武器屋リードの営業日誌 番外編 その2 武器屋リードの休業日 ─正確には休業日前夜。あと湯煙─  子供達がベッドの中で穏やかな寝息をたて、大人たちが酒場で盛り上がっているようなそんな時刻、俺は首からタオルをかけて崖をよじ登っていた。  空を飾る無数の星々と穏やかな月光。時折吹く風に木々がこすれ、さらさらと音を立てる。明日が休日ということもあってか山の寝顔も穏やかだ。かすかな梟の声を背中で聞きながら俺は手を崖の頂上に伸ばし、体を引き上げた。  一つ息を吐き、自分が登ってきた……というか這い上がってきた斜面を見下ろす。  むき出しの岩肌ではないとはいえ、ここから転がり落ちれば行き先は間違いなくあの世だ。というか上ってくる途中に落ちないでよかった、ほんとに。  ミルスの旧坑道を抜け、急な斜面を登ることしばし。今俺がいるのは近所にある山のほぼ頂上である。で、なぜこんな時間に山登りをしているのか。もちろん「そこに山があるから」などという理由からではない。  首から提げたタオルを見ると、つい笑ってしまう。夜、山の中で忍び笑いを漏らす男が一人。我ながら不気味ではあるが今この場には「我」しかいないので気にすることもない。  小心者ゆえ一応辺りを見回してみたりもしたが、やっぱり俺しかいなかった。  今この時、俺は我が身を縛る全ての鎖から解き放たれた。果たして誰が俺を止められようか。  無理難題を押し付けてくる冒険者も、ツケを払ってくれない武器マニアも、野菜が切れないのを俺の包丁の研ぎ方のせいにするおばちゃんも、誰もこの場にはいやしない。  俺は自由だ。日常のささいなしがらみから開放され、世界は今俺のものになった。  喉の奥から漏れるようだった忍び笑いは自然と大きくなっていく。腰に手を当て、一度地面を見つめた俺は大きく空を振り仰いだ。 「あーはっはっはっはっはー」  楽しい、何て楽しいんだ。  夜の山にこだまする自分の笑い声を聞きつつ、俺は久しぶりの開放感に酔いしれていた。  やっぱり人間には一人になれる時間が必要だな、うん。  そんなことを思いつつ意気揚々と歩を進める。周囲の草を掻き分けながら獣道を進むことしばし、鼻が目的の匂いをとらえる。腐った卵のような、とでも形容しようか。と言ってもまったく不快ではないのでこの喩えはどこか間違ってるんだろうけど。まぁ、要するに硫黄の匂いだ。  緩む頬、早くなる歩調、湧き上がる喜び。  気がつけば獣道を走っていた俺は、目の前にニンジンをぶら下げられた馬と大差なかった。  視界が開け、俺は天国へと到達した。世界で最高の美女の指先にも負けないほど魅力的な湯気が俺の頬を撫でる。  俺の目の前にあるもの。それは天然の、小さな温泉だった。  湯煙の向こうに目を凝らしてみるが今は俺だけのようだ。いつもなら先客がいるのだが今日は俺が一番乗りだったらしい。  とりあえず手を漬け、湯加減を確かめる。指先から這い上がってくるとろけるような温もりについ拳を握ってしまう。  絶妙。ただその一言のみだ。  俺はいそいそと服を脱ぎ、自分の体を足先からゆっくりと湯の中に沈めていった。 「くぅー」  無意識のうちに漏れる喚起の呻き声。全身を包み込む痺れるような温もりと快感に俺は心の底から震えていた。  あぁ、生きてるって素晴らしい。  温泉。それは大自然が作り出した地上の楽園。主が我ら人間に与えたもうた救済の地。俺は確信している。この世に悪がはびこり、空は鳴き、大地は裂け、海は枯れ、人々の嘆きが全てを埋め尽くすようになったとき、世界を救う救世主が温泉で生まれるに違いないと。  ……まぁ、そんなことはどうでもいい。  俺とこの温泉が出会ったのは今から五年ほど前だ。といっても大した物語があるわけでもない。店を譲られる際「疲れたらここに来い」と親父から紹介されたのだ。こんな山奥にある温泉。まだ若かった俺は「来るまでに疲れるじゃねーか」と純粋なつっこみを汚れない瞳でいれたのだが、その瞬間無言で温泉に蹴り落とされた。  それが俺と「温泉」との少々荒っぽい出会いだった。服を着たままではあったが……確かに気持ちよかったんだな、これが。それ以来俺は、何となく疲れたなーと思うとタオル一枚を手にして山を登り、ここに魂の洗濯をしに来るようになったのだ。  初めはきついと思っていた山登りも慣れれば温泉につかる前のいい運動だと思えるようになっていた。  湯を手ですくい顔を洗う。熱くなった頬を夜風が撫で、濡れた前髪が揺れた。  目を閉じた俺は口まで湯につかり、山の息吹に身を任せる。  全てがただ静かに漂っていた。自然との一体感とでも言うのだろうか、自分という存在が溶け出し空と大地に染み込んでいく様な、そんな気さえする。日々の営みが、悩みが、とても小さなことのように感じられ、一言で言えば、なんかもうどうでもよかった。 「放しなさいっ!」  だから、酷く場違いな女性の声も今の俺にとってはどうでもいいことなのである。 「嫌ぁっ……放してっ!」  今にも殺されそうな悲鳴ではあるが大自然の大いなる意思と一体化した俺にしてみればそれは日々繰り返される弱肉強食という名のサイクルの一部でしかなく、つまりは転生を繰り返すことで魂は浄化され、さらに上の世界へと昇っていくのであって……はっ。  気が付けば何やら壮大な魂の旅に思いを馳せてしまっていた。慌てて立ち上がり、辺りを見回す。やはり温泉には不思議な力があるようだ。自分のうち立てた「救世主温泉誕生説」はやはり正しいようだ。 「お願いっ、誰か……」  声の調子からするに、どうやらかなりの危機的状況らしい。小さく舌打ちした俺はとにかく最低限の物を身に着け、駆け出した。  声が聞こえるほどの距離。現場は温泉からさほど離れてはいなかった。それこそ走って十秒ほどの茂みの中。一人の女性が二人の男によって地面に組み伏せられていた。男達が何をしようとしているのか。まぁ、言わなくても分かるだろう。 「お楽しみはそこまでだ、お二人さん」  可能な限り重い声を受けから投げ落とすように発する。  二人の男と一人の女性が一斉に顔を上げ、俺を見上げた。その目はどれも大きく見開かれている。どうやら俺の登場はかなり予想外だったようだ。俺にとってこの三人の存在が予想外だった様に。こちらとしても温泉の周辺で人に出会ったのはこれが初めてだった。もう少しマシな状況で出会いたかったものだ。 「な、何だテメェは」  男(俺から見て右)が発した声は明らかに震えていた。 「悪いな。変質者に名乗る名は持ち合わせてなくてね」  と、不敵な笑みを浮かべた瞬間……、 「お前が言うなっ!」  なぜか男(俺から見て左)に叫ばれてしまった。 「失礼な、俺のどこが変質者だってんだ」  なお今の俺は腰にタオルを巻き、それ以外に身に着けているものはブーツだけである。  ……仕方ないだろ。緊急事態だったんだ。俺は精一杯頑張った。せめてそれだけは認めてほしい。  額に張り付いた前髪を掻き揚げ、俺は男どもに向かって人差し指を突きつけた。 「とにかくっ! 強姦やるような奴は死ねっ! 男として最低の行為だ。貴様らには美学ってもんがないのかっ!」  まくし立てる俺に二人の男が立ち上がる。表情を見るにどうやらかなり頭にきているようだ。  互いに顔を見合わせたかと思うと、いきなり同時に殴りかかってくる。 「半裸の男が偉そうに説教たれてんじゃねぇっ!」  だみ声を聞きながら軽くバックステップ。冷静に距離を測り、一人目の側頭部に渾身の蹴りを叩き込む。男(俺から見て右)はあっさり崩れ落ちた。倒れる男を見てもう一人があからさまに動揺する。この時点で俺の拳は残った男のみぞおちに触れていた。あとは深く、ねじるようにめり込ませるだけだ。   肺から無理やり空気を押し出されたのか、妙な声を上げて残りの男が地面に倒れる。  やれやれ。  ぷらぷらと手を振り、地面に倒れた二人の男を見下ろす。まぁ、凍死するような季節でもないし放っておいても大丈夫だろう。警備に突き出されなかっただけでもありがたいと思ってもらいたい。  さて。  俺はいまだ地面に座り込み、呆然とこちらを見上げている女性に向かって手を伸ばした。栗色の短めの髪に眼鏡。知的そうな美人さんだ。何と言うか、非常に仕事ができそうな、そんな印象を受ける。  とにかく無事でよかった。 「大丈夫?」  声をかけてみるもなぜか女性はまったくこちらを見ようとしない。  そりゃあ確かに変質者ちっくな格好ではあるけど一応助けたんだからお礼の一つくらいあってもいいと思うんだが。なんだかなぁ、である。 「……ル。……てる」  と、女性の口が微かに開いた。  聞き取ろうと側に寄った瞬間。 「タオル、落ちてるっ!」  真っ赤な顔で叫ばれてしまった。  思わず今までタオルが隠していた部分に目をやり、おおぅ、と肩をすくめる俺。  世界は夢と冒険に満ちている。  なぜかそんなフレーズが頭に浮かんだ。  その後、生涯最高のダッシュで服を取りに行ったことは言うまでもない。 「その、とりあえずは……ありがとう」  ぎこちない笑みを浮かべ女性が手を差し出してくる。どういたしまして、とその手を握り返す俺の表情はもっとぎこちなかった。というか何か大事なものを奪われた乙女のようだった。  責任、とってくれるんでしょうね。  そんな台詞さえ言ってしまいそうな喪失感、敗北感、あとちょっとのドキドキ。  二、三日は引きずりそうだ。 「私はカレン・フレイヤード。えっと……」 「リード・アークライト」  何を言えばいいのか分からず、つい名前だけのぶっきらぼうな自己紹介になってしまう。が、女性……カレン・フレイヤードの名前を脳内で反芻した瞬間、ふと頭に引っかかった。カレンはともかくフレイヤードって。 「あの、もしかしてフレイヤード家の人?」 「ウチのこと知ってるの?」  眼鏡の奥でカレンの目が大きくなる。 「国中に数え切れないほどの宿を持ってる大商家だ。俺も一応商売人だから」 「へー、何を扱ってるの?」 「武器」 「死の商人ってやつ?」  冗談めかして言うカレン。 「そんな二つ名が付くくらいあこぎにやってればもう少しいい服着てるかな」  俺は苦笑しなが両手を広げて見せた。 「素敵だと思うわよ、その……素朴で。飾ってなくて」  言葉を選んでくれているのがよく分かる。 「この辺じゃ流行の服だ。百年前から」  少しの間をおいてカレンが吹き出した。堅そうな知的美人の笑顔ってのも悪くない。 「王都から?」 「そうよ」 「こんなど田舎まではるばる何しに?」  ここから王都まではおおよそではあるが、馬車で三週間ほどかかる。それほどの時間を費やしてこんな所までフレイヤード家の人間が来る理由が思い浮かばなかった。 「別に目的地がここだったわけじゃないの。新しい宿を立てるための場所を探して国中を周ってるところよ。それで、偶然この辺りに温泉があるって聞いたから視察に来てみたの」 「こんな時間に、一人で?」 「善は急げって、ね」  微笑むカレンに俺は小さく息を吐いた。彼女がフレイヤード家においてどのような立場にあるのかは分からないが、お嬢様であることに間違いはない。お付の人たちの苦労が偲ばれる。 「それで、この辺少し見て周りたいんだけど案内してくれない?」 「俺だってこの辺そんなに詳しくないし……」 「だったら護衛して」  言いよどむ俺にカレンが実に素敵な笑みを浮かべた。 「いや、その、温泉に入りた」 「あー、断るんだ。嫁入り前の娘にあんなもの見せたくせに」 「あれは事故というか不可抗力というか」 「いいの? 私が目に涙を浮かべて一言『汚されました』って言えば、あなたはフレイヤード家と世界中の女の敵になるのよ」  いや、なんで物凄く楽しそうなんですか? 「ウチ、海運業もやってるんだけど船から一人くらいいなくなっても結構分からなかったりするのよね」  胸の下で腕を組み、カレンが少しだけ首を傾けた。 「以上のことを踏まえたうえでもう一度お願いするわね」 「お願いじゃなくて脅」 「護衛して」  俺の純粋なつっこみをギロチンでも落とすようにばっさり切り捨て、カレンは目を細めた。どうにも断れるような雰囲気ではない。悪辣な権力に踏みにじられる善良な一般市民がいるというのに温泉から生まれるはずの救世主はどうしたんだ。やはりあの説は間違っているのだろうか。それともなにか、俺は悪党にやられて「くっ、なんて酷いことを。許さない……俺は貴様らを許さないっ!」と覚醒前の救世主に言わせる役か。神様の書いた台本には「武器屋1 死体役」とか書いてあるんだろうか。 「せめて台詞は欲しいよな」 「え?」  聞き返してくるカレンに向かって俺はため息をついた。彼女にはきっと名前も台詞もあるのだろう。神様にいくら払ったのかは知らないが。 「人の顔見ながら意味不明なため息つかないでよ。いいじゃない、ここで会ったのもちょっと不思議な縁なんだし。私ね、あなたの名前に聞き覚えがあるの。正確にはアークライトっていう家名の方なんだけど」 「ふぅん。別に珍しいってわけじゃないしなぁ」  俺にしてみればカレンが無理やり縁を作ろうとしているようにしか思えなかった。  まぁでもさっきのこともあるし、流石にこの辺りを一人で歩かせるのは心配だ。さっさと終わらせて温泉に戻る。それが一番いいような気がする。 「分かった、付き合うよ。できるだけ手短にお願いな」 「ありがと。うん、私の交渉術も大したものね」  やっぱり俺はカレンの顔を見ながらため息を一つ吐き出した。  それから周囲を散策することしばし、俺とカレンは温泉の前に戻ってきた。最後にもう一度周囲を見回し、ぱんっ、と手を打ったカレンが肯く。 「うん。ちょっと山奥だけど道と交通網を整備すればいけそうね。湯量も豊富みたいだし、知る人ぞ知る通好みの宿地として売り出せばいいかも」  散策の結果、カレンの中で一つの計画が立ち上がったようだ。ただ、嬉しそうに肯いたり独り言を漏らしているカレンを見ながら俺は複雑な表情をしていた。 「あのさ、ここに温泉宿作るんだよね」 「ええ、きっといい宿になるわ」 「となると人が集まるよね」  当然、といった風にカレンが肯く。そんなカレンを見ながら俺は人差し指でこめかみを掻いた。まいったな、の代わりに。 「ここに人が集まると何か不都合なことでも?」 「静かなこの温泉が好きなんだ」  うつむき加減で言う俺にカレンはわざとらしく眼鏡のずれを直すと、俺の顔を覗き込んだ。 「この温泉……あなたのなの?」 「それを言われると辛いんだけどさ」  苦笑しつつ頭を掻く俺。  確かに温泉の所有者でもない俺にとやかく言う権利はないわけで、むしろこの国の王のものである温泉に勝手につかっていたのだから、通報されればそれなりにやばかったりもする。ちなみにこの国において土地は全て王のものである。個人所有することはできない。俺達にしてみれば当たり前のことなのだが、どこか他国では土地の個人所有を認めている所があるらしい。本でそれを知った時には酷く驚いた。  で、先ほどカレンが言ったような計画を実行に移すには王(実際には役所だが)に申請し、王からの委託で道を整備したりすることになる。  まぁ、それはさておき。 「何とかならない?」 「ならない? って言われても」  困惑したようにカレンが眉を寄せる。俺のある意味無茶なお願いを一蹴しないところを見るに、一応助けられたことに義理は感じているようだ。  とりあえず雨の中、お腹を空かせてさ迷い歩く仔犬のような目をしてみた。 「なによ……計画を取り上げろって言うの?」  これまた一蹴されなかった。最悪、目潰しを喰らうことまで考えていたのだが。どうやら彼女、多少強引ではあるが基本的に「いい人」らしい。  もう一押し、か。 「もしここが人で賑わうようになったら俺はどこで安らげばいいんだろう。魂の洗濯もできず死んじゃうんだろうな。心労で」  ここですかさず仔犬の目。  困惑の表情であとずさるカレンを追ってみたりする。カレンが一歩下がり、俺が一歩前に出る。カレンがもう一歩下がり、俺がもう一歩前に出る。カレンがさらに一歩下がり、俺がさらにもう一歩……、 「鬱陶しいっ!」 「むう」  どうやらやり過ぎたようだ。 「とにかく、これが私の仕事なんだから譲れないのっ!」 「どうしても?」 「どうしてもよ」 「そうか……」  俺はあからさまに肩を落とし、自分の爪先をじっと見つめた。この時、俺がちょっと笑っていたことにカレンは気付かなかったようだ。 「あなたには感謝してる。でも、こればっかりは」  申し訳なさそうなカレンの声を聞いていると、こっちの方が申し訳なくなってくる。だって、なぁ。  俺は一度喉を鳴らし、顔を上げた。それから眉根を寄せて悲しげに首を振る。 「分かってる。でも……一つだけお願いがあるんだ」 「計画を取り下げること以外で私にできることだったら」  心の中で鳴らした指の音が聞こえたような気がした。 「実は俺以外にもこの温泉を使ってる奴らがいるんだ。君にそんな義務がないのは分かってる。でも、できれば話をして納得させてやって欲しい」  俺のお願いにカレンは腕を組みしばし考える。それから小さく首を縦に振った。 「他の利用者の了承を取り付けた上で宿地の建設に入る。約束するわ」 「ありがとう」 「うんん、あなたに義理があるのは確かだし、あとで反対運動起こされても大変だしね」  そう言ってカレンは苦笑いした。どうやら俺の願いは聞き入れられたようだ。ちょっとばかり心苦しいがこれも俺の地上の楽園を守るため。勘弁してもらおう。 「それで、ほかにここを使ってる人たちっていうのは……」 「もうそろそろ来ると思うんだけど」  と、そのとき背後の茂みが大きく揺れた。 「遅かったな」  そう声をかけながら振り向く。と、そこにあったのは俺の見知った顔ではなく、十を越す悪人面だった。予定外の登場に俺は方眉を吊り上げる。カレンの顔を盗み見れば彼女は彼女で絶句しているようだった。 「兄弟が世話になったようだな」  泣きたくなるくらいお決まりの台詞を吐き、リーダーらしき男が一歩前に出る。なるほど、よく見れば二つだけ知った顔があった。 「あんたが強姦魔の飼い主か? しつけはちゃんとしとこうぜ。飼い主の義務だ」  笑い、カレンを自分の背で隠す。しかし十人超か。素手だとちょっときついかもしれないな。森に誘い込んで一匹ずつ潰すしかなさそうだ。  今夜はもう入れないかな、温泉。  男たちがにじり寄ってくる。当然、手にはそれぞれ得物を握っていた。 「男は殺せ。女は殺すな。犯れるし売れるかなら」  一斉に下卑た笑みを浮かべる男たち。品性のかけらも感じられんな。  軽く背後に目配せした俺はカレンの手首をつかんだ。微かに震えている。 「俺から離れるな」  カレンの手首を握る手に力を込める。  小さく、うん、と肯くカレン。男たちがさらに間合いを詰めてくる。  そろそろか。タイミングを計り、地面を蹴ろうと爪先に力を込めたその時だった。  唐突に三人の男が宙を舞った。いや、なぎ払われたとでも言おうか。呆然とする俺の前で三人の男は地面に叩きつけられ、滑り、そのまま動かなくなった。  視線が集中する。  圧倒的。それ以外に言葉がなかった。  咆哮が闇に響き、大地をも震わせる。巨大な「手」がまた一人の男を宙に舞わせた。子供が気に入らない玩具を放り投げる。そんな光景によく似ていた。  驚きにか、恐怖にか、男たちは立ち尽くしていたが五人目が飛ばされたところで堰を切ったように逃げ出した。  賢明なのか、人間の本能に素直に従っただけか、とにかく正解だったとは思う。  何の準備も心構えもなく「それ」に襲われて勝てる人間などほとんどいない。  月光に照らされた艶のある黒い体が近づいてくる。鋭い爪と牙。それは一頭の巨大な熊だった。  背後でカレンが短く悲鳴を上げ、シャツを強くつかまれた感触が伝わる。  一方の俺はというと……一つ胸を撫で下ろしたところだった。  いいタイミングで来てくれたよ、ほんとに。  いまだに地面に倒れたまま五人を見ながら苦笑する。まぁ、骨の二三本は折れてるだろうが死んじゃいないだろう。 「大丈夫。彼とは友達だ」  カレンに笑顔を向け、俺は友達に歩み寄った。しかしいつものことながら近くで見ると凄い迫力だな。 「ありがとう。助かったよ」  礼を述べながら顔を撫でようとした時だった。  ……ぱく。  端的に言おう。手を噛まれた。 「いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいっ!」  ふと何かに気付いたような顔をして(熊なのに)友達が口を開ける。  慌てて手を見てみればちょっと血が出てるくらいだった。どうやらまだ完全に興奮状態から脱してなかったらしい。親しき仲にも礼儀あり。撫でる前に訊くべきだった。 「本当に友達なの?」  疑わしそうな目で訊いてくるカレンに向かって俺は胸を張った。 「男同士の友情とは時として血を流し合って確認したりするのだ」 「あなたが一方的に血を流してるような気がするんだけど」 「気にするな」  ちょっと涙目で言って俺は噛まれた手に息を吹きかけた。 「友情はさておき、変わった友達がいるのね」 「五年前、あいつが小熊だったころからの付き合いだよ。ここで出会ったんだ」  言いながら白い湯気を立ち上らせる温泉へと視線をやる。俺の顔を長い舌で舐め、友達は俺の視界を横切って行った。そのまま、とぷん、と温泉に身をつけてしまう。  腕を組んで、にしし、と笑いつつその姿を見る俺。と、いきなりカレンに胸倉をつかまれてしまった。 「ちょっと、もしかして温泉使ってる他の人って……」 「うむ。彼だ」 「聞いてないわよ、熊だなんてっ!」 「言ってないからな。でもまぁ約束は約束だし、彼とっきっちり話し合ってくれよ。頑張って説得してくれ」 「そんなことできるわけないでしょ! 嘘つき詐欺師ペテン師ーっ!」 「君が勝手に人間だと勘違いしただけだろ。それとも何か、契約破っちゃうんだ、商売人のくせに」 「ぐっ……」  言葉を詰まらせ、カレンが俺を見上げる。しばらく何か言いたそうに唇を開けたり閉じたりしていたが、結局俺の胸倉から手を離してうなだれてしまった。  うむ。正義の勝利だ。 「うぅ、あんな約束するんじゃなかった」 「計画を取り下げることにしてみれば大したことじゃないと思って飲んだんだろ? だめだぜ、よく考えないと。初めに大きな要求を提示しておいて相手に断らせる。その罪悪感と『それくらいなら……』ってところに付け込んで本来の要求を飲ませる、なんてのは交渉の基本だ」  それに……、 「絵本みたいで悪くないだろ」  笑いながら温泉を親指で指す。  指差した先、湯煙の中には数多くの動物達の姿があった。喰う者と喰われる者、そんな関係がここでだけは崩れ、全ての魂がただ静かに洗われている。やはり温泉ってのは地上に残された最後の楽園なのかもしれない。こんな光景を見るとついそんなことを考えてしまう。 「まるでお伽噺ね」  腰に手を当てたカレンが大きくため息をつく。だが眼鏡の奥の彼女の目は本を読んでいる時に時折クレアが見せる目と良く似ていた。 「降参」  おどけた調子でカレンが両手を挙げる。 「彼らを説得する自信、私にはないもの」  一つ肯いて俺は夜空を見上げた。どうやらもうしばらくは俺もここで魂の洗濯ができそうだ。 「それとね、あなたの家名どこで聞いたのか思い出した」  視線を向けた俺にカレンはいたずらっぽい笑みを浮かべると、こう言った。 「お伽噺よ、お婆さまの。正確に言えば思い出話なんだけど。あなたの知り合いにセイル・アークライトって人いない?」  その名前には聞き覚えがあった。というか実際に会ったことすらある。 「えーっと、爺ちゃん……だと思う」  俺の答えにカレンは一瞬驚いたような顔をして、それから軽く笑った。 「あなたのお爺さまね、私のお婆さまのお婿さん候補だったみたいよ」 「はぁ?」  反射的に妙な声を上げてしまう。 「あり得ないって。ウチの爺ちゃん、三十歳で店持つまでは完全に冒険者だったんだし、そんな人がフレイヤード家の人間と結婚なんて」 「でも話によればお婆さまの方がべた惚れだったそうよ。何でもあなたのお爺さまに命を助けられたとかで」  んー、まぁ、そういう展開だと「アリ」かもしれない。しかしあの爺ちゃんがねぇ。三度の飯より女性が好きだと公言するような、要するにエロじじいだったわけだが、そんな人が格式高いフレイヤード家の花婿候補とは。 「さっきのあなたと同じこと言ってたそうよ。『俺から離れるな』って」 「ふーん」 「そのくせ自分から離れていちゃったって。フレイヤード家の次期当主を泣かせた男として当時はかなりの有名人だったらしいわよ」  再び、ふーん、と相槌を打とうとして俺はふと固まった。 「なぁ、次期当主ってことは……」 「ん? 意外と前時代的な考え方なのね。たとえ女性でも才覚さえあれば家を継ぐ。それがフレイヤード家の」 「そうじゃなくて、君の祖母が次期当主だったってことはそのうち当主になったわけで、今の当主は」 「その息子ね」 「君から見ると?」 「お父様」  地面が揺れたような気がした。  フレイヤード家の資産はある小国の国家資産にすら匹敵する。フレイヤード家の人間だってことだけでかなりのお嬢様なのに、当主の娘ってことは徹頭徹尾頭の上からつま先まで完璧なお嬢様ってことじゃないか。  感嘆のため息をつき、ついカレンをまじまじと見つめてしまう。 「家は君が継ぐの?」 「その時になってみないと分からないわね。一応長女で長子だから第一候補ではあるけど」  と、不意にカレンが手を打った。 「ちなみに只今お婿さん候補募集中よ。あなたもどう? 周りの人たちは、やれ才覚が、やれ容姿が、やれ家柄が、なんて言ってるけどあなたにそれを求めるのは酷だし……」 「ちょっと待て。今さらりと酷いこと言ったろ」 「まぁ、それはともかく私としては、財産じゃなくて君が欲しい、って本気で思ってくれればそれで十分。というわけでどうかしら」  唇をひん曲げている俺に気付いているのか無視しているのか、とにかくカレンは笑っていた。これくらいの図太さがないと人の上に立つことはできないのかもしれない。そんな事をふと思う。 「考えておくよ」  無下に断るのも悪いような気がしてついそんな返事をしてしまう。まぁ、俺がカレンと結婚できる可能性なんて無きに等しいし。それこそ国中から磨きぬかれた男たちが集められるんだろうな。 「ありがと。じゃあ、そろそろ帰るね。温泉はだめだったけど未来の旦那様に出会えたし、それなりの収穫はあったかな?」 「俺は大収穫だったよ。温泉は守れたし未来の花嫁に出会えた」  右手を差し出す。小さく肯いて、カレンは手を握り返してくれた。 「送るよ。あんなことがあった後だし」 「それは大丈夫みたい」  聞き返そうと口を開きかけたその時だった。複数の「カレン様ぁーっ」という男の声が風に流れて聞こえてくる。 「宿抜け出してきたのバレちゃったかな」  カレンは笑うがお付の人たちにしてみれば気が気ではなかっただろう。俺が彼らの立場なら半狂乱になっている。間違いなく超緊急事態だ。 「早く行ってあげた方がいいと思うよ」  苦笑しながら握っていたカレンの手を離す。 「うん、またね」 「あぁ」  小さく手を振って、カレンは声の方に掛けて行った。彼女の「ここよー」という声に反応して様々な声があがる。お付の人にしてみれば首が繋がった瞬間だろう。そういう意味では感謝するように。顔も知らないお付の人々。  しばしの間をおいて山は再び静けさを取り戻した。カレンと握手した右手を見つめ、口元を緩める。  またね、か。  ありえないんだろうけど、ありそうだった。そんな気分にさせる「またね」だった。  うしっ。  歯を食いしばり、夜空に向かって思い切り伸びをする。ちょっと時間は遅くなったが準備運動を余分にしたと思えばいい。  温泉入って帰るか。温泉は逃げないし、夜はまだ十分残っている。  しばらくして一通のお礼状が店に届いた。驚いたことにそれはフレイヤード家現当主直筆のものであり、実に丁寧な言葉で娘、カレンを助けたことについて感謝の言葉が綴られていた。さらに驚いたことに手紙には特別優待証とやらが同封されていて、これさえもっていればフレイヤード家が所有する宿、施設の利用料がただであるという。ちなみに使用期限はなし。どうやら俺の子孫は今後宿代に悩まされることはなさそうだ。  そんな凄い特別優待証を店のカウンターに肘をついて眺めていると外からクレアが帰ってきた。 「おかえり」 「ただいま。なぁに、それ」  早速俺が手にしているものに興味を示すクレア。俺はちょっと自慢げに特別優待証を掲げてみせた。 「特別優待証といってな宿代がただになるんだ。俺の功績が認められたわけだ。すごいだろ」  クレアは何かを考えているような顔でこちらを見上げていたが、やがて「わからない」といった風に首をひねった。 「お兄ちゃん、いつもただより高いものはないって言ってなかったっけ?」  言われてみれば確かにそうだが。 「でもまぁ、これは安い方のただだ。間違いない」 「都合のいい大人の解釈って言うんだよね、それ」 「それで幸せなら問題なし」  さらに胸を張る俺に、肩をすくめたクレアがやれやれと首を振る。 「こっちは?」  訊きながらもクレアの手はカウンターの上のお礼状に伸びていた。  俺もまだ最後まで読んでなかったのに。答えなくても読めば分かるだろうと放っておいたのだが、クレアの視線が下の方に移るにしたがってなぜか手紙を握る小さな手が震えだす。 「どうした?」 「説明してよっ!」  え、怒ってる?  付き返された手紙を手に取りとりあえず最後まで目を通す。と、そこにはこんな一節があった。 「なお、君の事を正式にカレンの245番目の婿候補として認めることにした。己を磨き娘にふさわしい男になってほしい。期待している」  まさか本当に婿候補にされてしまうとは。しかし245番目って。  その数についつい笑ってしまった。 「笑わないで!」 「大丈夫だって。俺以外に244人もいるんだぞ。これからもっと増えると思うし、可能性はほとんどゼロだって」 「完全にゼロじゃないと嫌なのっ!」  言うや否やクレアの手が特別優待証に伸びる。 「断りの手紙、書いてね」  クレアのブルーの瞳はどこまでも本気だった。すなわち、要求が受け入れられなければこいつを「処分」する、と。 「落ち着くんだ。まずは話し合おうじゃないか」 「書いてね」  クレアが浮かべたのは有無を言わせぬ満面の笑みだった。俺はたった今一つのことを学んだ。下手な策を練るよりも、交渉ってのは力で押すべきだと。  全面降伏の敗北感に打ちひしがれながらインク壺にペンを漬ける。カウンター越しにこちらを見つめるクレアは実に機嫌よさそうだった。まぁ、完全勝利だしな。ちなみに特別優待証はまだクレアの手の中である。抜け目ないやつめ。我が従妹ながら末恐ろしい。  そういえばこんな話を聞いたことがある。  女好きでどうしようもなかった爺ちゃんだが、結婚してからはただの一度も浮気しなかったらしい。というのも俺が生まれる前に死んでしまった婆ちゃん、これが滅茶苦茶怖かったそうだ。爺ちゃんが少しでも他の女性になびくと笑顔で両手剣を振り回していた、なんて伝説を耳にした記憶がある。  そう、笑顔で。  俺はクレアの顔を見つめ、こっそり息を吐いた。  今頃天国で爺ちゃんも婆ちゃんに笑顔を向けられてるんだろうか。  女性ってタフだよね、爺ちゃん。