武器屋リードの営業日誌 プロローグ  木製の雨戸を開け放った俺は店の前で大きく伸びをした。差し込んだ朝日が店内を照らし出し、商品を闇から浮き上がらせる。  短剣、片手剣、片手半剣、両手剣、戦斧に槍、戦槌。  武器の事なら何でもお任せ。きっとあなたに合った一品をお探しします、ってな。  胸中で言って空を見上げる。  薄く、高い青の下を二羽の小鳥が踊るように飛んでいた。  うん、商売日和だ。 「いつも通りだね」  声をかけられ視線を落とせば顔なじみのリンゴ売りの少年だった。 「時間厳守。商売の基本だ」  あらかじめポケットに用意してあったコインを少年に向かって投げる。と同時に真っ赤なリンゴが飛んできた。 「そっちもいつも通りだな」  リンゴを服でこすりながら言う。 「あったりまえさ。商売の基本だよ」  にっ、と笑って見せた少年に苦笑しながらリンゴを齧る。多少、というかかなり酸っぱかったが完全に目は覚めた。  まぁ体に良さそうな味だこと。  顔を皺だらけにした俺を見た少年が篭からもう一つリンゴを投げてよこす。 「そっちは多分甘いよ」 「ありがたいけどもうコインを持ってない」 「お金はいいよ。お得意さんにサービス」  少年はおどけた風に手を広げて見せた。 「悪いな」 「商売の基本だよ。気前のいいお客さんは大事にしないとね」  意味ありげに笑う少年。  そうくるか。ちゃっかりしてやがるなぁ。 「明日からは二個買うよ。気前のいいお客さんだからな」 「毎度あり」  会心の笑みを浮べ、少年は走っていってしまった。  齧りかけのリンゴをもう一度口にする。どこか一箇所ぐらい甘い部分があるんじゃないかと思ったが、その期待はものの見事に裏切られた。顔のパーツが全て真ん中に寄ってしまったような気になる。  キクなぁ。  何はともあれ、開店だ。  1 「おい兄ちゃん。こいつはまったく斬れないが、ここはそういう商売してんのか?」  昼飯時少し前、店にやってきたおっさんはそう言っていきなりカウンターに長剣を放り投げた。  おっさんの顔には見覚えがあった。その長剣、両手用のクレイモアも間違いなくウチで売ったものだ。  しかし「まったく斬れない」ときたか。  見たところおっさんは三十を過ぎた辺り。剣士としては一番油が乗ってる頃なんだが。  俺はおっさんの迫力だけはあるヒゲづらをみやってから、手元の長剣を抜きさった。  光を照り返し、刃が銀色に輝く。刃こぼれや錆などどこにもない。  銘はディアバルト。田舎の余り知られていない刀工の作だが、真面目な仕事が気に入って取引している。  さて。  俺はカウンターから出ると店の隅に置いてある丸太を持ってきて、立てた。  一つ息を吐いて大上段に構える。  俺がクレイモアを振り下ろした瞬間、目の前の丸太は音もなくまっぷたつになっていた。  床で揺れる半円の丸太からおっさんに視線を移し、言う。 「斬れますが」  おっさんはしばらく「信じられない」といった顔で丸太を見つめていたが、やがて咳払いなどしてヒゲを撫でた。 「ああ、その何だ。何かの間違いだったようだな。うむ。そう、あの時はわたしも疲れていたからな」 「ではこちら、問題は無いということで」 「あ、ああ、もちろんだ。使わせてもらう」  俺は長剣を鞘に収め、おっさんに手渡した。 「またのご利用お待ちしています」  商売人特有の笑顔を浮かべる俺に向って、おっさんは軽く手を挙げて出て行った。  その背中が心なしか小さく見えたのは気のせいだろうか。  二度と来ないだろうな、多分。  そんなことを思いながら斬った丸太を抱える。  大上段からの一刀両断なんて実際の戦闘ではほとんど使えない。弱った敵に止めを刺す時くらいだろうか。  だが自分の腕を棚に上げて武器の性能を語るたわけ者にはこれくらいのデモンストレーションが効果的なのだ。  確実に客は減るけど。  先代の親父から店を任されて五年。商売はそこそこ上手くいっている。  そんなわけで「そこそこ」客を選ぶことはできるのだ。  ちなみに親父は俺が二十歳になるとさっさと店を譲り、お袋と一緒に気ままな旅に出てしまった。  一年に一度、開店記念日に帰ってきては酒を飲みながら「そもそも商売とは」と説教をくれる、とんでもない不良中年だ。  その時、耳がおかしくなるんじゃないかってくらいの甲高い音が店内に響いた。それも三度。  いつもの事ながら騒々しい。 「だからそれは止めろって言ったろ」  うんざりしながら振り向いた俺の前、カウンターを挟んで立っていたのは予想通りフライパンとおたまを手にした従妹だった。 「お昼ごはんできたよ、お兄ちゃん」  俺の言った事を聞いてなかったのか、悪びれる様子はまったく無い。  今年で七歳になるこの子はクレア・アークライト。親父の弟夫婦の子で、訳あって俺が預かっていた。  綺麗な銀髪に澄んだ青い瞳。近所のおばちゃん達に「お人形さんみたいね」と言われて可愛がられてはいるが、実際は朝、人の頭をおたまで殴って文字通り叩き起こすような、そんな子だ。  ちなみに俺が叔父さんや親父と同じ黒髪黒瞳なのに、クレアが銀髪青瞳なのは母親の血を濃く引いているからだろう。  俺は小さく息を吐いて入り口に昼休み用の札をかけた。  札には「昼休み中 御用の方はお呼び下さい」と書いてある。 「それで、メニューは?」 「オムレツ。あっ、でも今日はうまく巻けたんだよ」  さすがに五日連続でオムレツは後ろめたいのか、後半はちょっと言い訳っぽかった。  研究熱心なのはいいことではあるんだけど。  でもどうやらうまくいったようだし、オムレツも今日で終わるだろう。 「冷めちゃうよ。早く食べよ」 「そうだな」  言われて店の奥に引っ込もうとした時だった。 「助けて下さい!」  悲鳴といっても差し支えない声と共に、一人の少女が駆け込んでくる。  荒い呼吸に悲壮感すら漂う表情。目には涙さえ浮かべていた。 「お願いします! 表で、表で!」 「クレア、この子を頼む」  表で何が起こっているのかは分からないが、とにかく緊急事態であるらしい。  少女にこれ以上の説明を求めてもまともに喋れないだろう。  俺は店に展示してある薙刀(グレイブ)を手に取り、店を出た。  通りに出た瞬間、複数の怒声が聞こえてくる。現場は目と鼻の先だった。  四人の、いかにも中途半端に人の道踏み外してます、といった顔をした男達が一人の少年を取り囲んでいた。  要するに喧嘩だ。  腹に膝蹴りをくらった少年が地面に倒れる。これ幸いとばかりに蹴る蹴る蹴る。  俺は走りながらグレイブを縦に一回転させ、こちらに背を向けていた男の後頭部を石突で打ち抜いた。  つぶれたカエルみたいな声を上げつつ倒れた男はぴくりとも動かない。  心配はいらない。一応死なないように突いた。  不意打ちだが気にすることはない。四人で一人を袋叩きにしてるんだ。こいつらが悪いに決まっている。  非常に公平な独断と偏見による結論だ。  しかし柄はもう少し硬い方が好みだな。そういえばブルックの槍も割と柄がしなる。最近流行ってるんだろうか。  そんなことを考えているといきなり別の男に胸倉をつかまれた。 「何だよテメェは!」 「ん、武器屋」  答えて振り上げたグレイブの柄が男の股間を強打する。  自分でやっといて何だが音もなく崩れ落ちる男にちょと同情してしまった。一週間は使えないだろうな、多分。  さらに不意打ち気味に打ち出された拳を避け、三人目の脛を払う。  前のめりに倒れた男が喚きながら石畳を転がった。こちらも一週間は歩くのに苦労しそうだ。 「どうする? 残りはあんただけだ」  三人の仲間を戦闘不能にされた男に俺は笑顔を向けた。  男がゆっくりと倒れた仲間を見回し、腰に下げた片手剣に手をかける。  抜く気か。  笑みを消した俺はグレイブを回転させ、刃を男に向けた。 「抜けよ。死にたければな」  男の手が止まる。  精一杯の虚勢か、男は大きく舌打ちして逃げていった。あれしきの脅しで逃げるとは。  まぁ長生きはするタイプだな。  通行人をはね跳ばしながら小さくなっていく男の背中に向かって息を吐く。  それから俺は足元に倒れている少年を抱き起こした。  まだあどけなさが残る顔には大きなあざができており、右のまぶたも腫れている。  腰には似つかわしくないほど立派な両手剣が提がってるが、どうやら抜く間もなく殴られてしまったようだ。 「どうして喧嘩なんて」  他人に因縁をつけるようなタイプではない少年に訊いてみる。 「花売りの少女が、絡まれていたんです」 「正義感が強いのもいいが、勝てない喧嘩ばっかやってるといつか死ぬぞ」  口の端から血を流しつつ、かすれた声で言う少年に肩を貸した俺は店に向って歩き出した。  助けを求めてきた少女とクレアが駆け寄ってくる。少女の目を濡らす涙は安堵によるものだろう。  少女はすぐさま少年の体を支え、ハンカチで口元の血を押さえた。 「すまない、ミア」 「いいえ。ご無事で何よりです、オーフィス様」  いや、ご無事ってほど無事でもないと思うが。しかしこの二人……。  俺は隣を歩いているクレアに目配せした。クレアも何か感じたようだ。真剣な顔でうなずき返してくる。 「お兄ちゃん」 「ああ」 「オムレツ冷めちゃったかな」  ……クレア、お前は悪くない。お前に期待した俺が悪いんだ。  そんなこんなで店まで戻ってきた俺は少女、ミアと一緒にボロボロになった少年、オーフィスを奥に運び込んだ。  さすがに「じゃあこれで」と怪我人と少女を放り出すわけにはいかない。   店の奥はそのまま住居部分になっていて、とりあえずは俺の部屋へ。  ベッドに横になった瞬間気が抜けたのか、オーフィスは眠るように気絶してしまった。  再び半狂乱になりかけたミアを何とかなだめ、オーフィスの手当てを終えた頃には、完全に昼飯時は終わっていた。  落ち着いたところでミアに昼食を勧めてみたが「私はここにいます」とその場を動こうとしないため、部屋に置いてあった椅子に座らせる。  ミアに訊きたい事があった俺は食堂から椅子を抱えてきて彼女の横に座った。クレアは店番だ。  それにしても。  膝の上で手を握り、オーフィスが身じろぎする度におろおろと反応するミアの姿に、俺は人さし指でこめかみを掻いてしまった。  見たところ二人は十七、八。これくらいの歳で男女二人の旅となると大抵は遊びか駆け落ちである。  だがこの二人に限ってはどうやらそれが当てはまりそうになかった。  ベッドに立てかけてあったオーフィスの剣を手に取り、静かに抜く。  両手剣であるが故のしっかりとした重みを感じつつ、俺は切先から鍔、そして柄を眺めた。  鍔に埋め込まれた濃青の石が神秘的な輝きを放っている。刃に指先で触れると鋭く、そして冷たかった。  いい剣だ。そこらの武器屋で買えるような安物ではないし、また金を出したところで手に入るような物でもない。  やはりそうか。通りでオーフィスを助けた時から気にはなっていたのだが。  金箔によって見事な細工が施された鞘に刃を収め、隣に座っているミアの顔を見やる。 「オーフィスは王族じゃないのか?」 「どうしてそれを。紋章は外してあったのに」  驚いたように目を大きくし、その後でミアは慌てて自分の口を押さえた。  しかしこうも簡単にひっかかるとは。いい娘なんだろうがどこか抜けているような気がしてならない。  そもそも隠しておきたいのならベッドに寝ている彼を「オーフィス様」などとは呼ばない方がいいと思うが。 「でも本当にどうして」 「紋章なんて無くても剣を見れば分かるさ。アトリア・デイ・ディスト。何百年もの昔からディストの王族のためだけに武具を作り続ける超一流の工房。まっ、いい物見せてもらったってところかな」  軽く笑みなど浮かべつつ、俺は手にしていた剣を再びベッドに立てかけた。 「全部お見通しなんですね」 「腐っても武器屋だからな。ただ」  腕を組み、オーフィスの顔に目をやる。 「何でディストの王族がこんな所にいるのかは分からないけど」  そんな俺の台詞から逃げるようにミアはうつむき「それは」と言ったきり押し黙ってしまった。  どうやら余り話したくないらしい。  俺としてはそれならそれで一向に構わなかった。誰にだって絶対に明かせない秘密が一つや二つあるものだ。  それを無理やり聞き出したところで俺が得をするわけでもなし。 「すみません」 「いいさ、色々あるんだろ。オーフィスの傷が癒えるまではウチに居るといい。こうなったのも何かの縁だろうし」  俺は立ち上がってミアの肩を叩き、椅子を抱えた。そろそろ店の方に行かなければクレアがそわそわしだす。  クレアは一人で店番をするのが物凄く苦手なのだ。  一度何がそんなに苦手なのか訊いてみた事があるが「責任とか」と分かるような分からないような答えが返ってきた。 「待ってください」  突然呼び止められた俺は抱えていた椅子を床に降ろした。声はミアのものではなかった。  包帯が巻かれた上半身をミアに支えられ、オーフィスがゆっくりと起き上がる。  どうやら少し前から目が覚めていたようだ。  といっても腫れた右目は開いていないに等しい。  残った左眼でベッドから俺を見上げて「私が話します」と言うその声は意外としっかりしていた。  俺は手を挙げて「少し待ってくれ」という意思表示をしてから、扉を開けて廊下に顔を出した。  まっすぐに伸びた廊下の先に店のカウンターが見える。  普段は店と家を分ける扉は閉めてあるのだが、クレアが一人で店番をしている時は声が聞こえるように開けていた。 「クレア」 「はーい」 「大丈夫か?」  一瞬の沈黙。 「ぼちぼち」  どうやらまだ余裕がありそうだ。これが「多分」になって「そろそろ」が次に来て最後に何も答えなくなったら限界。  クレアは不機嫌とも気落ちしているとも言えない妙な状態になる。 「そうだ、さっき俺が使ったグレイブがあるだろ。あれの値札一割引にして張り替えてくれないか」 「はーい」   元気のいい返事に安心した俺は部屋に戻ってオーフィスの前に座った。  オーフィスだけでなくミアまでがじっと俺を見つめている。多少居心地が悪かったがそれだけ真剣な話なのだろう。  オーフィスは一度自分の手元を見やってから静かに尋ねてきた。 「あの、お名前は」  気が抜ける。でもそういえば自己紹介してなかった。 「……リード・アークライト。リードでいい。あだ名は無いから」  私は、と名乗ろうとしたオーフィスをとどめて、俺は話を促す。  今はとりあえず相手を認識できるだけの名前を知っているからそれでよかった。  正式な名前は夕食の時にでも教えてもらおう。  っていうかディストの王族の名前ってむちゃくちゃ長いんだよな、確か。  オーフィスは一瞬腑に落ちないような顔をしたが、それでも一言一言を噛むようにして話し出した。 「私は、国を逃げ出したんです。リードさんはディストのことをご存知ですか」 「確か一年前にその寛大さから『大樹の王』と呼ばれた前王が病死して、弟が後を継いだんだっけ。ただそれから出入国の管理が厳しくなったせいか情報が入ってこなくなったな。武具に関しては完全に国外への持ち出し禁止だろ。おかげで付き合いがあったディストの刀工や武器職人たちとの縁もそれっきりだよ。それに税金が跳ね上がったとかで生活もかなり苦しいらしい。ディストの武器っていえばウチでも売れ筋の商品だったんだけどな。金と武器。戦争の準備でもしてるんじゃないかって、武具屋の間ではちょっとした噂だよ」  もちろん最後のは冗談だ。  ディストは俺の国ルーヴェリアの隣国になるわけだが、出入国の管理が厳しくなったとはいっても国交が断絶したわけではなく、武具以外の品物については今でも取引が行われている。  一応お付き合いはあるのだ。 「で、逃げ出したっていうのは」  俺の問いにオーフィスが沈黙する。だがそれも一瞬のこと、覚悟を決めたような顔で彼は口を開いた。 「一年前の前王の死は病によるものではありません。暗殺されたのです」 「暗殺? 誰に」  反射的に訊き返してしまう。しかし興味からではない。その話の突拍子の無さからだ。  この時点で俺の心にはオーフィスに対する微かな疑いが生まれていた。  例え王族の証を持っていたとしても、今日会ったばかりの人間に「実は前王は暗殺された」などと言われて「ええっ! そうだったのか」と信じるわけにはいかない。というかそれが普通だろう。  そんな俺の内心を知るはずもないオーフィスは、ベッドからこちらをまっすぐに見つめて言い切った。 「前王の……我が父の弟である現王にです」  低く抑えられた声。シーツを握り締め、俺を見上げるオーフィスの隣で、ミアがうつむいて目を伏せる。  どちらも演技には思えなかった。  しかしオーフィスの言う事をすべて信じるならば、彼は王子様ということになる。  国を出たのは暗殺の手から逃れるためという筋書きは可能だが、果たして信じていいものかどうか。  まぁもう少し話を聞いてみよう。 「一年前、私は国に残り叔父を斬るべきだったのかもしれません。でも私には力が無かった。父を殺され、国の中枢を叔父に握られた私には」  声が震えている。食いしばった歯の間から歯軋りが聞こえてきそうだった。  たかぶった感情を逃がすように大きく息を吐き、オーフィスは続ける。 「数名の仲間と国を出た私はここルーヴェリアの『始まりの森』に身を隠しました。そこで国に残り地下に潜った仲間たちと情報をやりとりしていたのですが」  そこでオーフィスとミアは顔を見合わせ、微笑みあった。 「やっと体勢を整える事ができて、一ヶ月後に蜂起することが決まったんです」  蜂起、ねぇ。 「民は苦しんでいます。私には彼らを救う義務がある」  握った拳を見つめ、オーフィスが独り言でも言うようにつぶやく。  強い口調ではないが、そこに込められた決意みたいなものは確かに見えた。  俺はとりあえず頭を掻いて腕を組む。  王族である証を持っているとはいえ、オーフィスには幾つか怪しいところがあった。  なぜ身分を簡単に明かしたのか? なぜ護衛がいないのか? なぜ蜂起の一ヶ月前という大事な時期に道で喧嘩などしてたのか? なぜ俺に蜂起の計画をぺらぺらと喋るのか?   考えれば考えるほど怪しかった。   だが考えたところで彼が本物かどうか分かるはずもない。できるのは推測だけだ。  そんなわけで俺はオーフィスが本物かどうか気にしないことにした。  たまに何かの縁で知り合った冒険者がウチに泊っていくことがあるが、それと同じようにオーフィス、ミアと接する。それが俺の出した結論だった。  もしオーフィスが本物なら俺はかなりの無礼者だが、一応助けてあげてベッドを提供したのだ。そこは勘弁してもらおう。 「まー、なんだ。とにかく傷が癒えるまでゆっくりしていくといい。そこら辺の安宿よりはまともなメシを提供できるはずだから」 「ありがとうございます」  笑いながら言う俺にオーフィスは深々と頭を下げた。  どうやら悪い奴ではなさそうだ。 「で、昼飯はどうする?」  訊く俺にオーフィスはミアと顔を見合わせて「今は結構です」と丁寧に断った。 「じゃ夜は気合入れて作らなきゃな」 「リードさんが料理を?」 「そっ。昼はあの子……クレアっていうんだけど、朝と夜は俺の担当」 「すごいですね。私は料理はまったくできないから」  感心したような少年と少女の視線が照れくさい。 「親父がお袋連れて旅に出ててさ、覚えざるを得なかったんだ。そんなもんだよ」  俺は予防線を張っておいた。過剰な期待をされても困ってしまう。 「じゃあ何かあったら呼んでくれ。店にいるから」  席を立った俺は椅子を持ち上げた。オーフィスとミアが二人揃って頷くように頭を下げる。  もしかしたら商売人の俺より礼儀正しいかもしれない。  俺は二人に向ってうなずき返し、椅子を返しに食堂に向った。  テーブルに残されていた手付かずのオムレツとパン、サラダをお盆に乗せて店に向かう。  しかし王子様……かもしれない人を家に泊めることになるとは。ただの武器屋にも色んな縁があるものだ。   お盆を持って廊下を歩きながらそんな事を考える。  店ではクレアが突っ伏してカウンターの木目を指でなぞっていた。  お盆をカウンターに置くと驚いたように跳ね起き、それから安心したような表情を見せる。  どうやらそろそろ限界だったらしい。  クレアは大きく伸びをすると、ふぅっと息を履いた。 「いらっしゃいませ」 「おじゃまします」  答えてお盆に乗せた物をカウンターに並べる。「食べるだろ?」と訊くと「うん」と笑顔で返ってきた。  おなかが空いていたというよりも、自信作が無駄にならずに済んだのが嬉しかったのだろう。  傍にある椅子に腰掛けた俺はフォークでオムレツを口に運んだ。  食べる俺をクレアが期待と不安の入り混じった表情で見ている。 「どお?」  待ちきれずに訊いてくるクレアにオムレツを飲み下した俺は微笑んで見せた。 「うまいよ」 「ほんとに!」 「ああ、今までの中で一番な。これで冷めてなければ言うことないんだけど」 「それじゃ明日は作ってすぐ食べてね」  満足のいく評価が得られたのか、満面の笑みを浮かべるクレアに俺はこっそり苦笑した。  どうやらもう一日オムレツを食べなきゃならないようだ。 「あっ、そうだ。さっきのグレイブ売れたよ」  自分のオムレツを食べながらクレアが報告する。 「お兄ちゃん呼びましょうか、って言ったんだけど急いでるから今すぐ売ってくれって」 「ふーん」  ちぎったパンを口に放り込む。店主の俺を呼ばないとは、そんなに急いでいたのだろうか。  できればきちんと相談したうえでその客に合ったグレイブを選びたかったんだが。  しかしこんなに早く売れるとは。一割引の力は偉大だ。  と、お盆の下から紙の端が出ているのを見つけた俺はそれを引っ張り出した。  何のことはない。店で使っている値札用の小さな紙片だ。 「あん?」  クレアが書いてくれた値札だろう。まだつたない字。それはいい。  だがどう考えても数字の大きさが足りないのだ。  そう、そこには一割引ではなく九割引になった値段が記されていた。  売れるわ、そりゃ。  心中で苦笑いして、実際には笑ってしまった。クレアがどういう計算をしたのか分かったからだ。  たぶん一割引の「一割」を出した時点で満足してしまったのだろう。それを値札に書いてしまったのだ。  客が俺を呼ばなかったのは値段を訂正されるのを嫌がったからだ。  この値段なら他の武器屋で捨て値で売ってもかなりの儲けになる。やれやれ。 「商売って意外と簡単かも」  そう言いながら自信作のオムレツを食べるクレアは得意げだ。俺はクレアの頭をぽんっと叩いた。 「今晩、算術の勉強しような」  2  夜。  庭の草むらから虫の声が聞こえる。  小さな鈴を鳴らすような声に俺は夏の終わりを感じつつ、ミアと井戸の傍で皿を洗っていた。  食堂ではオーフィスがクレアに算術を教えている。  最初は断ったのだが、あまりにもしつこく「何か手伝わせて欲しい」というものだから先生と皿洗いの手伝いをお願いする事にしたわけだ。  桶に石鹸を溶かした水を張り、束ねた縄で皿をこする。  最後にゆすいでお盆に重ねるわけだがミアの手際は驚くほどよかった。  それを言うとミアは「オーフィス様付きの侍女になるまでは王宮の厨房でずっとお皿を洗ってたんです」と照れたように笑う。  俺には「へー」と返事をすることしかできなかった。  オーフィスが本物の王子様であるという前提で話をされると受け答えに困る。  どうやら本物かどうか気にしないのではなく、仮に本物とする、とした方がよさそうだ。  最後の一枚を積み上げた皿の上に載せ、エプロンで手を拭いたミアが夜空を見上げる。  つられて見上げれば光を砕いたような星空の中に丸い月が浮かんでいた。近いうちに満月になりそうだ。  そんな月を見つめてミアがため息をつく。 「どうかした?」 「王宮のテラスから見た月を思い出したんです」  そう言ってほんの少しだけ寂しげにミアが微笑んだ。 「夜になるとディストの王宮では傍の湖に夜空が落ちてくるんです。湖に映る月は本当に綺麗なんですよ」  膝を抱えるミアを横目に見ながら、皿洗いに使った桶をひっくり返して新たに井戸から水を汲み上げる。  それから位置を調整して月を桶の中に映してみた。  月をすくい上げるように桶の水を手ですくい上げた俺を見てミアが笑う。  今度は口に手を当てて楽しそうに笑ってくれた。 「王宮から見える月に比べたら大した事ないんだろうけど。俺じゃなくてオーフィスが隣にいれば少しは雰囲気が出たかもな」  冗談めかして言う俺にミアの顔が一瞬で赤くなる。  予想通りの反応に自然と頬が緩んでしまった。  うつむいたミアはしばらく組んだ自分の手を見つめていたが、やがて観念したのか恥ずかしそうに認めた。 「どうして……分かったんですか」 「分かるさ。晩飯の時だけで何回オーフィスの顔を見た? 君にとって俺の料理はオーフィスの付け合せだったみたいだな、完全に」 「そんな、とっても美味しかったです」  弁解でもするように言うミアの顔はやっぱり赤かった。  しかしどうもこの娘はとことん隠し事ができない性質らしい。根が素直にできているのだろう。 「でもその様子だとまだ思いは伝えてないみたいだな」  濡れたところを避けて地面に座り、俺は頬杖をついた。  と、ミアが驚いたように顔を上げて首を振る。 「そんな、とんでもありません。こんな思いを抱いているだけでも分不相応なのに、それをお伝えするなんて」 「でも今は二人旅なんだろ。嫌いな人と一緒に旅をしようとはオーフィスも思わないんじゃないか?」 「オーフィス様は優しい方ですから」  そう言ってミアは桶の水に映った月を見つめた。  夜風が柔らかそうな栗色の髪を揺らし、草むらがさらさらと鳴る。 「王宮には私なんかよりずっと綺麗で素敵な人たちがたくさんいて……。それにオーフィス様と私では身分が違います」  見ているこっちが寂しくなるようなあきらめの微笑。  ミアは抱えた膝に顔をうずめて自分に言い聞かせでもするように漏らした。 「だから、お傍にいられるだけでいいんです。それで私は幸せですから」  幸せなわけない。  だが今この場で「そんなの幸せじゃないだろ」とミアに言うのも違う気がした。  このまま何事もなければ恐らくミアとオーフィスが結ばれる事はないだろう。  そしてオーフィスがミア以外の誰かと結婚するその日に「おめでとうございます」と、優しげに、嬉しげに微笑んでみせる。  周りには嬉し涙だと思われている悲しい涙と共に。  暗い。不健康。  だが俺だって純粋な思いだけで越えられるほど身分制度が甘くない事くらい分かっている。  特に王族であるオーフィスと多分平民であるミアの結婚など絶対に認められないだろう。  本人同士はともかく、まず周りが許さない。  ゆえに無責任に二人をくっつけてやろうとは思えなかった。  もしそれでもなお結婚するというのであればとてつもない数の敵を作る事になる。  果たしてオーフィスはその中でミアを守れるんだろうか。  彼は確かに悪い人間ではない。人見知りするクレアもすぐになついた。  だが優しさの裏に弱さも感じる。  もし昼間の喧嘩に彼が勝っていれば俺もこんなことを考えなかったのかもしれない。  腕力がそのまま人間としての強さに結びつかないことはもちろんだが、それでも敗者から強さを感じることは難しかった。 「あの、リードさん」  かけられた声は非常に遠慮がちだった。うつむいていたら深く考え込んでいるのだと思われたらしい。 「ああ、ごめん」とミアの顔に視線を戻し、俺は傍に積んである皿のズレを何となく直した。  迷ったのか心の準備をしたのか、しばしの間を置いてからミアが口を開く。 「オーフィス様のことで相談があるんです」  低く抑えた声からして先程の続き、恋の悩みではなさそうだ。  俺は無言でうなずき、話を促した。 「今、オーフィス様は自信を失っていらっしゃいます。昼間のことにしてもあんな人たちに負けるはずはないんです」 「というと?」 「オーフィス様の剣は初代の王より引き継がれてきた由緒正しいもの。ディストにおける一つの象徴なんです」 「いわゆる聖剣ってやつだな」  今度はミアがうなずく番だった。  どこの国にもその手の聖剣はある。  そのほとんどが完全に儀礼用と化し、文字通り「象徴」になってはいるが。  だがオーフィスが聖剣だけを提げて旅をしているのを見るに、どうやらあれは武器として使われているらしい。  もちろん初代の王が使っていたそのままの剣ではなく、後に作り直されたものだろう。  オーフィスが戴冠前に国を出たのなら、彼の父が使っていた剣なのではないだろうか。  ディストでは戴冠式の中で前王から新しい王に剣が渡されると聞いた事がある。  もちろんそこで渡されるのは新しい王のために打たれた新しい剣だ。  ややこしい話だが、代が変わるたびに打たれる剣が昔から引き継がれているということになる。  形式的に引き継がれている、と言った方が分かりやすいか。 「オーフィス様は『剣が私を認めてくれない』とおっしゃいました」  ミアが悔しそうに下唇を噛む。まるで自分の事のように。 「私には詳しい事はわかりません。でも最近では剣を抜く事すらためらうようになられて」 「聖剣といっても形式的なものだろ。そんなに気にすることもないと思うけど。今オーフィスが持ってるのは先代の剣?」 「はい。でも完全に形式だけではないんです。鍔の石は本当に初代の王から伝わるものですし、そして何よりオーフィス様にとっては実の父親である先王様が使われていた剣ですから」  なるほど。オーフィスにとって剣が自分を認めないということは、父親に認めてもらえないに等しいのだろう。  特に彼の場合その父親が亡くなっているため、遺品である剣に対するこだわりが強いのかもしれない。 「明日にでもオーフィスに話を聞いてみるよ」  俺は立ち上がってズボンをはたいた。それから皿が積まれたお盆を持ち上げる。  普段は二人分だが今日はその倍だ。  しかも気合を入れて料理を作ったせいで品数が多く、比例して皿の数も多い。  で、要するに重い。 「俺で何か力になれればいいけどな」  お願いします、と頭を下げるミアに向かってうなずき、俺は手元の皿を見つめた。  剣が抜けなくなった王子様と彼に思いを寄せる侍女。  真偽のほどはともかく、たまにはこういう普通じゃないのも面白い。  さしあたってはオーフィスの自信回復だが、何なら娼館にでも連れて行ってやろうか。  ……いや、やめとこう。ミアが泣くから。  大体それじゃ抜くものが違うか。  と一人笑おうとしたところで俺は自分がおっさん化していることに気付いた。  そして少しだけ寂しくなる。  そういえばそろそろ本気で結婚考える歳だもんなぁ。 「いいよな、若いって」  彼女にしてみれば何の脈略もなく発せられた俺の一言に、ミアは「そう、ですね」と戸惑いながらも答えてくれる。  庭を吹く風にも俺の人生にももう秋の匂いが混ざり始めている……ような気がした。  3  手にしたランプの明かりが闇を丸く切り取っていた。  こんな真夜中でも聞こえてくる虫の声に、一体いつ寝るんだろうか、それとも交代制で鳴いてるんだろうかとどうでもいい事を考えながら板張りの廊下を歩く。  足を前に出す度にきしむ廊下は我が家ながら不気味だった。  でもまぁ泥棒が入ったときには役に立つかもしれない。  俺は大きくあくびをして瞬きした。眠い。とにかく眠い。  それでもなおベッドから這い出したのはあの二人の様子を見るためだった。  オーフィスは俺のベッドで寝ているからいいとして、問題はミアだ。  彼女にはクレアのベッドで寝てもらおうと思ったのだが「今晩はオーフィス様の傍にいます」となかなかベッドに入ろうとしない。俺とオーフィスで何とかミアをベッドに向かわせたものの、あの様子じゃ多分……。  自分の部屋の前で立ち止まった俺は片手に抱えた毛布を見やった。それからゆっくりと扉を開ける。  辺りの静けさにひびを入れるようなきしみ音がした。  隙間からランプを差し入れて中をうかがう。  と、そこには案の定床に膝をつきベッドにもたれて眠っているミアの姿があった。  隙間から体を滑り込ませ、少し離れたところから二人の姿をランプで照らす。  こうして見るとオーフィスもミアもまだまだ本当にあどけない。  今日は俺の隣で眠っているクレアの寝顔とそれほど変わらないような気がした。  暗殺だ蜂起だと真剣な表情で語ってはいるが、これを見ると全部子供のごっこ遊びなんじゃないかとさえ思えてくる。  もちろんその可能性がまったく無いわけではないが。  俺はランプを床に置き、手にしていた毛布をミアにかけてやった。  こんな姿勢で寝たら明日体が痛いだろうが、起こしたところでミアはベッドには戻らないだろう。  ミアは小さく身じろぎして、またすぐに規則正しい寝息を立て始めた。  そんなミアの手がオーフィスの手から指一本分だけ離れてベッドの上に置かれている。  ただの偶然かもしれないがミアの葛藤が垣間見えたような気がして吹き出してしまった。  あと指一本分の勇気がなかったのか、指一本分の奥ゆかしさがあったのか。  とにかくそのわずかな隙間がミアという少女なのだ。  俺は持ち上げたランプで部屋を点検し、そっと廊下に戻った。後ろ手に扉を閉めたところで息を吐く。  何とかうまくいくといいけどな、あの二人。  そんな事を考えつつ部屋に足を向ける。歩きながらも寝る準備に入っている頭はほとんど働いていなかった。  自分の足音さえどこか遠くから聞こえる。  俺はふと足を止めた。  半分寝ていた頭が瞬時に覚醒する。  背中を抑えつけられるような威圧感。  誰かがいる。 「開店、まだなんですけど。お客さん」  沈黙。  まず唇が乾き、そして喉。高鳴る心音が全身に響く。  次の瞬間背後から繰り出される横薙ぎの一撃。  膝を折ってかわした俺はすぐさまその何者かの足を蹴りで払う。手ごたえはなかった。  気配が音もなく間合いを取る。  俺はランプを持った手を突き出し、背後から首を刈ろうとした侵入者の姿を闇から浮かび上がらせた。  眉間に皺を寄せた俺の目に細身の男が映る。  男は黒一色の服に身を包み、同じく黒い布で顔の下半分を覆っていた。  手には一振りのナイフ。鋼の冷たい銀とランプの暖かい橙が混ざり、独特な色を発する。  男は何事も無かったかのように腰を落とし、構えた。  乾いた唇を舐め、俺も構える。ランプは手にしたままだ。ランプを床に置くという動作。  目の前の男が俺の首を掻っ切るのには十分すぎる隙だと俺は判断した。  呼吸、肩の揺れ、視線。  隙が無い。この男、並ではないようだ。  どこから迷い込んだのか一匹の蛾がランプの光をかすめて飛ぶ。  微かな物音がした瞬間、刃が目の前に迫っていた。  速い!  舌打ちしつつ半身を引いて突きをかわす。わき腹に微かな痛み。  息を吐くと同時に繰り出した膝はあっけなく片腕でブロックされてしまう。  もう一つ!  曲げていた膝を伸ばし男の即頭部を狙う。  だが俺の爪先は上半身を後ろに反らした男の鼻先をかすめただけだった。  クソッ! だがここで止めれば確実に中に入られる。  咄嗟に体を反転させた俺は背面蹴りへ移行。  さすがにこれは避けきれなかったらしく、足の裏に幾許かの感触があった。  だが感触であって手ごたえではない。その一撃によって間合いが離れ、仕切り直しが出来たに過ぎなかった。  張り付くように乾いた喉に唾を流し込み、侵入者の姿を見据える。  色素欠乏か。  男の髪と肌は色を塗ったように白かった。  だが、だからどうだというわけでもない。  髪が白かろうが黒かろうが赤かろうがこの際どうでもいい。  問題はいかにしてこの状況を乗り切るか、だ。  目の前の男はナイフを水平に構えたまま微動だにしない。  ただ一点を見つめ、あらゆる方向を見ている、そんな気がした。  さて、どうしたものか。  このままにらめっこをしていても仕方がない。  先に消耗するのは多分俺だ。  俺は武器屋であって殺し屋じゃないんだから。  しかしこちらから攻め込もうにも泣きたくなるほど隙がない。  わずかでも動けばその瞬間、俺の首からは血の噴水が吹き上がるだろう。  しかもその光景がはっきりとイメージできてしまう。  あまりいい傾向じゃない。負け、のパターンだ。  できればそんなイメージを頭を振って払拭したかったがそれもできない。  この状況でたとえ一瞬でも相手から目を離せるのは、よほど自分に自信がある者か、さもなければただの馬鹿だ。  せめてきっかけがあれば。  ランプを持つ手が痺れ、わずかに震える。併せて影が揺れ始めた。  限界か。  背中を粘り気のある汗が伝う。  相手の気配が膨れ上がった。さすがに勝負所を知っている。  動く! 「お兄ちゃん?」  寝ぼけた声が不意に夜気を打った。極限まで張り詰めていた空気が「ほよん」と揺れる。  運がよかった。  その声に慣れていた分だけ俺の方が早く反応できた。  踏み込み、男にランプを叩きつける。  火花が散って消え去る程の間。そのわずかな差が俺を救った。  加えてランプに油を入れたばかりだったことが幸いしたようだ。  多量の油が飛び散り、男の体が一気に燃え上がる。人間たいまつとなった男は大きく舌を打つと身を翻した。  炎の尾を引き、廊下を走り抜け、窓ガラスをぶち破って男が外に踊り出る。  後にはただ闇とススの匂いが残るのみだ。外からは相変わらず虫の声が聞こえてくる。  大きく息を吐いた俺は額の汗を手で拭った。冷たくぬるりとした嫌な感触。 「一応助かった、か」  心中で呟きながら壁に背を預ける。  気が抜けたせいか、斬られた脇腹が鼓動に併せて疼くように痛み出した。  脇腹に恐る恐る手をやる。  幸いにも大量出血しているような感触はなかった。血の臭いも濃くない。  まぁ軽症だろう。 「お兄ちゃん?」  今度は寝ぼけた声ではなく、怯えたような声だった。  目が慣れてきたのか、うっすらとクレアの姿が見える。  表情までは分からなかったが、おそらく半分泣いたような顔をしているのだろう。 「お兄ちゃん」 「大丈夫、何でもない」 「でも」  とクレアが何か言いかけたとき不意に扉が開く。  部屋から出てきたオーフィスとミアの表情も分からなかったが、二人が発する戸惑いの雰囲気は感じることができた。 「あの」  口を開きかけたオーフィスを手で制し、俺はクレアの肩を押した。 「さ、ベッドに戻って夢の続きだ」 「うん」  か細い声。俺に寄りかかるようにして歩くクレアの体は僅かに震えていた。  すっかり冷たくなってしまった小さな手を握り、クレアを寝かしつける。  クレアは何も訊かなかった。本心では訊きたくてしょうがなかったのだろうが、訊かせなかった。  クレアには関係ない。何も。  規則正しい寝息を確認した俺はクレアの頭を一つ撫で、適当に傷の手当てをして部屋を出る。  後ろ手に扉を閉めると、そこにはオーフィスとミアの姿があった。扉の前で俺を待ち構えてたようだ。 「あの」  オーフィスの視線が宙をさ迷う。だがそれも一瞬の事、彼は唇を引き結ぶと深く頭を下げた。 「申し訳ありません」  きつく握られたであろう拳がかすかに震えている。  俺はとりあえず息を吐き、人差し指でこめかみを掻いた。 「別にオーフィスを狙ってきたと決まった訳じゃないだろ」 「しかし」  反論しようとしたオーフィスを目で制す。 「まっすぐ地道に正直に商売してきたつもりだけど、まったく心当たりがないわけじゃないからな」  言って俺は口元を緩めた。 「色々あるんだよ、田舎町の武器屋にも」 「すみません」  歯を食いしばったオーフィスが再び頭を下げる。  真面目だな、ほんとに。 「謝るなって。大体俺は君の事を王子様だと信じたわけじゃないし、俺を襲ってきた確率の方が高いと思っただけさ」  背後の扉に背を預け、腕を組む。冷めた木の感触が火照った体に気持ちよかった。 「だから、黙ってここを出て行くなんてカッコ良さげなことする必要ないからな」 「しかし私たちがここにいたのではお二人に迷惑が」 「だから君達のせいかもしれないだけで、君達のせいだと決まったわけじゃないだろ」  語調を強め、オーフィスの顔を覗き込むようにして言う。 「そういうことにしとけ。反論は不可だ」 「はい」  歯切れの悪い返事。しかし一応受け入れてはくれたようだ。納得はしてないんだろうけど。  まぁ、俺だって本気でさっきの暗殺者が俺を狙って来たとは思ってない。八割方オーフィスだろう。俺に刃を向けたのは、偶然俺とはち合わせたからだ。  目撃者を消そうとしたに過ぎない。  運が良かったと思う。  オーフィスを見くびっているわけではないが、もし彼が一番最初に暗殺者と出会っていれば恐らく秒殺されていただろう。  剣も抜けないような精神状態の少年とてだれの暗殺者とでは勝負にならなかったはずだ。  それ故に俺はオーフィス達にとどまって欲しかったのだ。  このままここを出て行ったところで遅かれ早かれ殺されるだけだ。さすがにそれは寝覚めが悪い。  ミアから相談を受けたことだし、せめてオーフィスがまともに剣を振れるくらいにはしてやらないと。  しっかし暗殺者に狙われるとは、オーフィスは本気で王子様なんだろうか。  こちらも八割方は信じてもいいのかもしれない。とりあえず王子様風の少年ってことにしとくか。 「訊いてもよろしいですか」  オーフィスがためらいがちに口を開く。 「質問によりけり、だ」 「なぜ、そこまでしてくれるのですか」  オーフィスは一度隣にいるミアに視線をやり、さらに続けた。 「リードさんにしてみれば私たちは素性もはっきりしない旅人です。ただ偶然に出会って、それだけなのに……なぜ」  オーフィスらしい堅い質問だ。 「別に君らのためじゃないさ。こうして脇腹を斬られちまった以上、俺も無関係じゃない。それに」  廊下を吹く風が前髪を揺らした。 「窓の修理代、払ってもらわなきゃな」  暗殺者がぶち破って逃げた窓を見ながら微笑む。  半分は冗談だが半分は本気だ。こちとら商売人、お金に関しては少々うるさい。 「ま、そんなところだよ」 「それだけですか?」  オーフィスの瞳が正面から俺を見つめる。 「それだけさ」  俺も澄んだブルーの瞳を正面から見据えた。  一瞬の沈黙の後、先に目から力を抜いたのはオーフィスだった。彼は諦めたように苦笑すると、 「おやすみなさい」  こちらに背を向けた。  続けて一つ頭を下げたミアがオーフィスの後を追う。  と、ちょっと待った。  ミアの肩をつかむ俺。 「君が寝る部屋はそっちじゃないだろ」 「あの、でも」  俺の顔と離れていくオーフィスの背中を交互に見ながら、ミアがおたおたとした声を出す。 「あんな事があったばかりですし」 「いや、君がオーフィスの傍にいても危ないだけだし」 「大丈夫です」  ミアが胸の前で拳を握る。 「盾くらいにはなりますから」  その、どう考えても頼りにできない、というかしちゃいけない微笑みに俺は大きく息を吐いた。  この笑顔をオーフィスが見たらどう思うだろうか。  自分が盾になってでも彼女を守らなければならない。多分そんな決意を燃やすことだろう。  仕方ない。俺でさえそうなんだから。  男の持つ「保護本能」とでも言うべきものを見事にくすぐってくれる。 「オーフィスには使えないだろうな、その盾は」 「どうしてですか?」  いや、本気で訊き返されても。なんと答えたらいいやら。  しばし考え、ふと思いつく。 「そういう生き物なんだよ、男ってのは」  案の定、ミアはそれ以上訊こうとはしなかった。そうですか、と言ったきり黙ってしまう。  何か考えているようだが答えは出ないだろう。  例えば俺が女性と二人で歩いていて、目の前にナイフを手にした盗賊が現れたとする。  俺は女性より先に悲鳴をあげて逃げることはできない。  男だから。そういうものだ。理由なんて無い。だから答えも出ない。 「まっ、考えるんだったらベッドの中でもできるしな。寝た寝た」 「はい」  まだ未練があるのか、ミアは一度オーフィスがいる部屋を見やったが、結局は自分にあてがわれた部屋のドアノブを握った。 「おやすみなさい」 「おやすみ」  と、閉じかけた扉が止まってしまう。 「あの、ありがとうございました」  不意に礼を言われた。突然のことについ黙ってしまう。 「リードさんって優しい人ですね」 「あ、あぁ?」 「おやすみなさい」  パタン、と閉じる扉。一人廊下に残された俺。  優しい人ですね、か。  胸中で繰り返すと頬が緩んだ。その表情のまま大きく伸びをする。  緊張に固まっていた筋肉がやっとほぐれた瞬間だった。  色々と考えることはあるが、とりあえずベッドに入ってからにするか。  肩を大きく回し、あくびをする。  夜明けまでどれだけ眠れるかな、と。  4  冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。  わずかに交じる草の匂い。いつもと変わらぬ小鳥のさえずりを聞きながら庭を歩く。芝生についた朝露がブーツを濡らすのもいつもの事だった。  片手にぶら下げた両手剣。素振り用の模擬剣だ。刀身に重りを巻いて多少重量を増してある。朝食を作る前にちょっと運動をしようというわけだ。柔軟体操で体をほぐし、多少体温を上げたところで剣を握る。  足を開き、剣を振り上げようと全身に力を込めた時だった。庭に現れた気配が一つ近寄ってくる。  仕方なく緊張させていた筋肉をほどき、そちらに頭を向ける。 「おはようございます」  オーフィスだった。手にはあの抜けなくなった聖剣をぶら下げている。 「あぁ、振るのか?」  オーフィスが手にした剣を見ながら問う。朝の薄い光を押し広げるかのような存在感、やはり超一流品だ。  さすがに少しオーフィスが羨ましかった。ディストの工房に押し入って強盗でもしない限り決して自分の物になることはない。それどころかこの先商品として扱うこともないだろう。せいぜいこうして涎を垂らしながら「いいなぁ」と思ってみるくらいだ。 「一応、日課ですので」  自嘲するように薄く笑い、オーフィスが剣の握りに手をかけた。ためらうよな間をおいて、ゆっくりと刀身を引き抜いていく。その冷たく静かな刃の輝きに、頬の辺りが反応してしまう。  剣を見ながら頬をぴくぴくと震わせている男。傍から見れば変態以外の何者でもない。自分でもそう思う。  この場に母子連れがいれば間違いなく「お母さんあの人変だよ」「しっ、見ちゃいけません」てな会話が交わされることだろう。  しかし、あえて声を大にして言いたい。  武器屋が武器好きで何が悪い、と。  別に武器を使って人をどうこうするのが好きな訳じゃないからいいじゃないか。安全なもんだ。 「と、俺は思うんだが」 「そうですね」  何のためらいもなくオーフィスが返事をする。しかも上品な微笑み付きで。どうやら彼は人をあしらう術を知っているらしい。上流階級の社交術というやつだろうか。  ……というか、年下の少年に軽くあしらわれた俺の立場は?  そんな俺の内心など知るはずもないオーフィスは正面を向くと、正眼の構えをとった。掲げられた刃がゆっくりと、だが真っ直ぐに振り下ろされる。  空気が斬れた、ような気がした。  和やかだった朝の空気が張り詰める。気温が少し下がった印象さえ受けた。剣に目を奪われていたが、それを扱うオーフィスの技術もなかなかのものらしい。素人にはここまでの緊張感を持って剣を振ることはできない。愚直に剣を振り続けてきた結果だろう。  しっかりとした下半身と半袖のシャツから覗く腕からも彼が鍛錬を怠っていないことが伺えた。剣士としてやることはやっているようだ。今なら「あんな人たちに負けるはずがないんです」というミアの言葉も信じられる。それはオーフィスが初めて見せてくれた強さだった。  徐々に素振りの速度が増していく。  短く切るようなオーフィスの呼吸と刃が空を切る音に呼応するように、庭の温度が上がり始めた。  朝日、滲む汗、美形、王子様。  夢見がちな少女ならば一撃でヤラれてしまう。それは実に絵になる光景だった。「爽やか」という単語を図解すればこうなるのだろう。  俺は模擬剣を杖にして立ち、しばらくオーフィスの素振りを眺めることにした。  素振りをするオーフィスの姿があまりに美しく、喩えるなら草原に咲く一輪の花のような……と思ったからではない。  俺は男より武器の方が好きだ。  ……どっちにしろ変態っぽいか。  それはさておき、ミアのお願いを解決するヒントを得ようと思ったのだ。見たところオーフィスに技術はある。とすれば、心・技・体のうち残るのは心と体だ。このどちらか、もしくは両方に問題があるということなのだが。  下半身の安定性、上半身のバランス、腕の振り、剣先のぶれ。  俺は口をへの字に曲げて素振りを観察し続けた。  回数にして百を越えた辺りだろうか、オーフィスの手が止まる。額から流れた汗が形のいい顎を伝い、地面に落ちていった。だが彼は素振りをやめようとしない。歯を食いしばり、震える腕を無理やり振り上げる。剣先のスピードも目に見えて落ちていた。  必死なんだろうな。  剣が抜けなくなってしまった苛立ちや焦りをどうすればいいのか分からないのだろう。  苛立ちや焦りを解消することはできない。ならば忘れる。  オーフィスの素振りからはそんな魂の歯軋りが聞こえてくるようだった。  だがこんな振り方をしていたのでは体が壊れてしまう。  俺は手にしていた模擬剣でオーフィスの剣を軽く弾いた。乾いた音とともに剣が芝生の上に落ちる。握力もほとんどなくなっていたようだ。短く声を漏らしたオーフィスが口を半開きにしてこちらを見つめる。  こちらの存在を今思い出したかのような表情に、俺は小さく息を吐いた。 「落ち着いて、息吸ってみ」  素直なオーフィスは言われた通り大きく息を吸い、吐き出す。 「聞こえるか?」 「え」 「音だよ、周りの」  小鳥のさえずりや木の葉がこすれる音、目覚め始めた町の息吹。 「もう少し余裕もってもいいんじゃないか」  俺の言葉に唇を引き結び、オーフィスはうつむいてしまった。 「私は」 「まぁ待てって。だからそういうところに余裕をもつんだよ」 「はい」  と返事をしたものの、オーフィスの表情は暗いままだ。これもこれで絵にはなるが朝の空気には似合わない。  正面から訊いてみるか。その方が手っ取り早いし。 「剣、抜けなくなっちまったんだってな」  オーフィスの顔が跳ね上がる。  一瞬分かりやすく動揺した後で、彼は下手くそなごまかしの笑みを顔に貼り付けた。 「何を。あの通り抜けていますが」  地面に落ちた剣をオーフィスが見やる。 「言い直そうか。実戦で剣を振れなくなったんだろ」  やや低い声で言ってやると、オーフィスは笑みを収め顔を背けてしまった。 「どうして、その事を」 「ミアに相談されてな。心配してたぜ、彼女」 「そう、ですか」  相変わらずオーフィスの声は重い。相当落ち込んでいることは確かなようだ。  まぁ、剣を象徴とする国の自称王子さまだし、自負もあるだろう。 「で、俺でよければ話でも聞こうかな……と思ったけどやめた」  俺は唇の端を持ち上げ、笑った。模擬剣に取り付けられている重りをはずし、地面に落す。 「この方が早そうだしな」  オーフィスに剣の切先を向け、俺は構えた。  耳でいくら話を聞いたって分かることは限られている。肌でオーフィスの剣を感じてみるのが一番確かだ。  が、どうもオーフィスは乗り気ではないらしい。困ったような顔をしてこちらを見るばかりで、剣を拾おうともしない。 「どうした?」  声をかけるとオーフィスはのろのろと剣を拾い、刃を見つめる。しばしの後、それをこちらに向けることなく鞘に収めてしまった。 「模擬剣を貸して下さい」 「何で」  オーフィスの剣は俺が手にしている模擬剣と打ち合って刃こぼれしたり折れたりするほどヤワじゃないと思うんだが。アトリア・デイ・ディストの剣について「鎧を着た人間を音もなく真っ二つにする」と書いてある本さえあるのに。  まぁ、これは少し大げさとしても模擬剣と打ち合ってディストの剣がどうこうなる事はないだろう。 「これは真剣です。もしものことがあっては」  あ、そういうことか。納得した。ふーん、そうか。なるほどねぇ。 「余計な心配だな。今の君が俺に傷をつけられると思ってるのか?」  この台詞にさすがのオーフィスも少し頭にきたようだ。俺を見る目がわずかに細くなる。  それでもキレないのは性格だろう。  もう少し煽ってみるか。 「確かにいい剣だが君が使ってる限り木刀以下だな。斬れやしないさ」  短くうめいたオーフィスが拳を握る。目は完全に俺を睨んでいた。 「使い手は剣を選べるけど剣は使い手を選べない。悲劇だと思わないか?」  握りに手をかけ、オーフィスが剣を抜く。鞘は後ろに放り投げられた。  どうやらヤル気になってくれたらしい。意外と負けず嫌いじゃないか。  これで「挑発には乗りませんよ」とか悟ったような笑顔で言われたらどうしようかと思った。  やっぱ十代はこうじゃなきゃ。  ま、十代じゃなくても武器ぶら下げてる奴なんてどいつもこいつも負けず嫌いなんだけど。もちろん俺も含めて。  構えたオーフィスが剣をこちらに向ける。刃同様の切れそうなほど鋭い表情とともに。  俺は正直ちょっと煽りすぎたかも、と思っていた。気を抜けば指の一本や二本は本当にとぶかもしれない。  短く息を吐き、グリップを握る手に力を込める。  俺、オーフィスともに正眼の構え。さて、どこからくるか。  爪先をわずかに進め、間合いを詰める。さらに少し、と思った瞬間オーフィスが飛び込んできた。  大きく踏み込みつつ大上段からの一撃。  予想外だった。身長差からいって腕は俺の方が長い。つまり間合いは俺のほうが広いはず。  だがオーフィスはその間合いの外から飛び込んできた。  避けるか、いや、受ける。しばらくはオーフィスに攻めさせよう。  思考する時間はあった。意外性と迫力はあるがいかんせん動作が大きすぎる。  剣を横に寝かせ、完全に受けの態勢。  が、その瞬間髪の毛が逆立つような感覚に襲われた俺は反射的に身を引いていた。  全身の毛穴から汗が吹き出る。 「嘘だろ」  オーフィスの剣は何事もなかったかのように振り下ろされていた。俺の剣を中ほどから叩き斬って。  折れた刃が地面を転がる。それを目で追ったのは一瞬のこと。  だがオーフィスに目を戻せば既に彼は突きの体勢に入っていた。  極限まで引き絞られた弦から放たれる矢のような突きが真っ直ぐ喉元に向かって来る。  何がもしものことがあったら、だ。完全に殺る気じゃねーか。  体をずらし、かろうじて躱す。こりゃ少しばかり骨が折れそうだ。  恐ろしいほどの引き手の早さから繰り出された第二の突きを半分の長さになった模擬剣で受け流し、俺は眉間に皺を寄せた。  しかしディストの剣がここまでの斬れ味を持っているとは。  オーフィスは始めからこちらの剣を破壊する気だったらしい。  木刀以下だなんて煽りにしても見くびりすぎた。  横薙ぎの一撃を剣で受けようとして、慌てて後ろへ跳ぶ。受けてはいけない。  可能な限り躱し、どうしても不可能ならば受け流す。  この模擬剣、今の状況では紙の盾同様だ。その程度の防御力しかない。  間合いに至ってはオーフィスの半分以下。圧倒的に不利だった。  だがこっちにも武器屋の三代目としての意地がある。伊達に武器をおもちゃ代わりに育ってきたわけじゃない。  ……危ない意地だな。そんな育て方をした親父が悪い。なんてヤツだ。  とにかく偉そうに話を聞いてやるなんて言った手前意地でも負けられなかった。  オーフィスの斬撃は止まらない。重さは並だがとにかく速さがある。  一つの振りが終ってから次の振りが繰り出されるまでの時間が異様に短い。  両手剣の場合一撃はずせば必ず隙ができる。  そこを狙うのが対両手剣戦のセオリーなのだがオーフィスに対してはそれが通用しそうになかった。  彼は一撃、そしてまた一撃という風に剣を振らない。  全ての動作を流れの中に組み込み、絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。  小川を流れる木の葉のような剣技。攻撃を受けながらもその無駄のない動きについ見とれてしまいそうになる。  だが実際はそんなに穏やかなものではなかった。  これは確実に人を斬り殺すために組み上げられた技術の粋だ。  オーフィスの間合いにいるのが辛くなった俺は一度模擬剣で攻撃を受け流し、大きくバックステップした。  その瞬間、模擬剣の残っていた部分もついに折れてしまう。  鍔から上がなくなってしまった模擬剣を右手で持ち、左手で拳を作る。 「もう、止めましょう。これ以上は、無駄、です」 「やっと体があったまってきたところじゃないか。まだまだ」  笑いながら言ってやると、オーフィスは一度唇を噛んで再び構えをとった。  気になることが一つある。  オーフィスが異様に消耗しているような気がするのだ。  顔からは大量の汗を流し、かなり大きく肩で息をしている。  確かに両手剣をあの速度で振り続ければ疲れはするだろう。でも少し早すぎやしないか?  単なる体力不足とは思えない。  なぜか。オーフィスには技術がある。技術を習得するには鍛錬を積まなければならない。鍛錬を積んでいれば体力は自然とつく。  そりゃ確かに体力にだって才能はある。だがオーフィスに体力的な才能がなかったとしてもこれは異常だ。  体調不良、ってわけでもないと思うんだが。  少し試してみるか。  地面を蹴って再びオーフィスの間合いに入る。すぐさま襲い掛かる刃の雨。  俺はその雨を意図的に大きく避け、間合いへの出入りの回数を多くした。  当然オーフィスは俺を追って大きく動かなければならない。  剣の振りは相変わらず悪くなかった。鋭い風切り音が耳朶に触れる。だが問題はその繋ぎだ。  オーフィスは剣を大きく振った反動を次第にもてあますようになっていった。  さっきはその反動をうまく次の一撃に生かしていたというのに。  俺はさらに避ける動作を大きくした。オーフィスは追って来る。だがそこに先ほどまでの速さはない。  鋭いのは振りだけで、すべての攻撃が俺の予想よりワンテンポ遅れて放たれる。  オーフィスの表情からも彼が思い通りに動けていないことが分かった。  歯を食いしばり端正な顔を悔しさに歪めて剣を振る彼を見ているとかわいそうにすらなってくる。  最後には剣さえもてあますようになり、オーフィスが剣を振っているのではなく、剣がオーフィスを振っているような状態になってしまった。  完全に自分の振りを制御できなくなったようだ。  潮時か。  俺はオーフィスが剣を振り上げたと同時に踏み込み、蹴りで彼の両足を薙ぎ払った。  主の手を離れた剣が投げ出され、当の主は背中から地面に落ちる。  オーフィスは倒れたまま起き上がらなかった。荒い呼吸を繰り返し、胸を大きく上下させている。  腕を持ち上げ、自分の目を覆った彼は歯を食いしばって、泣いた。  嗚咽を必死で堪えているのか、歯の間からすり潰されたような呻き声が漏れる。  俺はそんなオーフィスを見ながら笑った。  悔し涙を流せるうちはまだ大丈夫。先に進む可能性があるってことだ。  で、俺の役目は先に進む手伝いをしてやることなのだが……。  俺は地面に落ちていたオーフィスの剣を拾い上げた。  よほど力を込めて握っていたのか、グリップには血がついている。  俺は剣を構えて軽く振ってみた。  素晴らしい。その一言に尽きる。  適度な重さに優れたバランス。正直、振った瞬間に鳥肌が立ったくらいだった。頬の辺りがぴくぴくする。  もう一度、振る。  お気に入りの服の様に体に馴染んでいく。実に使いやすい。  俺は地面に寝ているオーフィスを見やり、それから剣を見つめた。  鍔に埋め込まれた初代の王から受け継がれているという青い石。  多分この石だけで家の一軒や二軒は建ってしまうのだろう。  最高の剣だよな、色んな意味で。  ついため息を漏らしてしまう。最高……あ。  俺は目を見開き、剣を上から刃、鍔、青い石、握り、柄頭と見つめなおした。  分かった。というか大事なことを忘れていた。  待てよ。とするとこの青い石か。うん、それでいける。  鞘を拾い上げた俺は剣を収め、オーフィスの横に座った。  体を起こしたオーフィスが一度鼻をすすり、恥かしそうに笑う。  歳相応のあどけなさを残したいい笑顔だ。 「すみません」 「何で謝るんだ?」 「その、本気で剣を向けてしまって」 「気にしなくていい。そうなるように仕向けたんだから」  はい、とオーフィスが小さく肯く。 「情ない、と思われたでしょう」 「全然。これだけ使えればたいしたもんだよ。後はきっかけ、だな」  俺は手にしていた剣を差し出した。それを受け取るオーフィスの表情が陰る。 「あの、何か気付いたことはありませんか。どんなに小さなことでもいいんです」 「ある」 「お願いします。教えてください!」  つかみかかりそうな勢いでオーフィスが訊いてくる。今の彼になら土下座をさせた挙句、逆立ちしたまま鼻からミルクを飲ませる事だって可能だろう。  それほどオーフィスは必死だった。 「落ち着けって。教えるのはいいけどその前に訊きたい事がある」 「何でも訊いてください! 全てお話します!」 「だから落ち着け! ていうか襟首をつかむな、襟首を」  詰め寄ってきたオーフィスを引き剥がし、俺は襟首を正した。  意外と騒々しい奴だな。 「それで、何でしょう」  拳を握り、身構えた表情のオーフィス。  俺は一拍置いてから口を開いた。  5 「ミアのことだよ」 「あの子が何か」 「どう思ってるんだ?」  沈黙。 「ど、どうって」 「動揺したろ、今」  ついニヤニヤとした笑みがこぼれてしまう。  必死に何でもないふりをしてはいるが、オーフィスの目は面白いくらいあたふたしていた。 「別に動揺なんて。少し驚いただけです」  と言いながらも俺と目を合わせようとしない。 「だいたい、ミアと剣術に何の関係があるんです」 「関係があるかないかは俺が決める。さっき『何でも訊いてください。全てお話します』って言ったろ?」  ぐっ、とオーフィスが言葉に詰まった。だが既に時遅しだ。 「全部話して楽になろうや、な」 「うぅ」  呻き声を漏らし、オーフィスがうな垂れる。どうやら観念したようだ。 「その、私は、ミアに」 「うん」 「確かに、その、こっ、好意を寄せては、います」  と、オーフィスの顔が結構な勢いで跳ね上がった。 「ですがそれは好意であって愛や恋とはまた別のもでしてあくまで好意であってあのその言うなれば親愛の情とでも言うかとにかくもっとこう人の心は複雑で著名な哲学者であるハイレリウスの書を紐解けばそのことについてああでもないこうでもないと」 「でも、したいんだろ、ミアと」  巨大なハンマーで殴られでもしたようにオーフィスの頭がぶれ、そのまま固まってしまう。  意外と愉快な反応をする奴だな。 「おっ、おっしゃりたいことの意味が分かりかねます」 「そうか。えーっと、今までミアで何回抜い……」 「すみませんっ! もう許してください」  額で地面を割る勢いでオーフィスが頭を下げる。  わははは。よきかなよきかな。 「その、なぜ分かったのですか?」 「ミアに聞いたんだよ。彼女、厨房で皿洗いしてたんだろ? そんな子が王子様付きの侍女になるなんて誰かさんの特別な意思が働いたんじゃないかなと」  「誰かさん」と「特別な意思」に力を込めて言ってやると、オーフィスは照れたような恥かしいような笑みを浮べた。 「しかしよく通ったな、そんな希望」 「お恥ずかしい話ですが王族が侍女に手を出すなどという事は往々にしてありまして、その類の事だと周りには思われていたようです」 「二、三回使ってみて気に入らなければポイすればいいと」 「……リードさん、何か王族というものに対して偏見を持ってませんか?」 「別に。ただ」 「ただ?」 「侍女の乳揉みながら食事するのは羨ましいなと」 「しませんっ! そんな事」 「えー、嘘でぇ。『あいつらは税金で乳揉んどる。何と羨ましい』って死んだ爺ちゃんが泣きながら拳握ってたぞ」 「……私が泣きながら拳を握りたい気分です」 「そんな君もミアの乳は揉みたいわけだ」  沈黙。オーフィスが俺の顔を見る。 「はい」  うん、大分素直になってきた。 「でも何で揉まなかったんだ? 二人旅なんだしチャンスはいくらでもあったろ」 「え、いや。強姦はちょっと」 「襲うな。二人合意の上での話だ」 「それは」  と、オーフィスの表情が暗くなる。彼は芝生をぷち、ぷちと引き抜いてから首を横に振った。 「きっとミアは私のことを軽蔑しています」 「乳揉みながら食事するからか?」  軽い冗談なのにオーフィスが俺に向けた蔑みの眼差しは死ぬほど重かった。ある種の哀れみさえ感じる。 「すまん」  とりあえず謝る根性なしの俺。  オーフィスは一拍置くように地面を見つめ、口を重そうに開いた。 「おそらく私はディストの歴史が始まって以来、最も情ない王族でしょう」  口元は微かに緩んでいるが、そう言うオーフィスの拳は握られたままだ。 「ディストの王族、いえ、ディストという国にとって剣とは本当に特別な物なんです。それを振れなくなるなんて」  緩んでいたオーフィスの唇が真一文字に引き結ばれる。 「泣きそうな顔するなよ。さっきも言ったろ。これだけ使えればたいしたもんだって」 「ありがとうございます。ですが、ミアは」 「そう悲観することもないと思うけどな。ほら、昨日の夜だって彼女、君の傍にいたろ。心配だったんだよ。この件にしたってミアから相談されたわけだし」  だがオーフィスはわずかに肯くだけで表情を軽くしようとはしなかった。 「ミアは優しい子ですから」  どこかで聞いたような台詞を言ったきり、膝を抱いて黙ってしまう。  俺は少しばかり罪悪感を感じていた。  今ここでオーフィスにミアの気持ちを伝えれば彼も少しは元気になるかもしれない。  だがそれでは意味がないのだ。  オーフィスの側から一歩踏み出してもらわなければ意味がない。俺のやっていることはそのための手助けなんだから。 「なぜ、こんな事を訊くのですか?」  顔を上げたオーフィスは困惑に目を細めていた。 「確かに剣術と恋心の関係なんてよく分からないよな」  言いながら地面に置かれたオーフィスの剣を見やる。鞘が朝日を照り返し輝く姿は神々しくさえあった。 「そうだな。個人的な興味と、あとは心構えの問題だな」  俺の言葉がオーフィスの眉間に皺を刻んでしまう。 「君は何のために剣を振ってるんだ?」 「それは」  とオーフィスは即答しようとして、黙った。言葉に詰まった彼の目が落ち着きなく様々な場所を見やる。  それは、と再び繰り返したものの思考をまとめる時間稼ぎにすらならなかったようだ。 「それは?」  俺の方から訊いてみるがオーフィスの口から確たる答えは出てこない。 「考えたこともなかった?」 「すみません」  結局オーフィスは唇を噛んでうな垂れてしまう。  もちろん彼がそのことについて本当に何も考えていなかったとは俺も思ってない。  心の奥底では何か思うものがあるんだろう。  ただ、よほど突き詰めて考えてみなければそれを言葉にすることはできない。  内なる自分と殴り合いにも似た議論を繰り返しはじき出される結論。  意外とそれは単純な答えなのだが、それゆえにしっかりとした土台になってくれる。  自分が足をつけて立つ場所、それを見つけた時にこそ踏み出せる道がある。  薄い朝方の空を見上げ、それから俺はオーフィスに顔を向けた。応えてオーフィスの表情が硬くなる。 「確かに優れた武器ってのは芸術品にさえなり得る。君の剣のようにな」 「はい」 「でもな、それでも武器の基本は人を傷つけるための道具なんだ。その事実が覆ることはないし、覆してもいけない」  無言で、ゆっくりと肯くオーフィス。 「人が武器を使うとき、言い換えれば君が剣を振るとき、それは即ち誰かを傷つけるときだ。あるいはその命さえ奪ってしまうか」  言葉を切り、息を吸う。そして吐く。 「身を斬られれば当然痛いし、死ねば悲しむ人がいる。いいことなんて一つもない。なのに君は日々剣を振り、汗を流し、手をボロボロにして人を傷つけるための技術を学んできた。なぜだ?」 「それは、その、私は剣を象徴とする国の王子ですし、それが義務であって」 「難しく考えなくていい。あるだろ、もっと単純な理由が」  困惑し、焦るオーフィスをなだめようと俺は笑みを浮べた。 「初めて剣を握った時のことを覚えてるか?」 「物心ついたときから、既に」 「そこから思い出を辿ってみるといい」  言われた通り押し黙り、思案顔になるオーフィス。やがて彼は目を閉じた。  今彼は遠く、過去の自分と久しぶりに再会を果たしているはずだ。  あれこれ考えず、単純な思いだけを胸に剣を振っていた自分と。  俺は頬杖をついてオーフィスの顔を見つめ続けた。端正な顔が時に歪み、また微笑を浮べる。  当然のことながら俺はオーフィスがどんな人生を送ってきたのか知らない。  せいぜいこうして思い出を辿る彼の表情を見ながら「色々あったんだろうなぁ」と思ってみるくらいだ。  どれほどの時間そうしていただろうか。ゆっくりとオーフィスが目を開き、顔を上げた。  晴れやか、とまではいかないが、さっぱりとした表情を見るに何か成果があったようだ。 「父が、誉めてくれたんです」  頭に手をやったオーフィスが嬉しそうに言った。 「私の剣が一つ上達する度に大きな手で、こう、頭を包むように撫でてくれました」  頭にやっていた手を顔の前に持ってきて、じっと見つめるオーフィス。己の手に父の手を重ねているんだろうか。 「普段は厳しい人でしたが、その時ばかりはいかつい顔に満面の笑みを浮べて」  そう言うオーフィスの表情も柔らかくなっていく。 「夕食の時、父は私の成果を臣下の者や侍女たちにいつも自慢していました。私はそれが照れくさくもあり、嬉しくもあり、誇らしかった」  柔らかいだけだったオーフィスの目に力が宿ったように思えた。 「皆が私に笑顔を向け、誉めてくれた。それが嬉しかった。応えなければ、と思っていました。だから私は」  オーフィスが拳を握る。 「剣を振り続けたんです」  澄青の瞳がまっすぐに俺を射抜く。ぐらついていた足下が多少は固まったようだ。 「上出来だ。じゃあ改めて訊く。君は何のために剣を振っているんだ」  オーフィスの喉が微かに鳴る。 「私にどれだけのことができるのかは分かりません。でも、笑って欲しい。一人でも多くのディストの民に笑って欲しいんです」 「そのために剣を振る、か」 「はい」  迷いのない凛としたオーフィスの声が庭に響いた。  大きな声ではなかったのだが、そこには大気を震わせる力がある。  しかし、ディストの民ときたか。  苦笑し、耳を掻く。 「おかしいですか?」 「いや、やっぱり本物の王子様なのかなと思って」 「はぁ」 「普通の人間に『民』は背負えないわな」  それをオーフィスは本気で言ってのけた。  生まれながらにして頂点に立つことを宿命付けられた人間にしかできない思考だ。  素っ裸で逆立ちして奇声を発しながら大通りを疾走したってそんな考え方俺には無理だろう。  俺に『民』は背負えない。 「じゃ、ディストの民に笑ってもらって、中でもミアには最高の笑顔を見せてもらおうか」 「もちろんです」 「そのうえできっちり乳揉ませてもらうと」 「はい」  こんどはオーフィスが苦笑する番だった。  でも待てよ。 「突き詰めて考えるとミアの乳揉むために剣を振るわけだな、結局」 「それは激しく何かが違うような」 「まぁ気にするな。男の生きる理由なんて九割方乳揉むためだと死んだ爺ちゃんも言ってたし」 「……亡くなる前に一度お会いできなかったのが残念です」  と欠片も残念がってない顔でオーフィスが言う。 「とにかく、だ。ミアの笑顔のためにその剣、俺に預けてみないか?」 「それは構いませんが」  手元にあった剣をオーフィスが持ち上げる。 「どうされるんですか?」  そう尋ねるオーフィスからは僅かな警戒心を感じた。  彼にとっては大事な父親の形見だ。気持ちも分からないでもない。  俺は意味ありげな笑みを浮べて軽く手を広げる。 「魔法をかけるのさ」 「はぁ」  オーフィスの口から漏れる気のない返事。  まぁ当然だろう。魔法なんて神話の時代に滅んでしまったし、比喩表現にしたって意味が分からない。 「具体的には何を」 「そうだな、ほら、その鍔にはまってる青い石、『いわれ』があるだろ?」 「まぁ、一応は。ディスト建国のときに初代の王に付き従った風の精霊が姿を変えたものだとは言われていますが」  地面についている俺の手がぐっと芝生をつかむ。 「信じてる? それ」  俺の言葉にオーフィスが、まさか、といった風に笑う。 「さすがに事実だとは。建国にまつわる御伽話、ですかね。好きな物語ではあるのですが」 「だからさ」  少し低い声で言ってやる。  笑っていたオーフィスが短く声を漏らし、驚いたように俺を見つめた。 「そいつも君を信じてない」  俺はオーフィスが手にしている剣を指さした。 「言っとくがこれは精神論じゃない。魔と精霊の理論だ」  あからさまに戸惑うオーフィス。俺の言っている事が分からないらしい。  もう少し続けるか。大事なところだ。 「精霊ってこの世に存在すると思う?」 「確かに季節ごとの祈りは捧げますが、心の芯から精霊の存在を信じているかと問われれば」  オーフィスが言葉を濁す。 「なぜ信じられないんだと思う?」 「それは、その、やはり実際に目にしたことがないからでしょうか」 「じゃあもう一つ。なぜ実際に見ることができないんだと思う?」  この問いにオーフィスはしばし考え込み、やがて実に常識的な答えを提出した。 「実際には存在していない、からですか?」 「ハズレ。君が信じてないからだ」 「では信じればその姿を目にすることができると?」  オーフィスが身を乗り出す。  こういう話を馬鹿にしないで真面目に聞こうとする態度を見るに、信仰心が薄い訳ではないらしい。  いいことだ。うん。 「見えると言っても絵本に出てくる羽の生えた妖精みたいなものが見えるわけじゃない。気配というか、もっとこう大きな存在力とでもいうものを感じるんだ」  目の奥に微かな疑いの色を残しながらも、オーフィスは俺の話をじっと聞いている。悪い傾向じゃない。 「俺の場合、血筋のせいで見えやすいってこともあるんだけどな」  鼻の頭を掻きながら言う俺にオーフィスは口を開きかけたが、結局は閉じてしまう。  疑問を抱いたものの、どう訊けばいいのかが分からないのだろう。 「精霊鍛冶師って知ってる?」  首を横に振るオーフィス。 「武器や防具に精霊の力を宿す事を生業としてるんだけど、今じゃ殆ど滅びちまったからな。仕方ないか」  俺は苦笑して見せた。 「リードさんは精霊鍛冶師、なのですか?」 「隠れ、だけどな。そんなことが国に知れたら死ぬまで精霊の力が宿った武器やら防具を作らされちまう」  傍から見ていてもオーフィスが悩んでいるのよく分かる。  信じるべきか信じざるべきか。ちょうど俺がオーフィスの事を本物の王子様だと信じられなかったように。 「信じられない?」 「正直に言って、半信半疑です」 「でも半分は信じてくれたわけだ」  ためらいながらもオーフィスが肯く。 「結論を言えばその剣からは精霊の力が抜けかけてる。そいつを鍛えなおす」  俺は正面からオーフィスの目を見て言い切った。決して目を逸らしてはならない。疑われたらそれで終わりだ。彼は剣を託してはくれないだろう。 「そいつが君にとって大事なものだということは分かってる。でも、だからこそ預けて欲しい。その剣にはもっと大きな力が眠ってるはずだ」  オーフィスの喉が微かに鳴る。やや堅くなった面持ちで自らが手にしている剣を見つめ、彼は下唇を噛んだ。  数秒の沈黙。空気が張り詰める。  やがて張り詰めた空気を押し広げるようにして、オーフィスがゆっくりと剣を握った手をこちらに差し出した。 「お願いします」  大事な息子を他人に預ける親にも似た表情のオーフィス。その表情を受けて俺の手も汗ばんでいた。 「精霊鍛冶師の誇りにかけて」  剣を受け取り、ゆっくりと力強く肯く。  剣を手にした俺はそのまま立ち上がり、空を見上げた。緩やかに肺の空気を押し出す。  とりあえずは一段落、か。  つい表情から力が抜けてしまった。その表情のまま上からオーフィスを見下ろす。 「とまぁ、ちょっとマジな話になっちまったけどここまで。朝飯作らなきゃいけないから先、戻るな」  オーフィスに背を向けた俺は一歩踏み出した。頭の中は既に今朝のメニューに移行している。 「リードさん!」  と、頭にベーコンが浮かんだところで背後から呼び止められる。  肩越しに振り返れば立ち上がったオーフィスが深々と頭を下げていた。 「任せろって。ちゃんと振れるようにするさ、必ずな」  本心から出た言葉だ。それは間違いない。  鞘を握る手に力をこめ、俺は庭をあとにした。  さぁて、忙しくなるぞ。  6  朝食の後、店番を残りの三人に任せた俺は工房に篭もった。  先ほども言ったようにオーフィスの剣に魔法をかけるためだ。  使い慣れた工具と部屋に染み付いた微かな鉄の匂いが気分を昂揚させる。  自分が武器を扱っている人間だと強く感じる瞬間だった。  工房の中央には木製の作業台が置かれている。爺ちゃんの代から使ってるんだから結構な年代物だ。  表面に刻み込まれた傷はこの店の歴史そのもの。いとおしささえ感じてしまう。  俺は作業台の表面を手で撫でてから、その上にオーフィスの剣を置いた。  鍔にはめ込まれた青い石を見つつ、乾いた唇を舐める。  正直に言えば俺は不安を感じていた。手は普段かかない種類の汗で湿っている。  俺にやれるんだろうか。  そんな疑問を何度も頭の中で繰り返す。迷ったら終わりだと分かっていても振り払えない。  アトリア・デイ・ディスト。  その名が高密度、硬質の重りなって心を押し潰す。  ディストの王族のためだけに武具を作り続ける超一流の工房。歴史だって半端じゃない。  俺の目の前にあるのは何百年という時の、何千人という職人の、言わば歴史と叡智と技術の結晶だ。  その結晶に俺は手を入れようとしている。失敗すれば全てが水の泡。  だが、やるしかない。 「約束しちまったもんな」  胸中で呟き、握っていた拳を開く。指はきっちり動いた。意外と図太いじゃないか。  口元を緩め、目を閉じる。 「鉄と剣の精霊よ、加護を」  気休めではない。信じれば必ず助けてくれる。 「よし」  目を開いた俺は両手で頬を叩き準備に取り掛かった。  始めようか。  額に滲んだ汗が玉となり頬を滑り落ちる。  昼食を採ろうにも喉を通らなかった。  呼びに来てくれたクレアには申し訳なかったが、気持ちを途切れさせたくなかったのだ。  気がつけば窓から差し込む光が赤く染まっている。  あと少しだ。集中しろ。  直線を基調にした幾何学模様の描かれた布の上で俺は指を動かし続けた。  精霊に祈り、自分の腕を信じ、己の持てる全てを対象に叩き込む。  気が付けば、もう随分と「音」を聞いていない。触覚と視覚が異様に鋭くなり、世界は一点に圧縮されていた。  指先の感覚とその周りの狭い視界。それが全てだ。  呼吸と瞬きさえも停止し、最終行程に移る。  作業のためはずしていた柄頭と青い石をはめ込み、俺は剣を円錐状の台の上に乗せた。  ふらふらと揺れていた剣がやがて机と水平になり、静止する。  剣の上に手をかざした俺は細く、長く息を吐いた。  さぁ、仕上げだ。 「剣に宿りし精霊に願う。この剣を手にし者に大いなる力を」  祈りの言葉を捧げ、剣の上で印を切る。 「剣に宿りし精霊に願う。この剣を手にし者に大いなる幸運を」  刃の表面に二本の指を滑らせる。 「剣に宿りし精霊に願う。この剣を手にし者に大いなる勇気を」  俺は刃に触れたのとは逆の指二本を青い石の上に置いた。 「フレイ・イルム・ディリーザ・バルドガルム・レラ・サルト」  昔から伝わる古い古い呪文だ。爺ちゃんも親父もよく口にしていた。  正確な意味は分からないし、これは完全な呪文の一部でしかないらしい。  それでも、絶対に覚えなければならない言葉、として毎日復唱させられた。  これは俺たちの義務なんだ。  いつもへらへらしている親父がこの時だけは真面目な顔をしていた。  両の指をゆっくりと剣から離す。  行程……完了。  剣を持ち上げた俺は鞘に収め、長く大きく息を吐いた。  全身の筋肉を引っ張っていた緊張の糸が切れ、へたり込むように腰を下ろす。  作業台に突っ伏し、俺は自分の利き手である左手をじっと見つめた。見つめながら笑ってしまう。  何はともあれお疲れ様、と。あとは……、 「オーフィス次第だな」  と、つぶやいて窓から見える夕日に視線を移した時だった。  けたたましい音とともに扉が開かれ、オーフィスが飛び込むような勢いで工房に現れる。 「お、ちょうどよかった。今呼びに行こ」 「クレアとミアがさらわれました!」  こちらの言葉を遮ってオーフィスが発した台詞に思考が一瞬停止する。  だが一瞬だ。オーフィスの様子を見るに冗談だとは思えない。俺は一度切れた緊張の糸をすぐさま結び直した。 「すみません。私が井戸の方に水を飲みに行った間に」 「犯人の姿は見たのか?」 「いいえ。ただ、これが」  オーフィスが差し出した手には一枚の紙切れが握られていた。それを手に取り視線を落す。  『二人は預かった。返して欲しければミルスの旧坑道まで来い』  ひねりもウイットも泣けるところも笑えるところもない一文。  それがペンと紙がかわいそうになるくらいの汚い字で書き殴られている。  ミルスの旧坑道とは近所の山にある坑道跡だ。少々人が叫んだところで助けが来るような場所ではない。  人を殺すにはこの辺で最も適した場所だろう。 「すみません。私が、私が」 「泣きそうな顔するなって。考え様によっちゃいい機会かもしれない」  口を半開きにしたオーフィスに向かって、俺は剣を差し出した。 「予定より早かったが新生オーフィスの剣、デビューだ」  剣を両手でしっかりと受け取りながらオーフィスが肯く。 「必ず、助け出します」  気合の入ったいい顔をしている。  さらわれた二人には申し訳ないがオーフィスにとってはいい燃料になったようだ。  問題は実戦でどれだけ振れるか、だ。そこはもうオーフィスに頑張ってもらうしかない。 「行きましょう、リードさん」 「そう焦るなって。わざわざさらった以上そう簡単に殺しはしないさ。殺すんならその場で殺せばいいわけだし。まっ、準備する時間くらいはあるだろ。ちょっと待っててくれ」  言い残して俺は工房から外に出た。久しぶりに触れた外気は思ったより冷たく、体の熱をすぐに奪い取ってしまう。  日はほとんど山の向こうに沈みかけていた。  こりゃ坑道に着く頃には夜になるな。ランプを持って行かないと。  群青色と赤の二色に塗り分けられた空を見ながらそんなことを思う。  どこかでカラスが一声鳴いた。  もう一つ。  つま先で地面を蹴りつけた俺は鼻の頭に皺を寄せ、奥歯を思い切り食いしばる。  毛の先ほどの傷でも付けてみろ……殺す。  指を鉤爪のようにいびつに曲げたまま、俺は倉庫へと向かった。  7  山は静かだった。風もなく木々の葉がこすれる音も殆どしない。  そのせいか全身に装備した武器同士のぶつかる金属音がかなり大きく響いていた。  ランプで足下を照らしながら一歩一歩進む。その度に武器が鳴る。森の動物たちにとってはいい迷惑だろう。 「なぜそのような重装備を?」  隣を歩いているオーフィスが訊いてくる。  短剣二振り、片手剣一振り、槍一本、スローナイフ十本、クロスボウ一機、その他もろもろ。  訊きたくなる気持ちも分かる。 「多い方が安心だろ? それとまぁ、新商品のテストを兼ねて」  実戦で武器を試せる機会なんてそうそうない。有効に活用しなくては。 「その強さが羨ましい。私にはとてもそんな余裕は」 「別に強くなんてないさ。言ったろ? 多い方が安心だって。臆病なんだよ、基本的に」  言って俺は微笑んだ。  そのとき不意に森が途切れ、視界が開ける。どうやら到着したようだ。山の中腹にある坑道跡。  幸いにも満月、視界は悪くなかった。  坑道の前はちょっとした広場になっている。その広場の上に十を越える影が長く伸びていた。  足場を確かめ、影の主達に歩み寄っていく。 「踏ん張りすぎると滑るぞ」  靴の下の砂利を踏みしめながら俺はオーフィスに言った。オーフィスは無言で肯き返してくる。 「おっと、そこまでだ」  ちょうど影の主たちの顔が確認できる距離まで歩み寄ったところで野太い声がかかった。  仕方なく足を止め、前に並んだどうでもいい十五のムサい顔と、二つの目当ての顔を見やる。  二つの目当ての顔とは当然クレアとミアのことだ。二人は後ろ手に縛られ、猿轡まで噛まされていた。  俺たちの姿に気付いた二人が身をよじり、呻き声を上げる。髪を振り乱して涙に濡れた顔を横に振るミア。  その一方でクレアは眉を吊り上げて自分を拘束している男の足を蹴っていた。  性格だな、この辺。 「うるせぇっ!」  怒声と共にミアの栗色の髪がつかみ上げられる。  恐怖にか、痛みにか、一度は目を閉じたミアだったが、それでも気丈に目を見開き何かを訴えるようにこちらを見つめる。  恐らくは「来ないで」だ。  隣で膨れ上がるオーフィスの怒気を肌で感じる。  牙を剥き出しにした猛犬のように、今にも跳び出してしまいそうな彼を手で制し、俺は一歩前に出た。  とりあえずリーダーだと思しき男に視線をやる。 「こいつらが世話になったようだな」  男が顎をしゃくってみせた先には、あのオーフィスを袋叩きにしていた四人がいた。  なるほどね。復讐ってわけか。 「礼でもしてくれるのか?」 「あぁ、たっぷりとな」  リーダーの一言に集団が気色の悪い笑みを浮べる。喩えるなら爬虫類系だ。 「じゃあお願いしようか。俺は風の丘亭のアップルパイが好きなんだが」  言葉を切り、笑う。 「三十秒で買って来い」 「ふざけんなっ!」 「何だよ、使えないな。じゃあ一分だけ待ってやる」 「……てめぇ、自分の立場が分かってんのか?」  おい、とリーダーが目配せする。ミアの喉元に手入れを怠っていそうな短剣が突きつけられた。 「武器、捨てろや」  リーダーの言葉にオーフィスが焦りの表情でこちらを見上げる。  俺は腰にぶら下げていたクロスボウを手に取り、言った。 「断る」  狙いはミアに短剣を突きつけている男へ。 「刺したきゃ刺せよ。だが」  可能な限り低い声を喉の奥から搾り出す。 「その子を殺した時があんたの死ぬ時だ」  男たちの間に僅かな動揺が広がるのが手にとるように分かった。  こちらが武器を捨ててごめんなさいとでも言うと思っていたのだろう。  冗談じゃない。そんなことをして何になる。四人とも死ぬだけだ。  クロスボウを構えたまま、視線だけをリーダーに送る。 「あんたの部下は命を賭して役目を全うするほどに忠実か?」 「もちろんだとも。なぁ、ハイク」 「は、はひぃ」  どう贔屓目に見てもハイクとやらの眼は「嫌です」と全力で絶叫してるんだが。  とにかく、遠慮は要らないということか。  俺は嘆息し、何のためらいもなくクロスボウのトリガーを引いた。  びん、という弦の解放音。  矢がハイクの手に突き刺さり、衝撃で跳ね上がった短剣が宙に舞う。  先手必勝!  ハイクの悲鳴、と同時に矢から大量の白煙が噴出した。俺は既に駆け出している。  あっさり混乱した男たちの怒号と煙の中、ミアの肩をつかんだ俺は後ろに引きずり飛ばした。  心配ない。オーフィスがいる。きっちり抱き止めてくれるはずだ。いなかったら……すまん。  とミアに対して詫びつつも、俺の手はクレアを求めて広げられていた。  腕に柔らかい髪の感触がかかる。クレアを抱き上げた俺はひとまず煙幕から逃れた。  すぐさま短剣でクレアの腕を縛っている縄を切る。  猿轡をはずし、お兄ちゃん、という小さな声と再会したところで煙幕は晴れてしまった。  これでは話をする暇もない。顔を震わせて半べそをかいているクレアの頭を思い切り撫で、地面に下ろす。  少し場所は離れてしまったが、クレアも拘束を解かれ、オーフィスの後ろにいた。奇襲は成功したようだ。  ショートソード、戦斧、曲刀、棍棒と統一性はないが男たちは武器を手ににじり寄ってくる。  俺は背負っていた槍、パルチザンを手にして腰を落とした。今回は初めから穂先が前だ。  しゃくりあげるクレアの声が柄を握る手を熱くする。  泣かせやがって。  舌打ちと共に胸中で呻いた。  オーフィスを一瞥する。彼の剣はまだ鞘に収まったままだった。  俺よりオーフィスの方が与し易いと思ったのか、男たちが彼を囲み始める。  俺に向かってきたのが三、オーフィスに十二だ。  まずい。さすがに三人を振り切って十二人に囲まれているオーフィスを助けるのは無理だ。  一対十二。無抵抗な一を殺すには五秒あれば十分だろう。  しかしこの期に及んでまだ悩むかあの男は。 「オーフィス! 君の後ろには誰がいるっ! 剣を抜け! 抜いて証明しろ!」  証明。言うまでもない。ミアへの気持ちだ。  好きなんだったら守って見せろ。  肩越しにオーフィスが振り返る。それでやっと炉に火が入ったのか、彼は剣を抜いた。  月光を取り込むようにして輝く刃はそれだけで男たちをたじろがせる。  斬られれば痛い、と心の底から思わせる刃。さすがだ。  それでも数の上で圧倒的に有利なせいか、男たちはじりじりと間合いを詰めていく。  先に動いたのはオーフィスだった。低い姿勢から一気に突っ込んでいく。  目標にした男の棍棒を斬り払い……と、そこで俺の視線は目の前に引き戻された。  俺を囲んでいた男の一人がショートソードを手に襲い掛かってきたのだ。  無謀、の一言に尽きる。パルチザンとショートソード、間合いの差は倍以上だ。  懐に入れば何とかなると思ったんだろうが甘い。  入れるかよ。  ショートソードを叩き落し、俺は男の肩に穂先をめり込ませた。濁音のみの悲鳴をあげ、男が地面を転がる。  追撃。俺は男の脚を突いて機動力を奪った。  始めから首でも突いて殺してしまえば手っ取り早いのだが、さすがにそういうわけにもいかない。  地面でうずくまる男から視線を移し、残る二人を睨み付ける。  穂先から血が一滴こぼれ落ちた。  男たちは動かない。顔を見合わせ、お前が先に行け、という表情を互いに向け合う。  結局二人同時に突っ込んできたところを柄で殴り倒してやった。  一人は鼻から、一人は口から血を流して地面とお友達になる。  こっちはともかくオーフィスだ。目をやれば倒れているのは三人。  幸いにもその中にオーフィスとミアは含まれていない。  だが、まだ九人残っている。きついことには変わりなかった。  短剣を振り払い、オーフィスがまた一人斬り伏せる。返す刃でさらに一人。  剣先から散った血が宙に舞い、夜空に弧を描く。  オーフィスの技は冴に冴えていた。揺らぐ事のない銀光がとてつもない速度で舞い踊る。  剣が一振りされるごとに彼の顔が自信に満ちていくのが分かった。  笑ってしまう。ちゃんと振れるじゃないか。失速もしない。  成功……したのか? 「リードさん!」  戦闘の最中にオーフィスはこちらを見て、肯いてくれた。  拳をきつく握る。彼は大丈夫だ。大丈夫なんだ。 「忘れるな! 精霊は常に君と共にある」 「はい!」  返事と共に繰り出したオーフィスの一撃が敵の数を一つ減らす。迷いの無い見事な剣筋だった。  俺はクレアが安全な所にいることを確認してから地面を蹴る。いや、蹴ろうとした。  嫌な予感、としか形容できないものが背中を駆け上る。  全身の筋肉を無理やりねじって反転した俺が見たものは、クレアの背後でナイフを振り上げているあの色素欠乏の暗殺者の姿だった。  どっから湧いて出やがった! 「クレア!」   クレアのきょとんとした顔がこちらに向けられる。ナイフを振り下ろす直前、暗殺者は俺を見て笑った。  それに何の意味があるのかは分からない。  だが俺にとっては意味があった。「時間」を手に入れることができたからだ。  パルチザンの柄にあるボタンを押し込む。  その瞬間、強力なバネに押し出された穂先が男に向かって疾走する。  穂先を追うようにしてダッシュ。驚異的な反射神経で穂先を避けた暗殺者に手にしていた柄を投げ付ける。  男がナイフで柄を払うのと、俺がクレアの手をつかんだのは同時だった。  クレアを胸に抱き、思い切り後ろに跳ぶ。男が放った横薙ぎの一撃が鼻先の空気を真横に切り裂いた。  男と距離をとったところで鼻に親指で触れる。  昨晩、家で襲撃してきた時と同じく男は全身黒一色だ。闇の色より濃い黒。 「お兄ちゃん」  震えるクレアの声を聞きながら舐めた親指は薄い鉄の味がした。  かすったか。 「大丈夫。すぐに終るさ」  涙目のクレアを一度抱きしめ、俺は両手に短剣を握った。 「これはあんたの差し金か?」 「関係ない。利用させてもらっただけだ」  男が腰を下げ、構える。それだけで大気が硬質化した。 「なぜクレアを殺そうとした。関係ないだろ」 「だがお前は少なからず動揺する。お前は邪魔だ」  男が淡々と冷たい声で言う。地面に唾を吐いた俺は短剣の柄を握り締めた。 「だったら……殺してみろ!」  先に動いたのは俺だ。受けに回ったってしょうがない。攻めろ。  武器のレンジは互いに短い。必然的に接近戦になる。  男の手は速かった。二振りの短剣を手にしている俺と手数が変わらない。その上変則的だった。  真っ直ぐ向かってきたと思った突きが下からの斬撃に変わる。  上体を逸らしてかわせばナイフは上まで上がってこない。そこで直線的に喉を狙う突きに変化する。  避ける時間はなかった。右手を振り上げ、向かって来るナイフを跳ね上げる。  がら空き!  すぐさま上体を下げ、俺は男の懐に跳び込んだ。男の肩をめがけ左手を突き出す。  その瞬間、世界が揺れた。妙な浮遊感がして、顎に受けた衝撃が脳天に突き抜ける。  顎を蹴り上げられたのだと認識できたときには、視界から男の姿は消えていた。  まずい。すぐさま男を捜すが焦点が定まらない。視界は歪んだまま、距離を取ろうにも足が言う事を聞かない。  うかつだった。最後の手段として、かろうじて動く腕を持ち上げ頭と心臓をガードする。  下半身に軽い衝撃。押された。誰に。  混乱する思考。他人のもののような気さえする体が押されるまま地面に倒れた。  俺の目に映ったのはひらひらと揺れる何か。何か……スカート? 「お兄ちゃんに触らないでよ!」  クレアが倒れた俺の前で手を広げて立っていた。足は、震えている。  当たり前だ。俺でさえこんな奴を相手にするのは恐い。それなのに……そうか、俺はクレアに押されたんだ。  俺を助けるために押してくれたんだ。勇気を振り絞って。  濁っていた意識が一点に向かって収束していく。血の味がする奥歯を噛み締め、俺は震える体を起こした。 「バカ! 嫌い! どっかいっちゃえ!」  泣きながら石を投げるクレアの肩に手をかける。震える足をねじ伏せ、俺は立ち上がった。一歩、前に出る。 「しばらく立てないと思ったが」 「立つさ。何があっても」  唇の端から血が流れ落ちた。口の中を盛大に切ってしまったようだ。 「大丈夫、って言ったのにな」  呟き、口を歪める。 「そのうえ助けられた。自分が嫌になるよ、情けなすぎて」  だからせめてこの場だけは。 「勝たせてもらう」  どうあってもだ。  短剣は両方とも手の中にはなかった。倒れた時に落としたのだろう。  俺は胸に提げたスローナイフを手に取り、狙いを定めた。  集中しろ。  スローナイフの表面を親指で撫で、確かにそこにあることを確認する。  沈黙。  男の足が地面を離れた。瞬間、とてつもない殺意が襲いかかって来る。  ナイフという牙を剥き出しにした黒い獣。それが俺を食い殺すべく走る。  俺は短く息を吐いてスローナイフを放った。  指先が痺れる。時間がひどくゆっくり進んでいるような気がした。男が手を引き、突きの体勢を作る。  スローナイフが男の耳元をかすめ、後ろに抜けたのはそれと同時だった。  男は笑ったはずだ。勝利を確信して。覆面に隠れた男の口が緩んだのが見えたような気がした。  だが、笑ったのは俺も同じだった。  俺の心臓を破壊すべく放たれたナイフが胸に触れた刹那、男が地面に倒れ伏す。  いや、俺が引きずり倒したのだ。  冷淡な男の眼に初めて混乱の光が宿る。何が起こったのか分からない。そんな顔をしていた。  勝負、ありだ。  腰のショートソードを引き抜き、俺は男の右肩を地面まで貫いた。  細身の体が弓のように反り返り、眼が苦悶と憤怒に歪む。それでも声をあげないのは流石か。  男の手から離れたナイフを蹴り飛ばした俺は中指からリングをはずした。  リングからは細い鋼線が延びており、それはそのまま男の首に巻きついている。  鋼線の終点は俺が放ったスローナイフだった。  かわされた瞬間、指で鋼線を操りスローナイフの軌道を変える。正直、やれる自信は半分も無かった。  丸太相手に練習しといてよかったよ、ほんと。  安堵のため息をつく。 「殺……せ」  細く、かすれた声で男が呻く。俺は口を歪め、男の肩に刺さったままになっているショートソードを軽く蹴った。  白く長い指を震わせ、男がこちらを睨み付ける。  仕事をまっとうできなければ死あるのみ。大したプロ意識だがこちらに押し付けるのはやめて欲しい。 「お前みたいな暗殺者でも殺せば人殺しなんだよ。死にたきゃ勝手に死ね」  口の中にたまった血を吐き出す。  オーフィスのためには今ここで殺しておいた方がいいのかもしれない。  だがクレアの前だ。それはしたくなかった。というか武器を扱ってるとはいえ俺だって普通の人間。  できれば人殺しなんかしたくない。今までも、これからもだ。  あ。   ふと、あることを思い出した俺は男が使っていたナイフを拾い上げた。それを見つめ、ふむと肯く。  リヒトフレイア……三代目か。悪くない。 「貰っとくぞ。窓の修理代だ」  実際は、ガラス窓なら余裕で二十枚は修理できるだろう。残りはまぁ、治療費とか慰謝料とか、あれやこれや。 「殺す。必ず殺す」  のろのろと立ち上がった男が搾り出すように言う。  赤みがかった瞳は空想世界の魔女が持つ邪眼のようだった。 「好きにしろ」  笑み浮べて言ってやる。男は大きく舌打ちして身を翻した。  一度目を閉じ、息を吐いて開いたときには男の姿はどこにもなかった。  ただ点々とこぼれた血が森に向かって続くのみだ。  必ず殺す、か。  そんなに心配はしてない。あの腕、元の様にナイフを振れるまでには回復しないだろう。  廃業だろうな、暗殺者。  男から取り上げたナイフを見つつ、大きく深呼吸する。気が抜けてしまった。  と、足に軽い衝撃。しがみ付いてきたクレアの頭を撫でた時、初めて心の芯から安心できた。 「わたし、泣かなかったんだよ」  そう言いながらクレアは泣いていた。小さな手で俺のシャツをつかみ、おなかに顔をうずめる。  あとはただひたすら泣き続けた。大粒の涙が上気した頬を流れていく。  俺はクレアをしっかりと抱きとめ、背中を撫でてやった。しゃくりあげる度に小さな背中が震える。 「ごめん」  謝ることしかできなかった。 「怪我、してないか?」  鼻をすすりながらクレアが肯く。それが何よりだ。  視線を転じればオーフィスの方もあらかた片付いたようだった。  怪我人を引きずり、男たちが逃げていく。  見たところオーフィスもミアも大丈夫そうだ。一対十二の状況を切り抜けたんだ。  完全復活と言っていいだろう。  剣を収めたオーフィスに向かって手を振る。が、彼はこちらを見向きもしない。  ミアと見つめ合い、何やら言葉を交わしている。  ……なんか、二人の世界に行っちまってないか?  この位置からでは二人の声は聞こえない。身振り手振りから想像するしかなかった。  まぁ、何となく分かるんだけど。  オーフィスが何事か告げ、うつむいたミアが首を振る。詰め寄るオーフィス。あとずさるミア。覚悟を決めたような間をおいてオーフィスがミアをその胸に抱いた。  逃げるように身をよじるミアを抱きしめ、彼は半ば強引に唇を奪ってしまう。  一秒、二秒、三秒。  満月と星空の下、二人のキスは続く。  結局、六秒の長きにわたって行われた愛の儀式の後、ミアはオーフィスの胸に顔をうずめたのだった。 「いいなぁ」  潤んだ目のまま、クレアがそんな感想を漏らす。 「もう少し大きくなったらな」  クレアの頭に手を置き、俺は苦笑した。  しっかしああまで変わるかね。  いくら自信が回復したからとはいえあそこまで強引に出られるとは。俺にはとてもじゃないがマネできない。  うらやましいを通り越してムカツキすらする。美形の潜在意識には雄としての自信が生まれつき刷り込まれているんだろう。  あやかりたいものだ。とりあえず拝んどくか? 「お兄ちゃん?」  祈りのポーズをとった俺にクレアが怪訝そうな顔をする。 「ご利益ご利益」 「お兄ちゃん」  クレアが俺の足をぽん、と叩いた。 「寂しいんだね」 「……頼むからやめてくれ。哀れみの眼で俺を見るのは」  ふるふると首を振るクレア。 「いいの。誰にだって辛い時はあるんだから。でも、どんなに暗い夜だっていつかは明けるし、どんなに土砂降りの雨だっていつかはやむんだよ」 「誰が言ってた? それ」 「天気読みのお爺さん」 「ありがたいような、ありがたくないような」 「あ、あとツバメが低く飛ぶと雨が降るんだって」 「そか」  微笑し、再びオーフィスとミアを見やる。二人はまだ抱き合ってやがった。  いいかげん石でも投げてやろうかと思ったが、人格を疑われそうなので止めておく。  腰に手を当てて見上げれば見事な星空だった。何はともあれ二人が幸せになってくれれば、と思う。  障害は多いだろうが今のオーフィスならば大丈夫だろう。ミアを守っていけるはずだ。  二人の行く末に幸多からんことを。そして俺に素敵な恋を。  長く尾を引く流れ星は俺の願いを聞き入れてくれるだろうか。  8  翌日、早朝。  辺りには薄いもやがかかっている。町が目覚めるまでにはもうしばらくかかりそうな時間。俺とクレアは店の前に立ち、オーフィス、ミアとの別れを惜しんでいた。  もう一日休んでいけばという俺の提案に二人は首を横に振った。あまりのんびりはしていられないらしい。これからは一直線にディストを目指すそうだ。 「本当にお世話になりました」 「あぁ、こっちも楽しかったよ」  握手をかわし、互いに肯きあう俺とオーフィス。  隣ではべそをかいたクレアをミアがべそをかきながら抱きしめていた。  手紙書くね。絶対だよ。そんなやりとりが聞こえてくる。  と、懐に手を入れたオーフィスが数枚の金貨を取り出した。 「こんな物でリードさんから受けた恩をお返しできるとは思っていません。ですが、せめて」 「いいって、別に。お金は無いより有った方がいい。こんな所で無駄遣いする必要なんてないさ」  口を開きかけたオーフィスを手で制し、俺は腕を組んだ。 「たとえ王子様でも年下からお金なんて貰えないしな。俺の中にある規則ではそうなってる」  一度言葉を切った俺は、でも、と続ける。 「俺たちのことを少しでも覚えていてくれたら嬉しいかな」  俺たちが出会った縁の証として。 「精霊鍛冶師リード・アークライトの名、一生涯忘れる事はないでしょう」  綺麗なブルーの瞳に見つめられ、俺は頬を掻いてしまった。  精霊鍛冶師リード・アークライト。胸中で繰り返してみると笑いが出た。 「ねぇ、わたしは?」 「もちろんクレアのこともずっと忘れないよ」  身をかがめたオーフィスがクレアの頭に手をやる。  クレアははにかんだような笑顔で、うん、と肯きオーフィスの手を握った。 「では、これで」  オーフィスとミアが同時に頭を下げる。 「精霊は常に君と共に在る。それを忘れなければきっと大丈夫だ」 「心に刻みます。リードさんに蘇らせてもらった精霊の力を二度と失うことがないように」  オーフィスは指先で鍔の青い石に触れ、強く肯いた。 「本当にありがとうございました」  ミアが深く頭を下げる。  もしかしたら彼女はオーフィス以上に苦労するかもしれない。それでも自分が選んだ道だ。  ゆっくりでもおっかなびっくりでもいいから真っ直ぐ歩いていって欲しい。 「ミア」  呼びかけ、微笑んでみせる。 「はい」  と返事をした彼女は「大丈夫です。任せてください」という顔をしていた。  相変わらず少し頼りないけど。  ミアにはオーフィスに内緒でプレゼントを贈っておいた。上手く使ってくれることを願う。  最後にもう一度揃って頭を下げ、二人は石畳の道を歩き出した。  胸の奥がくっ、と痛くなる。  疲れたけど賑やかだったよな。悪くない出会いだった。人も剣も。  乾いた唇を舐め、目を細める。  と、不意にオーフィスが立ち止まり、こちらを振り返った。 「最後に教えてください。リードさんはなぜ武器を手にするのですか」  突然の質問に俺は言うべき言葉を組み立てようとして、やめた。 「君に比べれば小さな理由さ」  クレアの肩を抱く。  それで十分だ。俺に民は背負えない。隣にいるちっこいので精一杯だ。  オーフィスは一度満足げに笑うと、もう振り返らなかった。  二つの背中はもやの中に溶けるように消えていき、あとには思い出が残るのみだ。 「行っちゃったね」 「あぁ」  短く返事をする。 「お兄ちゃんは精霊……ナントカ、なの?」  俺の顔を見上げてクレアが訊いてくる。  何なんだよ、その期待に満ちた目は。どう見たって御伽話に夢中になってる子供の目じゃないか。  両方の手で拳を握り、わくわくとなっているクレアに俺は小さく息を吐いた。 「残念ながら普通の武器屋だよ」 「えー、だってオーフィスお兄ちゃん言ってたよ」 「ありゃ嘘だ」 「だって、だって、お兄ちゃんが精霊の力をよみがえらせたって」 「オーフィスがそう思ってるだけ。実際は柄頭を変えてやっただけだよ」 「つかがしら?」  クレアが首を捻る。 「剣のバランスをとるために柄の下に付いてる重りのことさ」  あぁ、とクレアが手を打った。 「柄頭を重くして少し剣先を軽くしてやったんだ。オーフィスの体に合うようにな。ま、お祈りくらいはしたけどさ」  確かにオーフィスの剣は最高の一振りだった。  だがあれは飽くまでオーフィスの父親である先王のために打たれた剣。  オーフィスにとっては「使い辛い」剣だったのだ。  それもそのはず。ディストの先王はかなり大柄な人物で「大樹の王」と呼ばれたのはそのためでもあったのだから。 「全く同じ飾りを施した少し大きめの柄頭を作るんだから、結構苦労したよ」  実はオーフィスに剣を手渡した時からバレやしないかとずっと心配だった。  確かに苦労した。苦労したが本物に比べるとどうしても劣ってしまう。さすがに本物の職人には敵わない。 「でも、どうしてそんなウソついたの? 最初からつかがらし……つがかかし……つら……」 「つかがしら」 「そう、つかがしら変えるねって言えば良かったのに」 「それができれば良かったんだけどな。オーフィスにしてみれば先王が使っていた剣、そのままを使うことに意義が有ったんだ」 「どうして?」 「先王が使っていた剣を使いこなせるようになることで彼に近づけると思ってたんだろ。即ち、それは父親に認められるということだ。男にとって父親越えってのは一つのテーマでもあるしな」 「お兄ちゃんも?」 「俺はあんなもの生れた時から越えてる」  あの不良中年、どこで何をしてるやら。 「オーフィスを説得しようかとも思ったけど、単純に筋力が足りないって言ったところで納得しそうになかったし。じゃあ筋力をつけます、とか言って体壊しそうだったから」 「ふーん」 「ま、オーフィスがもうちょっと大きくなれば完全な先王の剣が振れるようになるだろ」  ちなみにミアには本物の柄頭を渡し、全てを話しておいた。  何年か後、オーフィスが真実を知ったときにどうするのかは分からない。  彼なら多分受け入れてくれるとは思うが、もし眉を吊り上げて兵を引き連れてきたら素直に謝ることにしよう。 「結局、ウソも方便ってことだね」 「そういうこと。じゃ綺麗にまとまったところで朝飯にするか」 「はーい」  大きく伸びをして、朝日に照らし出された町並みを見つめる。いつもと変わらぬいつもの朝。  今日も一日いい天気になりそうだ。  エピローグ〜プロローグ  一月ほどして、オーフィスから手紙が届いた。  さすがは王族の手紙、封筒からして見事な刺繍が施された布製だ。  そんな封筒をしげしげと見つめてから手紙に目を落とす。  なかなかの達筆だ。で、肝心の内容はと言うと。  店のカウンターに肘をついて手紙を読んでいく。  民衆の蜂起によりオーフィスが新たな王の座についたこと、剣のこと、街の様子、新たな決意、俺への感謝の言葉、色々と書いてあった。  だがそれ以上に嬉しかったのが、オーフィスがミアを妻にすることを決めたという件だ。  もちろん反対する者も多く、今王宮は大騒ぎらしい。  確かに王族と平民の結婚など前代未聞だろう。それももし成立すればミアは王女様になってしまうわけだ。  手紙には入れ替わり立ち代り朝から晩まで異口同音に「考え直せ」と言われ、鬱陶しくて仕方がないと書いてあった。  まぁ確かに自分の娘をオーフィスに娶らせ、権力を握ろうと考えていた輩にとっては死活問題だろう。  オーフィスが王としてどれだけの手腕を発揮するか、全てはそこにかかっている。  まぁ、なんというか、いきなり大仕事抱えちまったよな。大変だぜ、臣下の人間を全て説き伏せて回るのは。  手紙を片手につい笑ってしまった。  オーフィスはもう俺の立ち入れない領域にいる。  俺にできるのはこうして笑いながら、大丈夫さ、と信じる事だけだ。 「ねぇ、見せて」 「あぁ、はいはい」  横から袖を引っ張るクレアに手紙を渡した時だった。  店の入り口に大量の荷物を背負ったずんぐりとした男が現れる。 「ガルド!」  久しぶりの再会につい大声で名を呼んでしまった。  薄汚れた旅装束にもっさりとした髭。背中に背負った荷物からは数本の剣や槍が突き出ている。  間違いない。旅商人のガルドだ。  彼は世界中を回り、珍しい武器を手に入れては商店に卸すことを生業としている。  彼の紹介で取引をするようになった工房も数多くあった。 「久しぶりだな。半年ぶりくらいじゃないか? どこかで野垂れ死んだのかと思ったよ」 「わははは。世界の全てを見るまでは死なんよ」  言って豪快に笑うガルド。背中の武器が盛大に音を立てる。 「おじちゃん」 「おぉ、クレアか! 元気そうで嬉しいぞ。だがおじさんはよしてくれ。これでも二十五だ」  そう、彼は俺と同い年なのである。  明日、娘が結婚するんだと言ったところで誰も疑わないような風貌ではあるが。 「今までどこで何してたんだ?」 「いや、話せば長くなるのだがディストで足止めをくってな」  軽く目を大きくし、オーフィスから来た手紙を一瞥する。 「ふむ。ではディストの最新情報を教えてやろう」  ガルドが髭を撫で、得意げに胸を張る。もっとも、前に出たのは腹の方だったが。 「今ディストでは」 「王様が変わったんだよね」  これまた得意げなクレアの声。  沈黙。 「……なぜ、知ってるんだ?」 「いや、ディストに知り合いがいてさ」  ややこしくなりそうだからオーフィスの事は黙っておこう。  クレアに出鼻をくじかれたガルドだったが、すぐさま持ち直し再び胸を張る、というか腹を出す。 「じゃあとっておきだ。今度の新しい王様ってのが変わり者で」 「平民の女の子を娶ろうとしてるんだろ?」  再び沈黙。  あ、ちょっと寂しそうだ。 「なぜお前が知ってるんだ。ディストの国民でさえ一部のものしか知らないのに」  詰め寄ってくるガルドに目を逸らす俺。 「お、俺だって色んな情報網持ってるんだよ」 「ふん、まぁいい。じゃあこんどこそ本当にとっておきだ。新しい王様が旅の途中で出会った賢者の話だ」 「あ、それは知らないな」  俺の反応にガルドの顔がぱぁっと輝く。素直だな、おい。  わざとらしく咳払いなどして、ガルドが口を開いた。 「いやな、今の王様が持っている聖剣の話なんだが、実は先々王のものなんだと。何でも旅の途中で出会った賢者様がその聖剣に大いなる力をお与えになったらしい。悪しき心を持った者が聖剣に触れただけで霧のように消え去ったっていう噂もあるくらいだ。しかもその賢者様、このルーヴェリアにいるらしいぜ。いやー、一度会ってみたいよな」  どこか遠くを見るような眼のガルド。  俺とクレアは互いに目を見合わせ、爆笑してしまった。 「あ、お前らバカにしてるだろ。聖剣に触れたら消えちまう側の人間だな」 「賢者様、賢者様」  はやしたてるクレアに腕を組んだガルドの口がへの字に曲がる。  噂には尾ひれがつくって言うけど、なんか角とか翼とかまでついてる勢いだな。 「賢者様か。意外と近くにいるような気がするんだけどな」  と、ガルドが手をぱたぱたと振る。 「まさか。森の中で一人精神を磨いてるようなお人さ、きっと。こんな田舎町にいるもんか」 「そうかなぁ。実は流れ星に素敵な恋を願ったりする人かもしれないぜ」 「なんだよ、それ」 「さぁな」  カウンターに頬杖をついて最後に一笑いする。 「まぁいいさ。それより面白い物が手に入ったんだ。見てくれよ」  荷物を床に降ろしたガルドが取り出したのは一振りの短剣だった。  隣ではまだクレアが笑っている。俺はオーフィスから届いた手紙をこっそりしまい、カウンターに付いている引出しに収めた。  穏やかなある一日の昼下がり、俺は短剣の鑑定に取りかかる。  さぁてお仕事お仕事、と。