武器屋リードの営業日誌 第二話 ─短剣と待ち人─  1 「面白いものが手に入ったんだ。見てくれよ」  突き出たおなかにもっさりとした髭。明日、娘が結婚するんだと言っても納得できてしまう風貌。  でも歳は俺と同じ二十五歳。ついでに髪と瞳の色も俺と同じ黒。  そんな旅商人のガルドが半年振りにやって来て差し出したのは一振りの短剣だった。  といっても別に脅されているわけではない。その短剣に値段をつけて買い取る事が俺の商売なのだ。  二十歳の時に親父からこの武器屋を譲られて五年。目の方も肥えてきたと思う。  それでこの短剣だ。果たしていくらの値をつけるべきか。  短剣を手に俺は口を歪めた。鞘は皮製の汎用品だし、柄にだって大した装飾がしてあるわけでもない。  どう見たってお手軽三級品だ。  とりあえず鞘から抜いてみるが、やっぱり普通の短剣だった。  護身用にはなるかな、といったところだ。  短剣を鞘に収めた俺はカウンターに置き、ガルドを見やった。 「まぁ出せて銅貨五枚だな」  ちなみにリンゴ一つが銅貨一枚である。 「うむ。短剣そのものの価値はその程度だろうな」  言って髭を撫でるガルド。何か引っかかる言い方だ。 「言っただろ。これは面白いものだ」 「いや、意味が分からないんだが」  含み笑いを浮べるガルドに俺は頬杖をついた。と、カウンターに肘をついたガルドが身を乗り出してくる。  近くで見るとすごいな、もさもさ度が。 「驚け。この短剣には幽霊がとり憑いている」 「はぁ?」  反射的に声をあげてしまった俺の袖を小さな手がきゅっと握る。 「うぅ……やだよぉ」  隣にいるこの子はクレア・アークライト。七歳になる俺の従妹だ。訳あって一緒に住んでいる。  銀髪にブルーの瞳、そしてお化けが大嫌い。  恐い話なんてしてやると本気で泣いて逃げ回ってしまう。  夜中のトイレもやっと最近一人で行けるようになったくらいだ。  それでも時々起こされるんだけど。  眉をハの字にしたクレアがガルド下から睨む。  その目ははっきりと「こんなもん持って来やがって」と言っていた。 「わははは。恐がる必要はない。ただの噂だ、噂」  豪快に笑い飛ばすガルド。それでもクレアは俺の袖を握ったままだ。 「いやな、俺も旅商人からこの短剣を買ったんだが幽霊など一度として現れなかったからな」 「ていうか買うなよ、こんなもん」 「わははは。お前にやろうと思ってな」  白い歯を剥き出しにするガルドに俺はため息をついた。  子供みたいな奴だな、っとに。 「まっ、せっかくのお土産だ。ありがたく頂戴しとくよ」  俺は短剣を持ち上げ、 「クレア、これ工房に」 「嫌! ぜったいに嫌!」  涙目のクレアに全力で拒否されてしまった。見るのも嫌なのか顔を短剣の方に向けようとさえしない。  そんなクレアを短剣を持って追いかけ回してみたくなるが、余りにも大人気ないのでそれは止めておく。  一生口きいてもらえなくなるだろな、多分。 「幽霊はさておき、だ」  俺はガルドに目で語りかけた。ガルドも心得たもの、うむ、と肯いて自分の荷物を漁りだす。  ガルドが俺に手渡したのは表紙が赤ワイン色をした本だった。 「苦労したぞ、手に入れるのに」 「おぉ、これが王都で発禁になったといわれる伝説のエロ画集……って、違うわっ! 俺がしたいのは仕事の話だ!」  と、ガルドが髭を撫でつつあっけらかんと言う。 「いや、この前会ったときに頼まれたから」  辺りに流漂う白けた空気。 「さいてー」  クレアの視線と声ががすがすと突き刺さる。  なにこの人、気持ちわる、死んじゃえ。  聞こえるはずのないそんな声まで聞こえてきそうだ。 「ひ、人違いだろ」  俺の声は震えていた。  正直に言おう。俺は頼んだ。確かに頼んだ。あぁ、頼んださ。  だがクレアの手前死んでも肯定する訳にはいかんのだ。  肯定したが最後俺とクレアの間には『神蛇のねぐら』より深い溝ができてしまう。  ちなみに神蛇のねぐらとはこの国、ルーヴェリアの北にある巨大な谷で、割と有名な観光スポットである。  そんな事はどうでもいい。 「そうか。すまんすまん、勘違いだったようだ」  ガルドのごつい指が本をつかむ。が、俺の手も本をつかんだままだ。 「人違いなんだろ?」 「あ、あぁ」  ガルドが本を引っ張る。でも放さない俺。 「人違い、なんだよな」 「その、多分」 「多分?」  隣から聞こえてきたクレアの声は地の底より低い所から発せられているようだった。  試されている。間違いなく。  男である前にクレアの従兄であるのか、クレアの従兄である前に男であるのか。 「ぐっ、うぐ」  喉の奥から呻き声が漏れる。  結局、俺はクレアの従兄であることを選択した。  やはり保護者としてカッコの一つもつけねばなるまい。  つらいな、お兄ちゃんって。  手を離れ、ガルド荷物入れに吸い込まれていく発禁本を見ながら俺は心で涙した。  さようなら僕の小さな幸せ。 「し、仕事の話をしようか」 「構わんが、なぜ拳が震えとるんだ?」 「言わせるな」  俺はカウンターにつけられた引出しを開け、帳簿を取り出した。  これでロクな品仕入れてなかったら折檻だからな、マジで。  2 「さぁ、そこに現れたのが騎兵隊隊長のラミナスだ。愛馬、炎のフランベルジュのいななきと共に丘を駆け上っていく」 「うんうん」  テーブルの上に身を乗り出したクレアは完全に物語の中の住人だった。  ガルドの語りを一言も聞き逃すまいと集中しているのがよく分かる。  そんなクレアを見ながらチーズの欠片を口に放り込む。  テーブルの上には俺が気合を入れて作った夕食とツマミ、それから数本の酒瓶が乗っていた。  夕飯も終り、夜も更けてきたが酒を燃料にしたガルドの語りは止まらない。  口上の巧さもさることながら、話題の豊富さといったら。  世界中を旅しているだけあってどれも聞くに値する内容だった。  今は某国の騎士と村の歌唄いの恋物語を上演中だ。  この手の物語が好きなクレアは拳を握って次の言葉を待っている。 「その姿はまさに風、迫りくる敵を一人二人となぎ倒し、囚われの歌姫目指し走る、走る、走る」 「それで? それで?」  うむ、と肯いたガルドが酒瓶を口に運ぶ。拳で髭をぬぐった彼は再び語りだした。 「敵も天下に名だたる盗賊一家、ここで引いては名がすたる」  ぺんぺん、と心中で合いの手を入れる俺。  しかしクレアには可哀想だがそろそろ……。 「一家の頭にゃ秘策があった。金で雇った流れの傭兵。その名も黒騎士ダレスガード。槍の腕前ではラミナスをも」 「ストーップ」  俺は手を挙げてガルドの語りを打ち切った。 「盛り上がってるところ悪いがそろそろ、な」 「えーっ」  途端にクレアから抗議の声があがる。気持ちは分かるが寝る時間だ。 「もう少しだけ、お願い」 「だーめ。明日起きられなくなるだろ」 「むー」  クレアの頬がふくれる。 「しばらくはウチに居るんだろ?」 「あぁ、厄介になるつもりだ」  ガルドがこの町を訪れる時の定宿はたいていウチだ。宿代も節約できるし仕事の話もみっちりできる。  クレアはガルドの話を楽しみにしているし、何かと都合がいいのだ。  それにガルドは優秀な旅商人だ。こうして会う度にウチに泊めて縁を強めておく事は店にとっても大きなプラスになる。 「だから続きは明日だ」 「はーい」  渋々返事をしたクレアが椅子から降りる。 「おじちゃん、お兄ちゃん、お休みなさい」 「はい、お休み」 「期待していいぞ。この話はここからが盛り上がるからな」 「うん、また明日お話聞かせてね」 「うむ、宿代代わりにいくらでも聞かせよう」  そう言ってガルドはおなかを震わせてわらった。その笑顔に俺も貰い笑いしてしまう。  屈託のない、と言えば少年か少女の笑顔なのだがガルドに関しては屈託のないおっさんの笑顔、と言えてしまうのである。  まぁ実際は、屈託のないおっさんくさい髭の兄ちゃんの笑顔、なのだが。  最後にクレアは一つ頭を下げて食堂から出て行った。  今夜は歌姫の自分を白馬に乗った騎士様が助けてくれる夢でも見るんだろうか。  クレアを見送った俺は何となくグラスを手に取り、そのまま戻した。  意味はない。ふと空いた間を埋めるためだ。  息を吐いたガルドが椅子に座りなおす。これも彼流の間を埋めるための意味のない行動だろう。  さて何を話すか、と思っているとガルドから口を開いてくれた。 「その、話があるんだが」  どうも歯切れが悪い。 「何だよ、あらたまって」  眉間に皺を寄せつつ頬杖を突く。  ガルドとの付き合いの中でこんな風に話を切り出されたことは一度もなかった。  もしかして。  思い当たり、顔を上げる。 「ウチとの取引を止めたいとか」 「まさか」  首を横に振るガルド。一緒に髭がもさもさと揺れた。  気がつけば握っていた拳を解き、安堵の溜め息をつく。  本気で安心した。ガルドとの取引を止める事は、店にとって目と耳を失うに等しい。  彼がもたらしてくれる情報が仕入れの量や方向性にどれだけの影響を及ぼしていることか。 「じゃあ情報料の値上げか? まぁ、もう少しくらいなら頑張れそう」 「そうじゃないんだ」  手を挙げたガルドが俺の言葉を遮る。  しかし仕事関係の話じゃないとすると……あ、はいはいはいはいはい。  心中で、ぽんっ、と手を打つ。 「罹っちまったものはしょうがないだろ。いい先生紹介するから恥かしがらずに行って来い、な」 「性病じゃない!」  大声で否定するガルド。  はずれたか。  しかしこれでもないとすると。うーん。本気で分からん。  ガルドは一度喉を鳴らすと俺を見つめて口を開きかけた。が、結局何も言わずうつむいてしまう。 「何だよ。すぱっと言え、すぱっと」  指を組み、親指だけをくるくると回すガルドに向かって言う。 「その、だな。あのつまり、だから」 「だから?」  ベーコンを口に運ぶ。冷めてしまったせいか少し塩辛い。 「その……けっ」 「け?」 「けっ、結婚することになった」  脳みそが一瞬活動を停止する。 「だっ、誰が」 「俺が、だが」  沈黙。  子供の頃、思っていた。屋根に登れば星に手が届くんじゃないかって。  でも屋根に登ったって手は届かなかった。じゃあもっと高いところなら、と思って山に登った。  それでも手は届かなかった。山の一番高い所にある木のてっぺんに登ったって届かなかった。  でも、大切なのはいつか届くと信じて高みに登り続けることなんだ。  それが人生だ。  いや、そんなことはどうでもいい。  爆弾発言の爆風によって意識が別のところに飛んでしまったようだ。  ガルドが結婚する。ガルドが結婚。結婚がガルド。  そうか。そうだな。ここは一つ友人らしくはなむけの言葉でも。  俺は微笑を浮べ、ガルドを見やった。  ガルドも照れたように頭など掻いたりする。 「ガルド」 「あぁ」 「裏切ったな」  その時の俺は、間違いなく世界で一番醜かった。 「お前だけは、お前だけは俺より後に結婚して先に死んでくれると思ってたのに」 「そんな無茶な」 「聞け、いいから聞け。半年前に花屋のクレスも結婚してさ、この辺りじゃ一人身なのは俺だけなんだよ。そりゃ肩身も狭いさ。でも、そんなとき心の支えになってくれたのがガルド、お前の存在なんだ。俺には仲間がいる。それだけでどれだけ強くなれたことか。それなのに、それなのにぃ」 「いや、俺はこの町の人間じゃないし、すがられても」 「他になかったんだよ、選択肢が」  もう一人独身の知り合いがいるがそいつは町、町に恋人がいるような羨ましい奴だし。 「そうか。その、なんか、すまん」 「謝るな。冗談なんだから。ていうか今、少し本気で俺のこと哀れんだろ」 「うむ」  ……正直なヤツめ。 「でもさ、旅は一生続けるつもりだから家庭は持てないかもしれない、って」 「俺と一緒に旅をしてもいいと言ってくれた」  見ていて羨ましくなるくらいの照れ笑いをガルドは浮べる。 「あなたにだったら私、どこまでも付いて行きますってか」 「そんな大したことじゃない。世界を旅して回るのも悪くないかも、そんな感じだった」  何だよ。結局はあなたに付いて行きます、じゃないか。  羨ましいね、まったく。一度は言われてみたいものだ。 「で、肝心のお相手は?」 「今は別行動だが明日この町で落ち合う事になっている。彼女には寄るところがあったし、俺はここで仕事だ」  と言いながらガルドは酒瓶を持ち上げて笑った。 「どんな女性(ひと)なんだ?」 「小さな寒村の出でな、目の覚めるような美人……ではないが素朴でいい娘だ」  近い未来の妻の顔を思い浮かべているのか、ガルドの表情は日なたの飴細工みたいだった。  しかしガルドが結婚とはねぇ。俺以上にその手の話とは縁遠いと思っていたんだが。  でも確かに人柄はいいし、そこに惚れる女性がいたとしても不思議じゃない。  世界を回る旅商人だけあって経験も知識も豊富だし、ちょっとしたトラブルなど「何とかなるさ」と吹き飛ばしてしまう豪胆さもある。  こうして考えてみると意外といい男なのかもしれない。  恋人にしたい男と旦那にしたい男は違うと言われるが、ガルドのような男こそ旦那にしたい男なのだろう。  違うかな? 正直、女心にはそれほど聡くないからな、俺。  俺は黙って立ち上がり、戸棚に向かった。  開きを開けるとそこから一本の酒瓶を取り出す。瓶の中で琥珀色の液体が滑らかに波打った。  その酒瓶を手にテーブルに戻り、コルクを抜く。  微かに甘く、それでいて香ばしい香りが辺りに漂った。芳醇、そう形容するにふさわしい。 「おい、それ」 「親父の秘蔵酒だ」  言いながらガルドのグラスに注いでいく。 「いいのか?」 「構わないさ。友の祝い事には最高の酒を用意しろ、って本人も言ってたし」  続けて自分のグラスへ。  注ぎ終わったところでグラスを持ち上げる。酒とグラスを通して見るガルドの顔が随分と「大人」に見えた。 「おめでとう」 「あぁ」  短く答えたガルドが微笑む。  打ち合わされたグラスが一つ、澄んだ音で鳴った。  3  深夜、ランプを吹き消してベッドに入る。  飲めない酒を無理して飲んだせいで少しばかり意識がはっきりしない。天井も視界の中で歪んでいた。  ただ考え事ができる程度には理性は残っている。  結婚、か。  改めて思う。  ガルドの結婚に俺は驚き、喜んだ。その一方で取り残された、とも思った。  別に俺だって一度も恋をしたことがないわけじゃない。人を好きになることがどういう気持ちかは分かる。  ただ結婚となると、なぁ。  式を挙げて一緒に暮らして、そのうち子供なんかもできたりして。  何か、リアルじゃないんだよな。  寝返りを打って目を閉じる。  刃の感触なら手のひらでいくらでも想像する事ができる。  だが自分の子供を抱いた感触はとてもじゃないが想像できなかった。  やっぱ子供なのかな、俺って。  嘆息。  もしかしたら一生このまま……あー、やめやめ。  どれだけ考えところで答えなんて出そうにないし、ましてや妻にしたくなるような女性が現れるでもなし。  寝よ寝よ。  と意識を落とそうとした時だった。 「あの、すみません」  いきなり耳元で聞こえた声に俺はベッドから跳ね起きた。  寝るときは常に手の届く範囲に置いてあるショートソードを抜き去り、室内を見回す。  間違いない。いつもの俺の部屋だ。もちろん俺以外の気配もない。  呑みすぎ、かな。  緊張をほどきショートソードを鞘に収める。  そしてふと視線を移せば、逆さまになった女性が天井からぶら下がっていた。  俺の目の前で。  確かに世の中には不測の事態、というものが存在する。存在するが、同時に限度も存在すると信じていた。  だが今日、この時をもって考えを改めることにした。  不測の事態に限度など無い。  時には女性が天井から「生える」ことだってある。それが世界だ。  うむ、人間として一つ成長したな。  俺は何事も無かったかのようにベッドに戻り、頭からシーツをかぶって目を閉じた。 「あの、その」  シーツを通して何か聞こえるが限度を越えた不測の事態だ。対応できないからといって誰が俺を責められよう。 「あの、こんばんは」  限度を越えた不測の事態が挨拶をしている。  無視だ無視。 「えと、お話を聞いて頂けないでしょうか」  限度を越えた不測の事態が何を話そうというんだ。  君にもできる。三日で限度を越える方法、とか。  サエない僕が限度を越えたとたんモテモテに、とか。  神秘の限度パワーで一攫千金、とか。  ……聞く価値ねーな。  しかし「限度を越える」と言うとあまりカッコよくないのに「限界を突破する」と言うとちょっとカッコいいのは何でだろうか。  意味は一緒なのに。言葉って不思議だ。  そんな事を考えていると、とうとう限度を越えた不測の事態が泣き出した。  それがまたこちらの罪悪感を刺激するような声なのだ。  仕方なく俺は上半身を起こし、ゆっくりと目を開けた。  ベッドの傍らには限度を越えた不測の事態が……えぇい、めんどくさい。  見えるままに言えば、ベッドの傍らには二十二、三歳程の女性がいて泣いていた。  長く伸ばされた金色の髪は軽く波がかり、少しばかり古めかしい若草色のドレスに身を包んでいる。 「なぁ」  呼びかける。と、女性は目にやっていた手をどけ、こちらに顔を向けた。  翡翠色の瞳が俺を見つめる。  十人にアンケートを採れば七人が美人、二人がまぁまぁ、一人がウチのカミさんの方が綺麗だと答えるような、そんな顔立ちをしていた。  深夜。同じ部屋に男と女が一組。 「これで体が透けてなければ言うことないんだけどな」  言って俺は手で顔を覆った。  幽霊だよ。本物の。  指の隙間から見ればガルドにもらったあの短剣が机の上に乗っている。  ほんとに出やがった。手加減なしで出やがった。  もう一度幽霊の顔を見る。  彼女は少し困ったように微笑んだ。  愛想笑いしてるよ、おい。  ただ恐怖感は湧き上がってこない。ひたすら不思議だった。  多少嬉しくもある。こんな新鮮な驚き、子供の頃初めて海を見たとき以来だ。 「幽霊、だよな」  とりあえず接触を試みる。彼女は左右を見回し、最後に自分を指さした。 「君以外に誰がいるってんだ」 「見えてないだけで他にもたくさんいますよ」  あぁ、訊くんじゃなかった。 「ちなみにあの人は三年前に水の事故で……」 「説明せんでいい!」  部屋の隅を指差す女性の幽霊に向かって声を張り上げる。  前言を撤回する。そんな事言われるとやっぱり恐い。 「大体、何でガルドが持ってるときは出てこないで、俺の手に渡った瞬間出てくるんだよ」  腕を組み、背筋を伸ばしつつ尋ねる。こうして気を張っていないと鳥肌が立ってしまいそうなのだ。 「それは」  そう言って一度うつむいた女性の幽霊は言いにくそうに、でもはっきりと言いやがった。 「その、女性に縁遠そうですし、たとえ幽霊でも女の私なら受け入れてくれるんじゃないかと」  ……俺は、どこまで堕ちていけばいいんでしょうか神様。 「あの、傷ついたりしました?」 「かなり」 「そうですか」  沈黙。 「フォローなしかよ! せめて謝れ、人としてっ!」 「え? へ?」  目をぱちくりさせる女性の幽霊。 「っとに、ロクな死に方せんぞ」 「いえ、もう死んでますが」 「そんなお約束はさておき、だ。一体何しに出てきたんだ?」  さっき話を聞いて欲しいとか言ってたし、何か目的があって出てきたんだろうけど。  と、女性の幽霊の表情が急に真剣なものへと変化する。細められた目の奥で翡翠色の瞳が潤んでいた。  透けてはいるものの柔らかそうな唇が引き結ばれる。  身構える俺に胸の前で手を握った彼女は、言った。 「私にかけられた呪いを解いて欲しいんです」  と。 4  女性の幽霊はフィーナ・ハイクラインと名乗った。聞けばニースリール最後の姫だと言う。  ニースリールとは今から約八百年前に滅んだ国で、この国ルーヴェリアの北方に位置していた。今ではニースリール地方としてその名を残しており、銅の産地としても有名だ。 「で、呪いってのは」  何か最近王族と縁があるなぁと思いつつも訊く。フィーナはおなかの上で指を組むと、澄んだ声で話し出した。 「私には将来を誓い合った男性がいました。その人は我が国の将軍で、とてもりりしく、勇ましく、優しい方でした。私は彼を心から愛し、また彼も私を愛してくれました」  ついでにのろけ話とも縁があるようだ。大分緊張感も解けてきたため、今の俺はベッドの上にあぐらをかいて頬杖をついていた。幽霊……フィーナは俺の傍に腰掛けている。 「ですが」  フィーナの顔に影が差した。 「当時隣国だったルーヴェリアに攻め込まれ城は陥落、城からは逃げ出せたものの」  フィーナが下唇を噛む。  その表情にルーヴェリア人である俺が責められているような気がして、つい身じろぎしてしまった。 「将軍は約束してくれました。必ず行くから湖のほとりで待っていてくれ、と」 「だが、来なかった」  膝の上に置かれたフィーナの拳が一回り小さくなる。握り締める音さえ聞こえてきそうだ。 「将軍は討たれ、その首は城門の前に晒されました。今でもその光景は目に焼き付いています」  言葉を切り、目を閉じるフィーナ。白い頬を伝い、一粒の涙が零れ落ちる。涙さえも透けていた。 「絶望に打ちひしがれた私は短剣を自らの胸に突き立て、湖に身を投げました。きっと来世では結ばれると信じて」  言ったきり、フィーナは黙ってうつむいてしまう。フィーナの話は意外と重かった。辺りの闇がその色を濃くしたような気さえする。典型的な悲恋物語ではあるが、さすがに本人から聞くとくるものがある。  俺は敢えて感想は述べずに、話を進めることにした。 「来なかったんだな、来世」  フィーナが無言で肯く。 「八百年以上、狭間で迷ってるわけだ」  再び無言の肯きが返ってくる。 「それが呪いだと?」 「確かなことは分かりません。ですが、どうすればいいのかは分かります」  何だ、解決する方法はあるのか。  フィーナが提示した方法は意外と簡単なものだった。 「私と待ち合わせをして、それを守って欲しいんです」  俺は顎に手を当てて、ふむと肯いた。待ち合わせ場所に現れなかった将軍のことが未練の鎖となってフィーナをこの世にとどめている、というわけだ。約束を守る事でその鎖を断ち切る、か。一応納得はできる。それで本当にフィーナがあの世に行けるかどうかはわからないが。  疑問はもう一つあった。 「そんなに簡単な方法で解ける呪いなのに、何で八百年も迷ってるんだ?」  フィーナはこちらの質問に答えようと口を開きかけたが、思い直したようにかぶりを振って嘆息した。 「それは、私と待ち合わせをしてみれば分かると思います」  なるほど。 「じゃ、試しに一つやってみるか」  と、なぜかフィーナの目が驚きに見開かれる。 「協力して頂けるのですか」 「頂けるのですかって、そのために出てきたんだろ」  呆れ声になる俺。協力する理由なんて「面白そうだから」で十分だ。だって幽霊だぞ、幽霊。しかも初めてだし。こんな機会めったにない。 「とりあえず……そうだな、食堂にしよう。会いに行くから待っててくれ」 「あの」 「場所、分からないか?」 「そうではなくて、一つ条件があるんです」  訊き返す代わりに俺はフィーナの顔を見やった。まさかその条件が滅茶苦茶厳しいとか。空中浮遊で来い、とか言われたらどうしよう。さすがにそれは無理だ。そんな心配をしていたらフィーナが慌てた様子で手を振った。よほど不安そうな顔をしていたらしい。 「刻限を決めて欲しいんです」  そんな事か。まぁ、待ち合わせには付き物だよな。  ベッドから降りた俺は机に歩み寄り、引出しから銀色の懐中時計を取り出した。爺ちゃんの形見だ。昼間は時計を耳に当てなければ聞こえない針の進む音が部屋に響く。夜の静けさを実感する瞬間だった。 「君がこの部屋を出てから二分後だ」 「はい」  フィーナが肯く。 「誤差はどれくらい許されるんだ?」 「分かりません」  答えを聞いてから、そうかと俺は肯いた。誰も彼女の呪いを解くことに成功してないんだから分かるはずない。 「ではお願いします」  一つ頭を下げてフィーナは部屋から出て行った。もちろん扉を開けたりなんてしない。幽霊の掟を守り壁をすり抜けて。  フィーナを見送ってから時計に目を落とす。白い文字盤の上、時を刻んで走る秒針を見ながら俺は乾いた唇を舐めた。  目標は二分ちょうどだ。  まぁ、ちょっと早めに出て食堂の扉の前で待ってればいいわけだし、そんなに難しくはない。ほんとに、何でこんなちゃちい呪いで八百年も迷ってるんだろうか。  フィーナは「私と待ち合わせをすれば分かります」と言ったが、今のところその理由は明らかになっていない。  もしかして八百年の呪いを俺が解いちまったりして。伝説の勇者みたいじゃないか。悪くないな、それも。  顎に手を当ててそんなことを考えているとノックの音が三度、聞こえてきた。聞き慣れたその音に苦笑し、扉を開ける。廊下には案の定クレアが立っていた。彼女はいつも三度扉を叩く。 「おトイレ」  半分眠った声と目でクレアが言う。  俺はクレアの手を引き、トイレに連れて行ってやった。用を足したクレアの手を再び引き、彼女の部屋まで戻る。ベッドに入ったクレアは瞬きもせずに寝入ってしまった。多分夜中に起きてトイレに行ったことさえ覚えてはいないだろう。  でも、そろそろ完全に一人で行けるようになってもらわないとなぁ。変に甘える癖がついてしまっては困る。今日は幽霊話もあったし、それを思い出して恐かったんだろう。  こうして頼られてるうちが花なのかな。  ベッドの傍らでクレアの穏やかな寝顔を見ながら俺は微笑んだ。  微笑んで、ふと思う。  幽霊? 「あ」  クレアの部屋を飛び出した俺は廊下を走り抜け、食堂の扉を引き剥がす勢いで開け放つ。暗闇の食堂に一人佇むフィーナの姿に、俺は頭を掻いてばつの悪そうな顔をすることしかできなかった。  当然、約束の二分は過ぎている。 「悪かった」 「いいえ。分かっていたことですから」  微笑んではいるがフィーナの表情には明らかな落胆があった。女性にそんな顔をされると、この場から消えてしまいたいような気分になる。  俺は目を閉じ、拳を握った。 「もう一度だけチャンスをくれないか」  どう考えたってこのままじゃ終われない。俺自身納得できないし、今度は大丈夫だという自信があった。というのも一度失敗したからだ。失敗し、そこから学べば人間は成長する。 「俺の部屋で待っていてくれ。一分後に行く」  今度こそ、という思いを込めて俺は肯いた。小さく、はい、と返事をして食堂を出て行くフィーナ。  一人残った俺は一度大きく息を吸って、吐き出した。さっきはクレアの事もあり、つい遅れてしまったが今度は大丈夫だ。先ほどの失敗はちょっとした偶然の悪戯に過ぎない。あんな事そう何度もあるもんじゃない。  それに何かあったとしてももう大丈夫だ。フィーナとの待ち合わせが最優先であると意識していればいいわけだから。  そうすれば他の出来事など安易に無視できる。  まぁ、さすがに火事とか泥棒は無視できないが、まさか……ねぇ。  うーん。  少し不安になった俺は組んでいた腕をほどき、食堂の奥まで歩いて行った。炊事場へと続く扉を開けてかまどをチェック。  火は完全に消えていた。  ついでに炊事場の戸締りも確かめておく。  炊事場から侵入されることって結構あるらしいからな。肉屋のニールんとこもそれでやられたっていうし。  窓を揺すりながらニールの店を思い浮かべる。  そういや最近あそこのハム食べてないな。程よく乗った脂、絶妙の塩加減、最高の歯ごたえ。それをちょっと厚めに切ってフライパンでさっと焼く。くーっ、想像しただけで腹が減ってきた。明日の晩飯はハムだ、ハム。 「あの、すみません」  頭の中をハムで一杯にした俺に横手から声がかかる。目をやればフィーナが何か言いたげな表情で立っていた。 「ん、どうした?」 「いや、その」  フィーナはしばし考えるように視線をさ迷わせると、結局無言で俺の手の中にある懐中時計を指さした。  辺りに漂う妙な間。  懐中時計は律儀に時を刻みつづけている。  俺はいいパンチをもらった拳闘士さながら、膝から炊事場に崩れ落ちた。  完全に忘れてた。ハムのことしか考えてなかった。  冷たい石の床に手をつきつつ、呻き声を漏らす。  俺は自分で自分の事を「そこそこできる子」だと思っていた。そんなにトロくないし、それなりに物事はこなせる方だと、そう信じていた。  だが、 「うぅ……俺って馬鹿?」  のろのろと顔を上げ、フィーナを見上げる。  頬を引きつらせてあとずさるフィーナを見るに、俺はそうとう酷い顔をしているようだ。 「あの、ですから」  フィーナの言葉を遮るように手を挙げ、俺は立ち上がった。  慰めの言葉などいらない。言い訳の言葉を発する事もしない。男は黙って前に進むのみ、だ。 「食堂で待っててくれ。十秒で行く」  目で何事か訴えかけるフィーナを無視して炊事場から追い出す。俺はなぜか笑っていた。これが無我の境地というやつだろうか。半笑いのまま歩を進め、扉の取っ手を握る。いけるじゃないか。やっぱこういうのは意識せず気楽にやった方が……と思いつつ扉を引こうとしたその瞬間。  とてつもなく硬く重い何かが俺の頭を強打した。  頭を押さえてうずくまる俺。  体中の穴という穴から涙が出てきそうなほど痛い。閉じた瞼の裏で精霊が飛び回っている。  一瞬、死んだ爺ちゃんに会えたような気さえした。夜の静寂を打ち破って床に転がったそれを見れば、黒光りする愛用のフライパンだった。闇よりも暗い黒をまとい、石の床の上に転がっているその姿からは風格さえ感じられる。安物の戦槌より遥かに使えそうだ。 「さすがはゲオルクのオヤジ。いい仕事しやがる」  ゲオルク。それがこのフライパンを作った職人の名だ。 「大丈夫、ですか?」  フィーナの翡翠色の瞳がこちらを覗き込む。  約束の十秒など遥か昔だ。ここにきてやっと俺は思い当たった。 「呪いってこの事なのか」 「はい。先ほど説明しようとしたのですが」  今日の人生訓。人の話はよく聞きましょう。 「私が便宜的に呪いと呼んでいるだけですので、もしかしたら違うのかもしれません。ですが、私との約束を守ろうとするとこのような事に」  フィーナの説明を聞きながら立ち上がった俺は調理台に手をついて頭を振った。  なるほど、八百年も彼女が迷ってるわけだ。  だがその一方で、次こそはと思っている俺がいるのも確かだった。だって待ち合わせに遅れないだけだぞ。今までの経験を踏まえて慎重に行動すればいけそうな気がする。いや、絶対にいける。 「まだ、やるんですか?」 「当たり前だ。八百年の呪いを解いて俺は勇者になる」  主旨が違ってきたような気がするがまぁいい。これは神が与えてくれた機会なのだ。田舎町の青年が歴史に名を刻むための。 「大体、当事者の君がそんな事でどうする。気合入れていこう。声出していこう」 「はぁ」  気の抜けた返事をするフィーナに釈然としないものを感じつつも、俺は次の待ち合わせ場所を考える。 「そうだな……店。店にしよう」  あそこなら俺に有利な展開が期待できそうだ。根拠はないけど。 「時間は少し多目に十分。やっぱり余裕を持って行動しないとな」  十分あれば多少のトラブルがあっても大丈夫だろう。 「ほら、行った行った」 「分かりました」  小さく息を吐くように肩を落とし、フィーナは炊事場から出て行った。もちろん壁を抜けて。  しかしあの態度、三回の失敗でもう見限られてしまったんだろうか。もちろん多少腹も立った。だがそれだけ成功したときに得られるカタルシスも大きいということだ。  両手で頬を叩き、気合を入れる。  人間ってのは、できそうでできない事に対して異様に執念を燃やす生き物だと思う。喩えるなら……投げたゴミがゴミ箱に入らず、それを拾い上げてそのまま捨てればいいものを、なぜか元の位置まで戻って投げ直す。  俺の心境はまさにそれだった。  今度こそ、と思って俺はこれから四度目のゴミ投げを行う。  もちろんゴミ箱を壁際に移動させるなんて邪道なことはしない。その喩えがこの状況において何を意味するのかはさっぱり分からないが、とにかくしないのだ。  正面突破。真っ向勝負。そんな気持ちの表れだということにしておこう。 「いざいかん。戦いの舞台へ」  心中で拳を握り、俺は一歩踏み出した。  こんな時間に睡眠時間削って何やってんだと、ほんの少しだけ思いつつ。  5 「どうした。顔が恐いぞ」 「あー」  この「あー」を正確に表現するならば濁点が必要となる。そんな「あー」を喉の奥から搾り出しながら、俺はカウンターに突っ伏していた。  カウンターを挟んで立っているガルドの姿も、半分しか開いていない目ではよく見えない。  結局、俺のゴミ投げは夜が白むまで続けられた。おかげで完全な寝不足だし、とにかく体中が痛い。打った足の小指を扉で挟むという連続攻撃を喰らった時には本気で叫びそうになった。  「何でもいいからみんな死ね。とにかく死ね」と世界を呪ったりもしたもんだ。  で、結論を言えばゴミはゴミ箱に入らなかった。  ふよふよと頭の上を漂っているフィーナを見上げ、俺は大きな溜め息をつく。彼女は何が楽しいのか店に展示してある武器を見ながら穏やかな笑みを浮べていた。幽霊のくせにフィーナには不思議と朝日が似合う。もし透けていなければ金色の髪は朝日を照り返し、美しく輝いた事だろう。  しかし俺じゃあるまいし、お姫様が武器なんて見て楽しいのかね。  フィーナの顔を見ながら頭を掻く。  大体、何で幽霊が朝っぱらから普通に活動してるんだよ。ルール違反だろ。  だが夜も昼も普通に活動しているということは、あの「眠る快感」を味わえないわけだし、それはそれで不幸のような気もする。  そう、睡眠とは非常に心地良い至福の時。こうして少し目を閉じればすぐにでも幸せは訪れ……、 「リード」  ガルドの野太い声が俺の意識を連れ戻す。顔を上げた俺は目をしばたかせ、辺りを見回した。  いかん。完全に寝るところだった。 「大丈夫か?」 「あぁ、ただの寝不足だ」  と、腰に手をやったガルドが呆れ顔になる。 「何をやってたのかは知らんが、体調管理も商売人の仕事だぞ」  お前がくれた短剣のせいだ、と前歯の裏まで出ていた言葉をかろうじて飲み込む。正直、フィーナのことを説明する気力がなかった。それにガルドには見えてないのだ。説明したところで信じはしないだろう。 「どこか行くのか?」  あくび混じりに訊く。 「待ち合わせだ」  俺はつい眉間に皺を寄せてしまった。待ち合わせ。できれば聞きたくなかった単語だ。だがガルドの表情は俺とは対照的に明るかった。春と春と春と春が一度に来たような笑顔をしてやがるのだ。その表情からガルドの待ち合わせの相手が誰であるのか嫌でも分かった。 「今日来るって言ってたよな」 「うむ。この町の広場で待ち合わせている」  町の中央広場。  まぁ、この町で待ち合わせをしようと思えばそこくらしかないか。そこくらいしかない故に非常に分かりやすくもあるんだけど。 「紹介してくれるんだろ?」 「もちろんだ」 「あんまり綺麗な娘連れてくるなよ。お前に殺意を抱いちまうから」  笑いながら言う俺にガルドは苦笑した。 「じゃ、行ってくる」 「おう」  軽く手を挙げて出て行ったガルドを見送ると、店内は途端に静かになった。もう一人いるにはいるんだが、気配がしないため一人残されたような気分になる。店の前を干草を積んだ馬車が通り過ぎていく。その小気味いいリズムが今日何度目かのあくびを引き出した。  大きく口を開け、あむ、と閉じる。  なーんかしゃんとしないなぁ。お客でも来てくれれば目が覚めるんだけど。が、ウチは武器屋だ。八百屋や果物屋と違って朝イチから賑わう事はあまりない。帳簿の処理とか在庫のチェックとかやることは結構あるのだが、どうにも動く気がしなかった。  そのとき背後の扉が開き、クレアが現れる。彼女の手には読み書きを覚えるためのテキストが握られていた。  そっか。今日は読み書きの日か。忘れてた。  クレアは俺の隣に来ると、彼女用の椅子に腰掛けた。  学校に通えるのはほんの一握り、お金持ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんだけだ。だから大抵の子はこうして身近な大人から読み書きと算術を習う。もちろん俺も例外ではなく、母親から習った。ちなみに親父が教えてくれたのは武器の扱い方のみ。ついでにもう一つ言っておくと下半身関係の知識は爺ちゃんが嫌と言うほど教えてくれた。  修道院へ行けば読み書き算術を安く教えてはくれるのだが、ただに越した事はない。俺が教えれば修道院に行く手間もかからないし。 「どこからだっけ」  訊いてくるクレアに俺はテキストを手にとってぱらぱらとめくった。めくって、そのまま閉じてしまう。  思いっきり首をひねるクレア。 「クレア、水出しでいいからケームの葉でお茶淹れてくれないか」  多少くせがあるものの、ケームのお茶は眠気覚ましの飲み物として昔から愛用されている。 「濃い目でな」  恐らく死ぬほどまずいだろうが、そんなものでも飲まなければ活動する気になれない。 「どうしたの?」 「寝不足なんだ」  途端にクレアの眉がハの字になる。 「あー、わたしには早く寝なさいって言ったくせに」  腕を組んだクレアの目が下からこちらを睨んだ。 「悪かったよ」 「じゃ今日は少しだけ遅くまでガルドおじちゃんのお話聞いてもいい?」 「あぁ。少しだけ、な」 「やった。すぐお茶淹れてあげるね」  満面の笑みで椅子から飛び降りたクレアは扉を開け放ち、廊下を走って行ってしまった。半開きの扉が小さく鳴る。手で顔をこすり、俺はいまだに武器を眺めているフィーナに視線をやった。 「フィーナ」   壁に掛けられた左手用短剣(マン・ゴーシュ)に鼻がくっつきそうなほど近付いていたフィーナがこちらを振り向く。 「はい。どうかしましたか」  と訊かれて困ってしまった。声をかけたのは眠気覚ましに話し相手になってもらおうと思ったからで、何を話すかまでは考えてなかったからだ。  半開きの扉がもう一度鳴った。 「とりあえず……クレアの前には出ないでくれよ。あの子、お化けが大嫌いなんだ」  夜、せっかくトイレに一人で行けかけてるのに、全てが水の泡になってしまう。 「気を付けますね」  それだけ答えて、フィーナは再び武器に見入ってしまった。 「なぁ」 「はい」  振り向いたフィーナは多少めんどくさそうな顔をしていた。恐らくは邪魔するなと言いたいのだろう。 「さっきからずっと眺めてるけど、楽しい?」 「ええ、とても」  そう答えたフィーナは本当に幸せそうだった。彼女も俺と同じ種類の人間なのだろうか。いや、俺でさえ武器を見ながらここまで幸せそうな顔はしない。せいぜい頬を緩めてみるくらいだ。 「好きなの?」 「はい。愛する人の仕事道具ですので」  そういうことか。  フィーナは手を伸ばし、それこそ愛する人の頬でも撫でるように展示してある長剣の刃に触れた。うっとり、という単語がこれほど似合う表情も珍しい。  甘い思い出につま先から頭のてっぺんまで浸かりきったフィーナを見つつ、あくびをする。昨晩、自分のことを語った時とは大違いだ。悲しい別れはあったものの、それまでは非常に幸せだったのだろう。華やかな宮廷での華やかな恋。皆がお似合いだと祝福するような幸福で、まっすぐで、熱い関係だったに違いない。将軍と姫ならば決して許されざる恋でもないし。どこかの二人のように「考え直せ」と言われもしなかったろう。でも、幸せだったからこそ八百年経っても未練を断ち切れずにいるんじゃないだろうか。それなりに幸せだったのなら適当なところでそれを思い出にすることができる。気持ちを整理して次に進もうと思えるのだ。  だが思いが深すぎる故に過去を過去だと認められなくなってしまうことが人にはある。  正直、それは俺にだってあった。今でも思い出す度に喉の奥に魚の小骨が引っかかったような気分になる過去がある。きちんと思い出にできていない過去だ。ただ、俺は喉に小骨を刺したままでも前に進みたいとは思っている。 「いいかリード。人はそのうち死ぬ。でも、どうせ死ぬならかっこよく死ね」  そう言っていつもと同じ時間に工房に入った爺ちゃんは作業台に伏したまま死んだ。爺ちゃんは最後の一瞬まで武器屋だった。そして、かっこよかった。  まぁ俺のことはさておき、問題はフィーナだ。  一応自分から「呪いを解いてください」と出てきたわけだから、それなりに前向きなのだろうがあくまでそれなりにだ。大体その呪いにしたって誰かにかけられたものではなく、フィーナの未練そのものが呪いになってるわけだから、結局は彼女の後ろ向きな思考のせいだとも言える。  どうすればフィーナに前を向いてもらえるんだろうか。  相変わらずの表情で武器を眺め続けるフィーナを見やり、俺は溜め息をついた。  生きている人間ならば日常に追われているうちに辛い過去が思い出に昇華していくこともある。いわゆる「時間が癒してくれる」というやつだ。ところが幽霊であるフィーナの場合それもない。  彼女には日常がないのだ。  食べなくても寝なくても死なないのだから、一日中過去に囚われて生活、というか存在していても全く問題ない。  それが問題なんだよなぁ。  心中で頭を抱えた俺は再びカウンターに突っ伏した。  面白そうだから。  フィーナに協力しようと思った動機が不純なだけに「どうでもいいや」と放り出すわけにもいかない。真面目にやるだけのことをやったんならまだしも、それは余りにも無責任だ。それに、フィーナの気持ちも俺には少しだけ分かった。  本当に辛いと逃げ出したくなるもんな、やっぱり。  昔の事を思い出し、唇を歪める。  大切なのはそこで踏みとどまれるかどうかだ。一歩前に出るのは落ち着いてからでいい。たとえ他人からただ立ち尽くしているように見えたって、歯を食いしばり、拳を握って立ち尽くすことに意味があるんだ。それが前に出る力を生む、と俺は信じている。  俺の信念をフィーナに教えることが正しいのかどうかは分からない。俺はフィーナとの待ち合わせに間に合うように、黙って行ったり来たりして、適当なところで諦めれば一応かっこうもつく。  だがそれは「一応」でしかないのだ。  フィーナの呪いが俺には手の出しようもない古代の呪術か何かならば諦めればいい。でもそうじゃない。呪いがフィーナの心の問題である以上、俺にできることはしてあげたいと思う。ちょっとした責任感と、多大な同情心ゆえに。  とにかく今夜、話をしてみるか。  思い、顔を上げた時だった。お盆の上にティーカップを一つ乗せ、クレアが戻ってきた。 「お、ありがと」  礼を述べてカップを手にする。白いカップにはドス紫色をした液体がなみなみとと注がれていた。  ケーム茶を見るたびに思う。これを最初に飲もうと思った奴の顔を見てみたい、と。 「うんと濃くしといたよ」 「ありがたいね」  言いつつ苦笑する。確かに濃くしてくれとは言ったが、どろどろになるまで濃くしろとは言ってないはずだが。もはやこれは飲み物ではない。感覚としては赤ん坊の離乳食に近かった。もっとも、こんなもの赤ん坊に食べさせたら顔が変形するくらい母親にぐーで殴られるだろうけど。  カップを鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。少し甘味のあるお茶の匂い。  匂いだけは普通なんだよな。だからこそ客商売をしている身でも飲めるわけなんだけど。  覚悟を決めた俺はカップの縁を唇につけ、一気にあおった。  端的に言いたいと思う。  帰れ。  誰がどこになんてのは些細な事だ。  クレアが淹れてくれたケーム茶はそんな味がした。  あ、なんか足がガクガクする。心臓はバクバクしてるし、もしかして俺、危ない? そういや一度に大量に飲むと「死んじゃう」って聞いたような。  変な温度の汗と脂汗を同時に流しつつ、俺は大きく深呼吸した。もう一度。さらにもう一度。足の震えと心臓の動悸が収まってきたところで額の汗を手のひらで拭う。今までかいたことのない種類の汗だった。  何か、暗殺とかに使われないうちに法で規制した方がいいんじゃねーか、これ。  嫌な紫色に染まってしまったカップを見つつ、俺は胃から登ってきた気色の悪い何かをこらえた。 「飲んじゃった」 「あのなぁ」  驚きを隠そうともしないクレアに向かってうめく。 「飲めると思って持ってきたんじゃないのか?」 「うーん。次は二倍かな」 「お願いだからやめてくれ」  ていうか何なんだそのちょっと狂った錬金術師みたいな台詞は。 「お兄ちゃんいつも言ってるでしょ。人間は前を向いてなきゃダメだって」 「知らん」  そっぽを向いて腕を組む俺。  茨の道ならまだしも、そんな「馬鹿一人ここ眠る」と刻まれた墓石に続くような道へ一歩踏み出すような勇気、俺にはない。 「大人って嘘つきだね」 「難しい言葉でこれを処世術と言うんだ」 「簡単な言葉だと?」 「忘れてしまった大切な何か」  俺を見上げていたクレアがわざとらしく溜め息をつき、首を振る。どこで覚えたんだ、そんな仕草。  最後にぽんぽんと俺の腕を叩き、クレアは読み書きのテキストを差し出してきた。  何かに負けたような気がするが、まぁいい。  テキストを受け取った俺は前回の続きのページを開く。気がつけば眠気はすっかりとんでいた。 「じゃあここから」  読んでみな、と言おうとして俺はその言葉を飲み込んだ。  店の入り口から覗き込むようにしてこちらを伺っている女性の存在に気付いたからだ。 「いらっしゃいませ」  客にしては変だなと思いつつも立ち上がり、声をかける。女性は一度大きく肩を震わせ、何かを確かめるように店内を見回してから中に入ってきた。その足取りもなぜかおぼつかない。肝試しでもしているような歩き方だ。  女性、というよりも少女に近い。年の頃十七、八。  下手をすれば十五、六でも通るだろう。  濃青のスカートと長く伸ばされたライトブラウンの髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。やがて少女はカウンターから少し離れたところで立ち止まると、満月のような黄色い瞳で俺を見つめた。 「いらっしゃいませ。何かお探しですか」  初めて見る顔だ。この町の人間でもなさそうだし、旅行者だろうか。 「あ、あの」  震える声でそれだけ言って少女はうつむいてしまった。どうも様子がおかしい。 「はい、どのようなご用件で」  穏やかな声を発しつつも、自分の身体でクレアを隠すようにして立つ。追い詰められたような少女の表情が気になった。いきなり短剣でも突きつけられて「金を出せ」と言われないとも限らない。だが、どれだけ待っても少女は短剣もまともな言葉も出してはくれなかった。 「その、だから」 「はい」  少女の喉が鳴る。 「あ……すみませんでした」  少女は叫ぶように言い残し、走って店から出て行ってしまったのだ。  後に残された俺とクレアは互いの顔に浮かんだ疑問符を確認しあってから、同時に息を吐いた。ちなみにフィーナは我関せずといった様子で武器を眺め続けている。 「何だったんだろうな、一体」  腕を組んだ俺は今しがた少女が出て行った店の入り口に目をやった。町の様子はいつもと変わりなく、それなりの人間がそれなりの活気で行き来している。そんな日常にできた谷間にふと落ちてしまったような不思議な感覚だ。  フィーナが見えたとか。  でもそれだったらもっとこう、叫び声とか派手に驚いてもいいような気がするし。 「あの人にはあの人なりの理由があるんだよ、きっと」 「何を悟ったようなことを。大体、理由もなくあれだけ挙動不審だったら恐いだろ」 「でもおじちゃんは理由がなくても床から出てきたりするよ」 「あれは別枠だ。忘れろ」  ここでクレアが言うおじちゃんとは俺の親父のことである。アレのことを考えたら今の少女が随分とまともに思えてきた。 「とりあえず勉強するか。普通の大人になるためにも」 「はーい」  元気よく返事をするクレアに一つ微笑して、俺は授業を開始した。  6  夕刻。  たまっていた配達を済ませた俺は、沈みかけた日に赤くなった町を歩いていた。武器を売るだけが武器屋ではない。その後のメンテナンスも俺にとっては大切な仕事だ。もっとも配達のうち「武器」だったのは二つだけで、残りのほとんどは奥様方に頼まれて研ぎ直した包丁なんだけど。でも、そういう小さな仕事を積み上げていくことで生まれる縁もある。  お裾分けも貰えるしな。  手で抱えた籠から立ち上る香ばしい香りに俺は口元を緩めた。小さな町だ。俺がクレアと二人暮らしであることは大抵の人が知っている。それを不憫に思ってか……どうかは知らないが配達なんかで立ち寄ると、こうやってお裾分け貰うことが多々あった。ちなみに貰ったのは野菜たっぷりの具をパイで包んだもの。作者は料理上手のマーサおばさんだ。ニールの所でハムも買ったし、今日はいい晩ご飯になりそうだった。にやけながら石畳の道を軽い足取りで歩いていく。すれ違う人の肩をわけもなく叩きたくなるような気分だ。  食は人間の基本。これを怠る奴はロクな仕事をせん。  朝から鍋いっぱいのシチューをたいらげていた爺ちゃんを思い出す。  吹く風にはもう秋の匂いが混ざっており、俺はその冷たさに身を縮めた。籠を通して感じるパイの温もりがありがたい季節になりつつある。  早く帰ろ。  家への道を急ぐ。と、町の中央広場にさしかかった俺はそこで奇妙な光景を目にした。大勢の人々が集まり、何かを取り囲んでいる。  位置的に言えば広場の中央、初代町長の像に見下ろされる位置に置いてあるベンチを取り囲んでいるようだが、ここからだとよく分からない。人数にして五、六十人はいるだろうか。誰もが神妙な顔をしてベンチのある方を見ていた。いや、凝視していると言っていいだろう。興味をそそられた俺は人だかりの一番後ろにくっついて様子を伺ってみることにした。  人数の多さ故に人だかりの原因を見ることはできない。だが見る必要はなかった。  聞けばよかったのだから。 「雷鳴轟く草原に白刃が閃き、二人の剣神が放つは共に最後の一撃」 「ガルド!」  慣れ親しんだ声と語りについ呼びかけてしまった。同時にとんでもない数の抗議の視線がとんでくる。邪魔するな、黙ってろ、さっさと結婚しろ……いや、最後のは被害妄想か。とにかく俺を睨む町人たちの目には殺気すら込められていた。小さく頭を下げて苦笑する俺。今は黙っていた方がよさそうだ。  咳払いを一つ挟んで、ガルドの語りが再開される。 「風と共にうなる剛剣。轟音響き、稲妻が大木を縦に引き裂いたそのとき!」  静寂の中、誰かの喉が大きく鳴った。 「なんと互いの剣が互いの胸を貫き、高名なる二人の剣神は共に倒れたのだった」  おぉ、という唸り声。 「これぞ遥か東の国に伝わる若き剣神の物語。二人の墓は睨み合うかのごとく、向かい合わせに建てられているという」  ふぅん。 「剣の鍛錬を怠るものがその間を抜ければ見えぬ刃によってたちまちのうちに斬り刻まれてしまうという噂あり。ご注意を。清聴、感謝する」  一瞬の沈黙の後で中央広場は拍手喝采の嵐となった。口笛が鳴り響き大量のコインが乱れ飛ぶ。  湧き上がる人々を掻き分け俺は広場の中心、ガルドのもとに歩み寄った。 「どうしたんだよ、これ」  商人らしく、投げられたコインを一つも逃すまいと拾い集めているガルドに向かって問う。俺の頭に当たったコインを空中でつかみ、ガルドは苦笑して見せた。 「いやな、カミさんを待つ間することもなかったから子供相手に話をしてやっていたんだが」  言葉を切ったガルドが頭を掻く。 「気がついたらこんなことになってしまった」  満足げな表情で思い思いの方向に散っていく人たちを見つつ、俺は嘆息した。 「娯楽に飢えてるからな、田舎の人間って」 「楽しんでもらえたようで何よりだ」  そう言ってガルドは拾い集めたコインを布袋に流し込んだ。袋の膨らみから推測するに、結構な額を頂いたようだ。  旅商人やめてもこれで喰っていけるんじゃないか、こいつ。  呆れつつも口元を緩める。 「で、肝心のカミさんはどうしたんだ?」  訊きながら辺りを見回してみるがそれらしき人物の姿はない。あれだけいた人たちも気がつけばほとんどいなくなっていた。肌寒さと相まって妙な寂しさを感じる。日もほとんど沈み、町の家々からは暖かそうな灯りが漏れ始める刻限。狭いとは言ってもこうして広場に佇んでいると世界から取り残されたような気分になる。 「まだ、来ないんだ」  僅かに赤が残った空を見上げ、ガルドが独り言でも呟くように言う。普段、彼の豪快な姿を見ているだけに不安そうな表情と口調が胸に引っかかった。  似合わないな。  そう思いつつも気にかかる。 「ちょっとした予定のズレだろ。大丈夫さ」  ありきたりな言葉しかかけられなかった。 「もう少しだけ待ってみる」  言いながらガルドはベンチに腰掛けた。背中を丸め、膝の上で指を組んだ彼の姿にその場を離れ難くなってしまう。 「クレア、待ってるんじゃないのか?」  その場に突っ立っているとガルドに笑いかけられた。言外に「大丈夫だ」と言われているような気がして気恥ずかしくなる。 「別に心配なんかしてないからな」  ガルドから視線をはずし、口を歪める俺。 「分かってるさ。お前は他人を心配するような人間じゃない」  言ってガルドは俺をからかうように笑った。 「晩飯、期待してるぞ」 「きっちり四人分、作っとくよ」  手にした籠をちょっと持ち上げてみせる。吹く風は、さらに冷たくなっていた。 「先、帰るな」 「あぁ」  短いガルドの返事に肯いた俺は広場の中心に背を向けた。一歩踏み出すたびに聞こえる自分の足音がやけに耳につく。広場の出口で立ち止まり、振り返ればそこにいるのはガルド一人だけになっていた。普段より小さく見える彼の姿に不安を抱きつつも、今は家への道を辿る事しかできない。  普通に、ただちょっと遅れてるだけだろ。  そうに違いないと胸中で呟き、俺は歩き出した。  7  晩飯時を過ぎ、クレアがベッドに入る時間になってもガルドは帰ってこなかった。  天井からぶら下がっているランプを見上げ、あくびを一つ。さすがにケーム茶の効果も切れてきたようだ。涙に滲んだ視界を瞬きでクリアにして、俺はテーブルに突っ伏した。  食堂。目の前では三人分の料理が食べられるその時を待ちわびている。さすがにクレアまで待たせるわけにはいかなかったので先に食べさせたが、俺はどうにも手を付けられなかった。  ガルドのことが心配で食事が喉を通らない……わけではない。  友人が未来の嫁さんを連れて来るその日に家主が先に晩飯を済ませてどうする、という礼儀的な理由ゆえにだ。  そりゃ全く気にならないと言えば嘘になる。が、俺もガルドも下手したら「おじさん」に片足突っ込みそうなのだ。誰かが待ち合わせに遅れたくらいで右往左往するような歳でもない。待ち合わせの相手が自分の子供とかなら多少はあたふたするかもしれないが、今回は少なくとも結婚できる歳の女性なのだ。心の片隅で、何かあったんだろうなぁ、と思ってみるくらいだった。  どうせ今ごろ手でも繋いでウチに向かっているに違いない。それどころか適当な宿にしけ込んであんなことやこんなことを時にひねりを加えつつやっているという可能性もないでもない。  ガルドの嫁さん  「いいの? お友達」  ガルド       「あぁ、待たせとけばいいさ、あんな奴。それよりも」  ガルドの嫁さん  「あん。だーめ。ベッドに入ってから、ね」  よし、殺ろう。  神様もきっと許してくれる。お祈りなんてしたことないけど僕はあなたを愛しています。と、アホなことを考えていても時間は過ぎていく。揺れる自分の影を見ながら俺はがしがしと頭を掻いた。  っとに何やってんだ、さっさと来いよ。料理冷めちまったじゃないか。  時が進むたびに階段を上がるかのごとく不安のレベルが少しずつ高くなっていく。  強盗。誘拐。事故。  考えてはならない単語ばかりが頭に浮かんでは消える。確かに相手は子供じゃない。それゆえに大丈夫だと俺は思っている。だがその裏で大人だからこそ、と思っていることも確かだった。なぜならば、まともな大人は待ち合わせに遅れたりはしないからだ。遅れてもせいぜい水が湯になる時間ほど。緊急事態でも起こらない限り「来ない」なんてことはまずない。俺はガルドが料理を作って待っている人間を放り出して宿にしけこむような性格でない事も知っている。ウチに来ないということは、まだ奥さんと会えてないのだろう。  緊急事態……なのか?  下唇を噛んで頭を振る。 「フィーナ。いるんだろ」  緊急事態について考えるのが嫌になった俺は限度を越えた不測の事態に意識を移すことにした。こっちはこっちで問題が山積みなのだ。八百年間の悩みをわずか二十五歳の俺がなんとしようとしてるんだから無謀と言えば無謀だった。だがこのまま放っておいては一生フィーナに付きまとわれたままになってしまう。別に鬱陶しいわけでも邪魔くさいわけでもないのだが、居心地が悪かった。やはり問題が解決せずそのまま残っている状態というのは決して気持ちのいいもではない。歯にモノが挟まったまま過ごす一日が何となく嫌なのとよく似ていた。 「フィーナ」  再び呼びかける。彼女は現れない。  気配を探ることができないため、頭を巡らせて食堂中に視線を走らせてみたがやはりフィーナはいなかった。  天井に張り付いている、わけでもない。  どこ行ったんだよ。  椅子の背に寄りかかり、目を閉じる。数秒後、少しだけ期待しながら目を開けてみたが、やはりフィーナはいなかった。  深夜になり、気温はますます下がっている。真冬の寒さに比べればまだマシだが、それでも人を落ち着かなくさせる程度には寒かった。拳を握れば指先の冷たさが手のひらに伝わってくる。小さく舌打ちした俺は結局ガルドの顔を思い浮かべてしまった。考えまいとすればするほど考えてしまう。  は。まさかこれは恋?  数秒の間をおいてランプの炎が揺れる。ランプに鼻で笑われたような気がした。  俺はいつまでこうして馬鹿なことを考えていればいいんだろうか。  もしかして今晩も半徹か? だとすれば明日はクレアの淹れたケーム茶(二倍)だぞ。それだけは何としても避けなければならない。今度こそ本気で死ぬ。出されたところで飲まなければいいだけのような気もするが、それはできない。  芸の道の生きる人間に、そんな「おいしい」アイテムを見逃す事などできるだろうか。いや、できはしない。  やはりそこは……って、ちょっと待て。  忘れていたが俺は武器屋だ。なぜ身体を張って笑いをとりにいかねばならんのだ。誰もそんなこと期待してないだろうに。危うく自分を見失うところだった。  再びランプの炎が揺れる。  今度は嘲笑か、おい。ランプに向い心中で呼びかける。  いい加減、自分でも自分の行動がおかしいんじゃないだろうかと思い始めた時だ。微かに聞こえた戸を叩く音に俺は大きく息を吐いて立ち上がった。どうやら御着きになられたようだ。  っとに、主役は遅れて登場するとはいえ、少し遅れすぎだろ。  頭の中で毒づきながらも頬の辺りは緩んでいた。問題が解決される瞬間というのは何度味わってもいいものだ。  食堂から庭に出た俺は薄く白い息を一つ吐いて勝手口を開いた。  そこにいたのは案の定ガルドと、ガルドと……。  闇のせいかと思い目を凝らす。だが、いくら見てみてもそこにはガルド以外誰もいなかった。 「上着を取りに戻った。意外と寒いな、ここは」  一人立ち尽くすガルドが力なく笑う。俺は無言でガルドを中に招き入れた。言うべき言葉が見つからない。まだ来ないのか。そんな事は見れば分かる。声にする必要はない。 「腹、減ったろ」  思案して、言えたのはそれだけだった。 「あぁ、いや。そうでもない」  どこか呆けた表情で曖昧な返事をするガルド。 「食べて行けよ。食堂に用意してあるから」  親指で家の方を指した俺にガルドは首を横に振った。 「すぐ、戻るつもりだ」 「でもお前、朝からずっとだろ。少し休めって」  さすがに「今日はもう来ないだろ」と言える雰囲気ではなかった。来るまで待ちつづける。疲れた表情の中でガルドの目がそう言っていた。 「だが」  その間に来るかもしれない、か。 「俺が行くさ」  ガルドの目がわずかに大きくなる。 「気にするな。ついで、なんだから」  腰に手を当てた俺は微笑して見せた。 「ついで、って何のだ」 「最近、初代町長の像を見るのに凝っててな。月明かりに照らされたのも一度見とかなきゃ、なんて」  俺の微笑は苦笑に変わっていく。そんな俺を見てガルドも笑った。 「いい趣味だな」 「だろ。というわけでお前もメシ食って一休みしたらすぐに来い。最高のポイントを教えてやるから」  言いながら俺は勝手口を開いて外に出る。町は完全に静まり返っていた。さすが田舎だ。寝るときはきっちり寝る。健康的でいいじゃないか。眠らない王都なんていつも睡眠不足でイライラしてるに違いない。だから犯罪率が高いんだ。 「リード」  名を呼ばれ、振り向けば拳を握ったガルドが深く頭を下げていた。 「すまん」 「謝るな」  それだけ言い残し、俺は勝手口を後ろ手に閉じた。どうもこういう雰囲気ってのは苦手だ。手に向かって息を吐きかけ、空を見上げる。  晴れ渡った空には雲ひとつなく見事な星空だ。こうして星を見ていると空の高さがよく分かる。昼間よりも空が大きく見えた。  いいことありそうじゃないか。  目を細めた俺は上着のポケットに手を突っ込み、中央広場に向かって歩き出した。  8  当然、広場には誰もいないと思っていた。一瞬見間違えじゃないかと思って目を凝らす。眉間に皺を寄せた俺は一歩一歩確かめるようにして広場の中心へ歩を進めた。  いるのは二人。  広場の中ほどまで来て、二人が女性だということが分かった。一人はベンチに腰掛け、一人は初代町長の像の台座に腰掛けている。台座に腰掛けている方の女性には見覚えが合った。透けた体の向こうに夜の町が見える知り合いなど一人しかいない。  こんなとこにいたのか。  夜気を軽く吸い込み、吐き出す。フィーナはベンチに座っている女性を、何事か考えるような表情で見つめていた。よほど集中しているのか、身じろぎ一つしない。  ベンチに座っている女性も同じだった。うつむき、自分のつま先の方に視線を落としたまま銅像のように動かない。吹く風に揺れるスカートの裾が、女性が銅像ではない事をかろうじて主張しているだけだ。  俺はわざと大きな足音を鳴らし、ベンチに歩み寄った。いきなり現れて女性を脅かしたくなかったのだ。狙い通り女性は俺がベンチに辿り着く前に顔を上げてこちらの存在に気付いてくれた。俺を見た女性は驚いたように口をわずかに開き、膝の上で拳を握る。  だが驚いたのはこちらも同じだ。  女性、というよりは少女。年の頃十七、八歳。下手すれば十四、五でも通ってしまう。近寄ってみて分かった。見覚えのある濃青のスカートに満月のような瞳。朝、ウチに来て逃げるように帰ってしまった子だ。 「こんばんは」  こんな歳の子がこんな時間に何をやってるんだ、と思いつつも声をかける。警戒心を与えぬよう笑みなど浮べつつ。だが少女は応えてくれない。驚きの表情を顔に貼り付けたまま俺を見上げている。 「隣、いいかな」  そう訊くと、小さな鈴みたいな声で「はい」とだけ言ってくれた。それからすぐに顔を隠すようにしてうつむいてしまう。俺は広めに間を開けて少女の隣に腰掛けた。硬く冷たい木の感触に身震いする。  静かだった。  自分の呼吸音をじっくり聞く機会なんてのはなかなかない。視線をやればフィーナも少女も塗り固められでもしたように動いていなかった。少女などは呼吸を殺しているようにさえ見える。居心地の悪さに耐えるような少女の様子に申し訳なくなった俺は、声を掛けることにした。 「朝、ウチに来たよね」  少女は顔を上げると、俺の顔を一瞬見ただけでうつむいてしまう。 「覚えてない? 武器屋の店主なんだけど」  自分の顔を指差してみるが、少女はこちらを向いてさえくれなかった。  気まずい沈黙が流れる。  伸ばした人差し指をひっこめた俺は、とりあえず考えた。十七、八歳の女の子に興味を持ってもらえる話しをしよう、と。頭の中の本棚をひっくり返し、必死に話題を探す。お、一つあった。やっぱりかわいい動物ネタなんていいんじゃないだろうか。  咳払いを一つ。 「えーっと、五年で三十人を食い殺したという伝説の人食い虎が」 「え」  俺を見つめる少女の顔は困惑に満ち溢れていた。何かとてつもない間違いをおかしたような気がするが、少女の気を引くことには成功したのでよしとしよう。  こうして見てみると少女は結構可愛かった。丸顔で、人を安心させるような顔のつくりをしている。 「こんな時間に何してるの?」  人食い虎の話はあっさり捨て去る。魚が釣れれば餌に用はない。 「あの……考え事、です」  無言で肯く俺。二度しか会ったことのない少女に考え事の内容を聞くほど俺はずうずうしくない。だがそれはそれで問題だった。肯いただけでは会話にならない。 「この町の人じゃないよね」  とりあえず当り障りのない事を言ってみた。田舎の閉鎖性を象徴するような台詞で嫌なんだけど。 「旅人?」 「そうです、けど」  答える少女は明らかに困惑していた。怯えてさえいるように思える。こんな時間に目的もなく少女に声をかける男。恐い、と言うよりは気持ち悪い。もしクレアが同じことをされていたら、と思うと確かに嫌だった。 「あのさ、考え事ならベッドの中でだってできるし、宿に戻った方がいいと思うけど」  僕は君を狙ってるんじゃないんだよ、というアピールも込めて言ってみる。 「平和な田舎町ではあるけど、それでも年に二、三回殺人未遂事件くらいは起こるし」  未遂、なところが本気になりきれてなくていい感じだ。 「何について悩んでるのかは知らないけど、ベッドで考えてるうちに眠たくなって、朝起きて冷たい水で顔洗って、朝食の後くしゃみの一つでもすればその頃にはきっといい答えが出てるよ」  笑いながら言う俺に、ぎこちなくではあるが少女も笑みを返してくれた。固かった雰囲気の結び目がほんの少しだけほどける。 「あの」  初めて彼女の方から声をかけてくれた。だがその後が続かない。先ほどと同じように少女はうつむき、押し黙ってしまった。震える唇からは今にも言葉が出てきそうだ。だが結局唇の堰が切れることはなかった。少女は黙って立ち上がると涙を堪えるような表情で頭を下げ、闇の中に消えて行ってしまった。少女の瞳が潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。 「フィーナ」  背後を見上げて呼びかける。少女が去っていた方を見つめていたフィーナは一度目を伏せ、こちらを向いた。 「あの子、いつからここに?」  状況を見ていたであろうフィーナに聞いてみる。 「ガルドさんと入れ替わるように、ですけど」 「何かあったのかな」 「私には。ただ」  言葉を切ったフィーナが少女が去っていた方へと再び視線をやる。 「少しだけ、泣いてました」 「そっか」  冷たくなった手を上着のポケットに突っ込み、俺は自分のつま先を見つめた。ガルドと入れ替わりに、というフィーナの言葉が気になったが、まさかと思い直す。  さすがに、なぁ。 「で、君はこんな所で何をしてるんだ」  フィーナは左右を見回すと、最後に自分を指さした。 「君以外に誰がいるってんだ」  既視感を覚えつつも訊く。 「こちら初代町長のクルトさん。とても気さくな方で」 「いや、紹介されても困るから」  自分の隣の空間に手を差し出すフィーナにどう反応していいのか困る俺。それでも一応初代町長の銅像に向かって頭を下げてしまう自分の小市民っぷりが素敵だ。まぁ、俺だってこの町の人間だし。まったくお世話になっていないと言えば嘘になるからな。初代町長への挨拶も済んだところで、再びフィーナに問う。 「で?」  フィーナは銅像の台座から降りると、羽毛のようにゆっくりと宙を舞い、俺の隣に腰掛けた。水中にいるかのように金色の髪がたゆたう。 「ガルドさんを見ていました」  フィーナの声には滲むような重さがあった。 「私と重なるようなところがありますから」  そういうことか。互いに待ち人来たらず、だもんな。フィーナにしても今のガルドに、ひいては自分と照らし合わせて思うところが何かとあるのだろう。  乾いた唇に舌をやり、ポケットの中で手を握る。どこかで野良犬が鳴いていた。 「なぁ」  と呼びかけようとして、俺は口をつぐんだ。いきなり「前向きになってみないか」ってのもなぁ。町を歩いていて「君、いい体してるね。騎士団入らない?」と声をかけられるのと同じくらいの戸惑いは与えそうだ。しばし考え、一つ思い当たった俺は会話の入り口としてこんなことを訊いてみた。 「八百年迷ってる、って言ったよな」 「はい」 「でも君が取り憑いてる短剣はそんなに古いもんじゃないだろ?」 「そうですね。私が使っていた短剣は、私と一緒に湖に沈んでしまいましたから」  そう言ってフィーナは微苦笑した。 「今は、何となく気に入った短剣を転々としている状態です」 「ヤドカリみたいだな」  笑う俺にフィーナが不思議そうな顔をする。 「ヤドカリ、って何ですか」 「ん、知らない? エビとかカニの仲間でさ、貝を背負ってるんだ。で、体が大きくなるたびに新しい貝に引越しをするっていう生き物なんだけど」  興味深そうな、感心したようなフィーナの視線が照れくさかった。 「まぁ、俺も実物は二、三回くらいしか見たことないんだけどさ」  この町から一番近い海まで馬車で十日ほど。そうたびたび行けるものではない。 「でも羨ましいです。私は海さえ見たことがありませんので」 「八百年もこの世にいるのに?」  驚きに声が大きくなる。 「幽霊でも自由に移動できるわけじゃありませんから」  そこで言葉を切ると、フィーナは少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「見てみたいですね、海」 「見られるさ。きっと」  前を向いたまま、言う。 「でも」 「方法なんていくらでもあるさ。考えよう。とりあえず海に行く人の短剣に取り憑くのが一番手っ取り早いな」 「それはそうですけど」  フィーナが語尾を濁す。そう簡単にいくでしょうか、と目が言っていた。 「そこもほら、海方面に向かう町の出口で獲物を物色するとか」 「獲物を物色って、私はそんな物騒な幽霊じゃありません」  そう言って少しむくれたフィーナは驚くほどかわいかった。つい視線をあちこちに飛ばし、挙動不審になってしまう。相手は幽霊だ。分かっている。  だが……いいものは、いい。 「あ、あのさ、やっぱり旅はいいってよ。ガルドも言ってたし、ウチの親父も旅に出たら一年は絶対に帰ってこないし。楽しいんじゃないかな」  しどろもどろになってしまう。 「俺も店を誰かに譲れるようになったら旅に出てみようかな、なんて思ってるよ」  それは本心だし、割と本気だった。せっかくこの世に生まれてきたんだ。できるだけたくさんの世界を見てみたい。そして、できるだけたくさんの人と出会ってみたかった。  フィーナは何も答えない。  ただまっすぐ前を向き、何かを見ているようで何も見ていないような表情をしている。  俺も、しばらくは何も言わなかった。静まり返った町並みを見つめ、目を細める。冷たい夜気が耳たぶに染み込んでいくような、そんな感覚があった。  短く息を吐く。沈黙はもういい。 「全部忘れろとは言わない。少しだけ忘れられないか」  フィーナの体がわずかに震えた。だがそれだけだ。答えは何も返ってこない。重い沈黙だった。うつむいてしまえば押し潰されてしまいそうな気がする。だから俺は前を向いていた。  鼓動が高鳴る。  緊張していた。他人を諭そうなんて、俺には十年どころか二十年も三十年も早いのかもしれない。経験が豊富なわけでも知識が豊富なわけでもなかった。誰かに何かを伝えようとする時、自分の言葉を否定されるのでないかという恐怖が常に付きまとう。完全な人間なんていない。頭では分かっていても、心が言う。 「人間は不完全なのが普通。だが、お前は普通以下だ」  と。  不完全な俺の、不完全な言葉にどれだけの意味があるのかは分からない。分かるのはただ一人。言葉を受けたフィーナだけだ。審判は彼女が下す。 「どうして、そんなこと言うんですか」  返ってきたのは肯定でも否定でもなく、疑問だった。そこに俺を責めるような色はない。 「解きたいんだろ、呪い」  ゆっくりと、だが確実にフィーナは肯いた。 「それが一番の近道じゃないかと思って」  何度フィーナと待ち合わせをしたって、多分俺は彼女との約束を守れないと思う。  昨夜、繰り返してみて分かった。勢いだけで何とかなる代物じゃない。 「呪いそのものはともかく、呪いの原因をなんとかすれば」 「そうじゃないんです」  俺の言葉を遮り、フィーナがこちらを見つめる。 「どうして……私に構うんですか」 「今さら何を。構って欲しくて出てきたんだろ」  眉根を寄せる俺にフィーナが泣きそうな顔をする。 「だって私、幽霊、だし」  言葉の最後が震えていた。  まいったな。 「体はないし、私に構ったって」 「あのなぁ、人を何だと思ってるんだ」  そんな風に思われてたのか、俺。いくら女性に縁がないからってそれはちょっと酷くないか? 「体が透けてたって心まで透けてるわけじゃないだろ」  笑いながらフィーナの胸元を指さす。俺の指先を見つめ、口をわずかに開くフィーナ。開かれた唇が引き結ばれた時、彼女の目からは涙がこぼれ出していた。  反射的に目を逸らしてしまう。  女性の涙はニンジンの次に苦手だった。顔を手で覆い泣きじゃくるフィーナに、どうしたもんだろ、と夜空を見上げる。ハンカチの一つでも差し出してやりたいが、生憎彼女には使えない。ハンカチの代わりに言葉を差し出せればいいのだが、問題が一つあった。  フィーナが泣いている理由がさっぱり分からないのだ。  一応、負の涙じゃないということは雰囲気で分かる。でもなぁ。八百年間、泣くほどまともに相手してもらえなかったんだろうか。  フィーナを見やり、小さく息を吐く。  こうして見てみるとフィーナが泣く様は子供のようだった。少しだけ安心して視線を彼女に固定する。俺が苦手なのは大人の女性の、もっと湿った涙だ。しかし初めてフィーナと会って、自分の過去を語った時に彼女が見せた涙とは随分違う。何て言うか、今の方がフィーナらしかった。  少しだけ心を開いてくれたってことかな。  そう思うと自然に笑みがこぼれた。  やがてフィーナの嗚咽は小さくなり、時折鼻を鳴らすだけになる。 「少し落ち着いた?」  顔を覗き込むようにして訊くと、フィーナは指で涙をすくってから肯いた。  恥かしげに笑う彼女に安心し、苦笑する。 「胸を貸せればよかったんだけどな」 「そんな事できる人じゃないクセに」  う。確かにまぁ、そうだけど。 「カッコいい事くらい言わせてくれよ」 「だめですよ。かっこいい事言う前に、かっこいい事して下さい」  男なら言葉ではなく態度で示せと、こうおっしゃりたいわけだ。  でもそれって結構大変なんだぞ。特に俺みたいな「女性が男のどういう態度をかっこいいと思うか」よく分かってない男にとっては。  それで結局は何もしないなんて最悪の結果を招くことが多々あった。 「意気地なし」  この単語を思い出すと今でも酒瓶片手に泣きたくなる。やめればいいのに言われた回数を指折り数えながら。 「僕はもう疲れたよ」 「昨日からほとんど寝てないんですよね」  いや、まぁそれもあるんだけど。もっとこう、心の筋肉痛とでもいうか。  と、不意にフィーナが立ち上がった。軽く地面を蹴った彼女は宙に舞い、再び銅像の台座に腰掛けてしまう。どうした、と訊く前に俺の耳は一つの足音を捉えていた。重く、引きずるような足音。 「よぉ」  足音の主から発せられたのは、吐息とも声ともつかない気の抜けた音だった。 「どうだ、銅像の具合は」 「最高だよ」  そう答えた俺に足音の主、ガルドが力なく笑った。ガルドは長く重そうな影を引き、俺の前を横切ってベンチに腰を下ろす。忘れかけていた寒さが戻ってきた。固いベンチに触れ続けた腰が痛みを訴える。俺は立ち上がり、不必要なほど大きく伸びをした。振り払いたかったのだ。色んなものを。 「悪かったな。もう……」  腰をひねる俺に向かって、聞いてるこっちが嫌になるほどの申し訳なさそうな声を出すガルド。俺は黙って再びベンチに座り、腕を組んだ。 「ここまで来て結末も見ずに帰れるか」 「だが」 「ダガーもロングソードもない」  一瞬の沈黙。そしてガルドが吹き出す。 「二度と言わない方がいいぞ。笑えないからな」 「俺も盛大に後悔しつつ自分の口を呪ってるところだ」  その後で俺とガルドは顔を見合わせ、互いに「しょーがねーな」という表情を浮べた。 「しかし誰も彼も悩みやがって。そういう季節なのかね」  両腕を広げ、ベンチの背もたれをつかむ。冷たいんですぐ離したけど。 「どうしたんだ、急に」 「いやな、お前を含めて三人の悩める子羊を知ってるからさ」  うち一人は幽霊だけど。 「さっきだってここに来てみたら女の子が一人悩んでたし」  俺の言葉にガルドが顔を上げて反応する。 「あぁ、いや。女の子って言ったって本当に子供だ。まだ十七、八くらいの」  だがガルドの表情は変わらない。  おい、まさか。 「その子の特徴とか、何か覚えてないか」 「ライトブラウンの髪と黄色い瞳。あとは濃い青色のスカート」  俺の声も少しだけ震えていた。ガルドの喉が大きく鳴る。 「間違い、ない」  俺は全身の毛穴が開きでもしたような妙な感覚に襲われた。  あの子が……ガルドの。 「だって、まだ」 「幼く見えるがあれで二十二だ」  視界が歪む。顔面がぴりぴりと痛んだ。 「探そう!」  自分の間抜けさを蹴り飛ばすように叫び、俺は立ち上がった。  なぜちゃんと確認しなかった。どんなに小さな可能性だって無視すべきではなかったのに。震える足を少女が去って行った方へと向ける。  この方角で宿っていうと……。  頭の中に地図を描く。だが焦っているせいか道はひん曲がり、建物は自分勝手に飛んでいく。頭を振り、白紙の脳内に再び地図を描こうとしたその時だった。 「リード」  低く太い声に名を呼ばれた俺は反射的に固まってしまう。ガルドの声にはそれだけの重さがあった。 「探さなくていい」  意味が分からなかった。 「座ってくれ」 「だって……何のために今まで待ってたんだよ」 「落ち着け。誰も会わないとは言ってない」  そう言ったガルドの瞳は不思議と安堵の色を取り戻していた。 「無事にこの町に着いた。それが分かっただけで十分だ」 「会いたく、ないのか?」  訊いた瞬間、馬鹿な質問だと思った。答えなんて分かっている。 「会いたいさ。でもな、この町に来ていながらここに来ないって事は、あいつに何か会えない理由があるってことだ」  それは、そうだろうけど。 「だからもう少しだけ待ってみるさ。あいつを信じて、な」 「強いな」  俺の言葉にガルドは苦笑し、うつむいた。そんなガルドを腰に手を当てて上から見下ろす。 「違う」  不意に発せられた否定の言葉が腹の底に響いた。 「ガルド?」 「恐いんだ」  その声色からは怯えさえ感じられる。よく見ればガルドの足は小刻みに震えていた。 「あいつに会うのが恐いんだ」  何も言えなかった。ただ立ち尽くす。 「なぜ来ない。どんな理由があるんだ。俺はあいつに会ったら」  ガルドが顔を上げる。 「何を言えばいいんだ」  ガルドは今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんなガルドの前で俺も同じような顔をしていたと思う。  夜の闇はさらに深く、濃くなっていた。  9  昨夜とはうってかわって暖かい日差しが降り注ぐ今日この頃、俺は目の前に立つ煉瓦造りの建物を見ながら大きなあくびをする。  町外れの小高い丘の上。振り返れば灰色をした石畳の道が町から自分の足下まで続いている。  吹く風は柔らかく、外で昼寝をしたら気持ちいいだろうな、と心の底から思わせてくれるような陽気だった。  聞こえてきた小鳥のさえずりに誘われた二度目のあくびを遠慮なく放出し、俺は建物の入り口に歩み寄る。  結局夜明けまで待ってもガルドの奥さんは現れなかった。  二人、ただひたすら待ち続けた無言の時を思い出すと今でも唇を噛みたいような気分になる。  家に戻った俺とガルドはわずかな仮眠をとり、別行動となった。  ガルドは町の広場へ、俺は「ここ」へ。  ガルドのことが心配でないと言えば嘘になる。  が、男二人が黙ってベンチに座っていてもどうしようもないのも事実だ。  ガルドが待つと言った以上俺にはどうする事もできない。  できるだけ早くガルドの奥さんがガルドの前に現れてくれるのを願うのみだ。  そして、願いつつも俺にはやる事があった。  フィーナ、である。  昨夜、気がつけば彼女はいなくなっていた。それから今まで一度も会ってない。  少しだけ打ち解けることはできたものの、まだ呪いの原因をどうこうできる所までは来ていなかった。  それで何かヒントがあれば、と思い「ここ」に来たのだ。  店のことなら心配ない。今日は週に一度の休業日だ。  クレアのことも心配ない。  隣にいる。 「早く行こ」  澄んだブルーの瞳に促され、重厚な両開きの扉の前に立った俺はノッカーで扉を叩いた。  「はい」という返事から待つことしばし、重いきしみ音と共に扉を開けて出て来たのは二十二歳の女性だった。  黒の、裾の長いゆったりとした服に身を包んでいる。  彼女の名はセシル・アイフォード。修道女だ。  そう、「ここ」とは修道院である。と言っても別に神様の力を借りてフィーナを無理やり何とかしようとか思っているわけではない。  俺は本を読みに来たのだ。フィーナや彼女の故郷であるニースリールについて少し調べてみようと、こういうわけだった。  修道院には数多くの書物が収められている。修道士や修道女が修行の一環として書物を書き写すからだ。  そんなわけで修道院には多くの写本が並ぶことになる。そして幾らか払えばそれを読むことも可能だった。  さすがにタダというわけにはいかない。いくら清貧をよしとしていても、貧しすぎれば餓死してしまう。  セシルを前にクレアは胸の前で手を組むと目を閉じて頭を下げた。 「えと、心は常に主と共にあり。日々いち……一日の平穏を主に感謝し、喜ぶなり」  たどたどしくではあるが祈りの言葉を述べるクレアにセシルは大きく、ゆっくりと肯いた。それから俺に顔を向ける。  まっすぐに伸びたダークブルーの髪が風に揺れ、同じ色の瞳が「早くしなさい」と俺に言う。  正直、俺は「カミサマ」とやらをあまり信じていない。  全知全能のカミサマが作ったにしては世界も人間もあまりに不完全だ。  一度それについてセシルと議論した事があるが、平行線を辿るばかりで結局どうにもならなかった。  俺としては「カミサマ」よりも原始信仰である「精霊」の方が何かしっくりくる。  世の万物には精霊が宿り、世界はそれによって構築されている。  当然、俺が商売で扱っている武器にだって精霊は宿るし、フライパンにだって宿るんだろう。  俺にしてみれば「カミサマ」よりも「精霊」の方が圧倒的に近くにいるような気がするのだ。だから信じられる。  全知全能の神、とか言われると遥か空の高い所にいて俺のことなんて見てないんじゃないかと思ってしまう。  まぁ、信仰心が足りないと言われればそれまでなんだけど。  俺は手を組み、目を閉じた。 「心は常に主と共にあり。日々一日の平穏を主に感謝し、喜ぶなり」  本を見せてもらうためと割り切って祈りの言葉を述べる。 「主は全ての者を等しく受け入れ、お許しになります。日々の祈りを忘れぬよう」  そう言って手を組み頭を下げたセシルは、最後に苦笑した。 「相変わらずね。心がこもってない」 「主は寛大なんだろ。甘えさせてくれるさ」  言って俺も笑う。 「主よ、この愚か者に試練をお与え下さい」 「あ、ひでぇ。主よ、あなたの娘であるセシル・アイフォードはろくでなしです」 「こら。で、今日はどうしたの?」  セシルが修道女としてこの町に来たのが十五のとき。俺も暇な時にはよく本を読みに来ていたので結構長い付き合いになる。  友人、と言っても差し支えないだろう。  もっとも、体に触れたこともないんだけど。  もちろん変な意味ではなく俺はセシルの肩を叩いたことすらない。  修道女である彼女は男性との身体的な接触を一切禁じられている。できるのは話だけ。禁を破れば破門だ。  厳密に言えば即破門ということはないだろうが、敬虔な信徒であるセシルは教えを忠実に守り、貫いている。  もしセシルが町で普通に暮らしていれば男どもが放ってはおかないだろう。  彼女にはそれだけの美しさがあった。  というより何か色っぽいのだ。  涼しげな目元に艶のある唇。セシルが浮べる微笑に、背筋を指でなぞられたような気分になったことも多くある。  彼女が耳元で一言ささやけば男は金貨の十枚や二十枚、強盗をしてでも差し出すことだろう。  実際、彼女がこの修道院に来てから寄付の額が上がったらしいし。  もちろんセシルは何もしていない。男という存在がひたすら悲しいだけだ。 「いつものだよ」  そう答えるとセシルは軽く肯いて俺たちを中に招き入れてくれた。  俺たちを迎えてくれたのは左右に伸びる廊下、そして正面にある重厚な両開きの扉だった。  扉の向こうは礼拝堂だ。  修道院の構造としては中心に礼拝堂があり、その周りを廊下を挟んで様々な部屋が囲んでいるという風になっている。  しかしこの空気。  深淵とか静謐とか普段あまり使わない言葉を使いたくなる。  基本的に「カミサマ」に対する信仰心は薄い俺だが、それでもこの空気には口数が少なくなってしまう。  何度来てもやっぱり慣れない。  隣にいるクレアが俺の手を握った。小さな手から緊張感が伝わってくる。  黙って歩き出したセシルの後を、俺もクレアの手を引いて無言で付いて行く。  石畳の廊下。高い天井に足音が響く。  にしても、だ。  セシルの後姿を見ながらふと思う。  美味しそ……うがっ。  つま先に激痛が走った。 「お兄ちゃん」  踵をぐりぐりと俺の足にねじ込みながらクレアが笑う。 「ダメだよ、変なこと考えちゃ」 「何で分かった」 「いやらしいこと考えてる顔してたもん」 「顔に出してしまうとは俺もまだまだ修行が足りんな」 「ばか」  繋いでいた手をほどき、ぷいと横を向いたクレアは先に歩いていってしまった。  一つ息を吐き、痛む足で後を追う。  一番前を歩いていたセシルが立ち止まり、振り返った。そこは馴染みの写本室の前だ。 「相変わらずね、あなた達」  俺とクレアの顔を一度ずつ見てセシルが言う。  口調こそ呆れてはいたが表情は非常に楽しそうだ。 「待ってて、鍵取ってくるね」  廊下の奥へと歩いていくセシルを見つつ、俺は写本室の扉に背を預けた。  クレアはまだ膨れっ面をしている。 「そこまで怒んなくてもいいだろ。ちょっと見とれただけじゃないか」 「別に怒ってなんか」  と言いつつもクレアは床を蹴る。 「……わたしだって大きくなればあれくらい」 「は?」 「何でもない!」  何かをかき消すように大声で言って、クレアはそっぽを向いてしまった。  頬が赤いような気がするが、まぁ気のせいだということにしておこう。  口元をかすかに緩めて待つことしばし。鍵の束を手にしたセシルが戻ってきた。 「お待たせ、っと。どうしたの?」  クレアに目をやったセシルが首をかしげる。 「いや、まぁ、人生哲学の相違による軋轢とでも言おうか」 「何それ」  と、クレアがとてとてとセシルに歩み寄った。 「お兄ちゃんが無理矢理いやらしい言葉を教えるの」 「ちょっと泣きそうな顔してそんなこと言うんじゃないっ!」 「リード! あなた何考えてるの!」 「信じるなっ!」  修道院に魂の絶叫が響く。  今の声ならば空の遥か高くにいるカミサマにだって届いただろう。  肩で盛大に息をする俺を冷たい瞳で一瞥し、セシルはクレアの前で膝を折った。 「クレア、辛くなったらいつでもここにいらっしゃい。主は全ての者を等しく愛されます」 「うん。ありがとう」  こらクレア、やっと自分の居場所が見つかった、みたいな顔して肯くな。 「この愚か者の言動については私がしっかり証言するから。異端審問にかければ神の名のもとに武器屋の一人や二人」 「主よ、あなたの娘であるセシル・アイフォードは変なクスリをやってるみたです」 「やってません!」  今度はセシルが叫ぶ番だった。 「本気で否定するな。余計怪しいだろ」  と、セシルはふと思案して、 「やっ、やってないよ?」  静寂。 「まぁバカ話はさておきだ」 「うぁ、はらたつ」  俺は上着のポケットから銀貨を一枚取り出した。  何人の手を渡ってきたのかは知らないが、かなり傷が入っている。  本の閲覧料だ。  深く頭を下げたセシルは銀貨を受け取り、写本室へと続く扉の鍵を開けてれる。  言うまでもなく、本は貴重品だ。一冊作るのに結構な手間がかかる。  クレアの読み書きのテキストだって爺ちゃんの代から使っている年代ものだった。そう頻繁に買い換えられる物ではない。  そういう意味で、扉の向こうは宝の山だった。  閲覧台と天板に角度がついた写本台が中央に置かれ、それを挟むように本棚が立ち並んでいる。  古めかしい羊皮紙とくすんだインクの匂いに俺は目を細めた。  十代の頃、親父に頼まれた店番を放り出してここに来ていたことを思い出す。  本が日に焼けるのを防ぐためか明り取りの小さな窓があるだけの薄暗い写本室。  町の喧騒もここまでは届かない。時折風が木々を揺らし、葉のこすれる音が遠慮がちに聞こえてくるのみだ。  目には悪いだろうが本に没頭するには最高の雰囲気だった。  もちろん今でもお気に入りの場所だ。 「それで、何をお探しなの?」 「ニースリールについて書かれた本なんだけど。できれば最後の姫について」 「ん、分かった」  一つ肯き、セシルは本の森を迷うことなく歩いていく。  椅子に腰掛け、閲覧台の木目を見ながらあくびを二度し終えたときには数冊の本が俺の傍に積み上げられていた。  さすがは写本室の管理人。仕事が早い。  早速一番上の一冊を手に取り、ページを開く。  何か分かればいいけどな。  数時間後。  最後の一冊を閉じ、俺は閲覧台の上に突っ伏した。  目を閉じても瞼の裏に字が浮かんでくる。同じ姿勢でいたため、肩と背中は石のように硬くなっていた。  思いっきり腕を振り上げて大きく伸びをする。  涙が滲むくらい気持ちいい。 「あっ、うぅ……あぁう」 「ちょっと、気持ちの悪い声出さないでよ」  クレアに字を教えながら一緒に本を読んでいたセシルがこちらを睨む。 「どうだったの?」  セシルの問いに俺は黙って首を横に振った。  何冊もの本を読んでみたが、フィーナの呪いを解くヒントになりそうな記述は見つけられなかった。  フィーナの過去については彼女が語った通り。代表的な悲恋物語としてどの本にも挙げてあった。  だが今さらそんな事が分かったところで仕方がない。  生前のフィーナの人物像に触れている記述もあったが、ハチミツをたっぷり塗ったパンが好きだったという情報をもとにどうやって呪いを解けというのだ。  正直、フィーナと話す時のとっかかりが一つできたくらいだ。  本を探してくれたセシルには申し訳ないが無駄足だったらしい。  やっぱり根気よく会話を続けて少しずつ彼女の心を解きほぐしていくしかないのだろうか。  頭を掻き、色とりどりの背表紙を見つめる。 「お姉ちゃん、これは?」  尋ねるクレアの声。 「あぁ、ごめんね。『革命』よ」  本を見ながらクレアがふーん、と肯く。  革命。  その単語を右から左に通過させながら俺は今まで読んでいた本に指先で触れた。  タイトルには「ニースリール最後の美姫、フィーナ・ハイクライン」とある。  フィーナが有名人である事を改めて実感してしまった。  革命。ニースリール。フィーナ。  そんな単語が頭をよぎり、抜けていく。  革命。ニースリール。フィーナ。 「あ」  反射的に声をあげた俺は口元を手で押さえ、固まってしまった。  心臓の鼓動が強くなり胸が苦しくなる。指先が燃えるように熱くなり、反対に足の指は痛いほどに冷たくなっていく。 「お兄ちゃん?」  クレアの声さえ無視して俺は思考に没入した。  もしかしてとんでもない勘違いをしてたんじゃないのか。  口内が恐ろしい勢いで乾いていく。  張り付いた舌を引き剥がし、俺は唇を舐めた。  思い出せ。 『好きなの?』 『はい。愛する人の仕事道具ですので』  俺とフィーナが昨日店でかわした会話だ。  あの時のフィーナは武器を見ながら本当に幸せそうな顔をしていた。  ありえない。  ニースリールが滅んだ八百年前といえばある『革命』が起こった時期だ。  その『革命』ゆえにニースリールは滅んだと言っても過言ではない。  フィーナが武器好きだということは否定できない。  だが、ニースリールの姫がウチの武器を見ながら幸せそうな顔をするのは間違っている。  なぜ昨日店でフィーナと会話をした時点で思い出さなかった。いくら眠かったとはいえボケ過ぎだ。  武器屋として最低限押さえておかなければならない歴史なのに。  だが疑問が残る。  だとすればフィーナは……。  彼女と出会ってからの記憶を辿る。  印象に残っているのはやはり武器を見ているときの幸せそうな顔、そして昨夜中央広場で見せた泣き顔だ。  俺は泣きじゃくるフィーナを見て、より彼女らしいと思った。  そもそも何で泣いたんだっけ。  ……そうだ。言葉をかけたんだ。 「体が透けてたって心まで透けてるわけじゃないだろ」って。  そう言ったら泣かれた。よりフィーナらしく泣かれた。  武器と幸せ。言葉と泣き顔。  瞬間、俺は椅子を蹴って立ち上がった。弾みで倒れた椅子が床に打ち付けられる。 「え、なに。どうし」 「組合報だ」  セシルの声を遮って呟き、俺は顔を上げた。  こうしてはいられない。すぐに確認をとらなければ。 「クレア、帰るぞ!」 「え、だってまだ……きゃっ」  俺はクレアを抱え上げ、写本室から飛び出した。 「お兄ちゃん、なに、なに、なに?」 「喋るな。舌噛むぞ!」  修道院の廊下を走り抜け、外に出る。  後ろからセシルの声が聞こえたが構っている暇はない。  俺は足に力を入れ、さらに強く石畳の道を蹴った。  もし俺の予想が正しければフィーナを解放してやれるかもしれない。  今はとにかく全力で走れ。  10  家に辿り着いた俺は荒い呼吸を整える時間をも惜しみ、工房に直行した。  棚から木箱を下ろし、中に入っていた組合報の写しをあさり始める。  組合報とは近隣の町や村にある武器屋で作るギルドが発行している情報紙だ。  新しい工房の紹介や売上の動向、その他業界で起きたあれこれが記載されていて、月に一度の割合くらいで回ってくる。  読んだら次に回さなければならないため、必要な情報は自分で写さなければならない。  俺は例えその時は必要なくてもとりあえず全ての情報を写すことにしていた。  そのせいか小さな情報も割とよく覚えている。新しい情報ならなおさらだ。  確か二、三ヶ月前だったよな。  組合報の写しを作業台に並べて、睨む。  これ、じゃない。これも、違う。  羊皮紙をめくる乾いた音が続く。  あった。  目当ての組合報を見つけた俺は小さく喉を鳴らしてそれを持ち上げた。  間違いない。  こんな事が組合報に載ること自体珍しいため何となく覚えていたのだ。  それはある武器屋の店主が載せた殺人に関する謝罪文だった。  殺したのは武器屋の息子。そして殺されたのは……、 「お兄ちゃん」  反射的に顔を上げ、工房の入り口に目をやる。 「お客さん」  少し戸惑うように言って、クレアは自分の後ろに立つ女性を見上げた。  店は閉まっている。勝手口から入ってきたのだろう。  女性は少しの間満月のような瞳で俺を見つめてから、深く頭を下げた。 「昨夜は、どうも」  それ以上言うべき言葉が見つからなかったのだろう。女性はそこで口をつぐんでしまう。  俺は逡巡し、クレアに視線を向けた。 「クレア、仕事の話だから」 「うん」  肯いたものの、それでも何か気になるような表情を残してクレアは立ち去る。  のけ者にしているみたいで気が重いが、子供に聞かせたくない内容の話になる可能性だって十分にあった。 「中、入りなよ」  入り口で立ち尽くす女性に声をかける。  女性は氷の橋でも進むような足取りで一歩、二歩と前に出ると後ろ手に扉を閉じた。 「どうぞ。汚いところだけど」  笑いながら椅子を勧める。  女性は気を付けていなければ聞き取れないほどの小さな声で、はい、と言って椅子に腰掛ける。  作業台を挟んで女性の向かい側に座った俺は改めて彼女……ガルドの奥さんの顔を見つめた。  笑えばかわいいのに。  そう思ってみるものの、当然のことながらガルドの奥さんは笑ってくれなかった。  とてもそんな気分じゃないだろう。 「忘れてた。お茶くらい出さなきゃな」 「あの、結構です。お話を」  立ち上がろうとした俺を手を挙げて制し、ガルドの奥さんが一つ肯く。  椅子に座りなおした俺は作業台の上で腕を組んで彼女の言葉を待った。  だが昨夜と同じくガルドの奥さんは黙ったままだ。  言うべき事は決まっているが、どうしても口が開かない。そんな印象を受けた。 「名前、聞いてもいい?」  とにかく口を開かせないとどうしようもないと思った俺はそこから始めることにした。 「すみません。あの、サラ・アルベールです」 「俺は」  と名乗ろうとしたところでサラ……さん(未来のとはいえ、さすがに友人の奥さんを呼び捨てにはできない)が顔を上げた。 「リードさん、ですよね。あの人からよく聞いてます」  どう聞いてるのか興味があったが掘り下げるのはやめておく。  どんな顔して聞けばいいってんだ、そんな話。 「そう、ですか」  とだけ言って作業台の木目をなぞる。  自然と口調も変わっていた。  沈黙が続く。  サラさんはうつむいたまま顔を上げない。一方、俺もうつむきこそしていないが口は開けないでいた。  訊きたい事は山ほどある。だが、何を言うべきなのか、考えあぐねていた。 「正直、驚きました」  今さら意味の無い言葉を発する。 「すみません。どうしても、言えなくて」  サラさんの声は微かに震えていた。親に怒られる子供を見ているようだ。  もちろん俺に彼女を責める気持ちなどこれっぽっちもない。  今のところ、という条件付ではあるが。  ガルドの前に現れることができない理由が何かあるはずだ。  責めるのはそれを聞いた後でも遅くない。  俺は作業台の上で組んでいた腕を組替え、少しだけ身を乗り出した。  大きく肩を震わせたサラさんがきつく目を閉じる。これでは罪人を問い詰める刑務官だ。  仕方なく背もたれに背を預け、組んでいた腕をほどく。 「質問した方がいいですか?」  その方が話しやすいかなと思ったのだ。  あれを言おうこれを言おうとサラさんの頭の中では無数の言葉が隼のごとく飛び回っているのだろう。  だからその中から一羽指定してやろうと、こういうわけだ。  サラさんは無言で肯くと、やっと顔を上げてくれた。  よく見れば彼女の目の下にはクマができていた。目も赤く腫れている。  ただ意味も無くガルドを待たせているわけではないことは確かなようだ。 「どうして先に俺の所に来たんですか?」  昨日、サラさんがウチに来た時のことを思い出しながら訊く。  あのときサラさんはガルドと入れ替わるようにやって来た。  いや、ガルドが出て行くのを確認してから来た、と言った方がいいだろう。  さらに言えばガルドが出て行って、もう戻ってこないだろう、というタイミングですらあった。  そこまでしてガルドではなく俺に会いたかった理由は何だろう。 「相談が、ありました」 「俺に?」  月色の瞳が無言で肯定する。 「だって、あの時が初対面だし」  戸惑う俺にサラさんは首を横に振った。 「私とは初対面でも、リードさんはあの人の友人ですから」  そりゃ確かにガルドとは十六の時からの付き合いになるし、多少はあいつの事も知っている。  だが多少はしょせん多少でしかない。  実際、ガルドが旅商人であるがゆえに会うのは三ヶ月に一度くらいなのだ。下手すれば今回のように半年振りの出会いになることだってある。 「リードさんの所が一番居心地がいいって言ってました」 「はぁ」  と気のない返事をしながらも、少しは嬉しかった。ただおおっぴらに喜びを表現するには微妙だ。  師匠にでも認められたんなら拳を握って叫び、喜べばいい。  が、友人の自分に対する好評価。これほど反応に困るものは無い。  要するに照れくさいのだ。特に男同士ってのは互いをあまり誉めないし。黙って相手を肯定することの方が多いと思う。  もっともウチにくれば三食昼寝付きだし、そういう意味で居心地がいいのかもしれないけど。 「ガルドのことで何か知りたいことでも」  結婚前に友人に相談するとしたらそれくらいだろう。生活態度とか過去の女性遍歴とか。 「相談、と言うよりもお願いなんです」 「まぁ、俺にできる事だったら」  言いながら身構える。サラさんの表情からそれが軽いお願いでないことだけは分かった。  細く、長く息を吐いた後でサラさんが発した声は驚くほど小さかった。 「結婚に反対して下さい」  だが、驚くほどよく聞こえた。静寂に包まれた工房の中で、物言わぬ工具たちが震えたような気さえする。 「私は最低の人間です」  もうサラさんの声は震えていなかった。淡々と、そんな事を言う。 「私にあの人と結婚する資格なんて、ないんです」  俺は唇を歪め、一瞬だけ目を閉じた。  続けよう。 「本当にガルドと結婚したくないんだったら自分の意志でしなければいい。でも、そうじゃないんですよね」  サラさんの顔を正面から見つめ、問う。彼女は迷うことなく肯いた。 「このままだと私は……あの人と結婚してしまいます」 「すればいいじゃないですか」 「できません!」  音が喉を掻き、口から血を吐くような声をサラさんが出す。悲痛、だった。 「だって、私……私は」  きつく目を閉じ、肩を震わせるサラさん。作業台の下に隠れた拳は握り締められているのだろうか。  工房の低い天井を見上げた俺は逡巡し、口を開いた。 「理由は分かりません。でも、サラさんの気持ちは分かりました」  息を吐いて言葉を切る。 「あいつがどんな顔して結婚するって俺に言ったか想像できますか」  答えは返ってこない。サラさんは口をわずかに開けたまま俺の顔を見ている。 「俺はあいつのあんな顔見たことがありません。本当にいい顔してた。俺は、そんなあいつに『あの女は最低だから結婚するな』って言わなきゃならないんですか」  やはり答えは返ってこない。吹く風に工房の小さな窓がかたかたと鳴った。  重たい沈黙がのしかかる。空気に色があるとすれば間違いなく鉛色だ。  ゆっくりと胸の奥で五つ数え、問う。 「ガルドのこと、好きですか?」  途端、サラさんの目から大粒の涙がこぼれた。ガラス細工みたいな雫が頬から顎、作業台の陰へと落ちていく。 「大好きです」  嗚咽混じりではあるがサラさんは確かにそう言った。  少しだけ安心した俺は表情を緩め、身を乗り出す。 「だったらそんな事やめましょうよ。どんな理由があるのかは知りませんけど、正直に話せば意外とあっさり受け入れてもらえるかもしれませんよ。そういう奴だし、あいつ」 「でも」 「本当は、恐いんじゃないですか」  唇を引き結んだサラさんが涙に濡れた瞳をこちらに向ける。 「あいつに拒絶される事が恐くて、自分から逃げようとしてませんか」  サラさんはそれこそ逃げるように視線を逸らしてしまった。 「確かに逃げれば傷付かずに済むかもしれません。でも、悲しいですよね。泣きながらあいつの事を大好きだと言える気持ちがあるのなら、あいつを信じてやって下さい」  友人として、願う。 「わっ、わた、し……」  震える口でサラさんが答えようとする。だが言葉にならない。  彼女はもどかしそうに頭振って、何度も口を開こうとした。それでも何かに蓋をされたように声が出てこない。 「落ち着いてください。今すぐ結論を出せなんて言いませんから」  笑みを浮べて言う。 「そうだ。今晩少し付き合ってもらえませんか。もしかしたらサラさんにとって何かのきっかけになるかもしれない」  ね、と駄目押しするとサラさんは戸惑いつつも「はい」と言ってくれた。  サラさんから宿の名を聞いた俺は「やっぱりお茶くらい出さないと」と席を立つ。 「あの、本当に」  と遠慮する彼女を「まぁまぁ」となだめ、工房から出る。  冷たい外気を胸一杯に吸い込んだ俺はゆっくりと吐きだした。体の換気だ。  時刻は空が赤く染まり始める頃。 「フィーナ、いるか」 「はい」  声のした方に頭を向ける。フィーナは工房の屋根に腰掛けていた。高いところが好きなんだろうか。 「今晩待ち合わせをしよう。あの山の中腹に小さな泉がある。そこに日付が変わる時間に行くから」  言いながら近くの山を指差す。「ミルスの旧坑道」があるのと同じ山だ。泉の方がふもとに近い。  泉、の一言にフィーナの顔が一瞬固まる。だがすぐに普段の表情を取り戻すとゆっくり肯いて、掻き消されるようにいなくなってしまった。  まぁ、見えなくなっただけで実際はいるんだろうけど。  腰に手を当てた俺は工房の屋根を見上げ、喉を鳴らした。  実際どうなるのか分からない。だがやらなければどうにもならない。 「よし」  己を鼓舞するように強く短く吐き出し、俺は母屋へ足を向けた。  寒かった。  吐く息は白く、つま先が寒さに痛む。  手袋をして来ればよかったと後悔してみるがもう遅い。  今さら登ってきた獣道を引き返す気にはならなかった。  肩越しに振り返り、サラさんが付いてきていることを確認してから前に進む。  草を踏みしめる二つの足音。時折そこに梟の声が混じる。  顔にかかる木の枝を手で払い、俺は空を見上げた。  覆い被さるような葉の隙間から冷たい月光が差し込んでいる。  目を細めた俺は腰に手をやった。そこにはフィーナが取り憑いている短剣が提がっている。  指で短剣の柄を撫で、俺はサラさんに笑いかけた。 「寒いですね」 「私は暑いくらいです」  俺に追いついたサラさんが額に手をやる。見ればうっすらと汗が滲んでいた。  確かに結構な山道だし、女性にはきつかったのかもしれない。 「すみません。もう少しですから」  頭を下げて一歩踏み出す。  それから歩くこと五分ほど、最後の枝を払った俺の前に現れたのは小さな泉、そしてフィーナだった。  透き通った泉は夜の闇と空を吸い込み、ただ静かにそこにあった。  その前に佇むフィーナが寂しげに微笑む。  踏み込んではならない世界に踏み込んでしまったような、そんな気分になる。 「間に合いませんでしたね」  時刻のことを言っているのだろう。 「悪いけど、始めから間に合うように来るつもりはなかった」 「あのリードさん、何を」  隣でサラさんが戸惑い、というよりも焦りの声をあげる。サラさんにはフィーナが見えていないのだ。  ならば気が狂ったと思われても仕方がない。 「フィーナ。彼女にも姿を見せてやってくれ」  俺の目から見れば何も変わっていない。  だが口に手を当て、目を見開いたサラさんの表情から察するに彼女の視界には変化があったようだ。 「あ、あの」 「フィーナ。幽霊です」  短く説明し、俺は腰に提げた短剣を抜き去る。  これで……準備は整った。  短剣を左手にぶら下げ、ゆっくりとフィーナに歩み寄る。  あとずさるフィーナ。彼女ははっきりと恐怖していた。俺を見つめる瞳からは絶望の色さえ感じられる。  俺は黙したまま歩を進め、フィーナの前に立った。追い詰めるかのように。  表情を歪めたフィーナが唇を震わせる。 「嘘」 「現実だ」  俺は振り上げた短剣をフィーナの胸に深く、突き立てた。  11  フィーナは幽霊だ。  だが彼女の胸に短剣を突き立てた瞬間、俺の手には確かな肉の感触が伝わってきた。  フィーナの、あるはずのない鼓動に呼応するように手にした短剣が脈打つ。  その感触を歯を食いしばって受け止め、俺は刃をさらに深く押し進めた。 「こふっ」  くぐもった咳音。フィーナが口から吐いた血はやはり透けていた。  だが確かな存在感をもって俺の服に散る。 「リードさん」 「大丈夫」  背後で泣きそうな声を出すサラさんに向かって言い、俺は短剣をフィーナの胸から引き抜いた。  剣先から滴り落ちた血が地面に吸い込まれるように消えていく。  あの鉄くさい匂いはしていない。が、鼻ではなく心が血の匂いを感じ取っていた。  濃く、粘っている。 「違う」  自分の胸を押さえ、赤く染まった手をフィーナは呆然と見つめている。  いや、見えているんだろうか。明らかに目の焦点は定まっていなかった。 「違う」  もう一度同じ声で呟き、フィーナが顔を上げる。  彼女は微かに笑っていた。 「違わない」  俺はフィーナの顔を正面から見据え、言い切る。逃避の証しである笑みを掻き消すように。  顔を歪めたフィーナが首を横に振る。 「違う……違うっ!」 「違わないっ!」  俺は腹の底から声を張り上げた。逃げるな。そんな思いを込めて。  数羽の鳥が木々から飛び立ち、葉を揺らす。 「自分の姿を見てみろ!」  手を広げ、己の姿を見たフィーナは目を見開いて後ずさった。  彼女が着ていた古めかしい若草色のドレスは、いつの間にか普通の村娘が着る質素な衣装へと変わっている。 「目を覚ませ。ごまかすな。君はニースリールの姫じゃないっ!」 「違うっ!」  頭を抱えるようにしてかきむしり、フィーナは地面にうずくまった。  ただひたすら違う、違う、と何かを呪うような声で言いながら。  俺は膝を折り、目の高さをフィーナと一緒にした。  できればここまで追い詰めたくはなかった。  だがこうでもしなければフィーナは本当に八百年、いやそれ以上に長い年月をさ迷い続けることになる。 「フィーナ」  一度唇を噛み、俺は呼びかけた。  赤黒い血で金髪を汚したフィーナの姿に、正直逃げ出したくなる。  手で顔に触れたときに付いたのだろう。  こちらに向けられた彼女の顔には幾筋もの血の線が、まるで傷跡の様に引かれていた。 「君はウチにある武器を好きだと言ったよな」  口を半開きにしたままフィーナが肯く。肉食獣に怯える小動物のような瞳が見ていて辛かった。 「もし君が本当にニースリールの姫なら、それはあり得ないんだ」  フィーナの表情がわずかに変化する。分からない。そんな色が瞳に差した。 「ニースリールがなぜ滅んだか分かるかい?」 「隣国であるルーヴェリアに、攻め込まれて」  血に汚れた唇を動かし、喘ぐようにフィーナが答える。  震えるフィーナの声を受け止めて肯き、俺は続けた。 「じゃあもう一つ。なぜニースリールはルーヴェリアに勝てなかったのか」  フィーナは答えない。いや、答えられないと言った方が正しいだろう。  視線をさ迷わせ必死に考えているのだろうが、考えて分かる事ではない。  それでも彼女は必死に考えている。  答えなければフィーナ・ハイクラインである自分が否定されてしまう事だけは分かっているのだろう。  一秒毎にフィーナの焦りが深くなっていくのが手にとるように分かる。  地面についた彼女の手は小刻みに震えていた。  これ以上は俺の方が耐えられそうにない。答えられないと分かっていてする質問、即ち回答者を追い詰めるための質問というのはしていて気持ちのいいもではなかった。  時間切れだ。  頬を人差し指で掻き、俺は口を開いた。 「今から約八百年前、ある『革命』が起こった」  冷たい風が辺りの木々を静かに揺らす。 「といっても民衆が蜂起したとかそういう事じゃなくて、比喩表現としての、だけど」  肩越しに背後を振り返る。サラさんは黙ってそこに立っていた。  戸惑いつつも状況を見極めようとしているようだ。  一度目を閉じ、フィーナの方に向き直る。 「武器というものに対する革命……鉄器の登場だ」  これが答えだった。  だがフィーナからの反応は無い。変わらず泣きそうな顔で俺を見つめている。  説明がいるか。 「武器の歴史ってのは材質の歴史でもある。木や石に始り、銅、銅と他の物質の合金である青銅、鉄、そして鉄と他の物質の合金である鋼。素材が武器の良し悪しを決めると言っても過言じゃない。今だとフェンタイト鋼やガルバール鋼が有名だ」  ちなみにどちらとも製法は門外不出である。  当たり前だ。長い年月と血の滲むような研究を重ねてやっとできあがった最高の素材なのだから。  この二つの鋼を使って作られた武器はかなりの値で取引されている。  もちろん値段に見合うだけの性能も備えてはいるが。 「話を八百年前に戻そう。なぜニースリールはルーヴェリアに勝てなかったのか」  単純な話だ。 「ニースリールでは銅は採れても鉄はほとんど採れなかった。そのうえ精製技術の面でもルーヴェリアに大きく遅れていた」 「あ……」  フィーナが短く、小さく声を出す。  彼女にも分かったようだ。 「同じ実力の剣士がいたとして、一方は鉄の剣の鉄の鎧。一方は青銅の剣に青銅の鎧。どちらが有利かは言わなくても分かると思う。当時、鉄とは即ち力だったんだ」  地面に置かれたフィーナの指がいびつに曲がる。彼女が幽霊でなければ土がえぐれていたことだろう。 「ニースリールの姫にとって鉄や鋼の白刃は自分の国を滅ぼした憎むべき存在だ。でも、君はそれを好きだと言った」  呻き声とも嗚咽ともつかない音をあげ、フィーナは崩れ落ちた。土下座でもするように額を地面につけ、体を震わせる。 「ニースリールの姫なら白刃を見ながらあんなに幸せそうな顔はしない。でも、君が武器を好きなことまでは否定しない」  乾いた喉に唾を流し込み、俺は低く強い声を出した。 「顔を上げるんだ、フィーナ・ルシェール」  それが彼女の本当の名だ。  フィーナ・ハイクラインではないし、ましてやニースリール最後の姫でもない。  フィーナ・ルシェール。  町娘だ。恋人に殺されてしまった。  顔を上げたフィーナが唇を噛み、俺を睨み付ける。心の傷に触れた俺への明らかな憎しみがそこにはあった。  どす黒い視線はそのままにフィーナがゆっくりと立ち上がる。  俺も彼女の目を見つめたまま折っていた膝を伸ばした。瞬きさえできない。そんな短い時間でもフィーナを視界から消してしまえば、彼女を傷つけただけで全てが終ってしまうような気がしていた。  自分のしている事に完全な自信なんて無い。でも少しでも自信があるのなら逃げては駄目だ。  立ち上がってもなお睨み合いは続く。  拳を握り締め、俺は一歩踏み出した。フィーナの顔が目前に迫る。 「そうよ」  涙声だった。 「私はお姫様なんかじゃない」  おかしいでしょ、笑いなさいよ。そう言わんばかりの笑みをフィーナは浮べる。 「恋人に裏切られて、殺されたただのバカ女よ!」  大きく腕を振り、叫ぶフィーナ。上気した頬の上を涙が一筋流れる。  俺は奥歯を噛み締め、彼女を見つめ続けた。 「恋人ですらなかった。当たり前よね、彼は老舗の武器屋の息子で、私は寒村から売られてきた貧しい田舎者。それなのに勘違いして。結婚しよう、なんて本気で言ってもらえるわけないのに」  ううん、と何かを振り払うようにフィーナが頭を振る。 「私だって彼と結婚できるなんて思ってなかった。だからおなかに彼の子供がいるって分かった時、一人で育てよう、って」  言葉に詰まったフィーナがしゃくりあげる。細い肩が大きく震え、同時に背後で、ざっ、という地面をこする音がした。  サラさんが一歩下がったのだ。盗み見たその顔が月明かりのせいか異様に白く見える。 「迷惑をかけるつもりなんてなかった。ただ子供の存在を知ってもらいたかった。それだけなのに」  とうとうフィーナは言葉も継げないほどに泣き出した。心に淀む黒いものを押し流すように涙を流し、胸に溜まったモヤを吹き晴らすように声をあげる。  唇を噛み、握っていた拳を開いた俺はフィーナの頭と背に手を回した。  もちろん触れることはできない。  それでも思いは伝わったのかフィーナは俺の胸に顔をうずめて泣き続けた。  こんなときまで意気地なしでいなくたっていい。  彼女の涙が俺の服に染み込むことはない。もう消えているとはいえ、血は服に散ったのに。  思いの強さの差だろうか。それが悲しい。  フィーナがおなかに子供がいることを男に告げた日の夜、泉のほとりに呼び出された彼女は胸を短剣で突かれて殺された。  もちろんそんなこと組合報には出ていない。だが同じ業界で起こった事件、どうしても情報は回ってくる。  フィーナを殺した男には縁談が持ち上がっていた。相手は名のある工房の一人娘。  邪魔。  たったそれだけの理由でフィーナは殺された。  結局男は捕らえられ、今ごろは監獄の冷たい床の上で眠りについているのだろう。  だからといってフィーナが浮かばれるわけじゃない。  現にフィーナはここにいて、泣いている。 「思い上がるな。お前とは、体、だけの関係だって」  途切れ途切れに言われたその台詞に、俺は喉の奥からかすれた呻き声を漏らした。  なぜそんな事を言えるんだろうか。  その言葉がどれだけ人を傷つけるか分からないほど馬鹿だったとしか言い様がない。  しかもそれを女性と別れるときの決め台詞にしていたという話さえ聞いている。  老舗の武器屋の一人息子。持っているのは金だけだと、専らの噂だった。  でも、それでもなおフィーナは……。 「忘れられない、か」  俺の胸に額を押し当てたまま、フィーナが肯く。  彼女が俺の前に姿を現したのも今になって思えば「女性に縁がなさそうだから」なんてわけの分からない理由のせいじゃなくて、俺が武器屋だったからだ。  自分が好きな男と同じ匂いを俺から、そして店から感じたんだろう。  その匂いに惹かれて彼女は出てきた。フィーナ・ハイクラインだと自分を偽って。  ただ、俺はフィーナが嘘をついていたとは思っていない。  フィーナは愛する男に殺された自分を受け入れられなかった。だからどこかで聞いたことがあったフィーナ・ハイクラインの物語に、自分と同じ名を持つ姫の物語に自分を埋め込み、虚構のフィーナを作り上げたのだ。  フィーナはニースリール最後の姫を演じていたわけじゃない。  本気でそう思い込んでいたんだと思う。そうでもしなければ耐えられなかったのだろう。  だからフィーナの言う呪いの正体ってのは、彼女の心の殻なんだと思う。  殻を破りたいフィーナが俺に呪いを解いて欲しいと言い、虚構のフィーナ・ハイクラインでいたいと願うフィーナがそれを邪魔する。  本人も分からない位に混ざり合った二人のフィーナが起こしていた心の揺らぎだ。  もしフィーナが自分を殺した男を心の底から憎んでしまえればこんな事にはならなかったのだろう。  憎しみで全てを塗りつぶしてしまえれば苦しむこともなかった。  でもフィーナの心には何かの欠片が残っていた。  それを愛と呼ぶのなら、随分と罪作りなものだ。 「どうしようか」  フィーナの髪に沿って手を動かしながら、問う。  血は洗い流されたようにきれいに消えていた。 「分かりません」  子供がいやいやをするようにフィーナが頭を振る。少し落ち着いたのか口調が元に戻っていた。 「困ったな。俺にも分からない」  笑う俺にフィーナが顔を上げる。泣いている彼女は随分と幼く、心細げに見えた。 「そんな顔するなって。みんなで考えよう。一人より二人、二人より三人だ」  な、とフィーナに言って俺はサラさんに視線を向けた。  不意に注視されたせいかサラさんの表情が固まる。いや、それだけが理由ではないようだ。 「どうすればいいと思います?」 「そんなの、私にだって」  おなかの上で指を組んだサラさんはそう言っただけで顔を伏せてしまった。  細く息を吐き、目を閉じる。  俺の予想は多分間違ってないと思う。  目を開いたとき、サラさんはこちらを伺うような視線を投げかけていた。  彼女の予想も間違っていない。即ち、俺が何かに気付いたという予想だ。  乾く喉を押し広げ、言う。 「子供、いますよね」  大きな反応はなかった。だがサラさんの手は確実に震えている。  フィーナの視線が幾度となく俺とサラさんの間を行き来した。  誰も何も言わない。だが沈黙が全てを肯定していた。 「どうして、ですか」  細くかすれたサラさんの声。 「白状すれば勘です。フィーナの話を聞いて凄い顔してたから」  あれは自分に関係ない話を聞いている顔じゃなかった。 「ガルドと結婚できない理由。何か事件を起こして逃げてるようには見えなかったし、それが一番可能性が高いかなと思って」  子供の父親が誰なのかは分からない。ただ確かなのはガルドではないという事だけだ。  一度唇を引き結んだサラさんは呟くように話し出した。 「私も……彼女と同じなんです」  フィーナを見つめるサラさんの瞳には憐憫、同情、共感と幾種もの色が広がっていた。 「いえ、私はまだ良かった。捨てられただけですから」  まだ良かった。そう言いながらもサラさんの目は潤んでいた。当たり前だ。サラさんにはサラさんの苦しみがある。  だがフィーナの前ではそう言うしかないのだろう。 「そのときガルドと?」  とうとうこぼれ落ちた涙を人差し指ですくい、サラさんは笑った。  その笑顔に小さな針が胸の奥に刺さったような気分になる。  なぜ彼女がこんな笑い方をしなければならないんだ。 「あの人ったらおかしんですよ。だって、出会ってから十日で結婚しようって言うんだもの。もっと時間をかけなきゃ駄目なのに。あまり女性と付き合った経験がないんでしょうね、きっと」  揺れる声で言いながらサラさんは涙の数を増やしていった。 「でも、不器用だけど凄く嬉しかった」  大切なものをぎゅっと抱きしめるような響きがそこにはあった。  思い込んだら一直線なところがあるからな、あいつ。  今も同じ空の下サラさんを待っているであろうガルドの顔を思い浮かべる。 「なのに、私はあの人を裏切って……」 「それはまだ分からないでしょ。問題はあいつが裏切られたと感じるかどうか、だと思いますけど」 「だって、こんな、こんなのって」  おなかの上の服を握り締めたサラさんが唇を噛む。  俺だったらどうするだろうか。  愛する女性のおなかに別の男の子供がいる。まず驚くだろう。驚いて、どうしよう。  そうだ、悩まなきゃいけない。  悩んで悩んで朝も昼も晩も悩んで、結局「どうしよう」って呟くような気がする。 「リードさん」  すがるような目でこちらを見るサラさんに俺は無言で首を横に振った。  俺だったらこうする「だろう」なんて無責任な答えにどれだけの意味があるってんだ。  だから一番確かなものだけを拾い上げよう。 「サラさんはガルドのことを思い、ガルドはサラさんのことを思っている。それだけは間違いないんです」  一人は冷たい風の吹く中で待ちつづけ、一人は「彼を裏切ってしまった」と泣いている。 「人を信じるって大変なことだと思います。特に一度裏切られたりすると」  フィーナ、サラさん、二人に向かって言う。 「商売柄、取引なんかで人を信じなきゃいけない場面が結構あって、もちろん俺も裏切られた事があります。そのせいで店を潰しかけたこともあったし」  高い授業料だったと最近やっと思え始めた出来事だ。 「それでも俺は人を信じなきゃならない。そうしないと商売できないし、生きていけないから」  二人は黙って俺の話を聞いている。少しだけでいいから分かって欲しい。 「でも裏切られればやっぱり辛いし悔しい。もう二度と他人なんか信じるか、って気持ちにもなる」  俺は口元を軽く緩め、言葉を継いだ。 「だから自分で背負う事にしたんです。あいつを信じた俺がバカだった、って」  同時に見開かれた二人の女性の目に笑みがこぼれる。タイミングばっちりだ。 「別にいじけてるわけじゃなくて、自分をバカだと自覚して、じゃあどうしたらバカじゃなくなるかって事を考えれば少しは成長できると思うし」  フィーナとサラさんは互いに顔を見合わせ、何か言いたげな表情で俺を見る。  人間はそんなに強くない、か。 「もちろん心の底からそう思えるわけじゃない。しこりは残るさ。でも、辛いだろ。信じた人に裏切られたことをいつまでも心に残しておくのって。そこには必ず憎しみがついて回るし。だから、少しでも自分が成長するための糧にしてしまった方が楽じゃないかなと思ってさ」  空を見上げ、息を吐く。白いもやが夜空に溶けた。 「それに、俺たちはもう子供じゃないんだ。信用と裏切りは表裏一体、そのリスクは背負わなきゃならない。つまり、信じると決断した自分の責任ってやつだ」  視線を元に戻し、乾いた唇を舐める。 「人が何かを無条件に信じていいのは子供が親を信じるときだけさ」  俺という人間に関して言えば、クレアが俺を信じるときだけ。そして俺には保護者としてクレアに「無条件に信じさせてやる」義務がある。  三人とも何も言わなかった。いや、俺は言えなかった。  これ以上俺に言えることはない。あとは二人が何を思いどう結論を出すか、だ。  長い沈黙の後で最初に動いたのはフィーナだった。  俺の腕の中から一歩下がったフィーナは一度うつむき、 「少し、一人にして下さい」  やや固い声でそう言った。 「短剣は俺が持ってる。落ち着いたら戻るといい」 「はい」  返事をし、サラさんにむかって頭を下げたフィーナは風と共に消えてしまった。  改めてフィーナが幽霊だという事実を目の当たりにしたサラさんが口を微かに開ける。  ちょっと感覚が麻痺してたけど普通だよな、これが。  笑いながらつま先で地面を蹴る。 「で、どうしますか?」  訊く俺にサラさんの表情が引き締まった。  彼女の中で何かが決まったのだろうか。 「私は……」  背を押すような風が一陣、舞った。  夜の町は相変わらず静かだ。  いるのはどこかで鳴いている野良犬と、ベンチに一人座っているガルドくらいか。  俺とサラさんは中央広場の入り口で立ち止まり、待ち人を見ていた。  ガルドは身じろぎ一つせず、じっと自分のつま先を睨んでいる。  あいつは今、何を考えてるんだろうか。 「さあ」  短く言い、サラさんの背中を押す。  彼女がガルドに会って全てを話せるかどうかはまだ分からない。だが少なくもガルドに会うという決断だけは下してくれた。 「あの、リードさんは」 「俺はここまで。こんな時間にサラさんと一緒にいたことがガルドにバレたらどろどろの愛憎劇になるから」  と笑ってみるがサラさんの緊張はほぐれなかったようだ。  当然といえば当然なのだが。 「サラさん、ここからはあなたの領域です。あなたが考え、行動し、責任を負い、結論を出す」 「はい」  ゆっくりと、でもしっかりとサラさんが肯く。 「陳腐な言葉だけど……幸運を」 「ありがとうございます」  深く、長く頭を下げたサラさんが顔を上げたとき、その目に小さな力が宿っているような気がした。  足を前に向けようと決断できた人間の力だ。  人間は強くない。でも、そんな言葉に甘えちゃいけない。強くなくたって、強くあろうとする事はできるはずだ。 「行ってきますね」 「はい」  俺に背を向けたサラさんが大切な人に向かって歩き出す。  サラさんの鼓動は沈黙した夜の町を揺らさんばかりに強く、激しいことだろう。  共鳴するかのように俺の鼓動も強くなる。握った拳には汗が滲んでいた。  随分と長い間息を殺してサラさんを見ていたような気がする。それだけの時間をかけてサラさんはガルドの傍に辿り着いた。  ガルドがゆっくりと顔を上げる。  サラさんが小さく肯く。  そこまで見届けた俺は微笑して中央広場に背を向けた。  もう大丈夫だ。  脇役が退場するにはいい頃合だろう。  空を見上げ、家に向かって歩き出す。  中央広場を通らず家に戻るには結構な遠回りをしなければならない。だが何も問題はなかった。  散歩を楽しむには月も星も気分も悪くない夜なのだから。  エピローグ〜プロローグ  昼下がり、俺とガルド、クレアとサラさんの四人は店の前にいた。  結局ガルドとサラさんは明け方前に帰ってきたのだが、そのまま昼過ぎまで熟睡し、起きたと思ったらもう出発すると言うのだ。  あのなぁ、と愚痴る俺にガルドは「すまん。仕事がもう一件あるのを忘れてた」と手を合わせた。  四人で食事くらいはしたかったのに。  そんな俺以上にクレアはもっと不満そうだった。  ガルドがほとんどウチにいなかったため、まともに「語り」を聞けなかったからだ。しかも初日の「語り」が途中で打ち切られているのだからたまったもんじゃない。  本を読んでいたら「オチ」のところだけページがなかった、みたいなものだ。 「すまん。今度来たときには徹夜で語ろう」 「絶対だよ」  クレアが差し出した小指に背を曲げて太い小指を絡めるガルド。 「あーあ、おじちゃんとお姉ちゃんの恋話も聞きたかったのに」 「ごめんね」  謝りながらサラさんは笑っていた。クレアがガルドのことを普通に「おじちゃん」と呼ぶのがおかしいらしい。 「今度は女同士じっくり話そ」 「うん、約束」  返事をしながらクレアと指きりするサラさんにガルドは目を細めていた。娘を見つめる親父にしか見えないが、気持ちの本質に変わりはない。  大切なものをいとおしく思う気持ちだ。  しかし女同士って、まだお前は七歳だろうに。  クレアを見ながら口を歪める。 「なぁ」  小さく、固いガルドの声。 「その、サラから聞いたんだが」 「全部か?」  俺の質問にガルドは一瞬固まったが、すぐに首を横に振った。 「いや、ただ……お前には迷惑をかけたようだ」  まだ全てを話せてはいない、か。  何やらクレアと話し込んでいるサラさんを見やる。  もう少し心の準備が必要なのだろう。サラさんにはサラさんの歩く速さがある。俺がどうこう言えることではない。  言えるのはただ一人、ガルドだけだ。 「サラさんが何を悩んでるのか俺は知ってる。でも」 「分かっている。サラの口から聞かなければ意味がない」 「待つのか?」  俺の問いにガルドは微笑すると言い切った。 「待つさ。いつまでだって」  そうか、と俺は一つ肯きガルドに向かって拳を突き出した。  俺の拳に拳で触れ、ガルドも大きく肯く。 「幸運を」 「あぁ、ありがとう。本当に世話になった」 「今度の卸値は半額だな」 「そこまでは世話になってない。せいぜい八割五分だ」  きっぱりと言うガルドに俺は苦笑いし、言った本人は目を細めて髭を撫でる。  骨の髄まで商人だね、ったく。  と、 「リードさん!」  いきなり頭上からした声に俺は空を見上げた。  そんな所から声をかけられる知り合いなど一人しかいない。頭の上にいたのは予想通りフィーナだった。  昨夜姿を消してからずっと見なかったんで気になってたんだが。声の大きさや表情から察するに調子は悪くないようだ。 「どうした?」  不思議そうな顔をするガルドに「ちょっと」とごまかしの笑みを浮べ、俺は店に引っ込んだ。  今フィーナの姿が見えているのは俺だけらしい。サラさんも反応しなかったし。 「リードさん、私、決めました」 「何を」  壁際にいるフィーナに向かって返事をする。他人から見れば展示してある武器を相手に喋っている怪しい男の出来上がりだ。  それよりも随分と明るいが彼女の中で何か変化があったんだろうか。 「サラさんとガルドさんに付いて行きます」 「は?」  反射的に声をあげてしまう。さすがにそこまでは予想してなかった。 「だって気になりませんか、二人の行く末」 「そりゃなるけど」 「ですよね。だからこの目で見たいんです」  笑みを納めたフィーナの目が真剣なものへと変化する。 「サラさんが、ガルドさんがどうなるのか、そのとき私が何を思うのか、知りたいんです」  そこで言葉を切ったフィーナは何かを考えるように間を置いた。  しばし視線をさ迷わせ、最後に一つ肯く。 「昨日からずっとリードさんに言われた事を考えてました。でも、よく分からなかったし納得もできなかったんです。だから私に必要なのは考えることよりも経験なのかなって」  フィーナの言葉に俺は吹き出した。 「おかしいですか」 「いや、嬉しいんだ」  自分の言葉によって人の中の何かが変わる。それも悪くない方向にだ。  近くに人がいなければ遠慮なく大笑いしていたことだろう。だが残念ながらそれはできない。  武器を前にそんなことしてたら警備の人に通報されてしまう。  鉄格子のついた病院は勘弁して欲しかった。 「だから短剣を」  あぁ、そうか。  俺はカウンターの引出しからフィーナがとり憑いている短剣を取り出し、店から表に出た。 「何をしてたんだ?」  というガルドの疑問と共に六つの瞳が俺に向けられた。 「悪い悪い。お前に幸運のお守りをやろうと思って」  苦笑しながら手にした短剣を差し出す。  俺を見つめるガルドの眉間にはかなり深い皺が寄っていた。  まぁ、気持ちは分からないでもない。  サラさんも不思議そうな顔をしていた。俺が昨夜持っていた短剣と同じ物だとは認識できていないようだ。 「いいから黙って持っていけ。そして常に肌身離さず持ってろ。精霊鍛冶師リード・アークライトがありがたい精霊の力を注入しといたから」 「どこかで聞いたような話だね」  クレアの突っ込みをとりあえず無視して短剣をガルドに無理矢理渡す。  ガルドはどうにも納得できないといった顔をしていたが、結局は荷物入れの中に短剣を納めてくれた。  俺だけに見えるフィーナに向かって、にっ、と笑う。  ぽん、と手を打って喜んでくれるフィーナ。こうしてみるとやはりフィーナは綺麗だった。幽霊なのに日の光が似合うってのもおかしな話だが。 「あ」  荷物を手で抱えたガルドが急に少し離れた場所まで走って行ってしまう。  何だ、と思っていると手招きされた。  俺の行動よりさらに意味が分からないガルドの行動に戸惑いつつも、彼のいる所まで走る。  女性二人に背を向ける形でガルドが差し出したのは、あの表紙が赤ワイン色をした大人のための本だった。 「ガルド、お前」  分かっていた、分かっていたさといった風に何度もガルドが肯く。  やはり持つべきものは友だ。  俺とガルドが固い固い男の握手を交わしたことは言うまでもない。 「何してたの?」  不思議そうな、というかあからさまに疑うようなクレアの視線から巧みに本を隠しつつ俺は「仕事の話だ」とあくまで言い張った。  自信が嘘を真実に変える。  こんな場面で使う言葉じゃないような気がするが、まぁいい。 「じゃ、そろそろ行くか」  荷物を背負うガルドにサラさんが寄り添う。こうしてみるとやっぱり親子にしか見えない。これからも旅先で嫌と言うほど間違えられるんだろうな。 「お世話になりました」  深く頭を下げるサラさんに向かって「いや」と首を振る。 「俺は何もしてませんから」  そう、全てはサラさんがこれからするのだ。俺はきっかけにでもなれば、と思って自論をぶってみただけだ。  できるだけ早く彼女の悩みが解消されればいいな、と思う。  今度会う時は二人じゃなくて三人になってればいいのだが。  いや、なってるさ。きっと。 「行こうか」 「はい」  互いの顔を確かめるように見合ったガルドとサラさんがこちらに背を向ける。 「じゃあ、私も行きますね」  地面に降り立ったフィーナが微笑んだ。 「元気でな」  虚空に向かって声をかけているように見えるためか、クレアがとてつもなく変な顔をする。  あとで言い訳できるだろうか。 「ヤドカリ、見られるかな」 「見られるさ。何だってな」  はい、と言ってフィーナは大輪の笑顔を咲かせた。  俺はこの笑顔を見るために睡眠時間を削ってたのかもしれない。  ふとそんなことを思った。 「随分明るくなったな」 「昔の事、少しだけ忘れられるようになったから」 「どうやって?」  訊いた途端、不意打ちされた。  踵を上げて俺の頬にキスをしたフィーナが羽のように宙に舞う。 「少しだけリードさんのこと、考えるようになりました」  フィーナを見上げ、指で頬に触れる。確かな暖かさがそこにはあった。 「また会いましょうね」  笑顔とそんな言葉を残し、青空に溶けるようにしてフィーナは消えてしまった。  形を変えながら流れていく雲に目を細める。  結局問題は何一つ解決しなかった。サラさんは悩みを抱えたままだし、フィーナは相変わらずこの世で迷っている。  自分に何ができたのかは分からない。  ただ、一人の女性からキスはもらえた。それだけの事はしたんだ、と思うことにしよう。十分だろ、それで。 「お兄ちゃん」  そらきた。俺が今考えなければならないのは自分の成果ではなく言い訳だ。  とりあえず精霊と喋ってたとでも……なんて考えたがどうもクレアの様子がおかしい。  ていうか、怒ってる? 「その本見せなさい」  気がつけば、俺は不用意にも発禁本を手でぶら下げていた。  あぁ、俺のばかちん。  しばし考え、俺は逃げた。 「あっ! 待ちなさいっ!」 「勘違いするな、これは仕事で使う本だ!」 「だったら何で逃げるのよ!」 「そういう年頃なんだよ!」  本を頭上に掲げ、飛び跳ねるクレアから逃げる俺。寝不足の体にこの運動はつらい。  と、通行人にぶつかりそうになった俺は慌てて体をひねった。  その拍子に本を落としてしまう。  しまった、と思ったときにはもう遅い。  本を拾ってくれたのは俺がぶつかりそうになった若い女性だった。長く伸ばされた漆黒の髪に同じ色の瞳、装束を見るに旅人らしいがそんな事はどうでもいい。  女性は興味深げに本をぱらぱらとめくってから石像の如く固まっている俺に差し出した。  誰かハンマーを持ってこい。俺をこなごなに叩き壊してくれ。  本気で思った。  あぁ、死にたいって。 「ん、君のではないのか?」 「私がやりました」  がっくりとうな垂れてしまう。 「面会には行くからね」  ノリがいいのは結構だがどこで覚えたそんな言葉。  従妹の将来を心配しつつも本を受け取る。飲もう。今日は飲もう。 「その、訊きたいことがあるのだが」 「何でしょう。俺の性犯罪歴とかですか。前科だけはほんとに」 「いや、そんな事ではなくて、この辺りに武器屋があると聞いたのだが」  武器屋、という単語に枯れていた心の木に小さな芽が出る。  よく見れば女性は背中に布に包まれた長い何かを背負っていた。  槍、か。  俺は黙って店の前まで歩いていき、店内に向かって腕を伸ばした。 「いらっしゃいませ。何をお探しですか」  言って微笑む。  さぁ立ち直れリード・アークライト。お客さんだ。