイが言葉を紡ごうとしたところで不意に部屋のドアが開いた。 「お兄ちゃん」  久しぶりにそう呼ばれたような気がする。部屋の入り口には涙で顔をぐずぐずにしたクレアが立っていた。 「よう。久しぶり」  笑いながら、そんな挨拶をしてみる。結果、 「バカーッ!」  大声で罵られた。 「ものすごく心配したんだよ」  よく見ればクレアの目は真っ赤だった。ずっと泣いてたのか。急にばつが悪くなった俺は人差し指で頬を掻いた。さっきの第一声はさすがに軽すぎたか。 「悪かった。おいで」  クレアを呼び、抱き締める。帰ってきたんだ。そんな一言が胸の奥を流れていく。 「もう大丈夫だ」  俺の胸に顔をうずめ肩を震わせて泣き続けるクレアの頭を撫で、俺は何度も「大丈夫」を繰り返した。その度にクレアは肯き、大粒の涙が上気した頬を流れていく。  きっと子供なりに色んなこと考えて、押し潰されそうだったんだろうな。  シャツを握り締める小さな手に本気で申し訳なくなり、俺はクレアをきつく抱き締めた。 「起きたか」  そんな声と共にまた一人部屋に入ってくる。この声も俺は知っていた。目に映ったのは予想通り白衣をまとった小柄な老人、先生だった。が、どうも様子がおかしい。先生の後に続いてぞろぞろぞろぞろと人が入ってくる。唖然とする俺の前で部屋の人口密度がどんどん上がっていく。最終的には二十人ほどの人間が俺の部屋に集まった。それどころか廊下にはまだ入れなかった人たちがいるらしい。ただ、集まった顔ぶれには見覚えがあった。友人だったり、近所のおばちゃんだったり、お得意様だったり、だ。 「一体何の騒ぎですか」  とりあえず一番手前にいた先生に聞いてみる。先生はそれが当然だと言わんばかりに不機嫌そうな顔で俺の質問を無視すると、いきなり指を一本立てた。 「何本に見える?」 「一本、ですけど」  意味が分からない。 「これから指を動かす。目で追ってみろ」 「はぁ」  と返事をして言われた通り先生の指を目で追う。 「両手両足、それと指は動くか?」 「えと、動かすと痛いです」 「そんなことは訊いとらん。で、動くのか?」  そんなこと、って。やっぱり相変わらずだなこの人は。 「動きます」 「そうか。大丈夫のようだな」 「いや、何が」 「完全に治るということだ。後はしばらく家でおとなしくしとれ」 「いや、だからこれは何の騒ぎで」 「みんなお兄ちゃんを心配して集まってくれたんだよ」  と、先生の代わりに質問に答えてくれたのはクレアだった。クレアは手で涙を拭くと俺を見ながら、うん、と肯いた。  そっか……。  照れくさく思いながらもみんなの顔を見回す。誰もが目を細め、俺に微笑んでくれていた……って、ちょっと待て。 「そこの心無い友人一同の間で巻き起こるガッツポーズと舌打ちとコインのやり取りは何だ」 「知らん!」 「胸張って答えてんじゃねぇよこの人でなしが!」  心無い友人筆頭である肉屋のニールに向かって声を張り上げる。 「大体こういう場合、みんなが完全復帰に賭けて勝負にならなかったとか、そういう正しい賭けの在り方ってのがあるんじゃないのか?」 「馬鹿だなぁ」  と、ニールが立てた人差し指を左右に振る。 「セオリーなんか気にしてたら勝てないじゃないか」 「だから素で儲けようとすんなっ!」  あぁもう、頭痛い。何が悲しくて三日ぶりの意識回復から数分で友人につっこみを入れねばならんのだろうか。笑いの神が与えたもうた試練か、これは。  っと、そんなことより。 「先生、レイを止めてください」  俺が言った瞬間、全員の視線が部屋を出ようとしてたレイに集まった。さすがに動くことができず、その場に留まるレイ。 「どこかへ行くつもりかね」  俺の時と微妙に口調が違うのがなんかもやもやする。  レイは一同の顔を見回し、やがて意を決したように口を開いた。 「今日、この町を出ようと思う」  室内にざわめきが広がる。当然だ。今のレイの姿を見れば……。 「悪いが、あんたの傷を診とる医者としては賛成できんね」 「だが、私は治療費も払ってないし正当な患者とは言えない」 「そんなもんはある時払いで構わんよ。治療費を滞納しとる奴なんざウチの近所にはスープの具にするほどおる」  まぁ、それで経営が成り立ってるのもいまいち謎なんだけどな。  一方のレイは言葉を切り、そこで唇を引き結んでしまった。室内に重い沈黙が落ちる。誰もがきっと次の言葉を待っていた。ややあって、先生が口火を切ってくれる。 「何か、別に気になっとる事があるんじゃないのか?」  ゆっくりとレイの顔が持ち上がった。図星らしい。さすが先生、年の功ってやつか。  レイは一度深呼吸をすると、こんなことを言った。 「私は……リードを殺しかけた」  それがさっきの「だが」に続けて言おうとしていた台詞か。 「だからそれは俺が」  俺の言葉を遮ってレイが首を横に振る。 「私はただ竜を追っているだけの旅人を装っていた。もう一つの目的のために君を巻き込むことを予想できなかったと言えば、それは嘘だ」  嫌な予感がした。レイがここにいるということは疑いは晴れたのだろう。だが、一方で彼女が殺人を犯そうとしていたという事実がある。  それを言ってしまえば妹の復讐という心情的に理解できる理由があったとしても、周りのレイを見る目が激変する可能性があった。 「あの時の私は、奴らを……」  言うなっ! そう俺が叫ぼうとした時だった。 「そこまでだ」  レイの告白を遮り、人だかりを割って一人の男が前に出てくる。黒の制服にショートソード。言わずと知れたこの町の警備兵、カートである。カートはベッドの傍まで歩いてくると、腰の後ろで手を組んだ。 「悪いが警備上の機密によりその先を公衆の面前で話す権利は君には無い」  レイを見つめ、カートは言い切った。 「ちなみにだ」  そこでカートの視線が俺に移る。 「君達をここまで運び先生を呼びに行ったのは俺だ。感謝するように」 「それはお前の仕事だ。ていうか公僕が堂々と民間人に恩売るなよ」 「閑話休題」 「……もう好きにしてくれ」  何で俺の周りにはこう一癖も二癖もあるやつしかいないんだろうか。 「レイ・ケインベック。君の身柄をもうしばらく警備隊の監視下に置くことにした。言うまでもなく君は犯人ではない。清廉潔白だ。だが事件の背後関係等についてもう少し詳しく話を聞きたい。この時点で君には我々に協力する義務が生じたわけだ。そういうわけで君の移動に制限をかけさせてもらう。警備隊の許可なくこの町を出ないように。以上だ」 「おい」  小声でカートに呼びかけ、手招きする。 「何だ」 「いいタイミングで来てくれた」 「計ってたんだよ」 「しかしよく移動制限権限なんて発動できたな。彼女はあくまで協力者なんだろ?」 「あぁ、だからまだ書類もない。上には後で適当に報告しとく」 「いいのかよ」 「ま、今回の件じゃお前に貸しがあるしな、上手くやるさ」  俺の肩を軽く叩き、カートが笑みを浮かべた。何だかんだで義理固いんだよな、こいつ。それに今回の件で上に対しても思うことが色々とあったんだろう。  何はともあれ、これでレイは町から出られなくなったわけだ。 「どうする?」  俺は壁際で立ち尽くしているレイに向かって訊いた。変わらずレイの表情は暗い。何かを言おうとして口を開きかけ、閉じる。そんな事をレイは何度も繰り返した。 「これだけは言っておく。俺は君に殺されかけたなんてこれっぽっちも思ってない。絶対にだ」  それでもレイは顔を上げてくれなかった。そんな苦しそうな顔をされると俺の胸まで痛くなる。どうすればいいんだろうか。  そんな時、一人の老婆がレイに歩み寄りそっと彼女の手をとった。 「真面目な娘なんだねぇ」  たださえ細い老婆の目がさらに細まり、何とも言えない笑顔になる。そこには歳を重ねた者だけに許される深い慈しみがあった。  レイは目を閉じ、大きく首を横に振った。 「大丈夫。不思議なもので手を見れば分かるのさ。あなたの手はたくさんの苦労をしてきたいい手だよ」 「ただ、槍を握っていたから」 「それだけじゃないよ。それだけじゃね」  そう言って老婆は深く肯いた。レイがゆっくりと自分の手を持ち上げ、不思議そうに見つめる。 「何を悩んでるのかは知らないけど、少なくともわたしはあんたを歓迎するよ」  腰に手を当てた、ひときわ体格のいいおばちゃんがそんな声をあげる。 「そうそう。勝手に町を出ようたってすぐに捕まえてあげるよ」 「あんたみたいな娘を放っておけるほどわたしらは無慈悲じゃないからね」 「ここが嫌なんだったらウチにおいでよ。息子達が家出ちゃって寂しくてさ」  驚きと戸惑いにレイの目が大きくなる。  俺はベッドの上で苦笑いして、大切なことを思い出した。  田舎の人間は基本的におせっかい焼きである。そして、この町の人間が特にそうだということを。  俺が店を継いで一人暮らしを始めた時も、そこにクレアが加わった時も何かと世話焼いてもらったっけ。  先程まで重たい空気さえ漂っていた室内がにわかに活気付く。その中心にいるのは間違いなくレイだった。 「大体、リードがトラブルに顔突っ込んで死にかけるのはいつもの事だしな」 「学習しないんだよな、こいつ」 「犬でさえお手くらいは覚えるってのに」 「うむ。どう考えてもリードが悪い」 「まぁ、ここは親子三代いつもトラブルの中心にいるような家系だし」  そんな暴言もちらほら聞こえたが、耐えておく。 「そんなことより、あの娘が武器屋やってくれたら最高じゃないか?」 「いいな、それ。毎日通うね」 「俺なんか日に二振りバスタードソード買っちゃうね」 「じゃあリードいらないじゃん」 「何を今さら」 「そっかー」  お前ら顔覚えたからな。怪我が治り次第一人ずついじめてやる。闇討ちだ、闇討ち。  と、何かを感じ取ったのかクレアが俺の肩をぽんぽんと叩いた。 「色々あるよね、人生には」 「それはそれで腹立つ」  クレアはいかにも悟ったような肯きを二つ残し、レイを囲む人たちの輪に入っていった。周りを囲む大人たちの後ろでぴょんぴょんと跳ね、お姉ちゃん、お姉ちゃん、と呼びかける。  レイの前に立ったクレアが差し出した手には、小さなブルーの石が乗っていた。  何かに気付いたような表情でレイがクレアの手からブルーの石を持ち上げる。石から細い、シルバーのチェーンが垂れた。 「お姉ちゃんにあげようと思って作ったの」  クレアが照れたように笑う。  クレアは、クレアなりにレイのことを考えていたってことか。  手の中のブルーの石を見つめ、レイは何かに耐えるように唇を引き結んでいる。 「もらってくれる?」  クレアの声は少し不安そうだった。クレア、心配しなくてもレイの表情はそうじゃないんだ。  石を握り締め、レイが唇を震わせた。 「故郷を出るときに妹と約束したことがある」  小さく首をかしげるクレア。松葉杖が床に倒れ、膝を折ったレイがクレアを抱き締める。 「もう、二度と泣かないと」  そう言ってレイは肩を震わせて泣いた。嗚咽を漏らし、子供のように泣きじゃくる。レイは自分の事を普通の村娘だったと言った。それが優しさ故に槍を持ち、復讐者としての道を歩んできた。辛くなかったことなんて一つもないはずだ。  故郷を出てからずっと堪えていた涙。好きなだけ泣けばいいと思うし、泣いてほしい。それで、昔の自分を取り戻せるのなら。 「商売人ってのは不思議なつながりを持っててさ、俺の知り合いにいい義足を作る職人がいるんだ」  俺は人差し指で頬を掻いた。 「ゆっくりやろうよ」  レイの嗚咽がひときわ大きくなる。綺麗な黒髪をクレアの手が何度も何度も撫でた。  たまには大人が子供にすがりついて泣いてもいいだろ。  少なくとも、ここにはそれを責める人間は一人もいない。  どうやらレイにはもう少しだけこの町の一員でいてもらうことになりそうだ。