武器屋リードの営業日誌 番外編 その3 武器屋リードの休業日 ─リード、先生っぽいものになる─  1  週に一度の休業日。その昼下がり、俺は自室のベッドに寝転がって本を読んでいた。手に入れるのに三ヶ月もかかった、刀剣の歴史に関する本だ。最初、机の上でメモを取りながら読んでいたのだが次々とページをめくっていく手の動きに勝てず、とりあえず一度読んでしまおうということになった。  誰にも邪魔されず、自分が必要だと思う知識を自分が必要だと思う時に自分が必要なだけ取り入れる。やはり学習とはこうでなきゃいけない。もっとも、こうして好きなときに学習できるのは子供の頃無理矢理文字というものを頭に叩き込まれたからでもあるのだが。ま、とにかく今の俺は非常に幸せであると、そういうことだ。  俺は手を伸ばし、サイドテーブルの上に置いてある木のボウルから炒った豆をつまみ上げた。塩とバターで軽く味付けしてある。読書には最良の友だ。  と、奥歯で噛み砕いた豆の音が鼓膜の内側に響いた時だった。不意に庭の方から声が聞こえてくる。俺はページをめくる手を止め、口も止めて耳に意識を集めた。その聞き覚えのある声は間違いなく俺の名を呼んでいる。それも何度も、何度も。声の主とその調子からして厄介ごとを持ち込んで来たのはほぼ間違いない。俺はできるだけ音を立てないように本に栞をはさみ、静かにサイドテーブルに置くと、無音で頭から毛布をかぶって息を殺した。  リード、と名を呼ぶ声がさらに大きくなる。が、声の大きさから考えて俺の日常を踏み躙ろうとする破壊者の足は庭で止まっているようだ。  さすがの奴も「よそ様の家」という一線は越えられまい。  と思っているとあっさり廊下のきしむ音が聞こえ出した。  俺の心の中に住んでいる将軍(三十八歳)の前に背中に数本の矢が刺さった伝令兵がひざまずく。 「報告! 敵は第一陣を突破。負傷者多数。陣の立て直しは不可能!」 「やりおる……」  苦々しく口元を歪める俺……の中に住んでいる将軍。しかしまだ第二陣、第三陣がある。  が、どばんっ! と開く自室の扉。どうやら第二陣も突破されたようだ。 「ほ、報告します……。第二陣も壊滅。奴は……人、人を……喰」  そこで報告は途切れ、傷だらけの伝令兵は血を吐いて事切れた。 「化け物がぁっ!」  激昂し、将軍が立ち上がる。その拳は微かに震えていた。怒りにか。それとも未知なるものに対する恐怖にか。熱い頬を流れる汗は自らも驚くほど冷たかった。 ──その頃戦場では。 「俺は……もう駄目だ」 「馬鹿野郎、諦めるな! 故郷でかみさんと子供が待ってんだろうが!」 「最後に、もう一度だけ抱き締めたかった。無事故郷に帰れたら息子に伝えてくれ。父は……最期まで勇敢に、戦った……と」  沈黙と、そして慟哭。 「主よ、これが運命だと言うのか! あなたへの祈りを一日として欠かしたことはなかった! あなたを一度たりとも疑ったりしなかった! その……その答えがこれだというのか!」  小雨降る戦場。屍と血の大地。全てを拒絶するかのような鉛色の空に青年の声は吸い込まれ、消えた。 ──再び本陣。 「全ての兵力を第三陣に結集させろ! 我々は負けるわけにはいかんのだ!」  将軍の命に応え、かぶっている毛布を全力で握り締める俺。  正念場だ。もう後がない。    が、顔面に本の角を落とされるという非人道的な攻撃に毛布という名の第三陣もあっさり壊滅した。二冊までは耐えたのだが、三冊目がもろに鼻に入った。  目に涙を滲ませて鼻を押さえる俺の前に、三つの陣を突破した化け物が姿を現す。 「恐怖という感情を絵で描くならば、まさにこの姿になるに違いない。竜でさえ涙を流し許しを請うであろうその姿に、人はなすすべもなく立ち尽くすだろう。あぁ、奴が人を喰らう音が聞こえる。奴が撒き散らす死臭が鼻に触れる。私の記録もこれまでのようだ。奴が来る。奴が……触手……げふっ」  四冊目は喉にヒットした。 「リード・アークライト。ついに精神に異常をきたす」  咳き込む俺を尻目に修道服をまとった侵入者、セシル・アイフォードが淡々と言う。 「うるせぇ。ていうか勝手に他人の家に入ってんじゃねーよ」  上半身を起こし、喉をさすりながらセシルを睨む。黙って立っていれば非常に清楚かつ敬虔な修道女に見えないこともないのだが、実際はこれだ。綺麗なダークブルーの髪と瞳も神様の大いなる無駄遣いに思えてならない。 「何言ってるの。こうして町の人たちの様子を見て回るのも私たちの役目なのよ。一人暮らしのお年寄りとか、あなたみたいに修道院のダメ人間リストに載ってる人なんかは特に注意しないと」  腰に手を当て、得意げに人差し指を立てるセシルを俺は半眼で見つめた。と、セシルが、ぽん、と手を打つ。 「あ、ダメ人間リストっていうのは俗称だから。正式には社会生活不適合者リストっていう立派な名前がついてるから安心して」 「できるかっ!」  笑顔で言うセシルに向かって叫び、俺は大きなため息をついた。ったく、相変わらず言動に信用が置けない奴だ。そんなリストあってたまるか。異端者リストくらいなら分からないでもないけど。 「で、何しに来たんだ?」  ベッドに腰かけてセシルを見上げる。まさか本当に様子を見に来たわけではないだろう。セシルは胸の前で指を組むと、こちらの顔を覗き込むように体を傾けた。香水などつけていないだろうに不思議といい香りがする。 「あなた、読み書きできたわよね」 「まぁ、商売人だし。古代文法は苦手だけど」  俺の答えに曲げていた腰を伸ばし、セシルが満足げに肯く。 「少しだけ先生やってみない?」 「断る」  即答し、俺は毛布をかぶって自分の世界に閉じこもった。冗談じゃない。今日という日に限り俺の世界はベッドの上と本の中に限定されている。何が悲しくて大海原に漕ぎ出さねばならんのだ。  そうか。侵略か。俺がいなくなった隙にこの楽園を侵略するつもりか。ならばこちらも将軍(三十八歳)を……と徹底抗戦の準備を心の中でしていると大きな大きなため息が毛布越しに聞こえてきた。 「あなた、先週の安息日も礼拝に来なかったでしょ」  その、いかにも母親がダメな子にかけるような声に俺は毛布から半分だけ顔を出してセシルを見上げた。 「だって俺、神様信じてないし」  万物に宿る精霊の存在は何となく信じてるけど。 「修道女に向かってそういうこと言うのもどうかと思うけど、まぁここだけの話にしておいてあげる。でも、それが押し通せない事が分からないほど子供じゃないでしょ、あなたは」  うーん、何か本当に説教されてる気分になってきた。再びベッドの上で上半身を起こし、首筋を掻く。こちらを見つめるセシルの目はいつになく真剣だった。普段なら文句を言いつつも流してくれるのだが。 「で?」 「そろそろ奉仕活動の一つもしてもらわないと本気であなたの名前を修道院のリストに載せなきゃならないのよ」 「確かに、それは困るなぁ」  と顎に手をやり、天井を見上げる。ざらついた感触。休みの日は髭を剃らないことにしていた。それはさておき小さな町だ。異端者の烙印を押されて共同体から弾き出されてしまえば生きていけない。セシルの言う通りそれが理解できないほど俺は子供ではなかった。多分。 「神様を信じてる振りくらいはしろ、と」  セシルを見ながら俺は意地の悪い笑みを浮かべた。 「そうね、と私に言えと?」  セシルが自分の胸に手を置く。  しばし押し黙り、 「言えないわな」  俺は、今度は普通に笑った。どうやら今回ばかりはのらりくらりとかわして逃げるわけにもいかなそうだ。写本室の利用率を考えるに、かなりの額を修道院に納めているのだがそれを言っても仕方がない。俺という人間の旗を見せることが大切なのだろう。  ブーツを履き、俺は腰を上げた。椅子の背もたれにかけてあった上着を手に取り、袖に腕を通す。わけあって一緒に住んでいる従妹のクレアには書置きを残すことにした。ペンを手に取り、机の上で羊皮紙に書き記す。 『この手紙を読んでいるということは、恐らく俺はこの世にいないのだろう。だが悲しむこ』  まで書いたところでセシルが言った。 「長くなりそう? それ」 「うむ。百枚の大長編だ」  言った瞬間セシルにペンを奪われた。彼女は俺の文章の上に線を引いて消すと、 「だめねー、言葉は量より質よ」  と何やら羊皮紙に書き付ける。 『お兄ちゃん 帰ってきたら 真人間』  最後に自分のサインを入れ、満足げに肯くセシル。 「じゃ、行きましょ」 「なぜお前がそこまで屈託なく笑えるのか。知りたいから一度頭割らせろ」  俺の提案を当然のように無視し、セシルが部屋を出て行く。俺にできたのは読みかけの本にさよならを言う事くらいだった。  修道院に到着した俺はとりあえず礼拝堂で礼拝を終え、それから写本室の前に立たされた。セシルの話によれば修道院では毎週安息日に読み書きや算術を教える教室を開いており、その先生役をやって欲しいということだった。普段はちゃんと先生がいるのだが急病で来れなくなったらしい。別にセシルが先生をやればいいような気もするのだが、そこはさっき言われたようにリード・アークライトという不信心者が主に奉仕するための場を与えるのが目的であるため、そういうわけにもいかない。まぁ、引き受けた以上やるしかあるまい。読み書きは普段クレアに教えてるしそれと同じ感じでやれば問題ないだろう。  と、思いつつも正直少しばかり緊張していた。セシルから渡された教本をぱらぱらとめくり大きく息を吐く。乾いた唇を舐め、咳払いを一つ。人と話すことが苦手なわけではないが複数の人間を相手に喋った経験はそれほどない。 「いきなり『帰れ』コールとかされたらどうしよう」 「あなた、変な所で気が弱いのね」  セシルが呆れ顔で言う。いや、こいつは子供の怖さを分かってない。 「奴等はな、必要もないのに蟻の巣に水を注いだりできるような生き物なんだぞ」  扉に手を置き、震える俺。 「この扉の向こうにいるのは間違いなく悪魔だ」 「そんな、まさか」  苦笑するセシルに俺は目を見開き、驚愕した。 「子供の頃やらなかったか? そういうの」 「それは……あなたが歪んでただけでしょうに」  いや、おかしい。俺が子供の頃、周りはそんな奴ばかりだった。ということは非常に論理学的な思考を経て直感で導き出される結論によると、歪んでいるのはセシルということになる。 「気の毒にな」 「二秒程度の思考でひとを哀れむのはやめてくれる?」  セシルが何事か言っているがすでに決着がついている。それはもうどうでもいい案件なのだ。セシルは歪んでいる。  とにかく俺は覚悟を決めて写本室へと続く扉を開いた。  その瞬間、俺を包んだのは嵐のような……嵐のような「静寂」だった。写本室には誰一人おらず、整然と並べられた本棚だけが直立不動で俺を迎えてくれた。ただ、閲覧台に置かれた五冊の教本と引かれた状態の椅子を見るに、誰かがいたことは間違いないようである。とりあえず本棚の間を歩いてみたがかくれんぼをしてるわけでもないみたいだ。  手にしていた教本を閲覧台に置き、俺はふむと肯いた。 「簡単な推理だよ、セシル君」 「誰なのよ、あなたは……」  胸の下で腕を組み、半眼でこちらを見つめるセシルに対し、俺は結論を述べた。 「授業中止。解散っ!」  言った瞬間、超高速で飛来した何かが俺の額を撃ち抜いた。頭蓋を通して脳に伝わった衝撃にうずくまる俺。 「バカ言ってないで探すわよ」  痛みにちょっと本気で泣く俺に向かってセシルは当然のように言う。ちなみに床には茶色いドングリが一つ転がっていたが、やはりそれに関しての説明は一切なかった。  2  セシルが修道院の中、俺が修道院の周りという割り当てで悪ガキ達の捜索は始まった。俺が修道院の中をうろうろするわけにもいかなのいので妥当な役割分担ではあるだろう。  しかしセシルが俺を呼びに修道院を出た時に逃走したと考えるなら、もう修道院の敷地にはいないような気がする。子供たちの年齢は七から八歳。人数は五人ということだ。  俺は自分が七歳ならこの状況でどうするか、考えた。  安息日に修道院に連れてこられ、勉強させられる。この歳になったからこそ「それも将来のためなんだ」と言えるが七歳の俺なら確実に逃げ出している。  逃げ出して、どうするだろう。親は俺が修道院でおとなしく勉強してると思ってるわけで、家には帰れない。かといって町をうろうろするわけにもいかない。よそのおばちゃんに見つかってしまえば、その王立の諜報部隊さえ凌駕するといわれる情報網によって瞬時に「親バレ」してしまう。  ……どうでもいい話だがおばちゃんの情報網って何であんなに凄いんだろうか。裏で誰かが糸を引いているような気がしてならない。  まぁ、それはさておき子供の身としては町には出られないと。そうなると山になるのだが、その可能性も薄い。修道院から山に行くには町を突っ切らなければならないからだ。  で、ここが最後の可能性、と。  心中で呟き、俺は目の前に広がる林を見つめた。風がないため林はただ静かに佇んでいる。  修道院の裏手にある小さな林。山で遊ぶことが多かった俺たちにとっては「二番目」の遊び場だった。よく考えてみたらここに来るのも随分久しぶりのような気がする。鼻から胸に吸い込んだ土と緑の匂いがひどく懐かしかった。佇み、つい思い出に浸ってしまいそうになった自分がおかしい。そんなに歳をとったつもりはなかったのだが。  俺は口元を軽く緩め、林の中に足を踏み入れた。  草や土、小枝を踏みしめて進む。靴底を通して感じる地面も子供の頃と同じだった。ただ違うのは木々の高さだろうか。昔はもっと遥か頭上に枝葉の天井があったような気がするのだが。  そんな懐かしさや変化を楽しみながら歩くことしばし。やや遠くに廃材の山らしきものが見えてくる。高さは俺の胸くらいだろうか。板や葉のついた木の枝が積み上げられているように見える。が、俺にはすぐに分かった。山の内部は空洞。あれは間違いなく「隠れ家」だ。  いやー、嬉しいね。やっぱりこういう伝統は大事にしないと。今にして思えば小さいけれど、あの中には本当の「俺たちだけの世界」があった。ただ集まって、それだけで楽しかった。  待てよ。ということはこの辺に……。  地面を見渡せば案の定だ。そこにはいくつもの落とし穴があった。やはり隠れ家を守るための罠は基本だ。しかしまだまだ偽装が甘いな。これじゃ敵は倒せない。  俺は周囲から枯れ枝や枯葉を集め、落とし穴の上に撒いた。ポイントはあくまでさりげなく、だ。あまりやりすぎても逆に怪しくなってしまう。  なお、いかにもな落とし穴を掘っておき、その周りを偽装した落とし穴で固めるというのも一つの手だ。こんな落とし穴にはひっかからないぜ、と慢心する敵の裏をかく。このように、落とし穴とは非常に高度な心理戦の上に成り立つ崇高なるゲーム、いや、儀式なのである。  ゆえに、意識を下に集中させている敵に向かって頭上から攻撃を加えるという手も使われるわけだ。  心の中で見えない誰かに向かって解説し、俺は自分の腹の辺りに張られている糸を見やった。糸を視線で辿ってみれば、それは木の枝に吊るされた小さなかごにつながっていた。どうやらかごにはイガ栗が入っているようだ。  季節感は悪くないけどな……やや確実性に欠ける。  罠を評しつつ、俺は糸を引っ張った。それでも罠は作動しない。恐らく全力で走って来て糸を引っかけでもしない限り作動しないだろう。  俺は適当に拾い上げた小枝で簡単なフックを作り、罠を改良しておいた。これで確実に相手を仕留められる。  しっかり技を盗むんだぞ、新しい世代達。  俺はとりあえず満足してぱんぱんと手を払い、隠れ家に歩み寄った。 「とまれっ!」  声は不意に横手からした。言われるままに立ち止まった俺の前に三人の少年が現れる。年恰好はクレアと同じ七、八歳。写本室からいなくなった子達とも一致する。人数の方は少しばかり足りないが。  少年達は手に鍋つかみをはめており、その上にはイガ栗がそれぞれ一つ乗っている。どうやら武力では勝ち目がないらしい。  俺はおとなしく両手を挙げ、抵抗の意思がないことを示した。もっとも顔は少しだけ笑っていたが。 「帰れっ!」 「いきなりだな。話もさせてもらえないのか?」  真ん中の、リーダーらしき少年に向かって言う。 「どうせリードをとりに来たんだろ!」 「そうだそうだ!」 「かえれー」  写本室で浴びる予定だった帰れコールをこんな所で頂くことになろうとは。しかし『リードをとりに来た』ってのはどういうことだ? 俺はこの子達に自分の名前を教えた覚えはないのだが。事前にセシルが教えておいたとか。いや、それにしたってリードを取りに来たという表現はおかしい。  苦しい状況ではあるが相手から情報を引き出す必要がありそうだ。 「えーっと、俺は今日修道院の写本室で先生っぽいものをやる予定だったんだが……逃げた?」 「だったら何だって言うんだよ!」 「そうだそうだ」 「言うんだよー」  うむ。素直でよろしい。 「ほかの二人は?」  訊きながら隠れ家を見やる。 「あそこにはいないぞ!」 「そうだそうだ」 「いないぞー」  残りの二人は隠れ家の中らしい。 「で、戻って勉強する気は……」  六つのつぶらな瞳を見やる。そこにあったのは徹底抗戦の意思を表す光だった。 「ない、か」  まぁ、そうだわな。と笑う俺。一度言われたくらいでおとなしくなるなら、そもそも逃げ出したりはしないだろう。それに、この子達には何か守るべきものがあるようだ。  とりあえず隠れ家に潜入し、それが何かを確認するのが当面の任務だろう。 「偉大なる、とは口が裂けても言えないが、諸君の先輩として名誉ある扱いを望む。ということで捕虜にしてほしいんだが」  俺の台詞に三人の小さな兵隊達は顔を突き合わせ、何やら相談を始めた。時折こちらの顔を見上げ、また話し込む。  捕虜はとらん。敵は皆殺しだ。とか言われたらどうしよう。  ま、今はイガ栗が飛んでこないことを祈るのみだ。  しばらくして話がまとまったらしく、リーダーの少年が一歩前に出た。 「よし、捕虜にしてやる! 調べろ!」  少年の号令に残りの二人が俺の体をぱんぱんと叩く。俺は今丸腰だが、これではたとえ袖口にナイフが隠してあっても見つけられない。理由は単純だ。頭の高さまで持ち上げられた俺の袖まで子供達の手が届かないからだ。それでも彼等は満足したらしく、少し赤い頬をリーダーに向け「もんだいないです」と嬉しそうに報告した。 「手を下ろせ。それから後ろで組んで」  微妙に「お願い」になっているのがおかしい。そんな俺の内心など当然知ることもなく、リーダーの少年は俺の手をその辺りに落ちていたつるで縛った。一生懸命縛っているようだが子供の力だ。二三度腕を振ればとれそうだった。今は任務のため縛られた振りをしておくが。 「よし、歩いて」  リーダーを先頭に俺の連行が始まる。と、一人の少年が俺に話しかけてきた。 「ねぇねぇ、勇気のある騎士は捕虜にならないってお父さんが言ってたよ?」 「弱虫なんだ、俺」 「すぐ泣くの?」 「そうだな。色んなことで、すぐ泣きそうになる」  少年は、ふーん、と呟き、それからはにかむように笑い、言った。 「僕も」  そんな少年に微笑み返したところで長き連行の行程は終わりを迎えた。実に三十歩もの道のりを休みなしで歩かされたわけだが、よくぞ死者が出なかったものだ。 「ここに立ってて」  少年達は俺を隠れ家の脇に立たせると、中に入っていった。これから残りの二人を交えての会議が始まるのだろう。しかし見張りの一人も付けられないとは随分と信用されたものだ。  隠れ家から声は聞こえるが何を言っているのかまでは分からない。こんな時口笛でも吹ければ暇つぶしになるのだが、あいにく俺の口はそこまで器用にできていなかった。だが挑戦することには意味がある。俺は唇をすぼめ、息を吹いてみた。やはり出るのは「ひゅー」という木枯らしのような音だけで「ぴー」とは鳴ってくれない。数度の挑戦を経て、そろそろ鼻歌に切り替えるかと思った時、俺はリーダーの少年が自分の隣に立っていることに気付いた。少年は、にっ、と笑うと口笛で綺麗なメロディを吹いて見せた。 「お見事」  賞賛する俺に少年は会議の結果を伝えてくれる。どうやら隠れ家の中に入れてくれるらしい。潜入成功だ。  少年に続き、頭をかなり低くして中に入る。入り口は俺の肩幅より狭かったため、体をひねらなければならなかった。薄暗い隠れ家の中、くすんだ木の匂いが鼻を抜ける。これもまた、懐かしい。  隠れ家の中にいた残りの二人は意外にも女の子だった。地面に腰を下ろし、ここには規格外のサイズである俺を見上げている。しかし隠れ家に女の子がいるとは。全てが懐かしいと思っていても、やはり時代は進むらしい。俺の頃は女の子と話しているだけではやし立てられたものだ。そういえばクレアもたまに男の子と遊んでたような気がする。  ま、仲良きことは美しきかな。何にせよ羨ましい時代になったわけだ。 「お兄ちゃん、だぁれ?」  少女に問われ、薄日の漏れる低い天井を見上げる。しばし考えてから俺は答えた。 「先生っぽいものさ。今日だけの」  少女二人が不安そうな顔をする。自分達を連れ戻しに来たとでも思ったのだろう。 「あぁ、大丈夫。今は捕虜だから」  言って俺は腰の後ろで縛られた手を見せてやった。その瞬間、 「だめだよ、こんなの」 「今すぐほどきなさい!」  二つの抗議がリーダーの少年に向かって飛んだ。少年も「でも……」と対抗するがこの時点で腰が引けている。少年がためらっている間に、気の強そうな少女(影のリーダーだろう、多分)がつるをほどいてくれた。三人の少年達は酷く不満そうだったが、何にせよ敵陣地内で多少の自由を獲得できたわけだ。  十年後、この気の強い少女が意外に広いリーダーの少年の背中を見てどきどきしたり「背、伸びたんだ」とかこっそり思ってどきどきしたり、そんな展開があったら嬉しいなと、どうでもいい事を考えながら手首をさする。 「で、何で逃げたんだ?」  説教口調にならないよう気を使ったつもりだが、それでも五人の子供達は一斉にうつむいてしまった。もちろん誰一人として質問には答えてくれない。  重い沈黙が続く。もっとも、この中でその空気を一番重いと感じているのは俺だろうが。別に説教をしてるいるわけではない。だが子供達にしてみれば授業を抜け出した生徒の所に先生が来たことは間違いないわけで、その先生が怒っていないとはまず考えないだろう。  まぁ、本当は何をさておき説教の一つでもして、それから授業を抜け出した理由を訊くのがリード・アークライト先生に求められる役割なのだろうが、リード先生はこの子たちよりもっともっとどうしようもない少年時代を送っていたわけで、それを思うと一日だけの先生に説教はできなかった。  それを上手く処理するのが大人だという事は分かっているのだが。  そんなわけで次の一言を早く発さなければとプレッシャーに潰されそうになっていると、隅の方で何かが動く音がした。その音に五人の子供達がうつむいたときと同じように、一斉に顔を上げる。十の瞳が向けられた先には薄汚れた小さな木箱があった。音はそこから聞こえている。文字にすれば、がさごそ、になるか。  俺は中腰で立ち上がり、同時に箱を隠すように子供達が動く。どうやら俺がつかまなければならない情報はあの箱の中にあるようだ。  気の弱そうな少女が箱に覆いかぶさるように体を倒そうとした、その時だった。  箱の縁に白くぶっとい足をかけ、やはり白いふわふわとした毛の塊が「顔」をのぞかせた。 「あ、だめ」  自分を捕まえようとした少女の腕をすり抜け、毛の塊は箱の縁を乗り越えると俺の前まで四本の足でとことこと歩いて来て、座った。  目の覚めるような純白の毛並みに黒曜石のように光るつぶらな瞳。  俺は本能で口元を緩め、その一匹の仔犬を抱き上げた。何と言えばいいのだろうか。ふかふかどころの騒ぎではない。ふわふわ……いや、ふもふもだ。とにかくやたらと抱き心地がいいのだ。加えてその「僕、さみしいと死んじゃうの」と言わんばかりの頼りなげな顔。  正直に白状しよう。リード・アークライト。男一匹二十五歳。仔犬とか……結構好き。  もしこの場に自分一人しかいなければ間違いなく頬擦りしていただろう。とにかくそれくらいこいつは愛らしかった。小さなしっぽを振り、鼻を鳴らす。もし家に連れて帰ったらクレアが発狂するかもしれない。  しかし野良にしては本当に毛並みがいい。どこかで飼われていたのが逃げ出しでもしたのだろうか。昔、一着の値段がウチの一月の売り上げと同じという超高級な毛皮のコートをお目にかける機会があったのだが、こいつの手触りはそれ以上だった。  そんなわけでにやにやしながら小さな頭を撫でていると、気の弱そうな少女にこんな事を言われた。 「かわいいでしょ。リード、っていうの」  嬉しそうな少女に対して固まる俺。どこかで聞いたことあるような名前だが多分気のせいだろう。俺は仔犬……リードの顔を正面から見つめ、乾いた笑みをこぼした。  まぁ、これで「リードをとりに来た」という言葉の意味も、彼等が授業を抜け出した理由も分かった。リードが入っていた木箱の脇にはミルクが入った皿が置かれている。子供達が守ろうとしていたのはこいつだったのだ。  俺はリードを地面に下ろしてやり、小さく息を吐いた。とてとてと気の弱そうな少女に向かって歩いていくリードの後姿を見つつ、あぐらをかいで座る。 「ここで育ててるのか」 「三日くらい前から。みんな、飼っちゃだめだって」  リーダーの少年が答えてくれる。その口調は本当に苦々しそうだった。それぞれの家にはそれそれの事情がある。仕方のないことだ。 「だから、俺達で育てるんだ」  唇を引き結び、少年が少女の腕の中にいるリードを見つめる。その眼差しに、俺は自分が子供の頃全く同じ経験をしていた事を思い出した。  俺の時はそう、確か茶色くて、口の周りと尻尾の先だけ黒い仔犬だった。あの時は自分達の力だけでこいつを育てられるんだと、何の根拠もなく思っていた。  この子達はその時の俺だ。そして、俺にはさらに先の経験がある。  ある日、隠れ家に行くとそいつは冷たく、動かなくなっていた。原因は分からない。死んだことだけが事実だった。泣きはしなかった。顔面が痺れ、内臓を下に引っ張られるような感覚だけはよく覚えている。  思えば、その日から蟻の巣に水を注ぐような遊びもやめたような気がする。 「育てられると思うか」  答えはない。皆、仔犬のリードをじっと見つめている。反抗心のこもった瞳の光。子供の意地ってやつだ、きっと。 「こいつは十年、ひょっとしたら二十年でも生きるかもしれない。その間ずっとだぞ」  一同の顔を見回す。 「やっぱり、弱虫だ」  隠れ家に連れてこられる途中、話しかけてきた少年が呟く。 「そうだな。だから、そいつが死ぬところなんて見たくないんだ」  気がつけば少女の腕の中で小さなリードは寝息を立てていた。安心しきったその表情に、つい口元を緩めてしまう。 「どうすればいいの?」  沈黙の中、リードを抱いた少女が口を開く。少女の瞳はわずかに潤んでいた。死ぬところ、は言い過ぎたかもしれない。他の子供達も俺の顔を見つめている。意地を張りながらも心のどこかで大人の協力を求めていたのだろう。 「里親を……そいつを育ててくれる人を見つけるんだ。町に一人くらいはいるだろ」  どうしても見つからなければうちで面倒見るさ、と心の中で付け加える。 「じゃ、がんばってな」  言い残し、俺は隠れ家から外に出た。背中に声はかからなかった。ヒントがあれば答えは自分達で出そうという心意気はあるらしい。  一つ伸びをして腰をひねる。  しかし子供見つけました、放置してきました。セシルにばれたらまた説教されるんだろうなぁ。今度は修道院の隅から隅まで一人で掃除しろ、とか言われかねない。言い訳の一つも考えておいた方がよさそうだ。  とりあえず東の空に不思議な光が……とそんな書き出しで始まる物語を脳内で紡ぎ出そうとしていると、どこからともなく自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。噂をすれば何とやら、か。本日二回目。どうやらセシルもこの林に辿り着いたらしい。  と、次第に近づいてくるリード(人間)を呼ぶ声にリード(仔犬)守護隊である三人の少年が隠れ家から出てきた。その手には鍋つかみがしっかり装着されており、当然のようにイガ栗が装填されている。 「今度こそリードをとりに来たやつだ」  リーダーの呟きに残り二人の少年が肯く。いや、あれは違うんだと訂正しようかと思ったが何かややこしくなりそうなので黙っておくことにした。 「にしても、とりに来たとりに来たって前に連れて行かれそうになったことでもあるのか?」 「昨日さ。たまたま栗を拾いに来たおじさんに見つかって逃げていったけど」  正面を見つめたままリーダーの少年が答える。  その人はなぜ仔犬をとろうとしたんだろうか。欲しいなら一言「うちで育てるよ」と言えばいいような気がするんだが。  そんな事を考えているうちにもセシルの声は大きくなり、やがて枝を払いながら歩いてくる彼女の姿が目に入った。セシルの姿を確認した少年達が前に出ようとする。 「ちょっと待った」  俺はふとあることを思いつき、三人を引き止めた。罠職人としての自分の腕を確かめてみたくなったのだ。獲物としては多少「ぬるい」がまぁいいだろう。 「罠、改良しといた。拝見してくれよ。先輩のお手並みってやつを」  三人に向かって言い、俺は大きく手を振った。修道服の裾を気にしながら駆けてくるセシル。彼女は案の定落とし穴に片足を突っ込み、顔面から地面にすっ転び、挙句頭のてっぺんでイガ栗を三つ、受け止めた。  沈黙。  そして一陣の風。 「すげー」 「俺の腕もまだまだ錆付いておらんようだな」  尊敬の眼差しでこちらを見上げる少年達に向かって胸を張り、ありもしない髭を撫でる。  なお、落とし穴に落ちる瞬間文字では表現できないような悲鳴上げ、地面に倒れたセシルは一切動かないわけだが、その事に対しては当方の関知するところではない。全ては自己責任において処理されるべきである。  セシルの悲鳴に驚いたのか二人の少女も外に出てきた。地面に倒れたままのセシルを見て一言、気の強そうな少女がつぶやいた。 「……変なのがいる」  心の底から同意する。  俺は一同の顔を真剣な表情で見つめ、口を開いた。 「よく見ておくんだ。悪魔は一見正しい……例えば修道女のような姿で君達に近づいてくる。でも、正義の心を持つことで打ち勝つことができるんだ。それを忘れるな」  やはり真剣な表情で肯く一同。勢いに押されているだけのような気もするが、それは実に些細な問題だった。 「俺はこれから最後の戦いに向かう。生きては帰れないかもしれない。だが俺の魂は常に……常に君達と共にある。たとえこの肉体が滅びようと」 「魂まで滅びろ、この人でなし……」  地面に突っ伏したままセシルが言う。あぁ、何か怖いぞ。地面に爪を立てるのとか、特に。 「まぁ、とりあえず頭にイガ栗乗っけたままなのはどうかと思うぞ」  俺の冷静な観察に頭を振るセシル。が、どうやらいい感じに髪と絡んでしまったらしく、イガ栗はセシルの頭から落ちなかった。そこら辺に落ちていた小枝を拾い上げ、つついてやる。 「うぅ、何かすごい屈辱的」 「仕方ないだろ、俺はお前に触れないんだから」  修道女たるもの異性との身体的な接触を一切絶たなければならないそうで、こういう時は実に不便だった。 「ほら、落ちたぞ。ったく、迷惑かけやがって」  小枝を投げ捨て、手を払う。 「……あなたのその態度はある意味尊敬に値するわ」  立ち上がり、修道服をはたくセシル。  俺にはセシルが何を言っているのか全く分からなかった。というか、本能が理解するのを拒否した。 「それで、授業をさぼって何をしてるのかしら、六人の子供達」  抑揚を無理矢理抑えたようなセシルの声。  俺は指差して子供の数を確認し、大きく息を吐いた。 「ついに数さえ数えられなくなったか」 「皮肉に決まってるでしょ!」 「おぉ、いつからそんな高度なものを使う知的生命体に」 「あああああっっ! まったくほんとにあなたって人は! そんなことだから未だに独身なのよ!」  その一言に地面が揺れたような気がした。  風が冷たい。世界から色が消えた。人生の敗北者。そうだ、海を見に行こう。僕はそこで人魚になるんだ。きっと沢山の仲間達が迎えてくれるはずさ。あははは。うふふふ。 「あーはははは」 「気持ち悪い」  何のためらいもなくイガ栗を投擲するセシル。顔面を押さえてうずくまる俺。  やはり悪魔の化身か、この修道女。 「話が進まないから少し黙ってて」  心配しなくてもあまりの痛みにしばらく喋れそうもなかった。 「で、どうして修道院を抜け出したの?」 「リードが……心配だったから」  気の弱そうな少女が気の強そうな少女の影に隠れながら答える。セシルの目は当然のようにこちらに向けられた。今の状態を見れば俺が心配されてもいいような気もするが、少女の言うリードはもちろん仔犬のことだ。  俺は立ち上がり、リードの名を呼んで手を二回叩いた。ややあって、茶色の森の中に真っ白い仔犬が駆け出してくる。ちゃんと反応するとは。かなり利口らしい。  効果はてき面だった。短い足で転がりそうになりながら、必死で駆けてくるその姿に険しかったセシルの表情がまず溶け出す。口をわずかに開き、頬を赤くしたセシルの面持ちはおやつを前にしたクレアが見せるそれと良く似ていた。それこそ童心にかえった、とでも言えばいいのだろうか。  足にすがりつき、尻尾を振るリードを抱き上げたセシルはちょっと泣きそうな顔をしていた。気持ちは分からないでもない。 「かわいいよぉ」  何かを噛み締めるような声で言いつつ頬擦りを繰り返すセシルに、リードは気持ちよさそうに目を細めている。と、不意にセシルがこちらにダークブルーの瞳を向けた。 「そういえばさっき、この子のことリードって呼んだわよね」 「いい名前だろ」 「あなたが付けたの?」 「いや、子供達が。偶然ってやつさ」  ふーん、となぜか値踏みするような視線でセシルが俺を見つめる。数秒あって、 「こっちはかわいくない」 「うるせぇバカ!」  叫び、口をへの字にひん曲げる。大体こっちが元祖であって、そっちのリードがかわいいのがおかしいんだ。俺は別に間違っちゃいない。その……多分。 「ま、何となく事情は飲み込めたわ。それで……どうするの?」  小さなリードを抱き直し、セシルが俺を含めた一同を見やる。その視線には妙な重さがあった。やはりセシルは俺なんかよりよっぽど先生に向いている。 「里親を探してみたらどうだろう、と提案しました」  おずおずと手を挙げ、何となく敬語で答える。 「はい、悪くない提案ですね。でも、とても浅はかです。それがリード君の限界なのかもしれません」 「先生、それは地味に暴言だと思います」  俺の提言にセシルはしばし空を見上げ、言い直した。 「まぁ、リードの言う事だし」 「先生、神様があなたをぐーで殴れと言っています」 「そんな小芝居はさておき、よ」  強引に話を切られた。 「あなた、この子のこと犬だと思ってない?」  俺は眉間に皺を刻んだ。立った耳に尻尾、濡れた黒い鼻。四本足。これが犬じゃなかったら何だって言うんだ。  私も図鑑でしか見たことがないんだけど。そう前置きしてからセシルは小さなリードの正体を教えてくれた。 「この子の毛並み、物凄くいいでしょ。クルールだと思うの」  俺はもちろん、子供達もその単語を生まれて初めて聞いたようだ。互いに顔を見合わせ、それから今まで「犬」だったリードを見つめる。 「この国の古い言葉で『毛の塊』を意味するんだって。それで昔からクルールの毛皮は珍重されていたそうよ」  毛皮、か。  胸中で呟く。リードの頭を撫でるセシルの目もわずかに伏せられていた。 「でも、今は数が減ってて法で勝手に獲っちゃいけないことになってるから」 「そか」 「一部の王族達が最高の素材を独占するために、だけどね」 「仕方ないさ。後先考えずに獲り尽くして絶滅させないだけましだと思わないと」  セシルが力なく笑う。 「それで、この子が法で守られてることが問題なの」  俺は沈黙でセシルの話を促した。 「里親を探したところで一般の人にこの子は飼えやしない。法が、そう定めているから」  なるほどね。確かに俺の提案は浅はかだったようだ。さすがにこいつが犬じゃないとまでは考えていなかった。  しかし普通の人に飼えないとなると……。 「役所に申し出るしかないのか」  できればそれはしたくなかった。何の因果か同じ名前をもらってしまったんだ。手袋か何かの材料になることが分かっていて差し出すのはさすがに忍びなかった。  一度胸もとのリードを見つめ、セシルが口を開きかける。 「俺に渡せばいいんだよ」  不意にセシルの声を遮って聞こえてきたその声は、酷く耳障りだった。  その男は一人、クロスボウを構えて立っていた。細身の長身。こけた頬に、神経質そうな男だ、と思った。 「あいつだ。あいつが昨日リードをとりに来たんだ」  リーダーの少年が声を挙げる。他の子供達も唇を引き結び、拳を握り締めて男を睨みつけていた。  俺はセシルと子供達を下がらせ、クロスボウの正面に立った。前を向いたまま背後のセシルに問う。 「野生のクルールってのはこの辺りにはいないよな」 「そうね」 「で、勝手に獲っちゃいけないことになってると」 「そうね」  少しだけ間を置いて、俺は言った。 「密猟、だよな」  やはり少しだけ間を置いて、そうね、と返ってくる。 「がたがた言ってんじゃねぇ! 怪我したくなかったらその犬っころをさっさとよこせ!」  林に声が響き、数羽の鳥が羽ばたく音がする。黄色く秋の色に染まった葉が視界を横切っていった。 「できるだけ固まって、絶対に俺の後ろから出るな」  小声で言い、俺は乾いた唇を舐めた。状況は圧倒的に不利だ。クロスボウ対丸腰。袖にスローナイフの一本でも何とかなるのだが、今の俺には背後を気にしつつ密猟者との距離を縮めることしかできなかった。  歩を進めるたびに靴の下で枯れ葉が乾いた音を立てる。背中に滲んだ汗が秋風と共謀し、体温を奪っていった。指先だけは冷やさぬよう拳を握り込み、さらに歩む。 「止まれっ!」  密猟者の声にはわずかな緊張があった。神経質そうな眉間の皺もこうして見ると焦りを表す記号に思えてくる。どうやら人を撃つことにそれほど慣れていないらしい。  俺は足を止め、一瞬だけ背後を振り返った。大きく手を広げて子供達の前に立つセシルの姿に小さく笑う。いい根性だ。悪くない。  再び正面、密猟者の姿を見据えて細く息を吐く。  できるだけ刺激しないようにしなければ。緊張からほんの小さなきっかけで引き金を引いてしまう可能性があった。 「少し、話をしないか」 「関係ねぇっ!」  それはもう、絶叫と言っても差し支えなかった。日が傾き始め、林に赤い光が差し込む。時間もよくなかった。夕暮れは時として人を焦らせる。  張り付くように乾いた喉を押し広げ、唾を飲み込む。長く息を吐いた俺は考えた。身の安全を考えるならば小さなリードを差し出すのがベストだ。しかしそれは子供達の目の前で命を天秤にかけてみせるということだった。子供達は俺を蔑み、罵り、俺に失望し、裏切られたと思うだろう。  それが正しい事かどうかは分からないし、迷いを捨てることはできない。  だが覚悟は三秒でしろ。  深く息を吸い、一つ、と胸中で数える。その時だった。突然背後で何かが動く気配がする。密猟者の肩が大きく震え、目を見開いた音さえ聞こえたような気がした。  心臓が一つ、大きく低く鳴る。  俺に向けられていた矢尻の先がゆっくりと横に滑った。恐らくゆっくりに見えているだけだ。俺の動きも同じようにのろかった。地面を駆ける小さなリードと気の弱そうな少女。その少女に向かってセシルが手を伸ばしている。  少女を撃たせるな。射線に……入れ。  体が重い。水の中にいるようだ。  一歩、そして二歩目を踏み出す。瞬間、正常に流れ出した時間の中で飛来した矢が轟音と共に俺の頬をかすめた。かすかな痛み。巻き起こった風が髪を揺らす。  背後、木の幹に矢尻が突き刺さる甲高い音を聞いた時、俺の全身は冷や汗と脂汗で濡れていた。  自分の胸に手を置き、大きく深呼吸する。少女、そして小さなリードと共に地面に倒れているセシルは俺に向かって人差し指と中指を立てて見せた。 「今日という日を捨てるにはまだ早すぎる。ウチに来い。最高の酒と料理を用意してやる」  林を吹く風に乗って低く太い声が流れる。赤い光を背負った巨大なシルエットがクロスボウごと密猟者の腕をつかんでいた。  密猟者はその大きな手を振り払うと、クロスボウさえ投げ捨てて走り出す。何度もつまずき、よろけながら小さくなっていくその後姿を見送り、俺は額の汗を手の甲でぬぐった。 「ありがとう。助かったよ」  本当にいいタイミングで来てくれた。幸運以外のなにものでもない。  彼がクロスボウをずらしてくれなければ俺の頭には今頃取っ手がついていたかもしれない。俺はシルエットから抜け出してきた大男、行きつけの店、風の丘亭のマスターに礼を述べた。角ばった顔に口髭。分厚い胸板と丸太のような腕はたとえ服の下にあったとしてもその存在を全力で誇示している。お伽噺に出てくるゴーレムが人の皮をかぶっているだとか、山から逃げ出した熊が人の皮をかぶってるだとか噂の絶えない人ではあるが、八割方人間だろうというのが常連客達の一致した見解だ。 「あ、栗拾いのおじさん」  少年のそんな声に、俺はマスターの脇に回りこんだ。そこには確かに正面からでは見えなかったイガ栗の入ったかごが背負われていた。 「昨日も栗拾いを?」 「あぁ、いい季節になった。店でマロングラッセでも出そうと思ってな」  なるほど、密猟者を追い払ったのはマスターだったわけか。実際は密猟者がマスターに驚いて逃げたんだろうけど。  しかし、この町で一番マロングラッセという言葉が似合いそうもない人物がこの町で一番美味しいマロングラッセを作るのだから世の中というものは実に不思議だ。  そんな事を思い、苦笑する。 「とにかく一度修道院に戻りましょ」  セシルが手を二度叩く。  応えるように、小さなリードが一つ鼻を鳴らした。  修道院に戻った頃、空には一番星が輝き日はほとんど落ちかけていた。ランプの灯された写本室に集まった七人と一匹の影が本棚に映し出され、不規則に揺れる。小さなリードはランプに興味があるらしく、少女の腕の中から一生懸命短い手を伸ばしている。 「さっき、言おうとしたんだけど……」  セシルが切り出した。 「この子の面倒、ここでなら見てあげられるかもしれない」 「ほんと!」  と、五人の子供達が一斉に椅子を蹴って立ち上がった。期待に満ちた瞳がランプの灯りに照らされてビー玉のように輝いている。 「神仕様がお許しになれば、だけど」  セシルが俺の顔を見つめる。ちなみに神仕様とはこの修道院を統括する人物であり、まぁ、セシルのお師匠様みたいな人物だ。  俺は「疑問はあるが今は問わない」という意思表示を沈黙によって行い、セシルを促した。肯いて、セシルが立ち上がる。 「じゃあ、訊いて来るからちょっと待ってて」  写本室を出て行くセシルの後ろ姿を十の瞳が追う。子供達は絶対大丈夫さと互いを励ましあい、俺は本棚に映る影をぼんやりと眺めていた。小さなリードが何を考えているのかまでは分からない。ただ、相変わらずランプに向かって手を伸ばしている。  気が付けば目を閉じていた。今にして思えば非常にきつい半日だったような気がする。元はと言えばただ子供達に読み書きを教えるだけのはずだったのに。別に好き好んでトラブルに顔を突っ込んでいるつもりはないのだが、なぜか向こうからやって来てしまう。呪いか、はたまた体質か。  しかし、ほんとに、疲れた。  口から大きなあくびが漏れ、子供達の声が次第に小さくなっていく。意識が闇に包まれ、そのまますとんとどこかへ落ちようとした時だった。耳から入ってくる音がいきなり大きくなり、俺は体を震わせて目を覚ました。  手を叩き、歓声を上げる子供達の様子を見るにどうやらお許しが出たらしい。 「ただし、条件があります」  人差し指を立てるセシルに、子供達が静かになる。俺はあくびを噛み殺しながらその様子を見ていた。  腰を曲げ、セシルは目の高さを子供達と同じにするとゆっくり、一人一人の目を見ながら言った。 「あなた達がしっかり勉強して、立派な大人になること。できる?」  神仕様も粋な条件を出すじゃないか。しっかりと肯く子供達を見ながら俺は微笑した。 「それからリード」  自分が呼ばれたと思って小さい方が「くう」と返事をする。  あぁ、ごめん。俺だ、俺。 「あなたは毎週きちんと礼拝に来ること」 「はぁ?」  反射的に高い声を出し、立ち上がってしまう。眠気はいつの間にか飛んでいた。  前言撤回。なんて無粋な条件を出すんだ神仕様。 「できる?」  セシルが言うと同時に十の瞳が俺を見上げた。とてもじゃないが「嫌だ」と言える雰囲気ではない。言ったら最後、明日の朝には店が全焼してるような気さえする。  俺は大きく肩を落とし「仰せのままに」とため息混じりに呟いた。 「よろしい。じゃあ、あなた達はもう帰りなさい。また明日、ね」  気の弱そうな少女の手からセシルにリードが手渡される。子供達はそれぞれ小さなリードにさよならを言って写本室から出て行った。  不意に訪れた静けさについ身を震わせてしまう。 「で、俺は?」 「あなたな居残りで掃除よ。とりあえず今日の分の奉仕活動はして貰わないと」 「さらっと言うな、さらっと」 「仕方ないでしょ。本来の奉仕活動である授業は全くやらなかったんだし」  と、俺の頭の内でランプの炎がぱっと灯った。 「いや、やった。俺は大切なことを教えたぞ。ほら、お前が見事に引っかかった罠の作り……か……た」 「楽しい?」 「いや、ごめん。睨まないで。その目は怖いから」  こんな薄暗い状況だと、特に。 「とにかく掃除よ掃除。ちゃんと道具も用意してあるんだから」  セシルの言う通り、写本室からでるとそこにはデッキブラシと桶がきちんと揃えてあった。仕方なくそれらを手に取り、セシルの後について歩く。 「で、あるんでしょ。質問」 「無きゃ今頃脱走してる」  歩きながらの会話。セシルのわざとらしい咳払い。 「色々と言いたいことはあるけど、どうぞ」 「教皇庁の権限って、そんなに大きくなってるのか?」  俺が知りたかったのはそれなのだ。小さなリード……クルールは法で飼うことが禁じられている。当然のように修道院もその範疇に入るわけだが、ここの神仕様はそれを許可した。要するに王が定めた法が修道院という宗教施設において機能していないということだ。その「わがまま」を支えているのが国教であるフェルディナの全てを統括している教皇庁の持つ権限なのだが、昔はそこまで強大じゃなかったような気がする。個人的な勘なのだが、どうにもきな臭いのだ。 「気になる?」 「まぁ、俺には関係の無い話だろうし、争いさえ起きなきゃそれでいいんだけどな」  俺はセシルの背で揺れるダークブルーの髪を見つめた。 「お前は怖くないのか」  沈黙。硬い足音だけが石壁に反響する。 「ちょっとだけ」  それがセシルの答えだった。写本室の管理人だけあってセシルは頭の悪い女性じゃない。自分が属する組織のことだし、関心が無いわけでもあるまい。そのセシルがちょっとだけだと言うのなら、ちょっとだけなのだろう。俺にはそれ以上踏み込むことができなかった。  あとはただ無言で廊下を進む。時折小さなリードが鳴らす鼻の音が聞こえた。 「先生!」  最初、石壁に大反響したその声が自分を呼んでいるとは思わず三度呼ばれて俺はやっと振り向いた。石畳の廊下の端で、肩で息をしながら一人の少年が手を振っている。隠れ家に連れて行かれるときに話しかけてきた子だった。 「ごめん。先生は弱虫じゃなかった!」  いちいちそんな事言いに戻ってきたのか。でも、そりゃちょっと違う。 「いや、弱虫さ。だからいつも本気で勇気を振り絞らなきゃいけない」  答え、俺は笑った。少年はしばらく何かを考えるように立ち尽くしていたが、やがて「ばいばい」と笑顔で言って踵を返した。 「気を付けて帰れよ」  と言い終えた時にはもう少年の姿はない。そういや俺の友達にも一人いたな。ああいう一直線なやつ。改めて思い出してみると喉の奥から笑いが出た。 「リード先生、唯一の授業?」  俺をからかうようにセシルが笑う。 「冗談。俺が誰かにものを教えるなんて十年早い」 「そうね。だから……国情を憂うのも十年早いのよ、きっと」 「かもな」  俺は引きずるようにして持っていたデッキブラシを肩に担いだ。 「うし、さっさと終わらせて帰らないとな。家じゃ青い目をした雛鳥が腹を空かせて待ってる」 「まずはあなたの国をちゃんと治めないとね」  しょうもない会話だ。  そんな事を思いながら俺は心底笑った。  その後、修道院で飼われることになった小さなリードはあっと言う間に人気者になり、彼の周りにはいつでも誰かがいるような状態となった。彼に接する時は誰もが笑顔だ。その仕草一つだけで分け隔てなくみんなを幸せにしてしまう。  が、その裏で「かわいくない方のリード」とか「愛想がない方のリード」とか「心が白くない方のリード」とか「無駄にでかい方のリード」とか「むしろいらない方のリード」とか、色んな意味で泣きそうになった青年が一人居たことを町の人々は忘れてはならない。  ていうか忘れないで下さい。お願いします。