武器屋リードの営業日誌 番外編 その4 武器屋リードの休業日 ─シュークリームにまつわるあれこれ その2─  1  「どうしてかしら。あなたのこと見てると胸が高鳴るの」  ちろり、と覗いた女性の舌が真っ赤な口紅をひかれた唇を舐める。軽い衣擦れの音と共に寄せられた身体からは香水の匂いがした。 「生まれて初めてよ。本気で食べてしまいたい、って思ったの」  カウンターの上で豊かな胸が形を変え、細く白い指が俺の頬を撫でる。渇いた喉で生唾を飲み込んで、俺は「はぁ」ととぼけたような返事をしながら女性の大きく開いた胸元に一瞬だけ視線を落とした。たわわ、という単語が脳内をよぎる。たわわ。たわわ。と二つ。  視線に気付いたのか女性は軽く波がかった栗色の髪を耳にかけ、艶っぽく濡れた唇を俺の耳に寄せた。 「もっと見たい?」  もうこの場で襲っても神様は許してくれるんじゃないかってくらい扇情的な声が脳味噌に抜けた。じょうごで耳からどろりとしたピンクの液体を流し込まれた様な気分になる。 「そりゃあ、まぁ」  と気のないような返事をしつつも俺の中では色んなものがすでに全開だった。右から揉むか左から揉むかで脳内に住む俺市民が戦争を始める。ちなみに今は左派が優勢であるが「人の手は二本あるのだから有効活用するべきではなかろうか」と主張する第三勢力、両方一度に派の台頭も著しい。  時は乱世。まさに群雄割拠。後に高名な歴史家であるガルセビウスはこの時代を指して言ったという。 「いいからみんな滅んでしまえ」  と。  まぁ、そんな俺の脳内に住んでいる歴史ジジイのことはどうでもいい。問題は現在のこの状況である。休業日前夜、閉店間際の風の丘亭。最近は王都の秘密実験施設から逃げ出した熊と岩石と切なさの合成生物であるという噂も流れ出した巨漢のマスターはカウンターを挟んで俺達から少し離れた場所に立ち、黙ったままグラスを磨いている。  我関せず、というよりは係わり合いになりたくないといった雰囲気だ。確かに店内には微妙な空気が流れていた。小さく喉を鳴らして肩越しに振り向けばそこにはテーブル席に陣取った女性が十数人いる。  その表情はどれも険しい。が、見ているのは俺の方ではない。苛つきを多分に含んだ嫉妬の視線の全ては俺の隣に座る女性に注がれていた。  なぜか。俺がこの女性と一対一で話しているからだ。決して言い間違いではない。背後の女性達は俺を取られたことに対して嫉妬しているのだ。  リード・アークライト、二十五歳、独身、恋人なし。告白する前に俺に会うとそれは今日はやめておけという神様のお告げ、とかいうジンクスが最近十代の子の間で広がっていることにちょっと本気で傷ついたりしてる心優しき武器屋店主だ。  まぁ、基本的にそんな俺ではあるが今日は違う。ご覧の通り、はっきりきっぱりとモテていた。やっと時代が俺に追いついたか、と言いたいところだがちょっと違う。これは全て俺の左肩に乗っているシュークリーム、もとい、シュークリーム様のおかげなのだ。  ……いや、俺は至って正常だし鉄格子のついた病院にお世話になったこともない。多少妄想癖はあるがせいぜい脳内に愉快な仲間が住んでる程度だ。どうということもない。  もちろん俺だって全く疑問がないわけじゃない。でも確かにいるわけで。  確認するようにもう一度自分の左肩を見つめる。やはり間違いなくそこにはシュークリーム様が鎮座していた。見た目は何の変哲もないシュークリーム。だがシュークリーム様なのだ。  ──話は今から数時間前に遡る。  店を閉め、夕食の準備をしようと家に戻って台所に向かう。と、そこは二人の女性と香ばしい匂いによって占領されていた。正確に言えば女の子と女性、だが。二人でわいわいと騒ぎならが何やら作っている。 「何してるんだ?」  食堂から台所に顔を覗かせて訊くと、大小二つの後姿がくるりと振り返った。それぞれ長く伸ばされた銀と黒の髪が一緒に揺れる。 「シュークリーム作ってるの」  と木のへらを片手に答えたのは銀髪の方、クレアだった。腕まくりに白いエプロンをして俺を見上げるその姿は気合い十分といった感じだ。もっとも、小麦粉で頬と鼻の頭を白くしているためいまいち間の抜けた感はあるが。 「すまない。君が戻るまでには終わらせる予定だったのだが」  申し訳なさそうな顔をしたのは黒髪の女性、レイだ。彼女もクレアと同じように白いエプロンを着けており、その姿は実に扇情的……もとい、家庭的だった。細身の長身に長く伸びた黒髪。そして器量良しの美人さん。彼女はわけあって現在ウチに居候しているのだが、レイに店番を頼むとその日の売り上げが二割り増しになるという不思議な法則があった。もしくは悲しい男の性か。  なお、俺が店番をしているとあからさまに嫌な顔をしつつ舌打ちを残して去っていく友人が数名いるのだが、闇夜に乗じて一度くらい襲撃しておいた方がいいのかもしれない。 「あぁ、いや」  レイのエプロン姿になぜか照れながら人差し指で頬を掻く。そんな俺の視線に気付いたのか、レイはエプロンの端をちょっと持ち上げて微笑んで見せた。 「久しぶりに着けたよ、エプロンなんて」  普段は凛としているレイが不意に見せたそのかわいらしい仕草に、俺はあはははと笑いながらクレアの肩をぺしぺしと叩いた。意味はない。 「楽しそうだね」 「楽しいぞ」  半眼でこちらを見上げるクレアに向かって素直に答え、大きく肯く。うむ。やはりエプロンは良いものだ。発案者にはぜひとも勲章を送るべきだと思う。しかしエプロンの発案者であるエプローナ夫人(仮名)に勲章が送られたという話は寡聞にして知らない。えぇい、国は何をやっとるか、国は。  と、右斜め上四十五度を見ながら権力者の怠慢に対し正当な怒りをぶつけているとクレアが言った。 「あれ絶対やらしいこと考えてる顔だよ」 「責めては駄目だ。むしろ頭の中だけで完結していることを良しとしなければ」  挙句レイまで。 「そうだね。本人幸せそうだし」 「彼の楽園を侵す権利なんて誰にもないんだ。誰にもな」 「……いや、とりあえず物凄い気の毒なものを見るような目をこちらに向けるのをやめてもらえませんかお嬢さん方」  女性二人に向かって呻く。 「だって、ねぇ」 「あぁ……うん」  クレアとレイはたったそれだけの言葉で意思を同調させ、今度はかわいそうな人を見るような目をこちらに向けた。  うぅ、負けるな俺。 「だっ、大体君らはそう言うが男なら誰しも頭の中に夢の国をこしらえてるもんだ」  腕を組み、俺は一生懸命胸を張ってそう言った。俺は何一つ間違ってない。正義は我にあり。たとえこの場にいなくとも世界中の男達が今、この瞬間涙を流しながら肯いているに違いない。  クレアとレイはそんな俺の顔をしばし見つめ、 「次何だっけ?」 「まずは卵黄と牛乳だな」  すがすがしいほどに無視した。二人はそのままシュークリーム作りに戻ってしまう。なぜだろう。今日に限ってランプの灯りが目にしみる。愛の反対は憎しみではなく無関心。果たして誰の言葉だったろうか。  とにかく俺は多大なる敗北感というか寂寥感を胸に台所から離れ、食堂の椅子に腰を下ろした。そのままテーブルに突っ伏して顔を台所の方へ向ける。  女性二人は実に楽しそうだった。わいわいきゃーきゃーくすくすけらけらと騒ぎながらシュークリーム作りに精を出している。どうやら俺という人間の存在は黒歴史として封印されてしまったようだ。  仕方がない。世界征服を目指すどこぞの皇帝が古文書を頼りに俺の封印を解きに来るまでしばしの眠りにつくことにしよう。しかし忘れるな。この世に光ある限り影もまた必ず存在する。全ては表裏一体。我もまた永遠なのだ。 「あーはっはっはっはー」  テーブルに突っ伏したまま笑ってみた。当然のように反応はない。姉妹のように仲の良いクレアとレイの後姿を見つつ心の中でちょっとだけ泣いた俺は立ち上がり、本を取りに自室に向かった。  愛の反対は無関心。愛の反対は無関心、と呟きながら自室の本棚に向かい、同じように呟きながら食堂に戻ってくる。  と、そこには出て行ったときと違う甘い匂いが漂っていた。恐らくシュークリームに入れるカスタードクリームの匂いだろう。鼻から抜けた匂いが口に入り、舌があのまろやかな甘さと舌触りを想像し始める。  よく考えたら夕食もまだなわけで、すきっ腹にこの匂いは耐え難いものがあった。締め付けられるような感じがするお腹を服の上から押さえて席に付く。気を紛らわせるには本に集中するしかないようだ。  ページを開き、文字を目で追い始める。 「これで全部だな」 「えーっと、ちょっと待ってね」  台所からレイとクレアの声がする。頭の半分でそれを聞きながらもう半分で本を読む。 「卵の黄身でしょ、牛乳でしょ、お砂糖でしょ」  ふんふん、と本の内容とクレア、どちらにともなく胸中で返事をする。 「小麦粉でしょ、血煙草の根っこでしょ、バターでしょ、レンカルンカの黒焼きとアカマダアラハンテンダケの胞子。最後にミナゴロシサカダチウオの乾燥水袋。うん、完璧!」 「大丈夫そうだな」 「どこがだっ!」  反射的に椅子を蹴って立ち上がる。何なんだその奇妙奇天烈摩訶不思議な材料の数々は。 「おかしいだろ! どう考えても!」  俺の抗議にクレアはしばし眉根を寄せ、ぽん、と手を打った。 「忘れてた。最後に乙女の恋心」 「そういう問題じゃねぇ」  呻く俺にクレアは腰に手を当ててこちらを見上げた。何がそんなに不満なの? と言わんばかりの顔をしている。こちらとしてはお前が自信満々な理由を一晩かけて訊きたいんだが。 「心配するな、リード」  そんな俺にレイが笑顔で声をかける。 「大抵の物は煮れば食べられる」 「笑顔が素敵なのは結構ですがそういう問題でもないんです元旅の人」  レイはレイでしばし顎に手を当ててうつむき、あぁ、と顔を上げた。 「キノコは身体にいいんだぞ。好き嫌いはよくないな」  レイも大分この町の空気に馴染んできたようである。それがいいことなのか悪いことなのかはさっぱり分からないが。 「とにかく! 俺の知っているカスタードクリームは紫色の煙を吐いたりはしないっ!」  かまどの上でがたごとと、何か新手の生物でも誕生したんじゃないかという風に揺れる鍋を指差し、俺は断言した。あれは断じてシュークリームの中に入っているものではないし、入れていいものではない。  が、一度目を閉じたクレアはこざかしいとでも言いたげに鼻で笑うと逆に俺を、びしっ、と指差した。 「食べるのお兄ちゃんだけだし」 「……お前には製造者の責任というものについて一度説教しなきゃならんようだな」  口元を引きつらせて台所に踏み込む俺から逃げるように、クレアがレイの陰に隠れる。 「あ、あのなリード、クレアも悪気があったわけじゃないんだ。ほら、これ」  そう言いながらレイが差し出したのは一冊の本だった。黒一色の表紙にはこうタイトルが記されていた。  『実践 初めての錬金術』  またこいつか、と俺は本を受け取りつつ大きなため息をついた。ちなみに過去こいつのせいで貴重なシュークリームが一つ犠牲になっている。悲しむべき歴史だ。ていうか国は何をしている。禁書にしろ、禁書に。 「栞が挟んであるだろ」  レイに促されるままそのページを開く。そこに記されていたのは「意中の人のハートを射止めるシュークリームの作り方」だった。いやだから錬金術の実践書にこんなことが書いてある時点でおかしいのだがとりあえず今はおいとこう。  俺は本から目を離し、依然として紫色の煙を吐き出している鍋を見やった。それから大きく息を吐いてクレアの顔を見つめる。クレアはレイのエプロンを握り、幾分しょぼんとした表情でうつむいた。 「それでね、お兄ちゃんのハートを止めようと思ったの」 「射を抜くな、射を」  まぁ確かにあんなものを口に入れた日には一生笑えなくなりそうではあるが。もしくは三日後に腹を突き破って何かが出てくるか。 「そういうわけだからあまりクレアを責めるな。君も少しは女心というものを分かれ」 「……命令?」  レイが大きく肯き返す。 「いやにクレアの肩を持つじゃないか」  俺の台詞にレイは自分に抱き付いているクレアの頭を撫でた。その眼差しはあくまで優しい。 「私にもクレアの気持ちは分かるからな」 「女同士だから、ってやつ?」  と純粋に尋ねたつもりだったのだがレイにはそれが気に入らなかったらしく、彼女は眉間に皺を寄せて大きなため息をついた。 「だから君は駄目なんだ」 「駄目なんだ」  レイの口調を真似てクレアが後に続ける。全くもってわけが分からん。いわれのない非難に憤りさえ覚える。とりあえず鼻から息を吐いた俺は腰を手に当てて胸を張った。 「何とでも言え。俺が駄目なのは今に始まったことじゃない」  沈黙。 「……自分で言ってて虚しくないのか、それは」 「自らの弱さを認めることで人は強くなったりならなかったり」  再び沈黙。鍋が揺れるがたごとという音だけが台所を漂う。 「お兄ちゃん、そろそろ自分の人生ちゃんと考えた方がいいと思うよ」 「真顔で言うな小娘」  呻く俺にクレアとレイは顔を見合わせて同時に肩をすくめた。何なのだろうか、この酷く納得いかない感じは。 「とにかく、まずはこれをどうにかしてくれ」  俺は先ほどに比べ明らかに濃さを増している紫色の煙を手で払った。煙の中に時々人の顔のようなものが浮き上がって見えるのは気のせいだろうか? これだけ得体の知れないものなのに匂いが普通のカスタードクリームと同じなのがむしろ怖かった。  はーい、と返事をして足上げ台に上がったクレアが鍋を覗き込む。おいしくなりますように、おいしくなりますように、と節をつけて歌いながら手にした木のへらでクリームをかき混ぜるクレア。  そういうところはやっぱり女の子、まだまだかわいいと言うか、何と言うか。 「おいしくなりますように♪ おいしくなりますように♪ あ、何かこっち見た。おいしくなりますように♪」 「いるのか! 中に何かいるのかっ!」  応えるようにがたごとと揺れる鍋。もはやここは一般家庭の台所ではない。気が付けば不定形に歪む人間の顔が辺りを飛び回り、壁にかけてある調理用具が微かに震えだしていた。風の音とも違う、唸り声のようなものが低く足元から響く。  クレアは木のへらで鍋の縁を二度叩き、それをそのまま魔法の杖のごとく頭上に振り上げた。その隣で『実践 初めての錬金術』を手にしたレイが例のページ(断じて駄洒落ではない。名誉のために言っておく)を開き、支える。 「絶望を父とし、悲嘆を母とし、死の揺りかごにて育つ者。血を最良の友とし辛苦を伴侶に選ぶ者。今ここに我は求め訴える」  そこで言葉を切ったクレアは俺の方を見て頬を赤くした。 「お兄ちゃん大好き」 「微妙に嬉しくないんだが」  俺の素直な感想を黙殺し、クレアは鍋の方に向き直る。 「あとは難しい言葉が多かったから中略後略」 「適当だな、おい」 「大丈夫。気合いと根性でカバーするから」  俺は三秒ほど何を言おうか考え、 「……まぁ、好きにしてくれ」  結局腕を組んだ。それ以外俺に何ができると言うのだ。決してもうあれこれ考えるのめんどくさいとかそういう理由で動かないのではない。俺は能動的に動かないのだ。動かないこともまた立派な選択肢の一つである……と近所の事なかれ主義者も言っていた。 「何はともあれ届けて乙女の恋心。ぷっぷくぷーのぺー」  その内容はさておきクレアの呪文が完成する。鍋は相変わらず紫色の煙を吐き出し続けていた。が、それだけだった。特に目立った変化はない。 「ぺー」  変化はない。 「ぽー」  変わらない。 「ぱぺ?」 「ぷぽー」  言ってレイが鍋を指差す。 「ぺぷ!」  本を指差すクレア。 「ぷー」  悲しげな表情で首を横に振るレイ。 「ぺぽぉぉぉ」 「ぽぴぽぴ」  がっくりとうな垂れたクレアの肩をレイがぽんぽんと叩く。どうやら二人の間では意思の疎通ができているらしい。どーでもいいがそれでいいのかレイ。君のポジションはそこじゃなかったはずなのだが。どうも彼女がこちらに寄ってきているような気がしてならない。 「ま、結局のところ大騒ぎしてできたのは紫色のカスタードクリームだけか」  やれやれ、と首を振ったときだった。 「そうでもないぞ」 「なあっ!」  いきなり背後からした声にのけぞってしまう。その瞬間、俺は真っ先に自分の頭を疑った。もし俺の頭にカスタードクリームではなくちゃんと脳味噌が詰まっているのなら、見えてはならないものが目の前にあったからだ。  薄まりつつある紫の煙の中、シュークリームが宙に一つ、浮いていた。  その女性に人気のお菓子は何かを確かめるように左右を見回し、クリームを入れるための切れ目を口の様に開いて喋り出す。 「ふむ。久しぶりの現世、悪くない」  俺は一歩あとずさり、レイの肩を叩いた。 「ちゅ、宙に浮いたクリームがシューでぱくぱく」 「落ち着けリード・アークライト。何がどうしたんだ」 「だって! だって!」  と子供のように言って宙に浮くシュークリームを指差してみるが、レイは眉根を寄せて首をひねるだけだった。俺の言いたい事が理解できないらしい。仕方がないので矛先をクレアに向ける。 「見えるだろ、な、な!」  詰め寄る俺にクレアはしばし宙を見つめ、なぜか泣きそうな顔をした。 「たとえお兄ちゃんが寂しさのあまり空気とお喋りできるようになっても、私がちゃんと面倒見るから。ね、だからがんばろ? きっと良くなるよ。どんなに辛くても人は生きなきゃいけないんだよ」  えぇい、こいつは別の意味で駄目だ。 「おいそこの男。諦めろ。我の声も姿も貴様にしか届いていない」  背後から聞こえたそんな台詞に俺はゆっくりと振り向いた。 「なんでだよ……」 「え?」  声が震える。呆けた様に切れ目を半開きにするシュークリーム。 「またマイノリティーかよ! たまには多数派でいさせてくれよ! 迫害されるのはもう嫌なんですおかーさん!」  頭を抱えて叫ぶ俺。レイが怯えるクレアを守るように抱き締める。 「いや、だって貴様が我を召喚したのだろ?」 「違う! 主犯はこの二人で俺は見てただけだ。大体、二十五の男がシュークリームを召喚する理由がどこにあるってんだ! そもそもお前は何なんだ!」 「我か? 良くぞ訊いてくれた」  シュークリームがぐっと胸を張った……ような気がした。 「万物に宿る数多の精霊。その眷族にして甘味一族に属す者。シュークリームの精霊とは我のことだ」 「まんまだな」 「ちなみにスローガンは『庶民の味方』」 「お手軽感を前面に押し出す戦略は間違ってないと思うぞ」  シュークリームの精霊とやらに対してそんな評をする俺を見ながら、クレアとレイがこそこそと相談している。病院とか拘束とか薬とか行動療法とか生きてく強さとかそんな単語が聞こえてくるがこの際無視してもよさそうだ。  とにかくこのままではどうしようもないので、クレアとレイの「勝手に前向きな」視線に見送られつつ俺は台所を抜け出した。無言で食堂を横切って廊下に出る。そこでシュークリームの精霊に向かって手招きした俺は大きく息を吐いて板壁に背を預けた。ひんやりとして心地よい。  その前に駄菓子以上高級菓子未満の精霊が漂ってくる。俺は人差し指でさらに手(指?)招きして、シュークリームの精霊を眼前まで呼び寄せた。香ばしい皮の匂いと甘いクリームの匂いに食欲という本能が「貪り喰え」という命令を下す。  口内にあふれた唾液を理性と根性で飲み込んだ俺は小声で話しかけた。 「そもそも精霊なんてのは信仰の中にのみ存在するもんだろうが」  魔法も魔術も呪術も勇者も聖剣も魔王も神も精霊も、ついでに俺に愛を囁いてくれる女の子も物語の中にしか存在し得なかったはずだ。  俺は確かに精霊の存在を信じている。が、それは精霊の存在そのものを信じてるのではなく、信じるという行為こそが万物に宿る精霊を生むと信じているから信じているのだ。何だかよく分からない説明だがとにかくそうなのだ。  精霊とは信じるという行為である。というのが俺の持論だった。  が、そんな俺に対してシュークリームの精霊は甘い匂いのするため息を吐き出した。あぁ、もう、おいしそうだなこんちくしょう。 「見識の狭いやつめ。目に見えるものだけが真実だと思わぬことだ。人間の五感で感じられるものなどたかが知れている。この世界を構成する要素のほんの一部分でしかない」  もしかしたら今俺は世界の深遠に触れているのかもしれない。誰一人として知り得なかった世界の真の姿。それが今解き明かされようとしている。  ……目の前の喋るシュークリームによって。 「嘘くさ」 「失礼な! 大体、人間ごときが……ぐうっ」  俺は目の前でわめくシュークリームの口を塞ぐように手でつかんだ。一応握りつぶさない程度に。 「まぁ、とりあえずお前のことはシュークリームの幽霊ということで処理しておく。幽霊までは許容範囲だからな、俺の人生」 「ふざけるな! 何が悲しくてあのような下等な存在と」 「喰うぞ」  その一言で大人しくなるシュークリーム。口調こそ偉そうだが案外気弱なのかもしれない。 「で、何で俺なんだ?」 「なぜと問われても我は貴様の思いに呼ばれて出てきたのだが」 「だからさっきも言ったようにお前を呼び出したのは俺じゃなくてあの二人なんだって」  食堂を一瞥し、腰に手を当てる。いや、そもそも『実践 初めての錬金術』に書いてあったのは「意中の人のハートを射止めるシュークリームの作り方」であって「シュークリームの精霊を呼び出す方法」ではなかったはずだ。  ということは……。 「すまん。何かの手違いだ。飴玉やるから帰ってくれ」 「馬鹿を言うな人間! 勝手に我を呼び出しておいて帰れだと? 傲慢にも程があるぞ! 第一!」  そこで言葉を切り、自称精霊は大きく息を吸い込んだ。手の中でシュークリームが少しだけ大きくなる。 「このまま何もせずに帰ったら他の精霊にいじめられるだろうが! 貴様は知らんだろうがショートケーキの精霊は物凄く陰険なのだぞ!」  と、不意に手に持ったシュークリームが震えだした。 「うぅ……ちょっと人気があるからって威張りよって。私が何をしたというのだ」  こいつはこいつで色々と苦労があるようである。そう思うと不意にこのシュークリームに親近感が沸いてきた。こういうのを同病相哀れむと言うのだろうか。  俺はシュークリームから手を離して耳をかいた。まぁ、話くらいは聞いてやらねばなるまい。虐げられし者人間代表として。 「俺の思いに呼ばれて出てきた、って言ったよな。具体的に……どういうことなんだ?」 「なに、単純な話だ。三人の中で貴様の思いが一番強かったのだ。『異性の気を惹きたい』という思いがな」  俺はしばし天井を見上げ、それから視線を落として自分のつま先を見つめた。  そのまま五秒ほど沈思黙考する。  否定できん。どう足掻いても。  顔を上げた俺はシュークリームを見つめ、人差し指を突きつけた。 「勝ったと思うなよ!」 「何なのだ貴様は……」  困ったような声でシュークリームが呟く。とりあえずそれは無視して周囲を見回した俺はシュークリームに口を寄せた。 「で、それについて何とかしてくれたりするのか?」  俺の問いにシュークリームが自信ありげに笑う。それから大きく肯いた。要するにシュークリームの角度が変わっただけなのだが。 「期待していいぞ。我ら甘味一族は人の……特に女子(おなご)の心を捕えることには長けておるからな」  なるほど確かに一理ある。俺とシュークリーム、二つ並べて女性に人気投票やらせたら絶対負けると思うし。  ……うるさい。正確な現状認識こそ問題解決への糸口なのだ。 「俺は何を?」 「何もしなくてよい。我と共に外を歩くだけで女子たちが寄って来る」  それはまた夢のような話だ。実現すれば、であるが。 「で、失敗した時の話だが……喰うから」  シュークリームの動きがはたと止まる。三秒の静寂。 「のっ、望む所だ」  その声は明らかに震えていた。自信あるんじゃなかったのかよ。 「だがこちらにも条件がある。成功した暁には……」  何だよ。まさか魂をよこせとか言うんじゃないだろうな。 「我をシュークリーム様と呼び、ちょっとでいいから敬ってくれ」  もしシュークリームに肩があったら俺は間違いなくぽんぽんと叩いている。これほど不憫という単語が似合うシュークリームも珍しい。 「結構苦労してるのか?」 「割と」  俺は小さく二度肯き、廊下から食堂を覗いた。クレアとレイはテーブルにつき、真剣な表情で向き合っている。どうやら二人は俺の頭に住んでいる愉快な仲間たちをジェノサイドする算段をしているらしい。  ときにクレア。お前今、殺虫剤って言ったろ。兄はせめて人間らしく死にたいです。  とにかく喧々諤々と続く議論に背を向けて、俺は俺にしか見えないシュークリームと共に町に出ることにした。  2  で、時と場所は現在風の丘亭に戻りこの状況である。家を出てから風の丘亭に至るまでの詳しい経緯は省いてもいいだろう。シュークリームを肩に乗せて街を歩いていたら女の子達がわらわらと寄って来て、みんなで風の丘亭で飲もうということになり、リード君うはうはのうっしゃうっしゃでシュークリームがシュークリーム様に格上げ「見てごらん世界はこんなに美しい」というタイトルのポエムを心の奥で紡ぎ終えた頃にはカウンター席で妖艶な美女に口説かれていた、とこういうわけだ。 「近くの宿に部屋をとってあるの」  女性の手が俺の太股を撫でる。俺的緊急事態になぜかカウンターを挟んで立っているマスターに視線を飛ばしてしまった。マスターは相変わらず「我関せず」の体でグラスを磨き続けている。が、そのグラスがさっきから変わっていないところを見るに元騎士団長であってもこの空気には耐えられないものがあるらしい。  よく見れば、戦鎚で殴っても傷一つ付かなそうなマスターの額には大粒の汗が滲んでいた。 「お互い大人なんだもの。後腐れなく、ね」  乾いた音がして、マスターが手にしているグラスにひびが入った。同時に背後に陣取る女の子たちの発する空気が嫉妬から殺気へと変化する。ハエくらいなら余裕で落としそうなほどの刺々しい空気を背中に感じつつ、俺は喉を大きく鳴らして唾を飲み込んだ。  鈍感なのか、それとも余裕なのか、女性はその他大勢の女の子達を気にする素振りも見せない。それどころか俺の太股に置いた手を上へと這わせていく。  いやあのおねーさんそれ以上は……ああん。  となりそうなところで脳味噌がかろうじて理性を発揮し、俺は自らの手を女性の手に重ねて押し止めた。いくら女性に関しては砂漠の砂より乾いた生活を送っているとはいえ、こんなところで開戦に踏み切ってしまうほど我が国の将軍は血に飢えてはいない。むしろ「戦争のやり方を忘れたであります」とそろそろ本気で言われるんじゃないかと、そっちの方が心配だったりもする。  女性はカウンターの下で重なった手に視線を落とし、それからこちらを見て微笑した。 「嬉しい」  どうやら俺はオーケーのサインを出してしまったようである。女性は小さな衣擦れの音をさせて、すっ、と立ち上がると数枚のコインをカウンターに転がした。それだけで溜息をつきたくなるような香りがする。 「いい女ってのは匂いから違うんだよ。養うべきはまず目より鼻だ」  自称この町の夜の帝王である友人がグラスを傾けながら言っていた台詞を思い出す。なお、そいつはその台詞を言った五分後に「そろそろ帰らないとカミさんに怒られるから」と飲み代を俺に押し付けて帰っていった。  立ち上がり、俺も懐から財布を出そうとした。この女性に口説かれる前は背後にいる女の子達と飲んでいたわけで、その分は払わねばならない。が、女性は俺の胸に手を当てて制すともう一枚コインをカウンターに転がした。 「これ、あの子たちの」  女性がマスターに向かって言う。マスターはカウンター上のコインをちらりと見やり、小さく肯いただけでひびの入ったグラス磨きに戻ってしまった。 「いや、あの」  自分で払うと言うべきか礼を言うべきか迷った挙句、とりあえず声だけは出す。そんな俺の唇に人差し指をあて、 「あなたにはこれからいっぱいお仕事してもらうから、その分。ね」  女性は慣れた手つきで(おかしな話だがそう思えた)俺の腕をとった。  いっぱいお仕事。いっぱい。そして二の腕にあたる似たような響きの柔らかいやつ。  間違いない。このままだと俺は今夜一晩この女性と同じベッドの上で過ごすことになる。だがよく考えろリード・アークライト。お前には家で帰りを待つ幼い従妹がいるはずだ……なんてことはこの際脇に置いておく。家にはレイもいることだし、寂しくはないだろう。  問題は、上手くいきすぎているという点だ。俺は自分の左肩に乗っているシュークリーム様を一度見やり、そこにいることを確認した。  シュークリーム様には女性の心を惹き付ける不思議な力があるという。確かに町を歩けば女の子達が寄ってきたし、今こうして美女に腕を組まれてもいる。だがどうしても腑に落ちないのだ。  俺が女性にモテているという事実が。  ……うるさい黙れこんちくしょう。  普段残り物しかやってない犬に気まぐれで高級な肉をやったらびっくりして吐いてしまった、みたいとでも言えばいいのだろうか。  実はこの町で古くから行われていた謎の儀式において生け贄にされる俺に最後の思い出を作ってやろうと、町のみんなが総出で騙してるんじゃないかという気さえする。で俺の死後「でも……あの時のあいつ、笑ってた。きっと幸せだったんだと思う」とか墓の前で言われて勝手にいい話にされるに違いない。  絶対そうだ。俺の友達はそういうことをする。 「幾らで雇われたこの上の下菓子の精霊っ!」 「相変わらず己の妄想を疑わんな、貴様は」  呆れ声のシュークリーム様。クリームを入れるための切れ目が一度開き、閉じる。溜息でもついたのだろう。甘いクリームの匂いは相変わらずだった。 「どうしたの?」  隣にいる女性が不思議そうな顔を俺に向ける。シュークリームの精霊と喋ってましたと言うわけにもいかず曖昧な返事を返す俺に、女性は「緊張してる?」とからかうような笑みを浮かべた。 「緊張というか、疑念が。……世界に対する」  そもそもなぜ俺はシュークリームの精霊などという突拍子もないものを受け入れたりしたんだろうか。我ながら心のスペースに余裕とりすぎじゃありませんか? 明日目が覚めて隣に人語を操るイカが寝ていても普通に「コーヒー飲む?」とか訊いてしまいそうな自分が怖かった。 「哲学者なのね。私に答えを与えてあげることはできないけど……疑念を忘れさせてあげることはできそう」  そう言って笑った女性は実に楽しそうだった。本来なら俺も微笑でも浮かべつつ「お手柔らかに」とか返すべきなのだろうが、そんな余裕はなかった。  女性が俺の腕を引いて歩き出す。もう考えるのはやめよう。良識ある人々は俺のことを刹那主義者、快楽主義者、堕落主義者と罵るだろう。しかしいいのだ、それで。時に立ち止まり、空を見上げる瞬間というものが人には必要なのではあるまいか。  特に俺には。  要するに俺の脳内で今この瞬間「揉」が「疑」を崖から蹴り落とした。  人間とは悲しい。生きることが即ち罪であるとはこういうことなのですね、神様。  と、友人の修道女に聞かれたら礼拝堂で半日説教されそうなことを考えつつ、俺は女性と一緒に歩き出す。この時、既に俺の頭の中はいっぱいによく似た響きの柔らかいやつのことで八割が埋まっていた。歩くたびに脳味噌はプリンのごとく揺れていることだろう。 「待ちなさいよ」  そんな俺のプリン脳に、不意に一かけらの氷が落とされた。席を立った女の子が一人、店を出ようとした俺と女性の前に立ち塞がったのだ。その表情はかなり険しい。もっとも、険しいのはその女の子だけではなく、その辺りに座っている女の子達全てが同じ表情をしているわけだが。 「悪いけど返してくれる? 私たちのだから、それ」  腰に手を当てて俺の隣にいる女性を睨む女の子の目はかなり挑戦的だった。が、女性はそんな女の子の怒気を受け流すように微笑し、俺の肩に頭を預ける。揺れる髪が何よりも雄弁に余裕を語っていた。  女の子の口元が歪んだ。奥歯を噛み締めたのだろう。俺が人様の美醜について……女性にモテるためにシュークリーム様なるクリームの代わりに緑色の脳味噌が詰まってそうな新種のなまものまで頼りにした俺が言うのも何であるが、原石の時点で二人に差はなかったように思える。問題はその後だ。  要するに、カットと研磨において俺の隣にいる女性の圧勝だった。それがより田舎の町娘然とした女の子を苛立たせているのだろう。  しかしよく考えてみたらこれはかの有名な「あぁっ、私のために争わないで」シチュエーションではなかろうか。まさか自分にこの台詞を言える瞬間が訪れようとは。やはりシュークリーム様は偉大だ。 「クリームの代わりに以下略とか思ってすまん」 「中途半端に素直なのは一番タチが悪いぞ、武器屋」  そんなシュークリーム様のありがたいお告げを右から左に聞き流し、俺は女性と女の子の顔を交互に見つめた。伝説のシチュエーションはさておき、物理的な争いになる前に止めなければならないのは確かだ。  それで、あー、その、と声を出そうとした時だった。 「どうしてあなたのなの?」  女性が発した穏やかな声に空気が硬質化する。  いや、あの、と口を開きかけた俺は、 「どうして? 年をとると状況の把握もできなくなるのかしら、オバ様」  女の子のそんな台詞にばっさりと斬り捨てられた。  空気にひびが入るぴしぴしという音を心の耳で聞きながら女性の顔を盗み見る。微笑こそ消えていなかったが、僅かに持ち上がった眉が怒りのレベルを明白に指し示していた。  空気が硬い、重い、痛い。  もう「私のために争わないで」というより「口から泥水飲んで鼻から飲料水出すくらいの芸は見せますからどうか争わないで下さい」という状況のような気がする。  と、不意に女性が組んでいた腕をほどき、俺から離れた。見れば持ち上がっていた眉も元の位置に収まっている。 「そうね、私の方が大人なんだから少しは我慢しないとね」  どうやら最後の一線で退いてくれたらしい。張り詰めていた空気の糸が緩み、俺は胸中で安堵の溜息をついた。女性は俺に「ちょっと待ってて」と言い残し、カウンターの方へ歩いていく。何やらマスターと二、三言葉をかわして女性は戻ってきた。  その手に握られていたのは一本の包丁だった。女性の表情に変化はない。ただ握られた包丁がランプの赤い灯を鈍く照り返す。  まぁ何てよく切れそうな包丁なのかしら。さすがだね、研いだ俺……って自分の仕事を自画自賛してる場合じゃない。 「何考えてるんだ! 大体何でマスターも包丁なんて渡」  俺の台詞を遮って銀光が閃いた。  女性が振り抜いた包丁が俺の肩口を服ごと切り裂き、止まる。痛みに目をやればぱっくりと裂けた袖の中に赤い線の刻まれた自分の腕を見ることができた。とっさに避けなければ骨まで達する傷になっていたかもしれない。 「あら。避けたらダメじゃない」  口を半開きにした俺に向かって、女性は、いけない子ね、とでも言いたげな笑みを浮かべてみせた。どちらかと言うと女性の方が、頭のいけない子、のような気がするのだが。というか、俺はなぜ切りつけられたのだろうか。理由が全く分からない。愛情表現にしても少しばかり過激な気がする。  まさか伝説のシチュエーションその2「あなたを殺して私も死ぬっ!」に突入したんじゃあるまいな。にしては彼女に別れ話を切り出した覚えもないのだが。それとも何ですか。ちょっとモテたらお前は即死ね、とかそういうことですか神様。 「今度はじっとしててね。腕の一本でも分けてあげれば彼女たちも満足するだろうし。それから二人でゆっくり楽しみましょ」  肩を押さえる俺に女性が言う。語尾にハートマークでもついてそうな声色だが、俺にしてみれば禍々しく脈打つ悪魔の心臓にしか思えなかった。 「何言ってるの?」  腕を組んだ女の子が女性に向かって呆れ声で言う。  うん、そうだ。一体何を言っているんだ、君は。 「最低でも腕二本は置いていってもらうわ」  えぇい、こっちもかよ。  そもそも、分けてあげれば、ってどういうことだ。俺の腕なんか貰ったところで何の意味がある。部屋に飾るにしては少しばかり悪趣味じゃないか?  というかどう考えても状況が異常だ。何より異常なのはマスターが女性に包丁を渡したこと。刃物、というものについては誰よりも体で知っているだろうに。  俺の視線を受けたマスターは一瞬手を止め、それでも止めただけでまたひびの入ったグラスを磨き始めた。  やはりおかしい。どう考えてもおかしい。そしてふと思う。  よく考えたら左肩に喋るシュークリーム乗せてる俺が一番おかしいのではなかろうか。  シュークリーム様を見つめ、問う。 「お前のせいか」 「さもありなん」  その声は自信と達成感に溢れていた。だからたとえ俺が「食べ物は粗末に扱ってはダメよ」という母親の教えを破ってシュークリーム様を放り投げ、見事なボレーキックで店の端まで蹴り飛ばしたとして、それが一体何の罪になると言うのか。 「何をするか人間!」 「うるせぇっ! この中間管理職菓子!」  店の端から当たり前のように叫ぶシュークリーム様に向かって怒鳴り返す。  ここにきて、俺はようやく状況を理解した。 「確かに俺はシュークリームのように女性にモテたいとは思った。だが誰が俺自身をシュークリームにしろと言った!」  つまりは、そういうことだ。子供の頃のことを思い出す。よく母親に言われたものだ。  一つしかないものはみんなで分け合って食べなさい、と。  相変わらずの微笑を浮かべたまま、包丁を手に女性がにじり寄ってくる。それは俺とシュークリームを半分こする母親の表情と同じなのだが、同じなのだが……。  生唾を飲み下し、一歩あとずさる。  不意に誰かがつぶやいた。 「わたし、耳がいいな」  かたん、と椅子が鳴る。立ち上がった女の子の手には食事用のナイフが握られていた。 「眼球、おいしそう」  また一つ、かたん、と椅子が鳴った。女の子の手にはフォークがあった。 「血を飲みたいな」 「唇はわたしのよ」 「心臓、どんな味がするのかな」  堰を切ったように、かたん、かたん、かたん、と椅子が鳴る。  俺はさらにあとずさり、助けを求めてマスターに視線を飛ばした。が、マスターはやはり俺を一瞥しただけでグラス磨きに戻ってしまう。  背中を冷たい汗が伝った。こちらに向けられているのは間違いなく好意の眼差しである。俺は得物を手に笑顔で向かってくる女の子達にゆっくりと首を横に振って見せた。それでも女の子達は止まってくれない。 「ま、昔からエロいものを前にした男と甘いものを前にした女を止めるのは不可能、と言うからな」  いつの間にやら左肩に戻ってきたシュークリーム様が達観した口調で言う。とりあえず俺はその中堅菓子の精霊に渾身のデコピンを叩き込み、夜の町に跳び出した。  3  なぜこんな事になってしまったのだろうか。  いや、理由は分かっている。 「おぉ、絶景かな、絶景かな」  俺の左肩に乗り、背後を見ながら王様気分を味わっているこいつのせいだ。 「この光景を見れば故郷の両親もきっと喜ぶことだろう。あぁ、ムゥちゃん立派になって、と」  予想外にかわいらしいこいつの本名については置いておく。そもそも故郷ってどこだ。とりあえずこいつの両親(髭の生えたシュークリームと口紅を塗ったシュークリームに違いない)に損害賠償という名の金銭的誠意を見せてもらう算段をしつつ、俺は夜の町を全力で走り続けた。  背後を振り返る余裕などない。だが女性の甘いものにかける執念というか、殺気は背中で嫌というほど感じることができた。そりゃそうだ。刃物を持った女性、数十人に追いかけられてるんだから。 「よかったなぁ、武器屋」 「うっさいわ、こんがりきつね色!」  荒くなる呼吸に怒声を混ぜ、俺は石畳を蹴って角を曲がった。奥まで伸びる細い路地。水溜りを跳び越え、ゴミ箱を跳び越え、寝ていた野良犬を跳び越え、走る、走る、走る。  だがどれだけ走っても背中で感じる甘味への執念が消えない。しかし殺気や怒りをぶつけられた人間はいても、直接食欲をぶつけられた人間というのはそういないのではあるまいか。貴重と言えば貴重な体験……なのか?  張り付く喉に唾を流し、肩越しに背後を一瞥する。女性達との距離は縮まりこそしていなかったが、開いてもいなかった。並の女性なら振り切れる程度の脚力はあると思っていたのだが。見た感じ捕食者、もとい、お嬢さんたちの数は減っていない。特に足が速い女性達が付いてきている、というわけではなさそうだ。  というか、むしろ増えているような気がするのだが。 「はっはっー、大人気だな武ぎっ」  肩の上で高笑いするシュークリーム様に無言でチョップを叩き込み、走り続ける。手刀の形にへこんでいたシュークリーム様は何事もなかったかのように、ぺこん、と元に戻った。  今さらのようではあるが何て面妖な。  短く息を吐いて地面を蹴り、さらにもう一つ角を曲がる。俺はこの辺りの地理に詳しいわけではない。よって角を曲がったのにも何か策があったわけではなく、言ってしまえば何となく、あてずっぽうだった。  で、結果としてそれが非常によくなかった。  喉の奥で呻き、体を急停止させる。左右は家。目の前にも家。それはもう絵に描いたような行き止まりだった。舌打ちして体を反転させると同時に女性たちが路地になだれ込んでくる。こちらに向けられた無数の白銀の刃。獲物を前にした狼が剥き出しにした犬歯のようだった。  先ほどの印象通り間違いなく数が増えている。集団の後ろの方で揺れる松明の灯りを見ながら、俺は町を追われた異端者の昔話を思い出していた。ちなみにその物語、町の人間を怨んだ異端者はとうとう怪物になり町の住人を皆殺しにしてしまうという、救いもへったくれもない物語だったような気がする。  はてさて、俺の物語は今宵いかなる結末を迎えるのか。できればハッピーエンドがいいんだが……そうもいかなそうだ。何をどうしたところで、俺だし。  じりじりと近づいてくる女性達に対して腰を落とし、構える。いくら相手が女性とはいえこちらは素手、かつ一対……数えるのはやめておこう。気が滅入る。とにかく、かなり不利な状況にあるということだけはよく分かる。  こういう場合、一人をちょっと酷い感じに痛めつけて他の人をびびらせる、なんて手を使うといいらしいのだが町の人相手にそんな事ができるわけもなく。それ以前に男として女性に拳を叩き込むなんてことはしちゃならんような気がする。  そんな事を考えている間にもリード・ザ・シュークリームに対する包囲網は着々と狭められていく。いい加減ふざけている余裕もなくなったようだ。  乾いた唇を舐めて軽く手を開く。何とか投げ技、それも相手に気を使った投げ技だけで切り抜けられればいいのだが。  大きく息を吸い、吐き出した瞬間だった。女性達がこちらに向かって殺到する。一番前の一人に狙いを定めて俺は地面を蹴った。突き出されたナイフを避け、女性の手首をつかむべく手を伸ばす。  が、唐突に目の前に舞い降りた何かによって進路をふさがれた俺は足を止めざるを得なかった。  ──白、竿。  そこまで認識した瞬間、竿が円を描いて風を切り、複数の刃物を空中に打ち上げる。口を半開きにした俺の前でその人物は短く息を吐き、ぴたりと静止した。  気迫に押されたのか女性達がたじろぎ、僅かにあとずさる。  俺の目の前に現れたのは白馬の王子様……ではなく、白衣の戦乙女だった。要するに、白エプロンに物干し竿を手にしたレイである。  何でレイがここに。  疑問を解く暇は与えてもらえなかった。長く伸ばされた黒髪が揺れ、再び複数の刃物が地面に落ちる音がする。義足とはいえ槍の名手であるレイと女性達とではやはり勝負にならないようだ。 「走るぞ」 「え?」  こちらの手を握り、レイは俺を引きずるようにして走り出した。  どん詰まりにある家に向かって。  名も知らぬ誰かの家の扉の前で力を溜めるようにレイが腰を落とす。 「おい、ちょっ」  俺の声、届かず。  ……それは実に見事な横蹴りだった。名も知らぬ誰かの家の扉はあっさりと蹴破られ、ひん曲がり、飛ばされた鍵が床の上をてんてんと転がる。その先にはグラスを片手に呆然とこちらを見つめる男性が一人。傍らのテーブルには酒瓶が一本、所在なさげに佇んでいる。  でも心配しなくていい。俺はもっと所在ないから。 「あの……」 「緊急事態だ。通らせてもらいたい」  と言うや否やレイは俺の手を引いて家の中を歩き始める。はぁ、と気の抜けた返事をする男性に向かってぺこぺこと頭を下げながら、俺はレイに引きずられていった。 「うぅ、すいません。普段はこんな事する子じゃないんです。いい子なんです。やればできる子なんです」 「そうは言いますがね、お母さん」 「のるなっ!」  シュークリーム様に向かって叫ぶ。機会があったら今度セシルに紹介してやろう。気が合うに違いない。 「何という不条理。自分からふっておいて」 「人生とは往々にしてままならないものさ」 「何をぶつぶつ言ってるんだ、君は」  レイが俺の手をぐいっと引っ張る。最後にもう一度男性に頭を下げて、台所を通り、庭を通り、俺は勝手口から路地に連れ出された。 「行こう」  短く言って、レイは俺の手を握ったまま走り出した。悪い魔法使いから助けられた囚われのお姫様みたいだが、レイのペースで走れるので俺が後ろの方がいいのだろう。  つい今しがた通り抜けてきた家から男性の絶叫が聞こえた。どうやら踏み込まれたようだ。女性達の狙いは俺だけなので危害を加えられたりはしないと思うが、まぁ、お騒がせして申し訳ありませんということで。明日にでもお菓子の一つも持って頭を下げに行こう。  一行にレイを加えた逃避行はなおも続く。本当に人生はままならない。  町を走り抜けた俺たちは、気が付けば山にいた。山の中腹、枯葉の上に腰を降ろしレイが肩で大きく息をする。視線を移せば木々の間からさ迷うように揺れる松明の赤い光が見えた。灯りは一直線にこちらに向かってはいない。しばしの休息をとることはできそうだった。  闇の中、山の空気は冷たかったがそれが火照った体には心地いい。汗がゆっくりとひいていく。俺は肺の空気を総入れ替えするように深呼吸してレイの方へ視線を戻した。 「ありがとう。助かったよ」 「いや、無事で何よりだ」  レイは俺を見上げ、少し疲れた顔で微笑んだ。義足で山を登るのはやはり大変だったようだ。 「町の空気がおかしかったからな。様子を見に来て正解だった」 「ごめんな、巻き込んじまって」  そう言う俺にレイは首を横に振ろうとして……止めてしまった。そのままの首の角度で何やら考え込むように固まり、やがてこちらを見上げる。 「本当に悪かったと思っているか?」 「え……あぁ、もちろん」  あまりレイらしくない物言いに戸惑いつつも俺は肯いた。 「だったら、隣に座ってくれ」 「は?」  反射的に聞き返してしまった俺にレイはなぜか怒ったような焦ったような顔をして、自分の脇の地面をぱしぱしと叩いた。 「い……命の恩人の頼みだぞ」  そう言われてしまえば断るわけにもいかない。じゃあ、と前置きしてレイの隣に腰を下ろす。尻の下で落ち葉が乾いた音を立てた。かさかさと。  肩に柔らかな重さがかかる。手の甲を撫でるさらりとした黒髪に、俺はつい喉を鳴らしてしまった。 「いや、あの」 「支えが欲しかった」  目を閉じたレイはそう言ってゆっくりと呼吸を整えていく。大きかった肩の動きは次第に小さくなり、やがて呼吸音も寝息のように穏やかなものになる。そんなレイの顔を見ながら俺は、やっぱり綺麗だよな、と今さらのように考えていた。こうして自分が隣に座っていることさえ悪いことのように思えてくる。  俺は小さく息を吐いて木々の間から見える空を見上げた。葉のカーテンを透過して降る月明かりを時折小さな羽虫が横切っていく。周囲に人の気配や声はない。  ふと思い当たり、俺はレイに訊いた。 「何ともないのか。その……俺を見て」 「ん、あぁ。私は酒飲みだからな。甘いものは苦手なんだ」  こちらを見てレイが浮かべた微笑に頬が熱くなる。が、同時に俺は妙な違和感を覚えてもいた。ちょっとした引っ掛かりなのだがそれが分からない。何かがおかしいような、そうでないような。 「なぁ、リード」  レイの声が思考を断ち切る。 「私は、君に出会えて本当によかったと思っている」 「何だよ唐突に」  レイは確かめるように小さく、うん、と肯いて口を開いた。 「君はただ復讐だけを思い生きていた私の前に灯りを一つ、灯してくれた。まだ全ての闇が払われたわけではないけれど、私の周りは大分明るくなった。そして暖かくも」  俺はただ黙ってレイの言葉を聞いていた。不意なこともあってどんな顔をすればいいのか分からなかったのだ。注視した落ち葉の上をダンゴ虫が一匹歩いていた。 「君がいなければ今頃私は死んでいるか、取り返しの付かないことをしていたと思う」 「そうでもないさ。俺なんかよりもっといい人と出会ってたよ。いい人の周りにはいい人が集まる。そういうもんさ。爺ちゃんの受け売りだけど」  言って拾い上げた落ち葉を指でくるくると弄ぶ。 「私は……君のそういうところが、その、す」  レイの声が途切れる。眉根を寄せた俺の顔を見つめ慌てた様子で言葉を継いだレイは、 「……凄いと思う」  と言ったあとでものすごく不本意そうな顔をした。自分の台詞に納得いかない、といったような。何なのだろう、一体。 「うん。ありがと」  とりあえず礼を述べて手にしていた枯葉を地面に放る。よく分からないが褒められていることだけは確からしい。 「だからだな、その、私は君に伝えたいことがあって」 「うん」 「どうすれば伝えられるのか、困っている。というか君が困らせている。加えて言うなら、もう伝わっていなければおかしいような気さえする」 「いや、俺に落ち度があるなら謝るけど、とりあえず口で伝えてもらわないと」  言語ってのは人類最高の発明なんだし……と台詞を継ごうとしたところでレイに顔をまじまじと見つめられ、何も言えなくなってしまう。 「口で……か?」 「あ、あぁ、口でだけど」 「意外と大胆なんだな」 「いや、何が」  そんな俺の声など耳に入っていないような素振りで額の汗を拭い、それからなぜかレイは拳を握った。続けてその拳を自分の胸の上に置き、大きく深呼吸する。最後に決意でも固めるように大きく肯いて儀式は終了したらしい。 「リード、目を閉じてくれ」 「何で」 「い、命の恩人の」  それを言われると断れない。意味はよく分からなかったが、とにかく俺は目を閉じて沈黙した。当然のことながら視界は闇に包まれ、何も見えなくなる。光のない世界の中で葉のこすれる僅かな音とレイの気配だけが感じられた。  一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒が過ぎ、変化は何もない。  四秒が過ぎ、五秒が過ぎ、六秒が過ぎ……吐息?  驚きに跳び退り、目を見開いた俺が見たものはなぜか身を乗り出し、顔を突き出したレイの姿だった。彼女は俺と目が合うと、あ、と僅かに口を開きそれから……それからその姿勢のまま動かなくなってしまう。 「まさか……」  自分の口元に手をやり、呟く。レイは開いていた口を閉じ観念したように小さく肯いた。 「君も」  吹き抜けた風が木々を揺らす。レイが目を伏せる。 「君も俺を喰うつもりだったのかっ!」  背後で飛び立つ鳥の羽音がした。  一瞬の沈黙の後、なぜかレイはその場にがっくりと崩れ落ちた。目に見えぬ重石が背中に乗っていると言わんばかりに。 「あれ。違った?」 「う、うう」  怨嗟のこもった呻き声。 「だから……」  ゆっくりと顔を上げるレイの声は怖いくらいに震えていた。 「だから君はダメなんだっ!」 「い、いや、そう言われましても」 「オジギソウだって触れればちゃんと葉を閉じるじゃないか! 君は人間なのだろ! 植物よりは高等な生物だよな!」 「え、あ、その……多分」  妙な迫力に押され、つい後ずさってしまう。 「気力が萎えそうだ。ある意味復讐よりつらい」 「悩み事なら相談にのるけど」  善意で言ったつもりだったのに、なぜか凄い目で睨まれてしまった。これが善意の押し付けは時として人を傷つけるということなのだろうか。 「いいか。一度しか言えない。よく聞いてくれ」  無言のまま肯いて応える。 「私は君が……」 「いたわよ!」  レイの台詞を遮ってした声に俺は反射的に立ち上がった。気が付けば周囲は十を超える松明の火によって囲まれていた。闇に沈んでいた木々が赤く浮かび上がり、無数の影が躍りでもするように揺れだす。  俺は小さく舌打ちしてレイの腕をとり、立たせた。完全に囲まれている。気を抜きすぎたか。警戒を解くべきではなかった。 「走れるか?」  脇にいるレイに問う。だが彼女は気の抜けたというか疲れきった表情でこう言った。 「残念だがもう終わりなんだ」 「何を! 諦めなきゃ何も終わったりしない!」 「いや、そうじゃなくてだな」  とそこまでレイが言った瞬間だった。ひゅっ、という風切り音。胸に軽い衝撃。 「え……?」  気が付けば、自分の胸には一本の矢が深々と刺さっていた。痛みはない。ただ全身から力が抜け、俺はゆっくりと崩れ落ちていく。顔が地面に到達する寸前、左肩から「時間切れー」という陽気な声が聞こえたような気がした。  そして世界が暗転する。  暗転して、明転する。  うっすらと目を開いた俺の眼前には落ち葉の積もった地面ではなく文字の羅列があった。それが本だと気付くまでに三秒。三度瞬きを繰り返した俺はゆっくりと体を持ち上げた。  そこはいつもと変わらぬ我が家の食堂だった。目をこすって首をひねる。どうやら本を枕に眠ってしまったらしい。  夢?  乾いた唇を舐めた俺はふと左肩に目をやった。当然そこにはシュークリーム様などというものはおらず、いつもの、俺の左肩があるだけだった。  数秒の沈黙ののち俺は吹き出してしまった。我ながら幼稚な夢を見てしまったものだ。子供のお伽噺かよ、ほんとに。夢占いをしてもらったらどんな結果が出るのだろうか。その点は楽しみではあるが。  そんなわけで一人けたけた笑っているとシュークリームが大盛りにされた大皿を抱えたクレアが台所から出てきた。その後ろにはエプロンを畳みながらレイが続いている。 「またやらしいこと考えてるの?」  呆れた調子で言いながらクレアが大皿をテーブルに置く。 「……俺の笑顔は全てエロ妄想が原因か」 「だって九割そうじゃない」 「そこを何とか八割に」 「そういう数字の問題ではないような気がするのだが」  畳んだエプロンを椅子の背もたれにかけ、レイがテーブルに着く。クレアとレイの様子もいつも変わりない。 「で、何か楽しいことでもあったのか?」 「それがさぁ」  と、自分の見た夢の内容を話そうとして、俺は思いとどまった。シュークリームの精霊が出てきて……なんてことを話せば馬鹿にされるに決まっている。二十五歳にもなって何てメルヘンな夢をみてるんだ、と。 「……やめとく。自分の胸だけにしまっておきたい」  言って立ち上がり、俺は台所に向かった。シュークリームに続いては俺が晩飯を作る番だ。腹もかなり空いている。手早くやってしまおう。 「人に言えないくらいやらしい想像なのかな」 「そっとしておいてやれ。それが優しさだ」  食堂から聞こえてくるそんな会話にくじけそうになりながら、俺は愛用のフライパンを手にした。  そして日付も変わった深夜。変な時間に仮眠をとってしまったせいか眠れなくなってしまった俺は食堂にいた。水差しからグラスに水を注ぎ、あおる。息を吐いて俺はテーブルの上に残されたままのシュークリームを一つ手にした。食事のあと三人で食べるには、いや、実際は二人か。レイは甘いものは苦手だといって食べなかったし。とにかく二人で食べるには多すぎたのだ。もうしばらくおやつはシュークリーム限定ということになりそうだ。  食堂を抜けて廊下に戻る。廊下を歩きながら思い出す。  しかし妙にリアルな夢だったよな。音とか匂いとか感覚とか、今でもはっきり思い出せる。もちろんシュークリーム様の声も、つかんだ感触も。  妄想、もとい、想像力が豊か過ぎるのかね、俺。多分、しばらく忘れることのない夢になるだろう。  そんなことを考えながら廊下を歩いていると不意に扉が開き、中からローブ姿のレイが出てきた。僅かに覗く胸元につい目がいってしまうのが男の悲しい性である。 「眠れない?」 「胸ではなく顔を見て喋ってくれると嬉しいのだが」  妙な沈黙。  やがてレイは大きな大きなため息を一つついた。 「ほんとに、君という男は」 「面目ない」  苦笑しつつ詫びる。呆れ顔をしていたレイも釣られて「しょうがないなぁ」といった風に笑ってくれた。 「考え事をしていた」 「テーマは?」  問う俺にレイはしばし押し黙り、やがてこう言った。 「思いを伝えることの難しさ、だな」 「え?」  反射的に目を大きくしてしまう。レイは俺の手の中にあるシュークリームに僅かな間だけ視線を落とし、微笑んだ。 「おやすみリード。いい夢を」  そう言ってレイは廊下を食堂の方へ歩いていってしまった。振り返り、レイの背中を見つめる。  いい夢を……か。  何とはなしに口に入れたシュークリームは当たり前のように甘い、カスタードクリームの味がした。